比翼連理   作:風月

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宴にて

 檀上に立つ曹操は不機嫌だった。

 珊酔(さんすい)の性格から、素直に自分の隣にやってくるとは思えなかったから、挨拶の時に来なかったことは許そう。曹仁のことについても、夏候惇が止めもせずにあおったようだから、珊酔(さんすい)には小言を言う程度で済ませるつもりだった。

 だが、自分が曹仁と夏候惇に気をやった隙に、もといた場所からいなくなったのはいただけない。

しかも、発見した時には広間の隅で体を縮こまらせているとは。情けないにもほどがある。

 

「桂花、季衣。紹介したい者がいるから、ついてきなさい」

 

 身をひるがえして、曹操は壇の上から降りる。

 中央で騒いでいる腹心たちのことは、既に頭の中からは消えていた。

 曹操は、許褚と荀彧の二人を後ろに置き去りにするほどの早足で、足音高く珊酔(さんすい)に近づき、いらだちを込めてその足を思いっきり踏みつけた。

 とはいえ、珊酔に対しては少し顔をしかめる程度の衝撃しか与えられなかったようだ。

 実力差からいうと仕方がないが、やはり腹立たしい。

 

「……痛い」

 

「痛い、じゃないわ。あなたは、こんなところで何をしているの?」

 

「一人酒」

 

「あのねえ、犬野。私は、私の夫がそんな情けない恰好をしているのは許せないのよ。背筋を伸ばして、しっかり立ちなさい」

立ちなさい」

 

「参加しただけで許してくれないか」

 

「ダメよ」

 

 そう言うと、珊酔(さんすい)は不満そうに唸り声をあげた。だが、曹操も譲る気はない。ぎっと、珊酔(さんすい)の目に視線を合わせて睨みつけた。

 珊酔(さんすい)と曹操の間に、殺気に近い、不穏な空気が漂い始める。

 先に視線を逸らしたのは、珊酔(さんすい)の方だった。のろのろと、壁に預けていた体を離し、丸めていた背筋を伸ばす。

 猫背だったせいで近くなっていた二人の視線が、いつも通りの距離に戻る。

 

「はあ。わかっちゃいたが、うちの嫁は厳しいなあ」

 

「これでも、かなり自由にさせているつもりなのだけれど? 私はきちんと約束を守っているでしょう? だからあなたも、私の夫として最低限の態度と威厳は保って」

 

「はあ……わかったよ」

 

 珊酔(さんすい)が折れたことで、二人の間にあった緊迫した空気があっさりと消える。

 その時、ようやく後ろから荀彧と許褚が曹操に追い付いてきた。

 荀彧が、珊酔(さんすい)の顔をみるなり、叫び声を上げた。

 

「あー! あんたどこかで見たと思ったらこの前の変態じゃない! 華琳様、早く離れてください、手籠めにされてしまいます! 季衣、この男をとっとと広間からたたき出して!」

 

「……は?」

 

 荀彧は猛然と走り出したかと思うと、慌てて曹操と珊酔(さんすい)の間に割り込んで曹操を自分の背中に隠し、できるだけ遠ざけようとした。

 対する珊酔(さんすい)はというと、怒ることもなく、面倒くさそうに顔をしかめていただけである。

 血を見るようなことにはならないと判断して、とりあえず、曹操は状況が呑み込めず右往左往している許褚の頭を、優しくなでてみることにした。

 

「季衣、聞かなくていいわ。桂花、あなたなんでいきなりそんなことを言い出したの。私はこの人に用があるからこちらに来たのだけれど」

 

「華琳さまはだまされているんです! この男は先日、私を人気のないところに連れて行こうとした悪人なんです!」

 

 びしりと、指を突き出して、荀彧は言った。その目は完全に怒りに燃えている。

 

「……犬野、あなたから聞いた話と全く違うのだけれど、どういうこと?」

 

「知らん」

 

「あんたこそ嘘をつかないでよっ! つんつん頭でひょろっと背が高い男なんて他に見たことないもの! 私をいきなり抱きかかえてどこかに連れて行こうとしたくせに! 私が抵抗しなかったら繁みで犯すつもりだったんでしょ!」

 

「俺としちゃ、あんたがガラが悪そうな男に絡まれて大変そうだったから、その場から助けてやったつもりだったんだが。違ったんなら、次からは見て見ぬふりをすることにするさ」

 

「た、確かにあの時はほんのちょっとだけ困っていたけれど。で、でも、いきなり私の体をかかえて走り出したじゃない! それで、私が叫んだら手を離して逃げて行ったじゃないの」

 

「生憎、俺には助けた相手に罵しられて喜ぶ趣味はなくてな。面倒になったから、その辺に置いたときと、あんたが叫んだときが一緒だっただけだよ」

 

 つまりは、荀彧が絡まれているときに偶然通りかかった珊酔(さんすい)が、事情も聞かずに突然傍によって荀彧の体を抱きかかえてその場を離れた。

 荀彧はさらわれたと思って騒ぎ、純粋に助けたつもりだった珊酔(さんすい)のほうは、どうでもよくなってその場に放置してとんずらした、と、そういうことのようだ。

 荀彧はまだ信用できないのか、両手を大きく振り回しながら叫んでいた。

 

「嘘をつかないで! 男なんかみんな獣だもの。私はだまされないわ」

 

「うそじゃない。生憎、発育不良に手を出すほど女に飢えてはいないもんでな」

 

「はああ!? あんた、いくらなんでも失礼すぎるわよ!」

 

 あさっての方向を向いて頭をかき、どうでもいいように言った珊酔(さんすい)に対して、荀彧が激昂する。

 そして、その返答に反応したのは、彼女だけではなかったのである。

 

「……ふーん」

 

 妻の曹操である。漏れた声は冷たく、頭を撫でられていた許褚が殺気に後ずさりしてしまうほどだった。

 夫の言い分はわかった。方法としては良くないが、善意で行動したことも、やましい気持ちがなかったのも本当だろう。

 だが、一言余計だ。曹操と荀彧の体格差はさほど変わらないと知って、発育不良とのたまったのか、この男は。

 曹操は荀彧を押しのけて珊酔(さんすい)の近くに歩み寄ると、気持ちのままに跳躍して、今度は両足で全体重をかけて珊酔(さんすい)のつま先を踏みつけた。

 今度は効果があったらしい。

 珊酔(さんすい)は、うう、とうめき声をあげてその場にうずくまってしまう。

 痛そうにつま先をさすり、恨みがましげに曹操を見上げている。

 切れ長の目が涙で潤んでいることが確認でき、曹操はようやく、すこしだけ胸がすっとしたのを感じた。

 

「華琳、なんで踏んだ」

 

「ごめんなさい、足が滑って」

 

「その言い訳は無理があるだろう。おまえ、今目の前で思い切り跳んでただろうに」

 

「足が滑ったのよ。桂花、この人はとっさに人を助けようとすると、抱え込んでしまう癖があるの。決してやましい気持ちであなたに触ったわけではないわ」

 

 珊酔(さんすい)を無視し、曹操は荀彧に向き直って、諭すように言葉をかけた。

 

「華琳さま……」

 

だが、荀彧は不満そうだった。口をとがらせ、ジト目で珊酔(さんすい)を睨みつけることをやめようとしなかった。

 

「華琳さま、どうしてこの失礼な男をかばうんですか?」

 

「……そうね」

 

 一瞬、このまま荀彧をからかったら面白いだろう、といういたずら心が曹操の中でむくむくと湧き上がったが、そもそも珊酔(さんすい)に紹介しようと思って二人を連れてきたのだという事を思い出し、やめることにした。

 

「私の夫だから」

 

「……え?」

 

「紹介したい者がいるといったでしょう? 私は、あなたたちを自分の夫と引き合わせるために連れてきたの」

 

 荀彧は目を真ん丸に見開き、ぽかんと口を開けてしまった。

 

「……おっと?」

 

「ええ」

 

「この男が……華琳さまの……?」

 

「ええ。桂花は城に元々勤めていたのだから、私が結婚していることも知っていたわよね。そんなに驚くことでもないでしょう? それとも、知らずに仕えていて、あなたの嫌いな男という生物と結婚した私に、幻滅したかしら?」

 

「いいえ! 華琳さまが結婚されていることはもちろん存じていましたし、旦那様にお会いした暁には誠心誠意仕える覚悟で参りました! ですが、ですが、まさか、こんな男だとは思ってもおらず……」

 

「ひどい言いぐさだな。俺は何もしてないのに」

 

「男性に、いきなり触られたら誤解もするわよ。男嫌いならなおさらね。次に女の子を助けるときは、もう少し上手にやりなさいな。今この子が私にしたように、堂々と割って入るとかね」

 

「めんどくせ。……じゃあ、お前も嫌だったの?」

 

「私は……その、桂花と事情が違ったもの」

 

 珊酔(さんすい)と初めて出会った時のことが脳裏に浮かんでくる。

 一人で上京し、勉学に励んでいた時。自分はなんでも一人でできるのだと調子に乗っていた、今から考えると恥ずかしいくらい考え方が幼かったときのこと。

 数人の男たちに絡まれ、逃げ回っているうちに治安の悪いところに逃げ込んでしまい、どうにもならなかった自分を、ひょいと掴んで引き上げ、助け出したのが、まだ幼い、家出中の珊酔(さんすい)だった。

 わきに抱えられたまま古ぼけた建物の上を飛びまわるなど、めったにできる経験ではない。

 懐かしい記憶を思い出して、曹操はくすりと笑う。

 

「あれはあれで楽しかったわ。今考えると、ね。」

 

「そうかい」

 

 荀彧は仲良くじゃれ合う珊酔(さんすい)と曹操を見比べ、ようやく目の前の男が本当に曹操の夫だと認識したのだろう。

 青白い顔で、縮こまるように頭を下げたのである。

 

「うう、申し訳ございません」

 

「まあ、今回の件に関して言えば、犬野も悪いわ。根に持つような人でもないし、これから仲良くしてあげて。犬野もそれでいいわね。それとも、この子に何か罰でも与えてほしい?」

 

「いや。お前が目を付けた軍師だし、判断はお前に任せるさ」

 

 仲良くできるかどうかは別としてな、と言いながら珊酔(さんすい)はようやく立ち上がった。

足の痛みが多少ましになったらしい。

 

「荀彧、生理的に嫌いなものを我慢するのは、精神的によくないだろう。用事があるときは互いの副将を通じて、とでもするか?」

 

「ご配慮はありがたいですが、軍師として、それはできかねます。相手が苦手だからと言い訳して、仕事がきっちりこなせないなど、華琳さまの右腕として不適格でしょう」

 

 顔をあげて、荀彧は珊酔(さんすい)の申し出を固辞した。媚びるでもなく、言い訳するでもなくはっきり珊酔(さんすい)のことを苦手というあたり、荀彧も正直である。

 だが、その返答がなぜか珊酔(さんすい)は気に入ったらしい。めずらしく、口の端をあげてちいさな笑い声をあげた。

 

「はは、青白い顔で言っても説得力はないがな。だが、心意気は買おう。俺は珊酔(さんすい)。字は伯信、真名は犬野。好きに呼べ。……そっちの桃色が許褚だったな。お前も好きによんでくれていい。華琳のことをよろしく頼む」

 

「はっはいっ! 許褚です。真名は季衣といいます。よろしくおねがいしますっ!」

 

 許褚は緊張から真っ赤な顔になっていた。握った両手をぴたりと体のわきにつけて、一生懸命背伸びをしながら言った。

 珊酔(さんすい)は苦笑し、先ほど曹操がやったように、優しく許褚の頭をなでた。

 

「固くならなくていい。華琳は生まれた時から偉い人だが、俺はたいしたことはないからな」

 

「は、はいっ。わかりました」

 

 返事をしつつも、許褚の緊張はほぐれず、固くなったままだ。

 これには曹操も苦笑する。

 自分や夏候惇と出会ったときも、これほどに緊張はしていなかったのに。自分達と違って、珊酔(さんすい)が男だからだろうか。

面白いものだ。

 

「まあ、おいおい慣れてくれればいいわ。桂花もね。」

 

「はっ」

 

「はいっ」

 

 二人がしっかり返事をしたのをその目で確認してから、曹操は珊酔(さんすい)に向き直った。

 

「さて、先に抜けていいと言った手前、あなたが私の予想より元気そうだからと言って、引き止めるわけにはいかないわね。もう帰って寝ても大丈夫よ」

 

「有難い。昼よりはましだが、まだ本調子じゃないからな。寝かせてくれると助かるよ。華侖(かろん)は……まだ食ってるな。どうするか」

 

「放っておいていいわ。懐いているあなたに置いていかれれば、多少あの子も学ぶでしょう」

 

「……わかった」

 

 珊酔(さんすい)は少しためらっていたが、最終的には頷いた。

その前に小さく、泣かれないといいんだが、とつぶやいたことを、近くにいた曹操は聞いていた。

 珊酔(さんすい)は曹操のことを過保護だというが、この夫も大概過保護である。

 

「じゃ、俺は戻る。お前も帰ってきたばかりなんだから、無理はするなよ。お疲れ」

 

 ふわりと踵を返して、珊酔(さんすい)はその場を離れようとする。

 が、一歩踏み出そうとしたところで足を止めて、何かに気が付いた様子で虚空に視線を向けた。

 曹操は首をかしげる。珊酔(さんすい)が見ているところに視線を向けるも、ただ天井があるだけで何も変わりはなかった。

 

「どうしたの?」

 

「……調べに出してた部下が、城に戻ってきたみたいだ。気配が近づいてる。間がいいのか悪いのか……急いでいるようだし、寝る前に、話を聞いてやらなきゃまずそうだ」

 

「まさか、また賊が!?」

 

 荀彧が声を上げ、曹操の背後で許褚が息を飲んだような音がした。

 華琳も表情を変えないながらも身を固くしたが、珊酔(さんすい)はこちらに向き直って首を振る。

 

「賊が出たんなら、まず門番なり関係各所に通達する。こっそり城壁越えて戻ってきたりしないだろうな。何かつかんだのか、増援か。わからんが、俺のところで対処できる内容だと思う。お前は普通に宴に出て、終わったら部屋で寝てればいい。一人寝は遠征で慣れているだろう?」

 

 珊酔(さんすい)はなんてことないように、肩をすくめた。

 だが、その内容に曹操は眉をしかめる。

 

「今夜戻ってこれないような話なの?」

 

「念のためだ、念のため。まあたぶん、お前が帰ってきたころには、先に寝台で寝ている公算の方が高い。じゃあな」

 

 珊酔(さんすい)は一度大きく伸びをしてから、長い四肢を使って、赤く塗られた石壁を難なく駆け上がり、梁に飛び移ったかと思うと一瞬で視界から消えたのである。

 その動きは、まさに敏捷な獣のようだった。

 

「まったく、私の返事も聞かずにいなくなって。勝手なんだから」

 曹操はため息をついた。

 珊酔(さんすい)は面倒くさがりなくせに、なぜか無茶をすることが多いのだ。止めようにも、身体能力と敏捷性は誰もかなわないので、一度逃げられれば補足できなくなる。

 許褚と荀彧は自分の目が信じられないようで、間抜けな顔で珊酔(さんすい)が最後に見えた梁のほうを見ている。

 人間のあんな動きを見たのは初めてだろうから、仕方ないかもしれない。

 あんなことができる夫だからこそ、諜報などの裏方も、任せているのだけれど。

 曹操は、心にむくむくと広がる不安を振り払い、呆然としている今日の主役二人を促して人の輪に入っていったのだった。

 

 

 




沢山のお気に入り、評価、感想、本当にありがとうございます。

オリジナルキャラ結婚済みの曹操という設定なので、読む人を選ぶだろうなあと考えていたのですが、予想をはるかに超える方々に読んでいただいたようで、感謝です。

あとがきの場をかりて、お礼申し上げます。

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