榛名は実は執務室を出てから直ぐに移動していなかった。そのまま廊下の壁にもたれていたのだ。榛名が移動していないことに、気づかなかった時点で峻がどれだけ追い詰められていたのか榛名にはよくわかった。
榛名は元々別の部隊にいたがそこの部隊が崩壊して、ここに転属になったのだ。
そして前の部隊の司令官が唯一榛名が”提督”と呼ぶ人だった。
そう。もう過去の話。榛名の”提督”は過去の人です。もういません。
榛名は本気で”提督”を慕っていました。でも迷惑だと思い、距離を取っていたんです。
ある日出撃した時、深海棲艦の大群に囲まれて”提督”は私たちを守るために巡洋艦で深海棲艦に突っ込み、時間を稼ぎ亡くなりました。そのおかげで私たちは救援艦隊が間に合い、当時の部隊のみんなはケガこそあれど全員が無事でした。
でも榛名は”提督”の最後の言葉を聞いたのです。
「榛名、こんな時で悪いけど僕は君のことが好きだった。だから君は絶対に生きてくれ」
榛名は帰ってから泣きました。涙が枯れるくらい泣きました。泣き疲れて寝てまた泣く。そんなことを繰り返しました。
だからこそ。
帆波中佐の気持ちはわかるんです。
あの人にとって部隊の仲間は家族と同じくらい大切なのに、そのうち一人が沈んでしまった。しかもその一人は部隊に一番最初からいた、最も信頼していた子です。
辛いでしょう。中佐の心は張り裂けそうなくらい痛いはずです。
頑張ってください。踏ん張ってください。あなたは榛名みたいに壊れてはいけません。榛名みたいに抜け殻のように生きてはいけません。そこから榛名を掬い上げてくれたあなたがそこに落ちてはいけないんです。
「叢雲が……沈んだ?」
悪い冗談であってほしい。瑞鶴はそう思わずにはいられなかった。
あの叢雲が?深海棲艦を刀で二枚に切り裂いて戦艦に近接戦闘しかけるあの頭のおかしい駆逐艦が?
「そんな………嘘でしょ?」
「残念ながら本当です。榛名たちが探しましたが見つかりませんでした……」
榛名が沈鬱げな表情で言った。榛名はこういう人が傷つくような嘘をつくタイプではない。ということはホントってこと?
「これから私たちどうなるの……?」
「わかりません。でも旗艦は変わるでしょうし、秘書艦も変わらざるを得ないでしょうね」
加賀が静かに告げた。
そっか。叢雲がここのほとんどのことやってたもんね。
「問題は提督よ。あの人がどう決断するか次第ね。急いで空いた穴を決めないといけないわ」
加賀の冷静すぎる言葉に私は頭に血が上った。
「加賀!もう少し悲しむとかないわけ!」
「瑞鶴、落ち着いてください!」
「榛名は黙ってて!加賀、提督さんは今すごく辛いのよ?なのに急いで穴を埋めろってそりゃないじゃない!仮にも加賀はかなり初期からいるでしょう!それなのに──」
「瑞鶴!」
加賀に一喝されビクッと身を縮めた。
「悲しいに決まってるわ!でもそんな余裕ないのよ。あんまりゆっくりしてるとこの部隊は解隊になるかもしれない。辛いのはわかるわ。でもだからこそしっかりしてもらわなくてはいけないの」
「……ゴメン、熱くなりすぎた」
「いいえ、私も少し冷たかったわ」
それに身内で争っても叢雲が戻るわけしゃないし、喜ぶとも思えない。こういう時こそシャキッとしないと。それにきっと一番キツいのは提督さんのはず。仲間なんだからちゃんと支えてあげないと。
「でもしばらく中佐をそっとしておいてあげましょう。せめて今日くらいは一人にしておいてあげるとか」
「……そうね。私は少し演習場に行ってきます」
「加賀、私も行く」
「榛名は怪我がないか診てもらってから休みます」
天候のせいとはいえ、何もできなかったことが悔やまれる。せめて何かに集中して気を紛らわせたかった。
加賀と演習場へ向かい弓を引く。
射掛けられられた2本の矢は2人にしては珍しく真ん中を外していた。
「失礼するわ」
陸奥が執務室のドアを叩き入る。執務机で峻が俯いたままカリカリとペンを走らせている。
「陸奥と随伴の矢矧、北上、鈴谷、以上4名帰投したわ」
「……ああ、お疲れ様」
なんと声をかけたらいいのかしら。
ここに来る途中で叢雲が沈んだことは耳にした。当然信じられなかったけど事実のようだ。
「敵艦隊はなぜかわからないけどいきなり退却していったわ。後日戦闘記録と報告書を提出するからそれを詳しく見てくれればわかると思うけど」
「そうか」
私の目を見て提督が返事をする。でも提督の目に私は映っているの?
あの私たちを助けてくれた時のような快活さと自信はなりを潜め、ただどんよりとした雰囲気を纏っている。全てを見透かしていたような茶色の瞳には深い闇しか見出せない。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だ。俺がしっかりしないと……」
大丈夫ではなさそう。でもどうすることもできない。時間に任せるしかないのかしら。
「報告は以上よ」
「そうか。もう下がっていいぞ。ゆっくり体を休めてくれ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
指示などはしっかりできている。執務に関しても日頃はサボっているとはいえ、今は真剣にやっているみたいだ。ほっといても一人で立ち直れるかもしれない。それにこういうことには下手に他人が口を出すべきじゃないのかもね。
執務室を出てから部屋へ向かう。任務をしっかりと遂行できているが、その足取りは決して軽くはなかった。
陸奥が執務室から出て行った。
報告書は後日持ってくるそうだ。ならそれまで他の書類に目を通しておこう。
一心不乱に執務をこなしていく。積んであった紙の山から取っては書き、取っては書きを繰り返す。
いつも叢雲にこんなことばかり俺は押し付けていたのか。
艤装の管理状況について、基地の備蓄資材量について、艦娘たちの運用状況及び調子について、その他大量の書類が山と積んである。
久しぶりにペンをまともに握って仕事したからか、右手の指が痛む。日頃からしなかったツケだろうか。
痛みを無視してペンを走らせ続ける。気づけばもう夜の7時を過ぎている。
夕食か……食べる気起きねえな。そもそも胃が何かを受け付けようとしねえ。空腹感も感じる気配すらない。
少しくらい飯抜いたって大丈夫だろ。
外が暗くなっていく。まだ紙束はどっさりと残っている。今日の分を片すまで寝るわけにはいかねえ。
要領がうまく掴めない。まだ昔みたいにテキパキとこなすには時間がかかる。
「叢雲、茶ぁー淹れてくれ……」
何気なく言ってしまってから思い出す。
そうだった。あいつは……
そこでようやく来客用の机に置かれたお盆の上に乗っている2つの湯呑みを見つけた。とっくの昔に冷めて忘れ去られていた煎茶。
ふらふらとした足取りで近寄り、慎重に湯呑みを1つ手に取った。
ぐっと一口飲むと少し濃いめに出された煎茶の香りが口の中に仄かな甘味と共にふわりと広がり、その後に来た強い渋味と苦味で押し流された。
「……うまいじゃねえかよ」
もう一口、もう一口と飲んでいくと小ぶりな湯呑みはあっという間に空になり、口の中の渋味だけが残った。
「……苦い、な」
コトリと飲み終わった湯呑みをお盆の上に置く。お盆の上には空の湯呑みとまだ煎茶の入った湯呑みが並んだ。
「なんでだよ……なんで勝手に死んじまうかなあ」
そう呟いた峻の声は少しだけ震えていた。
あの時俺があいつを止められていれば。あの時俺が判断を間違えずに出撃するメンバーを選べていたら。あの時俺が無理やりにでもロックされた介入路をこじ開けてフォローに入れたら。あの時俺がこうなることを予測していれば。
執務机に戻ってからも後悔ばかりが頭をよぎり続けた。
それでも手は休ませなかった。ただひたすらペンを走らせ続け、黙々と執務をこなし続ける。
それは彼女への贖罪なのか、それとも峻のただの自己満足なのか。
さりげなく明かされる榛名の過去。
かなりダークになってきましたが大丈夫でしょうか?
大丈夫、多分。
それではまた。