エヴァンジェリンに憑依した人の日記   作:作者さん

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同日に幾つか投稿しているので、二章初めから読んでいただけると助かります。


5/人形

 薄暗いテントの中で眠る一つの影が在った。大人と言うにはまだ若いその少女は、毛布にくるまって夢の中にいた。すやすやと眠るその寝顔は穏やかで、野外と言う場所で眠ることにも慣れているようだ。

 テントの入口が開く。白い髪の少年はその少女の様子に眉を顰め、声をかけた。

 

「時間です、主よ」

 

「……んん~? 時間?」

 

「……ああ、その通りじゃ」

 

 帰ってきた声はまだどこか夢の中にる。一応、自分の主の人格が出ていると考えていたはずの少年、フィリウスは、帰ってきたもう一人の方の人格である『彼女』の言葉に、額に青筋を立てた。外で食事の準備やその他諸々のことを行っていたにもかかわらず、気持ちよさそうに眠る『彼女』に少しだけイラッと来たのだろう。

 

「いいや、なんか疲れてるし、眠いし」

 

 しかしフィリウスの言葉を無視して、光がまぶしいと言わんばかりに毛布を引っ張って潜り込む。ピシィ! という何かが切れる様な音をフィリウスは聞いて、『彼女』の眠る毛布へと近寄った。

 ふん、という掛け声と同時に、テーブルクロス引きのように毛布を引っ張る。安眠のための道具を取られてしまった『彼女』は、外の涼しい外気に体を震わせると、目を擦って半開きで少年を見る。

 

「なにするのゼクト、ひどい」

 

「ふん、おぬしの方なら問題ないわ。食事を作ったから早く食べんか」

 

「……なんだかゼクト、最近冷たい」

 

「冷たくはしておらん。対応が少し雑になっただけじゃ」

 

「む……ゼクト、優しくない。ま、いいか」

 

 テントから出たフィリウスは肩をすくめる。そんな後姿を見ながら、『彼女』は気伸びをしてその背中を追いかけた。

 

――――――

 

 そこは紛争が絶え間なく起きていた場所であった。部族間の争いもそう、国家間としても資源が豊富なその土地は、自分たちの領土であると主張し続けている。そして、その付近の住民たちは小競り合いを行っていた。酷い時は魔法での戦いになることや、住民の住む住宅などに直接魔法を撃ち、打たれることも珍しくは無い。

 『彼女』はそんな地域を渡り歩いていた。『創造主』の行おうとした目的にも沿っており、下手に抗う必要もないという理由もあった。『創造主』の使徒であるフィリウスは、混乱のおきている地にて、魂を狩っていた。それが彼の創造主からの使命であり、力を出し切れない彼女を護るのもフィリウスの役目であった。

 

 創造主が力を使えない理由として、『彼女』という存在が在った。

 魔法世界のとある村に住んでいた『彼女』は村の住民から、カグラという名前で呼ばれていた。無表情ではあったがその保護者である者達からはその違いも分かり、農作業の手伝いや家事などしながら暮らしていた。余所から来たカグラにもその住民は暖かく、穏やかな日々が其処に在った。もしかしたらずっとそこで暮らし、旦那様を見つけて、ささやかながらも幸せに暮らすことができたかもしれない。

 だが、気が付けば少女の中に創造主という存在が居た。魔法世界のある王家との繋がりは無いに等しいカグラであったが、その王家に宿る血統に出現する特性があった。だからこそ、創造主の器たる資格が在ったのだろう。

 彼女は本来そこで消滅するはずの自我が存在していた。だからこそ創造主の行動を阻害することができるのだろう。

 気が付けば、彼女が住んでいた村は消滅していた。隣の家に住んでいた気さくな老人も、広場で遊んでいた子供も、自分を保護してくれた夫妻も。そこに如何なる理由が在ったのかはわからない。創造主を宿していることを知った、キャメロン・クロフトによってカグラは保護、正しくは監禁と呼ばれる状態に置かれたのだ。

 

 そして、フィリウスと言う少年と出会った。

 

 

「ん、これで大丈夫。気を付けて帰って」

 

「ありがとう! おねーちゃん!」

 

 魔法による簡単な傷の処置と、頭に清潔な包帯を巻いた少女を、『彼女』――カグラは見送ると、ほっと一息ついた。最後まで治療の痛みに泣かなかったその少女は、遠くで待っていた母親の元へと走って行ってしまった。

 災禍が子供たちにも広がり、そのすこし離れた場所では多くの人たちの呻く声が聞こえてくる。比較的軽い者の治療を行っていたカグラは、少女の後姿を見送りながら自分の手で肩を揉んだ。

 クロフトが死んでからフィリウスとカグラは、放浪の旅と言えるものを行っていた。拠点と呼べるものも本当はあるのだろう。しかし、その場所の地点へと創造主が行こうとすれば、その肉体の持ち主であるカグラはそれを阻害した。まだ体の主導権と言う意味ではカグラの方が強かったのだ。

 フィリウスは造られたばかりの人形であり、予め入れられていた知識と人格があっても、カグラと創造主が同じ肉体に居るという状態に混乱していた。なし崩しに旅に同行しなければならないのは、カグラに命令されたものであるが、創造主の言葉でもあると捉えて従っていた。

 カグラは遠くで大人たちが何か話しているのが耳に入る。戦いに出た人数よりも、帰ってきた人数と死体の数を合わせた数の方が少ない。多少の誤差なら分かるが、その差が大きい、という内容だった。そしてその話の内容に、カグラは顔をしかめた。その理由が何故か、カグラは知っていたからだ。

 

「……まだそんなことをしておったのか」

 

「ゼクト……」

 

 そこには肩に背負うように鍵を模した杖を持ったフィリウスが、怪訝な様子でカグラへと呟いた。

 混乱している地へ訪れたフィリウスは、創造主からの命令で魔法世界の住民の魂を狩っていた。リライトによってその魂は世界に還元され、創造主の行おうとしている儀式の糧となっていた。

 

「今日も、行って来たの?」

 

「それが主の命令じゃ」

 

「……そっか」

 

 フィリウスの言葉にカグラは思わず顔を伏せた。命令だから、それならカグラのいう事も一応は聞いてくれるフィリウスならば、自分がいう事でその行為を止めるだろう。だが、それでは意味が無いのだ。

 自分がずっと創造主という存在に抗い続けることができるとは思っていない。気が付けばカグラとしての意識を失っていることも多く、その感覚はだんだんと早くなってきていた。そして、頭の中で時折カグラへと話しかけていた。あきらめろ、と。

 

「さっきはね、五歳ぐらいの子供が頭に怪我をしていてね、だから私が治療してた」

 

「……ふむ」

 

「きっと痛かったと思う。だけどその子は我慢して泣かなかった」

 

「そうか」

 

「最後にありがとうって、お礼を言われたんだ。子供って、あんなに笑えるんだね」

 

 独白のように、カグラはフィリウスへと語りかける。いろいろな人の笑顔や怒り、苦しみなどを一つ一つ、いつものようにカグラはその日あったことを、思い出したように語る。遠くで聞こえていた家族を失った者の悲しみや、相手に大切な人を殺された人の怒り。そしてカグラが治療を行った者からの感謝や喜びなど、そこにある感情は様々だった。

 

「……」

 

 対して、フィリウスの反応は冷ややかな物であった。黙って聞いているが、その話の内容を理解することができないのだ。魔法世界の住民が持っている様々な感情、それは人形の上に重ねられた幻想であり、それになんの価値を感じればいいと言うのだろうか。

 カグラはフィリウスへとこうして語りかけることを日常としていた。フィリウスに感情が存在しないわけではない。フィリウスは自分の事を人形と言うが、カグラと共に居る時には薄くはあるが喜怒哀楽を示している。

だからカグラには分からない。そもそも人形と人間を隔てるのはなんなのか。誰かに造られた存在を人形と呼ぶのなら、それは全ての者に該当する。その区分けの仕方に人も人形も差は存在していないはずだ。

 感情を示すものに、価値が無いものなんてない。其処に在る者に、意味が無いなんてものはない。それをカグラは、フィリウスに知ってほしかった。

 

「……それで、だからどうしたと言うのじゃ?」

 

 だが、それはフィリウスには届かない。若干ではあるが苛立ちのこもった声で、フィリウスは返した。

 

「自分の思い人の名を呟きながら、足を失い横たわる者もおった。拷問を行われ、悲鳴を出すだけの人形になった者もおった」

 

 吐き捨てるように、フィリウスはカグラへと言う。真っ直ぐと射抜くような視線に、カグラは思わず目を逸らした。フィリウスは目を伏せて、今日あったことを思い出しながら語る。

 それはフィリウスが戦場で見てきたことの一端だった。それら全てをフィリウスは、ただ何も感じる事も無く、己の使命を行うだけであった。

 

「全て意味など無い。奴らに在ったのは苦痛だけじゃ。一刻も早く消してやるのが慈悲ではないか。そして、感情などというモノに左右される必要もない」

 

 フィリウスは自分が何を行っているのか分かっている。分かっていてもその行為が何を意味しているのかは理解していなかった。

 それはフィリウスが一番初めに得た世界の意味であり、創造主に与えられたそれは彼の根源となって存在している。『魔法世界の者はどう在らねばならないのか。そしてその使徒たる自分はどう在らねばならないのか』。

 

「おぬしが言った者達も同じよ。我が主によって造られた彼らには、等しく救済される義務がある。ワシは彼らを、彼らの魂の解放を行わなければ――」

 

 その先をフィリウスが口にすることは無かった。カグラはフィリウスを自分の胸へと抱き寄せ、無理やりその先の言葉を途切れさせたのだ。

 突然の事で目を白黒させたのはフィリウスであった。痛いぐらいに抱きしめられていることに驚きもあり、同時になぜそんなことをしているのかと、首をかしげることしかできなかった。

 

 

「ごめん。ごめんね、ゼクト」

 

 

 カグラは分かっている。きっとゼクトは自分の行っている意味を理解していない。口にしている事の中身を分かっていない。自分がどれほど残虐で、どれだけ多くの者達の思いを消してしまったのかを知らないのだ。其処に在る自我も口調も長く生きた老人のものだ。だが、本質は何も知らない子供と同じだったのだ。

 だけど、それを自分が止めることはできない。自分も感情には疎いと理解しているから、自分が出会った者達のように伝えることができない。だからこそ、フィリウスにそんな残酷なことを言わせてしまっている。

 こんなにも、自分は無力だ。

 創造主と言う存在を抑えることはできない。カグラと言う自我がなくなれば、創造主を止める者は誰も居なくなるだろう。それを理解しているから、フィリウスという存在に賭けるしかなかった。魔法世界の英雄譚に出てくる人物、その英雄の名からとったその名前をつけたのも、そうであって欲しいと言うカグラのエゴに過ぎない。

 なのに、彼へと責任を押し付けることしか、カグラには創造主を止める術が分からなかった。

 

「……なにを泣いておる」

 

 ゼクトには理解できない。涙とは悲しい時に流すものだ。今の話のどこに、カグラと関係のあるものが在ったのか。

 

「私には、なにもできない」

 

 ほんの少し前、大切な人たちを失ったときもそうだった。それをただ見ていることだけしかできず、今も他人任せにするしかない。自分には全てを打ち壊して突き進む力も、世界を救うための知も持ってはいない。

 温もりを知らないその人に、ただ自分の熱を残すことしか、自分にできることは分からなかった。

 

「……意味が分からんぞ」

 

 表情を変えず、フィリウスは呟く。なぜカグラが抱きしめているのか、何に対して彼女が泣いているのか、フィリウス/ゼクトには分からなかった。

 ただ、暖かい。カグラの温もりは確かにゼクトへと届いており、それはゼクトにとっては確かに意味のあるものだった。そしてゼクトは、カグラのその表情を、『見たくはない』と確かに思った。

 

 

―――――

 

 

 朝早く、まだ日も登っていない時刻に、カグラはフィリウスの眠るテントへと訪れる。静かに寝息を立てるその姿は少年そのもので、普段の老人のような口調が出るとは想像がしにくい。

 あれから何度もフィリウスへと伝えようとした。創造主が行っていることの意味を、その手で消している存在がどんなものであるのかを。それでも、変えることはできなかった。

 フィリウスとカグラが共にいた時間は、ほんの2年程度だろう。それでもフィリウスの根源にある創造主の示した思想は、拭う事は出来なかった。そして、カグラが創造主と言う存在を抑えるのも限界だったのだ。

 

「……」

 

 知識は創造主の持っていた物だ。しかしその憑代とされている身体の持ち主である自分ならば、フィリウスと言う存在自体を変質させることも可能だろう。

 そうすれば、創造主がフィリウスへと埋め込んだ強迫観念も消し去ることができるかもしれない。手を翳し、呪文を唱える。ゆっくりとフィリウスの身体の中に沈んだ腕は、創造主の人形である存在の持つ核という物に触れた。それを変質させてしまえば、きっと創造主のもたらした根源の思想も無くなるだろう。

 

 仕方のないことだ。そうしなければ魔法世界は無くなってしまう。自分がそれをやらなければ、創造主を止める者は誰も居なくなってしまう。

 

「……やっぱり、できない」

 

 それは、行ってはいけない。自分は神ではない。今更カグラがフィリウスと言う存在を、ただの道具のように扱う事は出来なかった。

 旅をし続けたなかでカグラの中でフィリウスと言う存在は、変わっていた。初めは自分を守る騎士でもあり、未来の創造主(じぶん)を貫く英雄であって欲しかった。そうなって欲しかった。だが、それに気が付くのは本人でなければならない。その結果をどう歩むのか、それを決める権利はカグラには無い。

 

『なぜ、止めた?』

 

 黒いフードをかぶった人間の影が、カグラの前に訪れる。

 それは幻影だ。創造主と言う存在がカグラへと見せているだけのものであり、実際にはそこに何も存在していない。

 頭痛がカグラに襲い掛かる。それは創造主がその体を乗っ取ろうとしていることの前振りであり、そのたびにカグラは自分の意識を振り絞ってそれに抗った。

 

『貴様の思う通り、私の施した調整を再度変えれば、フィリウスは貴様に従うだろう。なぜ行わない?』

 

 事実、フィリウスと言う人形はそういうモノだ。与えられた身体、与えられた人格、与えられた使命。それは創造主たる存在の調整一つで変わる。今のカグラになら、操り人形の主と成ることは可能であった。

 

「私は、彼に人形になってほしかったんじゃない」

 

 ただ、自分の行っていることが分からないその少年が、哀れで悲しくて。それは同情だったのだろう。感情の薄い自分と、どこかフィリウスを重ねていた。だからこそ、人に成って欲しかった。

 それに、この世界を終わらせてはならない。

 

『貴様はどうしてそこまでして、この世界の住民を護ろうとする?』

 

 創造主には分からない。なんのためにカグラという少女は抗おうとしているのか。カグラと言う存在が消え去ることを怯えるのなら、完全なる世界へと送りその魂を救おう。

 この身体がなくなれば確かに暫く創造主は世界へと表れない。しかしそれは、カグラという少女も死ぬことを意味するだろう。ならば本当の意味で彼女への救済とは、創造主の行おうとしていることだ。

 尤も、カグラが自分で自分を殺そうとするのなら、創造主はそれを全力で妨害するのだが。彼女が死ぬとしたら、それは他殺以外ではありえない。

 

「……貴女が、人を知らないから」

 

 そうカグラは創造主へと答える。

 2500年にわたって人を見続けてきた創造主に、この少女は何を言っているのか。それともただ、創造主が本当に人間と言う存在の本質を理解していないのか。

 カグラは自分が元々持っていた、魔法世界の王家の力を振り絞り、創造主を無理やり自分の中へと押し込んだ。そうして今一度、フィリウスを見下ろした。

 その少年はいったい何人の人たちを救済/滅ぼしてきたのだろう。そしてその意味を知った時、少年は何を抱くのだろうか。そのとき傍にいるのはきっと自分ではない。抱くことさえないのかもしれない。

 

「ゼクト、起きて」

 

 体をゆすり、フィリウスが起きるのを待つ。ぱっと目を開いたフィリウスは身体を起こすと、黒いローブの姿になっているカグラを見て目を丸くした。それは自分の主である創造主が出てきている時に纏っている者であり、カグラが纏っているとは思わなかったのだ。

 

「どうしたのじゃ。……いえ、何の御用ですか主よ」

 

「私の方だよ。ゼクト、聞いて」

 

 畏まろうとするフィリウスを無視して、カグラは言葉を続ける。

 カグラには二つ案が在った。一つはフィリウスと言う存在を自らの人形として思想を刷り込ませ、この身体を滅ぼす方法。そしてもう一つが、自分の知っているとある少女に賭けることだった。

 

「エヴァンジェリン・A・K・マグダウェル。彼女を探して連れてきて」

 

「エヴァンジェリン? ……クロフトを滅ぼした真祖の吸血鬼を? どうしてそんな者を……」

 

 フィリウスの疑問は尤もだ。フィリウスにとってその存在は、クロフトが執着していた存在である、ということしか知らない。だが、カグラから見れば違った。創造主とエヴァンジェリンと言う存在は少なからず繋がりがある。そして、その生き方についてもなんとなくであるが、カグラは『理解することができた』。あわよくば、この身を滅ぼしてくれるかもしれない。

 クロフトが彼女に着いてしきりに語っていたことも理由の一つに挙げられる。人外である彼女はまるで、人のように生きている。それに何よりも驚いたのはカグラだった。

 

「何年かかってもいい、説明して私の所に彼女を連れてきて」

 

「む、むぅ。だが我が主の……いや、分かったが、おぬしはどうするのじゃ?」

 

 救済はエヴァンジェリンの元へと行きながらでもできる。そう判断したフィリウスは、逆に カグラへと尋ねる。共に行けばわざわざ連れて来なくてもその場で済むだろう。その問いにカグラは首を横に振った。

 

「ダメ。私はいけない。早く、行って。今すぐ」

 

「なっ、今すぐに?」

 

 真剣な表情で頷くカグラに、フィリウスは言葉を詰まらせた。これは自分の主からの命令ではない。だが、カグラと言う存在は自分の主の躰の持ち主だ。ならば聞かなければならないのか。

 そう強制されているわけでもない。フィリウスはカグラの言葉を無視して、自分の主である創造主の言葉だけを聞けばよかった。だが、今まで旅をしてきて、カグラと言う存在がフィリウスには分からなくなったのだ。

 

「急いで。私は、もう私を保てない。だから、早く」

 

 その言葉に、フィリウスは一瞬思考がフリーズしていた。カグラの言葉をゆっくりと咀嚼する様に理解する。彼女がいなくなれば、残るのは創造主という存在だけだ。だけど、カグラという存在は消えてしまう。

 ただそれだけのことだ。本来自分は創造主という存在のために造られた人形だ。カグラという存在は消えてしまえば、ただあとは仕えるだけでいい。フィリウスはそう考えていたはずだった。

 

 なのに、ゼクトはそれを嫌だと思ったのだ。違う、正しくは、カグラと言う存在が。

 

 自分が感じていたはずだった温もりを与えたその人が、『消えて行ってしまう事を恐れた』。

 

 ならば自分はどうすればいい。分からない。考えれば考える程、自分の心臓が無意識のうちに痛む。身体に不調は無かったにもかかわらず、動悸が激しくなっているのを感じた。

 

 ならば、考えなければいい。

 

「……分かった。今すぐに出よう」

 

 結局フィリウスは意味も理由も、カグラへと投げたのだ。自分が考える必要はない。此処にエヴァンジェリンを連れて来れば解決する、と言うのならばそうしよう。『人形とは命令に従うものだ』。

 考えることを止めて、任された使命のみに従って生きる。最後の最期で、カグラが願っていた、人と言う存在へと歩みを進めることを、フィリウスはやめた。

 すでにフィリウスの思考は、どうやってエヴァンジェリンに接触するか、ということに移っている。アリアドネーを出たと言う情報は耳に入ってきていたため、そこから虱潰しに探していくか。

 先ほどまで浮かべていたはずの感情は、いつの間にかフィリウスの中には消え去っていた。

 元よりフィリウスの私物は少なく、ほんの数分もあればこの場所を発つ支度は完了する。それが終わったころには朝日が顔を出していた。テントの外に出た二人は、しばらく無言のまま立ち呆ける。朝日がまぶしく、カグラは思わず目を細める。フィリウスはただ、黙ったままだ。

 カグラは彼に何かいう事はあったのだろう。それでも、何を言うべきなのかが分からない。そんな沈黙を無視して、フィリウスは自分に与えられた使命を果たそうと、飛行魔法のための呪文を唱えた。

 

「ゼクト」

 

 それを見て、カグラは慌てて声をかける。振り向くフィリウスの表情からは感情が感じられない。ぎこちない笑顔を作り出して、言う。

 

「元気でね、ゼクト」

 

 ひとつフィリウスはその言葉に頷き、飛行魔法によって飛んでいく。小さい影は消えてなくなった。

 

 完全に見えなくなった頃、カグラの躰に変化が訪れた。意識していたわけではないのにもかかわらず、知らず内にその体に創造主の纏っていた黒いローブがあった。思考はぼんやりとしてきて、頭が重い。

 段々と自分が自分で無くなってきていることをカグラは実感した。もう自我を保てる時間も長くは無いとは理解していたが、こうなることは予想していなかったのだ。

 ゼクトにはエヴァンジェリンを探すのには何年かかってもいい、とは言った。その言葉の通り、時間的猶予を作ることはできる。自らの身体ごと封印してしまえば、一定の期間の時間は造ることができるだろう。そして、その封印ができる人物もカグラは知っている。

 アマテル、墓所の主である彼女は、カグラが言えばそれを行うだろう。

 

「もう、いいのか?」

 

 いつの間にか、黒い外套を纏い金の髪を持った少女が、そこにいた。

 カグラが頷くと、少女は転移魔法のための呪文を唱える。足元に発現した魔方陣は二人を包み込み、まばたきするほどの間にその地にはもう誰も居なくなっていた。

 

―――――

 

 フィリウスはエヴァンジェリンの元へと向かっていた。情報では既にアリアドネーを出たことは入ってきており、魔法世界の情報を検索して彼女の現在地を見つけ、向かっていた。

 グランドグレートマスターキーは手元になく、全域まで調べることはできなかったが、それでも見つかったのは運がよかったのだろうか。

 エヴァンジェリンを連れて行かなければならない。何のためにそれをするのか、それを考えることを放棄して飛行を続けた。

 そしてやがて一つの景色が視界に入った。遠見で渓流の近くで、少女と人形が休憩している姿だった。接触の初め何を言うか、そのまま勧告を出すのは簡単であるが、ゼクトには人形が武器を取り出しているのが見えている。

 無力化すれば問題は無い。ポケットに入れた手を抜き、創造主の掟を召喚しようとした時だった。

 どくん、と心臓が鳴った。

 召喚するどころの話ではなく、そのまま手を胸に苦しげに押し当てる。飛行魔法すら困難になるほどの激痛に、ゼクトは息を漏らさずにはいられなかった。

 

 それは良くも悪くもカグラの影響であった。カグラが気の迷いとは言え、フィリウスを変質させようとしたとき、途中で行為を止めたため、調整を中途半端に終わらせていたのだ。

 飛行能力を失った肉体は、慣性の法則に従って少女と人形の居た渓流近くに叩きつけられる。もちろんこの程度の衝撃でフィリウスの躰は壊れたりはしない。創造主を模して造られたフィリウスと言う存在は、完璧に設定されている。しかし調整不足と重なってその完璧は崩れ、打ち付けられた衝撃は、本人の記憶を飛ばすには十分だったようだ。

 

 そうして、フィリウスは記憶を失った。本の数秒の気絶から起き上がったときには彼の記憶は吹き飛び、頭にはアップルジャムが付けられていた。目の前に居たのは、断罪の剣を持って目を光らせ佇む真祖の吸血鬼の姿。

 

 皮肉なことに創造主からの使命も、ゼクトという名前を呼んでいた『カグラ』も忘れて、初めて『ゼクト』は始まった。

 


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