比翼連理 作:風月
厠に行くという珊粋が先に二人の寝室を出たあと、曹操は夏侯淵を部屋に通して身支度を手伝わせる。最後に、平時に身につけている手を保護する布飾りをつけたところで、腕にくっきりと残る拘束の
鎧の下に着る装束なら腕全体を覆うことができるる。あの父親のために、今更着替え直すのは面倒に感じた。身内で、非常識な時間に来た来客だ。自分と
鏡台の前でくるりと一回転すると、珊粋がくるくるに整えてくれた両髪がふわりとついてくる。珊粋の手入れは今日も完璧だ。
「行くわよ、秋蘭」
「お待ちください、華琳さま」
部屋から出ようと曹操が戸に手をかけたところで、肩を強い力で捕まれた。いつも丁寧な夏侯淵にしては珍しく乱暴な手つきだった。
「まさか、その腕のまま行かれるおつもりですか」
夏侯淵の視線は、取っ手に触れている曹操の右手首に固定されている。真っ白に洗濯された布飾りは、逆に指の形の
「ええ、もちろん」
「いくら
「あの父だって、夜遊びに出た翌朝の朝議に遅刻したあげく、跡だらけで真っ赤になった首でそのまま出てきていたわ。私の手に気がついたとしても嫌みの一言二言があるくらいでしょう。そのくらい、問題ないわ」
「土地を持たない低位の官だった頃と、陳留周辺をを任されている今では状況が違います。親子二代にわたって、風紀の乱れた信頼できない者だと噂されたらどうするのです」
「それも、まあ間違いではないから難しいところね。私もたくさん遊んできたもの。春蘭、秋蘭、栄華・・・・・・。麗羽と取り合って口説いた娘達を入れると、両手の指で利かないくらいなのだから。あなただって、昔は首に赤い跡をつけたまま、会議や訓練に出ていたわよね」
「それは、華琳さまが・・・・・っ」
曹操はあえて色っぽく、肩越しに上目使いで夏侯淵を見やる。夏侯淵はひるんだように曹操から手を離し、不意打ちで赤くなった顔を隠すため横を向くしかなかった。もちろん、これが主のからかいだとわかっている。わかってはいても、身体の関係がなくなった今でも、昔から慕っている主の色っぽい仕草には反応してしまう。
「お戯れはおやめください。私がその気になったらどうするおつもりですか」
「あなたはそんなことしないもの。私は着替える気はないし、あなたも小言を言って気は済んだでしょう?」
「華琳さま!」
肩の拘束がなくなったのを良いことに曹操は薄く開いた扉に体を滑り込ませた。夏侯淵が気がついたときには、がたんと小さな音をたてて扉が閉まっている。夏侯淵が扉を開けた先には当然主の姿はなく、らせん階段の下の方へ遠ざかる靴の音がだんだん小さくなっていくところであった。
「まったく・・・・・・」
後ろ手に扉を閉めながら、夏侯淵は重いため息をつく。久々に振り回されすぎて、頭が追いつかない。叶うならば頭を抱えて座り込んでしまいたいくらいだった。
主は夫と良い夜を過ごせて、とにかく機嫌がいいのだろう。その証しでもある腕を見せびらかしたいのだと察することはできる。だが、それで主の目指すべき覇道がぶれ、愚王になってしまっては意味がない。
珊粋。我々から華琳さまを奪った男。やはり油断ならないと、夏侯淵は主の夫へ警戒心をさらにひきあげた。珊粋が曹操の敷くべき覇道の邪魔になるならば、自分が始末せねばならないのだ、と。
「秋蘭、なにをしているの。早く降りてきなさいな」
遙か下から、曹操が夏侯淵を呼ぶ。
「申し訳ありません、華琳さま」
声は震えていなかっただろうか。
夏侯淵は今の自分の表情がひどく歪んでいるだろうことを自覚していた。そして曹操が、今は浮かれているとはいえ、とても察しのよいことも十二分に知っていた。
いつも通りの自分を演じられるまで時間が欲しかった夏侯淵は、曹操を急かす役割でありながら、わざと時間をかけて階段を下りていったのだった。
駆け足でらせん階段を下りきっていた曹操は、夏侯淵がようやく階段を下り始めた音を耳で確認してから、城の本殿につながる扉を開ける。すると、扉が開かれるのを待ちかねたかのように、荀彧が勢いよく飛び込んできた。
「おはようございます華琳さま。今お一人ですか、お一人ですね!早急に
荀彧は青ざめた表情で両手を胸の前で握りしめて曹操に詰め寄ってくる。珊粋と言い合いをしている時以上の剣幕に、曹操もたじろぐしかなかった。
距離感もおかしい。普段の荀彧は、曹操から最低でも一歩の距離を開けて接している。しかし今は曹操が何もしなければ、唇同士が当たってしまうくらい近い。
昔なら喜んで唇を受け入れたかもしれないわね、などと考えながら、曹操はぐいぐいと顔に迫る猫耳をつかんで荀彧の頭を押し返した。予想以上に力のいる作業だった。
「桂花、まずは落ち着きなさい。時間があまりないから手短にね」
「も、申し訳ありません。・・・・・・曹嵩さまが
「なんですって?」
「無理を申しているのはわかっております。もし、どうしても読まなければならないのなら、張繍と華琳さまとの関係を示唆する部分は言わず、相手の要求の部分のみにしてくださいませ。また、珊粋さまに要求されることがあっても、手紙をそのまま渡さぬようにお願いいたします。たとえ内容が、華琳さまにとってとるに足らないものだとしても」
「・・・・・・理由は」
「申し訳ございません。今はお伝えする時間がございません。ですが、今まで何度も来る張繍からの手紙の始末を一任された私の経験から、必要だと判断して申し上げている次第です」
荀彧は一歩後ろに下がって、深々と
「曹家がより強くなるため、ひいては華琳さまの覇道のために必要なことなのです。なにとぞ、よろしくお願いいたします」
「わかったわ。だけど、父上との面会が終わった後、必ず理由を言うこと。わかったわね」
「・・・・・・かしこまりました」
曹操はうなずく。荀彧の出す策は強引な策も多々あれど、すべて曹操のことを思ってのもの。そして曹操は、自分の右腕と信じた者の決死の助言を突っぱねるほど狭量ではないつもりだ。
「お待たせいたしました、華琳さま。おや、桂花。華琳さまをお呼びする役割は私だけだったはずだが、なぜここに。面会の場を整える仕事があったはずだが」
ようやく階段を下りてきた秋蘭が曹操に声をかけた。次いで曹操と共にいる荀彧を見て目を丸くする。
「そんな仕事もうとっくに終えてきたわよ。今は栄華が曹嵩さまのお相手をしているわ。私のことよりも、なんであんたが華琳さまのあとから、華琳さまの寝室から出てきたのかの方が気になるわ。私が頭を悩ませているときに華琳さまにいかがわしいことしてたりしたら、許さないんだから」
「まさか。私は華琳さまをお止めしていただけだ。聞いていただけなくて、頭をかかえていたらつい遅くなってしまった。華琳さま、遅くなって申し訳ございませんでした」
「もういいわ。二人とも、行くわよ。栄華もそろそろ限界でしょうから、急がないと」
「はっ」
「かしこまりました」
夏侯淵が来たことでこの場に止まる理由がなくなった曹操は、二人を左右に従えて謁見の間に向かって歩き出した。
柔らかな朝の光が
一方の曹操は食堂からはただよってくる香ばしい匂いに意識を傾けていた。肉の焼ける匂い。そういえば数日前に、許褚が二つ向こうの山で熊を狩ってきていた。親衛隊の訓練中に襲いかかってきたから、兵達にもいい訓練になったと嬉しそうに報告してきたような。
その後、熊肉を美味しく食べるにはほどよい熟成が必要で、すぐに食べられないと知ったときの許褚のしゅんとした顔といったら。幼馴染みの子が城に来てくれていたら、すぐに美味しい料理にしてくれるのにと言っていたが、本当だろうか。熟成を早められる技術があるなら是非知りたい。
しかし、ちょうどいい熟成時期が今日だったとは知らなかった。つくづく、我が父は来訪を朝食の後に調整できなかったのか。二人の会話を右から左に流しながら、曹操はため息をついた。二人の言い争いの原因だというのに、完全に他人事であった。
「あんたがいつまでたっても華琳さまを連れてこないから、曹嵩さまがお茶を持ってきた女官とか口説き始めちゃったし、隙あれば誰かのお尻を触ろうとしてくるし、珊粋さまは挨拶したきり石像になって役立たずだし、とにかく大変だったんだから。・・・・・・まあ、油断してくれたから手紙の話も聞けたんだけど」
「ゆだ・・・・・・?すまない、上手く聞き取れなかった」
「なんでもないわ。とにかくあんたとあのでくのぼ・・・・・・珊粋さまが悪いのよ」
「曹嵩さまの女癖の悪さはどうしようもないな・・・・・・。皆にも悪いことをしてしまった。だが、お引き留めした理由もある。華琳さまの手首を見てみるといい。桂花なら私の気持ちがわかるだろう」
「手首って。・・・・・・あーーーーっ!!」
一拍おいて荀彧の甲高い悲鳴があたり一面に響きわたる。曹操たちが今歩いている場所は、角を曲がっていくばくも歩かないうちに謁見の間に入れるような位置だ。確実に中まで届いただろう大声だった。
「ふふ。めざとい桂花が気がつかないくらいだもの。秋蘭、あなたが言うほどこの痣は目立っていないみたいよ」
「あ、あの、あの男、華琳さまになんてことを・・・・・・」
荀彧は曹操の手首を刺したまま、全身をわなわなと震えさせている。顔どころか、手や服からちらりと見える脛までもがみるみると赤く変化していく。血液が沸騰して全身を巡っている今、このまま放置したら死んでしまいそうだった。
だが、服を替える気のない曹操は荀彧の変化を無視して荀彧を促した。
「桂花、足が止まっているわよ」
「だ、だってこんなの。華琳さまもわざわざ見せびらかすような格好するなんて、何を考えているんですか」
「秋蘭に言われるまで気がつかなかったあなたに言われてもね。私としては、普段通りの格好をしているだけよ」
「戦の傷ならともかく、性癖を見せびらかすような傷を表に出すなんて。い、今すぐ着替えてください」
「普段の装束から少しはみ出てしまっているだけで、見せびらかしているつもりはないわ。それにこれも戦の傷よ。夜の戦のね」
「華琳さまっ」
「父上が上手く見つけてくれれば、意趣返しの一つにもなるかもしれないわね。張繍の使い走りをしている間は、女の子も抱けなかっただろうし」
「・・・・・・な、桂花。何を言っても聞いてくれんのだ。私の気持ちが少しは伝わってくれれば良いのだがな」
「わかった!もう十分伝わったわよ!あー、もうっ」
荀彧は頭をかきむしって吠える。許すことならこのまま庭に降りて地面を転がり廻りたいくらいだった。
荀彧だって仕え始める前からずっと曹操が好きだった。今だって曹操に縛ったり縛られたりして愛されたい。珊粋の事を調べていく過程で民の結婚観を知り、曹操のためを思って泣く泣く寵愛を諦めたのだ。
ちなみに荀彧は、過去に曹操と関係を持っていた女達が陳留に入ってこられないように、こっそり根回しもしていた。今まで何度か来ていた張繍の手紙が珊粋の目に入らないよう、自分の手元で処理いたのもその一環だ。
一方で、珊粋と曹操の閨のことは見ないようにしてきた。もし見てしまったら、きっと我慢できず、空気を読まずに邪魔をしてしまうだろうから。
なのに、このような形で男という生命体と敬愛する曹操の情交の形を見せつけられるなんて、酷くはないか。
何かで発散しないと、冷静に曹嵩との会話を聞くこともままならないだろう、と荀彧は思った。ひとっ走りして、珊粋が大事にしている寝具に虫でもぶちまけてきてやろうか。ああでも、あれの寝具は華琳さまも使うもので、結果的に華琳さまに迷惑をかける結果になってしまう。どうしよう。
荀彧が頭をかきむしって珊粋への報復を考え始めたとき、ちょうど珊粋が謁見の間から出てきた。声は聞こえるのに一向にやってこない三人にしびれを切らしたらしい。いらついた様子で壁によりかかり、足を組んで三人を見下ろしている。
「曹嵩さまが待っている。騒いでいないで早く来てくれないか」
「地獄に落ちろこの我慢の効かない変態淫猥物ひょろ男っ!」
発狂寸前の荀彧の跳び蹴りが放たれる。
珊粋は荀彧の攻撃をたまにある理不尽な八つ当たりの一種だと判断した。そのため、荀彧の体を受け止めはせずに半身でかわすことを選択する。
「相変わらず失礼な奴だな。俺が嫌いなのは知っているが、軍師ならもっと空気を読めよ。てめえこそ地面に這いつくばるのが似合いだぜ」
でたらめな荀彧の罵倒に思いがけず痛いところをつかれた珊粋の発言は、若干だが各地をふらふらしていた頃の荒っぽいものに戻っていた。物語に出てくる頭の悪い賊の台詞のようだと曹操は感じたが、口に出すと珊粋が傷つくと思ったので口をつぐむ。
一方、あっさりと全力の跳び蹴りを躱された荀彧は、受け身も取れず床に全身をぶつけたあと、勢い余って廊下を転がり庭に落ちた。珊粋の言葉通り、雑草に頭から埋もれてじたばたとしている。
「この、この、あんたがばかなのよ、このばかーっ」
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
『今の曹操=女の子は大好き、犬野は愛してる』・・・・・・うむ、ギルティ。
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