天下に響く風   作:霧のまほろば

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第16話 黄巾の乱の影に蠢く闇

「ーーおう、首尾はどうだ?」

「ああ、十数万の軍勢が洛陽に向かってる。これで洛陽は手中に落ちたも同然だろ」

「違えねぇな」

「おめぇの方は如何なんだ?」

 

ある山にあるうち捨てられた古い砦。その中で一つの朽ちた小屋の中で男が二人頭を寄せ合って、焚き火の明かりにその姿を晒す。

その男たちは頭に『黄色い布』を巻いて、服装も特徴的な黄色い衣をつけている。

 

「俺の方もまぁまぁといったところか。山賊仲間は皆賛同して各地に潜伏しては近くの農村で扇動をしている頃だろうよ」

「食料も『彼奴ら』から提供受けているからな。当分は食いモンには困らねぇよ」

「へっ、『彼奴ら』も酔狂なもんだよな。自分らが仕えているっていうお上さんに刃向かうような俺らに手を差し伸べようってんだからよ。なぁ、兄貴!」

 

先ほどから焚き火に背を向けて掛け軸に向かって、手を合わせて何事か呟いている男に向かって叫ぶ虎髭の男。その声にピクリと反応し、ゆっくりと合わせていた手を解き、焚き火に向き合う。

その男はまだ三十になるかならないか位の若さだというのに、あばら骨が浮き上がる程やせ細った体に、くすんだ白髪が目立ち、顎に蓄えた髭も白く染まり、顔には老人のように深い皺が入り、目は白濁したものが浮かぶ。生きながらにして死しているというのはこういうものなのかと思うような出で立ちだった。

ヒュウ、と喉仏が鳴り、枯葉のような唇が無念さを込めた怨みの声を紡ぐ。

 

「………蒼天既に死す、黄天今立つべし。……弟らよ。俺は必ず成し遂げてみせよう。……この国を、漢を終わらせる…………。決して民が無得に虐げられるような世、あってはならぬ………」

「そうだぜ、兄貴ぃ……!畜生っ!許せねぇ!お袋を、親父を殺して、妹を……犯しては殺した奴らを、許して堪るかよぉ!」

「そうだ。不作で税金が収められねぇからって、家族を殺し、畑を荒らされ……。これで如何やって生きていくってんだよ。官軍の奴らのせいで、俺たちは山賊に成り果てた!」

 

兄貴、と呼ばれた男の声に応えるように、虎髭を蓄えた男が涙を浮かべ、床を殴りながら恨み言を叫ぶ。

戦乱で畑が荒れ、税金が収められなかったことで罰せられる事となり、父親は五頭の牛に頭と手足を結びつけられ、文字通り生きたまま引きちぎられるという残酷な死刑に処され、妙齢の母親は慈悲を乞うては役人に連れて行かれ、暫くすれば河原に裸で打ち捨てられていた。

妹はこの男が山へ芝刈りに行って留守にしていた内に乱入してきた役人の私兵と思わしき男たちに無理矢理辱められ、男が帰ってきた頃には体を穢されたと書き遺し、首を吊って死んでいた。まだ13歳の子であり、2歳年上の商人の長男との縁組も決まって、幸せな道を歩める筈だった。

男は変わり果てた妹の亡骸を泣く泣く埋葬し、私兵の二人に復讐を果たすも、最後の一人を逃し、復讐も果たせず逆に村を追われて、まだ10になったばかりの弟と共に山賊となった。

 

髭の一つも生えていないつるりとした顎を撫でて虎髭の男の慟哭を聞き届けた男は手元に広げた書簡をバキリ、と握り潰すと憤怒の感情を声に滲ませる。

この男も不作で税を納められず、強制労働に父と兄を連れて行かれ、その二人は帰らぬ人となった。母と姉は必死に昼も夜も関わらず、布を織ったり、草履を作ったりしてコツコツとお金を作っていたが、そのことを知った役人に未納税という建前で奪われ、姉も無理矢理役人の妾にされ、それを嫌がって首を掻き切って死に。それを知った母も後を追うように心労で死んだ。残された幼い弟も真面に食事にありつく事も出来ず、やせ細って行き、最期には皮と骨だけの酷い有様となって冷たくなっていた。残されたこの男も役人の策謀で畑も家も失い、単身で村を飛び出して山賊と成り果てた。

 

この三人の男たちは家族を役人ーー謂わば漢によって失い、理不尽なこの世を嘆き、何の理由もなく殺されていく民を見て、耐えられなかった。だから、漢を滅ぼす決心を固め、逆賊となることを決めた。

青い空を黄色の砂塵で覆い隠すことにした。一つの空を堕とそうとしているのだ。

 

「………我らの悲願を叶えるためにはお前たちの力が要る。我らのためにその力を使え。漢を滅ぼすのだ……」

「ひっ……!は、はい……」

 

炎に照らされ、不気味に浮かぶ白い眼から放たれる視線を向けられ、思わず身を竦めるのは三人の娘。後ろ手に縛られ、足も縄で縛られ、身動きの取れない三人の娘は小屋の隅に繋げられ、逃げられないようにされていた。

 

「ど、どうしよう……、人和ちゃん……」

「落ち着いて、天和姉さん。此処は大人しく従っていたら、乱暴はされないと思う……」

「どうして、こんな事に………ごめんね、お姉ちゃん、人和ちゃん……ごめんね……」

 

涙を浮かべ、体を震わせる天和と呼ばれた少女ーー張角。長女にして真名を【天和】。

眼鏡をかけて、冷静に現状を分析する少女ーー張梁。三女にして真名を【人和】。

俯いてただひたすら謝る水色の髪の少女ーー張宝。次女にして真名を【地和】。

 

張三姉妹であり、史実ではかの黄巾の乱の首謀者である。

しかし、三姉妹は呪法を使った宴会ーーライブを行い、大勢の民を洗脳して、自身のファンを増やしていく手法を白濁した目の男に目をつけられ、休憩の時に親衛隊の目をかいくぐって来た男らに拐われた。

 

此処で書き加えておくが、三姉妹は好き好んで洗脳をしようとした訳ではない。

元凶は張梁がライブで訪れたある街で『南華老仙』と名乗る浮世離れした雰囲気を持つ不思議な老人に渡された本ーー『太平要術の書』にある。ライブで有名になりたいと思えば、不思議な事に、その書に呪法の方法が書かれ、その方法通りにやれば、瞬く間にファンは増えていき、今や数十万を数えるほどとなった。各地を訪れれば、歓声が轟き、地を揺るがす。今までにないほど熱いもてなしが待ち受け、今まで見たことのなかった豪華な料理が並ぶ。

まだ15か16の未熟な少女たちにこの歓声は甘美な毒となり、気分を高揚させ、影となる部分を見落としていたのだ。この三人の少女たちはこの呪法が洗脳だということなど知らず、見る者を楽しませるために歌っていただけなのだ。

今や、その『太平要術の書』も男の手にある。

 

「………次のらいぶとやらで、『天下を取る』と言え」

「え?て、天下を取る、ですか………?」

「そうだ。言わねば………分かるな?……明日の朝になれば麓の町まで送ってやる。だが、ーー我らはいつでも見ているぞ」

 

いつの間にか、『太平要術の書』を開いてそれに目を落としていのが、張角の目の前にしゃがみ込んだ白濁した目の男に命令という形の脅しを突きつけられる。震える体を抑えて、聞き返すとわずかに頷き腰の剣を抜き放ち、首筋に添えられる。冷たい金属の感覚が首に伝わり、血の気が降りていく。目の前に気味の悪い瞬きすらせぬ白濁した目が焚き火で浮き彫りとなった影のなかでぼんやりと浮かび上がり、それがさらなる不気味さを醸し出していた。

恐怖で最早頷くしかなかった張角。

その言葉が漢の王朝を滅ぼす一つの引き金となるとは知らずに。かろうじて保っていた王朝と群雄たちとの均衡を崩す事になるとは。

永きに渡る戦乱の幕切れを己の手で開けてしまうことになるとは。

 

ーーー全てが始まってから後悔しても全ては進み行き、時を巻き戻すことなど到底叶わぬこと。それを思い知るのはそう遠くない時の事。

 

僅かに漏れる嗚咽の声を背面に、ふらりと小屋の外に出て満天の星空を眺める男。先程までの不気味さはすっかり鳴りを潜め、そこにあるのは一人の淋しげな男だった。

なんてことは無い、この男も元々は一つの街の塾の教師だったのだ。若い娘と祝詞も挙げてあと一か月もすれば新しい家族が増え、教え子と可愛らしい若妻とその腹に宿る新しい命に囲まれ、幸せなひと時を送っていた時だった。可愛らしい妻の噂を聞き入れた街の役人が訪れ、無理やり引き離そうとした事があった。その役人は性格が狂っており、赤子を抱いた女人を拷問にかけ、最後には生きたまま腹を裂いて赤子を取り出して母子共々殺すという。

そんな噂を持つ役人と妻に割って入った夫は役人が抱える私兵に斬り殺されそうになったものの、偶々通りかかった旅の武芸者に助けられ一難を逃れる事はできた。しかし、その武芸者が街を去ると再び役人は魔手を伸ばしてきたのだ。それも夫が塾で教鞭を執っている時にだ。身重の妻は何の抵抗も出来ず、引き摺られていく。

その現場を目撃した街人からの知らせで慌てて妻を助けに向かおうとするも、時はすでに遅く、街の中心で腹を切り裂かれ、磔にされて息絶えていた。

 

 

「………もう少しだ。もう少しでこの国を終わらせる。汀、羽。お前の仇ももう少しで取れる。待っていてくれ………」

 

妻の腹に宿っていた赤子は女の子だった。男の子なら優。女の子なら羽と楽しげに妻と話して決めていた事も思い出す。

 

白濁した目の男の胸元にぶら下がる指輪のような木の輪が哀しげに揺れる。

この戦乱の世、漢の命運の灯火も風前の灯火とばかりに揺らめき、いついつ途絶えるのだろうか。漢の歴史が始まって以来初めての農民による大規模反乱がもう少しで始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ーーククク、あの三人も馬鹿ですね。まぁ、用兵の心得はあるようですから、とことん利用させてもらいましょう。食料もたんまりとあることですから、少しくらいやったとしても、片腹も痛くない。ですが、与えてばかりでは、こちらの利には成りませんからね。とことん骨の髄まで利用させて頂くとしましょうか」

 

朱塗りの建物の中で、宝玉を散りばめた帽子を被った初老の男が口角を吊り上げて愉しそうに嗤う。

洛陽の闇で人知れず大陸を巻き込む大きな乱の引き金を引いた闇が蠢く。

 

「ククク………。私の野望を果たすためには貴方には消えてもらわねば成りません。ーー董卓どの。ククク、ハハハ………」

 

何ものをも見下すかのような狂った冷酷な瞳をもったこの男は嘲笑をがらんどうとした宮殿の中に響かせて一人歩み去っていく。

その嗤いには歪みきった狂気が込められ、この男がどれほど壊れているかが分かる。

 

「張譲様!」

「ハハハ………?何ですか?人が気分よく笑っていたというのに……」

 

背後から掛けられた声に不機嫌そうに眉を歪める男ーー張譲。帝に仕える十常侍筆頭にしてこの漢の権力を一手に握る男であり、世が乱れる原因となった男だ。

ギョロリ、と目だけを動かして駆け寄ってくる兵士を睨みつける。

 

「ハッ、申し訳ありません!急報です、黄巾を纏った軍勢十万余、洛陽目掛け進軍中です!今は洛陽に到着されたばかりの董刺史配下の軍が迎撃に当たっていますが、いかんせん数の差で負けております!」

「だから、何だというのですか?」

 

兵士は目の前の男が信じられなかった。敵は十万を超える大軍、下手すれば二十万はいくかもしれない、未曾有の大軍だ。

それに対し、此方は董卓率いる四万五千と何進大将軍直属の二万。(本来は十万居るが、現在、八万は賊の討伐と晋陽に迫り来る鮮卑の大軍の対応に出撃して不在である。更に言うならば、残る兵は新兵もいいとこの素人も同然であり、戦には到底出せる様な者では無い)

禁中にも兵士二万が居るが、あくまで宮殿の守護兵であり、洛陽の守護には動かない。

しかし、それでは数の差に押され、洛陽の街に侵入を許してしまうのは明白であった。

それを見越した董卓と賈詡は掟破りであることを承知して禁中兵に出動を要請したのだ。そのために派遣されたのがこの兵士だ。

しかし、目の前の男はこの兵士がやってきた理由が全く検討つかないようだ。いや、検討ついているが、自分の障害となる存在である董卓の力になる意味も理由も無い。むしろ、此処で消えてくれれば上々、その目的の達成の為には洛陽の民が幾ら死んでも問題ない、とさえ考えていた。この宮城だけでも無事ならば幾らでも打つ手はあるのだから。

 

「は、ハッ、董刺史から援軍要請が入っていますが、如何致しましょう?」

「ハッ、ハハハッ、援軍要請?クククッ。笑わせてくれますね。董刺史どのの軍は勇猛果敢、百戦錬磨の軍とお聞きしますよ?それに聞けば、迫ってくる敵軍は元百姓の者たちと言うではありませんか。董刺史どのの軍ならば一蹴して退けられるでしょう?私たち、禁中兵が手を出す必要などありませんよ。それとも何か?董刺史どのの軍の勇猛果敢な噂話は虚偽の噂だと申すのですかね?」

 

此処まで言われてしまえば何も言い返せなかった。最後の挑発気味な言葉に思わず憤怒の感情に駆られる。こめかみに血管が浮かび上がるも、兜に隠される。

お前が主の何を知っている!呂将軍が編み出して二年の歳月をかけて作り上げた最強の軍の何を知っている!自分たちが尊敬し、崇拝する将軍たちの強さの何を知っている!

そう叫び、掴みかかりたかった。殴りかかりたかった。

しかし、相手は十常侍だ。自分が粗相すれば、主である董卓たちに危害が及ぶ。其処まで理解すれば、動けなかった。自分のせいで董卓たちが処刑されるようなことにでもなれば、と考えるだけで、顔が青くなり、登っていた血の気が降りていき、憤怒の形相も鳴りを潜めていく。

悔しげに唇を噛んで血が滲むほど強く拳を握り締め、必死に目の前に立つ男を斬り殺したくなりそうな精神を宥めすかしながら董卓の元へ戻ろうとして。

 

「あぁ、そうだーー貴方には死んでいただきますよ」

「な………?」

 

ーーー視界が回っていく。まわり行く視界の中に、血を吹き出す首の無い体が。ああ、あれは自分の体だ、と他人的なことを考え、頭が現実を認められなかった。

そして、張譲の隣には、いつの間にか剣を振り抜いた宦官の男の姿が………。確か、名を蹇碩、十常侍随一の剣の使い手………。

そう考えたところで、彼の命の火は血の池に消えていった。

 

「此れは此れは……お見事。蹇碩どの」

「お目汚し仕った。では某は此れにて御免」

 

剣を降り、血振りして剣から血糊が剥がれ、白銀の光を灯したのを確認し、鞘へ戻した後に、何も写していない濁った眼をチラリと張譲の方へ向けると興味を失ったかのように背中を向けて自身の部屋へ戻っていく。

 

ゆらりゆらりと柱の隙間から差し込んでいる傾いた日差しに姿を現し、消しつつ遠ざかっていく蹇碩の背中をつまらないものでも見るかのようにじっと眺めていたが、やはり、この男も興味を失い、手持ち無沙汰になった両の手を弄びながら、血の海から離れていく。

ーー口角を吊り上げ、狂気に満ちた嗤いを浮かべながら。

 

「クククッ、ひひひ………ひはははっ、ははハハハッ!」

 

ここは洛陽が帝の居城である禁城。此処に正気など無い。そこにあったのは悍ましいまでの狂気。あらゆるものが欲に目が眩み、正気を失い、狂気に呑まれ、己を高みに押しやり、周りを見下すことしか考えられなくなる。ただ、己の欲を満たすことを第一にと考える、狂った空気に満ちた魔の蔓延る城だ。

 

 

 

 

 

 

 

「呂風隊、呂布隊突っ込むよ!霞と星は一撃離脱をかけつつ、回り込んで後ろ両脇から突っ込んで!日が落ちて来たから、同士討ちの無いように位置の把握に気を配って!」

『おおおおおおおッッ!!!』

「委細承知!」

「おっしゃ!やったるで!」

「………!往く……!」

 

竿立ちになった馬の背で危なげなく手綱を取りつつ怒鳴るように指示を下す呂風。

姿勢を取り戻した馬の腹を蹴ると溜めた気合を吐き出すかのような嘶きをあげて大地を蹴り、雷鳴の如く轟音を立てて駆け出す。

そして、その後を純粋無垢の白備えで統一した二千の呂風隊【白迅隊】が勇ましい雄叫びを上げ、斧と槍が融合したような武器(ハルバート)を構え、四百五列の隊列で猛然と突撃を始めた。呂風軍を示す純白の地に紺碧の呂の字の旗が大きくしなりながら激しくはためき、鈴がシャラン、シャランと鳴り、最強の戦神の到来を告げる。

そのすぐ後ろに呂布隊【赤虎隊】三千が馬上弓を構え、それぞれ“矢を三本”番えて馬を駆ける。血を思わせる真紅の旗に漆黒の黒の旗。あらゆるものを破壊し尽くす鬼神の到来を見せつける。

 

二つの隊が駆ける事で舞い上がる土煙に紛れて、張遼と趙雲の隊がそれぞれ弓を持ちながら奇襲に備えて、極力音を立てないように右翼と左翼に展開し、畝る丘に隠れるように回り込みを始める。

 

 

ジャラララッと鎖が滑る音が鳴り、刃渡り四尺以上(92㎝以上)もある巨大な穂先が飛んでいき、木で作られた分厚い盾を装備した兵の数人を一気に纏めて貫き、後方の兵共々薙ぎ倒し、地面に縫い付ける。

強弓から放たれる矢も防げる盾が何の意味もなくいとも容易く叩き割られ、剰え後方の兵も一気に数人も貫かれ、絶命するという、敵から見れば戦慄すべき光景は瞬く間に伝播していき、動揺が広がる。

 

「一番槍はこの呂万武が貰った!」

「見事な一番槍です!我らも響さん……じゃ無くてっ!呂将軍に続けぇーーー!!」

『うおおおぉぉぉぉぉッッ!!』

 

副将【姜維 伯約】。赤みのかかった長い黒髪を頭の上で束ね、頭帯から二房の髪を垂らす、紫の瞳を持つ14歳の活発な少女。赤い胴鎧とに緑色の外套を纏い、十文字の槍を得意とする。

まだ【安定】の都にいた時、匈奴の侵攻を退けた後に流れて来た難民の中に姜維の姿があった。彼女は両親と故郷を匈奴の侵攻の最中で村を焼かれ、目の前で全てを喪った。

 

日常の一幕となりつつあった呂風の酒屋巡りと【安定】の民と織りなす風景の中で呂風と姜維は出会った。ふらり、と立ち寄った酒屋で雇われ娘として働いていたのが姜維だった。磨かれていない原石であったが、話を交わす内に呂風は姜維の何気ない言動に類いまれなる才能の片鱗を感じ、当時副将だった郝昭の補佐として抜擢したのが始まりだった。

定期的に行われる、呂風発案の戦術、戦略を練る為の会議に呼ばれたり、呂風との手合わせなど、濃厚な日を越して行く内にみるみる内に頭角を現し始めた。

 

鍛錬で痣やたんこぶを作ったり、戦術の詰め合わせで頭を抱えたり、呂風と呂布の戦術や戦略を武力でひっくり返す、理不尽な武力に卒倒しそうになったり、趙雲や張遼の自由奔放さに振り回されたり、董卓や賈詡たちによる呂風の着せ替えで鼻血を出したり、女としての自信が打ち砕かれたり、呂風の笑顔の可愛らしさに癒されたり、と何とも苦労人な二年間だった。

 

そして、二年経った今では立派に呂風隊の副将として、戟に集中するあまり、どうしても細かい指揮がおそろかになりがちな呂風の代わりとして呂風隊を纏める役目を担い、呂風隊にとって無くてはならない将として成長している。

 

ただ、欠点として、あの韓遂叛乱後、友好的な関係を結びつつある匈奴や西羌など西方の異民族に対する憎悪の念を捨てきれていない事だろうか。

姜維とて、それが省みるべき点であるということは分かっている。分かっているが、目の前で両親が匈奴の兵に殺された経験をしている彼女に匈奴に対する恨みを捨てろと言うのは酷な事だ。

このことばかりは時間が解決してくれるのを待つしかないだろう。

呂風もそれが分かっているから、何も言わず、そっとしている。又は悲しみを紛れさせようと食べ歩きや買い物に付き合ってもらっては【安定】の暖かい日常に触れさせようとしていた。

その甲斐があって、時折見せる哀しそうな顔は滅多に見ることも無くなり、活発な笑顔がよく見られるようになった。

そして、なにより、匈奴から訪れる商人を見ても憎悪の念を抱えることも無くなり、寧ろ、好意的な一面も見られるようになったのが大きい。(ただし、匈奴の兵に対してはまだ思うところがあるようで、顔を顰める時があるのは致し方無いところだろう)

 

 

 

ーー姜維side

 

皆様、初めまして。姓を姜、名を維、字を伯約と申します。真名は……もうじき分かりますよ。

響様……あ、いえ、響さん………ええと、様付けすると哀しそうな顔で怒られるんですよ。様づけしないでって……。あんな顔されたら凄まじい罪悪感に駆られてしまうんです。

でも私にとって、響さんは恩人も大恩人です。

こうして、戦う術や策を練る基を教授してくださったり、両親を亡くして天涯孤独となった私を響さんの御屋敷で住まわせていただいたり、と何から何まで気をかけてくださるのですから、様づけでも足りないくらい、大恩を感じているのです。

どうやったら、この計り知れない恩、返せるのでしょうか。ここ最近の悩みはこれに尽きてしまいます。

 

「えいっ!やぁっ!ハァァァッ!!」

 

十文字の槍ーー響さんが知り合いの鍛冶屋さんに請け合って作ってもらったという業物。銘を岩穿。一度突けば岩でも容易く貫く、と言うほどの切れ味を誇る槍です。私なんかのためにこれ程の大業物を用意してくださるのですからますます頭が下がる思いです。

私ではこの槍の性能を十分に発揮できているとは思いませんが名に恥じぬ戦働きをする迄です。

…………響さんは、えいっと軽く振っただけで斬撃が飛んで離れた岩も真っ二つにしたのみならず、その奥にあった木々を斬り、更には滝も斬りました。

夢かと思うかの様な光景に暫し呆然としてしまい、華雄さんや霞さんたちになんとも言えなさそうな顔で肩に手を置かれ、そっと横に首を振られて、その奥で響さんが困ったように笑って、その隣で恋さんが眠そうにしていて、月さまが手を叩いて褒めていて、反対に詠さんが頭が痛そうにしていたのが強烈に印象に残っています。

 

響さんほどとはいきませんが、斬撃を飛ばして、木を斬ることが出来るようになりたいです!

 

 

(ーーまだまだ、遠くて、見えないっ!)

「っくぅ!ーーっ!えいっ!」

 

響さんの壮絶なまでに凄まじい槍さばきに見惚れていたら、脇から歩兵の槍が突き出されて、咄嗟に岩穿を構えることで事なきを得ましたが、馬の上で咄嗟に構えたことで、体勢は圧倒的に不利。でも、こういう時の対処の仕方も響さんから教えられています。

力比べになってから、右手の力をわざと抜いて、柄を傾けることで、相手の槍を滑らせて体勢を崩すことができ、致命的な隙を突いて、馬から突き落とせました。

落ちた相手が生き絶えたのを確認して、響さんの現在地を確認しようとして、呆気にとられてしまいました。

 

竜巻。そうとしか言い表せないほどの凄まじい剣戟。響さんの槍ーー月光叉槍、長い柄の両端に此れまた長い刃が付いた槍。重さはとてつもないもので、霞さんでも持てばふらつくほど。剛力で知られる華雄さんでも顔を顰めて唸ってしまうほどの重量なのですが、響さんはそれを木の枝でも振るかのように軽々と振り回して、その度に敵兵が木の葉のように吹き飛んでいくのです。

 

 

そんな剣戟の最中、私は、私たちは信じられない光景を目にしました。一瞬の瞬きの間に数閃も槍の穂先が太陽の光を反射して煌めき、穂先が通ったところに光の線が現れたのです。しかし、その穂先が敵兵の体を捉えたようには見えないーーいえ、緩やかに動く光の線に触れたら、身体中に斬られたかのような傷を作り、血を吹き出してその場に倒れ伏せたのです。

あの恐らくはあの光の線は飛ぶ斬撃の一つなのでしょうが、よく響さんが見せる飛ぶ斬撃とは違って風のように飛ぶのではなく、緩やかにゆっくりと広がっていくように見え、響さんから離れていく蜃気楼のような其れに触れた敵兵が切り裂かれるのですから、恐ろしいものです。一体どれ程の才能と鍛錬を積めばあの域にまで到達する事が出来るのでしょうか………。

 

 

ヒュン、という風切り音と共に人の死が生み出され、血の川を、血の池を生み出してく。敵兵が噴き出す血の雨の中を突き抜けながらも、月光叉槍を目にも留まらぬ疾さで振り、敵を斬りながら赤い雨の雫を弾くことで純白の着物や髪を赤に濡れさせない。

赤い雨が降る中を穢れなき純白の存在が駆け抜ける。そんな光景は現実離れしていて、私だけじゃなくて、響さんに付き随う【白迅隊】のみなさんもいつしか槍を振るうのを止めて響さんの後ろ姿を追い掛けていたのです。

響さんが跨る黒い巨馬が跳ね、前足で敵兵を踏み潰し、筋骨逞しい体で跳ね飛ばし、両脇から迫り来る敵兵を僅かな刹那の間に斬り伏せ。十万はいるだろうかの大軍の中を無人の野を疾るかのように駆け抜ける。

馬が疾ることで捲き上る風に透け通るかのような白い髪が流れていき着物がたなびく。その場だけがまるで異なる世界のように切り抜かれている。

ーーああ、狂おしいまでに美しい。誰もがこの白き華を汚すことは出来ないのだ。絶対無二の白き華。

 

戦場に狂い咲く白き華。誰もそれから目を離すことは出来ない。誰もが狂おしく想う。

 

ーーこの絶対至高の武をその目に焼き付けようと。至高の武とは何たるかを脳に、心臓に、目に、鼻に、耳に、肌に。この体を成すもの全てに刻み込もうとする。

 

ーー刮目せよ、これが天下無双。是、天下無双也。

 

嘗て、霞さんたちに響さんは戦場ではどんな感じなのですか、と問いかけたことがあります。彼女たちも響さんの戦場での在り方に魅入られたのでしょう。そして、私も。

不意に頰を温かい液体が流れ伝わっていく。でも、それを拭おうという気にもなれなかった。目の前の白き華を少しでも焼き付けようと一心に響さんを見続けていたのです。

 

 

 

 

「胡花。左に往くよ」

 

胡花。それは私の真名。

凄惨な辺りに見合わぬ、水が流れるような静かな声に私の意識は一気に現実に戻ってきたのです。

いつしか嵐の剣戟は止み、響さんも動きを止めてだらりと脱力しきったように、動きを止めた馬の上でぽけーっとしていました。

どうしたのか、と問いかけようと思い、響さんの向こうの敵軍を見て、その意図に気づきました。

 

「えっ!?敵軍が二つに分かれていく……!?よ、陽動に気づかれたのですか!?」

 

私たちが斬り込んだところを起点に大軍が二つに分かれて動き出したのです。もしや、霞さんと星さんの陽動に気づいて動いている、としたら、お二人が危ないです!如何に霞さんと星さんのお二人が優れた将だとしても、響さんや恋さんみたいに隔絶した武を持っていません。それに配属されている兵士たちも

 

「後ろから恋たちが来て、猛射を加え始めているからだと思う。敵の先端だけならまだしも後陣もこっちを挟み込むように向いているから陽動には気づいていないと思うよ。で、敵の指揮官っぽいのが左方向にいると思うからそこに突撃するよ」

「指揮官っぽい……ですか?」

 

確かに、私たちが動きを止めた後方から赤備えの鎧で固めた赤虎隊が矢を放ちながら私たちの周りを回っています。………兵士の一人一人が矢を三本ずつ放っているのには頭を抱えざるを得ません。響さんの言うには、『こういった戦法なら一撃離脱になるけど、一本だと、精々二千くらいが限界だよね。赤虎隊って二千人くらいだし。だったら、二本か三本を同時に放てたら四千から六千を屠れるって事にならないかな?』という狂気とも取れる言葉から始まった(地獄の)鍛錬がこうして形になっているようです。

更には『三本の矢を放てて、その三本が別々の的に当たればいいよね。ほら、匈奴の兵士も馬上弓の扱いは神業の域だし、そこを目指したらいいんじゃないかなぁ?疾る馬に乗って三本の矢を同時に放って、飛ぶ鳥三羽を射落すことが出来れば一人前って言われるみたいだし』とも。

 

流石にその域を目指したら、兵士が死んでしまいます!と霞さんたちと一緒に必死に止めた覚えがあります。ですが、とある兵士がこの話を聞いていたようで、試しにやってみたら、思いの外上手くいってしまったので、満足そうにむふーって、顔を綻ばせた響さんの指導の元、白迅隊と赤虎隊の四千が集中的に鍛え上げられたのです。

勿論何百人もの兵士が吐きましたとも。ええ。本当に地獄でしたね………。

 

流石に匈奴の一人前の線まで到達出来た兵士は少ないのですが、それでも千人も居たのは想像外でした。その他の兵士たちも二本程度なら同時に放てるようになり、そうでも無い兵士も高い命中率を保持するようになっています。

 

その千人の内三百が響さんの隊に、残る七百が恋さんの隊に編入されました。

その効果が今発揮されているのです。恋さんの七百の精鋭に加えて千の弓を馬上で構えた兵士たちが百発百中の命中率で次々と敵軍に射かけて陣容を乱して、混乱に陥っているようです。

 

今なら、突撃もしやすい。なので、呂風隊に突撃の指示を下そうとした瞬間、響さんが単独で敵軍に突撃を始めました。勿論、私たちも慌てて追いかけますけど、私たちの取り分といいますか、手柄も響さんが全部バッタバッタと薙ぎ倒していくものですから、何もする事がないんです。

 

「呂の姐さん!少しは俺たちにも手柄、残してくだせぇよ!」

「ちょ、おま!?」

「ーーむー!私を姐さんって呼ぶ人に手柄は残さないっ!」

 

あーあ……、響さんを怒らせてしまいましたね。響さんに女性を思わせる呼び方は禁句だってあれ程何度言ったのに……。

響さんの悩み事として、19歳になっても女である私が羨ましい、と羨望の眼差しを向けざるを得ない可愛らしいお人形さんのような容姿のままな事、なのだそうです。二年前から変わったところというと、袴を履くようになった事、ほんの少しだけ身長が伸びただけなのだそうです。あいにくと私が響さんに付き従うようになった頃には袴を履いていたので、少々……いえ、とっても口惜しいのがあります。

その時を知っている方々が羨ましいです!

………コホン。

いえ、失礼しました。

 

頰をぷくりと膨らませて、プイッとそっぽを向いた響さん。

 

「もーっ!何で鍛えているのに禊みたいに筋肉モリモリにならないのっ!身長だってニ年前から少ししか伸びていないし!霞や星から揶揄われるしっ!男の私に羨ましがられても、複雑なだけだしっ!」

 

えっと、……相当鬱憤が溜まっていたんですね……。鬱憤を乗せた叫びと共に敵兵を空中に薙ぎ飛ばして指揮官らしき将の元へ突っ込んでいくのです。

半ば八つ当たりに近いもので、とばっちりを食らった敵が哀れでなりませんが、同情はしません。

帝の在わす洛陽の都を襲撃しようとして、十万余の大軍をもって進軍しているのですから天子に刃向かう、私たちの敵と断ずるのに充分なものです。帝の名は私たち漢民族にとって非常に大きいものです。

………って、響さんを追わなくては!

 

「ーー全隊、蜂矢の陣で突撃!」

 

 

 

 

 

 

 

咆哮と共に猛然と突撃を始めた白迅隊と赤虎隊を追う様に、董卓本隊を守る李傕、郭汜、郝昭の隊を除いて、華雄、高順の隊が戦場広くに展開する。高順の隊は敵の数が多い方面に向かっている張遼を援護すべく、野原を貫いて、一撃離脱の戦法で矢を放ちながら移動していく。

唯、華雄隊のみが、黄色い波を切り裂いて道を作って行く呂風隊と呂布隊の両隊を追うように、徒歩でありながらも凄まじい速度で切り分けられて行く波を、さらに押し分けるようにして道を拡げる。

 

「ーー行くぞ、野郎ども!!響たちがこじ開けた道を噛みちぎれ!!此処に華雄隊有りと天下に名を轟かせて見せろッ!!」

『うおおおぉぉぉぉぉ!!!』

 

華雄の隊は重装歩兵。槍と剣を持ち、胴と頭を重点に置いた鎧に両の腕には動きの邪魔にならない程度に矢を防ぐ小盾を装備している。両の手を組むようにして身を庇えば体一体が天より襲いくる矢から守れる程度の大きさになる。

 

そして、華雄隊の特徴としては勇敢、命知らず。悪く言えば猪突猛進。董卓軍の中でも群を抜いて荒っぽい奴等を集めたのがこの華雄隊であり、華雄と同様に戦闘狂に近い者が多く、血の気に盛んである。

そして、同時に董卓たちが【安定】に赴任してくる前の太守に見限りを付けた男たちが集まって、盗賊や異民族の侵攻に対応出来るよう、自警団を組織した事があったのだが、華雄隊に所属する男たちはその自警団出身の者が多い。

董卓に仕える前の華雄が率いていたのがこの自警団であり、華雄を慕う者たちがそのまま董卓軍に参入して生まれたのが華雄隊であり、その経験は董卓軍随一である。

呂風が勘で戦況を嗅ぎ分けて動くのならば、華雄隊は華雄隊そのものが一個の個体として、長い戦乱の最中に置かれ、その戦乱を戦い抜いた経験を基にして動くのだ。連携や絆の強さも並大抵のものではない。

生半可な練度で彼女らに立とうというものならば、その愚かさを身を以て思い知ることとなろう。

 

 

 

 

 

 

「相手は私たちの数倍の敵よ!乾坤一擲の一撃がこの勝負を決めるといっても過言じゃ無いわ!響もそれを知っているからこそ、響が得意とする戦術の中でも一番の破壊力を持つ戦術を採っているわ!」

 

響は自身がこの2年の間に編み出した数ある戦術のうち、有数の破壊力を持つ戦法を採り、今正にそれを実行している。

それはーーー

 

『止まらないこと。これに尽きるよ』

『止まらないこと?』

 

いつの日だったか、模擬戦を終えた後の反省会で私が『何故、響の隊は彼処まで強いのかしら?』と疑問を投げかけたところ、帰って来たのはこの言葉だったわ。

そして、この言葉は騎馬隊のみで編成されている呂風隊、呂布隊、張遼隊、趙雲隊、高順隊に当てはまる事であるが、それを実施するのは途轍もなく厳しい壁がある。

 

『止まらないことって……、敵にぶつかればある程度は進めても、壁の厚さに対処しきれなくなって、最後は押しつぶされるのがオチよ?実際の戦でもそうだと思うわよ?』

 

止まらない事を実行しようとすれば、それにはいくつかの壁が立ちはだかるわね。

先ずは敵から飛んでくる矢。これに馬を射竦められてしまえば、馬はものを言わぬ肉塊と成り果て、後方から進撃してくる騎馬隊の障害となり、行動も制限されてしまう。此れに堀や逆木などを組み合わせてしまえば、騎馬隊に対して無類の強さを誇るわね。

 

次に、前衛となる軍との衝突。歩兵なり、騎馬隊なり、なんなりと壁と成り得るものをぶつけ、足止めをしてしまえば、騎馬隊など、高いところに座って身動きできない物置となり、そこから引きずり落とせば、簡単に仕留められるわ。又は、大楯を装備した重装歩兵で分厚い壁を作る。初段は破られてしまうだろうが、ぶつかるたびに馬は速度を落とすことになるわ。速度を落とした先は敵陣のど真ん中となるのは当然よ。

そして、馬の体格上、後ろに下がる事は難しい。さらに言えば、周りを敵に囲まれ、左にも、右にも行けないという有様となってしまう筈ね。

 

勿論、響もその事は心得ている筈。

だからこそ、漢最強の騎馬隊を作り出そうとした。一つの隊で一軍に匹敵する強さを持とうとしたのだわ。

 

『そうだね。でも、私の隊と恋の隊の馬には漢では見かけない馬鎧があるでしょ?あれは匈奴の国よりも遥か西に住む騎馬民族古来の技術なんだって。鉄よりも遥かに軽く、近距離で放たれる強弓を弾く程の硬度がある馬鎧の技術を教えてもらった事があるんだ』

『………ちょっと待って、何その反則!?』

 

いつその事を知っていたのかという疑問もあるけれど、それはさておき、そんな技術、革命と言っても差し支えない。

まず、鉄よりも軽い。これは即ち、馬に掛かる負担を軽くする事が出来、機動力、持久力を落とさずに長距離を進軍でき、奇襲や強襲に繋げることも出来る。

二つに、強弓をも弾く硬度。強弓とは二枚か三枚の木の板を張り合わせて、二人、三人の力で弦を取り付けた強力な張力を持つ弓のことであり、並大抵の力では引くことも叶わない。剛力を誇る……此処なら、華雄とか恋や響、張遼とかね。実際、恋が馬の背中に括り付けている赤い弓も強弓。

その破壊力は比較にもならない。重装歩兵が持つ大楯なんて目にならない。紙を破るかのように容易く貫き、岩にさえ突き刺さる程の破壊力だ。

そんな強弓を弾く。

 

反則も良いところだ。鉄よりも軽く、強弓をも弾く硬度。どんな材質なのかしら。

 

『実はね、藤の蔓なんだ。工程が面倒で途轍もなく時間がかかるのと、火に滅法弱いって事が弱点なんだけど、ちょっと工夫をしてあるから木の鎧よりは火に耐えられるよ』

『………若しかして、藤甲兵の事かしら?』

 

確か、此処よりも遥か南、其れこそ南蛮の地で猛威を振るう異民族の抱える軍に藤甲兵の名があった筈。矢を弾き、剣すら通さず、水にも浮かぶという便利な鎧だったかしら。作り方迄は知らないけれど、途轍もなく時間がかかるのね。納品されたのがつい最近だって聞いたのよ。出来れば全軍に取り入れてみたいのだけれど、どの位かかるのかしら。………あ、若しかして、響が良く行く工場で作っているのね。一年前に真っ先に工場を作りたいって言ってきた時があったけれど、その時のものかしら?

火に弱いって事が悩みの種だけれど、工夫をしてあるってどういう事?

 

『流石っ!源は同じ国なんだって。ああ、鋼糸……五月雨が使っているような糸は火に燃えにくくて、丈夫だったから、それを真似したものを織り込んだ布鎧を藤甲の上に被せてみたんだ。そしたらね、火矢が当たっても燃え上がらない程度には耐えられるくらいかな。ちょっと重さが嵩張るけど、鉄で固めるよりも半分くらいは軽いかな』

 

良くそんな考えがポンポンと出るものだわね。一回響の頭の中を覗いてみたいわ。

此れが【鎮風】……穏やかな風を一度起こすと暴風となりて吹き荒ぶ、ってことなのかしら。響らしからぬ雅号だって思っていたのだけれど。司馬徽先生はこの事を見越してこの雅号をつけたのでしょうね。深い慧眼には感服するばかりだわ、と響の言動を見ているとそう思わざるを得ない。それ程響は柔軟で古来の考えに縛られない考えを次々と生み出して、街そのものを改革していった。

そのおかげでこの安定は最盛期と肩を並べる……いいえ、五十万を数える今でも各地から難民が集まり、規模を拡大すべく、城郭の拡張工事も二箇所もあり、以前は川から離れていたというのに、今では城郭の中に港が出来て、江陵の城郭都市にも負けない水門さえ作られ、対岸にも街が出来つつある。商人たちも響の出した案を改良していった結果出来た、算盤に簿記も流用されて無駄のない支出と正確な収入が計量され、莫大な財をもたらし、それが寄付や税という形で私たちの元に届き、それを用いて民の生活の向上の為に使う。そして、豊かになりつつある民が商人にお金を落としていき、私たちには過剰に余った糧秣を納めに来る。正に理想と言うべき循環が現実のものとなっている。現在も四公六民の税率であるというのに、十万の兵が一年籠っていても困らない程度に蓄えがある。これ以上蓄えても逆に困るという他の所から見れば理不尽極まりない事象が発生するという有様だ。余った食料は涼州の馬騰殿の所に送っている。二年前とは逆の立場にいる。

農地の開墾も順調に進み、広大な草原が田畑に変わり、五十万を数える民の胃袋を満たして尚余る程の量を生産する。此処にも響の案が役に立ち、米の脱穀に脱穀機に千歯扱き。鍬や鋤の刃先にも鉄製のものが使われ、効率が上がった。

製鉄所でも大規模のたたら場というものを考案し、それを実行すると一度に大量の良質な鉄が生産出来、一、二を争う程の生産量を誇るまでになった。

衰えつつある漢の中でも今も発展しているのはこの安定を含めて片手の指で数えられる程だろう。

 

もっとあるけれど、全てを上げていったらキリがない。

それ程響が来てから起こった変化は目まぐるしく、二年で安定は洛陽の都、長安の都、鄴の都、寿春の都に並ぶ大都市として肩を並べようという所まで至った。

予てより親交を結んでいた王允殿からは、奇跡としか言いようが無い、とまで言われ、賛辞まで贈られる程だ。

 

 

………と、思考が乱れたわね。

今は戦。目の前に思考を向けなくてはいけないわ。

 

「連弩隊、前に出なさい!左翼に三列で交代で休みなく矢を放て!」

「はっ!右翼の方は宜しいので?」

 

にやり、と口角が釣り上がるのが分かる。左翼に直接ぶつかっている軍勢は居ない。しかし、右翼には、私たちが有する最大戦力が二つもぶつかっている。潰乱するのも近いうちね。

今も苛烈な勢いで右翼の中心まで迫りつつある。道を阻もうというものならば、瞬く間に弾き飛ばされるわ。

 

「右翼には響と恋がいるわ。援護は不必要よ」

「はっ!」

 

ちらりと潰乱にまで追い込まれつつある敵軍の右翼を見やると意味が分かったようで、愚問でした、と言いたげに表情を緩ませて下がっていく。

それを見送りながら私は一種の充足感に満ちていた。

 

「本当に私は恵まれているわね。思いの儘に動いてくれる精鋭の軍と天下無双の二人。そして並み居る将も一蹴出来る名将が揃うこの軍を導ける軍師として此処に居られるのだから。そして、私の知恵を捧げるに相応しい君主。……時々、響に仕事を持って行かれるは思う所があるけれど、ムキにならないで意見を言い合える環境。こういう時にいがちな悪徳役人も今の所報告も入っていないし。………本当に恵まれているわ」

 

ああ、本当に恵まれている。それを今更ながらも実感する。

ほんの二年前ではこんなこと思いもしなかった。あの頃は手が回らず、問題が山積みになって処理が追いつかない。仕える主が月じゃなかったら、とっくに見限って他の君主に仕えていたと思う。それ程末期だった。

それがどうだ。いまじゃ暇を持て余す時がある程仕事が楽になって、私自身新しい趣味を見つけることも出来た。

……まぁ、響の着せ替えが趣味となったのは自分でもどうだろうと思うのだけれど………。

 

 

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