比翼連理   作:風月

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彼の想い、彼女の想い

 いつのまにか、珊酔(さんすい)は、陳留の自室にぼうっと立っていた。

いつからそこにいたのか、一体なぜここにいるのか全くわからない。

 時刻はどうやら夜。室内は暗く、明かり一つついていない。窓から入る淡い月の光が寝台をうっすらと照らし、また、風の音だけが、強く響いていた。

 

 なぜか、異様に体が重かった。今まで自分が何をしていたのか思い出せないが、体が疲れているのは確かだ。

 とにかくひと眠りしようと、寝台の方に向かう。

大好きな寝具に頭から飛び込もうとしたとき、そこに小さな膨らみがあることに気が付いた。手触りのよさそうな金髪が、寝具の端からもれ出ている。

 その人影は、珊酔(さんすい)が普段愛用している枕を抱きしめるようにして、うつ伏せで寝ているようだった。

 

 くるまっている布団はこきざみに揺れていた。耳をすませると、弱弱しく、ちいさな嗚咽が漏れ出ている。声が高い。入っているのは女性のようだった。

 事情は分からないが、自分の布団で泣かれると、困る。

 

 珊酔(さんすい)は上掛けに左手を伸ばそうとして……ふと思う。本当に、自分はこの女性を知らないのだろうか。知っているような気がするが、思い出せない。強く意識しようとすると、鈍い痛みが襲ってきて、深く考えようという意志を砕く。 

珊酔(さんすい)が無意識に痛む頭を押さえようとしたところで、今度は自分の右手を自由に動かせないことに気がついた。

 一見、異常はない。だが、動かない。めったに動じない性格の珊酔(さんすい)ではあったが、自身を襲う数々の不具合に、本気で戸惑った。

 そんな時。

 

「ん……」

 

 布団の中の人物がもぞもぞと動き出した。居心地の良い場所が見つからなかったのか、ついには顔を上掛けの外にだしてしまう。

 白く透き通った肌が、月光に照らされてあらわになる。

金髪の隙間から見える薄青の瞳が、珊酔(さんすい)を見上げる。瞼の淵ににじんだ滴が、痛々しく、そして綺麗だった。

 桃色の唇が、震える。

 

「けの……?」

 

 視線が合い、真名を呼ばれ。ようやく珊酔(さんすい)は、思い出した。

 知っている。彼女の名前は……

 

 華琳

 

 

 

 

 

 

 

 そこで珊酔(さんすい)の視界は不自然にゆがむ。幼いころ、慣れぬ馬車に揺られて酔ってしまった時のような、ひどい感覚だった。

ひたすら目をつぶり、襲いくる吐き気を体を丸めてやりすごす。

いくばくもしないうちに、今まで動かなかった右腕から激痛が走り、限界に来ていた珊酔(さんすい)は目を開いた。

 

 見知らぬ天井が目に入る。ここがどこかと考える暇も与えず、何かが腹の奥からせりあがってきた。

喉をはい上がってくる何かを吐き出そうにも、上を向いた状態から身動きが取れない。それは徐々にせりあがって、珊酔(さんすい)の気道を圧迫し、呼吸を妨害する。

 

何とかしようにも、よわよわしく頭を振ることしかできない珊酔(さんすい)が、再び意識を失う寸前。横から伸ばされた手が珊酔(さんすい)の頭をつかみ、少々強引に左を向かせた。

 

「!う……おええ」

 

 口元に用意された盥に、珊酔(さんすい)は全てを吐き出した。聞き苦しい声を背景にして、どろりとした透明な液体が盥の中に広がる。

すえた臭いが、とても嫌だった。

 

珊酔(さんすい)を助けた人物は、逃げることなく、そっと珊酔(さんすい)の背中をさすり続けていた。

 

 生唾を呑み込み、荒い息を吐く珊酔(さんすい)。胸の苦しさが取れたものの、喉がひりついて辛い。無性に水が欲しくなった。

すると、心をよんだかのように、目の前に水の入った盃が差し出された。

唇に盃が押し当てられると同時に、珊酔(さんすい)は口の端から水がこぼれるのも気にせず、それを貪る。

背中をさすっていた手が止まったかと思うと、口元に布が当てられ、かさついている唇をこすった。

 

「……ようやく目を覚ましたのね。寝るのが好きとはいえ、半月というのはちょっと寝過ぎだと思うのだけれど」

 

 曹操だった。

 寝台の脇に置いてある桶に、今しがた珊酔(さんすい)の口を拭いた布を浸して、洗っている。

きっちりまとめている髪は、珊酔(さんすい)と二人きりだからなのか、今はおろされていた。

見覚えのない場所であるのに、さも当然のように居座っている曹操の姿は、余計に珊酔(さんすい)を混乱させた。

 

「華琳……?」

 

「なに?」

 

「ここは、どこだ?」

 

「柳琳が常駐している、国境の砦よ。あなたは、華侖と牛金を逃がしたあと、なぜか呂布とひと悶着起こして敗北。それで傷だらけになってこの砦にたどり着いて、気絶した。状況証拠と、柳琳や華侖達の話を総合すると、私はそう判断したのだけれど。本当のところは、どうなのかしらね」

 

「……」

 

 そういえば、張角たちを陳留に逃がすために、しんがりを引き受けたのだった。

呂布にあっさり負けたあと、死体を晒しては後々曹操に悪い影響が出るかと考え、砦に向かった。

曹純の目の前までたどり着いたときには、彼女には悪いが、上手い事死ねたかと思ったのだが。残念ながら、死にぞこなったらしい。

 

 ついていない。

 

怪我をしているということを忘れ、いつものように右手で頭を掻こうとして、珊酔(さんすい)は激痛にうめく。

 呆れた顔で、曹操が見ていた。

 

「馬鹿」

 

「……うるさいな」

 

 反射的に行動してしまったのだから、仕方ない。だが、あの怪我で右肩から先が残っているのは、珊酔(さんすい)としては驚きだった。城に向かて走っている途中で、右肩から先は既に感覚がなかったのだから。

 

「この体、治るのか」

 

 激痛に紛れて、指先がほんの少し動いた。だが、指がかろうじて動く程度の人間など、ただの役立たずである。半ばあきらめていたが、問わずにはいられなかった。

 

「ええ。傷跡は残るけれど、しばらく治療に専念すれば、問題なく動くそうよ」

 

「……本当に?」

 

「ええ。貴方を治療した『華佗(かだ)』という男がそう言っていたわ。傷の化膿、損傷、大量の出血……華佗(かだ)が偶然通りかからなかったら、死んでいたそうよ。傷の処置に加えて、気功での治療を行えたから」

 

「そうか。そいつは、礼をいわないといけないな。……すぐに会えるか?」

 

 色々と思うところはあるが、曹操の夫としては、流れの医師にでも礼をつくさなければならない。

 

「無理よ。華佗(かだ)なら数日前に出て行ったもの」

 

「は?」

 

「『何もしなくても、彼は数日後に目覚めるだろうから、自分がやることはもうない。となれば、次の患者を治すために俺は行かなければならない』ですって。一々声が大きくてうるさいとはいえ、あの才能、できれば手元に置いて置きたかったのだけれど……。夫の恩人に不義理はできないものね。また縁があればよいのだけれど」

 

 ため息をつく曹操は、本当に残念そうだった。

 夫が助かったことよりも、才能ある人間を逃したことを悔いているのだろうか。自分で一度捨てかけた命とはいえ、珊酔(さんすい)はひどくやるせないきもちになった。

苦戦しながらも、上向きに体勢を変え、妻から目をそらす。

 

「悪かったよ」

 

 絞り出すような声に、曹操は何を思ったのだろうか。手を止めて、おもむろに姿勢を正す。

 

「それは、何に対する謝罪なの?」

 

 恐ろしいほど真剣な声だった。

 

「私に断りもなく、半月眠り続けたこと?怪我をして死にかけたこと?黄巾軍にまざって戦闘をしたこと?呂布に敗れたこと?」

 

 曹操が珊酔(さんすい)にのしかかって、無理やりその顔を覗き込んだ。

 

「答えなさい、犬野」

 

 激痛が走る。だけど、痛いとは言えなかった。

 曹操の目にうっすらと光る物をみてしまったからだ。

 

「全部、だ。必要ないのに戦ったことも、戦って負けたことも、……おめおめと情けなく戻ってきてしまった事も、全部。お前の役に立つという約束で隣にいるのに、俺が逆に足を引っ張っている。……申し訳ないと、思っている。本当に」

 

 珊酔(さんすい)は、曹操がどうあろうと、彼女のために働くと誓った。喜んでいる顔が好きだった。

泣かせたいわけじゃ、なかったのだ。

 

「悪かった。だから、そんな顔しないでくれ」

 

 こんな駄目な男のために、お前が泣く必要なんてないんだ。

 

 

 

「……馬鹿。犬野が泣きそうになってどうするのよ」

 

「え」

 

「そんな顔をされたら……私が、何もいえなくなるじゃないの、馬鹿ぁ!」

 

 我慢が出来なくなったのか、曹操は珊酔(さんすい)の首に抱きついた。

右肩に負荷がかかり、焼けるような痛みが珊酔(さんすい)を襲う。傷が開いてしまったかもしれない。

反射的に、『自分に危害を与えている』曹操を引きはがそうと体が動くが、意志の力で抑え込んだ。

 

「ごめん。悪かった。だから、泣き止んでくれよ、頼むから」

 

 室内に曹操の嗚咽が響いている。普段強気で、弱みを見せない彼女が、泣いていた。

澄んだ瞳から、幾重にも滴が頬を流れ落ち、珊酔(さんすい)の首元を濡らしていく。

 怪我の激痛よりも、大事な彼女を泣かせてしまった事の方が、珊酔(さんすい)にとっては何万倍もつらかった。

無事な左腕で、華奢な体を抱え込み、あやすように背中を叩く。それ以外、珊酔(さんすい)にはどうしようもなかったのだ。

 

「……」

 

 どれくらいの時間がたっただろうか。

曹操は泣き止んでも、珊酔(さんすい)の首にしがみついたまま、離れようとしなかった。

珊酔(さんすい)の右肩から先は、既に痺れて感覚がなくなっていたが、彼も決して曹操を離そうとはしなかった。

 

「怖かった。貴方が死んでしまうかと思って。……私との約束を果たすまでは、死なないって信じていたけれど、真っ青で動かなくなった体を見ていたら……どうしても、嫌な考えが頭をよぎってしまったの。この曹孟徳が、天下を取ろうとしている私が、たった一人の人間に心をかき乱されるなんて、滑稽(こっけい)な話よね」

 

「……」

 

「だから、犬野。私の傍にいなさい。これは、罰よ。勝手に離れることなんて、もう、絶対に許さないから。だから、ずっと……」

 

「……華琳」

 

 それは、聞きようによっては愛の告白にも似ていた。

 だが珊酔(さんすい)は、曹操の恋愛対象は女だと知っていた。だから、そうは受け取れなかった。

飾りであっても、『夫』という存在を失うことが、『覇王』曹孟徳にとっては受け入れられないのだと。勝手に死場を作って逃げることは、許されないのだと。

 

「……わかった。いるよ、一緒に。俺の命はお前のものだ」

 

 天下取りにどれだけ時間がかかろうと、傍にいる。

たとえ、どれだけ自分が辛くても、死にたくなっても。曹操が望むなら受けいれる。……それが、罰ならば、仕方がない。

 

「約束、よ。破ったら、許さないんだから」

 

「ああ」

 

 更に強く抱きしめてきた曹操の体を、珊酔(さんすい)は、今出せる限りの力を使って抱きしめ返した。

 




書けない時であっても、気長に待っていて下さった皆様、ありがとうございました。
感想も大変励みになりました。

楽しんでいただけたら、幸いです。

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