(25話公開前に書いたものなので、卒業後の設定が公式と食い違っておりますがご了承下さい)
※Pixivとのマルチ投稿です。初回投稿日:2014/05/27
蛇崩乃音は執念深い。
『あのタクシーの運転手は道を間違えた』だの『あの会場の観客は真ん前で堂々と居眠りしていた』だの、一度受けた屈辱は決して忘れず、事あるごとに蒸し返すのでキリがない。
そして、それは顔を合わす機会の多い身内のこととなると、ことさらしつこい。そんな恨み節を繰り返し聞かされる方はたまったものではない。
「っつーか、こっちは食事を楽しみに来たワケよ。それをさ、ノーパソ取り出して栄養素調べ始めるとか気分台無しじゃん! こっちは『タンパク質』食ってんじゃねーっての! ったく、あの犬野郎が!」
とある春うららかな休日の昼下がり、メインストリート沿いのカフェのテラス席で、乃音の愚痴が炸裂した。
とはいえ、これを受ける二人の同席者も慣れたものだ。生徒会長としての役目を終えて格段に丸くなった鬼龍院皐月は、この不毛な戯言を咎めることはない。
「犬野郎……か。だが、彼はもう『犬』では無い筈だぞ?」
それを言われると、乃音としては苦しい。まともに取り合ってもらえていないのがありありと伝わってくるからだ。
「ぅ……。だ……だったら……『蛇』野郎? ……なーんかしっくり来ないわね」
そのニューニックネームを聞いて、もう一人の同席者、纒流子は啜っていたコーヒーをむせ返す。
「コホッ……こっ、くくっ……かはっ! おいおい……それじゃお前と区別が付かないだろ! ははははっ」
流子のツボには入ったようだが、乃音にはそれが愚かしく見える。
「『野郎』と呼べるのは男だけよ。皐月ちゃんの妹とは思えない頭の悪さね」
流子は別段賢さを自認してもいないので、この暴言を笑わせてもらった対価として受け流した。
「では、蛇旦那と蛇嫁、という呼び分けはどうだ?」
「おーおーいいねぇ。どっちも性格悪そうだ!」
いつの間にか、乃音は二人から一方的にからかわれる立場になっていた。
「やめてよ恥ずかしい」
頬を朱に染めながら、乃音はいよいよ不機嫌になってきた。何を思い出しているのか察しのついた流子は、竹藪から這い出した蛇嫁の顔をあえて突っついてやる。
「それにしても、あの『式』は傑作だったよなぁ」
「うっさいわ! アンタはもう二度と呼ばないからね!」
「ほう、もう一度執り行うのは本気だったか」
「もうやんないってば!」
乃音が始める宝火の愚痴は、いつでも結婚式に帰結する。
派手好きな乃音は盛大に結婚式のセレモニーを飾りたかった。一方、宝火はそのような式典に興味はない。婚姻など、役所への書類提出くらいにしか考えていなかった。籍を移すことにも抵抗はなく、乃音が使い慣れた蛇崩の姓を変えるのが面倒だと言い出した際には『苗字を変えた方が個人情報をヘッジ出来て面白い』と婿養子に入ることを二つ返事で了承したくらいだ。
結婚というものを理解する気のない宝火は、式の準備に関しても全く立ち会うことはなかった。乃音が一から十まで取り仕切り、新郎はただ隣で黙って座っていればいい、と諦めていた。
しかし、黙って座っているだけならまだしも、入場してからもノートパソコンを手放そうとしなかったことには、乃音は大いに辟易させられた。
折角集まってくれた来賓たちが祝辞を述べている最中も、新郎は一人音もなくキーを叩き続ける。そして、ケーキ入刀の段になって端末片手に席を立とうとした時、ついに乃音の癇癪が爆発した!
「アンタ、パソコン持ったまま切るつもり!?」
「どうせ片手でやるのだろう? 構わないじゃないか」
その心ない一言は、乃音を震源地とした怒声の嵐を巻き起こした。
キレた乃音が結婚式典の場で、離婚だの別れるだの叫び出したらどうしたものか、と観衆は肝を冷やしたが……どんなに罵詈雑言を連ねようと、彼女は決してそれだけは口にしようとしない。何より、力づくでパソコンを取り上げようとしないところからも、彼女が正気を保っていることは明らかで、いつもの彼女らしい彼女に、周囲には逆にほっこりした空気まで漂い始めた。
そして、怒りが頂点に達した乃音の発した言葉は――
「もうやってらんないわ! また会場選びからやり直しよ!!」
新婦のリセット宣言に一瞬静まり返った場内は、一転して拍手と歓声に包まれた。
「また呼んでくれよなー!」
「何度でも付き合ってやるぞー!」
一人空回りしていたことに気がついた乃音は宝火の背中にしがみつくように隠れる。その様子は仲睦まじく、二人は案外上手くやっていけるのではないか、と皆を安心させた。
そこからは段取り無視の和気藹々とした雰囲気の中、主賓の二人を置き去りにしたまま祝宴は続いていったのだった……。
乃音はあの男と結婚したことを少し後悔していた。なまじ婚姻など結んでしまったばかりに、何を言っても惚気話にしか捉えてもらえない。自分の中の不快感を言葉にして誰かに伝えることで和らげる彼女は、このもどかしさに苛立ちを募らせてゆく。
彼女にとって、最も話したい本題は昨夜起きた件だった。しかし、自分をネタに楽しそうに会話を弾ませる皐月たちの間に無遠慮に割り込むことは憚られた。
結婚式と同様に乃音本人が口を挟む余地のないまま、二名の部外者たちの間で蛇崩夫妻の新婚生活は続いていく。
「それにしても、こうも性格の対照的な二人がくっつくというのも世の中判らないものだ。これはどのような子が生まれるか楽しみではないか」
来た! 皐月が口にした話題は乃音に昨夜の屈辱を蘇らせる!
「蛇旦那のことだから『子供なんて面倒だ』とか言いそうじゃねェか?」
この見当外れな流子の物言いは乃音を不快にすることはない。やっぱり宝火のことを一番解っているのは自分だ、と誇らしささえ感じさせた。
「アイツはそんなこと言わないわよ」
ここまで溜めに溜めてきた鬱憤が堰を切ったように溢れ出す!
「昨日のことなんだけど、何となく『子供のこと考えてる?』とか聞いてみたら、アイツ何て答えたと思う? 『俺とキミとの遺伝子なら実に興味深い子孫が生まれそうだ』とかさ! 遺伝子? 興味深い? 私たちの子供のこと何だと思ってんのよ! 研究材料じゃないっつーの! 流石に昨夜ばかりは別の部屋で寝させてもらったわ! ね? 酷いでしょ? アイツ!!」
言いたいことを言い切って、乃音はようやくすっきりと溜飲を下ろすことが出来た。
今までまともに耳を傾けてくれなかった流子にも、自身の生い立ちからか、この件ばかりは彼の酷さが伝わったように見える。彼女の引き攣った表情を、社会通念という名の手土産として目に焼き付けて持ち帰ることにした。尤も、他者の言葉など聞く宝火ではないのだが。
「……姉さん……そろそろガツンと言ってやってくれないか……?」
乃音はこれまでのやり取りを思い出す。今日に限らず、皐月たちに会う度に宝火への不満をぶち撒けてきた。そろそろ皐月から、宝火本人に直接にガツンと言ってもらうべきかもしれない。長い夫婦生活だからこそ、最初が肝心だ。あの鬼龍院皐月に一括されれば、どんな男でも平伏すだろう。
彼は自宅業務なので、今も家にいるはずだ。機械の大敵である埃を嫌う彼のお陰で部屋は常に整然と保たれている。これから突発的に彼女らを招くのも悪くない。
二人に頼られた皐月は背筋を伸ばして咳払いを一つ。
「乃音……実はな……」
チラリと隣席の流子の様子を伺い、了承を取る。
「流子は先月末、付き合っていた相手と別れたばかりなのだ……。だから、しばらくは、その……あまり激しい惚気は控えてやってもらえないか?」
皐月のこの言葉に……乃音は喪失感を隠せない。二十年近く共に歩んできたが、ここまで幼馴染と気持ちが通じ合えなかったことはない。常に同じ目線でありたいと願っていたのに、気づけば目の高さどころか向き先まで違ってしまっている。
「オ……オイ、何だその可哀想なモノを見る目はッ!!」
その寂しさは自分自身に対するものだったが、それを口に出す乃音ではない。
「フ……フンっ! アンタなんてとっとと次のオトコ見つけて生む機械呼ばわりされるがいいわ!」
素知らぬ顔で強がってみるも、皐月の瞳は乃音の全てを見透かしている。
「その台詞はあの男だからこそであり、実に彼らしいと私は思うがな」
本当は自分でも解っているのだろう? と言い含める皐月だが、乃音には承服しかねた。これは彼らしくあっても長所ではなく欠点であり、改善すべきと信じているからだ。そして、その欠点すら包容できる皐月の懐の深さに……相手があの鬼龍院皐月なのだから仕方ないとは諦めつつも、つい嫉妬してしまうのだった。
一方、このやり取りは、流子にとって頼みの姉すら乃音の惚気に取り込まれたように見えた。
「チ……チクショー!! お前らがそーくるなら、こっちだって『二週間後』までにオトコ作って赤ん坊ポコポコ産みまくってやらぁ!!」
勢い良く席から立ち上がり、握り拳を震わせながら恥ずかしい宣戦布告を桃色ヘアーに叩きつける。……が、同卓の二名から徐ろに他人のフリをされて、流子は自分が道行く人々から奇異の目で見物されていることに気がついた。これには少なからずバツが悪くなり、曲げたヘソも直せぬまま、すごすごと腰を下ろし直す。
流子の言う『二週間後』とは、GWの明けた翌週の日曜日の件である。その日は皐月の誕生日を祝うパーティが催される予定になっている。誕生日自体はその前の週なのだが、連休中は会場を押さえるのが難しいため日付をずらしたのだった。
「……ああ、悪いが流子、その子作りは一週繰り上げて来週までに頼む」
妹の啖呵が落着したところで、紅茶を嗜んでいた姉は二人に予定の変更を告げる。
「え? それってどういう……」
乃音の脳裏に暗雲が立ち込める。GWといえば、ドイツで大ホールで指揮棒を振るうスケジュールが入っている。ゆえに、パーティが翌週に持ち越されたことを密かに安堵していたところだったのだ。
「先約側の御厚意で都合をつけてくれてな。誕生日当日を譲ってもらえることになったと、今朝会場から連絡があった」
「ほぉー、そいつはうまいこといったなぁ。変な圧力とか掛けたんじゃねーだろうな!?」
ニヒヒと厭らしい笑みを浮かべる流子とは対照的に、乃音の面持ちは暗い。
「馬鹿なことを言うな。これは鬼龍院家が築き上げてきた信頼の賜物であって……ん? もしかして乃音は都合が悪かったか?」
乃音は無駄に偽ることはしない。一万人は収容できるコンサートホールで伝統ある高名な交響楽団を率いて演奏を行うのだ。今更隠しようもない。
「だ……大丈夫! 皐月ちゃんの誕生日だもの! 絶対参加するってば!」
彼女の力無き宣言の前に、皐月ら姉妹は不安そうに顔を見合わせるばかりだった。
さて、蛇崩乃音が犬牟田宝火と共に人生を歩むことになった理由は……実のところ、特にない。
本能寺学園四天王として鬼龍院皐月の下に集った四人の同志は、生命戦維との戦いが終わった後も何かとつるむことが多かった。
しかし、満艦飾マコに引き抜かれるように蒲郡が抜け、肉体言語が流暢な猿投山はどこぞのスポーツ選手と仲睦まじくなっていった。
そして、残されたのがこの二人、というだけのことだったのだ。
人間そのものよりも人間の扱う情報に重きを置く宝火はともかく、楽団を指揮する乃音には異性との出逢いは少なからずあった。しかし、愛らしい容姿とは裏腹に毒舌で高飛車な彼女は、男の目には可愛げ無く映り、宝火ほど親密な関係を築くことの出来る異性は現れなかった。
宝火は、いつでも自室のサーバルームにいた。乃音が寂しくなった時、そこに行けば彼女は一人になることはなかった。勝手に彼の背に凭れ掛かり、大好きな音楽を聞いていると心が休まる。彼女は、彼の背中に自分の居場所を感じていたのだった。
こうして、感情的な乃音と理屈的な宝火という相反する二人は他の誰よりも同じ時間と場所を共有するようになった。とはいえ、ここまで男の部屋に入り浸っていると、乃音は世間体が気になり始めた。そこで『試しに結婚してみる?』と提案してみたところ、『いいんじゃないか?』とノータイムで承諾され、今の関係に至る。
ゆえに、時折乃音は不安になる。宝火が自分のことをどう思っているか掴めないところがあるからだ。
以前、ストレートに『私の事、どう思ってる?』と尋ねたことがある。それに対する宝火の回答は『俺にはない発想を持っているので、行き詰まった時には何かと助かることがある』だった。
これを聞いた乃音は泣きながら激怒し、平手を一発食らわせると、もう二度とアンタの部屋になど来るものか! と合鍵を投げつけて飛び出していった。結局二日後にはまた彼の部屋に戻ってきてしまったのだが。
鍵を失いドアホンを鳴らすふくれっ面の彼女を、宝火は何事も無かったかのように迎え入れてくれた。そのとき乃音は『この男には敵わないわ』と心の中で両手を上げたのだった。
皐月たちとの語らいのひと時を終えて帰宅した乃音は、朝方『皐月ちゃんにアンタの日々の粗暴をチクってくるわ』と悪態をついて家を出たことも忘れて、その粗暴な相手にピッタリと寄り添う。これまでは奥のサーバルームに引き篭もっていた夫だが、新居への引っ越しを機にノート端末を持ってリビングのソファに座するようになってくれた。これは、乃音にとって好ましい変化だった。
宝火は、自分の作業を邪魔されない限りは、妻の言葉を遮ること無くよく聞く。妻もそれを知っているゆえに、夫の両腕や端末には触れず、肩に頭を預けて言いたいことを言い尽くす。
一頻り妻の主張を聞き終えた夫の出した結論は、
「当日参加は諦めて、皐月様の御厚意に甘んじたらどうだ」
極めて常識的だった。
コンサートを終えて直行便に乗ればギリギリ間に合わないことはない。だが、時期が時期だけに日本行きの航空便の予約は混み合っており、今更席を確保することは不可能に近い。
乃音の都合を慮った皐月は、彼女に合わせて当初の予定通りの翌週に別途食事会を開こう、と提案してくれた。しかし、それを安易に受け入れることを、乃音は良しとしなかった。
「そんな卒アルの別枠顔写真みたいなこと出来るわけないでしょ!」
乃音は、誰よりも皐月との付き合いが長いことを自負していた。他の誰ならともかく、自分が皐月を最も祝福できると信じていた。それを誕生日当日に欠席など、自分で自分が許せない。
「航空会社のサーバをクラックして予約情報を乗っ取ればどうにでもなるが?」
聞き分けのない子供染みた妻の我侭に、宝火は最悪の一手で諌める。乃音自身、そんなことをして到着を間に合わせても、喜ぶ皐月ではないことは承知している。
「……アンタはどーすんの?」
宝火はネットワークにさえ繋がれば全世界のどこに居ようと構わない。音楽会に同伴したところで彼にやることは何もないが、妻から一緒に来るよう言われて拒む理由もない。既に二人分のチケットは用意してある。
「俺は昔ほど皐月様に義理立てするつもりはない。キミが自分の代わりに俺に出席せよ、と言うのなら吝かではないが?」
宝火自身、これが意地の悪い愚問であることは解っていた。ゆえに乃音も答えない。黙ったまま、夫の足に手を添える。
普段口数の多い彼女が静かに身を委ねる時、何を欲しているか宝火は経験上理解していた。このあたりで作業を一区切りつけるのも良いか、と絶え間なく打鍵し続けていた指を止め、妻の求めに応じるのだった。
そして、件の当日。コンサート自体は大盛況のうちに幕を閉じた。
現地時間で翌朝に控えた鬼龍院家のイベントについては、乃音はもう諦めていた。社会人として職務に従事する身ならば、そういうこともあるだろう。
別途特別に日を改める件は潔く辞退し、今日はこの異国の地からネットワークでリアルタイムに映像を繋いでもらうことにした。日本時間に合わせてレストランの個室を予約し、そこから夫婦揃って祝辞を送る手はずになっている。
公演を終えた舞台裏で関係者への挨拶回りこなしていた乃音のもとに、騒がしく場違いな男が飛び込んできた。
「乃音はいるか!? 今すぐ来い!!」
この恥ずかしい闖入者をつまみ出そうと、乃音は人混みを掻き分けていく。程なくして問題の男のところまで辿り着くが、何を言う間もなく腕を掴まれ外の廊下へと引き摺り出されてしまった。
「ここは関係者以外立ち入り禁止よ! 大人しく外で待ってなさい!」
夫の襟元にはゲストカードが下がっていた。一応正攻法で入ってきたようだ。
慣れない舞台用の靴をよろめかせながら駐車場まで連れて来られた乃音は、わけもわからないまま見慣れぬ車の助手席に押し込められた。
ハンドルを握る夫の運転はいつになく乱暴で、乃音は少なからず不安を覚える。
「な……何なのよ。寝る前に寄るとこでもあんの!?」
あとはホテルで休んで、翌朝のチェックアウトと共にレストランに向かうだけののんびりした予定のつもりだった乃音は、この慌ただしさについていけない。
「残念だが……ホテルはキャンセルしておいた」
信号の切れ目に車体を割り込ませると、扉にしがみついた乃音の小さな体は激しく振り回される。
「アンタ……何か変なことに巻き込まれたんじゃないでしょうね!?」
宝火は職業柄、貴重な情報を扱うことが多い。いつか何かの尾を踏むのではないかと心配していた矢先の事態の急変である。嫌な予感しかしない。
しかし、乃音が懸念するような事態に陥るような渦中に、今の宝火はその身を投じたりはしない。もう、自分一人の身ではないのだから。
「金で解決出来る問題で危ない橋を渡ったりはしないさ。一つ一つ地道に交渉しただけだ」
「それって……もしかして……!?」
乃音には諦めるように諭した宝火だったが、彼自身簡単に諦めるようなことはしなかった。『極秘』に入手した乗客リストを基に情報を掻き集め、怪しまれないよう手を回しながら乗客一人ひとりに接触していった。そして、当日になって子供が体調を崩したため旅行をキャンセルしようとしていた一家を探し当てたのだ。
「余計な席まで買い取ったから、費用はやや嵩んだがな。疲れているところ悪いが、エコノミーで我慢してくれ」
「ん……まあ、上出来ね」
乃音は、思いもよらない事態に胸を詰まらせ、こんな強がりで労うことが精一杯だった。
彼らしからぬ豪快な運転の甲斐あって、何とかフライト時刻に間に合った蛇崩夫妻は休む間もなく出国手続きを済ます。ようやく一息つくことが出来たのは、機内の座席に腰を下ろしてからだった。
こんな旅程はもう懲り懲りね、と乃音は思ったが、それを口を出す気にはなれなかった。いま何か言葉を交わそうものなら、余計なことまで口走ってしまいそうだったから。
「疲れたから寝るわ。着いたら起こして」
落ち着きを取り戻すと胸の中に込み上げてくる想いに耐え切れず、乃音は寝顔を見られることすらも恥ずかしくなり、夫から背けるように窓の方へと鼻先を傾けた。
彼女には、今こうして日本に向けて飛び立とうとしていることが信じられなかった。それは、このタイトなスケジュールでチケットを入手できたことではない。皐月様への義理立てはない、と言い切った夫が秘密裏に動き回っていてくれたことだ。
ホテルやレストランも念の為に予約していたことから、彼の中でも実現は難しいと踏んでいたのだろう。それでも諦めず、妻のために奮闘してくれていたのだ。これが、乃音にとって嬉しくないはずがない。この場で二人きりならば、抱き締めずにいられないほどに。迂闊に目を合わせては『大好き』と想いを伝えてしまいそうなほどに。
だからこそ、それが乃音を軽く苛立たせる。ここまでしてくれるのなら、大人しく好きだと言ってくれればいいのに。だが、自分から告げることは乃音にとって敗北宣言に等しい。しかし今は、口に出せない感情が膨れ上がるばかりで息が苦しい。
せめて、夢の中では素直に想いを伝えられますように。乃音は隣に座る最愛の夫に逢えるよう祈りながら目蓋を閉じた。
国境さえ超えれば、あとはどうとでもなる。そう考えていた時期が乃音にもあった。
ここまで来れば、国内の移動は車を調達するより鉄道に乗った方が早い。空港のホールを、駅の階段を、ごった返す乗客の隙間をすり抜けながら先を急ぐ。
しかし、辛うじて予定通りの電車に乗り込んだ時、乃音は両足に無数の痛みを感じていた。大観衆の前で指揮を終えたそのままの衣装で来たのだ。彼女の靴は走るための作りにはなっていない。
急がなくともここまで来ればパーティに参加することは出来る。せいぜい、五分一〇分の遅れだ。欠席を覚悟していたことを考えれば妥協の範囲といえる。
だが、乃音は何としても開宴時刻に間に合わせたかった。折角宝火が間に合うように計算してくれたのを、たかが自分の足のせいで台無しになどしたくなかった。
電車内でも怪我を悟られないよう振舞っていたつもりだったが、やはり誤魔化しきれるものではなかったらしい。停車のために揺られた慣性に体が耐え切れず、彼女の腰が夫の腕に支えられる。
「乃音、もしかして足が――」
「駅から走ればギリギリ間に合うわね。遅れるんじゃないわよ!?」
靴先を見下ろす宝火の憂慮を乃音は気丈に遮った。
しかし、足がいうことを聞かない。ホームに降り立ち走り出そうとした途端、膝がもつれて乃音の肩が壁に擦り付けられる。この程度の痛みで音を上げるなんて我ながら弱くなったものだ、と悔しくて仕方がない。
「絶対に……! ――?」
乃音の進路を妨げるように前に出た宝火は、彼女に背を向けたまま膝をつく。そして振り向きざまに、彼女の台詞に彼女の強い意思を継ぎ足した。
「……間に合わせる、だろ?」
いい歳して衆目を前におぶられるなど、恥ずかしくないはずがない。しかし、大好きな背中を差し出された乃音は……ついそれに甘えてしまうのだった。
「ねぇ……どうしてここまでしてくれるの?」
駅を出て、横断歩道で信号を待っている間、乃音は宝火の耳元でそっと尋ねた。
「ここまでしなくてもパーティには出られるし……これ以上は合理的とは思えないわね」
辛辣な言葉を吐きながらも、彼の頭を抱きしめて感謝の意を態度で伝える。
「いや、これが一番合理的なんだよ」
信号が青に変わり、宝火は車の往来の途絶えた車道へと踏み出した。
「最初から参加出来た方がキミの機嫌も良くなるだろう? キミが笑顔が華やかなほど、俺の脳内に分泌されるTRH及びドーパミンが今後の作業効率の向上に――ッ!?」
あまりの馬鹿らしさに、乃音は額で彼の後頭部にゴツンと抗議する。
「周りくどいわね! それって、私のことが好きってことじゃない!」
結婚してなおその一言を口にしようとしない夫があまりに滑稽に見えた。そして、それはそのまま乃音自身にも跳ね返ってくる。
「そんな陳腐な言葉で纏めたくはないな」
彼女が欲してやまない大切な言葉を陳腐と切り捨てる彼だったが、カフェテラスで皐月から諭された『彼らしさ』を乃音は実感していた。それは言葉を超えて、行動で愛情を示してくれている今だからこそ感じ取ることが出来たのだ。
それでも、乃音は欲深い。肌で宝火の想いに触れながらも、更にそれを言葉として伝えて欲しいと願っていた。
感情の機微の解らぬこの男には、その身を以って解らせるしかない。そんな言い訳が彼女に意地を張らせていた最後の自尊心を砕かせた。
「私は、宝火のこと好きよ?」
……………………。
乃音の渾身の告白に、宝火からは何の返事もない。乃音は気恥ずかしさのあまり、思わずうなじを甘咬みする。彼の汗の匂いは、自分のために流した匂い。それを抱きしめていたくて、首筋に唇を触れさせたまま言葉を続ける。
「どう? こういう時は陳腐な言葉の方がいいもんでしょ?」
「…………キミには本当に驚かされるな」
道行く人々の視線を感じながら、まだ明るい夕方の大通りを駆け抜けてゆく。こうして会場前に到着したのは予定時刻の三分前。折角間に合ったのに、彼らはこれからのことなど全て忘れて二人きりになりたい、そんなことを考えそうになっていた。
もう大丈夫、と乃音が肩を叩くと、宝火は腰を屈めて背中の彼女をゆっくりと下ろした。足の具合が悪いこともあり、乃音はぶらさがるように彼の腕をしっかりと絡ませる。
多くの人々が集まる賑やかな催しが始まれば、二人だけの時間は終わってしまう。このデートタイムの締め括りとして、乃音はかつての問いを今一度尋ね直した。
「私の事、どう思ってる?」
宝火は、先ほどの妻からの言葉に大いに動揺していた。常に上からモノを言う乃音が、あんな真っ直ぐな言葉をぶつけてくるとは夢にも思っていなかった。『結婚しよう』と持ちかけられた時でさえなかった頭部への血流を、この一言には感じていた。
ここは、彼女の心意気に応えるべきか。
「俺も、キミのことが、す――」
言いかけて、言葉を止める。乃音の眼差しに篭められた期待があまりにも強かったからだ。眼鏡のレンズすら溶かしそうな視線を浴びせられては、言うべき言葉も言えやしない。
彼女と向き合うことに耐え切れず目を逸らすと、照れ隠しに適当な誤魔化しを並べてしまう。
「――少なからず有益な発想をもたらしてくれる大切な……」
「こォの……フニャチン野郎がァァァ!!」
見えない角度から顎に拳を突き立てられ、宝火は思わずたたらを踏む。ここまで彼女の要望を叶えるように努めてきたのに、最後の最後でこのザマか。
だが、大枠は達成できた。パーティを楽しめば機嫌も治るだろう。宝火は、そう楽観的に考えていた。
しかし、蛇崩乃音は執念深い。こうなれば、いかなる手段を以ってしてもこの男から自分のことが好きだという言質を引き出してやろうと心に決めた。
足の痛みからか、引き摺るようなスキップで乃音は一人場内へと先行していく。怪我人よりもゆっくりと後をついてくる宝火を、乃音は大声で呼びつける。
「ほらっ、急ぎなさいよ! 『大好き』な宝火と一緒にゴールしないと意味ないんだから!」
「お……おい! 気でも触れたか!?」
あまりの変わり様に、宝火は彼女を捕まえるように飛びつくが、乃音に寸刻前のように恥じらう様子は見られない。
「何よ。妻が夫のこと好きなのは当然じゃない」
実のところ、一度声に出して伝えたことで、乃音の気持ちは驚くほど軽くなっていた。『好き』という言葉が日常的になれば、あの夫と言えどもポロリと口にするかもしれないし。そもそも、名実ともに結婚しているのだ。これで相手のことが好きでなかったら、それこそ失敗結婚ではないか、と乃音は完全に開き直っていた。
何より、こんなに照れた宝火の顔を見るのは乃音自身も初めてで、少し楽しくなっていたのだ。
「くふっ……私はアンタのこと大好きなんだから……私を大人しくさせたかったら、アンタも早いとこ私のコト好きって言いなよ」