比翼連理   作:風月

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力尽きて

 雨脚がだんだん早くなってきていた。

水滴が、濃く生い茂る葉を伝って地面に落ちていく。ただでさえぬかるんでいた地面だが、ところどころに水たまりができ始めていた。

 そんな最悪ともいえる環境の中でさえ、呂布はどこまでも自然体だった。方天画戟を持った右手はだらんと下げていて、一見すると無防備だ。

しかし、体からにじみ出る隠しきれない闘気は、間違いなく呂布が強者であることを示している。

全く隙がない。珊酔(さんすい)は短刀を構えたまま、身動きが取れなくなった。

 固くなった珊酔を上から下まで見た後、呂布はコテンと首を傾けた。

 

「……空気が、違う」

 

「は?」

 

「お前、あいつらと同じ服着てる。けど、黄巾じゃない。……なんでいる?」

 

「……」

 

 珊酔は黙り込む。答えられるわけがない。

 

「……まあいい。恋のやることは一つだけ」

 

 動かない珊酔に、呂布は耐えられなかったらしい。無表情のまま、大きく首を回して、方天画戟を珊酔の方に突き出した。

 

「お前、試す」

 

 溢れんばかりの闘気が、正面から珊酔に襲い掛かる。

背筋に走る悪寒。全身の毛穴から冷や汗が噴き出てきた。

 なるほど、これは『もの』が違う。今すぐ背を向けて逃げ出したくなる本能を、理性で無理やり押し殺して、呂布を睨む。任務を無事に成功させるための最低限の時間は、稼がなければならなかった。

 

「……行く」

 

 律儀に宣言までして、呂布は珊酔にとびかかった。何の工夫もない、真正面からの薙ぎ払いである。

珊酔はそれを受けることなく、左に飛んでかわす。見えたわけではない。本能的に感じて、逃げたのだ。それから瞬きする時間も経たないうちに、珊酔が立っていた場所を方天画戟の刃が通過する。

轟音がとどろいた。

 あきらかに方天画戟の範囲より遠くにある木々が真っ二つに切れ、地面に倒れていくのを見て、寒気がした。

目で追えないほど早く、そして強い。

 強さは感じた。そして、牛金の話から、斬撃を飛ばすであろうことも予測していた。だが、目の良い自分が、正面から見て捉えられない物だとは思っていなかったのである。どうするか。

極限の状態で、珊酔は頭を回す。だが、ゆっくりと思考を巡らせる時間はなかった。

自らの一撃を完全に躱された呂布は、すぐに珊酔の方に体を反転させていた。彼女には珍しく、口角が上がっている。久々の粋のいい獲物に、興奮しているのかもしれない。

 と、呂布の姿が珊酔の視界から消えた。そして、自分の左側からきこえた、木の枝が折れる音。音がした方めがけて右手の短刀を投げつける。乾いた金属音が響くと同時に、珊酔は地面を蹴り、跳躍した。

自身の三倍程度の高さに伸びていた枝まで到達すると、ふわりと着地する。泥に足を取られたせいで、全力だというのにいつもの半分も跳べていない。とはいえ、ひとまず、呂布から離れることはできた。

左手に持っていた短刀を右手に持ち替え、一息つこうとした。その時。

 珊酔の眼前に、赤い怪物がいた。呂布は珊酔の目の前まで軽々と飛び上がり、上段から己の獲物をまっすぐ振り下ろしてきたのである。

 

「はあ!?」

 

「遅い」

 

 予想外の事に、珊酔の行動がほんのわずか遅れてしまった。方天画戟が纏った風が唸りを上げて、珊酔を襲う。なんとか身をよじったものの、呂布の攻撃を完全に躱すことはできなかった。

 

「ぐっ」

 

 右肩に衝撃を受け、珊酔は呻いた。

 短剣が無残に砕け、鮮血が宙を舞う。呂布の剛撃によってへし折られた枝と共に、珊酔は地面に落下した。

 受け身などとれなかった。衝撃で泥が跳ね、珊酔は無様に倒れ伏す。それでも、なんとか立ち上がったが、もはや、まともに戦える状態ではなかった。

 珊酔の右肩から手首までは、表皮が抉られ肉が露出していた。さらに、砕けた短剣の破片が突き刺さっており、痛々しい。顔や耳、太ももにも短剣の欠片で傷を負っており、体のあちこちから血が流れ出ていた。

右腕を庇い、泥だらけの体で立つ珊酔に向かって、自らの斬撃で切り倒した木々を踏みつけて、ことさらゆっくりと、呂布が近づく。

 絶体絶命の危機だというのに、珊酔の目は死んでいなかった。

今自分が倒れれば、呂布は曹仁たちを追う。ぎりぎりまで時間を稼ぐことが、今できる最大限の仕事だと、珊酔はわかっていた。

右肩から先が熱い。だが、痛みはまだない。まだ自分は動ける、戦える。

 珊酔は大きく息を吐いて、呂布を正面から睨みつけた。

赤髪の怪物と、満身創痍の銀獣の視線が交錯した。そして。

 

「……やめた」

 

 急に、呂布の殺気が消えた。方天画戟の切っ先は下げられ、呂布はくるりと踵を返した。 

珊酔は、目を瞬かせる。予想外の展開に驚き、つい、呂布の背にむかって声をかけてしまった。

 

「おい」

 

「……なに?」

 

 律儀にも呂布は足を止めて、肩ごしに珊酔を振り返った。相変わらず目に光がないが、いくぶんか空気が柔らかくなったようにも感じる。

 不思議だった。

 

「決着はつけないのか」

 

「おまえ、もう、戦えない。……手負いの獣、いたぶっても、面白くない。それに……」

 

 呂布は言葉を切り、視線を地面に落とした。

 

「向こうで、張角打ち取った。恋たちの仕事……終わり」

 

 本物の三人のことは見逃す。そういう意図を察して、珊酔はほっと安堵の息をはいた。

 

「そうか……」

 

「これ、貸し。……いつか、会った時に」

 

 それは、死ぬな、という呂布なりの励ましだったのかもしれない。

その言葉を最後に、呂布はその場を去った。こちらにやってきた時と同じように、あっというまに気配が遠ざかる。

ぐちゃぐちゃして走りにくい地面なんて、呂布には全く関係ないようだった。

 己の索敵範囲から呂布の気配が消えたとほぼ同時に、珊酔は地面に座り込んだ。右腕の大きな傷の熱い感覚は、痛みに変わりつつある。動くことが億劫だった。

 肩から手首までの傷を見る。心臓の鼓動に合わせて、今も血が流れ出ていた。この場でぼーっとしていたら、そう遠くない時間に血が足りなくなるのだろう。血が無くなれば、人は死ぬ。もちろん、自分も。

運よく命を拾ったくせに、何もしないまま死ぬのは、流石に格好悪いだろうか。

 珊酔は無事だった左手を使い、ぼろぼろになった服を脱ぐ。黄色い布地の端を歯で抑えて、力いっぱい引きちぎった。何度かそれを繰り返し、手ごろな大きさと長さに加工したところで、露わになった肉の上にぐるぐると巻きつけ、肩口で強く縛る。

服はすでに泥と血にまみれて、衛生的にはよくないだろうが、仕方ない。

 

 珊酔は雲で覆われた空を見上げる。雨は止みそうにない。この傷で、陳留までは走れない。

迷惑だろうが、国境近くの砦に駐屯している曹純の世話になるしかなさそうだった。

心配性の義従妹に、更に心労を掛けるのは心苦しいが、彼女ならどんな結果になっても、適切な処置をとってくれるはずだった。

まだ、董卓軍は近くにいるはずだ。見つからないように、最後まで注意しなければ。

 

「よし。行くぞ、俺」

 

 自分に喝を入れて、珊酔は雨の降る森を、誰にも見つからないように走り出した。

 

 

 そして、その日の夜更けのこと。

国境近くの砦に駐屯している曹純は、深夜だというのに、自室の中をぐるぐると不審者のように回っていた。

先ほど、董卓軍が領地から撤退したという報告を部下から受けたことで、曹純の心配の虫がうずきだしたらしい。

 

「ああ、心配だわ。お義兄さんたちは、無事に張角を連れ出せたかしら。足の速い三人でも、陳留までは日数がかかるし、私のところまで報告が来るのはもっと遅くなるのは分かっているけれど、やっぱり心配だわ。部下に、董卓軍が最後にいた森を探索させようかしら?でも、あの森は慣れた人じゃないと遭難する恐れがあるわよね。華琳姉さんから指示が来た時まで、我慢するべきかしら。……ああ、私の方で、何かできることがあればいいのに」

 

 

 曹純。字は子和(しわ)。真名は柳琳(るーりん)。曹操の従妹であり、曹仁の実の妹である。曹操に仕えている親族の中では一番若く、つい先日成人したばかりだった。若いとはいえ、身長は曹操の親族の中でも高い方であり、どこがとは言わないが、発育も良い。

 読書と勉学という学者肌の趣味を持つが、恵まれた体型の恩恵を受けて、武術も卒なくこなす。そんな彼女の、数少ない欠点のうちの一つ。それが、『身内に対する異常な心配性』である。

 

「心配だわ、心配だわ、心配だわ……知らせが来るまでずっとこの気持ちと付き合わなければいけないのね」

 

 嘆きながら、曹純は部屋の中を忙しなく動き回る。ざわつく心を少しでも抑えるためだった。

 曹純はお姉ちゃんっ子であり、小さな時から姉の曹仁の後ろをついて回っていた。

小さな時は、ただ、二人仲良く安全に遊んでいた。

 しかし、成長するにつれ、曹仁が曹操に対して劣等感を持つようになる。そして、無茶なことばかりするようになった。

曹純の目の前で曹仁が怪我をすることは日常茶飯事。無茶は止めるように進言しても、全く聞き入れてくれない。

大好きな姉を見限ることはできなかった。ただ、はらはらとしながら姉の傍に居て成長を続けた。心配性は、その結果備わった性格である。

 曹仁が珊酔の副将に就任して、ある程度落ち着いてからは、曹純の心配性も少しは良くなった。だが、突発的に今回のような『発作』が起こり、心配事が片付くまで他の事が手につかなくなってしまうのだ。

 

「うう……状況を聞かせに、誰か陳留に向かわせようかしら。でもでも、足の速さじゃ珊酔隊の兵士には敵わないから、行き違ってただの無駄足になる可能性も……ああ、でも、どうしよう」

 

 曹純は、もはや泣きそうであった。

 そんな時だ。自室の窓が急に開き、黒い物体がべしゃりと床に落下した。

 

「きゃあっ」

 

 不意の出来事に、曹純は悲鳴を上げて反対の壁まで跳びすさる。腰につけていた鞘から剣を引き抜き、切っ先を動かない物体の方にむけた。

その状態を保ったまま、恐る恐る影に近づいていく。数歩の距離まで近づいた時、その物体が人であることに気が付いた。黒く見えたのは、体から流れ出る血が全身を染めていたからだ。

警戒しながらさらに近づく。うつ伏せの体の下に剣先を差し込ませて、一気にひっくり返す。

 そして、息を飲んだ。そこにいたのは、何事もなければ陳留に向かっている筈の、義理の兄―珊酔だった。

 

「お義兄さん!!」

 

 曹純は剣を放りだして、珊酔に駆け寄り、服が汚れるのも気にせずに抱き起こした。珊酔の顔は色を失っており、体は冷たい。布でぐるぐる巻きにされた右肩から手首までは、元の布の色がわからないほど変色していた。すぐに手当てしなければ、死んでしまう。

 曹純は、夜中だという事も忘れ、叫んだ。

 

「ああ……どうしましょう。衛生兵!だれか、誰か衛生兵を呼んで!!」

 

「……ん?」

 

「お義兄さん!よかった、意識があるのですね」

 

 曹純の声で意識を取り戻したのだろう。珊酔がうっすら瞼を開いた。濁った瞳が宙をさまよい、曹純の顔を認めて止まる。

 はあ、と熱っぽい息が、珊酔の口から洩れた。

 

柳琳(るーりん)……悪い。血だらけで……急に押しかけて。……驚いた、だろ」

 

「あ、当たり前です!お義兄さんは、今頃、姉さん達と陳留に向かっていると思っていたんですから!こんな……こんな酷い怪我をして、私の所に来るなんて」

 

「心配するな。……お前の大事な姉さんは……無事に、逃げた。……牛金も、いる。……無事に陳留まで……たどり着く」

 

 宥めるように、珊酔の左手が曹純の頭をそっと撫でた。

 

「姉さんの事はいいんです!いえ、安心はしましたけれど、今はそれより義兄さんの方が……何があったんですか!」

 

「……時間稼ぎで……呂布とちょっとな。全く歯が立たなかった……けど、あいつらが……戦場から、離脱できたから……いいんだ。これで」

 

「何がいいんですか!さっぱりわかりません!」

 

 珊酔は既に意識がもうろうとしているらしく、まともに会話ができていない。左手は曹純の頭をゆっくり撫で続けていた。

 

「俺が、いなくなって……張角たちがついて……これで、華琳も、過ごしやすく」

 

「……お義兄さん?お義兄さん!?」

 

 宙をさまよっていた左手が床に落ち、珊酔は唐突に意識を失った。曹純がいくら呼びかけても、全く反応しない。

本格的に、危ない状態だった。

 曹純は、再び叫んだ。瞳にはうっすらと、涙が浮かんですらいた。

 

「だれか!早く衛生兵を連れてきて!お義兄さんが……犬野様が、死んじゃう!」

 




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