魔王の玩具   作:ひーまじん

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必ずしもボスが立ち塞がるとは限らない

入ってきた客の顔を見て、俺は無意識に息を飲んだ。

 

何を隠そう、そこにいたのは少し前に会った雪ノ下陽乃の母、その人だからだ。

 

あの雪ノ下陽乃さえも下手に出る、雪ノ下陽乃よりもタチの悪いその母。

 

直接会話したのは数度で、会ったのも一度きり。

 

だからこその恐怖がある。俺は雪ノ下陽乃の事以上に、その母の事は全く知らない。雪ノ下陽乃が口にしていた事だけだ。そしてその情報だけで行くと、今俺一人で雪ノ下母と邂逅するのはマズい。先程の電話、雪ノ下陽乃の焦燥とこのタイミングでの登場は、つまり雪ノ下母が雪ノ下陽乃に俺のバイト先を伝え、そして現れたということだろう。

 

やっべ……超逃げたいんだけど。

 

そう思う心をなんとかねじ伏せ、完全接客モードで、知らんふりをして話しかける。

 

「いらっしゃいませ。お一人様で宜しいですか?」

 

「ええ。他の者は外で待たせています。ここへ入店するのは私だけですよ」

 

「畏まりました。では、お席へご案内します」

 

「もし良ければ、あちらの窓際に座っても良いかしら?」

 

「はい」

 

予想外に、雪ノ下母は普通に俺と言葉をかわす。てっきり、雪ノ下陽乃の如く、来た瞬間に無理矢理お付きの人にでも連行されるのかと思ったら、そういうわけでは無いらしい。

 

窓際の席へと案内し、机上に置かれているメニュー表を開こうとした時、雪ノ下母の口が開かれる。

 

「九条さん。少しお時間をいただいても宜しいかしら」

 

……おかしい。

 

今、この人は少しの間だけ俺の時間をくれと問いかけてきているはずだ。

 

だというのに、何故それが疑問系ではなく、俺が肯定することを前提としているような、そんな有無を言わせないものに聞こえたのだろうか。

 

断るのはとても簡単だ。何せ、今日は俺と店長しかいない。シフト的にいないわけでは無いのだが、来ても後一時間後だ。それだけの時間があれば、雪ノ下陽乃はここに来るだろうし、その間に色々と対応策を練られるはずだ。

 

よし、と思って口を開きかけたその時、休憩室のある通路の方から誰か出てくるのが見えた。

 

そこにいたのは、本当なら一時間後に来るはずの今日のシフトメンバー。

 

なんでよりにもよって、今日はそんなに早く来ているのか。ひょっとしたら、店長が念の為と思って声をかけた可能性もあるが……今の俺にとってありがた迷惑だ。

 

「九条さん?」

 

「大丈夫……みたいです」

 

「そう。それは良かったわ」

 

にこりと微笑んでそう言う雪ノ下母。はたして何が良かったのか。言うまでもない。

 

まだ殆ど言葉を交わしていないのに、主導権を握られてしまっていた。流石は雪ノ下陽乃の母と言ったところだろうか。

 

取り敢えず、向かいの席に座るものの、ものすごく居心地が悪い。というか、辛い。

 

「さて………九条さん。私が貴方とこうして話す場を設けた意味はわかりますか?」

 

「……いえ。思い当たる節がありません」

 

これは本気だ。俺は雪ノ下母と話す理由として思い当たる節が見当たらない。いや、無くもないか。俺と雪ノ下陽乃の関係についてと仮定したのなら、見当はつく。

 

「そうですか。では、私の口から言わせてもらいます。貴方と陽乃の事です」

 

まあ、その通りだろうなと内心で納得した。理由なんてそれぐらいのものだろう。

 

「貴方と陽乃。率直に言うとどのような関係ですか?」

 

「それはまあ、以前も言いましたけど、恋びーー」

 

「違いますね」

 

俺が言い切るよりも先に、雪ノ下母はそれを否定した。

 

息が詰まる、というのは今の俺のような状態を指すのだろうか。予想外の方向から、急所を穿たれ、俺は目を見開いた。

 

そして俺が言い訳する間も無く、雪ノ下母は捲し立てる。

 

「貴方と陽乃は、確かに第三者の目から見れば、仲の良い恋人同士に見えるかもしれません。多くの者は肯定するでしょう。ですが、私の目には、貴方達が恋人関係には映りませんでした……それが何故か、九条さんにはわかってらっしゃるかしら?」

 

「……そもそも、見る人間次第で見えてくるものは違うと思います。少なくとも、俺にはわかりません」

 

「模範的回答ですね。お教えしましょう。貴方も、陽乃も、お互いの想いが一方通行なのです。通じ合っているようで、決定的にずれている。それが今の貴方達。貴方が咄嗟に嘘を吐いた時、陽乃が驚いたのが良い証拠でしょう」

 

……雪ノ下母の言っていることは半分わかるが半分わからないと言ったところだ。

 

元々、俺達には利害関係というものがなかった。

 

雪ノ下陽乃に利用されるだけの存在であったはずの俺は、この長い付き合いを通して、少しはマシになったかもしれない。

 

だが、そうだとしても、所詮俺は雪ノ下陽乃に寄ってくる男達を追っ払うための存在。それ以上それ以下でもないし、雪ノ下陽乃が飽きれば終わる。当然、意識の違いはあり、想いにも差や方向性の違いが見られる。

 

そして分からないというのは、どうにも雪ノ下母の言いたいことが少し違うような気もするということだ。

 

「……仮に俺が陽乃と恋人じゃなかったとして、その時はどうするつもりですか?」

 

「どうもしません。今まで通りの事を、今まで通りにするだけです」

 

その今まで通りってのが、猛烈に気になるんですが。

 

「ただ、あの子は将来的に雪ノ下を背負っていく人間ですから、火遊びをしてもらっては困ります。あの子にとっては遊びでも、それが後々自らの首を絞めかねない事になりかねません」

 

「はぁ」

 

成る程ね……まあ、そういう風にとられてもおかしくはないか。

 

理由がちと気に入らないが、それはそれ。雪ノ下のお家事情を俺は全く知らないので、口を挟めることじゃない。

 

「それに婚約者候補も何名かいます。生半可な気持ちで陽乃と一緒にいられては困るのです」

 

「まあ……確かに。でも、その婚約者とやらが嫌だから、俺みたいなのを必要とした可能性もあるんじゃないですかね」

 

雪ノ下陽乃は、そういった決められたものを享受するのが嫌な人間だ。自分にとってはさして重要ではない事に関しては譲ってきたのだろうが、将来添い遂げる相手くらいは自分で選びたいんだろう。だから、俺を使って時間稼ぎもしているのだと思うが……しかし、それはそれで本末顛倒なんじゃないのか?

 

「だとしても、何処の誰とも分からないような相手を選ばれるわけにはいかないでしょう?」

 

「……それはその辺のごく普通の中流家庭の人間だと困るって事ですか?」

 

「ええ。あの子は優秀な子です。相応しい相手を見つける事が出来れば、輝かしい未来が待っているでしょう」

 

その相応しい相手っていうのは、家柄と能力だけの話なんじゃないのか。

 

何一つ、雪ノ下陽乃の意思が入り込む余地はないんじゃないのか。

 

確かに雪ノ下陽乃は優秀だ。

 

俺が出会ってきた人間の中で、誰よりも才能に溢れ、優れた容姿を持つ、聡明な女性だ。

 

だが、それ故に決められたレールの上しか歩けないというのなら、それ程馬鹿げた話もない。可能性に溢れているはずのあいつが、誰でもない自らの親によって、その可能性を閉ざされているだなんて。

 

そんな未来は間違っている。

 

世間にとって、雪ノ下にとってはそれ程素晴らしい事はないのかもしれない。

 

雪ノ下陽乃がその才を十全に振るうのだから。間違っても、悪い方向には働かないはずだ。

 

だが、雪ノ下陽乃はどうなる。

 

そのままいけば、あいつの心に平穏なんてない。

 

何処にいても仮面を被り続けて、誰の前でも求められる人物を演じる。

 

そんな事をしてしまったら、雪ノ下陽乃は本当に自分を見失ってしまう。それじゃあ、殆ど人形と変わらない。ただ望まれるだけのモノを演じるだけの。

 

「……わかりました。前は騙してて、すみませんでした」

 

「いいえ。わかっていただければそれで」

 

「改めて、俺から陽乃に結婚を前提に交際をしてもらえるか訊いてきます」

 

「それはどういったおつもりですか?」

 

「どういうも何も、言葉の通りです。生半可な気持ちで駄目だっていうのはよくわかりました。俺も腹を括ります。あいつが良いと言ってくれるなら、俺は何処へだってついていきますよ」

 

覚悟が足りていなかった。

 

そういうのなら、俺も人生丸ごと雪ノ下陽乃にくれてやる。

 

出会った頃の気持ちなんぞ、今はどうでもいい。そんなものは一月も経てば変わるというものだ。

 

日を重ねていけば、もっと変わるはずだ。

 

少なくとも、今の俺にとってはここで退いて、雪ノ下陽乃の心を失わさせるくらいなら、俺の人生を捧げて、今の雪ノ下陽乃のままでいてくれた方が遥かに良いという事だけだ。

 

「断られるかもしれないでしょう。今まであの子は例外なくそうしてきました」

 

「それはいいですよ。陽乃の意思でなら、どういう選択をしようとも、俺はそれを受け入れます。その時は好かれるように努力するだけです」

 

一体何をどう努力すれば、雪ノ下陽乃に好かれるかなんてわからない。でも、今は比較的良好な関係を築けていると俺は思っている。勝手な勘違いかもしれないが、雪ノ下陽乃が時折見せる本当の顔は、俺に対して一定以上の信頼を置いてくれているからこそだと。

 

「ただ、陽乃の事を何も知らない、外面だけを見ただけであいつを評価する奴には絶対に負けるつもりはありませんし、負ける気がしません」

 

「では、九条さんは陽乃の事をどれだけ知っているのかしら?」

 

「なんでも……なんて、言えたら良いんでしょうけど。俺も陽乃の事を知ってるのは少しだけです。あいつは自分の事を知られるの嫌がりますから」

 

そう。俺は雪ノ下陽乃の事を何も知らない。あと三ヶ月もすれば、一年も経つというのにあまりにも知らなさすぎる。

 

だが、それでも俺はその辺の奴よりも雪ノ下陽乃の事を知っている。

 

傍若無人で、自己中心的で、何よりも愉しさを優先し、その他の事なんてお構い無し。

 

けれど、自由きままに振る舞う中にも、脆く弱々しい一面があることも。ただ、演じる事で隠し、秘めていることも。案外愚痴が多いということも。割とつまらない事で怒りやすいことも。大好きな妹に少しだけ嫉妬している事も。本当の笑顔は俺ですら見惚れるほどに可愛いということも。

 

俺が数ヶ月もの間、雪ノ下陽乃の隣で見てきた事は、決して無意味なものじゃない。

 

雪ノ下陽乃が九条景虎を知っていくように、九条景虎も雪ノ下陽乃を知っていく事ができた。

 

互いに踏み込もうとしたから、他の人間よりも互いの事を知った。理解しようとしたから、理解できることもあったし、出来ないこともあった。当然だ。俺も雪ノ下陽乃も人間なのだから、必ず食い違う部分もある。

 

それでも、俺は雪ノ下陽乃以上に、長く付き合っていけそうな人間を他に知らない。

 

そういった意味も含めるのだとしたら、俺はーー。

 

「……そうですか。貴方の意志は、私が思う以上に固いようですね」

 

「はい。お母様にどう言われようが、俺は陽乃に」

 

「では、早々にお願いします。何事も早いに越した事はないでしょう」

 

「言われなくても……はい?」

 

「どうかしましたか?陽乃の元に向かうのではないのですか?」

 

「あのー、俺が言うのもなんですけど、止めないんですか?」

 

「ええ。止めませんよ。殿方が覚悟を決めて、ましてや親の前であれだけの啖呵を切ったのですから。その邪魔をするほど無粋な事はないでしょう」

 

……んん??

 

いや、言ってる事は悪い事じゃないとは思うんだけどね。

 

なんていうか………さっきまでの流れだと完全に阻止して来そうな感じでしたよね。実際、俺がこのまま雪ノ下陽乃に会えば、適当に口裏合わせで乗り切ろうと画策する可能性もあるわけだし。

 

「ごめんなさい。ハーブティーをいただけないかしら」

 

雪ノ下母は俺にではなく、あえて後から来ていた従業員に注文を頼み、こちらに向き直ると、不思議そうな顔をする。

 

「なにか?」

 

「え、あ、いや……その、ですね」

 

さっきと雰囲気が全然違くないですか。

 

それをどうやって、遠回しに伝えようかと思い悩んでいたが、それは雪ノ下母には伝わったらしく、口に手を当てて、くすりと笑った。

 

「驚きましたか?」

 

「はぁ……それはまあ」

 

「そう。それは良かったわ」

 

「え………何が?」

 

「九条さんったら、私を見た途端に警戒するものだから、つい柄にも無いことをしてしまったわ」

 

全く話の流れが掴めないんですが………つまりどういう事だってばよ。

 

「陽乃の言っていた通りの方で良かったわ。もし違ったら、それこそどうしたものかと考えていましたから」

 

「あの……お母様?さっきからどういう事ですか?俺に用があったんですよね?」

 

「ええ、そうですね」

 

「俺と陽乃が恋人関係じゃないのも知ってるんですよね?」

 

「ええ。もっとも、その点に関しては以前お会いした時にわかった事ですけれど」

 

すっと細められた目は『娘が親を謀るなんて百年早い』と言わんばかりだった。あの時、俺は俺でも驚くくらいに冷静で、それでいて至極当たり前のように振舞っていたつもりではあったが、それをこの人はすぐに嘘だと見抜いたらしい。流石雪ノ下陽乃の母である。

 

「ここに来たのはその嘘を見抜いていたから、別れさせに来たとかそういうのじゃないんですか?」

 

「もちろん、そのつもりでしたが……それは先程も言ったでしょう?生半可な気持ちで娘と交際しているというのは雪ノ下の家以前に私が許容しません。いくら見合いや男性からのアプローチに対する牽制だとしても、それでは後々困るのは陽乃自身なのですから」

 

「あの、なんか、すみませんでした」

 

「いえ、九条さんが頭を下げる必要はありません。言い出したのがどちらで、主導権を握っていたのもどちらであるのかは見当はついていますから」

 

そういう雪ノ下母の背後の空間が一瞬歪んで見えた。もうやだ。雪ノ下って怖い。妹ちゃんを呼んでくれ。まだ一番マシだ。

 

「ですが、そうなってしまった一端も私達にあるわけですから、それについて陽乃に口を出すつもりは毛頭ありません。ただ、私が確かめたかったのは九条さん。貴方の意思です。もしも、無理矢理その関係を陽乃に強要されているのが確認出来たなら、それはこちらだけの問題で解決しません。他の第三者が関わってきますから、陽乃に辞めさせるつもりでした」

 

「……だから、あんな言い回しをして、俺の真意を問いたかったって事ですか?」

 

「ええ。下手に問い詰めるよりも、九条さんが逃げられる合法的な理由を作り、それに乗ったなら、無理矢理偽の恋人関係を強要されていたとわかりますから。最後の方は少し楽しかったのも事実ですけれどね」

 

……ダメだ。この人やっぱり雪ノ下陽乃の母親だ。最後の方楽しかったからやってただけだよ。デフォルトが妹ちゃんの方で時々雪ノ下陽乃になっちゃう。それもなっちゃいけないタイミングで。

 

「ですが、貴方からの答えは、これから本当の関係にする事……つまり、貴方自身が陽乃との恋人関係を望んでいると解釈しました。……違いますか?」

 

「違くは……ないです」

 

ただ、始まりは雪ノ下母の言う通り、強要されたものだった。

 

それは別段伝えなくていい事であるが……もしかして、いや、もしかしなくても俺嵌められたんじゃないか?

 

雪ノ下母の用意した逃げ道というのは、俺にとってはとても素晴らしいものだった。雪ノ下陽乃に責められない、俺が被害者として終わらせる事のできる。謂わば戦いに負けて勝負に勝つというやつだ。あくまでも雪ノ下母の提案に便乗した形になるわけだから。それならそれで雪ノ下母も良かったんだろう。

 

けれど、俺はそれを拒んだし、それなら本物になると宣言したわけで。

 

「あれだけ男女交際を煩わしがっていた陽乃が、初めて私達よりも優先した方だから、さっきの言葉を聞いたときは安心しました」

 

そして覚悟を決めちゃったわけなんだ。雪ノ下母の思惑通りに。

 

「じゃあ、家柄とかの話は……」

 

「それは婿養子に来ていただければ、家柄なんて関係ありませんから」

 

それに、と雪ノ下母は付け足す。

 

「家柄、という点で言うのでしたら、貴方は不足ないはずですよ、九条さん」

 

「……そうですね」

 

無意識に、返す言葉への熱が失われていた。

 

やはり、この人は知っている。いや、何故知らないと断じていたのだろう。雪ノ下陽乃が偶々知らなかったから、その母も知らないかもしれないとそれに縋っていただけだ。

 

「お母様は……静羽は元気にしている?」

 

「……お袋の事を知ってるんですか?」

 

「知っているも何も、私と静羽は同窓生よ?」

 

……何だって?

 

この人とお袋が……同窓生!?

 

「……マジっすか」

 

「本当の事よ。あの頃はお互いに幼かった、とでも言えばいいのかしら。二人で色んなことをしてきたわ」

 

懐かしむように言ってらっしゃるが、この雪ノ下母と俺のお袋。雪ノ下陽乃に等しい存在が二人いて、かつ何かをして回っていたというのなら、その学校もう世紀末なんじゃないですか。どう考えても、この人が雪乃ちゃんのような立ち位置でお袋を止めていたという図が想像出来ない。

 

「だから、本当の事を言うと、九条さん……いえ、景虎くんと会うのはお正月の時で三度目なのよ。生まれて間もない頃に一度。それと静羽のお父様……貴方の祖父にあたる人の還暦のお祝いの席でね」

 

爺さんの還暦祝い……ってなると、小学二年生ぐらいの時の話か。

 

確かにあのときは家族以外の人間が大勢いた。うちの爺さんは大地主……って程ではないが、それなりだったし、結構交友関係も広いとか言ってた気がする。高校時代はちょくちょく偉そうな人が来てたし。

 

「二回目に会った時、貴方とある約束をしたのだけど、覚えているかしら?」

 

「……すみませんが、全く。爺さんの還暦祝いの時に誰がいたかも覚えてませんし……強いて言うなら、他にも何人か子どもがいたくらいで」

 

いくら祝い事と言っても、俺にはあまり関係なかったし、飯が旨かったなっていうのが一番。どうやって暇を潰そうかって思ってたのが二番目ぐらいに覚えてる事だ。うろ覚えで何人か他にも子どもがいたのを覚えている程度。それ以上は全く覚えていないし、雪ノ下母がその場にいたというのも知らない。

 

「そう……残念ね。私はしっかり覚えていたのよ?初対面で私に向けて『おばさん』って、言ったのは貴方ぐらいだったから」

 

「本当にすみませんでした!」

 

覚えていない。覚えていないが、子どもながらに俺はとんでもない発言を雪ノ下母に繰り出していたらしい。

 

気にしてないように微笑んでいるんだが、何故だろう。プレッシャーが……。

 

これだけ若々しい見た目を維持しているということは数年前はもっと綺麗なはずだ。それなのにおばさんはない。いくら小学二年生でもお姉さんくらいは言えよ、昔の俺。

 

「そ、それで、その約束というのは……」

 

「それはーー」

 

雪ノ下母が口を開きかけた時、着信音が鳴る。

 

俺ではなく、雪ノ下母のものらしい。バッグから携帯電話を取り出し、その場で数度言葉をかわすと、携帯電話を切った。

 

「あれだけ言っておいて、やはり心配だったのね」

 

「どうかしたんですか?」

 

「ごめんなさい。陽乃も来たようですから、私はこれで失礼します」

 

「陽乃が?何故?」

 

「それは本人に確認してみるといいわ」

 

外を見るように促され、そちらみると、そこには雪ノ下陽乃とそれをなんとか押さえている感じの雪ノ下の使用人というかボディーガードみたいな人がいた。ここから見ても、雪ノ下陽乃のかつてないほどの焦りが伝わってくる。

 

「陽乃に何言ったんですか?」

 

「あら、特に何かを言ったわけではないわよ。……ただ、あまりおいたが過ぎるようなら、私も見過ごせないとは言ったような気はしますけれどね」

 

……それがあの焦ってる理由か?だとしたら、一体以前どんな説教の仕方をされたんだ。

 

ともかく、これ以上雪ノ下陽乃を心配させるわけにもいかないし、さっさと行くか。

 

未だ暇してるバイトの子に謝りを入れつつ、俺は店外に待つ雪ノ下陽乃の元に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ……まさかあの時の冗談がこんな形で返ってくるなんてね。それに雪乃ではなく、陽乃だなんて……世の中何が起こるか、わからないものね。静羽」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

店外に出た俺は、一直線に雪ノ下陽乃の元へ……向かう前にあちらが俺が出てきた事に気づいたらしい。雪ノ下陽乃はこちらに向けて駆けてきた。

 

「景虎っ!」

 

「おう。さっきの電話ぶり……とと」

 

飛び込むように抱きついてきた雪ノ下陽乃をなんとかバランスを崩さないように受け止める。

 

「大丈夫!?お母さんに何もされてない?」

 

「何もされてねえよ。お前は自分の母親の事をなんだと思ってんだ」

 

「だって、お母さんが自分から会いに行くなんて言うから……絶対景虎に何かすると思ったんだもん」

 

「それですっ飛んできたのか?可愛いところもあるじゃねえか」

 

俺がそう言うと、雪ノ下陽乃は顔を真っ赤に紅潮させて、一歩下がり、鳩尾を殴ってきた。

 

ほうほう。今わかった事だが、どうやら素でやった事に対する茶化しには弱いらしい。そしてそれで恥ずかしそうにしてるのも作ってる時よりずっと可愛いということもわかった。後、照れ隠しで鳩尾はやめような?普通に痛いから。

 

「ま、本当に陽乃のお母さんと話しただけだ。他には何もしてねえよ」

 

「じゃあ、話したって何を?」

 

「今までの事とか……後、これからの事とか。偽の恋人関係ってバレてたみたいだしな」

 

「……そっか。そう、だよね……」

 

雪ノ下陽乃は視線を下に落とす。

 

以前の時に、バレている気はしていたんだろう。雪ノ下陽乃が母を『自分よりも怖い』と嘯いていたのは、自分が怖いと思っていることの証左だ。それがどういった経緯からなのかはわからないものの、雪ノ下陽乃が、俺と雪ノ下母が話す事に焦り、こうしてこの場にまで現れたのは嬉しくもある。雪ノ下母も心配していたと言っていたし、それが本当なら存外雪ノ下陽乃は俺を普通の友人よりは少し上くらいには見てくれているかもしれない。

 

……なら、言うチャンスは今が良いのかもしれないな。

 

「それで、だな。陽乃。その事で一つ言っておきたい事があるんだが……聞きたいか?」

 

「……あんまり聞きたくないけど、いいよ。どうせ、いつかは聞かないといけない事だしさ」

 

あまり乗り気でない様子の雪ノ下陽乃を察するに、俺がこの関係を終わらせようとしているのをなんとなく感じ取ったんだろう。本当に聡く、鋭いやつだが、俺がしたいのはそれだけじゃない。

 

いつか、雪ノ下陽乃はいった。

 

本物は何かと。

 

あの時、俺は持論を述べ、それらを踏まえて雪ノ下陽乃は俺を『本物』だと答えた。

 

だったら、俺にとっての『本物』はなんだ?

 

何ものにも代え難い。唯一にして、絶対のもの。

 

考えるまでもない。悩む必要なんて初めからない。

 

俺にとっての『本物』なんてものはもう手の中にあるんだから。

 

気苦労が絶えず、それと同じくらいに愉しさに溢れた日々。

 

文句を垂れながらも、適当にリスクリターンを吐き出しながらも、俺が雪ノ下陽乃と一緒にいた理由。

 

ずっと勘違いだと、気のせいだと誤魔化し続けてきた。それだけはあり得ないと。

 

何故そう思っていたのか。そう思おうとしていたのかは今ようやくわかった。

 

どんなお題目を並べても、俺は雪ノ下陽乃との繋がりを断ちたくはなかったんだ。

 

雪ノ下陽乃は飽きれば捨てると先に俺に告げた。だから、俺はそうならないように気持ちを逸らし続けてきた。他でもない自分自身を。

 

だが、もういい。

 

偽物を続ける必要はない。俺が欲しいのはそんなものじゃないはずだ。

 

「陽乃。この中途半端で、ふざけた関係。俺は結構好きだったぜ」

 

「………」

 

「でも、もう終わりだ。バレちまったら、ただの三文芝居だ。この関係に何の意味もねえよ」

 

「………」

 

雪ノ下陽乃は答えない。ただ俯いたまま、肩を震わせていた。

 

触れれば、脆く崩れてしまいそうなその姿を見て、ああ、と安心してしまう自分がいた。

 

雪ノ下陽乃はこんなにも弱く、儚い女性なのだと知れた事への嬉しさと、その姿を晒してくれた事への安心感。

 

だからこそ、踏みだせる。

 

これで強がりも何もなく、いつも通りに対応をされていたら、きっと俺はこの場でしようなどとは思わなかったはずだ。俺は周りが思うよりもよっぽどヘタレだから。

 

「陽乃。俺はお前が好きだ」

 

一方的に宣言したのち、俺は俯いた雪ノ下陽乃の顎を右手で上げて、その唇を奪った。

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