麻帆良に現れた聖杯の少女の物語   作:蒼猫 ささら

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第19話―――暗雲晴れて

 

 

 

 麻帆良の魔法関係者が震撼し、慌ただしさが未だ抜けないその翌日。

 

 

 この日は前日と打って変わって快晴であった。

 空は透き通った青い色を見せ、白い雲も眩しく輝く太陽も眼を覚ました時分から見えていた。

 いや、昨日も早朝から夕刻に差し掛かる前まではこのように太陽の輝く姿が空に在り、黒々とした暗雲が頭上を覆ったのは日が傾き、沈み切る前の一時だけだった。

 だというのにこうして太陽の照らす光に目を細め、青々とした天幕を見るのを久しく感じるのは何故なのか?

 

「ふう…」

 

 ネギは溜息を零し、そんな取りとめの無い事を頭の隅でボンヤリと考えていた。

 ただしその胸の内と頭の思考の大部分は、この晴れ渡った空とは異なり、未だ灰色の雲に覆われているようであったが。

 

 ネギは視界を空から下ろして足を進め、自身が住まう寮から離れる。そうして暫く歩き……ふと視線を正面から外し、左へ動かしてそれを見詰めた。

 地味な色合いのつなぎを着込み、頭に黄色い作業用のヘルメットをかぶった人達が道路の片隅に停車した複数の中型トラックの荷台から、小型のショベルやらブルドーザーなどの作業機械を降ろしている。

 その如何にも工事業者だと云わんばかりの人々が居るのは、ネギが住まう寮の近くにある公園の前だ。

 ネギは、大きく声を張り上げて忙しそうに動き回る作業員達から目を逸らし、公園の方へ視界を移す。

 立ち入り禁止のロープが張られ、工事中と書かれた看板やフェンスなどで出入り口が塞がれた園内は一見するといつもと変わりは無い。

 しかしネギは知っている。昨日の事件を終え、皆を連れて帰宅するその途中で見掛けた。その場所が無残なクレーターと化していたのを。

 

「……」

 

 ネギは立ち止まって公園を凝視した。

 視界は相変わらず何時もの平凡な公園の姿を映してはいるが、同時に薄っすらと陽炎のようにソレが揺らめき、平凡な公園の姿を“被った”荒れ地やらクレーターのある光景が霊的な視覚で捉えられていた。

 

 そう、今この場所には幻影魔法による迷彩が施され、人払いの結界で一般を立ち入れないようにし、事件の痕跡が明るみにならないように隠されていた。

 当分、この状態は続くだろう。自分達のような魔法使い以外の人々には改装工事と伝えられ、業者に扮した魔法使い達によって隠蔽を兼ねた修繕……というか、新たな公園が築かれるのだ。

 恐らく同様に戦闘の被害があったというこの近辺や、ネギ達が戦った学祭ステージなども似たような作業が行われている筈だ。

 

(昨日の事件での……爪痕)

 

 幻影で隠された惨状を見、内心でそう呟くと胸中を覆う雲がより澱んだ気がした。

 

 

 

 やがてネギは繁華街に辿り着き。目的地である元喫茶店―――イリヤの工房の前に立った。

 平日であるこの日、まだお昼前であるこの時間帯。本来ならばネギは教壇に立って教鞭を振るわなくてはならない筈なのだが、今朝早くに学園長直々に休むように連絡を受け、代わりにイリヤの下を訪ねるように言われたのだ。

 昨日の今日という事もあり、自分を休ませる意図は判らなくも無いネギであるが、中間テストを来週に控えている事もあり、仮にも教師である彼としては休むのは抵抗があった。しかし近右衛門は頑なに応じず、しかも上司として命じられては頷く事しか出来ない。

 

(でも…それで休むのは良いとして、どうしてイリヤの所に……なんだろう?)

 

 ネギは、疑問に首を傾げつつも目の前にあるドアを押し開いて、工房内へと足を踏み入れた。

 

 

 カランカランと鳴り響く鐘の音を耳にしながら見た内装は、明日菜の誕生日を祝った頃と変わらない―――カウンターの上やその向こうにも食器の類や調理器具などが見えない事からも―――閉店し閑散とした喫茶店そのものだった。

 だが同時に、

 

「いらっしゃいませ、ネギ様。お待ちしておりました」

 

 と、給仕に見えるメイド服を着込んだ女性の姿があり、挨拶して来るのを見るとまるで営業中の喫茶店のようにも思えた。

 

「……ど、どうも」

 

 ネギは数秒掛けて彼女をまじまじと観察してしまい。挨拶を返すのが遅れてしまった。

 モノトーン配色の衣服とこのメイド―――“人形”の持つ独特の静かな気配が、黒を基調とした仄暗い店内の雰囲気にとても合っていた為だ。その光景を思わず目で楽しんでしまったのだ。それに魔法人形そのものへの好奇心も少なからずあった。

 ネギはそんな不躾な自分にバツを悪く感じたが、メイドの彼女は気にした様子は無く。短く「…此方へ」と告げてネギを先導する。

 そしてネギが案内されたのは、嘗てこの工房を訪れた見習い二人組がイリヤと対面した所と同じ応接室だった。

 

「―――…」

 

 応接という人を招く場所の為か、部屋にある調度品はどれも見栄えが良く、そして格式の高そうな物で飾られていた。実用品以外にも美術品…絵画や彫刻や陶磁器に金細工などもあるが、代物が良いのか、それとも配置がそう計算されているのか、不思議と成金めいた嫌味で下品な感じは受けなかった。

 以前、家庭訪問―――という口実で元気付け―――に訪れたあやかの邸宅の一室にも劣らない…いや、それ以上の風格があるように思えた。

 だが、そう思えたのは何もそれら調度品や美術品の所為だけでは無い。何よりもこの場には浮世離れした美貌と凛とした品格を持つ、お姫様然とした麗しい少女が居るためだ。

 

「おはよう、ネギ」

 

 そんな部屋を彩る美術品の一つのように美しい白い少女の口から、竪琴の音色にも劣らない綺麗な声が奏でられ―――

 

「!―――お、おはよう、イリヤ」

 

 雰囲気に飲まれ、イリヤを見詰めたまま惚けていた意識を戻してネギは挨拶に応えた。

 しかし先程のメイドとは違い。イリヤはネギの様子がおかしかったのを見逃してはくれなかった。

 

「どうしたのネギ?」

「え、あ、いや…べ、別にどうもしてないよ」

 

 ネギは思わず誤魔化してしまう。

 正直に今のイリヤに見惚れてしまったとは、自分でもどうしてか判らず、何故か言えなかった。

 これまでも彼女の姿を見ているのに学校や街中では無く、この場―――まるでお城の一室とも思わせる格調の高い雰囲気の中に在るイリヤが……それも見慣れた制服では無く。薄い桜色のロングドレスを纏っているもあって、とても様に成っていて綺麗だと感じたのだ。

 

(と…いけない。いけない)

 

 改めてそう思い。意識した為かネギは頬が熱くなるのを自覚して、気を落ち着けるために深呼吸する。

 何がいけないのかも、それも判らないままに。

 

 ちなみに彼には本当に分からない事ではあるが……元の世界で由緒正しい貴族のお姫様であったイリヤは、その記憶を取り戻した事と、さらにエヴァ邸を離れた事で。この私邸とも呼べる工房内で身に付ける衣服が以前の……つまり、アインツベルンで暮らしていた頃の趣向を反映した物―――いわば庶民的な感覚から逸脱した上流階級の人間が普段身に付ける物と成っていた。

 その為、今イリヤが当然の如く着ているドレスも一流ブランドによる一品もの…オーダーメイドの高級品であったりする。ネギが今のイリヤにお姫様然とした雰囲気を覚え、様に成ると感じるのも無理は無いだろう。

 貴族に恥じない気品と風格を持つイリヤとっては、これがごく当たり前であり、自然な姿なのだから。

 尤もネギが見惚れたのは、それら貴族的…或いはお姫様然とした品格の所為だけでは無いのだろうが。

 

 閑話休題。

 イリヤは続けて見せるネギの挙動不審な様子をやはりおかしく思ってはいたようだが、それほど気に掛ける必要も無いとも思ったらしく。彼の様子を見るのも程々にして部屋で待機しているメイドに飲み物を頼んだ。

 生粋の英国人であるネギの事を考えたのか、紅茶が用意され、時間帯もお昼前(イレブンジィズ)という事もあり、お茶請けにはビスケットやクラッカー類が選ばれた。

 イリヤの対面に席を着き、メイドが入れる紅茶の甘い香りが鼻腔をくすぐらせると、ネギは平静を取り戻す事が出来た―――のだが…程無くして用が済んだ為かメイドが退出し、そう広くも無い空間にイリヤと二人きりと成ってしまい。何処となく落ち着かない空気が自分を包み込んだようにネギは感じていた。

 

「ん…―――ふう」

 

 その空気を払うように砂糖の他、ミルクを注いで薄茶色に変化した紅茶を啜って……何とか一息吐くと、ネギは尋ねた。

 

「それでイリヤ。今日は何か僕に用事が在るの? 学園長からは、休みを取って午前中は君の所を尋ねるように言われただけなんだけど…」

「……ん、そうね」

 

 イリヤもまたネギと同じくミルクティーとし、カップの中身を啜っていたがネギの質問にカップから口を離してそれに答えようとした。

 

「取り敢えずは―――」

 

 イリヤは唐突に対面からネギの方へ身を乗り出し、彼の顔へ手を伸ばし―――

 

「あ」

 

 覚えのある感覚にネギは声を零す。

 以前にも感じた身体を柔らかく包み込む温かさ……『治癒』を掛けられているのを理解する。

 

「……思ったとおり今のコノカじゃあ、傷は癒せても内面に掛かった身体の負荷までは直し切れないようね」

 

 魔力の暴走(オーバードライブ)で掛かった肉体の負荷。体表は当然として内部からも“見難い”ソレをイリヤは鋭く察知したようで見逃さず癒して行く。

 身体を包み込んだ温かさがネギの内部へ浸透し、魔力や気が巡らせる為の“経路”をイリヤの魔法が優しく撫でるかのように辿り、痛み傷付いた箇所が塞がれて行くのをネギは感じていた。

 

「ふう、これで良し…っと」

「…ありがとう、イリヤ」

 

 治癒が終わるなり、イリヤは以前と同様の言葉を告げて自分の顔から手を離し、ネギはお礼を言う……が、ふと思い出した。

 あの時、イリヤはこの工房の仕事で蓄積した疲労を隠していた。では今日はどうなのだろう? ネギは昨日の事件もあってそう思った。

 イリヤは見習いの自分とは違い。元部外者でありながら学園長からの信任も厚く、工房を構える事もあって既に正規の職員…或いはそれ以上の立場に置かれている。当然、昨日の事件の事後処理に関わって忙しくしている筈だ。それに酷い怪我を負っていたらしい事もある。

 だからネギは尋ねた。

 

「イリヤ、もしかして疲れてない?」

 

 そう言い、注意深く目の前に居る少女が無理をしていないかその顔を窺った。

 視線を受けたイリヤもまた以前のことからネギが心配する理由を察したのだろう。

 

「いえ、大丈夫よ。確かに疲れはあるけど、心配するほどでは無いわ」

 

 そう、気にする程ではないと笑顔でイリヤは言い。続けて「ありがとうネギ」と気に掛けてくれた事にお礼を口にした。

 ネギはそれでも少し心配ではあったが、彼女が言う通り顔色は悪くなく、疲労もそれほど無いように見えたので取り敢えず納得する。

 そして気を取り直すかのように互いに紅茶を啜り、カップを空にするとイリヤが本題を切り出した。

 

「それじゃあ、今日ここへ来て貰った理由だけど。ネギ、貴方と話をしたかった……というか、話をすべきだと思ったからよ」

「話を?」

「ええ、けれど正直、貴方にとっては余計な事だと、触れて欲しく無い事だと思えるから、私としても言い難く…また訊ね難くはあるんだけど……」

 

 イリヤは躊躇するように眉を顰めるも真剣な表情でネギを見詰め、若干間を置いてから言葉の続きを口にした。

 

「今回の事件は、貴方の過去に深く関わる物があった。そして偶然にもアスナを始め、私もその過去を見、鮮明に記憶したばかりだったわ」

「…」

「だからと言って貴方の気持ちが判る訳では無い。判るなんて簡単に言える事じゃない。けど、その胸の内に抱いた複雑な心境はある程度は察せる。だから、ネギ―――」

 

 それは彼女の言う通り、余計なお世話で余り触れて欲しく無い事……そう言う気持ちがあったのも事実だ。けれど―――イリヤは言った。言ってくれた。

 多分、心の何処かでそう誰かが優しく口にしてくれるのを願っていた事を。

 

「―――言いたい事があるなら聞いて上げる。その胸に吐き出したい思いがあるなら口に出して欲しい。貴方が……自分が今苦しいんだって見てあげられて、受け止めてあげる為にも」

 

 そう、自分が…ネギ・スプリングフィールドという10歳の子供には、余りにも不相応に心へ圧し掛かった重石から―――例え一時であろうと―――解放される、楽にしてくれる言葉を白い少女が掛けてくれた。

 同年代だとはとても思えない、大人びた優しい笑顔を見せて。

 

「あ、」

 

 それは唐突な事であり、言葉だった―――だが、だからこそネギはそれを受け入れられたのかも知れない。

 前もってこういう話をされると判っていたら、この場には来なかったかも知れないから。或いは少女の言葉を頑なに…そして、やんわりと拒絶していただろう。

 

 ―――大丈夫ですから。僕は平気です。

 

 と、本心からでは無い。見せ掛けだけの取り繕った笑顔を作って誤魔化し、心配してくれる相手を安心させようとするのだ。

 だけど、今この時はそんな自分がとても嫌らしく、卑怯な気がした。

 だって結局はそれだって、“逃げている”事に変わりないのだ。

 あの悪魔が言ったようにあの雪の日から―――そして、こうして自分に弱音を吐けるように優しく声を掛けてくれたイリヤからも。

 ああ、だから―――

 

「―――い、イリヤ……僕は、ぼくは………逃げていたんだ」

 

 正直に思った事を口にしていた。

 彼女の優しい言葉を聞いた途端―――眼が熱く熱くてしょうがなく。胸が苦しくてどうしようもないから、それを振り絞りだして楽に成りたくて、泣き叫んだ。

 

「あの雪の日から、村が得体の知れない化け物達に襲われて、それが自分の身勝手な願いの所為なんじゃないかって思って、そう思う事で。……でもそれだって伯父さんが…スタンお爺ちゃんが……アーニャのお父さん達が石にされて! 沢山の村の人達が死んでいった訳が判らなかった出来事を、自分なりに判り易い形にしたかっただけな気もして! だから、だから……」

 

 縋った。

 夢に見た父の姿。怖くもあったけど、姉が言ったようにピンチの時に現れて自分とその姉を助けてくれたヒーロー。“偉大なる魔法使い(マギステル・マギ)”の姿に。

 あの白く降り積もった雪の日…赤い絶望に覆われた世界(なか)で見た、大きな背中とその怖いくらいの強さに憧れ、死んだという彼が……絶望の中で見たその希望がまだ何処かに居るであろうと信じて、それを探す為に……或いはその希望が確かに存在していたのを確認する為に自分も彼と同じ“偉大なる魔法使い”を目指し、勉学に打ち込んで魔法学校を卒業し、麻帆良での試練を……教師として頑張った。

 

「―――そう、頑張った。父さんに会いたいって! あの人のような偉大な魔法使いに成る為だって! あの時に見た希望は確かにあったんだって証明したくて頑張ったんだ!!……けど、あのヘルマンっていう悪魔(ひと)の言う通り…それは逃げていただけだった。僕はただあの日の事が怖かっただけなんだって…! 魔法使いになる為の勉強も…! 強く成る為の修行も…! あの雪の日の出来事から目を逸らしたくてッ! 魔法が上手く使えて強く成りさえすれば! もうあんな怖い日の出来事に怯えて震える必要は無くなるって思っていたからなんだッ!!」

 

 そうきっと―――父に会いたいという想いも、その父のように成るという目標も、父が死んだという事実を覆すという願いも、皆偽りの看板でしかなく。本心はただ自分の身を襲った恐怖から…その体験から逃れたいだけ。

 目を合わせず、向き合う事も無く、ただただ我武者羅に振り返る事も疎らに、前へ前へと暗闇の中を自分でも定か(ほんしん)では無い、不明瞭な灯り(もくひょう)を掲げて朦朧と歩いていただけだ。

 いや―――…一つだけ確かな目標が在る。自分でも気付いていなかった……否、それも違う。本当は分かっていた。それは……。

 

「……でも、それだけじゃないんだ。僕は逃げて、敢えて目を逸らしていたのは…イリヤ、僕はあの時、ヘルマンっていうヒトを許せなくて、仇だって思って本気で―――」

 

 その言葉をネギは心底悔いて血を吐くような思いで吐き出した。

 

「―――殺そうとしたんだ!」

 

 湧き出る衝動に、膨れ上がる憎悪に身と心を任せ、明確な殺意を持って暴力を振るったという事実に―――そんな自分にネギは恐怖していた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 両手で顔を覆い、テーブルへ伏すかのように頭を俯かせ、身体を震わせるネギを見詰めてイリヤは思う。

 やはり彼の中に在る傷は深いのだろう……と。

 今更思うまでも無い事ではあるが、それでも改めて考えてしまう。

 

 平穏な日々の中を突如襲った悲劇。

 自分の住む村が赤く燃え盛り、建物という建物が焼け落ちる中をさ迷い歩き。見知った人々が変わり果てた姿で倒れ伏した凄惨な光景を目にし、それでもお世話に成っている伯父や幼馴染の家族…そして大好きな姉の無事を確かめたく勇気を振り絞って歩いた。

 しかしその先で待っていたのは石にされた伯父を始めとした村人達と得体の知れない化け物の群れ。

 ……逃げ出し、九死に一生を得たのも束の間。心休まる筈は無く。さらに悲劇は続き、自分を守ろうと老人と姉が犠牲と成って老人は石と化し、姉は足を失った。

 だが、それでも姉共々ネギは助かった。

 

 けれど―――

 

(村は焼け落ち、村民の殆どが犠牲と成り、救助までに―――三日間…か)

 

 イリヤは昨日、事後処理に伴う忙しさの合間を縫って近右衛門とネギに関する話をしていた。別荘で見た彼の過去とヘルマンの事件があったからだ。

 その折、例の事件でネギの救助された直後の様子が語られていた。

 近右衛門にしても当然人伝から聞いた話なのだが、それによると―――救助された時のネギは酷く衰弱しており、憔悴の極みに達していたらしく、その顔はまるで死人のようであったとの事だった。

 当然と言えば当然な話だろう。

 命は助かったとはいえ、故郷は炎に飲まれ、村人の殆どが犠牲と成ったのを目にし…その上、三日間もの時間を4、5歳程度の幼い子供が足を失って動けなくなった姉と二人きりで過ごしたのだ。しかもまだ春先の寒空の下で。

 勿論、最低限の暖を確保する為に村の近辺にあった猟師小屋へ何とか移動したらしいが、心を落ち着ける事は出来なかった筈だ。

 襲い来る空腹と喉の渇き、何時また現われるやも知れない悪魔たちへの恐怖。恐怖から犠牲に成った村と人々の姿が脳裏に呼び起され。優しく頼りになる筈の姉も満足に動けない状態。

 寒さは姉と身を寄せ合って凌げたかもしれないが、飢えと渇き…そして恐怖から満足な睡眠は取れず。同様であろう姉の健気な励ましも果たしてどれほど届いたか。

 いや…或いは、足を失いながらも健気に振る舞うそんな姉の姿が、却ってネギの不安と恐怖を余計に煽ったのかも知れない。

 

 原作でも昨日別荘で見た記録(ゆめ)でもネギは見せなかった事だが、それは少し考えれば容易に想像が付く事だった。

 尤もこれらはイリヤの勝手な想像に過ぎない。その自覚もあるが、しかし―――飢えと渇きにそして恐怖に見舞われたネギが心を押し潰されそうになり、ネカネが懸命にそれらに抗いながらも弟を健気に励ました、などというのは……彼と彼の姉の性格や、その状況下での心理状態を思うに然程違いは無いと思えた。

 

(本当…惨いわね)

 

 平穏を壊され、故郷を失い、見知った人々と親しい人達も喪い。さらにその絶望と恐怖を抱えた極限状態で短くも無い時間を孤立した状況で過ごした二人。

 命は助かっても、その心に負った傷は一体どれだけの物なのか……察するに余りある。

 

(けれど……こう言うのもなんだけど、傷は負うだけで済んで心が“死なず”に済んだのは―――ネギが“希望”と言った通り、そうなのだろう)

 

 何時また襲い来るかも知れない恐怖に抗い。脳裏に刻まれた絶望的な光景に呑まれずその三日間を耐えられたのは、自分達を救ってくれた父の姿があったからだ。

 

(それがネギの心を支えた)

 

 原作でもそれらしい描写はあった。

 クルトに己が傷であるその事件の映像も見せられ、真相を知って心を追い詰められ、闇魔法を暴走させても飲まれずに済んだのは―――その希望が…光として焼き付いていた為。

 

(―――でも、それでもネギの負った傷を拭い去ることは出来ないんだろう。そう、幾ら希望を見出してもあの事件…ネギに絶望をもたらした悲劇そのものが覆る訳でも、消える訳でも無いのだから)

 

 イリヤは内心で一人語ると、ネギに気付かれないように小さく溜息を吐いた。

 今の思った言葉にふと覚えがあり、友人と成った彼の生徒の一人…白い翼を持つ少女の事が脳裏に浮かんで、ネギと重なったからだ。

 これも刹那が抱える物と同様、癒えない傷なのかしらね、と。こういったトラウマとも呼ばれる心の深い傷…心的外傷を抱えるヒトは皆共通した苦しみを持っているのかも知れないとも感じながら。

 また更に言えば、刹那がこちらの世界で生きる中で己と他者の“違い”を見せつけられ、傷の深さが増したのと同じく。ネギのもまた傷がより深く、闇がより濃くなる性質の悪い物だ。

 今回のヘルマンの件に原作のクルトの例もそうだが、ネギはこれから先、あの事件に纏わる真実と現実を叩き付けられて行く。原作と同様に…或いはそれ以上に過酷な形で。そしてその度にこの少年の心に巣食う傷と闇は、痛み黒さを増して行くのだろう。

 だがしかし、そんなネギに対してイリヤが出来るのは、こうして話を聞く事ぐらいだ。

 そうやって彼の中に在る闇を理解しつつ、傷に溜まった膿を吐き出させ、彼自身にそれらと向き合える精神的な余裕を持たせる事。そして自らの抱える闇の深さを自覚させると同時に内にある光も確認させ、その輝きが決して闇に飲まれぬように消えないように強くしなくては成らない。

 自分や明日菜達といった周囲の存在が、深まる闇に対抗出来るように内にある光をより強く輝かせる糧と成れるように。

 

(けど、もしネギがより闇が深くなると自覚して、それでも“ソレ”を望むのなら―――)

 

 

 

 ◇

 

 

 

「ネギは、あの悪魔の事が憎くて恨んでいるのね」

「―――っ!」

 

 ネギは、そのイリヤの言葉に肩を大きく震わせて俯かせていた顔を跳ねるようにして上げた。

 一瞬、その事に…ヘルマンへ殺意を向けた事を、負の感情に飲まれた事を責められるのかと思い。辛い叱責を受けるのか、或いは軽蔑されるかと怯えたネギであるがイリヤは優しい笑顔を浮かべたままだった。

 怯えが表情に出ていたのか、イリヤはネギの内心を察したようで首を横に振る。

 

「私は別にそれが悪い事だと思っても無いし、咎める積りも無い。むしろその過去を思えば当然だと、正当な権利だと考えているわ」

「正当…? イリヤはこれが…こんな醜い感情が、僕があのヘルマンっていうヒトを殺そうとした事を正しいと思ってるの!?」

 

 ネギは、意外なイリヤの言葉に愕然として尋ねる。

 

「ええ、貴方は故郷を失い…いえ、奪われて親しい人達を傷つけられ、亡くした。ならそれを行なった者達を赦せない、憎いと感じるのは人として真面な感情だから」

「―――で、でも」

「そうね。それを醜悪だと、過ちだという考えも間違いでは無いと思う」

 

 ネギは判らなかった。

 憎くて誰かを赦せない、殺したいと思う程の黒い感情が正しいと言われ。それを醜くおぞましい、許されない事だと思うのも間違いでは無い…とも言われて困惑した。

 そんな困惑するネギの様子に構わずイリヤは言葉を続ける。

 

「ネギ、判っているとは思うけど、それでも聞いておくわ。貴方は今、あの悪魔を手に掛けようとした事に恐れを感じ、そんな事は許されないと思っている。―――けど、なら貴方は本当にそれだけで彼がした事を、村に人を、貴方の姉を、そして貴方を見守ってくれていたスタンというお爺さんを手に掛けた事を赦せるの? 憎む事も止めて、恨みにも思わずに彼の犯した罪を水に流せるの?」

「そ、それは―――」

「貴方は、自分にそれが出来ると思っているの?」

「――――――」

 

 ネギは困惑した頭の中で考える。

 あのヘルマンという悪魔は、ただ召喚されただけで彼個人の意思で村を襲った訳では無い。今回の事件でもそうだし、皆を直接傷付ける真似はしていない。

 だからああして戦いはしたけど、悪いヒトには思えなかった。しかし、

 

(―――本当に?)

 

 そうも思った。

 関係の無い那波さんを巻き込んで、躊躇いも無く自分を石にしようとしたのに? 村を襲った事や村の人達を手に掛けて石にした事にも全く罪悪感を抱いていない様子だったのに?

 そう、ただ分かった気に成って、碌に知りもしない相手なのに、本当は悪いヒトじゃないと、どうしてそう思える?

 

(―――っ! …そっか。僕はまた目を逸らそうと、逃げようとしているんだ。適当に分かった風な言い訳をして、憎もうと殺そうと思った自分が怖く過ちだと感じて)

 

 唐突にネギは理解した。

 憎悪を抱いてヘルマンに殺意を覚えて本気で手に掛けようとした事を認めていながらも、それでも自分は否定したかったのだと。

 手を汚そうとした事を、罪深い行為に奔った自分を、そうさせる自分の中に在る恐ろしい負の感情を何とかして振り払いたい、無くしたいと愚かにも思ってしまったのだ。

 こんな黒くて醜いものが自分の中に在る事が耐えられなくて。

 

「―――イリヤの言う通りだ。僕はあのヒトの事を赦せないと思うし、今もとても憎い。幾ら召喚されて命じられただけなんだとしても、あのヒトが…あの悪魔達が村を襲って沢山の人を手に掛けたのは事実なんだから……だから、仇を討ちたい。皆の無念を晴らしたい……ううん、それも違うか、自分の恨みを晴らしたいんだ」

 

 つまりは復讐。

 判っていた事だった。それが自分の中で…あの雪の日から芽生えた最も大きな願望(もくひょう)であり、決して否定できない感情だ。

 その為に血を滲むような、いや…吐くような思いまでして身に余る“あの呪文”を覚えたのだから。

 

「……」

「あ、でもだからって―――」

 

 不思議と落ち着いて告げられたことに内心で驚いていたが、頷くイリヤを見てネギは慌てて言葉を続けようし、それを遮ってイリヤは言う。

 

「―――判っているわよ。それが正しいとも思えない…でしょう」

「うん、復讐を果たしたいとは間違いなく思ってはいるんだけど、やっぱりそれではいけない、怖いって忌避感もあるんだ」

 

 そう、ヘルマンに手を掛けようとした事が過ちで、憎しみは囚われてはいけない感情だという考えその物は変わらない。

 先回りされて言われてしまった事にネギはバツが悪く感じながらも首肯した。この十年に成るかならないか程度の幼い価値観や倫理的な側面からそう考えてしまう訳だが……それ以上にそうなれば自分は取り返しの付かない事に成ると何となく判るからだ。

 ネギの言葉を聞いたイリヤは微笑む。

 

「ネギらしいわね」

 

 と、やれやれと言った感じで僅かに肩を竦めて。

 しかし肩を竦めるのもソコソコにイリヤは、優しげな笑みを浮かべつつも真剣な目でネギを見詰めて尋ねる。

 

「それじゃあネギ、貴方はあの日から逃げる為だと言い。心の奥底で復讐を願ってこれまで努力して来た訳になるけど。ならそれもまた本当に過ちだと、間違いだと思っているの? 貴方がその努力のお蔭でこの麻帆良を訪れてから成して来た事もただの逃避であって……本当に無意味だったと思うの?」

「―――ううん」

 

 ネギは、今度は即答出来た。

 イリヤに向けて胸の中に降り積もった物が吐き出せたお蔭なのか、尋ねられて脳裏に過ったこれまでの日々を直ぐに纏められ、結論が出せた。

 

「―――確かに逃げていただけなのかも知れない。でも間違いなんかじゃ無いし、決して無意味じゃないと思う。そのお蔭で僕はこの麻帆良で、京都で皆の力に成れたんだから。それにそんな思いでいたら僕の為に仮契約してくれた明日菜さんや刹那さんに木乃香さん、それに巻き込んでしまったのどかさんや夕映さん達。弟子にしてくれた師匠(マスター)…エヴァンジェリンさんや(クー)老師にも失望され……ううん、きっとそれ以上に怒られ、呆れられてしまうだろうから」

 

 そう告げてネギはイリヤを見詰め返す。

 話を聞いてくれた感謝を込め。イリヤにも失望されないようにこれからも変わらず頑張るのだと決意して。

 イリヤもその思いを理解したのだろう。彼女はネギの答えに満足したのか、飛びっきりの笑顔を見せて言った。

 

「うん、そうよ。例え復讐心から手にしたのだとしても、例えそれが自分を誤魔化す為に掲げた願いだったとしても……ネギ、それは誰かの為に成る確かな力で、そしてそれを支え育んだ確かな意思よ。だからこれからも頑張って」

 

 それは先程から見せていた何処か大人びていた優しげな笑顔では無く。外見相応な無邪気で、明るくまるで太陽を思わせる朗らかな笑みで―――ネギは心を覆っていた暗雲を吹き払われ、陽光が差し込んだかのような暖かな感じを覚えていた。

 

 ―――何故か高まった心臓の鼓動が大きく耳を打つのを聞きながら。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 ネギに笑顔を向けながらイリヤは内心でホッと安堵の息を吐いていた。

 

(ネギはやっぱり、“ソレ”を―――復讐を選ばないか)

 

 いや、単に真実を知らず、至っていない所為なのかも知れないが……それでも安堵したのは確かだ。

 仮にソレを選んでも協力する気は変わらなかっただろうが、この少年が安易にその道を選ぼうとする素振りを見せなかったのは率直に喜ぶべき事だった。

 

(それを選べば、きっとネギは傷をより深くするだけ……憎悪そのものは消えても、代わりにネギの心に根付くのは罪悪感……負の感情を向ける対象が“誰か”では無く、己自身と成るだけで胸の中に在る闇も晴れることは無い。根が真面目で人が良すぎるくらいに優しいこの子のことだから…多分そう成る。先程見せたように憎しみに駆られるままに誰かを手に掛けたことを罪に思い、きっと生涯に亘って苦しみ続ける)

 

 それが判るからイリヤはネギが復讐心を認めつつも、ソレにのめり込まない姿勢を見せた事に顔を綻ばせたのだ。

 尤も半ば煽るような物言いこそしてしまったが、それはネギが自分の胸の深奥に在るものと確りと向き合い、受け止めて欲しかったからだ。

 しかし一方で、先にも言った通りイリヤは復讐を否定していない。そこにある怒りも憎しみも…そしてその対象に抱く殺意さえもだ。例えソレが過ちで不毛だと、意味の無い空しい行為だと他人が…いや、明日菜や木乃香などの親しい誰か、或いはネギ本人が言ったとしてもイリヤは決してその考えを変える事は無いだろう。

 何故なら、そもそもイリヤは一般的な道徳や倫理、価値観を理解は出来てもそれを必ずしも尊重する必要は無いと認識しているからだ。

 自身の矜持に反しない限り、彼女は必要なら平然とそれを犯す。それが最も罪深いとされる殺人であろうとだ。イリヤの育った環境が―――魔術師的な価値観がそう彼女の在りようを形成していた。

 

(魔術師なんて者は碌で無しの集まりだ…とはよく言ったものよね。ま、今更なんだけど)

 

 そう己の在り方の異質さを改めて理解し呆れてしまう。その事を自覚してもそれを変えようと毛の先程も思わない事を含めて。

 ただそんな自身の在りようの他にもう一つ復讐を肯定する訳が在った。

 それは復讐は必要な行為だという考えだ。

 これも空しいだとか無意味だとか、復讐を否定するときに使われるようなありきたりの言葉ではあるが―――結局の所、それを果たさなければ憎しみが晴れず、それを抱えた人間は何時までもそれに囚われてしまい。過去を乗り越えられないからだ。

 勿論、全てがその限りではないだろうが、それを抱えた大半の人はそうだろう。人間はそれほど強くも無いし簡単に割り切れる生き物では無い。特にネギのような凄惨で重いモノであればあるほど、それを割り切って振り切るのは難しい。

 だからネギは復讐を果たすべきだともイリヤは思っている。それに―――

 

(―――ネギの持つ事情を思えばそうせざるを得ない訳だし…)

 

 とある深刻な事情からイリヤはそう内心で呟く。

 しかしだからといってそれは直接的な手段である必要は無い。

 今はまだネギには言えない事ではあるが、あの事件を引き起こしたのはMM元老院の一部―――といっても大多数を占める主流派―――勢力だ。

 仮にも為政者であり、権力者である以上難しい手段ではあるとは思うが……つまり法を持って彼等を裁くのだ。

 況してやネギ自身の存在とその秘める価値が彼等を追い詰める手札に成り得るという事もある。法という正当な手段をもってネギが元老院を糾弾し、弾劾し、裁きの場に立たせる。

 それがネギに纏わる禍根を断て、ネギの復讐心も晴らせる最良の手段だろう。原作のクルトを真似る積もりは無いのだが、

 

(それでも私は惜しむつもりは無い。何れ事実に行き付き、ネギが望めば…いえ、望まなくとも―――)

 

 そこまで思考を巡らせ―――イリヤは首を横に振った。

 まだ気が早いと感じたのだ。ネギがその答えを知るのはまだ当分先なのだから。にしても―――

 

(―――ネギには悪い事をしているわね。事実を…あの事件の真相と彼の仇を識っているのに私は黙っているんだから……これも今更か)

 

 思わずため息が漏れそうになった。

 復讐そのものに関してどうこうよりも、むしろその事に対してイリヤは罪悪感を覚えた。それに、

 

(昨日も学園長と話している時に思ったけど。漫画…原作という絵空事とはいえ、仮にも未来を知っているというのに……迂闊に明かせず活かし切れないというのは―――)

 

 それが傲慢なのだとしても……歯痒くあり、また―――もっと自分は上手く出来たのではないかと、或いは出来るのではないかと、エヴァや近右衛門にだけでもこの所謂“原作知識”なるそれを明かして置けば、このヘルマンの襲来も……とイリヤは思ってしまう。

 己やアイリというイレギュラーは既に在るものの、原作からのそれ以上の乖離を恐れ、ネギの成長に関わる事だとも考え、今回の事件が起こるのを土壇場まで“見過ごした結果”からイリヤは、そう後悔を抱き、以前からあったジレンマが大きくなっていた。

 

(……覚悟していた筈なのにね)

 

 自嘲するかのようにイリヤは胸の内で呟いた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 紅茶に続いて昼食…イリヤ手製のオムライスを御馳走に成り、食事を終えるとネギは早々に工房を後にする事にした。

 長い時間お邪魔するのは、事後処理が片付いていない現状から良くないだろう思ったのもあるが、それと昼食時の歓談もそうだったが、話し込むとどうしても昨日の事件の関する事に及んでしまい。恐らく話せない事もあるのかイリヤは難しげな表情で口籠りがちになり、また自分も―――事件への関心とは別に―――楽しく思えず、歓談とは程遠い雰囲気に成るからだ。

 ただイリヤの方は、可能な限り応じようとそれはそれで構わないという様子だったが……弱音と胸の奥に積み重なった重石を吐き出させて貰ったばかりな事もあって、今はこれ以上彼女の厚意に甘えるのは心苦しかった。

 

「その…今日は本当にありがとうイリヤ」

「さっきからそればっかりね、私は貴方の話を聞いただけで、お礼を言われるような事はしていないっていうのに…」

 

 玄関というか喫茶店であった工房の表に出ると、ネギは見送りの為に同行して来たイリヤにお礼を言い。お礼の言葉を受けた彼女は少し困ったように苦笑した。

 イリヤの言う通りネギはもう何度もありがとう、とお礼を口にしているからだ。

 苦笑を浮かべるイリヤにネギは更に言う。

 

「それでも僕はやっぱり嬉しかったから」

 

 と。照れたように後頭部に掻くような仕草をし、微かに顔を俯かせ、若干頬を赤くしてネギは嬉しそうな笑みを浮かべた。

 すると俯かせた頭にポンッと軽く暖かい物が置かれた。

 

「まあ、良いわ。それでネギ…貴方の気分が晴れたなら私も嬉しいし、話をした甲斐があったと喜べるしね」

 

 感触に思わず目線を上げるとイリヤはそう言い。今日幾度目かの優しげな笑みを見せて、その笑顔に合わせるかのように優しく自分の頭を撫でた。

 以前の南の島で自分の相談に乗って慰めてくれた時と同じ感触にネギは、その時と同じくされるがままその暖かく優しい感触を堪能した。

 ただ―――

 

(イリヤにして見れば、やっぱり僕はまだまだで……子供なんだな)

 

 そう、微かにささくれ立った気持ちと共にそんな言葉が内心で零れていた。

 

 

 

 イリヤに見送られて工房を後にしたネギは、その足で麻帆良でも最も大きい教会―――関東魔法協会本部の方へ向かった。

 昨日の事件に関する報告や事情聴取を受ける為だ。

 数十分程して武蔵麻帆良へと差し掛かり、最大で70mもの高さを持つこの一帯で一際大きく目立つ、白い件の建物が見えて来ると、

 

「ネギ!」

 

 自分を呼ぶ声が後ろ方から聞こえた。

 覚えのある声に振り向き、ネギは予想通りの人物を視界に捉えた。

 

「あ、明日菜さん」

 

 何時もながらの見事な健脚を持って此方の方へ駆けて来る年上の少女にネギは手を振る。

 その間にも彼女は瞬く間に距離を詰めてネギの傍で足を止めた。今歩くこの歩道の長さと彼女の足の速さ、そして声を掛けたタイミングを思うと恐らく50m近くをほぼ全力で駆けた筈なのだが、明日菜は息一つ乱していなかった。

 そんな明日菜にネギは少し感心しつつ、隣を歩き始めた彼女に声を掛けた。

 

「明日菜さんも今からなんですか?」

 

 それは明日菜も昨日の事件について事情聴取を受ける事を意味していた。

 元々一般人であり、自分が巻き込む形で此方に関わらせたことを思うと、それはネギとしては正直眉を顰めたいことではあったが、元という言葉が付くように彼女は既に一般人とは言い難く、一応協会も認めた此方側の関係者だ。

 明日菜にしてもそれなりに覚悟を固め。ネギの処罰が下った後に協会から魔法社会に関わる説明が成されて意を決した以上、こうして生じる義務や責任にネギが口出しできる筈も無い。

 だからネギは未練がましく湧き出る不甲斐無い感情を抑えて尋ねていた。

 明日菜はそんなネギの内心に気付く様子は無く、普段通りに答える。

 

「うん。アンタもそうなんでしょ?」

 

 そう、大して気にしたようでも無く。だがネギが「はい」と頷くと、彼女は少し顰め面を見せて。

 

「しかし、めんどくさい話よね。こうして事情聴取やら報告やら…しかもその後にも報告書とやらも出さないといけないなんて」

 

 授業も休まなきゃ行けなくなったし、もうじきテストもあるのに…とも言いながら明日菜は溜息を零してそう話した。

 そんな明日菜にネギは先程の感情もあってか思わず恐縮して謝る。

 

「す、すみません」

 

 しかし、頭を下げるネギに対して明日菜は首を傾げた。

 

「何であんたが謝るのよ…? って…ああ、別にそういう意味じゃないわよ。ただの愚痴よ、愚痴」

 

 彼女は一瞬不思議そうにしたが、直ぐにネギが感じる必要も無い責任感を覚えているのを理解し、やや呆れながら言葉を続ける。

 

「まったく、らしいっていえばそうなんだろうけど。アンタが責任を感じる必要は無いの。何度も言うけど私はもうトコトン付き合うって決めたんだから、自分の意思でね」

「あ、ハイ。すみません」

 

 ネギは睨まれるように強く見据えられてまたも謝ってしまった。明日菜を侮辱したと今更ながらに思ったからだ。

 明日菜は、懲りずに謝罪を口にするネギに、そこは「判りました」と答えるかただ頷くだけで良いのよ、と言い。それにもまた頭を下げたネギにやはり呆れるも、それ以上はネギに強く言わなかった。

 ただしネギの耳には聞こえない程度で「まったくコイツは…まあ、これはこれでコイツの良い所でもあるんだろうけど、でもこれじゃあ、気軽にさっきのように愚痴やら冗談も言えないわねぇ」とブツブツと呟いていたが。

 聞こえないにしてもその姿を見、呆れているのが判ったネギは反省する。

 

(本当、いい加減にしないと。明日菜さん自身が決めて、僕だってそれを受け入れようって納得したんだから)

 

 南の島で突き付けられた失態とそこで明日菜が告げた言葉。それらを考えて自分の過去も見せ、そして危険があるに関わらず協力してくれると言ってくれた事を思い出し、ネギは未だに悩み迷いを抱える自分を叱咤した。

 それに昨日もあのような目に遭ったというのに、全く臆した素振りを見せないこともある。

 

(いや、それは僕が麻帆良(ここ)へ来た頃からずっと…かな。ほんとスゴイな明日菜さんは)

 

 エヴァとの対決に京都での事件のことも思い出してネギは感嘆し、明日菜の持つ精神的な強さに改めて尊敬を覚えた。同時にそんな彼女に対して水を指すように変に気を回して何時も怒らせ、呆れさせる自分が情けなく思った。

 そうしてまたウジウジと悩んでいたのが顔に出ていたのだろう。ネギの沈んだ表情を見た明日菜が尋ねる。しかし何を勘違い…或いは思い違いをしたのかそれは意外な言葉だった。

 

「……ねえ、もしかしてやっぱり嫌なんじゃない?」

「え?」

「昨日の事件の事を聞かれるのが」

 

 突然の言葉に何の事か判らずキョトンとするネギに、明日菜が続けて言った事はネギにとって本当に意外な言葉だった。

 

「えっと、確かにその…辛い事はありましたから、色々と事情を聞かれるのが怖いって感じもありますけど、そんな嫌って程じゃないですよ」

「へ? そ、そう…」

 

 キョトンとした様子に加え、平然と答えるネギに今度は明日菜が面を喰らったようで意外そうな顔を作った。

 

「で、でもネギ、アンタは今朝もなんか元気無さそうだったし、掛かってきた電話で事情聴取を受けるって聞いた時も辛そうにして無かった?」

「え、あ…それは……気付いていたんですか?」

 

 落ち込んでいたのを気付かれていた事にネギは驚きつつも恥ずかしさを覚え、声をやや尻つぼみにしながらもネギは明日菜の顔を窺う。

 それに明日菜は、何故か顔を赤くしてネギの視線から顔を逸らして言う。

 

「!―――う、そ、そりゃあ、私はアンタのパートナーなんだし、相方を気に掛けるのは…と、当然でしょ! 一応言って置くけど、ミニ…なんとかっていう魔法使いのパートナーとしてであってそれ以上の他意は無いから、そこは勘違いしないでよね!」

 

 本当にネギにとっては何故か判らないが捲くし立てる様に彼女は言った。

 ネギは「は、はあ」と明日菜の様子に訳が分からず、とにかく頷いて気に掛けてくれた事に「ありがとうございます」ととりあえずお礼を言って置いた。

 そのお礼に明日菜はまたも顔を逸らして表情をさらに赤くさせたが、咳払いを一つするとネギに視線を戻した。

 

「コホン…そ、それでアンタ、ホントに平気なの?」

「あ、ハイ。言われた通り今朝は落ち込んではいましたけど、もう大丈夫です」

「ふーん―――」

 

 ネギの返事に明日菜はジッとネギの顔を見詰め、

 

「―――そっか、なら良かったわ」

 

 そう言って、納得したのか彼女は頷いた。

 

「正直、心配だったからさ。昨日の今日で事情聴取だとか言ってアンタの過去に関わる……なんていうか色々な事を尋ねるなんて」

「そうですね。僕もホントの事を言うと少し…いえ、とても不安でした」

 

 明日菜の言葉にネギは素直に同意する。

 彼女の言う通り、事情聴取を行う旨を告げられてネギは不安で一杯だったのだ。あの雪の日に絡んだ昨日の事件のことを尋ねられ、自分は取り乱さずに平静でいられるのか自信が無く。無理だと思っていたから。

 

「やっぱり、そうよね」

「はい、でもイリヤが―――」

 

 うんうん、と頷く明日菜にネギは不安を取り除いてくれたイリヤとの事を口にしようとし―――

 

「ああ、イリヤちゃんの所に行くように言われたんだったわね」

「……」

「ん? どうしたの?」

 

 ―――気付いた。

 そうか、その為でもあったんだ、と。

 学園長が気を回してくれたのかも知れない。けど多分…違う、きっと彼女がそう気遣ってくれたのだろう。

 ネギはそう思った。自分の過去を、記憶を見て、いや……皆に見せた事で自分に精神的な負担が掛かったのを察していて、その負担が消える間も無く発生した事件で自分が大きなショックを受けたのも、それが判ったから事情聴取が行われる前にイリヤは―――

 

「ネギ…!」

「!?―――あ」

「どうしたのよネギ、急にボーっとしちゃって…もしかしてやっぱり―――」

「あ、大丈夫です。ちょっと急に思い付いたことがあって、つい考え込んでしまっただけですから」

 

 心配げに問い詰める明日菜にネギは慌ててそう答えて誤魔化した。

 明日菜はそれでも少し不審そうだったが、ネギが直ぐに笑顔を見せた為、大丈夫なのだろうと感じたらしく追及はしなかった。

 

「それよりも先を急ぎましょう。聴取にどれだけ時間が掛かるか判りません。もしかしたら日が暮れる前に帰れなくなるかも知れませんから」

 

 そう言って元気よく足早に道を歩きだしたのもある。明日菜は首を傾げながらも黙ってネギの後に続いた。

 ネギはそんな明日菜の様子に気付く事無く。教会に続く道を歩いた。

 

 ―――ありがとう、イリヤ。

 

 そう、自分を胸の中の澱みと重石を取り除いてくれた少女の陽光のような笑顔を思い浮かべ、改めて深く感謝して。

 

 

 

 ◇

 

 

 

「ふう…」

 

 工房にある私室でイリヤは溜息を吐いた。

 昨夜はほぼ完徹であった為、少し仮眠を取ろうとベッドに転がったのだが、そこに置きっ放しにしていた書類があった所為で、つい手に取ってまた目を通してしまったのだ。

 それは昨日も見た筈の中途報告書だ。今回の事件で出た被害に付いて主に纏められて記されている。

 

「出来ればネギに知らせたくないわね」

 

 そう思う。

 それでもそう間を置く事も無く、彼も知る事に成るだろう。

 一応、今日話をして此度の事件で疼いた傷の痛みは一時にしろ、鎮静できたとは思う。溜まった膿も吐き出せたし、心の深奥にある闇の深さも灯った光も自覚させられたとも思う。

 けど……事件を引き起こした一端が自分にあると感じている彼がこれを知ったらどう思うか。

 

「……不安ね」

 

 正式な発表は四日後……調査が一段落ついた頃とされているから少なくとも今日は大丈夫だろう。協会も判っている筈だ。無暗にネギを動揺させることは無いと。

 勿論、彼に限らず高音、愛衣の見習いを含め、明日菜や夕映達にも事情聴取が行われる今日明日に通達はされない。

 

「まあ、結局は先延ばしで何の解決にも成らないんだけど…」

 

 イリヤは憂鬱げにそう呟いた。

 この結果がどう後に…ネギ達に影響を及ぼすのか?

 イリヤはそれを考える度に“万全を尽くさなかった己”に対して悔いが大きくなるのを感じて――――目を閉じた。

 今は眠ろうと、寝不足気味の頭で考えても碌な事に成らないと……半ば逃避気味に―――逃げようなんていう積もりも無いし、目を逸らす積りも無いけど、と。

 頭の隅でそんな無意味な思考をしながらイリヤは眠りに付いた。

 

 

 眠りに付き、イリヤの手から書類が零れ落ちる。ベッドの上と床へ散乱した数枚の書類。そのうちの一枚…彼女の目を通した個所にはこう書かれている。

 

 ―――重傷者18名…の内、意識不明のまま昏睡状態であるのが5名。更にその内、回復の見込みが無いのが3名。

 ―――戦闘最中に於ける殉職者7名。重傷を負い治療が間に合わず殉職した者が2名。

 

 と。

 

 

 麻帆良を覆っていた暗雲は確かに晴れ、陽光が差し込んだ。

 しかし強く降り注いだ雨水は深く地に染み込み、乾き切らず、空を漂う雲の行き先も未だ定かでは無かった。

 

 




 精神科医イリヤな話。
 原作では事件後、五月が少し担った所をイリヤが思いっ切り踏み込んだ感じになってます。
 お姉ちゃんな所も全面に出ている感じです。


 尤もそのイリヤ自身は、事件のことで色々と思い悩んでいるのですが…。


 次回は幕間です。久しぶりにアイリの出番です。以前の時と同様、事件の舞台裏が描かれます。

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