比翼連理   作:風月

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脱出

 視察を終えた後、曹操と曹仁は食堂で軽めの昼食をとってから、最上階にある曹操と珊酔(さんすい)の部屋に向かった。

 張三姉妹の公演を見にいくにあたって、いつもよりは地味な服を用意したから後で着替えに来てくれと珊酔に言われたからである。

 曹操がそんな服をいつ買ったのかと珊酔に聞けば、視察の帰りに服屋に寄って買ったと言う。籠を背負ったまま店に入ったのか、という質問をすると、無言で立ち去ってしまった。

 曹仁や許褚の手前、表立っては言わなかったみたいだが、巨大な風呂敷を担いで街を歩くことはとても恥ずかしかったのだろう。

 

 

「えっと、本当にあたしがついて行っていいんすかね?()ぃと華琳姉、本当は二人きりで行きたいんじゃないっすか?」

 

 曹操から一歩下がって石造りのらせん階段を昇っていた曹仁が、下から曹操の様子を窺うようにしながら言う。

 珊酔の副将とはいえ、曹仁は警備の方を重点的に任されているため、細かな情報が入るのは遅くなりがちであった。朝方は同じ班に許褚がいたため、珊酔は公演の話を出さなかった。

 故に、曹仁は関係者だけになった昼の食事時に、張三姉妹の公演の話を聞いたばかりだったのだ。

 

「せっかくの二人きりになる機会じゃないっすか。最近華琳姉も兄ぃも忙しかったから……」

 

華侖(かろん)、可愛いあなたを疎ましく思う訳ないでしょう?それに、わたしと珊酔は同じ部屋で生活しているもの、変に気を回す必要はないわ。珊酔の副将として、堂々とついてきなさい」

 

「……はいっす」

 

 頷きはしたものの、やはり気にしているらしい。いつもの有り余る元気が今は影をひそめていた。

 曹仁は、大きくなった今でも曹操にだけは非常に気を使う。主だから、というだけではなく、気後れからくるものだった。それは曹操も知っていたから、少し気まずい思いをしても咎めることはない。

 珊酔についたことで大分改善されたものの、まだ二人きりで自然に接するには時間がかかりそうだった。

 

「とにかく、今日は仕事なのだから、気にして不要な怪我などしないようにね。旅芸人の公演を見に行くだけとはいえ、あなたは珊酔に走ってついていくのでしょう?」

 

「あ、それは問題ないっす。むしろ、訓練で走ってる時よりゆっくりっすからね。半時(約1時間)でたった60里(約25キロメートル)走るだけで怪我してたら、副将どころか一般兵からやり直さなきゃならなくなるっす」

 

「……そ、そう。それならいいわ」

 

 曹操は苦笑した。

 60里ともなれば、一般的に馬を使って半時かかる距離なのである。しかも、これは平地においての時間であり、今回は道のない山を越えて行かなければならないのだ。

 体力的にも、走力的にもどう考えても人間には無理と思えることを、珊酔隊に所属する兵士たちは軽々とやってのける。夏候惇隊のように異常な突破力があるわけではないが、非常に優秀な歩兵部隊であることは間違いなかった。

 珊酔に言わせると、剣で自分の3倍はある岩を叩き割ったり、城の端から反対側に設置した的に寸分たがわず矢を的中させる方がよっぽど異常であるというのだから面白い。

 隊の難点を挙げるとすれば、走る訓練の割合が多くなっている分、馬の扱いが他の隊に比べて下手ということだろうか。馬に乗って長距離を移動する方が目的地に着くのが遅くなるというのだから、あらゆる意味で常識外れの隊といえるのだ。

 

 まもなく螺旋階段のてっぺんにつくと、曹操はためらいなく扉を開けた。

 

「犬野、入るわよ」

 

「お邪魔します~」

 

 曹操の後に、未だ低姿勢のままの曹仁が続く。

 曹操は珊酔の姿を確認するより先に、自室に竹籠の山がないかをしっかりと確認した。曹操の化粧台のわきに一つ、寝台の横に一つ竹籠が置いてあるだけで、隠してある様子はなかった。

 寝台のわきの竹籠には、視察の時に珊酔が着ていた服が既に入っていた。どうやら洗い物用として使う心づもりらしい。

 

 その服の持ち主である珊酔はというと、寝台の上に半身を起こした状態で目をこすっていた。

 珊酔はいつも好んで着ている長袖の服ではなく、両袖がなく肩から先が露出している黒の衣服を身に着けていた。撥ねている特徴的な銀髪も、黒の布を巻く事で隠してしまっている。

 

「おはよう、犬野。ずいぶん懐かしい服を出してきたわね」

 

「……おはよ。長い袖のものを着ていると、便利だがどうしても目立つからな。昔のを変装用に引っ張り出した。で、お前たちの分はそこな」

 

 珊酔は体半分を布団に入れた、だらっとした格好のまま机の上を示した。見ると、丁寧に畳まれた紺色の服が2着並んでいる。

 

「色はお前たちの好みに合わせた。右に置いてあるのが華侖ので、左が華琳の。大きさには気を付けたが……」

 

「へえ……あなたにしてはいい趣味をしてるじゃない」

 

 机の上にある服を見て、曹操は感嘆の声を上げた。

手にとってみると、簡素だが見えないところに刺繍がしてあり、質の高い服ということがわかる。

 曹仁用のものも、曹操と同じような素材の服だったが、袖から先がなく下履きが短いものと組み合わせることで露出部分が多めに作られていた。普段からきちんとした服を着ることが嫌いで、『脱ぎたがり』の曹仁に配慮したのだろう。

 

「伊達におまえの買い物に付き合わされてないさ。というわけで、着替えてくれ」

 

「あなたの目の前で? 私はいいけれど、今日は華侖がいるのよ」

 

 眉をひそめる華琳の横で、少しほほを赤らめた曹仁が必死にうなずいていた。普段は珊酔の前であろうが人目を気にせず服を脱いでしまうのに、改めて目の前で着替えろと言われると恥ずかしいらしい。

 

「安心しろ、俺はここで布団に潜ってる。絶対に覗かないから、着替えが終わったら呼んでくれ」

 

 言うと同時に、珊酔はもぞもぞと布団の中に逆戻りしてしまった。頭まですっぽり布団をかぶっているので、この状態のままであれば二人の着替えを見ることはできないだろう。

 

「に、兄ぃ~」

 

 まだ顔に赤みが残っている曹仁が情けない声をあげているが、盛り上がった布団は全く動く気配がない。

 曹操は、軽く額を押さえてため息をついた。こうなれば、夫は梃子でも動かない。

 

「……しかたないわね。着替えましょうか」

 

「えっ、でも……」

 

「あそこにいる犬野は何をしようとも動かないでしょうしね。覗かないという言葉を信用しましょう」

 

「うう……わかったっす」

 

 しぶしぶと、曹仁は上着に手をかける。寝台の様子をうかがいながらも、手早く着替え始めたところを確認して、曹操も自分の服を脱いだ。

 

 着替え終わって珊酔を起こす前に、曹操は化粧台の前に行き鏡で自分の姿を確認する。裕福な商家の娘というところだろうか。

 

「華侖、あなたから見てどうかしら?」

 

「おお、すごく似合ってるっすよ! ひらひらした服もいいけれど、こういうのも似合うんすね! さすが華琳姉っす」

 

「ありがとう。あなたも似合ってるわよ、華侖。といっても、あなたは普段とあまり印象が変わらないわね」

 

「そうっすかね。あたしとしては、もう少し前がこう、ぐっと開いていた方が風通りがよくて好きなんすけど……ここ、破いちゃダメっすかね」

 

「やめなさい。胸が完全に見えちゃうじゃないの」

 

「うー。わかったっす……」

 

 口をとがらせて窮屈そうに胸元の布を引っ張る曹仁を、曹操は慌ててとどめた。

 城の中ではないのだ、見知らぬ男たちが沢山集まるであろう場所で、必要以上に肌をあらわにしては良くない。

 

「犬野、終わったわよ。起きて」

 

「……」

 

 返事はなかったが、寝台で盛り上がっているものがもぞもぞと動いて、珊酔が這い出てくる。先ほどのように半身だけ出すのではなく、きっちりと寝台から降りた珊酔は二人の姿を見つめ、やがて口の端に笑みを浮かべた。

 

「二人とも、似合うじゃないか」

 

「ありがとう。でも、この服だと民というよりは、豪商の娘のような感じね。結局目立つことに変わりはないんじゃないかしら?」

 

「商人も上に支配されている民には変わりないからな、十分だ。公演の出資に商人もいるんだから俺たちだけ目立つってことはないだろうさ。見に来た客に、取り締まる側だと思われなければそれでいい。普段の洒落た格好だったら、上級官吏や豪族関係の奴だってすぐばれるからな。……第一、質素で完全に既製品の着物なんか着たって似合わないだろう?」

 

「似合う似合わないの前に、そんな服を差し出されても絶対に着ないから。私の美意識に反するもの」

 

「まあ、お前は根っからのお嬢だもんな。前提からして無理な話か……」

 

「ええ。無理に合わせようとでもしたら、しばらく口を利かないから」

 

 腰に手を当て、鼻息荒く珊酔を見上げる曹操の前で、珊酔は降参というように両手を掲げた。

 

「俺としても、自分の妻が嫌がることをするつもりはなかったさ。仮定の話で怒らないでくれ」

 

「……わかったわ。で、あなたの方はもう準備ができているのね? 寝ていて服しか着替えていなかった、とか言ったら怒るわよ」

 

「当然。華侖、これ持ってくれ。3人分の水と、あと護身用の短剣。皮紐付きの鞘に入ってるから、腰に巻いていけるだろ」

 

「わっ! 兄ぃ、急に投げたら危ないっすよ」

 

 ぽいぽいと、突然投げられた竹筒やら鞘に短剣やらに、曹仁は慌てて手を伸ばした。残念ながら竹筒の一つは捕まえそこねて床に転がったが、水が漏れることはなかった。

 曹仁は胸をなでおろし、腰に皮紐を巻いて、鞘がぶら下がっている反対に竹筒を括り付けた。

 

「あと、これが華琳の分の短剣。……扱えるよな?」

 

「ええ。あまり得意ではないけれど、嗜みとして学んでいるわ」

 

「そうか。今日は公演を見に行くだけだから、使うことはたぶんないだろうけどな。念のため、俺と華侖の傍は絶対に離れるなよ。お忍びで動いてお前に怪我をさせたと知ったら、お前の側近たちに何を言われるかわからん」

 

 屈みこんで曹操の腰に鞘付きの皮紐を巻きながら珊酔が言った。

 今回、張三姉妹の公演を華琳が見に行くことを知っているのは、この場にいる珊酔と曹仁、そして先に行って様子を探っている珊酔隊の部下たちだけなのだ。珊酔が曹操の気配を見失うことはないとはいえ、少し離れた隙に何が起こるかわからない。それを、珊酔はとてもよく知っていた。

念を押しておくに越したことはない。

 

「はいはい、わかってるわよ。向こうにいる間、ずっとあなたの服の袖を握っていればいいのでしょう?」

 

「まあ、そんな感じで。華侖も、美味しそうな匂いがしたからって勝手にいなくなるなよ。結構な数の出店の準備があったからな。食べたいものがあれば、まず俺に言え。昨日の宴の時のようなことは絶対にするなよ」

 

「はいっす」

 

 気まずそうな表情で、曹仁が頷く。

 脊髄反射で動くことが多いものの、これで多少は注意するだろう。

 珊酔は最後に自分の腰に短剣を装備する。

 

「さて、いくか。……華琳」

 

「はい。落とさないでね」

 

 珊酔は手を広げる曹操の膝に左手をあてて、ぐいと抱き上げた。俗に言う姫抱きというやつである。

 持ち上げられた曹操は、珊酔の体に密着するように体勢をかえ、細い首に腕を回した。こうすることで、珊酔は左手だけで十分曹操の体を支えることができるのだ。

 二人きりでこっそり出かけるときは、だいたいこの格好で城を脱出しているので、曹操も珊酔も手馴れたものである。

 

「華侖、いくぞ。遅れるなよ」

 

「了解っす!」

 

 背後からの曹仁の返事を確認してから、珊酔は曹操を抱えたまま軽く助走をつけて、窓からひょいと身を躍らせたのだった。

 高いところから落ちる独特の感覚に、曹操は思わず目をつむってしまう。知らず知らず、珊酔の首に回した腕に力を込めていた。

 今まで何度経験しても、この瞬間だけは好きになれなかった。

 密着してきた曹操を安心させるように、珊酔は両腕でその小さな体を強く抱きしめた。地面にぶつかる少し手前で、猫のように宙で一回転して、まるで体重がないかのようにふわりと両足から地面に着地したのである。

 次いで間を置かず加速し、まっすぐ陳留の街を囲む城壁までたどり着くと、曹操の体を左腕だけで抱えなおし、片手一本と両足を石壁のわずかな窪みにひっかけながら城壁を登り始めた。

 

 陳留の街をぐるりと囲む城壁は、外敵の侵入を防ぐため相応の高さを持つ。おおよそ素手で登りきる者などいないと思われているそれを、なんの問題もなく登り切ってしまう。

 もともと気配に対して過敏な珊酔である、登った場所は見張りがいないところをしっかり選んでいる。とはいえ、念のため周囲を見渡し、誰も見ていないことを確認してから再びひょいと城壁から身を投げ出した。

 先ほどと同様に、草地に降り立つ。

 一拍置いて、曹仁も上から降ってきた。曹仁は珊酔ほど空中で上手く勢いを殺せないので、着地後にもう一度地面で一回転している。むき出しの腕には既に土の汚れがついていた。

 珊酔はそれを確認してから、曹操に目を開いても大丈夫だと伝え、力強く地面を蹴って走り出した。

 あっという間に景色が後方に流れ、みるみるうちに陳留の街から離れていく。

 こうして、城内の兵士や民の誰にも見とがめられることなく、3人は陳留の街を脱出したのだった。

 

 

 




あとがき

距離についてはこのサイトに投稿されている、所長様作成の『資料・恋姫時代の後漢』に掛かれているものを参考にさせて頂きました

1時≒8刻≒2時間 より半時≒1時間

1里≒415m より 60里≒25km くらいで考えております




最後に、見て下さったり、評価を下さったり、感想を下さる皆様に感謝を
大変励みになっております
ここまで読んでくださりありがとうございました。

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