『18■◆年
ダンジョン、別名チャチャゼロゼクトの狩場。どっちが魔獣を多く狩れるか競争しようぜー! と言わんばかりに張り切るチャチャゼロに、煽られてそれを追い掛けるゼクト。なんだこれ。私はダンジョンに来たんだ。遠足の引率に来たつもりはないはずだ。いや、一応殺さないようには言ってあったはずだが、動物虐待ってレベルじゃない。ダンジョンの中でなかったら、また悪名が広がってしまうところだった……。どうして動物を滅殺ではなく撃退する様になっただけで、二人の成長を感じなければならんのだ……。余りにも暇だったので適当に昼食の調理でも行っていたら戻ってきた。おい、やめろ。切れ端ごときで喧嘩するな。あいつ等本当にガキだ。
久々に太陽を見たような気がする。薄暗いダンジョンへと明かりは持ってきていても、どこか冷たい物を感じる。だが私には太陽の光は暑すぎるから何とも言えん。暫く外の情報も入っていなかったし、時間についても正確に把握しなければならない』
『18■◆年
久々の休日。旅人に休日とか無いが、たまにはのんびりする日もあってもいいだろう。町には出ずに部屋でごろごろしていると、ふと菓子でもつまみたくなり調理場を貸してもらった。ホットケーキのリンゴジャム乗せ。ンッン~手軽にできるお菓子はいい。
どうしてあの馬鹿二人は私の造ったホットケーキを勝手に食っているのだろう。冷静になって考えてみればそうだ。焼き肉を鉄板で焼くときも焼くのはいつも私で、私が食えん。欠食児童かアイツらは。
考えてみればゼクトがなんか大分丸くなって……丸、く? 変な方向に尖がってはいるが、取っ付きやすくなってはいる。魔法世界の住人相手にも普通に礼とか無意識に返すようになった。しかしアイツの言っている主とは何者なのだろうか……。ついでにたまに出てくる女性も。十中八九故人であるから話はしないが気になる。
明日から情報集めでもしよう。まだ見つかっていないダンジョンの話があればなお良いのだが』
『18■◆年
嘘であると信じたい。情報の真意を確かめる。アリアドネーに行く』
―――――――
黄昏時の日差しが部屋の中を燈色に照らす。ベッドの上で眠っていたその女性は、誰かが部屋へと近づいてくる気配を感じながらも、その太陽を見たくてゆっくりと体を起こした。身体は自分の物ではないようにその女性は感じている。薬が効いているからか身体全体がだるく、身体を起こすことでさえ不自由だ。
その女性は病に罹っていた。今のその時代では不治の病と呼ばれるそれはその女性の身体を蝕み、ゆっくりと症状を悪化させている。数年がかりで進んだその症状は、彼女の命を奪おうとしていた。
別に病原菌のある地域に行って感染したなど、特別なことは何もない。ただ彼女の寿命が其処であった、という偶然がたまたま重なっただけの事であった。
病院の中でも高い位置にあるその部屋の窓の外には、燈色に照らされた街並みが見える。彼女――エヴァンジェリンが去ってから少しだけ静かになったその都市は、それでもゆっくりと時間を進めている。混乱しかけていたその街を治はしたが、引退した自分に一人でこの都市を作り上げたとは思わない。そう女性は思うと、ノックをして入る影の方へと顔を向ける。
「お久しぶりです、セラン総長」
「元総長、でしょう? 流石にこんな体調で指導者に成れるとは思わないもの」
ふっと儚げに笑って女性――セランは、自分の秘書だったその女性へと答えた。エヴァンジェリンと共にMM本国へと言ったこともあるその女性は、何を言っているんですか、と肩をすくめる。
「まだまだ私は、いっぱい教えてほしいことがあるんですから」
「あら、そんなに頑張っていると、私みたいに行き遅れちゃうわよ?」
「うへぇ……それは嫌ですねぇ……」
小さい笑い声が部屋へと響く。MM吸血鬼捏造事件と呼ばれたあの件で、一回り成長した彼女は、しばらく経験を積めばこの都市を引っ張っていけるだろうとセランは思っている。たとえ、自分が居なくなろうとも後を継いでくれる者がいると言うのは、まじまじと自分の生きてきた意味を実感させる。
セランにとって現状を受け入れることができたのは、満たされていると言う実感があるからだろう。大切な人もいる、後を継ぐ者も居る、母としての実感を短いながらも得ることはできた。セランの種族にとっては確かに長くは生きていないが、現実世界の人から見れば十分長生きしただろう。
しばらく談笑しているうちに、彼女が何をしようと此処に来たのか考える。体調は芳しくないが、会話をする程度のことはできる。尤も、彼女が一方的に話しかけてセランは相槌を返しているだけであったが、その会話は楽しかった。
そうしてセランはただ一つの心残りにたどり着く。たった一人、親友であると胸を張って言えるその少女のことだ。
そのことに気が付いて、セランは表情に影を作る。そして元秘書であったからか、彼女もセランの表情の変化に気が付いたのだろう。会話を止めて暗い雰囲気の静粛が訪れる。暫くその空気が続き、意を決したように彼女はセランへと言う。
「……エヴァンジェリンさん、やっぱり見つからないみたいです」
「……そう」
恐らく自分は長くない。セランは昔に秘書でもあったその縁である彼女へと、親友と呼べる少女の捜索を行っていた。もちろん最期に会いたかったと言う思いもあるが、それ以上にエヴァンジェリンが心配であったのだ。
エヴァンジェリンがこの都市を出たのは、過去の過ちを繰り返さないようにするためだ。だが、セランはそれでも会いたかった。もう、抱きしめてあげることができない。死んでしまえば、自分と言う存在の温もりは無くなるだろう。
「彼女、悲しむかしら?」
「悲しむでしょうねぇ」
「彼女、泣いてしまうかしら?」
「泣いてしまうでしょうねぇ」
秘書であったその女性は目尻に涙が溜まってくるのを感じながらも、言葉を受けて返す。彼女自身もエヴァンジェリンに対して思う事はあった。だから、セランの言葉を、その姿を伝えられるように目は伏せなかった。
セランは夕陽を見ながら溜息を一つ着いた。元々自分とササムが、エヴァンジェリンと共に居なければ、ササムが亡くなった時に彼女はあんなにも取り乱すことはなかったのだろう。
彼女が『人間』であるからこそ、自分の死さえも深く受け止めてしまう。悲しまないでと、そう言いたいけれど、彼女が悲しんでいるときに自分はもうこの世には居ない。
「彼女に、『良い旅を』、と伝えてくれるかしら?」
「はい。わかりましたセラン総長」
ただ一言、言葉を受け取って礼をする。セランの思っていた通り、セランがエヴァンジェリンに生きて会う事はもう無かった。
――――――
砂漠の町を照らす太陽の日差しを、白いフードの下から仰ぎ見る。肌を指す熱い光は宿でごろごろしているエヴァンジェリンにとっては脅威だろうと、寝転がりながら雑誌を読んでいる姿を思い出して、ゼクトは思わず苦笑する。
数日前までダンジョンに籠っていたゼクト達は、数日間の休息を街で取っていた。新しく見つかったそのダンジョンでは、エヴァンジェリンにとってもいくつか検証したいことがあったのだろう。部屋にこもるエヴァンジェリンに対して、することのないゼクトは少しの荷物を持って街に出ていた。別にすることもないが、ぶらぶらと街に出たのは気まぐれであったと言っていい。
「さて、どうする」
だからどこに行こうと考えていたわけでもない。目的も無くあたりをうろつくことになるのだろう。
だがそう考えていたゼクトの予想は外れた。ダンジョンへ潜る前、エヴァンジェリンと夜話した事を思い出して、ほんの少し見方を変えて街を歩いたのだ。
さまざまな声が聞こえる。店の前で親に菓子をねだる子供の声や、若い女性の姦しい声が聞こえてくる。
あれら全てが何かを考え、誰かから意味を与えられて生きている。
「……まぁ、どうでもいいのじゃが」
それは無関心と言う意味ではなく、普通の人間が他人に思うようにゼクトは呟く。どうでもいいから価値が無いのではなく、どうでもいいと思うから価値が分からない。それをゼクトは今まで知らなかった。
「(……記憶を失う前のワシは、そのことを知っておったのじゃろうか)」
自分がどうしてエヴァンジェリンについて行こうと思ったのか、何年も前の事であるため覚えてもいない。いつのまにか彼女と人形との旅に同行して、今に至っている。どこが旅の終焉であるのか、自分はどうするのか。
この躰は人のものではないらしい。成長する様子のないことからそれは知っていたが、それがまた考えることを止める理由にもなった。当然のように不老長寿を受け入れても、どう生きるのか、それを決めるのは自分にとって大きな事であることには変わりない。
そんなことを考えながら街を練り歩く。日が一番高い位置に来たあたりの時間で、一旦休みを入れようと食事処を探し始めた。恐らくゼクトが記憶を失って初めて心を動かした要因は林檎だろう。勝手に食えと放り投げられたそれを、美味いと感じたのが最初であった。
食事を終えて帰りに探してみるのもいいかもしれない。ゼクトはそんなことを考えながら、歩いている最中であった。
「おいそこのガキ。少し止まれ」
少女とも女性とも言えるような、魔法によって微妙に加工された声がゼクトの耳に届く。その声のする方へと向くか考えたが、それを無視する。挑発するような物言いに反応して意味が無いことは、エヴァンジェリンと共に居て知ったことなのだから。
だがそんなゼクトの態度を挑発するような口調で、その声の主は語りかける。
「キサマだキサマ、精巧なマネキンのような面をした若白髪のキサマだ。さっさとこっちを見ろ、人形」
人形、という言葉に何故か癇に障り、ゼクトは思わず振り向いた。何故か自分の中でその言葉がしっくりと来るが、ソレを何も知らない他者に言われたことが、何よりも腹立たしい。
振り向いた先は待ちゆく人に溢れている。だがその人々の合間に、此方をはっきりと向いている子供の姿が在った。背丈はゼクトと同等程度であり、フードを深くかぶっているためその表情は口元だけしか見えない。顔つきから女性であるだろうことは分かったが、どこまでが変装の魔法で作られた幻影の姿なのかはわからない。
ただ、どこかエヴァンジェリンと似ている。それがゼクトの興味を引いた。ほんの少しだけフードが上がって重なった視線の先に、にやりと笑った緋色の瞳が見えた。
「カグラの事についての話だが、聞かなくてもいいのか?」
『少女』はそう言って笑った。
そこは静かな雰囲気の店であり、その中で最奥に位置する席まで掃除が行き渡っている。互いに飲み物だけ頼んでそこに対面に位置する様に座る。そこまで至近距離に近づいてもフードを深くかぶり、はっきりと顔を見せようとしない『少女』に、胡散臭さを感じないわけにはいかないだろう。
「相変わらず砂漠地帯は好かん。埃っぽい上に太陽も体を煮立てようとしてくる。それで、入る店も埃っぽいと相場は決まっている」
「ならば孤島の神殿にでも籠っているのじゃな」
互いに頼んだコーヒーを飲みながら、静かな時間が流れていく。呼びかけたのがあちらならば、此方がわざわざ話しかける必要もない。何も話さないのなら飲み終わったところで出ていこうと、ゼクトが考えた時であった。
「それで、いい加減答えは見つけたのか、フ――いやゼクト」
その言葉に一瞬だけ身体が硬直し、すぐに何事もなかったようにカップをテーブルへと置いた。
自分の名前を呼ばれたことは、情報屋を通したのならあり得ないことではない。だがその口調は、まるで自分と目の前の『少女』が知り合いであるかのようだ。
「……なんの話をしておる。そもそもおぬしは何者じゃ。ワシの昔の知り合いか何かか?」
「いいや違うさ。私はキサマの事は知らん。ア、――、カグラの知り合いだ。名前はそうだな、ネージュとでも呼べ」
何か名前を言い淀んだように出された名前は、ゼクトが稀に見る幻視で出てくる女性の名前であった。疑いも確かにある。だが、それ以上に自分の記憶の手掛かりとなる人物であると言う確信が得られた。
思わず眉をひそめる。失った記憶を知ってどうするのか。記憶を取り戻すことを目的としていなかったために、その手掛かりであると分かっていても気が乗らないのは確かだった。
「それで、そのカグラの知り合いがどうしてワシに用がある」
ゼクトの純粋な問いに、ネージュは顔をしかめて黙る。そしてその内容を理解したのか、少しだけ焦ったような口調で話す。
「待て、それは本気で言っているのか? ……まさかキサマ、奴の言った事を忘れたのか?」
「忘れた。そもそも記憶を失っているのじゃ。言ったことが何なのかさえ覚えてはおらん」
その言葉にネージュはどこかぽかんと呆けたように口を空けた。そしてすぐさま苦虫を潰したように口元を歪ませる。
そして小さく溜息を吐くと、そのままコーヒーを入れたカップを傾けた。そこには恐らく失望が表情に浮かんでいたが、ゼクトはそれを無視して同じようにカップを傾ける。
勝手に驚かれて、勝手に失望されようとも、何も知らない自分には反応の仕様が無い。ゼクトのその態度は開き直りだが偽りのない本心であり、またそんな態度にネージュは憂うように呟く。
「……いや、キサマが忘れているのならそれでもいい。ただ終わるだけの話だ」
「どういう意味じゃ?」
なぜか分からない。だが、嫌な予感が頭を過りゼクトは思わず聞き返す。しかしネージュは返答を返そうとはしない。カップを置いて、ニヤリと笑う。
意地の悪い笑みだった。嘆くような儚げな表情はそこにはなく、童話に出てくる意地悪な魔女のようにネージュは笑みを作っていた。
「言葉通りのことだよ。まあ私には関係もない。元々私は何もするつもりは無かったのだから」
「? 待て、おぬしはいったい何を言いたい」
ゼクトにはネージュが言っていることが分からない。曖昧な単語は恐らく本人が独り言のように漏らしただけの事で、ゼクトに伝えるつもりもないのだろう。
ふむ、と顎に手を当てて考えているようにゼクトには見える。しかしゼクトはその『少女』が笑みを崩さないことで、次の言葉が多少は予想ができた。
「対価は?」
「…ふむ?」
「私がカグラから請け負ったことにそれを話すことは入っていない。私は良い魔法使いとは言えんのでな、何かしてほしいのなら対価が必要だ。わかるな?」
ネージュの言葉にゼクトは舌打ちひとつして自分の懐に手を忍ばせると、硬貨が入った袋を彼女へ向かって投げる。強請りたかりの輩であろうと、その感じた不穏さからその情報の重要度は上がった。もとより使わない物を使おうとゼクトは痛くもない。
しかしそれを受け取った少女は、全く同じ軌跡でそれをゼクトへと投げ返した。
「そんなものは要らん。ふむ、キサマの血なんてどうだ? 全部貰えば説明のせの字程度は話してやってもいい」
「要するに話すつもりは無いという事か? 魔女め、用が無いのならさっさと消えんか」
その口調といい、幻影で姿を変えているか、本当に自分と同種の不老の存在のどちらかだろう。少なくとも見た目通りの年齢という訳でもない。
ふん、と鼻を鳴らして立ち上がった少女は、コーヒー代として銀貨を数枚テーブルの上に散らし、ゼクトの耳元に寄った。何か洗脳系の魔法かと、魔眼などの対策のために、ゼクトは瞳を見ず構えるように座っていた。そして、その顔が見えた。
「……おぬしは」
「時間はあまりない、記憶が無いのならさっさと思い出せ。急げよ、姫の騎士。でなければ何もかも終わってしまうぞ」
私はそれでもかまわんが、と。言い終わったネージュはゼクトから離れると、背を向けて出口へと向かった。一言何かを呟き、かち、という小さな音が聞こえたかと思えば、その姿は既に視界から消えていた。
転移魔法か移動用のマジックアイテムだろう。そう結論付けたゼクトは、思わず深く椅子へと腰かけた。
ネージュの顔は自分の記憶の中に在る。それが幻影で作られたものなのかは分からない。ただ、似すぎているのが本音だった。
何もかもが終わる。どういう意味なのかは分からない。このままにしておいては不味いのだろうと、あの少女の言葉から分かる。だがどうすればいいのか自分には分からない。
店員が注文した料理を持ってくる。良い香りのするそれらも、先ほどの出来事が原因で味がしなかった。
太陽も傾きはじめ、店を後にしたゼクトは、ネージュの言葉に着いて考えていた。
カグラという少女、自分はその少女と共にいた。ただ誰かを癒して歩く旅に自分は同行していた。それ以外の事を思い出せない。
終わるとはなんだ、そのカグラがもうすぐ死を迎えるという事か? だからネージュは記憶を取り戻せと言ったのだろうか。
考えていても答えは出ず、泊まって借りている宿の部屋へとたどり着くと、一旦考えることを止めて部屋へと足を踏み入れる。
「来たのか、ゼクト! 丁度いい、早く出発するから準備しろ。アリアドネーに向かうぞ!」
部屋を出る前はごろごろしていたエヴァンジェリンの姿と、今出発の準備をする姿が違いすぎて、ゼクトは思わず目を丸くした。
―――――
『このページは全体が同じ書式で、印刷されたように淀みがない』
『18××年
納得もできない。理解もできない。
何が悪かった? 私が都市を出たからか? 確かに私はそうなることを望んで都市を出た。後悔すると理解していたはずだ。なら、自分は今どうしている?
体が心に追いつかない。思考と理解がかみ合ってない。現実とはなんだ。何が今起こった? そして自分は本当にそれを分かっているのか?
自分で自分が分からない。チャチャゼロは答えてくれない。ゼクトは頼れない。嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。理解なんてしたくない。』
―――――
飛行船の中で貧乏ゆすりをしながら、手を組んで椅子に座るエヴァンジェリンの姿がゼクトに入ってくる。顔色は悪く落ち着かない様子であることは目に見えて現れており、ゼクトは動かずに寝ているチャチャゼロの隣で座っていた。時折椅子から立って部屋をうろつく姿に、ゼクトは思わずため息を吐いた。
そこは飛行船の中の一室であった。アリアドネーに向かっているその飛行船に乗ること自体に問題は無い。実際に高位の魔法使いであれば、それよりも早く飛んで行くことは可能であるが、そんなことをすれば捕まるであろうことは目に見えて分かっている。なまじ行えるだけの力が在るだけに、エヴァンジェリンは落ち着くことができないのだろう。
「……エヴァ、少しは落ち着いたらどうじゃ」
どうせそうして居ても、早く着くわけでもない。真実であってもゼクトの言葉が癇に障ったらしく、キッとエヴァンジェリンはゼクトを睨んだ。そしてそれが八つ当たりであると思い直し、目を伏せる。本人にもその自覚はあるが、正論であるからと言ってそれが本人にとって好ましいものであるわけでもない。
「……落ち着いている。変なことを言うな、ゼクト」
「とてもそうは見えんぞ」
暗く濁ったような空気が、辺りを包んでいた。
アリアドネーの元代表が亡くなった、というニュースが入ってきたのはヘカテス周辺のダンジョンから帰還して数日後の事であった。丁度アリアドネーからエヴァンジェリンへと接触しようとしていた人物と、ダンジョンへ潜った時期と一致してしまい情報が伝わるのが遅れたのだ。旅人の一人に残されていた伝言を聞いた時のエヴァンジェリンは、何度も確認して昼寝していたゼクトとチャチャゼロをたたき起こして此処に居る。
エヴァンジェリンにとってアリアドネーの元代表、セランと言う存在は掛替えのない友人だ。しかし、ゼクトにとってその人物は少し話しただけの間柄しかない。それも、他者に対してほぼ無関心であったときの事だ。
この居心地の悪い空気の中に居て、ゼクトはどこか自分が苛立っていることが分かった。それはこの空気に対してではないことは理解していても、何に苛立っていることが分からない。
ちっ、と思わず舌打ちを一つする。そして響いたのはエヴァンジェリンが両手をテーブルへと叩きつけた音だった。
「……落ち着けだと? ……ああ、たしかに落ち着きが無いことは悪かった。だがな、私の親友のことだ。落ち着いていられると思うのか!?」
苛立っていたのはエヴァンジェリンも同じだった。ゼクトの舌打ちが何も答えない自分に対するものであると勘違いし、それなら言ってやると、留めていたはずの感情を爆発させた。
ゼクトは驚きもあったが、同時に苛立ちが大きくなっているのが分かった。どうして自分が非難をエヴァンジェリンから向けられなければならない。その苛立ちをもたらした原因はエヴァンジェリンではないはずだが、八つ当たりのように言葉を返していた。
「ふん、知らんわ。ワシには関係のないことに、興味を持つわけが無かろう」
「何だと!?」
ゼクトには誰かを亡くしたときの感情が分からない。記憶の中にいるカグラという少女が、今はもう居ないことをなんとなくであるが理解していても、なぜかそれに対して思う事が無かったのだ。
失言を謝ればいいのか、少なくとも苛立っている今の状態でゼクトは謝罪ができるとは思わなかった。
ぎり、と歯を食いしばり手に固く拳を作りながら、エヴァンジェリンはゼクトを睨みつける。その視線を受けるゼクトはいかにも不機嫌であるといった様子で眉を顰めた。
「……ああそうだな、キサマはいつもそうだ。他人をどうでもいいように扱って、傷つけようがなにも気にしない。そういう奴だったと忘れていたよ」
エヴァンジェリンの言葉になぜか胸へと痛みを感じていた。他者へと辛辣になることを何度か見たことが在る。ただその視線を向けられるのが初めてであった。だからこそ、ゼクトはエヴァンジェリンの言葉を文字通りに受け取った。
その姿に違和感があると分かっていたのは、部屋の中ではチャチャゼロだけであった。何かを振り切るようにゼクトへと当たる姿に、思い当たる節があるが言葉にはしない。しても意味が無いことをチャチャゼロは知っていた。
「だから、感情が分からないなんて言うんだ。そんなキサマが、私の何が分かる!」
「……煩い」
ゼクトの中で何かが語りかける。
止めろ、と。その通りだ、と。否定する声と賛同する声が同時にゼクトの中に存在していた。
人を理解できず、感情も分からず、誰かを傷つけていることも知らずに行動して、それを理解してしまったからこそゼクトにとって弱みになった。だからその傷を抉られ、現実にはないはずの痛覚が胸の痛みを造りだす。
エヴァンジェリンの言葉を止める手段は無い。その言葉は、ゼクトを傷つけると理解していた上で、彼女の口から出されていた。
「いいや違う、キサマのような『人形』みたいな奴に、私の事を分かってたまるか!」
「おぬしがそれを言うか、エヴァンジェリン!」
怒りに声を震わせながら言われた言葉に、ゼクトも声を振り切るように思わず立ち上がって怒鳴る。誰よりもその単語は自分にぴったりであると自覚している。だが同時に、違和感になってきているのも分かっていたのだ。『自分をそうした人物が』その言葉を言ったことに、ゼクト言葉は反射のように出てきていたのだ。
この身が■■であるのではないかと、自覚させた人物の否定にゼクトは拒絶反応を起こしたのだ。
『その言葉を、認めたくないと。自然にそう強く思っていた』
「ぐっ……」
「!? あ……、ゼクト?」
ずきん、とゼクトの頭に痛みが走り思わず頭を押さえる。その様子に驚いて、どうしたのかと言おうとしたエヴァンジェリンであったが、自分が言った言葉が言葉なだけに口には出せず俯く。エヴァンジェリンは誰かを害する、という行為に気を使って生きていた。自分が言ったことが失言であると理解し、さぁっと怒りが引いていく音が聞こえた。
どうしてそんなことを言ってしまったのか、変わろうとしていることは自分にも分っていたのに。エヴァンジェリンはそう思わずにはいられなかった。
本心ではなく、傷つけようと、八つ当たりのために言った言葉は後悔しても取り消すことはできない。
逆に痛みに気を取られたゼクトは、普段ならば気が付くエヴァンジェリンの様子に気が付かなかった。
「『死んだ者に感情も意思も無い』。他者に何も残さないそれを、無価値と呼ぶ以外に何と呼ぶ!」
自分は間違っていない、と。頭を押さえて吐き捨てるように言い放つ。視界の中に広がったのは、誰かが怯えた人間が自分の目の前で消えていた風景であった。まるで花びらが人間の形をとっていたように、あっけなく消滅していく。
いくつも、いくつも、見覚えのない風景が頭の中に溢れ出した。それは何の映像なのかゼクトには分からない。商隊の子供を消し飛ばしたところでようやくそれは止まり、震えが無意識のうちに頭を押さえていた腕に現れた。
「おぬしが行って何になる。おぬしが友と呼んだソレはもう死んだのじゃろう?」
「ぅ……あ……そんな、こと」
「何が違う、セランという女はもう死んでいる。其処におぬしが行って何ができる、何の意味がある!?」
頭が痛い、苛立つ。何かを言おうとしてどもる姿に、ぎりっ、と口元を歪めた。
苛立っているのはエヴァンジェリンにではない。彼女をそうさせている友人とやらに、ゼクトは苛立っている。
どうして既に死んだ者がこうして彼女を揺るがしている。どうして自分は責められなければならない。ゼクトにとって死は別れではないと常識となっている。正しくはそうさせられている。誰かの死を知らないゼクトにとってセランの死という現実は、目の前の彼女を不安にさせるだけの要因に過ぎないのだ。
だからゼクトが言おうとしているのは、エヴァンジェリンを責めようとしているわけではなかった。
『既に死んだ者など気にするな』。ゼクトがそう言えるのは、ゼクトにとってセランは完全な他人であり、また死を理解していないからこその言葉だった。
「ここで死のうと行き着く場所は同じよ。同じ元に還元されるのだから、いずれまた会えよう。おぬしがそんな『どうでもいい』ことを――」
「オイジジイ、テメェチット黙レ」
殺気と共に突きつけられたチャチャゼロの無機質な声に、ゼクトは言おうとしていた言葉を止めて口を噤んだ。
チャチャゼロの殺気に怯えたのではない。俯き表情を見せない目の前のエヴァンジェリンに気が付いたのだ。
ぽつ、ぽつ、と。滴が床に落ちる音が耳に届く。ゼクトはどこかで同じような音を聞いたことが在るような気がした。
「……そんなこと、わざわざ、口に出さなくてもいいじゃないか」
小さな掠れた声で、エヴァンジェリンは呟いた。ぺたん、と地面にしゃがみ込み、顔を伏せる。ゼクトからは表情は見えず、嗚咽が漏れる音だけが聞こえる。
「だって、親友なんだ。セラ、ンは、私の。もう、会えな、い、って……」
言葉にしようとしても、その口から聞こえるのは最早単語ですらない。しきりに擦る眼からは涙がこぼれ、止まる様子は無かった。
……自分は、何をしている?
今彼女が泣いていると言う現実が、自分が求めた物ではない。だが、自分ではそれを止められない。■■■の時と同じように、今度はその涙の意味も理解できるはずなのに。
だって、そうではないか。『死んだ者に意味があっていいはずがない』。ならどうして泣いている? 決まっている、亡くなったその人間が、その事実が、『意味がある』ということだ。
エヴァンジェリンは既にセランが亡くなったという事は、情報だけでは知っていた。ただ今に至るまで、認めていたわけではなかったのだ。
それは一種の現実逃避だった。自分の眼で見たわけではない、だから認めない。真実だと認めつつもどこか情報が偽りであって欲しいと、心の中で思っていた。だから焦っていたのは、早く着かないことではない。着いてしまい事実を認めてしまう事に焦っていたのだ。
だがそれも、たった今ゼクトによって認識させられた。友の死という現実は彼女に突き付けられる。逃れようのない感情は、ただ滴となって溢れていく。
「どうし、て。みんな、勝手にいく。なんで、私に、背負わせるんだ……?」
ゼクトに返す言葉は無く、少女の嗚咽の漏れる音だけが、部屋には響いている。そして察することもできた。最早自分にはかけられる言葉もないということを。
エヴァンジェリンはやがて結論を出すだろう。チャチャゼロはそれを知っている。そうしてまた先に向かって歩き続ける。そして、この現実も受け入れて進むのだという事を。そしてその考えの通り、彼女はまた人として歩み出す。
ゼクトは知らない。理解ができない。自分が何を言っているのか、自分が何を忘れているのか。
考えてはいけない。考えることは自らを崩壊へと導くことだ。
考えなくてはいけない。そうでなければ、『ゼクト』は『ゼクト』のままでいられない。
次は一日の6時からです。