比翼連理   作:風月

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因果ー4

 五層に重なる宛の城、その一番上にはひっそりと丁寧に作られた天守閣があった。

 銀月が薄く照らし出している天守閣の窓に近いところで、張繍は供の者もはべらせずに一人そこに腰を下ろしていた。下には座布団一枚しか強いておらず、こげ茶色の板張りの木目に長い足がはみ出ている。

 彼女の右手には黄巾の乱中に陳宮より賜った太平妖術の書があり、目の前には曹操の姿と声を映し出すために太平妖術の書を元に作った人の頭蓋を逆さにして水を張った器を置いている。

 

 太平妖術の書によると、器に対象の人物を映すには自然の中で使うと良いとあった。

 そのため張繍は天守閣にある風よけの襖全てを開け放っていた。風が中で渦を巻くように入っては彼女の銀の髪を強く乱して出て行く。秋の肌につきささるような寒さが身を襲ってくるが、張繍は終始恍惚の笑みを浮かべたまま意に介することはなかった。そう、ようやく愛しの彼女の姿と声を全て、この器で捉えられるようになったから。

 

 

 

『曹仁が城から姿を消しました』

『・・・・・・そう。犬野に加えてあの子がいないのであれば、至急警備部の体制を整えなければならないわね。春蘭、犬野が帰ってくるまであなたが警備部の長を兼任なさい。細かい調整は牛金、お願い』

『はっ、お任せください華琳様!』

『わかったよん。ずいぶん冷静なんだね、華琳。びっくりした』

『当たり前でしょう。私が慌てたらおしまいだわ』

『流石華琳様です。ですが、予州に誰か人をやらずによいのですか?』

『ええ。向かわせる人材がいないもの。華侖と犬野の二人が揃えば、大抵の苦難も苦難にならないでしょう。二人だけじゃ手に負えないようなできごとがあったとしても、今私の手の内で、いざと言うときに犬野が背中を預けても良いと感じる人間は牛金しかいない。そして犬野がいない今は、諜報部の核である牛金は手放せない。牛金。本当はあなたも行きたいのでしょうけど、ごめんなさい』

『・・・・・・うん。わかった、いいよ。あのふたりは気になるけど今は華琳を助ける』

『ありがとう』

『おまええ、私の目の前で華琳様に褒められるとはうらやましいぞう!』

『はいはい。春蘭もあとで沢山褒めてあげるから今はだまっていて。さて桂花、他にも聞きたいことがあると言っていたわね?』

『はっ。次はですね、』

 

 

 

「ああ、華琳ちゃん。何年たっても小さくて可愛くて素敵。完璧で周りにあわせられず孤立していく過程も愛おしいわ」

 

 張繍は左手で泡立つ肌を撫で押さえながら、よだれを垂らさんばかりに器の中の愛しい彼女をありとあらゆる角度から、美しいまつげの細部に至るまでなめ回すように視姦しつくしてから顔をあげた。これでようやく手間と時間をかけて、珊粋を追い出した甲斐があったと思えた。

 陳宮からこの本を託された当初は、陳留城にうっすらと妖術を阻むようななにかがあって手を出せなかった。

 だが、珊粋が呂布によって負傷した際に一時その防御が弱まった。水の器を通じて曹操の声が届くようになって、張繍は珊粋を標的に定める。どうやっているのか知らないが、あの男は妖術をはじく力があるらしい。ならば、追い出すまでのこと。

 

 太平妖術の書通りに十数人の生贄を使って守りをこじ開け、『珊粋への反感』が高まるような呪いを陳留城内に送り込んだ。元々珊粋へ不信感を持つ者にしか効果がないような弱い呪いだったが、夏侯淵を筆頭に急に成り上がった得体の知れない男に対する不満を持つ曹家の人材が沢山いたおかげで予想より早く準備が整った。

 そこまで準備を整えてから張繍は改めて陳宮に相談に行き、曹操の父親を手に入れた。そして、手紙をおとりにして自分の血を浸した扇子を曹操に渡させた。

 自分の血と彼女が接触しさえすれば、あとは妖術で何でもできる。扇子を通じて手元の太平妖術の書から珊粋への反感を煽る呪いを強め、と同時に曹操へのつながりを作る。珊粋を陳留の華琳から引き離すまで半日もかからなかった。

 

「ああ、ようやく華琳ちゃんを元に戻すことができるのね」

 

 張繍がうっとりと呟いてから、褒美のつもりで水の器を丁寧になでていると、天守閣の入り口の扉がドンと強く鳴った。いくばくもしないうちにひげを蓄えた初老の男がしっかりとした足取りで入ってきた。

 張繍が子供の事から付き従ってきた、彼女が一番信頼する配下の男だった。

 

「いやいや、ここはお寒うございますな。襖を全て開け放つなど気が狂っているとしか思えませぬが、せめてそろそろ下に入ってきてはどうです、殿」

 

「ふふ、外に近い場所でやらねばならない術ですので」

 

 張繍は水面をのぞき込むのを止めて、唯一全てを話しているじいやに振り向いて困ったように笑った。曹操を見てよだれを垂らしていた残念な女性があっという間に悲しげな雰囲気をまとった美女に戻る。

 

「もう少ししたら戻りますから。心配なさらないで」

 

「しかたのない殿ですなあ。あまり長くなったら今度はお説教に参りますので、じいの我慢が利くうちに戻ってこられますよう」

 

「ふふ、わかりました」

 

「それと、ご命令で探していた料理人ですが。典韋という腕のよい者が見つかりました。友人を探す旅をしているらしく、しばらく路銀を稼ぎたいとのことです。ただ若く小さく城勤めもしたことのない娘ですので、殿の期待通りの働きができるかはわかりませぬ。いかがいたしましょう」

 

「ああ、そういえば料理人も募集しておりましたね」

 

 妖術の行使の生け贄用に役立たずで必要のない人材を沢山使ってしまったから、勤め人に大きく空きがでたのだった。ついでに、この水の器の頭蓋が前のまずい料理しか出さない料理人だった事を思い出す。

 

「年若くとも腕がよいのでしたら、採用なさいな。使ってみて役にたたなかったら首にすればよいのです。(わたくし)が満足できる料理を作れるのでしたら、その友人捜しを手伝ってこちらに囲ってしまいましょう」

 

「かしこまりました」

 

「よろしくおねがいしますね。ああ、それと」

 

 ついでのように張繍は言う。その口元が怪しげにゆがんでいた。

 

「今夜客人を迎えますので、枷と客室の用意をお願いします」

 

 初老の男は彼女の顔を見ないようにすっと視線を下げ、是と言って退出した。その背中は誰が見ても寂しそうだった。

 

 

 

 

 陳留の月は厚い雲に隠れていた。先ほどまで強く吹いていた風が止み、雲をどかすことができなくなったからだろう。

 一段と暗くなった今の廊下では曹操と夏侯惇、荀彧の三人が、お互いの顔が視認できる距離まで近づいて、張繍とどう戦うか基本戦略について話し合っていた。

 荀彧が曹操に聞きたかったことは二つ。一つ目は曹仁がいなくなったことに対する人事と軍務のわりふりについて。二つ目は張繍と戦うのか、それとも無視して反董卓連合の集合場所を目指すのかということについてだ。

 

 警備部については一時的に曹操直属とする。陳留の治安を守るだけなら楽進と李典・于禁の3人がいれば当面は問題ない。あとは荀彧と曹操が二言三言のやりとりをしただけで、曹仁の居場所はあっさりなくなった。

 曹操が張繍をすぐに倒せば連合の集合日にも間に合うでしょうといつも通り無茶を言ったところで、牛金はそっと輪から離れた。何事にも動じない曹操の対応は、貴族としてきっと正しい。

 肋骨の奥がきゅうっと切なくなる。珊粋がいなくなって、呆然としていた時間に自分が曹仁のところに行っていたら。曹仁は今この輪に加わっていたんだろう。

 

「牛金ってば!」

 

「えっえっ、急になに?」

 

「さっきから呼んでたわよ。ぼーっとしちゃって、あんたいつから石像になったわけ」

 

「ごめんごめん。今生き返ったよん。で、なにかな」

 

 牛金の問いかけには曹操が答える。

 

「あなたに預けた気持ち悪い扇子、どこの物か調べはついた?」

 

「ああ、うん」

 

 張繍の話になっていたとは。

 牛金は気がつかなかった恥ずかしさで顔を熱くしながら、黒い扇子を襟元から引っ張り出した。

 丸籠に閉じ込められた美しい鳥が銀糸で描かれているこの扇子は、曹操が張繍に買って与えたものだという。

 だが曹操自身は買った覚えがないし、そもそも自分が好む絵柄ではない。怪しいものじゃないか調べて欲しいと、昼の会議後に手渡されていた。

 欄干から腰を上げて曹操に近づき、少ししけってしまった扇子を曹操に手渡す。

 

「会議のあと、扇子を取り扱っている商人たちに色々当たったんだけど、扇子自体は上級役人向けの大店で最近出されたものらしいよん。ただ、この銀の籠と鳥の絵ね。誰が書いたかまではわかんなかった」

 

「わからないだと? 最近の物とわかっているのにか?」

 

 牛金の答えに、真っ先に夏侯惇が疑問の声をあげる。

 

「その店、華やかな絵柄の扇子だけ扱う店なんだってさ。だから無地の黒扇子を買って、それに後で絵を描いたんじゃないかなって」

 

「少なくとも、私が買ったものではないことが証明されて良かったわ。張繍がわざとこの鳥と籠を選んで描かせたなら、何か意味があるのでしょうけど」

 

「単純に捕まえてやる、って意思表示じゃないの? 見せてもらった書状も、『華琳は色々女の子をとっかえひっかえしたあげく、最後には男になんか走っちゃってかわいそうに。目を覚まして私を選んで』って内容だったじゃん」

 

 淡々とした牛金の言葉に対して曹操、夏侯惇、荀彧三名はほぼ同時に嫌そうな顔になった。

 

「ただそれだけを、十数枚の紙にびっしり書いていたわけだからな。洛陽にいた頃から何を考えているかわからんやつだったが、何があったかしらんがただ気持ち悪い奴になってしまった」

 

「・・・・・・そうね。なんでかしらね」

 

「華琳様、流石にごまかしかたが雑ではないでしょうか。せめて、春蘭が変に思わないような言い方をですね」

 

「ごまかす? なんのことだ? 張繍が変なのはごまかしようのない事実だろうに」

 

 ぽかんとする夏侯惇に、胸を張って見せる曹操。そしてやれやれと揺れる猫耳。緊迫していた空気がいつもの会議のようにぱあっと弛緩した。

 そこから曹操たち三人は、夜更けだというのに雑談というじゃれ合いを始めた。そこに加わる気がなかった牛金は少し離れた欄干に尻を預けることにした。

 曹仁の足取りを探して、陳留の街や周辺の邑々を走り回った汗が引かなくて気持ちがわるかった。冷たい欄干のおかげで尻だけひんやりとして気持ちがいいけれど、それだけじゃ足りない。どうせ見る人もいないだろうと、牛金が着物の襟をくつろげようとしたそのとき。

 

「もっと居なくなった人達のことも心配してあげればいいのに。あなたそう思っているでしょう」

 

 だれも居ないはずの背後から女性のささやく声がした。瞬時に、牛金は欄干から転げ落ちるようにして一回転して距離を取り、先ほどまでいた欄干の先を仰ぎ見る。

 月に映えるような銀の髪を振り乱した女性だった。いる。気配はないのに、人が居る。ぞうっと凍る身体。牛金はそれを必死に叱咤して、背後の三人を守るように立ち塞がった。

 

「春蘭、今すぐ華琳を連れて逃げて!」

 

「なんだ牛金。何の気配もないのに逃げろとは・・・・・・うむ?」

 

「あんたまさか寝てたんじゃないでしょうね・・・・・・はぁ?」

 

「張繍っ」

 

 のんきな夏侯惇の声に、咎めるような荀彧の声、そして呆然とした曹操の声。

 牛金以外の三人とも、突然現れた欄干の向こうに浮く足のない美女に驚いて固まってしまたのだ。そして張繍はその隙を見逃すような甘い女ではなかった。

 

「返していただきますね、(わたくし)の華琳ちゃんを」

 

 美女――張繍はすっと右手を曹操に向けた。するとどこからともなく沸いた黒い霧が曹操を包んだかと思うと、他の三人が驚いている間もなく霧散する。

 霧が晴れた先に曹操の姿はない。

 

「貴様、華琳様を返せっ」

 

 牛金の横を夏侯惇が駆け抜けていく。欄干を蹴り壊して突進し、腰の大剣を頭上に振りかぶって張繍めがけて飛び上がった。

 夏侯惇に遅れること一拍、牛金が懐に入れていた短刀を握りしめ、張繍の眉間めがけて投げ放った。

 牛金の手から離れた短刀は寸分違わず張繍の眉間めがけて吸い込まれる。眉間から血が吹き出て、ぐらりと傾げたところを夏侯惇が叩き潰す。予定だった。

 

「えっ」

 

「すり抜けたっ!?」

 

 荀彧が息をのみ、牛金が手応えなく彼方へ飛んでいった短刀と振り切った大剣ごと張繍の身体を通過した夏侯惇を確認して瞠目した。

 

「貴様、しばらく見ぬうちにあやかしに身を落としでもしたか。ご自慢の髪がぼさぼさだぞ。漢の臣であるならば堂々と姿を見せて戦え、臆病者め」

 

 一方、目の前の女をたたき切る戦と意識を切り替えていた夏侯惇は、信じられないほど冷静だった。まずは切れる土俵に相手の身体を持ってこさせなければ、切るしかできない自分は何もできないと知っている。故に曹操を奇っ怪な手段で連れ去られた直後に人の身体をすり抜けるという怪奇な現象に対しても淡々と対応できていた。

 

「臆病ではありません。用意周到というのですよ、夏侯惇どの」

 

 夏侯惇の言葉に、器用にも張繍はにこやかに嘲るような微笑みを浮かべて応える。

 

「守りを失ったあなたたち風情が(わたくし)に手を出せるとは思わないことです。華琳ちゃんは私が幸せにしますから。あなたがたはどうぞご安心なさって滅んでくださいませね。ごきげんよう、もう二度と会わない誰かさんたち」

 

 今気がついたかのように乱れた銀髪を手ぐしで整えてから、白い肌の美女は優雅に一礼すると、その姿はだんだん透けて夜の木々に溶けていく。牛金たち三人は何もできず消えていく張繍を見送り、後には寂しい夜だけが残った。

 反董卓連合に合流する準備の最中、誰もが予想していなかった形で曹家軍は要の曹操を失うことになってしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




 ここまで読んでくださりありがとうございました!楽しんでいただけてたら幸いです。
 沢山の感想やご評価もありがとうございます。今回も全部何回も繰り返して読んで、本当に励みになりました。
 感想返しはネタバレにならないよう、最新話投稿前後あたりに返しております。(作者の性格的に先の内容をぽろっと書いてしまいがちのため。)ので、今回も大変遅くなって申し訳ありません。

さて、次は居なくなった人達の方の話からはじまります。
またのんびり待っていただけたら嬉しいです。
ありがとうございました。



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