ケアノスは満面の笑みを浮かべたまま、船のオールを漕いでいた。彼にとって喜ばしい出来事が2つもあったからである。
(クックック……やっぱりボクは強運だ、まさか一人目で当たりを引くなんてね)
その出来事とは、氣に関する事と魚人に関する事であった。
クリーク海賊団はケアノスの化勁によって、この世から消え去ったのである。
その化勁に関してケアノスに思いがけない誤算が起こっていた。いくら氣を吸収しても、許容限界に達しないのだ。前の世界ではある程度氣を吸収してしまえば、頭打ちになってしまい自身の氣が増加しなくなっていた。
ところが、この世界では吸えば吸うだけ氣が増大するのである。なぜそうなったかはケアノスにも分からないが、これはまさに嬉しい誤算であった。さらに、氣の性質までが変質しつつある事にケアノスは気付いている。
その原因はこの世界に存在する覇気に起因しているのだが、ケアノスがその真相を知るのはまだまだ先の事であった。しかし、今のケアノスは恐ろしい程の覇気をその身に纏いつつあったのだ。
そして、その影響は目にも表れていた。それまでは感じるだけだった氣を、視覚で認識出来るようになってきたのである。変化自体には驚いていたケアノスだったが、彼はその事実を柔軟に受け入れたのであった。
(デザートにしては少々濃かったけど、今までの海賊団よりはウマかったなァ)
実際、クリーク海賊団を吸収したケアノスの氣は5割増しに膨れ上がっていた。氣が倍になったら強さも倍になるという単純なものではない。しかし、ケアノス程極めた者であれば氣が増えれば応用の幅が格段に広がり、その強さは3倍にも4倍にもなるのである。
(あの爺さんも喰ってみたかったけど……水虫は勘弁だもんな、プククク……!)
過去に類を見ない氣の充足ぶりに、ケアノスの高揚感は尋常ではなかった。ケアノスは快楽殺人鬼ではないが、殺生に嫌悪感など抱かない。他人は自分にとって餌でしかないので当然とも言えよう。ただし、他人を駆逐する事で相手が狼狽し、必死にもがく姿を見るのは楽しみであると言う頭のネジがぶっ飛んだ人間でもある。
人は彼を狂人として扱う。
そして、それは彼自身も認めているのだった。
(ココヤシ村か……そこに、そこに念願の魚人がいるのかァ。ナミさんもいるらしいけど……魚人見れたら用済みだよなァ。喰いでも無さそうだし、放置してもイイんだけど……)
ケアノスは思考の深くへ沈んでいく。
思い出すのは海上レストラン『バラティエ』に戻った際の歓迎されなさぶりではなく、ある賞金稼ぎから聞いた有益な情報であった。
ケアノスがバラティエに戻ったのは、ゼフであれば魚人や悪魔の実について、もっと詳しく教えて貰えるのではないかと思ったからである。しかし、コック達はケアノスを空気の如く扱い、オーナー・ゼフに会わせようとはしなかった。
仕方なく自分で探そうと船を歩き回っていた時に遭遇したのが、ヨサクという名の賞金稼ぎだった。少しヨイショすると、すぐに調子に乗ってくれて色々と話してくれたのである。
その中に、魚人の海賊である“アーロン”が支配するという『アーロンパーク』という場所が、この東の海には存在しているという情報があったのだ。
更に驚くべき事に泥棒家業のパートナーであったナミが、そのアーロンパークに居る可能性が極めて高いらしい。
ケアノスは自分の都合に良い方向にばかり回るこの世界がさらに好きになったのである。
(まぁナミさんの件はおいおいだなァ。まずは魚人を拝んで……拝んで……拝んでからどうしよう……まっ、それもおいおい考えるか)
好奇心に勝てないケアノスは少しでも早くアーロンパークに着きたかったのである。
だからこそオールを漕ぐ手に氣を込めると、グンッと更なる加速を実現した。
「ヒャハハハハー! 30ノット(時速55.56キロメートル)以上出てるな、クルーザーも真っ青だろ!」
小船の先端が海を掻き分け、大量の水飛沫を上げる。
エンジンやモーターのない世界で、普通の人間には到底出せないスピードで進む小船は、トビウオのように海面を跳ねるように進んでいた。異常な速度で進んだ結果、ケアノスはあっという間にアーロンパークを視界に捉えられる距離まで来たのだった。
漕ぐ手を止めて惰性で船を進ませながら、ケアノスは目を凝らす。
「へぇ……立派な門構えじゃないかァ、海賊ってこんなに堂々と拠点を築けるモンなのか?」
ケアノスはふと首を傾げた。
海軍に目を付けられたりしないのだろうかと疑問に思う。
その疑問は当然であるが、アーロンは海軍第16支部のネズミ大佐に金を握らせて黙認させていたのである。それはアーロンが海軍を恐れたからではなく、あの圧倒的なまでに強大な力によって近隣の村々を自分の支配下に置き、年貢と称して金品を納めさせていたのだった。
有り余る資金力で腐った海軍の一部を篭絡したのである。
海賊団としての強さも尋常ではなく、もはや海軍支部では手に負えないレベルであった。
アーロンに懸けられた賞金も東の海で最高額となる二千万ベリーである。
しかし、これはネズミ大佐を抱き込んで緩和されている額であり、本来であれば、倍以上の賞金額に跳ね上がっていてもおかしくない程の非道を重ねてきたのだった。
「なんじゃ、こりゃ!?」
物見遊山でアーロンパークに進入したケアノスは、中の様子を見て驚愕した。
「……なんで、皆倒れてんの……?」
魚人と思わしき一団が集団で倒れていたのである。全員が気絶、あるいは血を流している事から誰かにやられたものと思われた。
近くにいる魚人を抱き起こし、声をかける。
「おい、しっかりしろ! 誰にやられたんだ!?」
「……ロ……ロロノア……ゾ――」
「アハハハハ、面白ェ顔してんなァ。魚人って……めちゃくちゃブサイクじゃんか! アハハハハハハハ!」
「…………」
魚人の顔を見た瞬間、弾けたように笑い始めた。手を叩いて大笑いを始めたケアノスは、最早魚人の心配などしていない。そのまま抱き抱えていた魚人を放してしまい、魚人は地面に後頭部を強打した。
「だ……ダメだ……超変な顔! クヒヒヒヒ……や、やばい……お腹がよじれる程面白いッ! ギブギブッ!」
今度は四つん這いになって地面を叩きながら笑っていた。
お腹を抱えたまま笑い続ける事、数分――。
「こりゃ何だァア!?」
恐ろしく大きな声が響いた。
「一体、何が起こったんだ! 同胞達よッ!!」
大声の主はノコギリザメの魚人であり、鋭いノコギリ状の鼻を持った魚人海賊団の船長であるアーロン本人であった。
「いやァ、笑った笑った。人間と魚のコラボがここまで悲惨とは思っても見なかったなァ。プククク……!」
地面に転がっていたケアノスはムクッと起き上がり、パンパンと土埃を払う。
その声を聞いてアーロンがケアノスを睨み付けた。
「……てめェか、おれ達の同胞に手ェ出しやがった野郎は!?」
「ん? 誰、アナタ?」
「質問してんのはこっちだろ。さっさと答えねェか!!」
(ふーん、新たな魚人か……こいつらの仲間ってとこかな? 比較的マシな顔してるけど……鼻すげェ、プククク……ノコギリ鮫だろうな、横に居るのは……エイか?)
今にも噛み付きそうな形相で睨むアーロンに対して、ケアノスは焦った様子もない。
「いえいえ、ボクが来た時にはすでにこんな状況でしたよ」
「……信じると思ってんのか。そもそも誰なんだ、てめェは? ここに何しに来やがった?」
ケアノスは太極服を着ており、海軍には見えなかった。
しかし、アーロンの鮫肌がピリピリと何を感じているのだ。
「何って、見学ですよ。魚人と言う種族を一度この目で見てみたいと思ってましてねェ。いやァ、予想以上に滑稽な顔付に腹筋が千切れるかと思いましたよ。アヒャヒャヒャ……!」
「……てめェ!」
「待ってくれ、アーロンさん。あんたに暴れられると滅茶苦茶になっちまう。ここは俺らに任せてくれ」
「クロオビ……チッ、その代わり確実に殺せッ!」
「分かってるさ。おい、ヤレ」
クロオビが配下の魚人に命令を下す。
クロオビはアーロン一味の幹部であり、エイの魚人であり、魚人空手の達人でもあった。
命令を受けた2人の太った魚人がケアノスに近付き、おもむろに頭を掴んだ。
「おい、チビスケ! 覚悟は出来てんだろうな!」
「へっへっへ、チビのくせに偉そうにしてんじゃねーぞ!」
「…………チビ? クックック……ボクが、チビ……」
ケアノスは頭におかれた魚人の手を掴むと、一瞬で圧し折った。
腕を折られて前かがみになった魚人にケアノスは掌底打ちを叩き込む。
勿論只の掌底ではなく氣をたっぷり込めた発勁である。
「ぐァ……!」
「て、てめ……ぐはッ」
いきなりの反撃に臨戦態勢を取ろうとしたもう一人の魚人も腹に発勁を受けて撃沈した。
体格に恵まれなかったケアノスにとって、低身長はコンプレックスであった。
伸ばす努力をしてきたが、男性の平均身長に比べると、やはり小さいと言えるのだ。
「アンコウとフグか? デブはデブらしく……汗掻きながら大人しくアイスでも食ってろよ、デブが……!」
ケアノスは倒れた魚人を踵で踏み抜いた。
勝負は発勁で決まっていたが、ムカついたのでトドメをさしたのである。
クロオビとアーロンは目を見開く。
「貴様ッ!」
「てめェ!!」
下等だと思っていた人間に為す術なく一瞬で仲間がやられた事に軽い衝撃を受けたのである。
そんな折、アーロンに声をかける人物がいた。
「うぅ……あ……アーロンさん?」
「おい、しっかりしやがれ!」
気絶していた魚人の一人の意識が戻ったのである。
その魚人の話によると、侵入者として捕えていた男があの『海賊狩りのゾロ』であり、そのゾロが脱走して自分達を倒したと判明した。
「何だとッ!?」
アーロンが驚きの声を上げた。
想像と全く違った回答が出てきたからのである。
てっきり目の前の男がやったと思っていたのに、犯人は別に居て、しかも海賊狩りだと言う。
では目の前の男は誰なのかという疑問がますます沸き上がった。
本人は「見学」などとふざけた事を言っており、到底信用する事はできないのだ。
アーロンがケアノスを睨んでいると、背後から声をかけられた。
「チュッ、捕まえて来たぜ! おれ達が殺すより……アーロンさん、あんたがヒネった方が気が晴れるだろう?」
クロオビと同じくアーロン一味の幹部であり、キスの魚人のチュウである。
ココヤシ村でアーロンを攻撃した『麦わら海賊団』の一味であるウソップを連行してきたのだった。
「チュウか……もうそんな奴じゃ、腹の足しにもならねェぜ」
「だろォ!? じゃ……に……逃がしてくれよ! あんなの挨拶だろ。おれの村じゃああやるんだぜ!? 挨拶は!!」
アーロンの言葉にウソップがじたばたしながら命乞いをする。
しかし、ウソップを捕えていたチュウの手に力が入った。
「チュッ!? ちょっと待て……こりゃ何事だ?」
「そこのチビスケがやりやがったんだ」
「チュッ……あのチビが?」
「チビだが、それなりに使うようだ」
「おい、半魚共! 二度とチビって言うんじゃねェよ……でないと、喰うぞ?」
「ハッ……図に乗ってんじゃねェぞ! 下等な人間がッ!!」
アーロンはギロリと視線に殺意を込める。
(なるほど……魚の分際で調子乗ってんなァ、魚が肉かは分からないけど……餌には違いないんだよ。クックック……陸上漁業は初の試みだな。後から来たあの口が出っ張ってるのは、鉄砲魚かな? それより……一緒に来た長っ鼻は何の魚だ!?)
ケアノスはウソップを見て頭を悩ませた。
これまで全ての魚人が何の種類かを当てるゲームを密かにしてきたケアノスにとって、最大の難関であった。
色々と考えて答えの出なかったケアノスは、素直に尋ねる事にした。
「……そこの長っ鼻君。キミは何の魚人なの?」
「ハァ!? おれは人間だよ! キャプテーン・ウソップ様だ! こんな奴らと一緒にすんじゃねーよ!」
「チュッ、今すぐ死にたいみたいだな」
「わ、わ、悪かった。おれが言い過ぎた……た、助けてくれ!」
チュウにナイフを首に突きつけられたウソップは涙目で慌てて取り繕う。
「おやおや、人間でしたか! プクククク……それはそれは、失礼しました」
「人の顔見て、笑ってんじゃねーよ!」
今度はケアノスに怒りを顕にするウソップ。
一方、アーロンは別の判断を下す。
「ふむ……こいつら、仲間ってワケじゃねーのか」
「いや、そうとも限らんぜ。アーロンさん、こうは考えられねェか?」
アーロンの発言に異を唱えたのはクロオビであった。
「ナミがあんたの首を取る為に……ゾロやアイツをここに侵入させた、と」
「ナミが?」
「そういやナミの今日の態度はおかしかったぜ……」
「そういえば……水に飛び込んだゾロをあいつは助けた……!」
「裏切りは……あの女の十八番だ」
(イイ度胸だねェ、ボクを無視して井戸端会議とは……おやァ?)
魚人達はナミの行動を不審に思う。
ケアノスは魚人達の行動を不快に思っていたが、ある気配を察知する。
「いい加減にして! 勝手な推測で話を進めないで! 何が言いたいの!?」
「ナミ……! 本当に……?」
ナミの登場にウソップは信じられないモノを見たという表情である。
(おおー、やっぱりナミさんか。これで役者は揃ったな、クックック……第二幕の幕開けですよ!)
「私が一味の者であることは、8年前にこの刺青に誓っている! あんたとの約束の金額ももうすぐ貯まる。今更そんなくだらないマネしないわよ!」
ゾロの独断がナミを窮地に追いやり、困らせていた。しかし、内心では悪態をつきながらも、ナミはこの窮地を乗り越えようしている。
事実アーロンはナミの言ってる事に嘘はないと思っていた。
「あーすまんすまん。疑って悪かった。怒るのも当然だ、8年の付き合いだもんな。おれ達は少し気が立ってたんだ。お前は信じ「やぁ、ナミさん」……何ッ!?」
「えっ!? ど……どうして……!?」
ナミは上手く乗り越えれただろう……ケアノスさえ居なければ。ナミを信じかけていたアーロンや魚人達の心に再び疑惑が浮上した。
そのナミは驚愕の表情でケアノスを見詰めている。
「クックック……つれないですねェ、パートナーじゃないですか」
ケアノスは人の悪い笑みを浮かべていた。
心底この状況を楽しんでいるのだ。
「おいナミ、こりゃ一体どういう事だ?」
アーロンのドスの利いた声が響く。
「…………」
ナミは今必死に考えていた。
理由は分からないが、2ヶ月前に知り合ったケアノスが目の前に居るのだ。
ここ3週間連絡を取っていなかったのはルフィ達と出会ったのもあるが、ケアノスの不気味さを警戒してでもあった。
頭をフル回転で働かすナミは、かなり焦っている。
1億ベリー貯めてココヤシ村をアーロンから解放するという目標まで、あとホンの少しの所まで来ていたのだ。
(クヒヒヒヒ……ナミさん、超必死な顔してるなァ。可哀相に……誰が悪いんだろうねェ)
他人事のようにケアノスは笑い続ける。
そんなケアノスを憎憎しい目で睨み、ナミは重い口を開いた。
「……以前に少し泥棒するのを手伝って貰った事があるだけよ。ここに来てるなんて知らなかったわ……ケアノス! あんた何しに来たのよ!?」
ナミは本気で怒っていた。
せっかくのチャンスをココで台無しにされたくはないのだ。
だからこそ、切り捨てるならばケアノスだと腹を括ったのである。
しかし、ケアノスから返って来たのは予想を超える最悪の回答だった。
「何しにって……この魚人共が次のターゲットだからに決まってるじゃないですかァ。サクッと潰して財宝頂いちゃいましょうよ。クヒャヒャヒャヒャ……!」
「……ッ!?」
ナミは絶句した。
ケアノスが何を言っているのかが、しばらく理解出来なかった。
「ナミ……てめェ!」
「やはりか……」
アーロンはナミを睨み、クロオビは腕を組んだままむしろ納得していた。
漸く再起動を果たしたナミはケアノスに向かって叫ぶ。
「あ……あんたね、いい加減な事言わないで! 私がいつそんな事頼んだのよ!!」
心からの叫びであり、長年かけて高く積み上げた石段を根元から崩された気分でもあった。
取り返しのつかない事になろうとしている……聡明なナミにはそれが痛い程分かった。
ケアノスに対して殺意さえ抱きそうになったのである。
「おやおや、ボクは本気だよォ……潰した後はサシミにして喰っちゃいましょうか。ククククク……意外と美味いかもしれないし?」
「ふ、ふざけんじゃないわよ!!」
「……クロオビ、ナミは後だ。あのガキをブチ殺せ」
「お任せを……!」
アーロンの放った一言で、ナミは自分の計画が音を立てて崩れ落ちて行く幻影が見えるようであった。
たまらずその場に座り込んでしまった。
ウソップはあまりの展開について行けていない。
チュウの隣で気付かれないように空気に徹するのであった。
「おい、覚悟はいいか?」
クロオビがケアノスに接近し、声をかけた。
「はい。不味そうだけど、アナタも頑張って食べる覚悟を決めましたよ! アヒャヒャヒャヒャ!」
「……死ね! 百枚瓦正拳ッ!!」
クロオビはケアノスの懐に潜ると、腰を落として渾身の正拳突きを繰り出す。
魚人空手の達人であるクロオビの突きは常人であれば数十メートルは吹き飛ばされるであろう威力を秘めていた。
しかし、拳がケアノスに直撃すると思われた瞬間、クロオビは宙を舞う事になった。
刹那のタイミングで突き出されたクロオビの腕を掴んだケアノスは、そこを支点にしてクロオビの体を一回転させたのである。
そのまま回転するクロオビの頭を足で刈り、更に回転スピードを加速させた。
グルグルと回るクロオビの顔面を反対で手で掴み、遠心力たっぷりの掌底で地面に叩き付けたのである。
ドガァァァンという轟音と共に、クロオビの顔面が地面に埋没したのだった。
「あぐッ……」
その言葉を最後にピクピクと痙攣し、クロオビは動かなくなったのである。
陥没した地面からは血が溢れ出てきた。
「バカな……!?」
「な……何しやがったんだ?」
魚人海賊団の面々だけではなく、ウソップも驚きを隠せないでいた。
まさか一瞬で決着するとは、誰一人として思っていなかったのだ。
ケアノスが行使したのは柔の拳であり、小柄なケアノスが氣以外に極めている武術の一つが合気道である。
相手の力に逆らわず、むしろその力を利用して、相手を制する事に重きを置いた武術を、ケアノスは氣の次に気に入っているのだ。
「そ……そんな?」
「クロオビさんが……一撃で!?」
「クックック……早めに食べないと、アンモニア臭で喰えなくなっちゃうかもねェ……エイだし」
驚く魚人を余所にケアノスは余裕の表情であった。
一方、ナミの表情は驚愕の一言である。
「う……嘘!? あいつ、ここまで強かったの……!?」
分業制だった為に、ナミはケアノスが実際に戦っている姿をあまり見た事がなかった。
ケアノスが海賊を片付けている間に、ナミが財宝を盗むのがルーチン作業であった。
不殺生を約束させて手加減している戦闘シーンならば、一度見た事はあったが、ここまでとは予想だに出来なかったのである。
「チュッ、おれが仇を――」
「下がってろ、チュウ。おれがヤル」
「アーロンさん……」
同胞が倒されるのを見て、目が血走っているアーロンがチュウを制止して前に出た。
「……おれとてめェの絶望的な違いは何だ」
「クイズですかァ? 簡単過ぎるでしょ……鼻、に決まってるでしょ! プクククク……ボクは絶対そんな鼻イヤだなァ」
「…………」
「あれ? 違いましたか? も……もしや、そんな風体でメスなの!? いやァ、だったらビックリだよ。性別の違いに絶望しちゃうかも、アヒャヒャヒャヒャヒャ……!」
「…………」
「クックック……子供は産卵だよねェ?」
「種族だッ!!」
怒り心頭に発したアーロンが叫びつつ、噛み付き攻撃を仕掛けてきた。
ケアノスは片足を一歩下げ、半身になる事で躱す。
そして、そのままアーロンの横顔に掌底打ちを炸裂させた。
ガキィンという音を鳴らし、アーロンの歯が抜け落ちる。
口から垂れ落ちる血を拭いながらアーロンは笑う。
「シャハハハハハ、無駄だ! おれの歯は何度でも生えてくる! 前よりも更に頑丈な歯になってな!」
「……えっ? もしかして……ボクに言ってるの? スイマセン、あまり聞いてなかったので……もう一度言ってくれます? プククク……」
「チッ、ふざけやがって! この下等種族がッ!!」
「ふぅ……笑えない魚人はタダの魚だよ?」
アーロンは怒りのままにバキンッと歯を抜いては再生し、また歯を抜いたのである。
そして抜いた歯を両手に持って構えた。
「これが天の与えた特性……魚人がどれほど上等な種族か分か――ぐはッ」
「油断大敵……てね」
アーロンがご高説しているまだ途中に、最大限に高めた氣による身体強化でケアノスは瞬動を行い、アーロンの懐へと潜り込んだ。
そして練り上げた氣を全身から右の掌へと凝縮し、渾身の発勁をブチ当てたのである。
「て……てめェ……!」
「残心忘るるべからず……てね」
そういい終わるなり、腰の回転だけで加速させた第二撃を叩き込む。
その拳は黒く変色していた。
「ガハッ」
アーロンの口から大量の出血が見られた。
そして、グルンと白目をむいたかと思うと、アーロンは地面へと倒れ伏したのだった。
「あっ、サメも早く食べないとアンモニア臭くなるんだっけ? では早速、いただきまーす!」
ケアノスは倒れたアーロンに手を乗せると、化勁で貪り始めたのである。
「バ……バカな! アーロンさんまでッ!?」
「そ、そんなワケねェ……そんなワケねェだろ!!」
慌てふためく魚人海賊団。
チュウはウソップを放し、ケアノスへと襲い掛かった。
アーロンだけでなく、クロオビに比べても少し遅いチュウのパンチでは、ケアノスに当たるはずもなく、その拳は虚しく空を切った。
目の前から突如消えてしまったケアノスをチュウはキョロキョロと頭を振って探す。
「食事の邪魔をするとは……万死に値しますねェ。……死ね」
チュウの背後から恐ろしく冷たい声が聞こえた瞬間、チュウの意識はブラックアウトした。
チュウは全身から血を噴き出して死んだのである。
「ひぃ……」
「化け物だァ……」
魚人達は戦慄した。
ナミとウソップも青褪め、体の震えを止める事が出来ないでいる。
「さァて……漁業の続き、しなくちゃね。今日は大漁だなァ、クヒヒヒヒ……!」
ケアノスは不気味に口角を上げると、次から次へと魚人に襲い掛かった。
それはまさに蹂躙であり、一方的な虐殺であった。
2013.11.22
主人公の口調を少しフランクにしました。
2014.9.7
サブタイトル追加