30 years later
人もまばらな地域。いわゆる田舎に不釣合いな真っ黒の車が道を走る。舗装されてからずいぶんと時間が経ってしまっているのかガタガタと振動している。
やがて車は脇に停まると中からこれまた不似合いなくらいキッチリとしたスーツを着込んだ初老の男が降りた。
白髪と黒髪が混ざり合ったグレーの髪をワックスでオールバックに固めており、雰囲気は初老でもまだまだ活発さが健在であることを匂わせる。
「ここで待機しておくように」
「承知しました」
運転手が腰を折って男性を見送る。男性は悠々とした足取りで砂利を踏みしめつつ、目的地である一軒のありふれた家を目指して歩いていく。
直接、家に車をつけなかったために少しばかり距離がある。ジリジリと太陽が照り付けてシャツにじとっと汗が滲んだ。まだ春だが、もうじき夏になるような時期だ。夏用のスーツでよかったかもしれない、と男性は今さらながらに後悔した。
目的の家に着くとチャイムを鳴らす。普遍的なピンポーン、というチャイムの音が鳴ると家の中からぱたぱたと駆け回って玄関に足音が近づいてきた。
「はいはい、どなたかしら……って何の用よ」
エプロンを着ている青みがかった銀髪の女性が玄関のドアを開けた。にこやかで愛想のいい声から男性の顔を認識した瞬間に一転して警戒色の滲む口調に切り替わる。
「こんにちは、叢雲ちゃん。いや……帆波婦人、と呼ぶべきかな」
「今はどっちでもあって、どちらでもないわ。いきなりアポもなしに何かしら。少し礼に欠ける行為じゃない、東雲大将元帥さん?」
「アポなしの件は謝罪する。シュンと話がしたい。いるか?」
叢雲が探るように東雲を上から下までじっくりと見つめる。やがて折れたのか深いため息を叢雲が吐いた。
「上がってちょうだい。何もないけどお茶くらいは出すわ」
「すまない」
「謝るくらいなら事前に電話の一本くらい寄越してからにして」
文句をつけつつ、叢雲が東雲を招き入れた。流れるように来客用のスリッパを用意すると、東雲が礼を述べつつスリッパをはく。それを確認した叢雲は東雲を案内してリビングルームへと連れて行き、ソファを勧めた。
「悪いけど応接室なんてものはないの。生活感があるのは勘弁して」
その言葉通り、案内されたリビングは生活感に溢れていた。隅には今しがた畳み終わったばかりなのだろうと思わせる洗濯物が入れられた籠が置いてあり、食器乾燥棚には今日の昼食に使われたであろう食器や鍋などが伏せてあった。その他にも男女2人が寄り添いあって微笑んでいる写真が収められた写真立てがあったり、読みかけの本に栞が挟んだものがあったりした。
なるほどリビングルームだ、と東雲は納得する。マイホームを購入したという話は聞いていたが、屋敷のような家を購入したわけではなく、こじんまりとした一般的な洋風民家を買ったらしい。
こじんまり、と表現はしたが屋敷のようでなくとも家としてはわりと立派な部類だ。少なくとも一般的な水準に照らし合わせて考えれば平均より少し上くらいだろうか。
「小さな家でしょ」
そう叢雲が言った。だが口調が満足げなのは小さい、なんて自虐的なことを言いつつも、この家が叢雲にとって思い入れがあるからだろう。そんな邪推をしてしまうのは致し方ないことかもしれない。
「おまえ、お客か?」
たんたんたん、とリズミカルに階段を下りてくる音。それによく通る声が混ざった。
「上客よ。あんたの」
「俺のか?」
リビングに黒髪の男が現れた。東雲と同じように老人というほど歳を取っている様子はあいが、若くもない。
「よう、シュン」
「誰かと思えばマサキか。いつぶりだ」
「忘れる程度には久しぶりだ。お前は変わらないな」
「そういうお前はずいぶん白髪が増えたな」
にやっと峻が笑いつつ東雲の頭を指摘した。ばつが悪そうに東雲が自身の頭を撫でた。
「ま、俺も歳を取ったんだよ。お互い様だろ」
「そうだな。……気づけばハワイ海大戦から30年も過ぎた。そりゃ年も取る。そろそろ60に片足を突っ込みかけているくらいだ。叢雲も50を過ぎた」
「それにしては若々しいな」
「人がお茶を用意している間にずいぶんな言い様ね」
叢雲がお盆の上からテーブルに3人分のお茶を移しながらちょっと怒ったように言った。悪かったよ、と峻が謝るとため息を吐きつつ峻の右隣を占領した。
東雲から言わせて貰うと実際に叢雲はかなり若々しい。シワがないとはいわないが、深いものはなく、また目立っていない。髪の色も変わらず、肌も荒れていたりする様子はない。
年月は感じるが、実際に立っている月日と比べると相応に年齢を重ねたようには見えなかった。
「おまえが昔と変わらず俺が惚れた女のままだってことだよ」
「そうやって都合のいいことばかり言ってすぐ逃げるんだから」
「あのな、女性の年齢に触れたのは悪かった。だが目の前で熟年夫婦のイチャイチャを見せ付けられるのは勘弁してくれ」
胸焼けがする、と東雲がこぼす。悪かったよと峻が笑いながら叢雲の肩にいつのまにか回していた手を下ろした。
「変わったな、シュン」
「違う。正直になっただけだよ」
峻が笑ったまま否定する。なんの混じり気もない笑顔はこの30年間がどれだけ峻にとって満ち足りたものだったのか克明に告げているようだ。
「さてと、だ。マサキ、何の用事でうちを訪ねた? 俺も叢雲も今日は非番だ。そしておまえは仕事だろう」
「ついでだ。ちょっと近くを通りかかる予定があったから久しぶりにな」
「ああ、だからそのわざわざ近くを通る予定ってヤツをねじ込んでまでうちを訪ねた意図を聞いているんだ」
「前線を引いてもかつての英雄の頭は健在か」
その一言に峻が露骨に嫌そうな顔を形作る。英雄、という呼ばれ方を嫌がるところは昔からまったく変わっていない。むしろその傾向は強くなっていた。
「そろそろその呼称も消えてほしいんだよ」
「諦めろよ。たぶんずっと残り続けるさ」
「平穏に過ごしたいだけなんだけどな……っと、話が逸れた。で、何か用事があったんだろ?」
促されるままに話すのはなんとなく癪だったので、出されたお茶に口をつける。
唇を湿らせてからようやく東雲は口を開いた。
「監査局はどこまで掴んでる?」
「それは東雲将生としての質問か? それとも大将元帥としての質問か?」
同じように峻がお茶を飲みながら問い返す。威圧するわけでもへりくだるわけでもない。ただ明日の夕食でも聞くようなくらい淡々とした口調。
「どっちでも答えは変わらない。答えられない、だ」
「それで構わない。探りを入れてることさえわかればな」
何の、という具体名は出てこない。それでも一発で峻は理解し、東雲へ返してきた。
「海の中で波が立ち始めてる」
「知ってる。だが俺が動く理由にはならない。お前が言ったんだ。監査局は公正じゃなきゃならない。だからまだ動く時じゃない。それにお前に恩を売るために動くつもりもない」
「それでいい。いや、そうあり続けてくれ」
公正でなければなんのために監査局の権限を強くしたのかわからなくなってしまう。だからこの姿勢はむしろ歓迎すべきものだ。
「話はそれだけか?」
「ああ。動いてることさえわかればいい。ちゃんと機能してくれるのならな」
「そうか」
情報をこれ以上は提供しない、という意味を込めているであろう短い返答。
それでもちゃんと動いていることはわかった。それで東雲は十分だ。それ以上を求めるつもりは無いし、求めるのであれば初めからトップダウンで命令させる。
それをしないのは不必要に波を立てたくないという東雲の意図だ。監査局を危うい立場にしたくはない。
「ちょうどいい時分か。マサキ、うちで夕食でも食べてくか?」
「外に運転手を待たせてる。それにあくまで寄っただけだからな。帰るよ」
「そうか。玄関までは送るよ」
東雲が席を立とうとすると峻もソファから腰を上げる。叢雲が手早く湯呑みを回収して洗い場へ向かって行った。
東雲が玄関で靴に履き替えるためしゃがんだ。峻はその姿を後方で見ていた。
「なあ、シュン。お前の守りたいものってなんだ?」
しゃがんで峻に背を向けたまま、東雲が問いかける。重く響いたかもしれない。それでも聞いてみたかった。帆波峻という男が前線から引っ込んでなにを考えているのか。何を思っているのか。そして何を大事にしているのか。
「お前はどうあることでなにを守りたかったんだ?」
「俺はどうあるかなんて他人が下す評価だ。だがなにを守りたいかと言われれば簡単だ」
靴紐を結び直すのに手間取るふりをして峻の答えを待つ。かちこちと時計の秒針が時を刻む音と、キッチンから叢雲が湯呑みを洗っているのであろう水音だけが聞こえてくる。
「俺はこの家族を守る」
「その答えが聞けてよかったのかな、俺は」
数秒ほど間をおいて東雲が立ち上がると峻に向き直る。
「じゃあな」
「ああ」
必要以上の別れは不要。言葉は手短に。東雲はその民家を後にして、待たせている車への道を急ぐ。小さな諍いとも言えないようなやりとりはあった。だがそんなやりとりすらも懐かしい。なにより久しぶりにこうして会って話せた。
「確かに俺も歳を取ったんだな」
ぽつり、と東雲がつぶやく。昔はしょっちしゅう顔を突き合わせては喧々諤々の言い合いをしたものだが、ただ穏やかとは言えないまでも話すことは楽しかった。
そんなふうに感じたこと。それがまさしく歳を取ったと感じさせた。
「どこまで?」
「海軍本部まで」
「かしこまりました」
車に乗り込むと、あっという間に民家は見えなくなっていく。また会える日はいつかわからない。だがそれでもしばらくあの2人はくたばらなさそうだと東雲は思った。
叢雲が夕食を作り、峻が後片付けをする。それが休日において2人が決めたルールだった。
とはいえ今は夫婦のふたり暮らし。そこまで豪勢な料理にいちいちしたりはしない。簡単にご飯と豚の生姜焼き、ほうれん草のおひたしと筑前煮というラインナップだ。
いたって普通の和食。別段、高級な食材を使っているわけでもなく一般的な家庭の食事だが、それでも満足に峻と叢雲の胃を満たした。
峻が片付けをしている間に叢雲が風呂を沸かす。15分もすると風呂は沸いた。
「先、入っちゃうわね」
「おう」
リビングのソファでくつろぎながら返事をする。ちょうどひとりで考えに耽りたいと思っていたのでいいタイミングだ。それもわかった上で叢雲が先に風呂へ入ってくれたのだろう。
叢雲が風呂から上がった旨だけ告げると、半ば無意識に反応するといつも通りに風呂の湯船に浸かる。すべて考え事をしながらだが、この家で生活して長いため見に染み付いたものでこなせた。
「これしかないか」
「どうする?」
いつの間にか風呂からも上がり、リビングに落ち着いていた時に呟く。その一言に反応して峻に寄り添うように座る叢雲が問いかけた。
「ちょっと洗い直す。TSOプロジェクトの詳細な資料は確保済みだったよな?」
「ええ。監査局の金庫にきっちり掴んでるわよ」
「全部を読み直す。場合によっちゃまだ何か種が出てくるかもしれない」
「それは必要なことなのね?」
「ああ。動く動かないに関係なく、何かやられそうになった時にカウンターが入れられる程度にはしときたい。なにより、な」
「そうね。そうだったわね」
叢雲が髪を軽くかき上げつつ、同意した。青みがかった銀髪が波打つと、照明を反射してキラキラと輝きながらほのかに柔らかい香りが漂う。
「あーあ。また明日から忙しくなるわね」
「何らかの形で埋め合わせはするよ」
「なら健康に気を使ってちょうだい。徹夜はダメ。食事も即席ばかりにしない」
「わかったよ。仰せのままに」
ふざけ半分で叢雲に峻が傅く。こっちは真剣なのよ、とキツめの口調で注意しつつも叢雲の口角は緩くあがっていた。
「ま、頼りにしてるよ」
「こっちもね。だけど」
「だけど?」
「資料の洗い直しは明日からにして」
叢雲の赤に近いオレンジの瞳が峻の姿を写す。それは叢雲のわがままだ。それがわからないほど鈍くはない。昔ならばいざ知らず、今はそれなりに気づけるようになってきた。
なにより気づけないほど浅薄な付き合いではない。何だかんだと気づけば老夫婦と言われるまでに年月が経っている。
この件に対応すれば忙しくなることは必定。それを理解しているからこそ、明日からにしてほしいという叢雲の小さなわがまま。
「わかった。そうしようか」
「ありがと」
礼を言うのはこっちの方なんだけどな、とこっそり思う。一晩、冷静になれる時間を置くべきだとさりげなく注意をしてくれているのだから。
だがストレートにそれを言わないで、自分の要求を混ぜ込んだ。気遣いをしつつ、ちょっとしたわがままも入れてくる。
そんな叢雲だからこそ、愛おしく感じる。
「今日の残りは少ないが、ゆっくりしようか」
「ええ」
何か話していてもいい。何をするわけでもなくぼんやりと並んで座っているだけでもいい。
「今日は私を見て」
「了解」
ただこんな時間を守るためなら。そして帰る場所を守るためなら何だってやれる気がした。
間違えて消してしまったので再掲。ちょっと書いてしまったのを投稿です。これで完全に完結ということで。
それでは、また。