漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉   作:ほしな まつり

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市場での騒動を話し終えたキリトゥルムラインは……。


08.訪問者(4)

ゴソゴソと上着のポケットに手を突っ込んだキリトゥルムラインが小さな容器を取り出して

アスリューシナの前に差し出す。

 

「これ……いつもうちの領民から分けてもらってるぬり薬なんだ。剣の稽古をしていると、たまに

腕だの足だのを痛めるから……よく効く」

 

少々ぶっきらぼうの説明を終えると自らキュッキュッとフタを開けた。

意図がわからず戸惑っているアスリューシナの足下にキリトゥルムラインが跪く。

 

「足、だして」

「ふぇっ!?、いいっ……いいですっ、自分で出来ますっ」

 

僅かに頬を染めて慌てるアスリューシナとは対照的に跪いた状態で彼女を見上げる侯爵の

視線はいたって冷静だった。

 

「包帯も持ってきた。薬を塗った後、しばらく足を固定しておいた方がいいんだ。大丈夫、

妹の手当もするから慣れている」

 

私は男の方に足を触れられることに慣れていませんっ、と言いたいのだが、あまりの状況に

口をパクパクするしかないアスリューシナは頑として譲らない姿勢の侯爵を見て、いつまでも

跪かせているわけにもいかず、しぶしぶ足首がのぞく程度の高さまでドレスの裾をほんの少し

持ち上げる。

痛みはもちろんだが、なんの処置もせず王城でダンスまで踊ったせいか、はたまたついさっき

キリトゥルムラインに礼を取ったせいか、今更になってほっそりとした足首の一部が薄明かりの

室内でもわかるくらい赤く腫れ上がっていた。

侯爵が手袋を外し、瘤全体を覆うようにそっと手の平を押し当てる。ひんやりとした感覚に

一瞬アスリューシナの両の腕が震えたが、その冷たさがじわじわと快感へと変わっていった。

軽く息を吐き出す様を見てキリトゥルムラインが手を離す。

 

「やっぱり少し熱をもってる。明日になったら更に腫れるかもしれない」

「そう……ですか」

 

多分そうなってしまっては侍女達の、もっと言えば侍女頭のサタラの目を誤魔化すことは

出来ないだろう。

 

「なぜ手当をしなかったんだ?」

 

容器の中の塗り薬の表面を滑らせるようにすくうキリトゥルムラインの指先に視線を注いで

いたアスリューシナは、俯いたままの姿勢で発せられた侯爵からの問いに恥じ入るように眉尻を

下げて、細い声で理由(わけ)を話した。

 

「……護衛のキズメルはちゃんと私を庇ってくれたのに、こうなったのは私の責任ですから。

それでも私がケガをすればキズメルは自分を責めます。彼女の父はユークリネ家の元護衛長なので

彼女の事も小さい頃から知っていて……その、私にとっては姉のような存在なんです……すみま

せん、使用人を姉のようだなんて……」

 

不意の謝辞の言葉に少し驚いて、キリトゥルムラインは手当をしていた体勢のまま顔だけを

上げた。

 

「別に……謝ることじゃないだろ」

「使用人を身内のように思う事を毛嫌いする貴族の方もいらっしゃると聞きますから」

「オレは気にしないけどな。さっき話したウチの射手もオレと歳が近いから幼馴染みみたいな

もんだし。付き合いが長いせいか……少し……いや、かなり慇懃無礼な態度で接してくる」

 

再び患部に視線を戻してそっと薬を塗りながらもおもしろくなさそうな口ぶりで言うと、頭の上で

小さく笑った声がして思わず見上げれば片手を口に当てたアスリューシナの笑顔が飛び込んで

きた。先ほどから公爵家の令嬢の足首を触っているというのに、何の感情も湧いてこなかった

自分が、その笑顔を見た途端心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。無理矢理に意識を足首へと

戻し、手早く包帯を巻き終えた。

 

「これでよしっと」

「本当に手慣れているんですね」

「だから言ったろ。妹がお転婆なお陰さ。このまま二、三日は動き回らない方がいい」

「わかりました。でも……私は身体が丈夫とは言えないので、もともと部屋から出ること

さえ滅多にありません。市場に行ったのは……あの……」

 

そこで言いよどんだアスリューシナの言葉を受け継ぐようにキリトゥルムラインが話し始める。

 

「そうだったな……ユークリネ公爵家の深窓の令嬢アスリューシナ姫、今年で十八歳。

三歳の頃に大病をして以来、身体が弱く屋敷の庭どころか部屋からもほとんど出ずに十年

以上を過ごす。十五歳で公の場に姿を見せた社交界デビューの王城夜会では大いに騒がれたが、

その後は再び夜会に出席することもなく……って事になってるから最初は市場で見た女性が

ユークリネ公爵令嬢だなんて信じられなかったが……実際は三歳から母親の……ユークリネ公爵

夫人の実家である辺境伯の所に移り住み、その後の十年以上をその地で過ごしている。王都に

戻ってきたのは社交界デビューをする一年ほど前……だよな?」

「……どうして……」

 

それだけを言うとアスリューシナは瞳を大きく見開いてカタカタと震え始めた。

それこそ髪の色と同じくらい知られてはいけない過去だ。

その様子を見たキリトゥルムラインは慌てて手を伸ばし、彼女が膝の上で固く握り締めている

拳を包み込む。

 

「すまない……どうしてもユークリネ公爵家の令嬢の事が知りたかったんだ……市場でその

髪の毛を見た時から……」

「どうして……」

 

アスリューシナはか細く震える声で再び同じ言葉を口にした。

 

「昔、屋敷の侍女達が噂してるのを聞いたことがある。どこかの貴族の屋敷にロイヤルナッツ

ブラウンの髪をもつ子供がいるらしいと。三大侯爵家の歴史は古いから言い伝えの類いの書物も

かなりの所蔵があるんだ。その髪は王族の血をひく女性にしか現れないことも本で読んで知って

いたから、その子供が本当に存在するなら王族の外戚となる公爵家の令嬢であるとは思っていた。

けれどそれ以降そんな噂を聞くこともなかったから忘れていたんだ……そう、今日の昼間、

市場で偶然にフードの中からこぼれ落ちた一筋の髪の毛を目にするまでは……」

 

そこで一旦言葉を切ったキリトゥルムラインは自分を怯えた目で見つめてくる令嬢に更に顔を

近づける。

キリトゥルムラインの言葉を聞きながらアスリューシナは唇は噛みしめた。少しでも気を

許せば感情に流されて泣き出してしまいそうだからだ。

拒まれる前に何とか彼女の心に入り込みたくて、侯爵は早口で懇願した。

 

「最後まで聞いてくれ、アスナ」

 

キリトゥルムラインはただひたすらに自分の言葉を伝えるべく、彼女の手を包んでいる自分の手に

軽く力を込める。

 

「パイの発案をしてくれた女性が公爵令嬢だとにわかには信じられなかった。それでもやっと

つかんだ手がかりだ。しかしそれ以上はオレ個人ではどうしようもなくて……仕方なく情報屋を

頼った……」

 

そこまで言うとキリトゥルムラインは薄く笑った。

 

「腕の良い情報屋を知ってるんだ……幻のロイヤルナッツブラウンの髪を持つ十代の公爵令嬢……

夕方にはアスナの名前が記載された報告書が手元に届いた。改めて考えれば中央市場の店主達が

馴染みの客と称する公爵令嬢がユークリネ家の姫であるならこれ以上しっくりくる人物はいない。

なにしろあの中央市場を取り仕切っているのはユークリネ公爵家だからな。市場の視察にも行く

だろう。幼い頃から娘を連れて行っても何の不思議もない」

 

そこまでを聞いてアスリューシナはゆっくりと頷いた。

 

「はい、私は小さい頃、父に連れられて度々市場へ遊びに行ってました。古参の店主さん達は

その頃から可愛がってくださり、お世話になっている方々です……でも私は三歳の時この王都を

離れ辺境伯であるお祖父様の元で十年以上を過ごしました。その……理由は……ご存じですか?」

 

静かにキリトゥルムラインが首を横に振った。そして僅かに微笑む。

 

「それは金で買っていい情報じゃない。オレが知りたかったのはロイヤルナッツブラウンの髪を

持つ女性がどこの公爵令嬢かってことだけだ。そしてアスナにたどり着いた。希望はかなったん

だからこれ以上を探るような事はしないし、知りえた情報を誰かに告げもしない。もちろん

情報屋から漏れることもないよ。その辺は信用できるヤツだから」

 

アスリューシナは安心したように大きく息を吐き出した。気が緩んだのか双眸からそれぞれ

一筋の涙が流れ、頬を伝いそのまま膝の上の侯爵の手甲に落ちる。

つい先刻に初めて言葉を交わしたばかりの相手を信用できるのか、といった懸念はなかった。

それほどに漆黒の瞳は真摯に輝いていたからだ。

 

「あ……有り難うございます、キリトゥルムラインさま」

 

頬に涙の跡を残しながら儚く微笑んだアスリューシナは自然とキリトゥルムラインの名を呼んで

いた。

 




お読みいただき、有り難うございました。
「腕の良い情報屋」さんは……もちろん「ニャハハ」と笑うあのお方です。
そしてやっとアスリューシナの過去など、秘められた部分が少しずつ明らかになって
きました。
それを知っても誠意のあるキリトゥルムラインの対応に、少しずつアスリュー
シナも変化していくでしょう……まずは呼び方から。

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