比翼連理 作:風月
日が昇る前、あたりがまだ薄暗いころ。
隣では、曹操が穏やかな寝息を立てている。小さくきれいな手が、遠慮がちに、珊酔の夜着の裾を握っているのも既に見慣れた光景だった。また、珊酔が自分の夜着を握りしめている曹操の手を解くことができず、複雑な表情で見つめているというのも、いつもの光景であった。
珊酔が陳留の自室に担架で運びこまれてから、一週間以上が経っていた。
時間の経過に加え、見知った気配ばかりの環境に戻り睡眠がとれるようになったことで、珊酔の状態は一気に回復に向かっていた。
既に肩から先の傷はふさがり、血止めの包帯は巻かれていない。とはいえ、動かすと痛みが走る状態ではあるので、肩から二の腕までは、布で胴体にきつく固定してある。
怪我をしてからは、無意識に怪我をしている腕の方へ寝返りをうってしまい、毎晩激痛で飛び起きたものだが、ここ数日はそれもない。
珊酔の顔にくっきり表れていた目の隈も、今は完全に消えていた。
薄暗く、静かな時間も長くは続かない。城の厨房担当や侍従たちが動き出すころになると、太陽が地平線から顔を出す。
寝室にある大きな窓から、日の光が差し込んでくる。当然、曹操にも日の光は降り注ぐ。一定だった呼吸音が止まり、閉じていた瞼がかすかに動いた。
寝起きでぼんやりとした青の瞳が珊酔の姿を捉えるまで、そう時間はかからなかった。
「……もう、朝?」
「ああ。おはよう、華琳」
「……おはよう」
瞼を腕でこすりつつ、曹操が体を起こした。曹操は寝ぼけ眼のまま寝台から降りて、頭を左右に揺らしながら衣服が治めてある箪笥まで歩いていった。
下段にしまってある珊酔の服を選ぶために、床にしゃがみこむ。
曹操の意識が覚醒したのは、珊酔の傷に触らないような、触り心地が良い生地を使った服を選び終えたころだった。
自分の服を選びながら、曹操は夫に話しかける。珊酔の服は、大事そうに左腕に抱えられていた。
「体調はどう?」
「昨日よりもいい。……もうそろそろ、服だけ先に渡してくれないか。自分だけで着替えられるかためしてみたい」
「駄目。ある程度右腕が動かせるようになるまで、一人ではさせないわよ。無理して、悪化させるのが目に見えているもの。だいたい、その布は一人じゃまだ外せないでしょう」
「……」
曹操は呆れたように言う。未だまとめていない長い髪をかきあげて珊酔をにらむと、珊酔は無言のまま目をそらした。
珊酔も頭では分かっているのだ。
だが、着付けをはじめとした身の回りの世話を、全て曹操にやらせるというのが、どうにも申し訳ないのである。国境の城にいた時は、具合が悪くて気にする余裕もなかったのだが、元気になってきたら、それがひどく気になってしまう。
曹操は、妻である前に、陳留の太守である。この街で一番偉いのだ。
本来なら、契約で婿に入った自分の世話を、甲斐甲斐しく焼く必要なんてない……というか、やるべきではない。
曹操の部下の中にも、珊酔の世話は城付きの侍女、もしくは珊酔の直属の部下たちに任せるべきだと言う者たちが多くいる。だが、当の本人が頑として首を縦に振らないためどうしようもなく、今の状態が続いている。
「一々世話を焼かれたくないのであれば、早く体を治すことね。……脱がすから、こっちを向いて」
「……ん」
曹操は珊酔の夜着を脱がせて腕を固定してある布を解き、てきぱきと着替えさせる。珊酔がほぼ動けないときから世話をやいてきているので、手馴れたものであった。
「はい、できた。私も着替えるから、こっちは見ないように」
「へいへい」
指示されるままに、再び珊酔は布団に潜り、曹操に背を向ける。曹操はそれを確認してから自らの服を脱ぎ、急いで着替えを始めた。曹操であっても、明るいところで己の裸を見られるのは、照れるし恥ずかしいのだ。
珊酔の裸を見るのも、恥ずかしくないわけではないのだが、やつれた体を視界にいれると、照れるより前に心配が来てしまう。
珊酔の怪我がはやく良くなればいいと、切に願った。
曹操が着替えて、長く垂らしていた髪をいつものように巻いて整え終えた時、寝室の扉が控え目に叩かれた。
「はい?」
「あの、おはようございます。
「今日の当番は季衣だったのね。入っても大丈夫よ」
「し、失礼しまーす」
細く開かれた扉から、遠慮がちに入ってきたのは親衛隊長の許褚であった。先日の反乱での戦働きが認められ、将見習いから親衛隊の長に抜擢されたばかりであった。
その許褚の両手には、大きなお盆。珊酔と曹操の食事が、美味しそうに湯気を立てていた。
しれっと部屋に置かれた丸い卓の前に陣取っていた珊酔が、それを見て目を丸くする。
「俺と華琳の分だけなのか?」
「えっ!?な、何か足りなかったでしょうか?お、おかわりならすぐに持ってきます!」
「まて、早まるな」
珊酔は元来、あまり食事をとらないたちである。許褚の感覚でおかわりを持ってこられても、食べられるわけがない。
「朝食担当が他の奴だったときは、いつも自分たちの分も持ってきて、ここで一緒に食べていくからな。てっきりお前もそうだと思っていたから、驚いただけだ。頼むから、これ以上飯を増やさないでくれ」
「ふふ、別に予定もないのだから、動けなくなるまで食べてもいいのよ?」
「飯がまずくなる。勘弁してくれ」
げんなりする珊酔のななめ右に、曹操が椅子を運んできて座った。
「そうそう、季衣さえよければ、自分の分もこちらに持ってきて一緒に食べない?最近はずっと3人以上で食べていたから、二人だけだと少しさびしく感じるのよ。犬野もいいわよね?」
「そうだな」
「ふえっ!?……ああっ!」
円卓にお盆を置こうとした許褚が、驚いたように肩を震わせた。その拍子にお盆が小さな手から落下する。
お盆が円卓にぶつかって食事が飛び散ってしまう。青くなって手を伸ばすも、間に合わない。
もう駄目かと思われたとき、すっと珊酔の左手が伸びてきて、何事もなかったかのようにお盆を受け止めた。負傷中とはいえ、反射神経の鋭さとバランス感覚は健在である。
「おい、危ないぞ」
「主の食事よ?もうすこし丁寧に扱いなさい」
「……本当にごめんなさい。その、驚いて……。ごめんなさい」
言い訳のしようもない。
許褚は、城に来て大分経つとはいえ、曹操の覇気を前にしてしまうとどうしても緊張してしまい、ぎこちなくなる。
また、あまり交流のない珊酔は、許褚にとって怖い人だった。以前街を一緒に視察した時は珊酔は不機嫌だったうえ、籠の件で迷惑をかけてしまったので、怖い以外の印象がないのだ。
珊酔は、本当は優しい人なのだと、曹仁などは言う。
その言葉を何度も思い出し、大丈夫だと暗示をかけて今日に臨んだが、体が縮こまってしまうのは、抑えられなかった。
許褚は肩を落として目を伏せる。
一方、許褚を強い口調でたしなめた曹操は、その語気の強さとは裏腹に、どこか楽しそうにしていた。
卓に肘をつき、いじわるそうに口の端を上げている。……残念ながら、うつむいて凹んでいる許褚には、見えていないのだが。
未だやつれているとはいえ、珊酔の回復は目に見えて進んでいる。それが曹操にも安心感を与え、部下で遊ぼうかといういたずら心を起こさせていた。
「……華琳」
楽しそうな曹操とは対照的に、珊酔は苦々しい表情だった。
緊張している許褚に、あの間で話しかければ、何かやらかすかもしれない。普段から許褚を身近に置いている曹操である。許褚がどういう心理なのか、わかって仕掛けたに違いないのだ。
どこぞの軍師や曹操の従妹たちと違って、許褚は幼いうえ、自分と同じ農民出身。女同士が普通という、上流階級の常識も知らなければ、お仕置きを受けて喜ぶような変態ではない。曹操の夫である以上、色々と諦める決意をしている珊酔だが、これは頂けない。
無事だった食事をお盆から卓に移しながら、目を細めて曹操を睨む。
珊酔から、『程々にしろ』という視線の圧力を受けたところで、曹操は笑顔を苦笑に変えた。
部下の可愛い姿は見たい。だが、珊酔を不機嫌にさせてまで続けることもない。
「仕方ないわね。犬野に免じて、今日は許してあげましょう。……次はないわよ?」
「あ、ありがとうございますっ!」
はじかれたように顔を上げ、嬉しそうにする許褚。まるで子犬のようだ、と珊酔は思った。
「それで、先ほどの話の続きなのだけれど。季衣、あなた、まだ朝ご飯は食べてないのよね?」
「はい。お二人のお食事を準備してから、食堂で食べようと思って……」
「ふうん。誰かと一緒に食べる約束でもしていた?」
「い、いいえ!!私だけです」
「ならば、やはりここで食べなさい。一人で食べる食事は、味気ないでしょう?」
「で、でも……」
やんわりと勧めるが、許褚は落ちつきなく視線を迷わせ、もじもじと手を摺合せて、じつに落ち着かない。
許褚にしてみれば、このまま解放してほしいというのが、本音だ。曹操は先ほど怒らせてしまったし、珊酔もどこか怖い顔をしている。だいいち、主人夫婦の中に自分一人だけなんて、せっかくのご飯の味がわからなくなるに決まっている。
とはいえ、断るのに都合の良い言い訳も思いつかない。困ってしまっていた。
許褚の態度を見かねた珊酔が、とうとう口を挟んだ。
「華琳。無理強いするものじゃないだろう。牛金たちは勝手に来てただけだ。朝食くらい、好きにさせてやれ」
「別に、嫌だったら断ってもいいのよ?何か罰があるわけでもないのだし。でも……」
そこで、わざとらしく曹操が言葉を切った。珊酔は嫌な予感がした。
「そんなに嫌がられると、やっぱり悲しいわ。私は、こんなに季衣のことを大事に思っているのに……」
寂しそうな顔で、肩を震わせてうつむくさまは、本当に落ち込んでいるようにも見えた。……実際目はいたずらっぽくきらめき、口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいたのだが。
もちろん、許褚には曹操の顔は見えない。
「す、すぐ持ってきます!!」
慌てた様子で、弾丸のように部屋から飛び出て行く。顔は真っ赤だった。乱暴に扱われた扉が、大きな音を立てて閉まる。
許褚の怪力で扱われて、扉が壊れなかったのは、奇跡だった。
「ふふっ。本当に、季衣は可愛いわね」
「……」
許褚が去って行った方を見つめて、悦に入っている曹操は気が付かなかった。そんな曹操を見て、珊酔がひどく苦しそうな顔をし、拳を握っていたことに。
「あの様子では、すぐ戻ってくるでしょうし。季衣が戻るまで、食べずにまっていましょう」
「わかってる……これで俺たちが先に食べていたら、季衣がかわいそうだ」
「ふふっ、そうね」
曹操が珊酔に向き直った時には、珊酔は卓に頬杖をついてため息をついていた。先ほどの苦しげな様子は、欠片も見せない。
だから、曹操も、『許褚をからかいすぎたせいで、珊酔の機嫌が少し悪くなった』程度にしか思わない。
……気が付かない。
「華琳、今日は一日書類仕事か?」
「ええ。出かけなければいけない仕事もないし、誰かに会う予定もないし」
「そうか」
「何か問題がある?」
「いや。毎日夕飯の時にはここに戻ってきているだろう?それで日中も城に籠りっぱなしは、可哀想だと思っただけだよ。怪我をしたわけでもなし、忙しくないなら、少し息抜きしたらどうだ?」
「処理しなきゃいけない最低限の書類はあるの。……息抜きは、犬野が元気になった時に一緒にするわ。犬野お薦めのお店に連れて行って貰えるの、楽しみにしているから」
「……覚えていたのか」
どこか驚いたような珊酔の表情が、曹操の癪に障る。
覚えているのなんて、当然だ。今まで交わした約束も、思い出も。全部、曹操の中に大事にしまってあるのだから。
「当然でしょう。…だから早く、私を連れて歩けるくらい、元気になって。待ってるんだから」
「……ああ」
言いつつ、珊酔は左手で頭を掻いている。考えている時や困っている時に、よくやる仕草であった。
珊酔はまだ、本格的な仕事には戻っていない。今は情勢が安定し、人手が足りているため、珊酔に無理させる必要がないのだ。
そんな珊酔の今の仕事は、体の機能が衰えないように、城を歩き、自分の部隊訓練を顔見世ついでに見学すること。それに、医者の指示のもと、右腕の機能回復に励む。具体的には、腕を揉んで血流を良くし、傷が開かない程度に動かす練習をするのだ。
目を離すと動き過ぎてしまう珊酔に、付き添いに充てられた部下が苦労するのも、いつもの光景である。
「でも、無茶だけは駄目よ。今日の付き添いの子にも迷惑はかけないようにね」
「……」
「犬野、」
「ごめんなさい、おそくなりましたー!!」
二人の間に緊張が走りかけた、丁度その時。乱雑な足音が階段を上ってきて、扉にぶつかる。大きな額に玉の汗を浮かべた許褚が、自分の分の朝食を持って帰ってきたのだ。
許褚が来た以上、二人でにらみ合うわけにはいかない。
曹操は笑顔で許褚を手招きし、珊酔は空いていた椅子を卓に寄せて、場所をつくってやった。
それからは、特に問題もなく、和やかな朝食が始まった。
許褚は緊張しきりだったが、なんとか、食事を終えることができた。……緊張のあまり、美味しいご飯の味がわからなかったのは、可哀想だったけれど。
だが、許褚を不憫に思った珊酔がさりげなく世話を焼いたおかげで、食事が終わるころには、許褚の珊酔に対する恐怖心はすっかりなくなったのである。
色々あったけれど、最終的には、有意義な時間だったといえよう。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
陳留に戻ってからの犬野の一日を、1話の短編風に仕上げるつもりが、
朝食までで5000字を超えてしまった(謎)。
続きます。
ご感想、誤字報告ありがとうございます。
いつも大変励みになっております。