比翼連理 作:風月
いつのまにか、
いつからそこにいたのか、一体なぜここにいるのか全くわからない。
時刻はどうやら夜。室内は暗く、明かり一つついていない。窓から入る淡い月の光が寝台をうっすらと照らし、また、風の音だけが、強く響いていた。
なぜか、異様に体が重かった。今まで自分が何をしていたのか思い出せないが、体が疲れているのは確かだ。
とにかくひと眠りしようと、寝台の方に向かう。
大好きな寝具に頭から飛び込もうとしたとき、そこに小さな膨らみがあることに気が付いた。手触りのよさそうな金髪が、寝具の端からもれ出ている。
その人影は、
くるまっている布団はこきざみに揺れていた。耳をすませると、弱弱しく、ちいさな嗚咽が漏れ出ている。声が高い。入っているのは女性のようだった。
事情は分からないが、自分の布団で泣かれると、困る。
一見、異常はない。だが、動かない。めったに動じない性格の
そんな時。
「ん……」
布団の中の人物がもぞもぞと動き出した。居心地の良い場所が見つからなかったのか、ついには顔を上掛けの外にだしてしまう。
白く透き通った肌が、月光に照らされてあらわになる。
金髪の隙間から見える薄青の瞳が、
桃色の唇が、震える。
「けの……?」
視線が合い、真名を呼ばれ。ようやく
知っている。彼女の名前は……
華琳
そこで
ひたすら目をつぶり、襲いくる吐き気を体を丸めてやりすごす。
いくばくもしないうちに、今まで動かなかった右腕から激痛が走り、限界に来ていた
見知らぬ天井が目に入る。ここがどこかと考える暇も与えず、何かが腹の奥からせりあがってきた。
喉をはい上がってくる何かを吐き出そうにも、上を向いた状態から身動きが取れない。それは徐々にせりあがって、
何とかしようにも、よわよわしく頭を振ることしかできない
「!う……おええ」
口元に用意された盥に、
すえた臭いが、とても嫌だった。
生唾を呑み込み、荒い息を吐く
すると、心をよんだかのように、目の前に水の入った盃が差し出された。
唇に盃が押し当てられると同時に、
背中をさすっていた手が止まったかと思うと、口元に布が当てられ、かさついている唇をこすった。
「……ようやく目を覚ましたのね。寝るのが好きとはいえ、半月というのはちょっと寝過ぎだと思うのだけれど」
曹操だった。
寝台の脇に置いてある桶に、今しがた
きっちりまとめている髪は、
見覚えのない場所であるのに、さも当然のように居座っている曹操の姿は、余計に
「華琳……?」
「なに?」
「ここは、どこだ?」
「柳琳が常駐している、国境の砦よ。あなたは、華侖と牛金を逃がしたあと、なぜか呂布とひと悶着起こして敗北。それで傷だらけになってこの砦にたどり着いて、気絶した。状況証拠と、柳琳や華侖達の話を総合すると、私はそう判断したのだけれど。本当のところは、どうなのかしらね」
「……」
そういえば、張角たちを陳留に逃がすために、しんがりを引き受けたのだった。
呂布にあっさり負けたあと、死体を晒しては後々曹操に悪い影響が出るかと考え、砦に向かった。
曹純の目の前までたどり着いたときには、彼女には悪いが、上手い事死ねたかと思ったのだが。残念ながら、死にぞこなったらしい。
ついていない。
怪我をしているということを忘れ、いつものように右手で頭を掻こうとして、
呆れた顔で、曹操が見ていた。
「馬鹿」
「……うるさいな」
反射的に行動してしまったのだから、仕方ない。だが、あの怪我で右肩から先が残っているのは、
「この体、治るのか」
激痛に紛れて、指先がほんの少し動いた。だが、指がかろうじて動く程度の人間など、ただの役立たずである。半ばあきらめていたが、問わずにはいられなかった。
「ええ。傷跡は残るけれど、しばらく治療に専念すれば、問題なく動くそうよ」
「……本当に?」
「ええ。貴方を治療した『
「そうか。そいつは、礼をいわないといけないな。……すぐに会えるか?」
色々と思うところはあるが、曹操の夫としては、流れの医師にでも礼をつくさなければならない。
「無理よ。
「は?」
「『何もしなくても、彼は数日後に目覚めるだろうから、自分がやることはもうない。となれば、次の患者を治すために俺は行かなければならない』ですって。一々声が大きくてうるさいとはいえ、あの才能、できれば手元に置いて置きたかったのだけれど……。夫の恩人に不義理はできないものね。また縁があればよいのだけれど」
ため息をつく曹操は、本当に残念そうだった。
夫が助かったことよりも、才能ある人間を逃したことを悔いているのだろうか。自分で一度捨てかけた命とはいえ、
苦戦しながらも、上向きに体勢を変え、妻から目をそらす。
「悪かったよ」
絞り出すような声に、曹操は何を思ったのだろうか。手を止めて、おもむろに姿勢を正す。
「それは、何に対する謝罪なの?」
恐ろしいほど真剣な声だった。
「私に断りもなく、半月眠り続けたこと?怪我をして死にかけたこと?黄巾軍にまざって戦闘をしたこと?呂布に敗れたこと?」
曹操が
「答えなさい、犬野」
激痛が走る。だけど、痛いとは言えなかった。
曹操の目にうっすらと光る物をみてしまったからだ。
「全部、だ。必要ないのに戦ったことも、戦って負けたことも、……おめおめと情けなく戻ってきてしまった事も、全部。お前の役に立つという約束で隣にいるのに、俺が逆に足を引っ張っている。……申し訳ないと、思っている。本当に」
泣かせたいわけじゃ、なかったのだ。
「悪かった。だから、そんな顔しないでくれ」
こんな駄目な男のために、お前が泣く必要なんてないんだ。
「……馬鹿。犬野が泣きそうになってどうするのよ」
「え」
「そんな顔をされたら……私が、何もいえなくなるじゃないの、馬鹿ぁ!」
我慢が出来なくなったのか、曹操は
右肩に負荷がかかり、焼けるような痛みが
反射的に、『自分に危害を与えている』曹操を引きはがそうと体が動くが、意志の力で抑え込んだ。
「ごめん。悪かった。だから、泣き止んでくれよ、頼むから」
室内に曹操の嗚咽が響いている。普段強気で、弱みを見せない彼女が、泣いていた。
澄んだ瞳から、幾重にも滴が頬を流れ落ち、
怪我の激痛よりも、大事な彼女を泣かせてしまった事の方が、
無事な左腕で、華奢な体を抱え込み、あやすように背中を叩く。それ以外、
「……」
どれくらいの時間がたっただろうか。
曹操は泣き止んでも、
「怖かった。貴方が死んでしまうかと思って。……私との約束を果たすまでは、死なないって信じていたけれど、真っ青で動かなくなった体を見ていたら……どうしても、嫌な考えが頭をよぎってしまったの。この曹孟徳が、天下を取ろうとしている私が、たった一人の人間に心をかき乱されるなんて、
「……」
「だから、犬野。私の傍にいなさい。これは、罰よ。勝手に離れることなんて、もう、絶対に許さないから。だから、ずっと……」
「……華琳」
それは、聞きようによっては愛の告白にも似ていた。
だが
飾りであっても、『夫』という存在を失うことが、『覇王』曹孟徳にとっては受け入れられないのだと。勝手に死場を作って逃げることは、許されないのだと。
「……わかった。いるよ、一緒に。俺の命はお前のものだ」
天下取りにどれだけ時間がかかろうと、傍にいる。
たとえ、どれだけ自分が辛くても、死にたくなっても。曹操が望むなら受けいれる。……それが、罰ならば、仕方がない。
「約束、よ。破ったら、許さないんだから」
「ああ」
更に強く抱きしめてきた曹操の体を、
書けない時であっても、気長に待っていて下さった皆様、ありがとうございました。
感想も大変励みになりました。
楽しんでいただけたら、幸いです。