一 摩頂放踵
そんな適当な事を椽側に座って考え乍ら時間を潰す。竹から伸びた影は僅かに角度を変えている。ふと、空を見ると雲が一つ。うん、平和だ――と思った矢先、廊下の奥から声がする。
「ちょっ、師匠、何ですか急に」
「
「私先週実験やった
……平和だ。……平和か? いや、
「今回はそんなに危険な実験じゃないから、慌てなくても大丈夫よ、ウドンゲ?」
「そういう科白で宥めようとしている時点で色々怖いんですけど!? あっ、ちょっ、待っ」
……それ限、声は聞こえなくなった。
「……珍しく二週連続で
「危うく側杖を食いそうになったけど」
「二週連続で箍が外れたって事は、暫くは安心かな?」
「そうだと思いたい……」
そうだと思いたいが、師匠の実験は気紛れで始まる。付き合わされる側としては堪ったものではないが、本当に何時始まるか分からないから、
「
「その気分の切り替え方ってどうなの」
「何時もの事じゃん。気にしたら負けだよ」
そう言って、因幡さんは脱衣所へと歩いて行った。
――
先程一瞬出てきたが、『識』というのは私の名前だ。兎にしては物を『
因みに『箍が外れる』とは、師匠さんの実験を指している。というのも、月からの追っ手から逃れる為の永夜異変が終結し、妖怪の賢者から「別にこそこそ隠れずとも結界があるから追っ手はここに辿りつけない」というような事を言われてから、師匠さんの態度が豹変した。『別に隠れなくていい→つまりおおっぴらに実験出来る!』という様な思考に至ったのか、それ以降意味の分からん実験に付き合わされるようになり、兄弟子共々辟易しているのだ。
普段は普通の優しい美人女医である。服装こそ奇抜だが。だが実験の事となると性格ががらりと変わる。目を爛爛と輝かせ、鼻息を荒くし乍ら「さ、識、実験遣るわよ」なんて迫られれば逃げ出したくなるのは道理というものであろう。
幾ら
そんな状況でも文句を言えないのは、偏にこの永遠亭が師匠さんの作る薬で成り立っているからだ。それを理解した上で彼の言動をしているのであれば相当質が悪い。併し文句は
嗚呼、鈴仙。君の事は忘れない……。まあ、死ぬ事は無いだろうが。
――
太陽は南中近くになり、昼の献立も決め、さあ作るかという頃、漸く鈴仙さんが解放された。焦点の定まらない視線と覚束ない足取りは、宛ら幽鬼である。鈴仙さんはその儘、こちらに一瞥もくれず廊下の奥へと消えた。
こんな暴力的な状態だが、何故か人里の人間は襲わないという親切設計。その思い遣りを少しでもいいから此方に分けてください。切実に。
因みに私も返り討ちを食らった事があるので、御互い放置が暗黙の諒解である。遺恨は残さないに越した事はない。
「危険じゃない実験にしては随分時間が掛かりましたね……」
「ウドンゲが一杯頑張ってくれた御蔭で色々捗ったわ」
「へえ」
『色々』の内容は詮索してはいけない。知らぬが仏、触らぬ神に祟りなし。
「所でお昼は?」
「これからです」
「今回は色々張り切っちゃったから、少し多めに作って頂戴」
「諒解です……」
果たして、この何とも言えぬ気分は
――
夜になっても鈴仙さんは帰ってこなかった。実験後、
昼食後、師匠さんは普段通り製薬に勤しんでいた。実験は突発的だが、一日に二度は行われない。と言うのも、家事は鈴仙さん、因幡さん、私の当番制であり、そのうち料理係は鈴仙さんと私の
――
あれから二日経ち、空が黄昏れてきた頃、鈴仙さんが戻ってきた。実験は長かったが、徘徊期間は短めで済んだようである。今回も
「お帰り。今回は割と短めだったね」
「あれから何日経ったの?」
「二日強。所で額が赤いけど、すっ転んで顔面から突っ込んだ?」
「気が付いたら只管木に頭突きをかましていたわ。一体何の儀式よ。しかも傍で哨戒天狗が憐憫の目でこっち見てるし。一応弁明したら分かってくれたみたいだけど、
身体的被害は少ないが、代わりに精神的被害が大きかったようである。果たして、只管木に頭突きをし続けるウサミミ美少女を見た哨戒天狗の心情は如何なるものか。
「……まあ、先週と違って下着丸出しにはならなかったんだし……」
「五十歩百歩よ。毎度毎度精神をゴリゴリ削られる様な感じがするんだから。私が玉兎じゃなくて普通の妖怪兎だったら
「さいですか……」
「お風呂入ってくるわ。早く洗い流したい。色々と」
「……ご
そう言ってさっさと行ってしまった。
せめてもの救いに、夕飯の献立は彼女の好物を作ってやろう。
そして夕飯の後、明日は我が身なのかと椽側で呆け乍ら空を仰いでいたら、鈴仙さんが晩酌に誘ってきた。若干目が据わっている様に見えるのは気の所為か。
「鳥渡付き合ってもらっていい?」
「下戸でよければ」
「別に無理して飲まなくていいわ。話し相手が欲しかっただけだから」
そう言って隣に腰掛ける鈴仙さん。
「随分とお疲れの様で」
「そりゃそうよ。別に師匠の箍が外れるのは今に始まった事じゃないし、二連続で巻き込まれるのも偶にあったけど、今回程副作用は酷くなかったわ」
「まあ、副作用と言うよりは、単に運が無かっただけとも……」
「
尤もである。恥は搔かないに越した事はないが、衆人環視の中よりは
「出来る事なら昔の師匠に戻ってほしいわ。永夜異変の時は凜然としていたのに、
「人間、どういう切っ掛けで性格が変わるか分からないからねぇ。正確には蓬莱人だけど」
「変わるにしても、もう少しましな変わり方もあったでしょ。誰も明後日の方向にぶっ飛んでほしいなんて思っちゃいないわ」
「そりゃそうね」
「仏教徒にでもなれば、こういう目に遭っても因果とか縁の一言で片付けられるようになるのかしら」
「……改宗するんだったら慎重にね」
酔いが回ってきたのか、
そんなこんなで、適当に脱線しつつ愚痴を聞いていると、思わぬ人が入ってきた。
「あら、鈴仙が晩酌なんて珍しいわね」
「あれ、姫さん、こんな夜更けに何か御用で?」
「話し声が聞こえたから気になったのよ。鈴仙にしては珍しく荒れているみたいだけど、どうかしたの?」
「あんまり詮索しないであげてください。下手すると髪を剃りだすかも分からないので」
「仏教徒の件は冗談よ」
「あ、そうですか……」
どうやら酔いの回りはまだ浅いようである。
「まあ肯えては訊かないけど、鈴仙の愚痴を識が聞いているという事ね」
「そうです」
「そうね……遣っている事も丁度区切りのついた事だし、私も交ざっていいかしら?」
「私は構いませんが……鈴仙さんは?」
「大丈夫です」
姫さん、まさかの途中参加。