悪を名乗りし者   作:モモンガ隊長

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20話 詐称・天才医学者?

 深い海の底は太陽の光すら届かない闇の世界が広がっている。真っ暗な水中では物が見え辛く、生物は独自の進化を遂げた。あるモノは視覚を失い、振動によってのみ物を判別する鋭敏な聴覚を得る。またあるモノは視覚を最大限に活用すべく、自らが光を放つ能力を有した。生物は環境に応じて進化し、生存していくのである。そして、それはケアノスとて例外ではない。

 

 

 ブォォォォという動物の鳴き声でケアノスは長い眠りから目覚めた。ぼやける視界に瞬きを繰り返すと、体の異変に気付く。

 

(あれ? 首から下の感覚がない?)

 

 ケアノスは慌てる事なく感覚を研ぎ澄ませる。

 

(うーん……視覚と聴覚、それに嗅覚は問題なしか。忌々しかった頭痛は治まってるけど、熱は高いままか。あと疲労感というか倦怠感が半端ないなァ)

 

 周囲を確認すると、ケアノスはベッドに寝かされ点滴を受けていた。全身を覆っている包帯は血で赤黒い。部屋の中には医療器具や薬品が所狭しと置かれ、本棚には医学書が並んでおり、一見すると診療所のように見える。

 

(どこだろ? 牢獄には見えないし、拷問室って感じでもない……海軍に捕まったワケじゃないのかな?)

 

 ケアノスはここに至った経緯を推測するが、情報が少な過ぎて答えは出ない。火傷の回復を少しでも助けようと内功を練った瞬間、ケアノスの全身を抉るような激痛が襲う。

 

「ぐっ……」

 

 常人であれば意識を保てない程の痛みであった。気を失えば痛みを感じずに済んだであろうが、ケアノスの強靭な精神力はそれを許さない。己の強さが徒となり、ケアノスは痛みに悶えた。歯を食いしばり必死に耐える。

ケアノスが究極のマゾヒストであれば、この状況でも笑えただろう。しかし、ケアノスはそうではない。もし笑える時が来たとすれば、それは痛みに屈して発狂した時であろうか。

 笑えないジョークだと思いながらケアノスが我慢を続けていると、カチャと音を立てて部屋の扉が開く。

 

「むっ、気が付い……まさか、鎮痛剤の効果が切れたのか!? バ、バカな! ラブーン用に特別調合した強力な代物だぞ!?」

 

 部屋に入るなり目を見開いて驚く人物をケアノスは知っていた。双子岬の灯台守・クロッカスである。正体が判ると、居場所に関しては想像に難くない。安堵したケアノスは少しだけ笑みを漏らす。

 

「フフッ、ボクは人間だよォ」

 

 痛みに顔を歪めつつも、ケアノスは不敵な笑みを浮かべた。薬の準備をしながら、クロッカスは呆れ顔で溜息を吐く。

 

「人間用では効果が無かった為、仕方なく代用したのだ。まさかこんな短時間で切れるとは……小僧、お前本当に人間か?」

「アハハハ、ひどいなァ……イタタッ」

「少々危険だがやむを得ん、もう一本打つしかないな」

「ところでさァ、聞いてもイイ?」

「……なんだ?」

 

 クロッカスはケアノスに注射を打ちながら聞き返した。

 

「なんでボクは生きてるの?」

「……運が良かったのだろう」

「運ねェ……まっ、悪運は強いけど。で、どういった経緯でボクはここに?」

「……五日前、ラブーンがお前の船を咥えて来た」

「あのクジラが? へェ、ボクは船に乗ってたんだァ」

 

 クロッカスの話を聞いて、ケアノスは記憶を紐解く。しかし、船に乗り込んだ覚えはない。

 

「そうだ。お前達は船の中で倒れていた」

「達? あっ、マオか! そう言えば、マオは無事? 怪我はない?」

「実はな――」

 

 ケアノスはマオの存在を完全に失念していた。それほど今のケアノスには余裕がない。

 

「ウチ、マオちゃん。今アンタの後ろにいるの」

「……」

「……ピンピンしておるよ」

 

 マオが現れた。ベッド後方から顔を出したマオは構って欲しそうにしている。

 

「ウチ、マオちゃん。今アンタの目の前にいるの」

「クックック、わぉ! それなんてオカルト人形?」

「いや~心配したで。兄さん全然目ェ覚まさへんから、このまま死んでまうんちゃうか思たわ」

「アッハッハッハ、何を言うかと思えば」

「ニッシッシッシ、堪忍や「同感だよォ」で――へっ?」

 

 マオは目を丸くしてキョトンとし、クロッカスは険しい表情のまま処置を続けていた。血の滲む包帯には肉がへばり付き、交換の際に激しい痛みを伴う。鎮痛剤が効いていなければ、ケアノスでも声を上げていたかもしれない。

 

「マオはどうしてボクが生きてると思う?」

「な、何言うてんねん!?」

「あの頭痛、あの発熱、あの悪寒……あれで死ぬと思ってたんだけどなァ」

「は? は、ははは、兄さん大袈裟やで。あれはただの風邪やて」

「……」

 

 マオは笑い飛ばすが、ケアノスはクロッカスを凝視していた。クロッカスは険しい表情のまま、沈黙を破ってボソリと呟く。

 

「小僧の言っている事は間違っておらん」

「なっ!?」

「小僧を蝕んでいた病は、海風疹だ」

「はぁ!? 海風疹言うたら、赤ん坊の病気やろ? 大人がかかるなんぞ聞いた事ないし、そんなんで死ぬワケないやん!」

 

 マオはクロッカスに噛み付かん勢いで吠えた。

 

「いや、記録に残ってないだけだ。海風疹は海水や潮風に生息するウィルスが原因で、普通は生後一年以内に必ず発病すると言われている。死に至る事はなく、さらに一度かかれば二度とかからん。しかし、極稀に成人してから初めて発症するケースがあり……その場合、生き延びた者はおらん」

「な、なんやて……っ!?」

「とある冬島のそれも雪山の奥地で一生を送るという部族の若者達が、村の掟を破って海に出た結果、一年後に海風疹を発症して全員死亡したと聞く。想像を絶する頭痛と高熱で見る見る衰弱してな、手の施しようが無かったそうだ。若者達は海風疹の存在すら知らなかった。暮らしていた村でかかる者はいなかったからな、知らなくても当然だろう。医学界を震撼させる事実であったが、この症例が研究される事はなかった」

「な、なんでや!?」

 

 マオはゴクリと息をのんだ。海風疹はこの世界での常識であり、誰もが知っており、そして、誰もがかかっている病気だと思っていた。覚えてはいないが、マオ自身も赤ん坊の頃にかかっており、海が支配するこの世界では海で生活する為の言わば通過儀礼である。

 

(ボクがこの世界に来てもうすぐ一年かァ……確かに辻褄は合うねェ)

 

 クロッカスはマオに視線を移す。

 

「山奥で暮らす少数部族の為だけに研究費を出す資産家や医療機関などあると思うか? 彼らとてビジネスだ。儲けの無い話に投資などするまい」

「せやったら、なんで兄さんは助かったん!?」

「……」

 

 マオの当然の問いかけに、クロッカスは押し黙った。ケアノスが尋ねた際もクロッカスははぐらかしている。

 

「ククク、当ててみようか? 理由は二つ。一つはこの火傷の“おかげ”でしょ。全身をくまなく熱処理されたからねェ、ウィルスもきっと」

「ははーん、高温殺菌っちゅうワケやな。結果オーライやんか! ほんで、もう一つは?」

「フフフッ、実はそうでもないんだけど……まっ、いっかァ。クロッカスさんの言ってる事はね、多分全部真実だと思うよ。でも、全てを語っているワケじゃない」

「……」

「……ん? どういうこっちゃ!?」

 

 マオは首を傾げた。クロッカスは黙々と包帯を交換している。皮膚が焼け落ち、肉がむき出しになっている箇所をマオは直視出来ない。ケアノスの話に集中し視界に入れない努力をしていた。

 

「むかーしむかし、ある所に若くして秀才と呼ばれた医師がいましたとさ」

「なんで昔話!?」

「その医師は人一倍情に厚く、怪我や病で苦しむ人々を根絶する為に努力を惜しまなかったんだって」

「うん、せやからなんで昔話なん?」

「数々の功績が認められて、医師は晴れて王国お抱えの医師団に選出されました。これでより多くの人々を救えるって医師は大喜びしたんだけど、現実は違っていた。患者の大半は誰でも治せるような軽症を大袈裟に騒ぎ立てる貴族や富豪ばかりだったんだ」

「無視か……ふん、ええわええわ。黙って聞けばええんやろ!」

 

 色々とツッコミたかったマオだが、会話のキャッチボールがならず口を尖らせて拗ねる。ケアノスはクスリと笑って話を続けた。

 

「簡単な治療に不釣合いな額の報酬を貰い懐は暖かくなっても、医師の心は冷える一方だった。自分のやりたかったのはこういう事じゃない。自問自答の日々が続き、理想とかけ離れた現実に悩み、不毛な月日を経て医師は決意した。地位を捨て、名誉を捨て、国を捨て、一人の医師として人生を歩むとね」

「……」

「医師は漁船や商船に便乗して村や街を転々とし、行く先々で貧困に苦しむ人々を無償で診療した。貯蓄がなくなれば、また上流階級を相手にしてお金を無心する。その繰り返しで当然生活は苦しくなったけど、医師の心は少しずつ楽になっていった」

「うん、間違ってへん。その医師は何も間違うてへんよ」

 

 いつの間には相槌を打つマオ。クロッカスも作業をしながら耳は傾けていた。

 

「そんな生活が長年続いたある日、一隻の船が漂流しているのを偶然発見したんだ。その船には若い男が二人と、一人の女が乗っていた。女はとても美しく、雪のように白い肌をしていたんだ。医師はとても驚いたよ。でも、それは女の美しさにじゃない。その女の顔を知っていたからだよ」

「へぇ、そんな偶然もあるんやな」

「女は辺境の村で出会った族長の娘で、縄張り争いの激化で負傷した戦士の治療をキッカケに親しくなった。女が医師に抱いた好意はやがて恋に変わって、焦がれるあまり村を出て追って来たんだよ。若い男は彼女の従者なんだけど、海や船には縁のない生活をしてたから難破して漂流しちゃったのさ。医師は帰るように説得したんだけど、女は聞く耳を持たない。逆に医師が折れるハメに……」

「ナッハッハッハ、女は強いんや!」

 

 マオは自分の事のように胸を張って笑う。クロッカスの表情は変わらず厳しい。

 

「やがて二人は結婚を考えるまでの関係に進展してね、楽になっていた医師の心はさらに満たされたんだ。この生活が一生続いて欲しいと思うくらいにね……でも、運命は残酷だった。女が村を出て一年が経とうかと言う頃、従者の一人が倒れたんだ。何の前触れもなく突然ね」

「それって……」

「後に続くようにして、もう一人の従者も倒れた。二人は高熱と頭痛にうなされて、見る見る衰弱していった。医師は懸命に治療したけど、原因は分からず症状も回復しない。そして発症してから三日後、二人の従者は死んでしまった。女は悲しみに暮れ、医師は原因解明の為に従者達を解剖した。そして見つけたんだ、海風疹ウィルスをね」

 

 マオはゴクリと息をのんだ。どうしてケアノスがそんな事を知っているのかを考える余裕すらなく、話に魅了されていた。

 

「女に尋ねて医師は愕然とした。海風疹という病気自体を知らないと言う。雪山に住まう部族は元来病気に強い体質だと聞いた医師の脳裏には、一つの仮説が浮かんだ。強い免疫機能が構築されている人体に、初めて海風疹ウィルスが感染した場合、症状が重篤化し死に至るというものだよ。その可能性に気付いた瞬間、医師の背筋は凍り付き、眩暈すら覚えた」

「……」

「最愛の女を守るために、医師は彼女の村に針路を取った。戻りたくないと言う女の言葉より、医師は女の命を優先した。だけど、皮肉な事に女も海風疹を発症してしまったんだ。医師はあらゆる手段を尽くしたけど、女は弱る一方だった。出来る事と言えば、麻酔で痛みを和らげる事くらい」

「そ、それで……どないなったん?」

 

 マオは興味津々で続きを促す。クロッカスも作業を終え、椅子に腰かけ静かに聞いていた。

 

「従者同様、三日後に亡くなったよ。医師は己の無力さを痛烈に恨んだ。満たれていた心を引き裂かれるのは、一体どのような心境だったのか。でもね、医師は悲しみを刻み込んで研究を続けた。医師が何を思っていたのか、病床の最期に女に何か言われたのか、それは彼にしか分からない。そして、医師はこの症例を“三日死疹”として論文にまとめ、十数年ぶりに医学会で発表した。ところが、理事達はろくな検討もせず医師に対して嘲笑の渦を巻き起こしたのさ。誰一人として見た事も聞いた事もない事例だったからね、法螺話だと決め付けてバカにした。秀才に対するやっかみもあったかもね。論文は破棄され記録にも残されず、医師はその日を境に医学界を去った」

「……」

「やり切れん話やで……ん? ちゅうか、なんでそんな話を?」

「お目にかかれて光栄だよ。貴方が医学に絶望せず研究を続けていた“おかげ”で、ボクは助かった……だろ? 改めて礼を言う、Dr.クロッカス」

「えっ? えっ!? ええーっ!?」

 

 表情を変えないクロッカスとは対照的に、マオはあんぐりと口を開けていた。

 

「この分野の第一人者たる貴方の治療であれば、ボクが生きてるのも納得だよねェ」

「し、知らんかった……ちょっと医療の心得があるだけで、クジラしか友達がおらん可哀想な花のじいさんやとばっかり」

「……」

「クックック、残酷な本音が洩れちゃってるよォ」

「とりあえず、花のじいさんは凄腕の医者っちゅう事やな。いや~、頼っといて今更やけど実は心配しとったんや。これで一安心やで」

 

 クロッカスに向かってマオは安堵の笑みを浮かべる。それを見たクロッカスは沈黙を破った。

 

「娘よ、何か誤解があるようだが」

「謙遜せんでもええて。これからはじいさんの事、敬意を込めてドクターて呼ばせて貰うで」

「それは構わんが……お前達、いつもこうなのか?」

「ふぇ?」

 

 クロッカスの言ってる意味が分からず、マオは素っ頓狂な声を上げた。そして、ケアノスの顔は悦に浸る。

 

「あー、マオ。さっきの話だけどさァ、真実なのとそうじゃないの……どっちが面白いと思う? クヒヒヒ」

「……」

 

 悪びれた様子もなく笑うケアノスに、マオは青筋を立てて低音で唸る。

 

「ケ~ア~ノ~ス~ッ!」

「イヒ、凄くない? この部屋にある蔵書とクロッカスさんに聞いた話を繋ぎ合せて、瞬時に考えたんだよォ。あれ、もしかして信じちゃった? ねェねェ、信じちゃったァ?」

「このドアホーっ! なに思わせぶりな話を長々としとるねん!」

「えっ? だって、その方が面白「もうええ!」ククク」

「心配して損したわ! ウチかてフェルムちゃんの修理があるんや、怪我人は黙って寝とり!」

 

 そう言ってマオはズカズカと歩き、部屋を出て行ってしまう。ケアノスは満面の笑みを浮かべている。

 

「……良かったのか?」

「ええ、マオをからかうのは数少ないボクの趣味だからねェ。こればっかりはやめられないよォ」

「あまりいい趣味とは言えんな」

「フフフ、なぜかよく言われるよ。ところでさァ、ボクってあと何日くらい生きれるの?」

「……」

 

 ケアノスは射抜くような視線をクロッカスに向けた。クロッカスは怯まずに見つめ返す。

 

「確かに超高温の熱でウィルスの数は激減したと思う。だけど死滅したとは思えない。心臓と首から上だけは意識して守ってたからね……それに、ボクの免疫機能が邪魔して海風疹の抗体は体内で作れない。つまり再発の可能性が非常に高い……そうでしょ、Dr.クロッカス」

「……なぜそう思う?」

「クックック、職業上医学は不可欠でねェ。つまり、遅かれ早かれボクは海風疹で死ぬ……いや、その前に火傷の“せい”で死ぬよね」

 

 クロッカスは思わず目を見開く。

 

「気付いていたか」

「言ったでしょ、医学も嗜んでるって。全身の七割が重度熱傷、炭化してる箇所は皮膚移植でも再生不可能。それに火傷が熱を持っているせいで、細胞が水分を渇望している気分だよ。本当は話すのも億劫なくらい怠いもん」

「……悪趣味と言ったが、あれは娘を気遣って事だったようだな」

「ククク、何のことやら」

「ふん。お前の言う通り、このままではお前は死ぬ」

 

 クロッカスは鎮痛な表情でケアノスを見た。ケアノスの眉がピクリと動く。

 

「フフッ、想定内だよォ」

「しかしな、原因は海風疹でも火傷でもない」

「ワォ、その答えは想定外だな。それじゃあ名医に尋ねよう、ボクが死に至る原因は何かな?」

「……自殺だ」

「は?」

 

 さすがのケアノスも目を丸くした。

 

「その倦怠感は脱水症状と栄養失調から来ている。お前の体は餓死寸前と言っても可笑しくない」

「そりゃあ……五日も食べてないからね」

 

 当然だろうと呟くケアノスに、クロッカスは首を振る。

 

「いや、必要最低限の水分と栄養は点滴で補充していた。にも関わらず、今のお前は餓死しかけている。なぜだか判るか?」

「謎解きは嫌いじゃないよォ。ふむ、補充していたのに足りてないって事は……それ以上に消費されてるって事でしょ。消費してるって事は、ボクの体が生きる為に何かしてるってワケだ?」

「ああ。お前の体は超高温の環境に適応しようと変化を始めている。しかしな、生物が環境に適応するには世代を超え、進化という過程を経て初めて成すもの。一世代での進化など人間では有り得ぬ。だから聞いたのだ、お前は本当に人間か、と。」

「クックック、人間以外何に見えるのかなァ?」

「急激な変化……いや、進化はお前の体に過剰な負担を掛けている。必要とするエネルギーも尋常ではない。そのせいで点滴が追い付かんばかりか、お前はお前自身に食い殺されようとしている」

 

 クロッカスは知り得る事実を戦々恐々として話した。ケアノスは目を閉じて思案する。

 

(なるほどねェ、だから自殺か。それにしても進化とは大袈裟な。まぁ……心当たりは、あるけど)

 

 ケアノスが黙り込んでしまった為、再びクロッカスが真面目な表情で口を開く。

 

「それよりももっと重大な問題がある」

 

 目を開きケアノスはクロッカスを見た。

 

「もっと重大? 自分に喰われるよりも? ほほぅ、それは興味深い」

「うむ。実はな……もう点滴のストックがない」

「……は?」

「今投与しているコレが最後だ」

「……つまり?」

「うむ。このままでは明日には死んでおるだろう」

 

 表情は鎮痛ながらも、サラッと言い切ったクロッカス。あまりの事にケアノスは笑いがこみ上げてくる。

 

「アーッハッハッハ、一大事じゃん! どうすんのさ!?」

「最寄りの島まで調達に行くしかあるまい。お前も気付いた事だしな」

「いやいや、切れる前に行こうよ」

「先ほどは元気そうに見えたかもしれんがな、小娘も昨日までは深刻な状態だった」

「あれ? 怪我は無かったんじゃ?」

 

 ケアノスは小首を傾げた。

 

「うむ、身体的外傷はない。しかし、目覚めてからずっと部屋の隅で膝を抱え『やってもた……どえらい事やってもた』とユラユラ揺れていた。たまにお前の様子を見には来ていたが、また部屋に戻ってユラユラの繰り返し……何かの心的外傷(トラウマ)だと思うが、とても留守には出来なかったのだ。お前の意識が戻って本当に良かった。お前にとっても、小娘にとってもな」

「むぅ、流石は安定のマオ品質。期待を裏切らないなァ」

「よく分からんが、私はすぐ支度をして出掛けて来る。ラブーンに協力して貰うが、半日は帰れんぞ。その間に症状が悪化したら……」

「言ったでしょ、医学の心得があるって。マオに頼んで“それなり”の処置をして貰うから」

「……そうか」

 

 それだけ言ってクロッカスは立ち上がった。ケアノスは表情を改め、目を細める。

 

「マオが患ってたって事は、何も事情は聞いてないんだよねェ? どうして助けてくれるの?」

「……小娘に泣いて困っていた、事情なら助かった後に聞いてやる」

「ワォ、かっくぅイイ」

「ふん」

 

 クロッカスが部屋から出て行くのを確認し、ケアノスは溜息を吐く。

 

「ふぅ、まいったなァ」

 

 ケアノスは目を閉じ、体から力を抜く。

 

(じじい、超ロリコンじゃんか。クックック、マオご愁傷様ァ)

 

 ケアノスは近い将来を想像して口元に笑みを浮かべた。

 

(生き延びる手段はある……けど、師父の教えだけは破れない。『受けた恩は倍返し、受けたアダは十倍返し』、なんだかんだで爺さんは命の恩人だもんねェ。流石に喰えないよ……ハァ、ボクの悪運もここまでかァ)

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 海軍本部はグランドライン前半の海『マリンフォード』という三日月型の島に設置されている。その本部の一室に壮年の男性が三人揃っていた。一人は部屋の主であり、全海兵の頂点に立つ元帥『仏のセンゴク』である。アフロヘアに口ひげ、黒縁のメガネが特徴的な男であった。もう一人はセンゴクの同期であり、『海軍の英雄』と呼ばれる中将『ゲンコツのガープ』である。短い白髪で老齢の割には筋骨隆々であり、海軍の英雄とさえ呼ばれていた。そして、もう一人は――。

 

「電伝虫で一報を聞いた時は正直耳を疑ったぞ。お前ともあろう者が軍艦を沈められたとはな、赤犬」

「ぶわっはっはっは、油断して寝ておったんじゃろ。ざまぁないの!」

「黙っとれ、ガープ! 赤犬をお前と一緒にするな!」

「油断しちょったんは事実じゃけェの。反論のしようがないわィ」

「ほれ見ろ、やっぱり昼寝しておったんじゃ」

「うるさいぞ! 寝てたとは言っておらん!」

 

 顔を真っ赤にさせて激昂するセンゴクに対し、ガープは大笑いして煎餅をバリボリ齧る。

 

「センゴクさん、ステイルメイトとは何ならァ?」

「ステイルメイト? 確かチェスの手で引き分けを意味するはずだが」

「チェスの手……引き分け」

「ぶわっはっはっは、将棋バカのお前では知らんのも無理はない」

「将棋すらせんお前が言うな!」

 

 茶をすするガープを怒鳴りつけるが反省の色はない。センゴクは諦めて話を続けた。

 

「ステイルメイトはただ引き分けではない。圧倒的不利な窮地から強引に動けない状態に持ち込み、引き分けにする手だ」

「……つくづく舐めた小僧じゃのぅ」

「お前に手傷を負わせたと言う例の賞金稼ぎか? 能力者の上に覇気使いだったとはな、そのまま賞金稼ぎで居てくれれば良かったものを」

「……ところで、センゴクさん。捜索の方はどうなっちょるんじゃ?」

 

 サカズキは腕を組み、眉間にシワを寄せて尋ねる。

 

「遺体があがったという報告はまだ入ってない。あの辺りは天候も海流も変わりやすい為、流されたとすれば、魚人でも捜索は不可能だろう」

「……」

「致命傷は与えたと聞いたが、お前程の男がどうしてそこまで拘る? お前に手傷を負わせ軍艦を沈めた程の猛者だからか?」

 

 センゴクはサカズキを覗き込むようにして問うた。

 

「……目を見たんじゃ」

「目?」

「恐ろしく危険な目をしちょった。海に落ちる瞬間でさえ嬉々とし、恐怖は微塵も浮かべちょらんかった。それに――」

「それに?」

「いや、何でもないわィ。ワシはもう任務に戻るけェの」

 

 サカズキは何かを言おうとして止めた。センゴクもガープもそれに対して何も言わない。サカズキが出て行った事でガープがもらす。

 

「サカズキの奴、相変わらずの堅物じゃな」

「赤犬の正義は潔癖と言っても過言ではない。黄猿や青雉のような柔軟性は期待出来んだろう」

「ぶわっはっはっは、ワシとは正反対じゃの」

「お前は少し気にしろ!」

 

 センゴクの怒号を耳にしつつ、サカズキは本部の廊下を歩いていた。

 

(小僧が海に落ちたんは部下が目撃しとる。能力者ならまず助からんじゃろうし、あの深手じゃ逃げ延びたとしても長くは持たん……はずなんじゃが)

 

 サカズキは嫌な予感が消えず、足を止めた。そして、ズキズキと痛む鼻を押さえる。ケアノスに蹴られパックリと割れた傷跡が横一文字に残っていた。

 

「まぁええわィ。生きちょったら今度こそ心臓ぶち抜いて息の根止めちゃるけん」

 

 誰に言うでもなく呟き、サカズキは再び歩を進めたのだった。

 




2014.9.7
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