幼馴染みと他愛のない会話をしていた『日常』の中で、密かに彼を取り巻いていた崩れ行く環境に、彼を含めた誰もがまだ気付いていなかった。
そして彼がその事に気付くのは、もう少し先のお話……。
人間誰しも大切な人は居るだろう。
家族。
友人。
恋人。
しかしその存在が消えた時、人はどうするのだろうか。
どうなってしまうのだろうか。
身の回りに理解出来ない事が起きた時。
もしも、何か一つを失わなければならない状況に陥った時、果たして正気でいられるのだろうか。
たとえそれが、作り話だと、お伽噺だと思いたくなるような、そんな出来事だったとしても……。
* * *
カチ、カチ、カチ……。
規則的なリズムを響かせている物がある。
カチ、カチ、カチ、と。
今自分の視界に映るのは『10月30日 am8:23』の文字。
寝起きの働かない頭でボーッと眺めていたディスプレイの正体はーー目覚まし時計。
ちなみに、今日、十月三十日は金曜日である。
目の前にあるディスプレイの数字が『8:25』と表示を変えた瞬間。隣室から迷惑を極める大音量のアラームが鳴り響いた。
魂ここにあらずの状態で放心していた為に、突如として放たれた目覚まし時計の音に驚き、横たわっていた上体を勢いよく起こす羽目になった。
同時に目も覚め、思考回路もクリアになってきた所で手元の目覚まし時計に視線を戻す。
目覚まし時計に表示された現在時刻は八時二十六分。
遅刻だ。
カーテンの隙間から差し込む朝日のお陰で読み間違える筈もない程に室内は明るい。
「ーーヤバ……」
一言そう声を漏らすと、凄まじい速さで着替えを開始。
顔を洗い、階段を駆け降りると、テーブルに用意された朝食を無視して玄関を飛び出した。
普段ならば学生で溢れ返っているバス停に人気はなく、駅についてからもやはり学生の姿は見掛けられなかった。
また、それによって更に気はせいでしまい、嫌な汗が頬を伝う。
ふと視線を向けた先。向かいのホームに一人で立っている……同じくらいの年頃だろうか。
淡く透き通るような白い肌。
細く延びた華奢な躰。
やや冷える風になびく漆黒の長い髪。
全てが妖艶と言うに相応しい容姿のその少女が身に纏う服はーー自分と同じ制服。
近所ではそこそこ名の知れた私立校の中等部に通う三年生の自分ーー波木秋透(なみきあきと)・十五歳。
他クラス、他学年との交流を数多く行っているこの学校では、直接の面識はなくとも、顔も知らないなどという事は極めて稀である。
その上彼女程の美少女ともなれば尚更だ。
しかし、秋透は視線の先に立つ少女を見たことがなかった。
記憶力には自信があった。それ以前に、制服が同じということは、少なくとも中等部生である事は、間違いないにもかかわらず、秋透は少女の存在が記憶になかったのだ。
転入生か、編入生か……。
そんな不毛な考えを巡らせていると、向かいのホームにいた筈の当の女子生徒の姿が消えている事に気が付いた。
ーー駅から出たのか……。
そう考えた次の瞬間。横を吹き抜けた突然の強風。そして……。
揺れ動き、風にたなびく長い黒髪。
肩に触れる白く細い手。
深い蒼色の丸い瞳が、静かにこちらを見据えていた。
驚きのあまり呆然と立ち尽くす秋透。
そんな秋透に対して怪しげに、またイタズラっぽく微笑むと、少女の唇が微かに動いた。
「波木秋透……さん?」
突然だった。
停止していた思考を急に引き戻され、返す言葉を探していると、更にもう一度、よく通る凛とした声音がホームに響く。
「合ってますよね? 私は天野宮詩帆(あまのみやしほ)。また会いに来るので覚えていてくださいね? それでは、また」
一方的に言い終えると、目の前に現れた時と同じく、突然の強風が吹くと、もうそこに彼女の姿はなかった。
何一つ整理出来ていない混乱した頭で唯一理解出来た事……それは、
「……天野宮詩帆……」
そう彼女は名乗った。
『また会いに来る』とも言っていた。
何者なのか。
何故彼女は秋透の名前を知っていた……?
人間のものとは思えない行動ーー先程はつまりホームからホームへと飛び移り、あまつさえ風になって消えたという事……?
もしも本当に彼女が特異な存在なのだとしたら、一体何故秋透の下へやって来たのか……。
ーー気味が悪い……。
駅のホームには自分の他に人の気配はなく、秋の訪れを報せるかの如く、空中を舞う木の葉の微かな音のみが耳に届いた。
* * *
校内に午前授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
チャイムを合図に全クラスの授業が終わり、友人と話す者。廊下へ出て歩いていく者。昼食を求めて食堂へ走る者と、授業中の静けさが嘘のような騒がしさが一気に校内を包み込んだ。
他の生徒と同様に、授業の疲れを少しでも和らげようと、椅子に深く腰掛けたまま上体を大きく後方に反らしていた秋透の下に、二つの人影が近付いてきた。
男女二人が秋透の机の真横に静止し、また二人とも何か言いたげな視線を向けてきているーーのが分かる。
教壇の後ろにある最新の黒板型パネルから視線を外さず、秋透は言う。
「何だよ」
秋透の言葉が言い終わるや否や、待ってましたと言わんばかりに一気に話始めたのは長い茶髪を二つに結った、やや長身の女子生徒である。
気に食わないのは度を越えて笑いながら話始めた点だ。
「あっ、秋透っ。プッ…ククク…ッ。どうしたの? アハハッ…ちっ、遅刻なんてっ、めっ、珍しいね。何かあったのかって、ククク…心配したんだからねぇ?」
ーー嘘吐け。どう見ても、誰が何度どう頑張って見直してもその態度は心配してた態度じゃあない。『心配してた』とかほざく位ならせめてもっと隠れて笑えよっ!
と、内心で毒吐きながら、ケタケタと笑い転げている女子生徒・本寺羽矢(もとでらはや)ーー現クラスメイトにして残念ながら幼馴染みーーを一睨みしてからもう一方の人影に向き直った。
「お前もわざわざ笑いに来たのか? わざわざ最前列末端の席からわざわざこのクラス内で最も遠い俺の席まで」
「うわっ、『わざわざ』って三回も言うってヒドイなー。来て欲しくないみたいに聞こえるぞ、それー」
長身ーーおよそ185センチの男子生徒。またも同じく同学年、現クラスメイトの幼馴染みーーの神芝龍健(かみしばりゅうけん)は、わざとらしく軽く仰け反りつつ、傷付いた風に立っている……が。
ーーどうせ傷付いてないし。
などと気にも留めない。
「……え? 無視ですか? うわー、いい加減俺のガラスの心が傷付くぞ」
「『防弾ガラス』の間違いだろ? 丈夫そうだから問題ないな」
「……ホントにヒドイよなー」
ーー謎の会話。
と、内心で呟いた事を知る者はいない。
不意に口を開いたのは羽矢であった。
秋透と龍健の会話中も二人の横で爆笑召されていたので揃って無視していたのだが、いつの間にか笑い終えていたらしい。
先程とは一変したいつも通りーーかどうかはいまいち判然としないがーーの様子で話し出した。
「ねぇ、秋透? 結局の所、遅刻の理由は何だったの? ただの寝坊ならあんなに取り乱したりなんかしないでしょう? しかも超優等生の秋透が遅刻だなんて。学年主任の先生が泣いてたって聞いたよ?」
ーー評価下がったな……。
そう内心で落胆しながらも、秋透自身、それが至極当然極まる疑問であろうという事は自覚している。
『あんな』登校ーーしかも遅刻ともなれば、そうなった経緯を知りたがるのは当然だろう。
故に秋透は説明をするべくーー渋々ーー口を開いた。
「ーー実は……」
* * *
ーー三十分程前の事……。
駅のホームにて、天野宮詩帆と名乗る少女と別れてーー正確には姿を消されてーーから間もなく電車が到着した。
必然と電車に乗り込み、しかしその後の記憶は正直あまり鮮明には思い出せない。
ただ、ぼんやりと物思いに耽っていた事は確かだった。
どうにも彼女の言葉が、姿が、頭から離れないのである。
そんなこんなを経て、完全オートパイロット状態で学校まで歩いてきたらしい秋透は、到着早々盛大にやらかしてしまったのだ……。
まず手始めに下駄箱に置いてあった掃除用の水入りバケツに足を引っ掻けて水を廊下に撒き散らし、次に水浸しになった床を拭いた雑巾を水道で洗おうと蛇口を捻ると、有り得ない量の水道水が勢いよく放水され、制服はずぶ濡れに。
廊下は再び大惨事となった。
その後も不幸は続き、階段を上っていた所、段を踏み外して盛大に落下。
三年の教室のある二階に上ると、生徒指導の先生に見付かって大目玉をくらい、やっとの思いで辿り着いた教室で鞄を開くと、中の教科書・ファイル・筆記用具類は全て水浸しになっていたのである。
* * *
そして現在に至る。
「寝過ごしたのも事実。……けど、まだ急げば何とかなる時間帯だったんだけど……。駅のホームで、女の子に会って……何か声を掛けられてさ」
「知らない女の子?」
と、問うのは羽矢。
「そう。知らない女の子」
「学生だったのか?」
と、次いで問うのは龍健。
「そう。……しかもウチの制服着てた……」
その一言に二人とも目を丸くした。
羽矢と龍健も当然我が校の在校生なのだ。多交流なこの学校の制度は知っているし、それによる効果についても知ってる筈だ。
だからこそ、『我が校の制服を着た、見知らぬ女の子』と言った秋透の発言に驚いているのだ。
しばし沈黙した後、口を開いたのは龍健であった。
「とりあえず校内を捜してみたらどうだ? 同じ制服って事はこの学校だろう?」
龍健は普段から温厚で人当たりが良く、面倒見が良い事で知られている。
物静かで、常に一歩引いた所から周りを見ている。
言い換えれば、客観的に、冷静に物事を考えられるのだ。
つまり、こういった状況で一番頼りになるのが彼である。
「相手の名前分かるか?」
「ああ。天野宮詩帆とか言ってたな」
「天野宮詩帆か……聞いたことないな。けどまあ、名前が分かるだけ多少は調べやすいな。何とかなるさ。だから変に気を落とすなよ、秋透」
「おう、ありがとな、龍健」
「気にすんな」
ーー心苦しい、と思った。
秋透は彼女の異能についての一切を二人に伝えなかった。伝えたくなかったのだ。
考えすぎだと、殆どの人が言うだろうが、もしも彼女が本当に何らかの人ならざる能力を持っていて、また、何らかの事情で自分に接触してきたのだとしたら、情報を与える事によって、二人をこの不審な出来事に巻き込んでしまうかもしれないからだ。
そして、それはどんな事があっても避けなければならない。
いや。もう遅いかもしれないとも考える。
本当に二人の事を考えるのならば彼女の名前を教えるべきではなく、はなから彼女の存在を知らせるべきではなかったのだと気付く。
遅刻の理由など、いくらでも言い逃れる事が出来たのだから。
もしくは「何でもない」の一言で誤魔化す事だって出来た筈だ。
別に特異な出来事に対する感情を共有したかった訳でも、まして自慢したかった訳でもない。
ただ今朝の出来事は本当に特殊すぎて、一人胸の内に秘めるのは少し荷が重く、誰か一人にでも吐露したかっただけなのかもしれない。
ーーだとしたら最低だな、俺は。
友人の事よりも、自分が楽になる方を選んでしまったのだから。
たとえこれら全てが秋透の『考えすぎ』であっとしても、その事実は変わらないし、二人の中には確かな不審感を残してしまうだろう。
内心で懺悔し、無意識の内に自嘲するような笑みを零していたらしい。
一人笑う秋透を不思議に思ったのか、羽矢が眉をひそめながら秋透の顔を覗き込んできた。
「秋透? どうしたの? 急に黙りこくったかと思えば、また急に笑い出すし。今日はヘンだね。今朝の事故でどっかに頭打った?」
事故とはもちろん登校してからの大惨事の事であろう。
「いや、悪いな。ちょっとボーッとしてただけだよ。ほれっ、さっさと食堂行かないと混むぞ!」
「わぁ、押さないでよ、バカ秋透! もう心配してやんないならねっ!」
プイッ、と頬を膨らませて怒る羽矢に苦笑しつつ、
「元々してなかったろうが」
とからかい半分に返答する。
羽矢は「知らないっ」と言ってスタスタと先を速足で歩いていく。
秋の訪れを迎える十月終わりの今日この頃。
いつもと変わらない日常にを過ごす秋透は、まだ知らなかったのだ。
この時既に潜んでいた闇を。
密かに自分を取り巻いていた環境を。
今まで続いたこの『日常』が。
崩れ始めている事など。まだ誰も気付いていなかった……。
はじめまして、巫ホタルと申します。
初めての作品で、拙いながらも書き始めましたが、如何だったでしょうか?
今後かなりの長編作品になってしまうと思うのですが、是非御一読いただけましたら幸いです。
何より、〈プロローグ〉を読んでくださりありがとうございました!