明峰秀静(あけみねしゅうせい)。
「私達は鏡行禁忌軍極東管轄部特務専行部隊に所属する軍人です」
「上層部より貴方を連れてくるよう指令が届いた為……」
突然告げられた衝撃の真実に秋透は……!?
二一二五年 十一月二十二日 日曜日。
世界は混乱に満ちていた。
『こちらは東京都の商店街に来ています。各店舗のシャッターは全て閉ざされ、多くの看板は強風によって落下しています。今も強い横風に飛ばされそうですっ』
テレビから発せられているニュースリポーターの声は荒々しく、画面を見ずとも報道されている現場の厳しい状況がひしひしと伝わってくる。
ーー二一二五年 十月三十一日を境に、世界は変わっていった。
空は曇り、海は荒れ、木々はざわめき、動物は狂ったように暴れまわった。
お陰で飛行機は飛ばないし、船も出せない。その上森林への立ち入りには制限がかかり、動物園は休園を免れなくなった。
それはまるで、世界の終焉を迎えているようだと、皆口々に囁いた。
リポーターの声は続く。
『強風によって外れた看板が通行人に当たり、一名重症、二名軽症の怪我を負いました。また、扉に腕を挟まれて骨折。風に煽られトラックが横転するなど、各地で様々な被害が多発しています。ご覧ください、こちらの……』
強風に煽られながらも必死に、叫ぶように話続けるリポーターの声も、だんだんと風に負けて途切れがちになっている。
実際、平然とコーヒーカップを片手にテレビを見ている秋透だが、窓の外に目を向ければ、木の葉が飛び交い、大粒の雨が地面に打ち付け、道を歩く歩行者はおろか、車の一台も見られない程に外は荒れている。
「本当凄いな……外」
と、思わず呟いてしまう程に外は凄い有り様なのである。
「秋透ー。お皿出してー」
「んー、今行くー」
キッチンからは少し遅めの朝食を作る芳ばしい香りが漂ってくる。
母に呼ばれ、キッチンへと向かい、棚から小皿を二人分取り出す。
「綾兄は?」
「綾瀬は朝早くからバイトに行ったわよ。昼過ぎには帰るって」
「そう」
ーー綾兄。秋透の実兄・波木綾瀬(なみきあやせ)は、秋透の通う私立校の大学部に通っている。
在学中に大学院の入学費を貯めるべく、日夜バイトに明け暮れているのだ。
黙々と食べ進め、五分足らずで完食。食器を片付け、自室へと向かう。
机の椅子に深く腰掛けて一息つくと、手元に置いてあったスマホを手に取った。
画面の時刻を確認し、新着のメールを開く。
『秋透マジ悪い。
今日行けなくなった。
今度埋め合わせするから。
龍健』
ーー午後暇になったな……。
そう思いながら画面を消し、再び机に置き戻した。
窓の外を見ると、数分前までの大荒れが嘘のような日差しが差し込んでくる。
ここ最近は天気の変動が激しい。母親は洗濯に困る、と、ぼやいていた。
窓を開くと、カーテンを揺らしながら心地好い微風が吹き込んでくる。
サワサワと髪を揺らす風を肌に感じながら、そっと目を閉じたーー瞬間。
机上のスマホが震え、メールの受信を伝えた。
気だるさを抑えつつ、ノロノロと腕を動かし、スマホを手に取り、画面を横にスライドさせる。
表示された送信者は羽矢だった。
『今友達と原宿来たらビックリ!
看板取れてるし、人はいないしでつまんないよ~。
写真も送ったから見てね~。
羽矢』
というーー普段通りのーーどうでも良い内容のメール。
しかし添付された写真を見て、秋透は目を見開いた。
ーー流石……。放送局も大分編集してるな……。
羽矢から送られてきた写真は現場の悲惨さを余すことなく写し出していた。
粉砕し、散らばったままの窓ガラス。看板は積み重なり、ほぼ道は通行止めにされ、乗り捨てられた車は窓ガラスを無くし、側面はかなり凹んでいた。
また、人のち血かとも思える赤黒い液体がそこら中に飛散した形跡がある。
ーーこれは……。
「「す」っごいですねぇ」
ーー!?
自分は今一人で自室にいた筈だし、今この家には母と自分の二人しかいない筈だった。
また、この部屋に入り口は一つしかないし、その扉が開けられた音は一切聞こえなかった。
それ以前に、そもそもこの少女がこんな場所にーーいる筈がないのに……。
フワリと床に着地する一つの人影。その人物には、見覚えがあった。
長い黒髪の美麗な少女……。先日駅のホームで出会った女子生徒、天野宮詩帆。
しかし、今日は制服ではなく、ベージュ色のコートを羽織っていた。
驚きのあまり、その場から動けなくなっている秋透を全く意に介さず、詩帆は先日と同じーーもしくはそれ以上の明るい声を放った。
「お久しぶりですね、波木秋透さん」
「……天野宮詩帆……?」
にこやかに微笑む彼女。対して秋透は動揺を隠せなかった。
呻くように彼女の名前を口にすると、詩帆は嬉しそうに笑った。
「はい。覚えていてくれたんですね」
「何……で、ここに? どうやって……」
すると詩帆は笑みを消し、表情を改めて、言った。
「上層部より貴方を連れてくるよう指令が届いた為、失礼とは存じましたが、こちらから参りました」
『こちら』と彼女が指差したものはーー鏡であった。何の変哲もない、何処にでも売っているような、普通の姿見。
ーーふざけているのか……。
とも考えた。しかしすぐに、秋透は初めて彼女に出会った時の情景を鮮明に思い出した。
ふと現れた女子生徒。
突然の強風。
真横に現れ、そして強風と共に姿を消された、先日の出来事。
ーーあれだけ非人間的な事をして見せたのなら……真実味があるな。
などと考え直した。
鏡と彼女を交互に見遣り、恐る恐る口を開く。
「……君は、何者なんだ……? 何故、俺に声を掛けた?」
それは最も知りたくて、最も聞くのが怖い質問。
無表情に秋透を見ると、詩帆の唇が動いた。
「私は……」
「遅いぞ、天野宮」
固唾を飲んで詩帆の言葉を待った。しかし答えは途中で切られてしまった。突如響いた男性の声によって。
秋透は声の主を捜して部屋中を見回すが、自分と詩帆以外の人影はな……。
そこでふと、秋透は視線をとある場所へと向けた。
通常ならば考えもしない筈の、姿見の鏡。それは先程、詩帆が指差した鏡だ。
すると、平面であった筈の鏡の表面に、同心円状の波が立った。
現実的には有り得ない現象だ。
そして、秋透を更に驚かせたのはその後。
波立った鏡の表面から音もなくーー人の手が現れたのだ。
次いで足。頭。胴体と、みるみる内に人の形を造っていく。
下を向いていた侵入者が顔を上げると、男性である事が分かった。
全身が現れ、床に足を着くと立ち止まり、しばらく室内を見回していたが、不意に口を開き、話始めた。
「ほー、ここがお前の部屋か? 波木秋透」
「……は?」
ーー誰だこの男。
「……ふむ。覚えていないようだな、やはり。で? 天野宮。こいつまだ理解してねぇの? 最悪説明すらまだか?」
「隊長が邪魔したんですよ? 私のせいではありません」
「そーかそーか、黙れ」
ーー何なんだよこの人達……。
目の前にいる二人の会話が全く耳に入ってこない。
『こいつらは何者なのか』
それだけが頭の中をループし続ける。
ーー聞かなければ、何かを……っ。
「よーし、そろそろ放心解けたか、ガキ」
「ガ……ッ!?」
不法侵入に加えて慇懃無礼にも程がある。
秋透が狼狽していると、横から詩帆が口を挟んだ。
「あー、駄目ですよ隊長。彼はまだお子様なので、本気にしちゃいますから」
「本気で言ってんだよ、俺は」
ーーフォローのつもりだったのだろうか……。
だとしたら見当違いも甚だしいが。
話を終えたのか、不意に詩帆がこちらに向き直った。
「遅くなりましたか、先程の質問に答えましょう」
またも急に変えられた場の空気にたじろぐ秋透。
がやはり、彼らは気にしない。
「私達は鏡行禁忌軍極東管轄部特務専行部隊に所属する軍人です。軍上層部からの指令で、貴方のメモリーを確認し、同時に、対象者であった場合は連れてくるよう命じられた為、我々が参りました」
「……鏡行禁忌軍……て。知らないぞ、そんな組織!」
「当然です」
思わず声を荒げた秋透の言葉に、詩帆は驚きもせず即答して見せた。
そしてそれは、秋透をたじろがせるには十分な覇気を纏っていた。
詩帆は続ける。
「鏡行禁忌軍は基本的に人間に情報を知られてはなりません。それが軍の最高規定ですから。原則として人間の前では《力》を使わない事。万が一使うとしても、後に必ず隠蔽処置を施す事が義務付けられています。見られても、聞かれてもいけない。証拠を残すなんて論外です。……私達はそういう集団なのです」
「……訳が分からないぞ、お前ら」
「そうでしょうね。それも当然だと思います」
情報ーー存在までもを知られてはならない謎の組織。
鏡から現れた人間。
理解出来ない、出来る筈もない事が次々に起こり続けている。
詩帆は先程『隠蔽処置を施す事が義務付けられている』と言った。もしも自分の記憶を消す為にここにいるのだとしたら……逃げるべきなのだろうか?
秋透の脳は、既に正常と言える働きをしていなかった。
拒んでいる。脳が、理解する事を。考える事を。
会話が途切れ、訪れた静寂。
開け放たれた窓から吹き抜ける風の音が、微かにも耳に入らない。
見えている筈の景色も、周囲はぼやけ、目の前に立つ二人だけが強く映り、決して視線を逸らす事を許さない。
恐怖はない。ただ混乱と、現実を受け入れようとしない拒絶感情のみが脳内に繰り返しこだましている。
手が汗ばみ、喉がやけに渇く。
身体が重く、動かす事も出来ないまま、その場に立ち尽くす他なかった。
ーーグラグラする……。
早鐘のように強く打ち付ける心臓。
脳裏を横切る一つの思考。
全身を覆う嫌な予感。
どうする事も出来ない状況に、更に混乱が勢いを増す。
何もかもがスローモーションのように遅く見える。
風に揺れるカーテンも。
彼女の動く唇ですら。
一秒がとても長く感じられる中、彼女の口が、ゆっくりと開く。
「先に言ったように、貴方のメモリーを確認する為に、私達はここへ来ました」
「メ、モリー……? って、記憶?」
「イエス。私達は過去の資料に記録されている特定の人物を捜しています。捜していると言っても、まあ大体の見当を付けて来ていますが」
ーーこいつらはまだ、俺の本当の問いに答えていない。
「……お前らは……」
「人間ではない」
ピシャリと言い放った詩帆。
そして言葉は続く。
「……と。察しの良い方なら、というより、もはや並みの知能があれば分かる事ですね。貴方も、分かっているから聞いたのでしょう? そしてその後には『何故自分の下へ来たのか』と思ったでしょう? そしてその答えも、本当は既に出ているのでしょう?」
「……っ!」
容赦のない詩帆の言葉は更に勢いを増す。
「分かっていても、分かっているからこそ、信じたくないから。せめてもの希望を託して私に問うたのでしょう? 『そうではない。自分の思い込みだ』という答えが欲しくて。……けれど残念です。その願いは叶いません」
思考が……徐々に閉ざされていく……。
考えるという行為を、心が拒絶している。
「私言いましたよね? 『人間に情報を知られてはならない』と。『人間の前では《力》を使わない事が軍の最高規定だ』と。……もう、確信を持てたでしょう?」
ーーサイアクダ……コンナノ……。
「俺が……人間じゃないと、言いたいのか……?」
「いえいえ。正確にはまだ人間ですよ? けれど関係者です。それもとても関わりの深い、ね。だから会いに行って、《力》の一部を見せました、二度も。そして鏡の事も隊長が。軍の名前をも、内情すらも教えましたよね?」
ーーコンナヨソウ、アタラナクテイイノニ……。
「あ、言い忘れましたけど、私達は……というか軍の仲間の殆どは既に人間ではありませんよ。我々は自らの事を《コネクター》と呼んでいます」
「コネクター……?」
ーー自分がそれの、関係者……?
呆然と立ち尽くす秋透をしばらく見守っていた二人だったが、流石にもう我慢の限界だった。
今回詩帆が事前に秋透と接触した理由は二つ。
一つは確認の為。気配で、秋透が対象者かどうか確かめる為にだ。
二つ目は思い出させる為。秋透が対象者であった場合、特殊な《術》が掛けられている筈で、《力》を見せる事によって、自発的に《術》が解けてしまえば話は早く進んだのだ。……結局は失敗に終わったが。
しびれを切らした詩帆が、突如秋透との距離を縮めた。
「とりあえず。メモリーの確認が先ですね。ちょっと失礼しますよ」
「え? わっ、ちょっ!」
額に指を押し当てられ、何やら詩帆はブツブツと唱え始めた。
同時に、脳内にフラッシュバックのような映像が流れ出した。
ーーこれは……俺の記憶……?
どんどん遡っていく記憶。そして……。
ーー記憶が……途切れた……?
「見つけた」
ビクッ、と。思わず驚いてしまった。
強張る身体。
何故か震えが止まらない手足。
背筋を伝う寒気に、身の毛がよだつ。
何を『見つけた』のだろうか。分からない。何もかも。
「アタリか?」
次いで口を開いたのは隊長と呼ばれる男。
詩帆は秋透から離れると、男に向き直る。
「はい。十年前以前の記憶が抜け落ちています。間違いなく、一度奴等からの襲撃を受け、《呪傷(ジュショウ)》を受けています。また、軍の隠蔽処置も確認出来ました」
「じゃ、決まりだな。俺の記憶とも合致する」
淡々と話される、打ち合わせのような内容の会話を手早く済ませ、男と詩帆は再びこちらに向き直り、言葉を続ける。
「今のは軍に伝わる《秘術》の一種だ。対象の記憶を遡る為のものだ。お前にも見えたろ? んで、十年前以前の記憶がなかったのが、隠蔽処置を受けた紛れもない証拠だ」
「な、んで……」
「お前が《呪傷》を受けたからだ」
聞き慣れない単語。
聞くもの全てが未知だった。
「《呪傷》。文字通り呪いだ。お前は幼少の頃、一度奴等の呪いを受け、同時に耐えがたい苦痛と恐怖を味わった。それを鏡行禁忌軍の《術》で隠蔽したんだ。……だが、このままじゃお前をこの場に留まらせ続けるのは危険と判断された。だからお前を連れてくるよう指令が下りた」
ーー自分の知らない、自分の過去……。
「メモリーって……」
「記憶の情報だ。メモリーを読み取る事で対象の記憶、《術》の痕跡を辿る事が出来る。そしてお前のメモリーには《呪傷》・《隠蔽術》の痕跡があり、故に俺たちはお前を回収する」
頭の何処かで警鐘が鳴る。
この二人に付いていけば、もう、この場所には戻れないと……。
「……その呪いって……」
「ターゲットを逃さない為の印だ。何十年経っても消えない追跡用の印。その印を辿って、もうじき奴がお前を喰らいに来るぞ」
「喰らうって、何が……?」
「この世界と対になる、理の側の住人……貴方の片割れです」
秋透と男の会話に割り込んだのは、しばらく黙っていた詩帆であった。
「貴方に印が付いた経緯は……扉の先にいらっしゃるお母様にお聞きしましょう?」
ガタンッ、という大きな物音の後、ゆっくりと扉が開き、その先には女性が立っていた。
「母……さん?」
「秋透……」
重苦しい空気の中、母は男に向き直ると、ポツリと声を発した。
「お久しぶりですね、明峰さん……。十年ぶりですか……」
「ええ。波木さんもお元気そうで何よりです」
「……明峰さんは変わらないですね、何一つ……」
「当然ですね。我々はもう歳を取れませんから」
目の前で行われている会話が耳に入ってこない。
ーー母さんはこの男を知っているのか……?
「秋透」
「!」
停止していた秋透の思考を呼び戻したのは母親であった。
目を伏せ、申し訳なさそうに小さく縮こまる母の姿は、秋透の思考を更に混乱させた。
「こちら、明峰さんという方よ……。十年前、貴方を助けてくださったの……」
ーー今、何て……?
「そういえば挨拶がまだだったな。俺の名は明峰秀静(あけみねしゅうせい)。特務専行部隊の隊長を務めている。十年前、お前に隠蔽処置を施したのは俺だよ」
とんでもない事を口にする。
十年前に起きたという俺への《呪傷》。それを隠蔽したのが、この男。
「波木さん。約束通り、彼は我々で引き取らせていただきます。……彼への《隠蔽術》が解けかけているのは、もうお分かりですよね? 近頃の事態の原因は彼だと、分かっていない訳ではありますまい。それに、《術》が解けてしまえば、もう貴方ではどうにも出来ないでしょう?」
「……はい」
「ご理解いただき感謝します」
秀静による一方的な会話。いや、会話と呼べるものではない。母親に、拒否権は一切ないのだから。
そして秀静は満足げに頷くと、言葉を止めた。
しかし秀静の宣言の中で、秋透はある一言が気になった。
「近頃の、事態……?」
「最近の強風問題などについてです」
秋透の問いに答えたのは詩帆だった。
さも当然の如く言い連ねる様はとても冷酷で、無感情であるかのようだった。
表情もなく、淡々と言葉は続いていく。
「貴方もご友人からの写真を見ていたでしょう? あれは印が役に立たず、闇雲に貴方を捜している、貴方の片割れの仕業です。もう本当に乱暴な片割れですねぇ」
ーー最近の事故の原因が……『俺』……?
「まあ印が役に立たないのは、記憶隠蔽による副産物ですからね」
信じられない、信じたくないという想い。
同時に胸中でわき起こるもう一つの選択肢。
……苦渋の選択……。それでも答えはもう決まっている。
「おい、そこの…えっと……」
「詩帆。そう呼んでください。波木……秋透?」
「ああ。じゃあ詩帆。どうしたら止められる? その、片割れを」
その言葉に、詩帆は口元に笑みを浮かべた。
とても嬉しそうな、満足げな笑みを。
「私が言うのもなんですが……良いんですか? こちら側は、間違いなく危険ですよ?」
それは承知の上だ。
それでも、もうこれ以上被害が広がる前に何とかしたかった。その原因が自分なのだとしたら、尚更。
秋透は詩帆の問いに無言で頷いて返す。
それに詩帆も頷き、言う。
「我々は片割れの事を《キャスター》と呼んでいます。我々と共に来てください。《力》の得方を教えましょう」
「ああ。わかっ……」
「秋透っ‼」
突然大声を発したのは母であった。
目の周りを赤く腫らし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
小さな身体が小刻みに震え、両手を固く握りしめて、必死に……。
ーー必死に……何を堪えているのだろう……。
思い出せない、消された記憶。
唯一分かる事は、『消さなければならないような出来事が起きた』という事。
秋透の身に。……母親の身に。
そしてそれはきっと、秋透の父親がいない理由。何となく、そんな気がした。
「あっ、秋透……っ、行かないで……。戦わないで、あんなモノと……っ」
今日。詩帆と秀静が来るまで、そして母親が現れるまでは……知らなかった。
気が付かなかった。
毎日、一日も欠かさずに向けられ続けていた母の笑顔の裏に、こんなにも悲惨な素顔が隠されていたなどと……思いもしなかった。
向けられる、すがるような視線。
発せられる、涙混じりの、弱々しく、か細い声。
全てが強く、胸に突き刺さる。
「秋透…お願い……。貴方までいなくならないで…お願いだから……っ」
「……母さん、ごめん。……俺は行くよ」
そう言った時の母の表情は、まさに絶望という言葉がよく合っていた。
今まで育ててくれた事への感謝はもちろん存在する。
大切にしてくれていた事も。
愛してくれていた事も覚えている。
だからこそ、行くと決意したのだ。大切な人を守る為に。
「親不孝だって思ってくれていいよ。けど絶対に母さんの事忘れないから……」
『生きて必ず帰る』何て言えない。その約束は、きっと守れないから。
詩帆も秀静も言わなかったけど、何となく分かった。
二人とも、いや軍にいる人達は皆……命を懸けている、と。
そして、たとえ生き残れたとしても、二度と元の生活には戻れないという事も。
「……私のせいなのよ……私が、守ってあげられなかったから……」
「……今までありがとう、母さん。……さようなら」
「……行きましょう、明峰隊長。秋透も」
重苦しい空気。
一歩を踏み出す事さえ躊躇われる。
背後で泣き崩れる母の悲痛な声が耳に痛く届いていた。
ーーごめん、母さん。本当に……。
内心でそう呟いた後、パッと顔をあげて詩帆に向き直る。
待っていたかのように一度頷くと、扉に向かって歩き出した。
秋透もそれに、やや足早に後を追う。
……まるで母の泣き声を、一刻も早く消し去ろうとするかのように。
パタンと音を立てて閉じた扉を横目で見つめながら、一つ溜め息を漏らす。
居心地が悪そうな、ばつの悪い様子の詩帆を見遣り、出来るだけ穏やかを装いつつ声を発した。
「大丈夫だ。行こう」
「……秋透……」
それでもなお不安げな表情が消えない詩帆を他所に、懐中時計を手に、ぶっきらぼうな口調で言葉を発したのは秀静であった。
「天野宮、秋透。時間がない、行くぞ」
「えっ、行くって……鏡の中……?」
恐る恐る二人に問うと、詩帆から返ってきたのは意外な返答だった。
「最終的にはそうですが、少し外を行きます。新入軍予定である貴方は、まだ《力》を持たない。そして貴方のキャスターが既に近辺に潜伏しているとなると、奴等はこれを好機と見なし、一斉に貴方を殺しに来ます。そんな状況下で《鏡路(キョウロ)》を使うのは自殺行為です。探知されてしまいますから」
「殺しにって、何で……?」
もう何度も聞いている意味深な、そして理解しがたい言葉の数々。それらに慣れる事はない。
秋透の問いにはっきりと、そして厳しい答えを返したのは、やや苛立ち気味の秀静であった。
「『何で』じゃねぇよ。察しの悪いガキだな、本当。脳ミソ入ってんのか、その中」
『その中』と称して秀静が指差したのは秋透の頭部であった。
怒りをギリギリ抑え込み、言葉を返す。……つもりだったが、それより先に秀静の言葉が続いた。
「キャスター側からしたら対抗勢力である鏡行禁忌軍の戦力低下を狙うだろうが。奴等にしてみれば能力が未知数なお前も十分驚異になり得る。万が一お前が即戦力となる実力者であった場合、《力》を持つ前に潰そうとすんだろ。ただの雑魚だとしても群れれば何があるか知れない。だからそれでも潰しに来る。しかも無力な人間だと分かっているなら尚更そうだろう?」
間を開けずに詩帆が続きを述べる。
「事実、今現在もキャスター数体が我々の鏡界介入の痕跡を辿って追いかけてきているとの情報がありました。私達コネクターであっても、身体能力で奴等キャスターには敵いません。故に、貴方を守りながらの戦闘は極力回避したいのです。ですから頑張って逃げ切ります。貴方を消されるわけにはいきませんので」
その時、何処からともなく耳障りなスピーカーの掠れた音が響いた。
秀静は左耳に手を当て、誰に向けるでもなく話し出した。
「明峰だ。少し待て。音量上げねぇと聞こえない奴が一人いんだよ」
『ザザッーー明峰少佐? もう話しても構いませんか?』
「ああ、話せ」
『現在皆さんがいる地点から一キロ圏内にキャスターが五体接近しています。その内の一体がノーマル、他四体がアブノーマルだと予測されます。相手の数が多い上に、敵は全員武装済みであると断定出来ますし、こちらは人間を庇いながらですので、可能な限り戦闘は避けてください』
淡々と話される戦闘の話に、秋透は少なからず居心地の悪さを感じていた。
秀静は表情を変えず、静かに返す。
「危険は重々承知しているが、戦闘回避は難しそうだ。先に臨時拠点へと向かう。千名(せんな)、状況確認を逐一で頼む」
『承知致しました』
千名と呼ばれる女性と秀静の会話は聞こえていたが、同時に一つ引っ掛かる点があった。
「明峰…『少佐』? 『隊長』じゃなかったのか?」
「『隊長』はまあ、ニックネームですかね? 一応《特務専行部隊》の隊長を務めていらっしゃいますから。けれど、軍での正式な階級は『少佐』です」
「へぇ……」
我ながら緊張感のない会話をしていると思いながらも二人の後を追っていると、会話を終えた様子の秀静から声が掛かった。
「俺の階級なんぞどうでもいいだろうが。何天野宮までグダクダ馬鹿やってんだよ。聞こえたろ、走るぞ。お前も死にたくなけりゃ死ぬ気で走れ」
最後の言葉は秋透に向けられたものだ。眉間に皺を寄せながらも、口元にはからかうような微笑が浮かんでいる。
対して秋透は、
「……何かメチャクチャ言うな、この人……」
と言って落胆し、それに詩帆が、
「そういう人ですから、明峰隊長は」
などと秋透に同調した。
秀静は面倒臭そうに二人を睨み、
「あー、うるっさいっ、行くぞ」
と、言う。
秀静の言葉に、三人同時に走り出す。
見慣れた町の景色が嫌にくすんで見える。
後方へと過ぎ去っていく町並みを無感情に見渡していた秋透。言い様のない微妙な寂しさを押し込む為に、秋透はあえて別の事を考えていた。
ーー流石、と言うべきか。
たかだか平凡な中学生であった秋透よりも走る速さはもちろん速く、それでいて顔色一つ変えない上に、呼吸が荒くなっている様子は一切見て取れない。
軍人も伊達ではないようだ。
十分程走っただろうか。
家を出た周辺の風景とは一変している。
人の気配はまるでなく、木々は倒れ、道路には廃車かと思える程に傷付いた車。
建物の扉は吹き飛び、ガラスというガラスは全て砕け散り、壁面には所々ヒビが入っている。
まさにニュースや、羽矢から送られてきた写真通り、もしくはそれ以上のひどい有り様であった。
急に走る足を止めた秀静と詩帆。続いて秋透も足を止める。
黒ずんだひび割れだらけの高い建物はまるで……。
「廃ビル……?」
「そうだ」
秋透の言葉に短く返答すると、秀静は颯爽とビルの中へと入っていった。
内装は外装よりも酷い荒れようであった。
ガラスはそこかしこに飛び散り、玄関ホールであったと思しき空間には椅子やテーブル、置き時計などが全て壊れ、倒れている。
壁はひび割れ、剥がれ落ち、破れた紙類が足場がない程に散乱していた。
とても人間が働いていたとは思えない状況である。
無言のまま秀静の後を追い、秋透の後方を詩帆が音もなく歩き続け、丁度行き止まりになった所で再び足を止めた。
不意に秀静は振り返り、詩帆に向けて言葉を発した。
「天野宮。誰にもつけられてはいないな?」
「はい。異常ありません」
「そうか、なら良い。開けるぞ」
短い質疑応答を済ませ、背を向けた秀静は壁に設置されていた壊れたパネルを操作し始めた。
前方で何やら音が鳴ったと思うと、謎の機械音と共に壁が開いた。
唖然とする秋透を無視して真っ暗闇の部屋に進み入る秀静を慌てて追い掛け、部屋へ入ると、途端に頭上から激しい光に照らされた。
突然の出来事に驚きながらも、眩しさに目を細める秋透。
だが秀静と詩帆はさして意に介した風もなく、そのまま奥へと更に足を進めた。
蛍光灯の光に慣れ、大分先へ進んでいた二人に追い付くと、またも突然に何か得体の知れない物が前から投げて寄越された。
固く重い何かは、どうやらケースに入っているようだ。
古ぼけた黒塗りで鉄製の箱は異様に固く閉ざされており、やっとの思いで開けると、入っていた物は箱の大きさに比べてあまりに小さなものハンドガンであった。
「それがお前の仮装備だ。一応効くが、殺傷能力はかなり低い」
何やら厳つい武装準備をしながらとても適当な説明をした秀静の影からひょこりと現れた詩帆。その両手には一丁ずつハンドガンを提げている。
「これらの武器、対キャスター戦での使用者死傷率の高さは軍のお墨付きですから、これを信用するような浅はかな真似だけは絶対にしないで下さいね、秋透♪」
満面の笑みを浮かべる詩帆の姿と、不吉な発言が一致していない。
恐怖を煽ってくる詩帆の事はさておき、準備中の秀静に問う。
「明峰…さん。ここは……?」
「さっきも言ったろ。鏡行禁忌軍極東管轄部お抱えの臨時拠点、もとい隠れ家だ。各地にいくつも点在している上に、ジャンク武装ならある程度揃っている。非武装じゃあたとえ相手が非武装のノーマルキャスターであっても、ちと厳しい戦いになるからな。だから寄った」
「……ノーマルキャスターっていうのは?」
「こちら側の人間を喰ってない、通常のキャスターの事だ。俺達コネクターは自分のキャスターを《捕食》し、体内に飼っている。だから強力な《力》を得る。奴等も同様に、人間を喰らい、《憑依》する事で力を得るという仕組みだ。……お前にも近い内にキャスターを喰ってもらう」
《捕食》《憑依》《力》……。
聞き慣れない単語がまた増えた。
「……二つ目。何故その《力》とやらを使わない?」
「お前のキャスターを消しても良いならそうするが?」
ニヤッ、と悪魔のような笑みを浮かべて即答した秀静。そして次の瞬間から、場の空気が一気に張り詰めたものに変わった。
少しずつ風が強くなってきているのが分かる。
奴等が近付いてくるのが分かる。
「人間とキャスターは同一だ。キャスターが死ねば人間も死ぬ。万が一人間が先に殺された場合、キャスターは狂い、同族殺しを始め、すぐに消滅する」
「人間とキャスターは常に同化しているのですよ、秋透。どちらが欠けてもいけないのです」
その後詩帆から聞かされた話は、人類の常識からあまりにも逸していた。
内容はこうだ。
例えば生まれたばかりの赤子が半年で他界したとする。それはその赤子のキャスターが消滅したという事。
キャスターには基本、寿命は存在せず、またその人間と同時に誕生するものでもない。
たとえ半年の赤子のキャスターであったとしても、そのキャスターは百年間行き続けているなどという事はよくある。
また、キャスターと人間の容姿は同一であっても、容姿年齢は違う。
人間は大人の姿であり、キャスターは子供の姿。もしくはその逆。そういった事例が殆どなのだ。
実際、容姿年齢まで同じという事の方が稀なのである。
キャスターが消滅する原因は大きく分けて二つ。
一つは外部からの干渉。つまり誰かに殺された場合である。
二つ目は、精神がすり減っていった場合。
長い時を生きたキャスターは、自身の生への執着が極度に乏しくなっていく。
そういった過程の中で、キャスターが生を手放した時、消滅する。
そしてキャスターが消滅すれば、必然と対となる人間は死ぬ。
そういう理なのである。
故に、寿命のないキャスターを体内に宿す時、人間は不老となり、人間を超越したコネクターとなるのだという。
勿論、老いないというだけで、出欠多量や胴体真っ二つになれば絶命する。
コネクターの特徴は不老と超速再生。
しかし、死ぬ程の傷は回復が生命活動の停止に間に合わないのだという。
加えて、最低でも人間の三倍の身体能力を有する事だ。
「ちなみに、病気持ちや精神異常のある人間は、ほぼ百パーセントの確率で、当人のキャスターがあちら側で弱っている場合です」
「『あちら側』とは?」
「我々は《鏡界(きょうかい)》と呼んでいます。鏡の中の世界。こちら側の世界と対になる、いわば別世界ですね。私言いましたよね? 『鏡界介入の痕跡を辿って追い掛けてくる』と。私達は長距離の移動手段として、奴等の鏡界を出入りする能力を分析し、利用しているのです」
キャスターを傷付ける事はあっても、殺してはならない。
逆に、キャスターは人間を殺しに来る。
相反する理。
ーーこいつ等はそんな矛盾した争いを、もう何年してきているのだろうか。
そう、秋透は内心で思った。
そんな中、
「おい」
と、場の空気を一変させたのは秀静たった。
どうやら準備を終え、入り口付近で待ち伏せているらしい。
手にはハンドガンを二丁持ち、背にはショットガンと思しき銃器を提げている。
「来たぞ、構えろ」
一瞬で張り詰められた空気。
物音一つしない空間で、一際強く、速く鳴る心臓。
刹那、砂を踏むような擬音が耳に届いた。
音は二つ。交互に響き渡る、足音。
次第に大きくなる足音に、心臓は更に拍数を上げる。
視線を向けた先の入り口。その影にしゃがみこむ秀静が「こっちへ来い」と手招きしている。
指示に従い、近くの物陰にしゃがむと、小声で話始めた。
「一度しか言わねぇからよく聞け。俺の《夜王(やおう)》で感知している半径一キロ圏内にいるのは俺達三人と波木秋透のキャスターだけだ。俺が外に出て奴と戦り合うから、天野宮はこいつ守りながら援護しろ」
「了解しました。秋透、絶対に私から離れないで下さいね」
「おっ、おう」
手早く指示を出した秀静は最後に一言、言う。
「天野宮、万が一の時は《閃麗(せんれい)》の使用を許可する」
「了解。……万が一がないように努めます」
承知の意を示した詩帆だったが、後半に付け加えた言葉からは反対の考えが窺えた。
「あの、《夜王》とか《閃麗》って……何?」
「簡単に言えば《力》の名前ですね。我々コネクターの持つ《力》はその人物の心の在り方で武器の種類、形、色、特性や能力までそれぞれ違いますから」
どうやらコネクターは各自武器を所持しているらしい。
詩帆と秀静がその武器を持っていない理由は、《力》の実体化である《武器化》をしていないからだそうだ。
「ちなみに、あんなに銃を持っている明峰隊長ですが、なんと武器の《夜王》は日本刀ですよ。まあ隊長はオールマイティーですし、何を使っても強いですが」
にこやかにそう言う詩帆。そんな詩帆に向かって苦笑する秋透の背後から声が掛かる。
「グダクダやってねぇで行くぞ。カウント三秒だ」
カウントが始まる。
小声で数を言う秀静の声に、緊張感は一気に高まる。
そのせいか、たった三秒のカウントがやけに長く感じた。
……二……一……。
カウントゼロと同時に三人共一斉に建物の外へと飛び出した。
ようやく書き終えました〈第一章〉。
如何でしたか?
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巫ホタル