ですが、人間失格を読んだ方には若干知っているシーンだと思います。
僕は人間というものが嫌いだ。そして、それと同じくらい人生というものも大嫌いだ。だからこそ、最初の死を受け入れた時にいうならば、ホッとした、安らぎのようなもの、だと思う。そんなものを感じたのだ。まあ、僕は安らぎというものを感じたことを一度もないので、死を迎えた時のあの感覚を僕は安らぎと表現したらいいのか、どうか、未だに理解できていない。ただ、あの人生という牢獄からようやく離れられると思えば、それに近しい、そして、どんな時よりも自由になれる、そんな考えと呼べるものが存在したのは事実以外の何ものでもないのだ。
今の僕は、道化に支配され、そして、何故か生という不安定な存在にも執着している。道化は切り離せなくても、生は切り離せる筈なのに、未だに僕は生きていて、無意味に空気を吸い、そして、二酸化炭素を嫌がらせのように吐き出している。僕のような存在は絶えた方がいいのだ。だが、僕の道化の部分はそれを許してくれない、いや、もしかすると、僕自身がそれを拒絶しているのかもしれない。無意味な生を、無気力な生を、無価値な生を、僕という愚かな存在が絶つことを拒んでいる。でも、僕という存在、今、こんな思想を巡らせている存在は、安らかなる死を望んでいる。
僕が死を望んでいると何故か近所の公園に足を運んでいた。いや、僕は元々からこの公園に足を運んでいた。理由はないのだが、今日は不思議と足を動かしたい、そんな、曖昧な理由で公園に足を運んでいた。そして、僕は公園のベンチで座り込んだ、酷くやつれた二十代前半くらいの女性と不思議と目が合った。いや、自分から目線を合わせたのかもしれない。僕はその女性にこんにちは、と声を掛けた。だが、少しだけその挨拶は違った。いや、僕にとっては酷く違った。それもその筈だ、僕は道化の挨拶をした筈なのに、何故か、その完璧な筈の道化が狂ったのだ。そして、感じられる、感じられるくらい下手糞な挨拶、いつもの道化らしくない挨拶が、不思議と自分本来の姿の挨拶のように感じられたのだ。
僕は不思議に思い、女性の隣に腰を下ろした。すると女性はげんなりとした表情で、私に何か用? と、鋭い口調で尋ねたのである。僕はいつもの道化を使って彼女と話してみようと思ったのだが、道化が狂ってしまう。そして、何故だろうか、感じるんだ、僕は彼女と素の会話をしていると。そして、僕は彼女に惹かれていた。
僕は、多分、生まれてはじめて道化を使わないで声を発した。その言葉は酷く短く、そして、絶対に理解してもらえるように単調なものだった。
「どうしたんですか?」
心臓がゾクゾクと音を鳴らす。そして、僕は大嫌いな存在である人間に何か、特別な何かを感じたのである。その感覚は生まれてはじめてであり、前の世界、この世界で経験したことのない不思議な、奇妙な、そして、恐ろしい感覚だった。でも、僕はその感覚に魅了、そう表現した方が適当であるものを感じていた。そして、この女性のことを知りたくなった。僕が、こんなにも人間に興味を示したのは、二度の人生においてはじめてだ。だからこそ、高い動揺と同じくらい、好奇心が湧き出ている。
彼女は少しだけ僕のことを睨んだが、僕の表情を見てゆっくりと話しはじめた。話の内容は彼女の身の上話、そして、最近の出来事だった。身の上は両親の暴力や虐待、いじめ、それが大多数を占めていた。そして、幸福な話しを一度も口に出そうとはしなかった。いや、幸福な話なんて一つもなかった。または、覚えていなかったのだろう。そして、最近の出来事は今現在の俺の年齢、いわゆる子供に聞かせるような話ではなかった。惚れた男に騙されて多額の借金を背負い、アダルトビデオに出演させられ、何度も何度も犯されたという話だ。僕は女性ではないし、そういう関係の仕事もしたこともない。辛うじて女性の経験はあるが、そういう知識に疎かったので、彼女の話に共感、いや、共感なんて出来る程、出来た人間ではないので、感覚的に何かを感じようとした。でも、あまり感じることは出来なかった。
「今日、死のうと思ってるの......」
僕は不思議とその言葉に共感することが出来た。辛い過去を背負っているからこそ、自分の生という名の重りを捨て去り、自由な存在になろうとしている。僕も、そういう存在になりたい。いや、今直ぐなりたい。そう、ずっと前から、前の世界でも、今の世界でも、死、その甘美な響きが堪らなく好きだった。だからこそ、最初の死を空気を吸うように受け入れられたのだ。そして、今はどうにかあの時のように自然に、あたかも、仕組まれたように死ねるのを待っている。そうか、僕はこの人と一緒に死ぬためにこの世界に生を受けたのか。
僕は必至に、道化ではない僕は、一緒に死なせてください、そう、叫ぶように告げた。すると鳩が豆鉄砲を食ったような顔で僕のことを見つめた。そして、何で死にたいの、と尋ねた。僕は、ただ、自分を消し去りたいと彼女に告げた。すると、彼女はまた、僕の顔を覗き込んで、その年で切羽詰まってるのね、と言った。
「じゃあ、一緒に死にましょ......」
僕は彼女に連れられるまま、近くの浜まで移動した。そして、靴を脱いで、海の中に一歩、また一歩と足を踏み入れたのである。彼女の表情を僕は眺めていた。顔は美しくないし、体もグラマラスではない、身長も足が短く胴が長い、お世辞でも美人とは呼べなかった。でも、僕は彼女の散ろうとする瞬間が生まれて死んで、そして、生まれたサイクルの中で見てきたものの中で一番美しいと思えた。そして、多分、僕がはじめて、そして、最後にする初恋だったと思う。
体中から熱が消え、そして、少しずつ死へと導かれていく。それは、甘美で、そして、僕が何よりも求めていたものなのだ。やがて、意識が薄れ、少しずつ沈んでいく。その中で、出会って数時間足らずの彼女の顔が浮かぶのだ。それは、とても、とても、気分がよかった。
僕が目を覚ましたのは無機質な病院のベットの上であった。そして、その風景を見た瞬間に自分の命が尽きていないということを理解した。そして、走馬灯のように彼女の顔が駆け巡った。僕は腕に突き刺さった点滴の針を剥ぎ取り、そして、彼女の姿を必死に探した。だが、彼女の姿、僕の初恋の人は存在しなかった。僕はナースコールを押して、歯ぎしりをしながら看護婦が現われるのを焦りながら待った。そして、三十秒程度、だが、僕にとっては数年にも感じられた時間の末、看護婦は慌てて病室の中に入ってきた。そして、道化に支配されることなく、あの人は生きているんですか!? と、必至に看護婦に尋ねたのである。だが、看護婦は釈然としない表情で僕のことを見て、そして、病室から出て行ったのです。
そして、また、数年に近い時間に感じられた三十秒から一分の間に白衣を着込んだ医者が病室の中に入って来て、僕に散々説教をたれた後、僕と一緒に死のうとした女性、日野椿という名前をはじめて聞いた。そして、彼女が僕を残して死んだことを教えられた。僕はやはり、道化を演じることが出来ずに涙を流した。いや、歳相応に泣きじゃくった。多分、生まれて、死んで、生まれて、このサイクルの中ではじめて悲しいと思って泣いた瞬間である。
その後、警察の事情聴取に付き合わされ、両親に激怒され、そして、彼女が僕を無理矢理心中させようとしたという模造の話を作らされ、僕は、また、嘘吐きになってしまった。
退院した後、何度も死のうとした。だが、僕の道化の部分が舌を噛み切ることを拒み、僕の生に執着している部分が包丁で腹部を刺すことをやめさせ、あの時のように煙のようにスッと消えていけるような感覚は存在しなくなった。僕は、僕は、この世界から消えてしまいたいのに、僕という存在、道化も、本物も、偽物も、僕を死へと誘うことを拒んだ。こんなの、悲し過ぎるじゃないか。
そして、僕はより一層、完璧な道化の仮面を被りはじめた。そして、深くかぶった為か、それとも、初恋の人と一緒に死ねなかったからか、もしくは、自分の根性の無さを恨んでか、僕は前世よりずっと、人間という存在が大嫌いになった。でも、人を殺したいと思ったことはやはりなかった。そして、また、道化の仮面を被り、人々を喜ばせ、欺くのである。
多分、縦書きの方が読みやすいと思います。