漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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キリトゥルムラインに食事の世話をやいてもらう
アスリューシナは……。


61.寄り添い合う(7)

結局、侍女が勇気を振り絞って告げたお年頃女性のごく一般的と思われる感情は最上位貴族にも自分の上司にも受け入れられる事なく、それどころかキリトゥルムラインの「アスナの食事は?」の一言で逆に慌てふためいて寝室から飛び出して行くはめになった。

そうやってアスリューシナの意思は不確かなまま一旦棚上げとなり、寝室内では食事の準備を整えている間にキリトゥルムラインに包まれるようにして身を起こされ、横抱きにされた令嬢に肩掛けを用意したり足元を暖めたり、と侍女達のいつも通りのテキパキとした働きが展開される。

既に居室に用意されていたのだろう、すぐに運び込まれた食事の中身を見てその皿が乗っているトレイを持つサタラにキリトゥルムラインが眼差しで問いかけると、侍女頭はしっかりと頷いて僅かに笑みを見せた。

 

「前回までは野菜のポタージュ・クレーユでしたがそろそろトロ身のついた物を召し上がっていただこうとピュレを作らせました。とは申しましても、あぁっ」

「ふーん、にしても相変わらずほとんど味がしないな。これでいいのか?」

「侯爵様っ、勝手にお嬢様の食事に口を付けるのはおやめ下さいと何度申し上げればっ」

「知っておくべきだと言ったのはサタラだろ?」

「ご自身で体験していただく必要はございませんっ。力をお使いになった後のお嬢様の状態とそれに対する適切な処置をご理解いただければ十分でございますっ」

 

確かにアスリューシナが侯爵夫人となり、もしもガヤムマイツェン侯爵邸で力を使った場合、夫であるキリトゥルムラインが対処法を知らないのは困る、とユークリネ公爵家に滞在中、知識として伝えようと考えていたサタラだったが、実際は食事ひとつとってもいそいそと令嬢の身を自らの腕の中に抱き起こして手ずからスープをすくい口元まで運ぶ姿はまるで母鳥の給餌だ。

少しの空気の揺らぎで消えてしまいそうな燈の細い灯心に、極々少量の油を時間を掛け根気よく染み込ませていくような繊細な行為をキリトゥルムラインは一日に何度も令嬢の寝室を訪れては嬉しそうに繰り返している。公爵家に持ち込まれている自分の仕事にまとまった時間を割けないせいで効率が悪いのだろう、夜中まで部屋の灯りがついていると侯爵付きになっている従者のホークから報告を受けた為、仮にも療養として公爵家に滞在なさっていらっしゃるのですからお嬢様の食事の付き添いについては回数を減らし、睡眠を十分におとり下さいとサタラが申し出たのだが「夜中に活動するのは慣れてるんだ、知ってるだろ?」と小声で返され、侍女頭は諦めの溜め息をついた。

そもそもアスリューシナが侯爵家へと輿入れをするなら、少数ではあるが慣れた侍女を付けるつもりでいるし、事前に色々と打合せも必要となるはずだ。実際、既に侯爵家の家令が迅速且つ喜色溢れる笑顔でこのユークリネ公爵家を訪れたのは数日前の話で、水面下では着々と話が進んでいるに違いない、とサタラは睨んでいる。大方、賓客の接待と称して王都を案内する名目を掲げ、珍しくも随分のんびりと屋敷に滞在しているユークリネ公爵家の嫡男が色々と動いているのだろうが、彼の性格を知り尽くしているサタラとしては早々にタネ明かしは期待できないので、自分は侍女頭としての責務に集中するのみだ。

きっと公爵令嬢の体調が戻れば話は一気に進み、ユークリネ公爵家とガヤムマイツェン侯爵家の縁組みという華々しい話題が貴族社会の中を駆け抜けるだろう。

そうなれば侯爵家の料理長とも話をしておきたいし、可能ならば屋敷の料理長である自分の夫も同席の上で……と考えていたサタラは配下の侍女が急いで用意した未使用のスプーンを受け取ると、それを徐に侯爵の前へと差し出した。

 

「お味見の必要はございませんから、お嬢様にはこちらのスプーンで……」

 

今度は大人しく渡されたスプーンで少量のポタージュをすくい上げ、そうっ、とアスリューシナの唇まで寄せて熱の混じった呼吸を忙しなく続けている源へ流し込む前に「アスナ」と令嬢の気を引く。再び、ぱたり、と落ちていた瞼がゆるゆると上がり、紗のかかった瞳に向け「食事だ」と告げてから吐気が終わるタイミングを見計らってスプーンを傾けた。

前回までのサラサラとしたスープの時は口内で吸収されてしまったんじゃないのか?、と疑わずにはいられないほど飲み込んだと思える実感を得られなかったが、今回は初めてアスリューシナの細い喉が、こくん、と上下するのを見てキリトゥルムラインの目が嬉しそうに弧を描く。しかしアスリューシナの方はスープを摂取したにもかかわらず異物を飲み込んだように一瞬、顔をしかめてから、しゅんっ、と眉尻を落とした。

 

「あ、やっぱり味、しないよな?……ほら、サタラ、アスナのこの反応……」

「そうではございません。お嬢様の場合、ある程度ご回復なさるまで動物性の物を口にされると吐き気を催されるので食材は野菜に限定されるのです。ですから前回までのサラサラとしたポタージュもそうですが今回のポタージュ・リエもブイヨンや生クリーム、牛乳の類いは一切使用しておりません」

「だからあんなにうっすーいのか……」

「これまでのスープですと何とか体力を維持する程度の栄養しかございませんから今後はご回復に向け徐々に変えねばならないのですが……この程度のとろ身でもさわるのですね」

「さわる?」

「多分……でございますが、喉も腫れていらっしゃるのでしょう。ですからスープを飲み込まれた時、痛みが走ったのだと」

 

キリトゥルムラインが急いで腕の中のアスリューシナを見下ろすと、彼女はまだ眉をハの字にしたまま頭を小さく横に振った。耳鳴りでサタラの声は届かずとも何となく自分の食事に関して思わしくない話題になっていると感じたのだろう。

 

「お声が出せないのも……」

 

サタラの痛ましさが滲み出ている眼差しに慌ててとにかく何か安心させる言葉を発しようとしたアスリューシナの口にやさしく手が被さる。

見上げれば今度はキリトゥルムラインが言い聞かせるようにゆっくりと頭を左右に動かしていた。

 

「アスナ、無理しなくていいんだ」

 

今の状態でこれなのだ、自分がやっとの思いで彼女の寝室に辿り着いた時、リンゴの花の約束を口にしてくれたアスリューシナがどれ程の痛みに耐えた上での言葉だったのかと思いやり、侍女達がこまめに唇を湿らせているというのに少しカサついた唇がキリトゥルムラインの手の平をかする。けれどその感触で何かを思いついたのかキリトゥルムラインはアスリューシナに「明日、少し珍しい物を持って来るよ」と微笑みかけたのであった。

 

 

 

 

 

翌日、約束通り、キリトゥルムラインは小さなガラス瓶を手にアスリューシナの寝室を訪れていた。それを一旦サタラに預け、いつも通りの仕草でアスリューシナを起こし、自分の膝の上に乗せる。

聞こえるはずのないキリトゥルムラインの声でゆっくりと目を開いたアスリューシナはサタラの持っているトレイの上のいつもとは違う容器に気づき、キリトゥルムラインへと疑問の視線を動かした。キリトゥルムラインはその問いに少し自慢げな笑みで応えるだけですぐに用意されていた小ぶりのスプーンで瓶の中身をすくい小皿へと移す。とろり、と粘りのある黄金色の液体は少量、皿に垂れたがそのほとんどはスプーンに絡みついたままだ。しかし、キリトゥルムラインは少しも慌てることなく持っていたスプーンを持ち上げ、片手でくるり、と一回転させて垂れ落ちるのを防ぐとそのまま荒い呼吸のただ中であるアスリューシナの口にスプーンを差し入れ、その舌の上に先端を触れさせた。

熱い息で黄金色の液体がスプーンの表面から溶け流れ、少しずつ令嬢の舌を覆うと久しぶりに味覚を刺激されたのだろう、アスリューシナが目を見張る。

 

「これなら飲み込む努力もしなくていいし、喉の痛みもやわらぐはずだ。一口でも栄養価はかなり高いしな」

 

それでも万が一吐き気を覚えたら、と自信ありげな表情に僅かな不安をのせてアスリューシナの顔を覗き込むが、そこには嬉しそうに緩む白い頬と穏やかなロイヤルナッツブラウンの瞳があって、今まで見られなかった明るい表情にサタラはもちろん、控えていた侍女達が、わっ、と笑顔になる。令嬢が食する物だから、と当然家令や料理長の許可は取ってあるし瓶の中身が何であるのかも知っていたサタラだったが、それでも手元をしげしげを見つめているとキリトゥルムラインが使い終わったスプーンをこれ見よがしに揺らした。

 

「残り、指ですくってみるか?」

 

いつもならば礼儀作法のお手本となる侍女頭だったがアスリューシナの反応を目にして誘惑に抗えず、スプーンをコーティングしているように付着している黄金色を人差し指で撫で取り、ちろり、と舌先で舐めてみる。

 

「これは…………随分と濃厚な蜂蜜でございますね。けれど甘さはそれほどしつこくなく……」

「ああ、うちの領地で作ってる蜂蜜だからな」

「ではリンゴの蜂蜜ですか」

「昨日、伝令を送って屋敷の者に持って来させたんだ」

 

わざわざそんな手間をかけなくともガヤムマイツェン領の蜂蜜ならば公爵家の調理場にもございますのに、とサタラが首を捻っているとキリトゥルムラインの片頬が不敵に持ち上がる。

 

「一般に出荷してる蜂蜜とはちょっと違う品なんだよ。製造方法は領地の特産品に関わる事だから教えられないけど……」

「そうでございましたか、稀少な物なのですね」

 

キリトゥルムラインの言葉に納得してサタラは興味津々に目を輝かせている侍女達へとそのスプーンを渡してやる。僅かに付着している残りの蜂蜜を凝視し、匂いを嗅いで、雨粒ほどの量を指に付け、パクリ、と口に咥えるのを待ってからキリトゥルムラインの口元は悪戯に成功した時のように、更に持ち上がった。

 

「普通の物より栄養があって、身体に与える効果は既に薬の域だ。一年に瓶二つ分の量しか作れないしな」

「ふ……二瓶……でございますか」

 

まさかそれほどの稀少さだとは予想しておらず、サタラの声が上ずる。

 

「ああ、だから毎年一瓶は領主に……この瓶がそうだ。そしてもう一瓶は…………」

 

キリトゥルムラインの思わせぶりな口調に蜂蜜の付いた指を口に加えたままの侍女達はその濃厚な味を含んだ唾をゴクリ、と飲み込んだ。

 

「国王への献上品になる」

 

一瞬にして侍女達が彫刻のように固まり、唯一サタラだけが「ひぃっ」と目を大きく見開いて口をはくはくと動かしている。会話の聞き取れないアスリューシナだけが口いっぱいに広がっている蜂蜜の豊潤な味をゆっくりと身体に溶かし込んでいた。きっと自分が与えられた蜂蜜の高貴さを知ったらサラタや侍女達と同様に畏れ多いと身を震わせ、二度とは口にしなくなってしまうだろう。

周囲の反応を楽しんだキリトゥルムラインはそれを笑い流し、いまだ蜂蜜が少量乗っている小皿を引き寄せる。

 

「ここまでの物でなくても喉の痛みや咳とか、軽い体調不良の時に蜂蜜をスプーンでひと匙舐めるのはオレの領地では当たり前なんだ。他にも……」

 

そう言って小皿の上の蜂蜜を指先ですくい取り「アスナ」と呼びかければ、令嬢の顔が自然に上向きへと持ち上がる。

未だに強さの戻らない瞳の色や熱で火照った頬を見てから息苦しさに空いた隙間を縁取る唇にキリトゥルムラインの指が伸びた。

上唇と下唇を丁寧になぞり、蜂蜜を塗りつける。

様々な感覚が鈍っているアスリューシナは何の反応も返せずに、ぽやや、とキリトゥルムラインを見つめたまま自分が何をされたのかも理解出来ていないのだろう。けれど艶やかになった唇にキリトゥルムラインは満足げに微笑んだ。

 

「唇の乾燥対策にもこうやって使ったりしてる」

 

王都よりも寒冷地であるガヤムマイツェン侯爵領ならではの生活の知恵を披露したその地の領主はそのまま躊躇いもなく指に付いた残りの蜂蜜を己の舌でぺろり、と舐める。

途端に背後で彫像となっていた侍女達がゴン、ゴン、と次々に壁に頭を打ちつけ、そのまま床に崩れ落ちる音が響くが、サタラは大きく溜め息を付くだけで彼女達の粗相を咎めることはしなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
屋敷の外では公爵家の嫡男が精力的に活動中のようです(苦笑)
屋敷内では……まだまだ精神面を強化せねばならないようですね、
侍女さん達。
サタラが貴重な蜂蜜を味わったと知ったら料理長の旦那さんは
「いいなぁ、いいなぁ」を連発した事でしょう。

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