比翼連理 作:風月
曹操は供に夏侯惇を連れて、城壁を散策していた。眼下に見えるは、灯火で橙色に照らされた陳留の街。民の営みを示す穏やかな光は曹操の心を落ち着かせてくれた。
城門の上。陳留の街が一番よく見える場所で曹操は足を止めた。城壁上に右手を乗せると、夜に冷やされた石がひんやりと体温を奪っていく。
「秋蘭は落ち着いた?」
「は。今はまだ部屋で布団に籠もっているかと。華琳さまに失礼なことを言ったと、頭を抱えておりました」
「そこでも、『私に』なのね。秋蘭が本当に失礼を働いたのは犬野でしょうに」
曹操は右手を強く握りしめる。
昼過ぎに行われた会議の内容が脳裏によみがえってくる。夏侯淵の暴走と、珊粋を一時的に側から放さざるをえなくなった自分の失態を。
「自分の発言を冷静に顧みれるようになるまで謹慎は解かないと伝えておいて。犬野が居なくても曹家はいずれ大きくなったでしょう。でも、犬野がいなければ今の屈強な曹家もここまでの陳留の発展もなかった。曹家に大きく貢献してきた彼に、確たる証拠なく裏切りだと叫ぶことが失礼でしょう、とね」
事が起こったのは昼食後。張繍へどう対応するかを協議する会議でのことだ。
その会議の初っぱな、いきなり夏侯淵が暴走した。曹嵩との面会の時と同様に、夏侯淵は珊粋が信用ならないと強く主張したのだ。董卓や張繍から曹操の身を守るためには、陳宮と内通がないと裏が取れるまで曹家の別邸に居てもらうべきだとまで言い放った。珊粋を事実上曹操軍から追放・幽閉するべきと主張したのである。
「『我々は皆、華琳さまの人柄に惚れて、そのお志を実現すべく力を貸している者ばかりだ。ここまで恩を受けているというのに華琳さまと結婚した理由もあやふやで、今も側にいる理由を答えられないような人間に背中を預けられるか』、とはね。あの冷静な秋蘭から出てきた言葉とは思えないほど、愚かな発言だわ。・・・・・・いえ、秋蘭が感情的になるほど、犬野を嫌っていると気がつかなかった私の落ち度、か」
記憶をたどっても、夏侯淵は珊粋と喧嘩したことはないように思う。夏侯淵と珊粋はそれなりに上手くやっており、互いに信頼をしていると判断していた。
だから曹操は会議では夏侯淵をたしなめずに、発言を許す方向に舵を切った。会議に出席した部下は曹操に忠実な者達なので、多少荒れようが自分の一言で抑えられる。それに夏侯淵なら、一度たまった
だが実際の会議では、曹操の予想とは違った方向に動いた。珊粋が取り合わなかったこともよくなかったのだろう。夏侯淵は夏侯惇や牛金のたしなめを聞くこともなく、珊粋をののしった。
曹操はここでようやく、これ以上珊粋への暴言は許さないと夏侯淵に退出を命じたのだが、遅すぎた。
大抵の事であればほとんど声を荒らげることもなく冷静な夏侯淵が、机ごしでなければ珊粋に殴りかからんばかりの剣幕で非難し叫んでいた。周りも徐々に珊粋が裏切った証拠があるのではないかと疑い始める。なぜ珊粋をかばうのかと、小声で言い合う部下もいた。
夏侯淵だけでなく、他の臣下まで珊粋が裏切ると考えるとは思わなかった。対処を誤ったと曹操が後悔していると、珊粋は首から曹操が編んだ白の襟巻きを四つに折りたたんでから、曹操の両手に握らせる。
――今のお前の側には、俺が必要ないみたいだ。予州に行ってくるよ――
それは優しすぎる決別宣言。曹操は呆けて手の中の襟巻きと、珊粋の顔を見比べた。
珊粋はくしゃりと顔をゆがませ、筋張った手で曹操の頭を数度なでたあと、背を丸めて部屋から出て行った。
手の内に残った襟巻きを握りしめた曹操が我に返ったときにはもう遅い。会議室の入り口では曹仁が泣いていた。その体を支えながら牛金が言った。ごめん、珊粋さま見失っちゃった、と。
残った曹操にできたのは、珊粋が自分を裏切ることは決してないと改めて宣言し、今後犬野を疑う者は夏侯淵以上の厳しい処分を科すと通達することぐらいだった。
曹操が夏侯淵を強制退出させる頃合いが遅くなったから、曹操も夏侯淵と同じで珊粋を疑っていると思わせてしまったかもしれない。そんなこと、ないのに。
陳宮の策に乗せられた夏侯淵も、共に戦って珊粋を信じられなかった配下達も、配下を統制できなかった自分がなにより、腹立たしい。この屈辱はいずれ何倍にもして陳宮の顔面にぶつけてやると誓う。
怒りで震える主の背中。夏侯惇は見えないことを承知で、その背中に向かって深く頭を下げる。
「不詳の妹が申し訳ございません」
「いいえ。本当に責められるべきは先見の明のなかった私自身にある。私を慕っている様子が感じられないから犬野が信用ならないなんて、本気で言うとは考えもしなかったわ」
「秋蘭が鈍いのです。犬野さまは華琳さまをとても大切にしておられました」
「ええ、彼は私をとても大切に扱ってくれている。双方納得済みの契約上の結婚だもの。きっかけがなによ。契約した上での結婚の何が悪いのよ」
「契約・・・・・・?」
曹操の愚痴に対して、春蘭がよくわかっていないような声色で相づちをうつ。
夏侯惇は状況がよくわかっていないと、なんとなくで返事をする。今回も意味を聞かれないのなら答えないという立場をとる曹操だが、今日はなんとなく聞いてあげようと思った。
曹操はくるりと踵を返して城壁に背をあずける。頭一つ大きい夏侯惇を見上げると、月明かりの中で困惑した表情が浮かび上がった。予想通り。この子は本当に単純でわかりやすくて、可愛い。
「春蘭、わからないことがあるなら、質問しなさい。供をしてくれた礼に、特別に教えてあげるわ」
とたんに夏侯惇の下がった眉が上がり、大きな目が輝きだす。もし彼女に尻尾があれば、ぶんぶんと大きく振っているところが見えただろう。
「なんと!ありがとうございます、華琳さまっ。その、契約上の、というのがわからないのです。華琳さまは犬野さまがお好きですよね?」
「それは・・・・・・」
もちろんだ。答えはそれしかないのに、曹操は言いよどむ。
結婚もしたし、体の関係も持った。雰囲気に任せて好きと伝えたこともある。でも、素面のまま、珊粋を好きと認めることがなんともこそばゆい。
とはいえ、答えると言ったからにはきちんと返事をするしかない。
「嫌いであれば、とっとと分かれているわよ」
曹操は物心がついたときには、女の子が好きだった。
きれいな女の子を口説いて自分の物にし、閨に連れ込んで可愛い鳴き声を聞けば心が躍った。何度も抱くうち、女の子の身体が淫らに変化していく様を堪能しては征服欲が満たされ幸福を感じた。傲慢にも、全ての美女を自分の物にできたらと考えたこともあった。
身体の関係を持った女の子達に甘えたり、無防備に体を預けたりしなくても、十分幸せだった。弱みを見せることが悪とさえ考えていた。
その幸せは珊粋と出会って徐々に変化していく。常に誰かの上に立つことを考えていた曹操だったが、珊粋とは不思議と対等に、腹を割って話ができた。弱みを補って、支えてくれる相手。仕事で疲れた日も珊粋に髪をなでられれば疲れが吹っ飛んだ。珊粋の腕の中に入って眠った時の安心感は、三人の美女を侍らせて寝る快感より上回った。
そんな日々を過ごすうち、いつしか曹操は、珊粋以外に触れたいと思うことも、触れられたいと思うこともなくなった。
「結婚したからには、夫となった相手とよりよい関係になれるよう努力するものだし。努力して、それなりに長い間隣にいれば、情が移るのは当たり前じゃない」
「そうですよね?であればやはり、お二人は恋愛結婚ということですね!」
「は?」
「格言でも昔は昔、今は今、というではありませんか!華琳さまは犬野さまが好きで、犬野さまは華琳さまが好きだから共に居る。我々と同じく、華琳さまを慕っている犬野さまがこちらを裏切るはずなどありませんな!つまり、華琳さまは悪くありません。秋蘭が悪いのです。頼りになる姉としてしっかり叱っておかなくてはなりませんな。はっはっは」
夏侯惇は子供のように無邪気に笑った。裏表のない言葉が、すっと曹操の身体に入ってきた。自然と口角があがる。夏侯惇の理屈はいつも通りどこかずれていたが、今日はわざわざ正す気にならなかった。
「あなたの中で納得できたなら、そういうことにしておきましょう」
「はい、ありがとうございますっ、華琳さま」
曹操は年上の部下を見つめる。その視線は穏やかで、いつになく優しいものだった。
「私もあなたに元気をもらったわ。ありがとう、春蘭。今度から落ち込んだときにはあなたを呼ぶことにしようかしらね」
「おまかせください。わたしも、いえ私がこの世で一番華琳さまをお慕いしておりますので。ご命令とあれば賊討伐でも兵の訓練でも夜戦でも一番の成果をあげてみせます!伽のお申し付けならもっと嬉しいですっ!」
「ふふっ。伽はともかく、他は荒事ばっかりじゃない」
「苦手なことは秋蘭がなんとかしてくれますので」
悪びれず堂々とふんぞり返る。それがなんとも夏侯惇らしかった。
対して、今の自分は自分らしく生きているだろうか。曹操は自分に問いかける。否。虚仮にされれば倍以上にして返す。大人しく悩む時期ではない。苛烈に攻めて勝利をもぎ取ってころ曹孟徳である、と。
張繍を叩き潰す。珊粋のこと、夏侯淵のこと、そして董卓連合のこと。やるべきことは沢山あるが、先に自分を虚仮にした張繍を正面から叩きつぶす。董卓とのつながりを、
曹操はもたれていた城壁から背をはなす。髪が横に引っ張られるほど強くなってきた夜風のせいで、背中からじんわりと寒さが昇ってきた。
「寒くなってきたわね。戻るわよ、春蘭」
「はっ」
肩越しに思い出がつまった陳留の街を肩越しに振り返る。また、珊粋と並んで食事を楽しめる日はいつになるのだろうか。
「ちゃんと帰ってきてくれるのよね、犬野」
曹操の小さな不安は冷たさの中に溶けて、誰の耳にも届かないまま消えていった。
城壁から降りた曹操は夏侯惇を伴い、廊下を歩く。気がつけば深夜も近い頃合いになっていた。
城内の部屋の灯りはことごとく落ち、外にぽつぽつと設置された
角を曲がって珊粋と自分の寝室のある塔につながる廊下に渡る。
扉がかすかに見えるほどまで近づいたとき、二つの影が動いたように見えた。扉に背を預ける小さな影と、欄干に腰掛けている大きな影。
曹操が懐から護身用の小刀を取り出すと同時に、後ろを歩いていた夏侯惇が飛び出し、影から曹操をかばうように立ち塞がる。
「不審者め!華琳さまの寝所に何の用だ!叩きのめして華琳さまからのご褒美に変えてやるわ」
夏侯惇が大声を出して小さな影に突撃する。すると、欄干の上にあった影が予想外であったかのように飛び上がった。大きな影は、夏侯惇が猛獣のような勢いで迫り来る中、二人の間に身体をねじ込んだ。
「待って待って、あたしだよん、牛金だってば」
「なんだとっ」
夏侯惇は聞き慣れた声に慌てて足を止める。顔を近づけてよく見ると、確かに仲間の牛金だった。二人の間は二歩も離れていなかった。
「『なんだとっ』じゃないよん。よかったあ、気がついてくれて」
牛金は両手をゆるゆると下げた。激しい鼓動が耳の奥で響く音に、間に合ったのだと胸をなで下ろす。戦う力のない同行者を守るためとっさに身体を張ったが、夏侯惇にぶん殴られたら数日は医務室行き確定である。
「この垂れ目は確かに牛金だな。では、後ろにいるのは」
「・・・・・・私よ」
牛金の背後から、ふらふらとおぼつかない足取りで出てきたのは荀彧だった。朝ひねった足が治るはずもなく、靴の上からは白い包帯がのぞいている。体重をかけると箪笥の角に小指を打ち付けた以上の痛みが襲う足をひきずりながら、それでも荀彧は曹操の自室まで来た。
「この距離で敵か味方かわからないなら、目なんかいらないんじゃないの?牛金はもっと遠くからあんたと華琳さまが来たって気がついていたわよ」
「夜目の利きは牛金の方が上に決まっているだろう。夜が主戦場の諜報部と一緒にするなっ」
「えーあたしだって昼働いてるもん。あ、なら犬野っちみたいに気配で人を特定できるようになってよー。そしたら見えなくても味方だってわかるよん。曹家筆頭武将でしょ、できるできる」
「無茶を言うなっ。まだ夜目を鍛える方が可能性があるわっ」
「なら夜目を鍛えなさいよ。そしたら軍師権限を使って、あんたを常に夜番に回してあげられるから。夜番で体力を削っておいたら、昼間は少し静かになるでしょう」
「なにおぅ。それでは私がいつもいつもうるさいみたいではないか」
「うるさいじゃない。あんた自覚なかったの?」
「三人とも、じゃれるのは後回しにしなさい。話が進まないわ」
夏侯惇の背後からゆっくり曹操が歩いてきた。
護身用の小刀は既に懐にしまわれている。夏侯惇同様、二人を敵と間違えて身構えたことは、曹操の中ではなかったことになった。
「それで桂花、牛金。こんな夜遅くに・・・・・・桂花に至っては安静にという医者の言いつけを破ってまで、一体何の用かしら」
曹操の問いかけに、荀彧が頭を下げて答えた。
「夜遅くお目通り願う無礼をお許しください。重要な報告が一つ。それから、明日の軍議の前にお伺いしたいことが二つあって参りました」
「私は荀彧の付き添い件、補足担当かな。・・・・・・よろよろする荀彧を見てられなかったってのもあるけどねん」
牛金がすっと横にずれ、先ほどまでいた欄干の上に腰掛ける。それどころか、胸元を大きく開けて、襟を持って大胆に仰ぎはじめた。これ以上自分にできることはないという宣言のようだった。
曹操は牛金の様子を横目で確認し、目の前の荀彧に視線を戻す。
「あまり良い報告じゃなさそうね」
荀彧はうなずく。
「残念ながら。・・・・・・曹仁が城から姿を消しました」
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
今話も楽しんでいただけたら幸いです。
また、このたびも感想や評価をありがとうございました。
(評価のコメントもきちんと読んでます)
どれもとても励みになっております!
改めて、ありがとうございました!