※Pixivとのマルチ投稿です。初回投稿日:2014/06/02
私がこの鎮守府に着任してからというもの、毎朝日課のようにランニングに付き合わされている。
「てーとく足おそーい!」
ゴールと定めた丘の上の一本杉に圧倒的な大差で先着しただけでは飽き足らず、道半ばの私のもとまで余裕綽々で引き返してきてこの言い草である。まだまだ走り足りない島風は私の周りを衛星のようにグルグルと嬉しそうに走り回っている。
そもそも、その脚で沖の荒波の上を駆け巡り、深海棲艦と渡り合う艦娘と我々人間は身体の作りが根本的に違う。その中でも最速を誇る島風に、人である私の足が敵わないのは走る前から判りきっていたことだ。
彼女もそれを承知の上で、私を外へと引っ張り出しているのだろう。わざわざ私との時間を作るために。
「長波はチャーハン好きだから、機嫌を損ねたらチャーハンがいいよ。私もパパっとできるチャーハンは大好きだし」
就いたばかりで未だここの艦娘たちと馴染めぬ私は、島風から彼女らのことを少しずつ教えてもらっている。着任から日が浅く、彼女らの能力の全てを把握しきれていないため、前回の作戦で長波を大破させてしまった。あと一歩で轟沈するほどの重症であり、この不手際をどのような形で詫びたものかと思い悩んでいたところだったのだ。食べ物一つで許されることではないが、何らかの糸口にはなるかもしれない。
これまで、私から島風に相談を持ちかけたことは一度もない。それでも、彼女は私が口に出さない想いを汲んで、いつでも助けになってくれた。未だ人事の不手際で副官が配されない私にとって、彼女が副官も同然に立ち回ってくれている。この地に不慣れな私の采配で深海棲艦の襲撃に耐えてこれたのは、彼女のお陰だと言っても過言ではない。
彼女にチョロチョロと纏わりつかれながら、私もようやく目標の一本杉の下まで辿り着いた。息を切らせてその根本に腰を下ろすと、小さな韋駄天は地団駄のような足踏みをようやく止め、私の隣にピッタリと寄り添う。幼く見える彼女だが、その姿は艦娘としての力を最大限に振るうために十全に整備された結果に過ぎない。外見とは裏腹に、教養や思慮の深さは大人の私と変わらない。
だからこそ、不思議に思う。
「島風……どうして私を誘ってくれるんだ?」
私は、彼女が自身の任務とは別に、こうして世話を焼いてくれるその目的が知りたかった。彼女も、ただ私を走らせるために呼び出しているのではないはずだ。何か裏があって私に接近しているのであれば、端からビジネスライクに徹した方がやりやすい。
だが、私の思惑に反して、彼女からの返答は極めて純粋なものだった。
「だって、てーとく遅いんだもん!」
見知らぬ土地で手間取る私を見ていられなかった、ということか。
「私にはのんびりしている時間はないんだよ! だからてーとくも急いでよっ! ねっ!?」
彼女は皆のことは話してくれるが、自身のことはあまり話さない。私が彼女について知っているのは『誰よりも速い』ということだけだ。人としての寿命を持たない彼女は何のためにそこまで生き急ぐのだろうか。本当に、速さこそ彼女の全てなのだろうか。
この不可思議な想いは良い顔色として映らなかったようだ。島風は打って変わって控えめに、おずおずと私の身体に気を遣う。
「もしかして……疲れてきた?」
少し釣り目で表情の乏しい彼女の心の内は解らないことも多い。だが、そんな無愛想な顔でも毎日合わせていく中で、僅かな変化から彼女の気分くらいは読み取れるようにはなってきた。
「提督という任務はデスクワークが多くてな。こうして運動に駆り出してもらえて助かっているよ」
口の端が少しだけ綻んだ。私との朝のランニングは、彼女にとっても喜ばしいものであるらしい。
「オゥッ! それじゃあ明日も同じ時間にねっ!」
彼女は跳ねるように立ち上がると、私に付き合っていた時とは比べ物にならない加速度でドックに向かって飛んでいった。
私が彼女の期待に応えられる速さを見せられるようになれば、この日課も無くなってしまうのだろうか。それは少し寂しくもあるが、今は自分の使命を全うするため、彼女と共に加速していこう。
私がこの鎮守府に着任してから、それなりの年月が過ぎた。命を賭した戦である以上、二度と還ることのなかった
目まぐるしい環境の変化に揉まれていたが、そんな中でも絶えず離れることなく、私の傍でずっと支え続けてくれた
「てーとく着替えおそーい!」
最初、顔を合わせるのは朝方のランニングと作戦を命ずる時だけだったが、今ではこうして夜の帳の中でも共に過ごしている。
女性の身支度は時間がかかる、という社会通念は、彼女には当て嵌まらないようだ。私が詰め襟を羽織ろうとしている時には、既にいつもの戦闘服を着込んでいた。
最愛の艦を選ぶための書類一式が支給された時、私は迷わず彼女の左手を取った。戦果だけなら他に優秀な艦娘が何隻もいる。しかし、新参者だった私に彼女らを導くことができたのは、他の誰でもない、島風という
人間同士の慣わしと似た契を軍艦である彼女と結ぶことに戸惑いはなかった。戦力の向上に繋がるのであれば、それは喜ばしいことでもあるし。
しかしそれ以上に、常に全ての艦娘たちに対して平等に接しなくてはならない提督という立場でありながら、その中の
ただ、その想いが彼女に伝わっているかは判らない。
「てーとくっ! 初夜だよーっ! さっ、早く服脱いでっ!」
それまではどんなに親しくなろうと上官と部下という一線を保ってきた私にとって、その一夜は大切なものだった。しかし、彼女の有り様は、早いところやることを済ませておきたい、という事務的な処理手続きのようで、これには一抹の不安を感じさせられた。
「ああ、いや……島風。身体の関係は不可欠なものではないのだが……」
そもそも、工廠にて建造される彼女らに生殖機能は備わっていない。成人女性としての器官こそ内蔵されているが、それに官能的な充足感をもたらす以上の意味はないはずだ。
それでも彼女らは人間の娘と同じ貞操観念を持っていることは私も理解している。それ故に、彼女は義務感から羞恥心を押し殺しているのだろうかと気を揉んでしまう。
しかし、彼女の意思は、それともまた少し違っていた。
「不可欠に決まってるでしょ! 『女』になるのも、私が一番速いんだから!」
この情緒的に未熟な少女を抱いて良いものだろうか……。私はこの期に及んで迷っていた。そしてこんな時、作戦外の全てを彼女に頼りきっていたことを今更ながら思い知らされた。
私は初めて、彼女のことで想い悩んでいる。そして、それを相談できる者など誰もいない。これは私たちふたりの問題であり、私たちだけで乗り越えなくてはならないのだ。
「身体を交えただけで変われるほど、男と女は単純ではないのだぞ?」
そう言いながらも、衣服を一枚残らず布団の外に残してきた島風に追い付くため、私も粛々と襟元に手を掛ける。
少しずつ肌蹴ていく異性の身体に照れてしまったのか、頭の先まですっぽり被った布団の向こう側から、彼女はいつもの台詞を繰り返す。
「でも……私が一番速いんだもん!」
ここで、営みを
私は彼女と契を交わした。どんなに未熟なところがあっても、私は彼女を手放すつもりはない。彼女の笑顔を喜び、彼女の悲しみに涙を流そう。その覚悟を以って、私は広い布団の中で彼女の細い身体を抱きしめた。
「てーとく……んっ……くすぐったいよぅ……」
やはり、彼女の身体は外見年齢相応のようだ。それでも私は、彼女が望む『大人の女性』として触れてゆく。
「焦ることはない。少しずつ感じ取れるようになればいいんだ」
と、言って納得する彼女ではないのだろうな……。
「そんな遅いのヤだ! 私は早くオトナになりたいの!!」
その後も二人だけの夜を越えてゆき……いつしか彼女は最速の名に恥じない成熟を遂げていた。それに必要な照れや恥は顔を真っ赤にしながらも一つ一つこなしてゆき、今ではお互い求め、求められる関係を築き合っていた。
しかし、肝心の情緒の方はそれに追いついていないようで、コトが済めばこうして早々に寝床から飛び出し、次の逢引きに移りたがる。
「てーとくてーとくっ! 今夜は一緒に海に出てくれるんでしょ!? 約束したもんね!」
「あ、あぁ……記念日だし……少しだけな」
艦娘を連れた作戦外の出航はご法度だが、今日だけは特別に目を瞑る。戦いのない海の上で満天の星空を眺めたい、それが彼女の願いだからだ。
張り切るあまり待ちぼうけを食わされていた彼女より幾ばくか遅れて、私も身嗜みを整え終えた。
「それじゃー行くよっ! 海に乗ったら私にしっかり掴まっててね!」
ああ、絶対に離すものか。海の上でも、丘の上でも、私は彼女の全てを両手でしっかりと抱えていくと誓ったのだから。
時は更に過ぎていく。戦線は激しさを増すばかりで、艦隊の規模も肥大化していく一方だ。
「てーとく出撃おそーい!」
彼女の方はしっかり補給を済ませ、あとは私の号令一つで海へと飛び出してゆける。
しかし、ことはそう単純ではない。
彼女の身体を形造る資材の補充一つ取っても、様々な者たちの手によって支えられている。軍隊とはそれ一つが一個の生き物のようで、その血管が一本でも傷つけば、それが致命傷となることも少なくない。
彼女が率いる第一艦隊の他に、いくつもの艦隊を同時に運用している以上、それらとの相互連携を緻密に組み立てていかなくてはならない。
しかし、彼女に託すのはその一部である彼女自身の艦隊に関する指令だけ。私はそれにもどかしさを感じていた。
「てーとくてーとく! 私、今日もしぱっと倒して、しぱっと帰ってくるから! だから……今夜は……ね?」
待ちきれなくなってデスク周りをぴょんぴょんと跳ね回る愛しい艦娘に対し、色よい返事ができない自分が恨めしい。
頭の回転も速い彼女は、私が言い淀んだ一瞬に、言葉にできなかった真意を汲んでしまった。頭頂で結われたリボンの先も、心なしか垂れ下がって元気を失っているように見える。
「ん……でも大丈夫! そんなことで凹んだりしないから! いつも通り出撃できるよ!」
そう言って自身を鼓舞してはいるが、彼女は駆逐艦であるのと同時に、
そこで私は次善の策を講じてみる。
「そうだ、島風。帰投した後もう一仕事頼みたいのだが」
「オゥッ? 何?」
機密保護の観点から、彼女にさえも自分の仕事を手伝ってもらうことは殆ど無い。だが、彼女は日頃から私を手伝いたいと願っていた。つまり、これから託す依頼は本来認められるものではなく、同時に彼女を勇気づける意味を持つ。
「今夜は寝室で残務を消化しようと思ってな。その書類を運ぶのを手伝ってもらいたい。極秘任務だから、他言は絶対にしないように」
それを聞いた島風の表情は隅々までキラキラと輝きに満ちていった。
「オゥッ! 絶対に無傷で帰ってくるよ! あんまデートっぽくはないけど、今夜はずっと一緒にいられるんだよね!?」
「く……繰り返すが……極秘任務だからな? 他の者たちには気付かれないようにな……?」
「オゥッ!」
と威勢よく背筋を伸ばして敬礼で返すが……私と共に過ごすようになってからというものの、それまでとは比べ物にならないほど彼女の表情は豊かになっていた。この不自然なまでの浮かれようは、周囲から不審な眼差しを向けられることだろう。それどころか、浮足立ってらしからぬ失敗を犯さねば良いのだが……。
この喜びようは、普段構ってやれないことの裏返しでもある。これからは特別な日に限らず、彼女との時間を少しでも作ってゆきたいものだ。
提督として指揮を執るのは戦略のレイヤであって、個々の艦隊の戦術に於いては各旗艦に任せている。だからこそ、進むか否かの決断は、提督として戦場で携われる最大の責務ともいえる。
ひとたび戦局を見誤れば、艦隊に甚大な被害が及ぶこともある。それは解っていたはずなのに……――
「てーとく指示おそーい……」
鎮守府の桟橋ではなく、離島の海岸に打ち上げられた島風に、私は何と声を掛ければ良いだろうか。辛うじて轟沈こそ免れたが、長い入渠を必要とするだろう。その痛々しい姿が、私の喉を詰まらせる。
やはり、旗艦たる彼女が傷を負った時点で引き返すべきだった。しかし、艦隊全体としての損傷は軽微で、彼女さえ守りきれれば更なる進撃も可能だと思われた。
だが、彼女はただの艦娘ではない。島風型一番艦というだけでなく、私にとって掛け替えの無いただ
その現実が、私の判断を鈍らせた。ここで帰投を命じることは、提督としての任に背く私情であると錯覚してしまったのだ。
この迷いが私の決断を遅らせ、本来撤退すべき機運を逃し、否応なしに夜戦に突入してしまった。
その結果は……このとおりだ。旗艦たる彼女が大破したことで陣列は崩され、そこからは一気に畳み込まれてしまった。彼女以外の艦娘たちは比較的軽傷だが、不要な怪我を負わせてしまったことは悔やんでも悔やみきれない。
「本当に済まなかった! いま救助艇を呼んでいるからしばらく辛抱してくれ……!」
憎らしいほどに清々しい明け方の空を仰ぎながら、指先一つ動かせない島風は瞳の先だけで私を見やる。
「大丈夫だよ、てーとく。陸に上がっていれば沈むことはないんだから……」
艦である彼女らは人間ほど急速に衰弱していくことはない。このまま
しかし……――!
「今負っている傷は痛むはずだ……!」
肉を焼かれ、骨を砕かれたのだ。その苦痛は確実に島風の身体を蝕んでいる。
「うん、超痛い。でも……」
島風は目蓋を閉じる。その様子は激痛を感じさせないほど穏やかなものだった。
「てーとくが私のこと見つけてくれたから。てーとくが声を聞かせてくれれば、私、我慢できるから」
いま彼女に必要なのは、私からの言葉なのか。しかし、不甲斐ない私には、謝罪以外の言葉が浮かばない。
「救助艇、遅いねー……。私ならとっくに着いてるのに」
彼女のいつものスピード自慢も、今度ばかりは胸に堪える。
「すまん……すまん、島風……!」
眠るように瞳を閉ざす彼女のすぐ隣で、私は一人静かに涙を零す。男の矜持を慮って、彼女は視界を外してくれたのかもしれない。何から何まで、彼女にはお見通し、ということか。
「言っとくけど……私、てーとく以外からの指示を聞く気はないからね」
本当に、全てを見透かされている。
実のところ……そろそろ自分は一線を退き、若手に道を譲るべきではないかと考え始めていたのだ。進化していく敵艦隊に対抗するように開発される新型艦娘たちとの接し方は、若き副官たちの方がよく理解している。この辺りが潮時といえるかもしれない。
だが、一つだけ未練があった。とても軍人とは思えないような、しみったれた願いだ。
自分が少しずつ時代に取り残されているのは解っている。それでも、もう少しだけ、この島風に指令を下す提督として、彼女と共に生きてゆきたかったのだ。
「私を許して……くれるか……?」
自分でも卑怯な愚問だと理解している。私は自分を慰めるために、返答の判りきったこの問いを投げかけているのだから。
「許すも許さないもないよ。てーとくは……私にとってたった一人のてーとくなんだから」
私にとって彼女が唯一であるように、彼女にとっても私は唯一であるようだ。その二つの想いに、私の目尻から先刻とは異なる涙が溢れ出す。
だからこそ、今度こそ決意する。本当に取り返しのつかないことになる前に、自分の引き際は自分で弁えなくてはなるまい。
救助艇は直に来るだろう。それまでの僅かな時間、私は傷ついた彼女の手を握り続ける。無力で情けない提督ではあるが、今だけは、彼女だけの提督でありたかったのだ。
あの惨劇を機に、私は戦果を追うより、艦娘たちの無事を第一に考えるようになった。勢いのある若手勢からは、もっと強気で挑むべきだと何度も主張された。そんな彼らに対抗するつもりはないのだが、私はあくまで自分のやり方を貫いてきた。その頑固さは、若さに対する妬みも含まれているのかもしれない
しかしその甲斐あって、彼女はかつてのような大怪我を負うことはなかった。だからといって、生傷が絶えることもないのだが。
「てーとく入渠おそーい」
部下への仕事の振り方も覚え、私は十年前よりずっと彼女との時間を過ごしやすくなっていた。本来、艦娘たちの
彼女の身体は出逢ってから何十年も経った今でも当時と変わらず瑞々しいままだ。それに対して、私の肌からは少しずつ活力が奪われ、若い頃無理をした反動か、内臓器官の節々に疾患が生じ始めている。人間である私は彼女たちのように臓器を取り替えて若さを保つことはできない。いつまでも前線で戦い続けることのできる彼女らを、少し羨ましく思うこともある。
「休むことも大事な仕事だぞ」
その言葉には、かつての自分への戒めも含まれていた。しかし、人ではない彼女にはナンセンスな気遣いか。
彼女も、私のやり方が若者たちの反感を買っているのを知っている。ゆえに、彼女は私からの命令を反故にしてでも独断で奥に切り込むこともあった。自分の及び腰が、彼女にまで気を遣わせている。戦争のための兵器である艦娘たちに対し、艦そのものとして愛着を持つようになってしまっては、提督として失格だ。
最愛の艦を前にしてさえ愛憎入り交じった複雑な心持ちを抱く私の胸元に、彼女は自分の頭を差し出した。
「じゃあ、撫でて」
柔らかなブロンドの髪を、私の顎に向けてグイグイと突き出してくる。
「仕事熱心な私は偉いでしょ? お風呂って暇すぎて、いいコいいコしてもらうくらいしかやることないんだよ」
私は服が濡れるのも構わず、彼女の頭を抱きかかえ、その美しい髪をゴワゴワした粗い指で梳いてやった。
かつて指輪を交わし合った間柄ではあるが、今では老人と孫娘にしか見えない。私がこうして自分の手で彼女を撫でてやれる時間もそう長くもなさそうだ。
「
前の戦いでは、引き連れていた艦娘らからの強い要望を受けて、旗艦たる彼女は私の指示に背き、敵影を追って勝手に追撃を決めてしまった。結果的に、大した被害もなく敵艦隊の殲滅に成功したし、功を欲する若手艦娘らが不満を募らせることも避けられた。
とはいえ、命令違反には違いない。よって、次は戦闘作戦ではなく、補給艦の護衛任務に就いてもらうことにした。お咎め無しでは示しがつかないからだ。
「いくつか大きな港も寄っていくから、美味しいものお土産に買って帰るよ。楽しみにしててね」
「任務の遂行を第一にな」
形ばかりの反省すらない我侭娘を軽く小突いてやると、不貞腐れて下を向いてしまった。
「任務より大事なことが……あるんだもん……」
彼女も気づいているのだろう。我々の語らいに終わりが近づいていることを。
言葉には出さず、胸の鼓動で大切な娘に想いを伝える。お前が無事に帰ってくることを、何よりの土産に待っている、と。
更に幾年もの年月を共に重ね、こうして記念日を迎えるのも、もう二十を数えるか。人間の年齢と照らし合わせれば、彼女の容姿は私たちが結ばれていた年月に満たないほど若々しい。知らぬ者が見れば、我々がそのような長い時を寄り添ってきたなど信じられないかもしれない。
それでも、ふたりの時間は本物だ。昔は一点に留まることを知らなかった島風も、今日は戦闘用のセーラー服ではなくきらびやかなワンピースに身を包んで大人しく椅子に座って待っている。
それでも、
「てーとく仕事おそーい」
いつもの苦言だけは忘れない。
「そんなに急がなくても予約してるんだし、レストランは逃げないよ」
今となっては、私の仕事は殆ど無い。むしろ、何か新しいものを生み出すより、今まで生み出してきた経験を基に若手たちを補佐する裏方に徹している。
私はもうじきこの世界から消えるだろう。だがそれまでに、少しでも彼らの役に立つ知識を残したい。彼らの何倍もの戦場を見てきた自分だからこそ伝えられることもあるはずだ。
だから、いま彼女を待たせているのは、公的な残務ではない。大敗を喫してしまった副官に今後の気構えなど、かつて自分も味わった反省の数々を、叱咤激励の文にして
「折角綺麗な服着て街に出るんだもん! 雑貨とかアクセとかも見たいじゃんー!」
彼女の若者らしい立ち振舞を、もう羨むことはない。老兵には老兵としての生き方があるのだから。失ったものを惜しむより、今の自分があることに感謝したい。
とはいえ、心残りはある。落ち着きは出てきたものの、彼女は根っからのスピード狂だ。本当は私のことなど置いて、全力で大海原を駆け回りたいに違いない。
しかし、基地から一本杉との間を全力疾走するだけの体力すら、今の私には残されていない。歳を顧みず無理をすれば、残り短い余命を更に短くするだけだ。
彼女はもう私の手から離れて、後進の提督たちの下で活躍していった方が良いと考えている。そこで立派に戦ってゆける姿を見れば私も安心できよう。しかし、一度だけその想いを彼女に打ち明けた時の悲しそうな顔を見て、彼女の艦隊だけは最期まで自分の手で指揮すると、この老いぼれの命を捧げさせてもらうことにした。
それと同時に、私の最後の仕事は、私がいなくなった後も彼女らが苦しまずに生きてゆける環境を作り上げることなのだと信じている。私の人生はもう終点に半分足を掛けているが、彼女らの戦いはこれからも続いてゆくのだから。
血生臭い人生ではあったが、彼女のお陰で人間らしい幸福を知ることができた。若い頃は妻を娶る喜びを、歳を取ってからは我が子を愛でる安らぎを。
……ああ……そうだったのだ。私が残すべきはこの軍だけではない。島風という
それに気づいた私は、書きかけていた手記にペンを置く。
「待たせて悪かったね。今からでもお店を回る時間はあるかい?」
「やったっ! あんま何軒もは行けないけど、先週できた手作り雑貨のトコだけは行ってみたかったんだ♪」
所狭しと商業施設が立ち並ぶこの街にはもう新たな店が建つ余地などないと思っていた。しかし、そこに立ち上がらんとする若者が現れ続ける限り、街は代謝を続けていくのだろう。
この鎮守府のことも、前線で奮闘している彼らに任せる時期に来たのかもしれない。
私が残りの人生で成すべきことは、彼女たちが戦っていける環境を作ることでもなさそうだ。搾りかすのような命だが、それはこの幸せをくれた彼女への恩返しに使いたい。
その第一歩として、私は彼女の手に導かれて街へと繰り出していく。私はこの小さな手を、あと何度握ることができるのだろうか。
「
この歳になると、消化に悪いものは身体が受け付けなくなってくる。柔らかいものですら、少しずつ念入りに咀嚼して一つ一つ飲み込んでいかなくてはならない。
「あんまり頬張ると喉に詰まるよ」
苦言を呈しながらも、彼女の輝くような若さに当てられていると、こちらまで元気を分けてもらえるようだ。
島風はハムスターのように膨らませた両頬の中身をゴクンと嚥下させると、空になった食器の前で、老人が食事を終えるのをのんびりと待ってくれている。
最早事務手続きの書類作成すら立ち行かなくなり、殆ど全ての実務を第一副官とその配下に任せている。立案権限の全てを預けているので、彼こそが実質的なこの鎮守府の提督と言えるだろう。私が亡き後も、彼が彼女らを率いて戦い続けてくれる。
既に、島風を旗艦とする艦隊も残っていない。貴重な戦力を朽ちかけた残骸に預けておくわけにもいかないからだ。
最後まで私以外の指図は受けない、と突っぱねる島風は解体の危機にあった。しかし、彼女率いる古参の艦娘たちの計らいによって、彼女の身は救われた。島風一隻の指揮権だけは私に委ねる、という条件で、残りの艦たちは第一副官の指揮下に入ることを了承してくれたのだ。
こうして島風と私は、軍隊という組織にいながらまるで老人ホームかのような暮らしを送っていた。すっかり大人しくなってしまった島風を見て、かつて艦隊最速を誇っていた駆逐艦だと信じられる者は皆無かもしれない。
それは私に対しても同じで、『何にもしてないあのジーサンなんなの?』と後ろ指をさされることも少なくない。現役時代の我々を知る元島風艦隊の仲間たちが
「昨日はお出掛けしたから、今日はお部屋でゆっくりしよっか。懐かしいテレビでも見ながらさ。あ、お茶のお代わりいる?」
私の湯呑みを手に取って、彼女は私の分までテキパキと動いてくれる。
自分が自分だと感じられるのは、今となっては島風と話をしている時だけだ。それと同時に、遠巻きに我々を眺めている娘たちと背格好は変わらないのに、こうして孤立させてしまっていることに胸が痛む。
いや……この痛みは……違う……!?
「う……くぅ……っ!」
かつてない圧迫感に、私は思わず胸を押さえて蹲る。指から転げ落ちた銀のスプーンがカランカランと乾いた音を立て、私の天と地がひっくり返った。
(あれ……おじいちゃん、どーしたんだろ……?)
(ナンかヤバイんじゃない……?)
ああ……自分でもそろそろお迎えが来るような気はしていたんだ……。予定調和のような幕切れに、周囲は多少ざわつきこそすれ、そこまで騒ぎ立てる様子は見られない。
だが、そんな中、掠れるような金切り声が私の耳に届いた。
「てーとくーーーーーーーーっ!?」
ガシャン、バタン、という物騒な物音が近づいてくる。そして、私の頬に柔らかく優しい温もりが感じられた。
「てーとくっ! てーとくっ!!」
霞んだ視界の向こうからポタポタと温かな雨が降り注ぐ。そんなに悲しい顔をしないでおくれ。私はもう十分生きた。お前のお陰で幸せな人生を全うすることができたんだ。私はもう満足だ。これからは、私なんかに縛られず、自由に生きてくれ。
もし
黒くぼやけてゆく意識の中で、私は愛する女性の最後の言葉を聞いた。
「てーとく……はやすぎるよ……」