「行かんよ」
ゼクトは首を振る。差し出された手を無視して、エヴァンジェリンへと背を向けた。
自分が本物になってどうする。一度亡くした者達は帰ってくるのか。自分がやった全てを、無かったことなどにできるはずがない。
「おぬしは何も壊してはおらん。だからこそ、無かったことにできる」
彼女はこの世界から本当の意味でいなくなる。彼女が行おうとしている時の巻き戻しとは、その意味を持っている。それができる者に許しなど貰って何になる。本物として証明して、何の意味がある。何の意味もない、だからこそ、
「本物で在っていいはずがない。おぬしとの旅は、ここで終わりじゃ」
「ゼクト、私は……っ」
「黙れ」
ゼクトは振り向いて視線をエヴァンジェリンに会わせると、何の光も宿さない暗い瞳を向けて口を開く。
「次に会ったなら、恐らくワシはおぬしを殺す。だからもう、放っておいてくれ」
―――
『18〇×年
セランの墓参りが終わった。いろいろあったが過去の事であり気にするけれど深く考えすぎないようにする。つーか久々に見たアリアドネーかなり変わっててワロスww。久々に何処かへ腰を落ち着けてゼクトやチャチャゼロと――』
「――やめだ」
エヴァンジェリンの持つ筆が日記帳に大きくバツを付ける。書くことを中断し、ほどまで敷いて座っていたトランクの中へと日記帳を投げ込んだ。
気分が乗らなかった。いつもなら気晴らしに書いていたそれだったが、自分の想像以上にゼクトが離れたことが重くのしかかっている。
赤い夕日が墓標を照らし、そこにいたエヴァンジェリンにも等しくその日差しは照らされている。
差し出した手は取られず、そのまま消えてしまったゼクトをエヴァンジェリンはただ見ているだけだった。だがもう二度と、彼は自分の前には現れないだろう、という奇妙な確信はあった。
「……ゼクト」
エヴァンジェリンは一人呟く。
所詮は記憶が戻るまでの付き合いだ、それはいつも頭の中で考えていたことだった。それでも過ごしてきた時に対して楽しいと思っていたことも事実で、引き留められなかった自分が情けなくなる。
かける言葉が無かった。自分が歩んできた道に罪は無い、誰がどう言おうと自分はそう信じている。だから自分は『悪』を名乗らずに今まで歩んできた。
だから『悪』であることを認めたゼクトに、自分は何を言う事ができるのかが分からなかったのだ。
それでもエヴァンジェリンはササムが消えたとき程狼狽えてはいなかった。それは、
「ヨウ御主人、迎エニ来タゼ」
「チャチャゼロ……すまんな」
少なくとも彼女にはまだ旅を共にする誰かが居る。心の中に在ったセランのことを整理出来たからこそ、またエヴァンジェリンは歩むことができるだろう。
仕方ないと、エヴァンジェリンはそう思う。自分が今吸血鬼という種族になっている以上、いくつもの別れが有ることは仕方のないことだ。
「ン? アノジジイ、コッチニ来ナカッタノカ?」
「来たさ。だが……もう奴との旅は此処で終わりらしい。今度会ったら殺すとまで言われてしまったよ」
苦笑交じりにエヴァンジェリンは言う。だがその表情がチャチャゼロにとっては気に障った。セランの訃報の時とは違う、どこか仕方ないと諦めたような表情だったからだ。
事実エヴァンジェリンは諦めていた。ゼクトに問われたとき、繋ぎ止められなかった自分が悪い。去ってしまったとしても文句は言えなかった。
「……呼ビ止メネェノカ?」
「……私はゼクトに、何と言って呼び止めればいいのか分からないんだ」
そうエヴァンジェリンは小さく溜息をつく。
「声を掛けた、バケモノなんかではないと。私が嘗て一番欲しかった言葉だったからこそ、ゼクトも同じだと思ってた」
自分とゼクトは似ていると、そうエヴァンジェリンは思っていた。自分の意識の外で人から外れており、エヴァンジェリンは迫害された。似たような思いをゼクトにさせるのが嫌で、共に旅をしてきた。
「だがゼクトは、もう自分のことをバケモノだと認めている。……私は、そうなってしまった者にかける言葉を知らない」
だからゼクトが去ってしまった事も『仕方ない』。チャチャゼロは言外にエヴァンジェリンがそう語っていると分かった。
「お前に何が分かる」。慰められた人物が決まって言う言葉であり、事実それが的を得ているからこそ、言葉を続けることができない。共感できる体験をしてきた人物なら話は別だ、だが今のエヴァンジェリンは共感できない立場に居る。
「ケ」
「? ……チャチャゼロ?」
「ケケケケケケケケ!!! 知ラナイ? 知ラナイッテ言ッタノカ御主人! 笑ワセテクレンジャネェヨ!」
だからこそ、チャチャゼロは笑う。
どこまでもエヴァンジェリンが言っていることは可笑しいのだ。今まで彼女がどう生きてきたのか、その記憶は所詮は前任者であるササムの物でしかない。それを踏まえて考えても、彼女が言っているのは可笑しいのだ。
エヴァンジェリンは既に自分が人に戻るための術を確保している。残り必要な物は時間と魔力だけだった。だからこそゼクトの別れを簡単に割り切ることができた。既に生きる理由のゴールを見つけているから、ぶれる理由も無かった。
それでもチャチャゼロは知っている。自分の愛すべき御主人が――とんでもないバカ者であることを。
――
「ゼクト!」
エヴァンジェリンがチャチャゼロを追いかけた先に居たのは、ローブを焦しボロボロになったゼクトの姿だった。
大規模の戦いがあったことは瞬時に理解し、それよりも先に察知したチャチャゼロはゼクトと戦った相手を殺しに仕掛けている。抑えきれない可能性もあるが、それよりも目の前で傷ついているゼクトを癒すことが先だった。
「無事なんだな!? すぐに治療をしてや……」
「来るな!」
ゼクトは創造主の掟を突き付けるように構える。
ゼクトの持つ創造主の掟は、魔法使いにとっての杖である。発動体であり威力を増加させるもの。現代で言うのなら銃口を突き付けていることと同じだった。
明確な敵対行為であり、ゼクトの言葉に思わず身体を止めたエヴァンジェリンだったが、焦るような表情は何処へ行ったのか、不敵な笑みをゼクトへと見せつける。
「……なんだ、どうしたんだゼクト? 治療をしなければ不味いだろう」
「ワシは確かに言ったはずじゃ、次に会ったら殺すと」
ゼクトにとってはエヴァンジェリンも殺さなければならない対象であることは変わりなかった。
自分は人形に戻らなければならない、だがエヴァンジェリンは自分をそうではないと自覚させてしまった存在なのだ。ならば殺さなければならない、殺さなければ自分はフィリウスで在ることができないのだから。
同時に、エヴァンジェリンを殺したくなかった。それはアリアドネーの墓標で思った事実であり、全て忘れて根源であるカグラを殺そうと考えたはずなのに。
「やってみればいい」
「……なんじゃと?」
エヴァンジェリンは笑みを崩さない。
彼女は単純なことを忘れていた。ゴールへと到達する手段を既に見つけたからこそ、それを考えず意識もしていなかった。
自分が何者なのか、なぜ生きる理由を探していたのか、そんなことをチャチャゼロに指摘されるまで忘れていた。
エヴァンジェリンは『バケモノ』ではない。だが――
「私は400年を生きた真祖の吸血鬼だ! キサマのような100年も生きていないようなガキに、むざむざと殺されるほど軟な存在ではないわ!」
彼女は『
瞬間、ゼクトが動く。
無詠唱での魔法の放出は乱雑な物だった。魔法の矢、斧、槍、剣。中位魔法の連続無詠唱は雨の様にエヴァンジェリンへと殺到した。
ゼクトも理解している。この程度で真祖の吸血鬼は殺せない。所詮は戦闘を起こすための引き金に過ぎなかった。
瞬動によって接近し、エヴァンジェリンの背後を取った。エヴァンジェリンは反応できておらず、神速で振るわれたゼクトの拳はエヴァンジェリンの頭へと向けられる。
だがその拳は、ある程度近づいたところで、鉛にでも手を突っ込んだように重く遅くなった。
「! これは……」
エヴァンジェリンが無詠唱で作り上げた罠、それは一定の空間を極端に時の流れを遅くするだけの魔法だった。無詠唱であるがゆえに継続時間は長くなく、受けた物の力が大きければ力ずくで解除できるようなものだった。だがその一瞬をエヴァンジェリンは欲しがっていた。
「リク・ロス リ・ロスト リライブズ 彼の因果の末に辿り巡りし導き手よ、原初に眠る混沌より創まりし命を聞け! 解放・固定!」
それはエヴァンジェリンが編み出したオリジナル魔法の一つだった。
彼女が真祖の吸血鬼の人間化、という事象を成すために考えたのが、時間操作の魔法による肉体、魂の巻き戻しだった。
時間の操作自体は高位のアーティファクトでも十分に再現可能な物で、加速、遅延の魔法については既に世界に存在しているのもでもあった。
そして時の後退を体に宿すために、造りだした魔法が『闇の魔法』だった。
「時の先行 掌握。術式兵装『加速領域』!」
故に、自身の時を際限なく進めることも真祖の吸血鬼であるからこそ可能だった。
瞬間、エヴァンジェリンの姿がゼクトの視界から消え、何もわからないうちにゼクトは大地へと転がった。
側面からの打撃を受けた、そのことに気が付くよりも四肢を大地へと抑えるように受け身を取り、再度接近するエヴァンジェリンを捉える。
拳。ササムが生きていた頃に倣った体術は上等なものでは無い。当然ゼクトには止められてしかるものだ。
「な――がぁっ!」
それを、止められない。
「■△×〇ァ◇」
エヴァンジェリンが何かを言った、だがその何かはあまりにも早すぎてゼクトに聞き取ることはできない。
エヴァンジェリンにしてみれば、ゼクトが受け止めようとしているところを見て、別の所を殴っただけだ。それが世界から見れば素早く動いているため、大きな力となってゼクトへと打ち付けられていた。
曼荼羅のような自動障壁の上から叩きつけられるそれをゼクトは止めることができない。同時に強化されているはずのエヴァンジェリンの拳も砕けているが、それは彼女にとって問題にはならなかった。
「ぐぅ! 時空魔法をそんな簡単に操りおって!」
無論殴られ弾かれつつも、ゼクトはまだ健在だった。
創造主の使徒という存在が持つ魔法障壁は並大抵のものでは無い。そしてエヴァンジェリンの体術は早くとも軽いため、有効打を与えられてはいなかった。
『参るな、想像以上に固い』
エヴァンジェリンの呟きはゼクトへは届かなかった。連撃によって互いに呪文を唱える隙が無い。無詠唱の魔法では互いに相手へと届かない。
千日手になりかけたところで、先に動いたのはエヴァンジェリンだった。氷の投擲の拳への装填による威力の増加を狙っていた。加速領域の中で呪文を唱え、拳へ槍を装填した時だった。
「解放、奈落の業火!」
ゼクトの無詠唱の魔法がエヴァンジェリンの目の前で爆発した。
それは一か八かとゼクトが魔法に含められた魔力を爆発させて、無理やりエヴァンジェリンと距離を取ろうとしたことだ。
『! くっ!?』
爆発の余波にゼクトは勿論巻き込まれる。しかし魔法障壁によって威力は軽減されているためかゼクトは健在だった。
『(奈落の業火にしては威力が無い……単なる目くらましに使ったか!)』
それは初手でエヴァンジェリンが闇の魔法による術式兵装を装備する時間を稼いだことと同じだった。
魔法の発動体である創造主の掟を構えるゼクトを見て、次が本命であるとエヴァンジェリンは理解する。詠唱を含めた上級呪文はエヴァンジェリンの魔法障壁を貫く威力がある。かと言って今の状態のエヴァンジェリンに当たるかどうか、と言えば否であると判断した。
よって選んだのは接近だった。魔法を撃たせるよりも早く頭を押さえる。魔法を発動されたとしても見てから回避することは十分に可能だ。
「ヴィシュ・タル リ・シュタル ヴァンゲイト! 契約により我に従え奈落の王! 地割り来たれ千丈舐め尽くす灼熱の奔流!」
引き裂く大地。地系統の広域呪文であるそれは、発動してしまえばその範囲の広さからエヴァンジェリンが避けることは不可能だろう。
だがエヴァンジェリンは確信している。術式兵装『加速領域』を纏った自分はそれよりも速くゼクトの口を塞ぎ、魔法の発動を阻害するだろう。頭の中や感覚でゼクトの距離と自分の魔法の速度を計算し、エヴァンジェリンが接近した時だった。
「解放、千の雷!」
『んなっ!?』
無詠唱の最上級呪文の二連打。たとえ創造主の使徒でさえ難しいそれをゼクトはやってのけた。
無詠唱で放たれたその魔法は本来よりも威力は減少している。だが名前の通り宙を走る雷の雨はエヴァンジェリンの足を止めるために十分な物だった。
広域に広がる雷を避けることは叶わず、魔法障壁でそれを防いだエヴァンジェリンは、ゼクトが魔法を完成させたという事実が視界に入っていた。
「滾れ! 迸れ! 赫灼たる滅びの地神 引き裂く大地!」
速度で勝てぬのなら、それを生かせぬほどの量で責めればいい。ゼクトが行った戦術がそれで、無詠唱を二つ、詠唱を含めた最上級呪文一つの三連打によって文字通り物量で圧殺する。さらに最後の引き裂く大地は、その密度は生物を全て飲み込んでしまうほどのものだった。
自身以外の四方を滅ぼす灼熱の岩流が魔法となって表れ大地を焦す。それを自分は避けることができないと、エヴァンジェリンの頭は導き出す。
魔法での迎撃は間に合わない。同レベルの呪文はこおるせかいなどを習得しているものの、無詠唱で放てるほどの練度は持ってはいない。
そしてエヴァンジェリンが選択したのは、『断罪の剣』による斬撃だった。無詠唱で引き裂く大地と同等の密度を持てる魔法が、それだけしか存在しなかったのだ。
「あああああああ!!」
『加速領域』によって速度を嵩増された斬撃を幾重にも迫る魔法へと放った。だがそれでも――エヴァンジェリンがゼクトのその魔法を防ぎきることはできなかった。
ゼクトも自身の放った魔法がエヴァンジェリンを捉えた確信はあった。事実魔法を放って数秒も立っているのに静粛が辺りへと流れている。
「く…あ」
小さな声がその静粛の中に流れた。粉塵が風で流れ、その中から動いている小さな影が現れる。
そこにいたエヴァンジェリンの姿は酷い物だった。うつ伏せになって倒れ、髪や肌は焼けただれ、服もボロボロになっている。徐々に体が再生しているが、本人は身体を動かすことができていなかった。
「…………」
ゼクトはエヴァンジェリンのその状態を見ても、何も思おうとはしなかった。最上級の呪文をまともに受けてしまったのなら、そうなってしまうのも予定通りの事だった。
近づいて杖をエヴァンジェリンへと向ける。このまま魔法を放てばいい。いくら真祖の吸血鬼とは言え、魔法障壁も張らずに文字通り消滅させたのなら、再生することは不可能の筈だ。
「……もう、帰れ」
ゼクトはそう呟く。
自分はカグラを殺さなければならない。そうでなければフィリウスではいられない。だがエヴァンジェリンを殺さずともフィリウスでは居られるのだ。創造主に命令を受けていないのだから、人形がそれに従う理由は無い。
『本当に?』そうゼクトの中で問いかけられる。自分はただ、エヴァンジェリンを、共に旅をした『ゼクト』の友を殺したくなかったのではないのか?
「い、や……だね」
その声は小さくとも確かにゼクトへと届いていた。
力を込めた拳から血液が溢れ、筋肉が拒絶反応を起こしたように痙攣する。確かに再生していると言っても、動ける状態ではない。
それでも、エヴァンジェリンは立ってゼクトを見据える。
「私、は。もっとキサマと旅をしたいんだ――」
鈍い打撃音が辺りに響き渡る。エヴァンジェリンが言った言葉を遮るように、ゼクトはエヴァンジェリンを蹴り飛ばしていた。
ボールの様に大地を転がったエヴァンジェリンはやがて岩にぶつかって止まると、それを追い掛けるようにゼクトも歩き出す。
そして足元に倒れ伏すエヴァンジェリンの胸倉を掴んで持ち上げ目線を合わせた。
「ワシは、人形じゃよ」
ゼクトは呟く。
「お主と歩んできたゼクトではない。『ゼクト』が、多くの滅びを成したバケモノで在るはずがなかろう」
かつてカグヤがフィリウスへと言った『英雄としてのゼクト』。それが自分と言うバケモノが望んでいいものではない。成れないと理解してしまったからこそ、ゼクトは人形――フィリウスであろうと決めたのだ。
「それが、どうしたと言うのだ?」
それをエヴァンジェリンは笑う。
「私と歩んできたゼクトという馬鹿は、キサマしか居ないだろうが! 私は! 『キサマ』と旅をしたいと言った! チャチャゼロやキサマとバカやって、また笑いたいから私はこう言っているのだ!」
――煩い。
エヴァンジェリンの理屈は勝手だ。自分が行いたいから、それを理由にゼクトが人形になろうとするのを遮っている。
ならばその口を塞げばよかった。人形なら耳障りだと言えば良かった。だが彼は、
「過去に何があったか知らんが、今までが楽しかったことは本当だろう!キサマは――」
「人形になってそれを全部投げ捨てて、それでいいのかゼクト!!」
「良いなどと、言えるわけが無いじゃろうがァ!!!」
ゼクトは声を荒げ、そのまま残った拳でエヴァンジェリンの頬を叩きつけようとした。
だがそれはエヴァンジェリンによって止められる。再生した腕がゼクトの拳を受け止め、持ち上げられた身体をゼクトを蹴り飛ばした反動で後ろに跳ぶと、腕に『断罪の剣』を作り出した。
同時にゼクトも創造主の掟を召喚しエヴァンジェリンへと突きつける。両者ともに構え、ゼクトは荒い口調のままエヴァンジェリンへと言った。
「魔法世界の万という人を滅ぼした! 何も思わず、何の感慨も無く、救済と唱って消し去ってきたのじゃ!」
「ならばそれをどうやって償う! どうやって罪を背負う!? ゼクトは――ワシにそんなことを成すことは不可能じゃろう!」
どんなことをしてもゼクトが嘗て魔法世界の人を消してきた事実を消すことはできない。そしてそれを罪だとゼクトは知ってしまったからこそ、自分は生きていてはならない存在だと理解した。
なら自分が歩むためには、人形に成る以外に手段が無いだろう。
無詠唱による魔法の応酬により、今度は互いに中距離を保っている。魔弾の群れを断罪の剣で切り裂きながら、エヴァンジェリンは叫んだ。
「不可能だなんて、できないだなんて誰が決めた!」
魔法をエヴァンジェリンは唱えようとはしなかった。今考えることは言葉であり、無詠唱を行うための魔法の文章ではないのだから。
「誰も何も当たりまえのことじゃろう! 目撃者は全て消した! 償う先などありはしない! 罪を背負った化け物が――『ゼクト』という英雄に成れるはずもない!」
カグラの言葉は、正に呪いだった。
彼女が言った『ゼクト』は、魔法世界にある物語にある偉大な魔法使いの、英雄の名前だった。
だがフィリウスにとってそれは命令と同等だ。その存在に成ろうとして、人形がその英雄に憧れを持って変質し、そして今更ながらその思いを抱いたことが間違いだと知る。そのジレンマこそがゼクトを壊した一因でもあるのだ。
「ヴィシュ・タル リ・シュタル ヴァンゲイト! 契約により我に従え高殿の王 来れ巨神を滅ぼす燃ゆる立つ雷霆 百重千重と重なりて走れ稲妻!」
目の前からいなくなればいい、聞きたくない。そんな幼稚な考えから、ゼクトは千の雷を唱え発動させる。
対してエヴァンジェリンは、その魔法に対して何かをすることは無かった。
エヴァンジェリンは『ゼクト』という英雄を知らない。だが目の前にいる彼がそれに成りたいのだと知って、それでもバケモノであることが枷になっていることは分かった。
ふと、チャチャゼロに言われてゼクトを追いかけることになった言葉を思い出す。ふ、と小さく笑ってエヴァンジェリンはゼクトの瞳を捉えた。
「私は! 人間に成る術を見つけたぞ! バケモノが、真祖の吸血鬼が人間に成る術をだ! 誰もが不可能だと言って、何もしなかったことをだ! ゼクト!」
エヴァンジェリンは叫び、忘れていたことを思い出していた。
吸血鬼が人間に戻ることなど不可能だ。それが世界の『当たり前』であったし、吸血鬼は『悪しき者』であると世界から定められていたことだ。
それを決めたのは誰だ。
少なくとも自分だけは決めてたまるものか。『神』なんて不条理な物が存在し、世界に送られる程の理不尽な物が世界に在ってたまるか。
「万人殺したバケモノ? だからどうした! そのバケモノが罪を償えないなんて誰が決めた!」
「バケモノが――
「――あ」
だからこそエヴァンジェリンは笑う。不可能などと言って決めつける全ての者を。
そうして歩き続ける彼女を愚かだと笑う物は幾らでも居るだろう。それでも彼女は自分が成したという自負がある。
ゼクトの呟きは放たれた千の雷によってかき消される。たった一人を殺すには大きすぎるその呪文は、叫ぶエヴァンジェリンを飲み込んで、
それを突っ切ってゼクトへと向かうエヴァンジェリンの姿が視界に入った。
千の雷が完成し万全の状態で放たれたのならばエヴァンジェリンが動ける道理は無かった。だが最後の最後で式を乱されたその魔法は密度が下がり、膨大な魔力の塊となっていたのだ。
無論それでも威力は有る。ただそれはエヴァンジェリンが断罪の剣で切り裂ける程度のものでしかなかっただけの話だ。
断罪の剣によってゼクトの持つ創造主の掟が弾かれ後方へと転がった。エヴァンジェリンが何かをしたと考えるよりも先に、ゼクトは自分が地面へと倒されているに気が付いた。
「キサマは、キサマだゼクト。人形じゃないのなら、成ろうと思えば何にだってなれるだろう」
仰向けになって倒れる自分の上へと跨るように、エヴァンジェリンが乗っている。そして自分の首元へと断罪の剣を突き付けられているのが見えた。
ゼクトは自覚する。自分がもう――人形に成れないという事に。
理解してしまったのだ、人形に戻ることが嫌だと。ゼクトであったことを消したくないと。そんな気持ちを抱いて人形に戻ることなどできなかった。
「……ワシには、無理じゃよ」
不可能であることを可能にした彼女とは違い、自分にそんなことができるとは思えない。『ゼクト』という英雄に成りたい――それでもそこまでたどり着くためにどうすればいいのか分からなかった。
「だったら、少なくともキサマが成るまで尻を蹴飛ばしてやる。……ゼクト、これは『契約』だよ」
「……契約?」
「少なくとも私は、契約を破ったことは無い。罪を償いたいなら償え。英雄に成りたいのならなってしまえ。それまでは――私が見ててやる。それが契約だ」
エヴァンジェリンは笑う。もう何百年もかけてここまで来た。そこに何年乗ろうと同じ事だろう。
「ああそれは、心強い契約じゃなぁ」
初めから、逃げなければよかったのだ。
自分がやったことの罪に耐えられないから、人形と言う存在に逃げ出そうとした。絶望と向き合うことができなかったから、人形のふりをした。
だけど目標は初めからあって、そこに向かって走り続ければいいだけの話だったのだ。
「それならば、ワシがどこかで死ぬまで生きて居て欲しいものじゃな」
ゼクトは憎まれ口を叩き口元に笑みを作る。それは人形としての行いではなく、ゼクトと言う存在の意思によって行われたことだった。
「どこかに行こうとしていたくせに言ってくれるな。それなら――」
「貴様に繋がりをくれてやる」
エヴァンジェリンが指を振って魔力を操ると、自分たちが居る場所に六芒星の魔方陣が広がった。
そうしてにやりと笑ったエヴァンジェリンがゼクトへと顔を近づけ――
――
りぃん、と。透き通った鈴の音が響き渡る。
そこは薄暗い王宮の奥深く、四方からの入口のある広い部屋であり、高い位置に造られているのか中央への道を橋のようにかけられている。その上からは奥底が見えず、奈落の谷の淵にでもいるようにも感じる。
そんな部屋を一人、中央へ向かって歩く人物がいた。地面に着きそうなほど長く伸ばされた髪を二つに纏めていたが、黒いローブをかぶっているためはっきりとは見えない。本来ならばそこは王家の者以外が入ることは叶わない。戦争などの切り札を安置されたその部屋は、確かにそれに相応しい神秘的な雰囲気を醸し出していた。
そこを訪れたその存在は王家の者ではない。だがその存在がそこに居ることを許されているのは、あらゆる意味で超越した存在であるからに他ならない。そしてその存在は、部屋の中央に安置されたその存在を見上げた。
それは封印だった。空間ごと時を止め、意志のみを確立させることしかできないその封印の外見は、まるでクリスタルのようだ。そして、その中には一人の少女が存在していた。
「……黄昏の姫巫女よ、我が末裔よ、貴女はなにを思う? 何を見る? 何を聞く? 孤独な道か、平穏の道か、それとも険しくも満たされた道か」
その少女を見上げるその存在に表情は無い。翠と蒼の瞳はまるで硝子の水晶で、生有る者がもつ光を宿してはいなかった。だが、封印されている少女を見上げるその眼には、どこか暖かい物が感じられる。
それは同情だろうか。このような存在を生み出してしまった自分への怒りだろうか、それともこの娘が先にたどる道の一つを、理解してしまったからだろうか。
「全てを満たす解は無い。九十九を満たしたその先に貴女の場所は無い。だから、過ちは正さねばならない。…っ!?」
そこまで呟いたところで、その存在は何か痛みを耐えるように片手で頭を押さえた。数秒そうしていただろうか、やがてゆっくりと頭に置いた手を離すと、その掌を見つめた。僅かに振るえるその腕の袖は、『白い』ローブで纏われている。
それは彼の存在を表すものではなく、彼女自身を表したものだ。
「……もう、もたない。ゼクト――」
掌を握りしめ、身体中に魔力を纏った。その瞬間、まるで元々その色であったかのように黒いローブが消え、白いローブを羽織ったその姿を現した。
同時に現れたのは、黒い杖だった。先は鍵を、その反対は星を模したその杖は、本来あるべきではない世界の始まりの鍵であった。そしてそれを握り、その存在は佇んだ。じっと目を瞑り、願うように手を合わせる。またも、黒は彼女を浸食する。
「早く私を、殺しに来て」
黒いローブがその身体を包む。そして杖に魔力を通されると、足元に一人用の転移魔法陣を作られた。
まばゆい光が部屋を照らす。そしてその光が収まった時、そこには初めから封印だけしか無かったとでも言うように、黒いローブのその存在は姿を消していた。