「……どうですか、芳乃ちゃん。」
飴玉を一つ、握りしめて。
杏ちゃんの病室の前で、私は芳乃ちゃんに問いかけた。
芳乃ちゃんが目を覚ましたことをこの目で確認して、すぐ。
杏ちゃんが、おかしくなった。
……とても曖昧で、簡潔で、幼稚な言葉だけれど。
おかしくなった、としか、私には表現できない。
それくらいに、見たことがなかった。
ついさっきまで、普通に私と喋っていた人が。
いきなり、あんな。
まるで、決して触れられてはいけない部分を弄くられたような。
脳味噌の中身をぐちゃぐちゃにされたような。
狂って、しまった、ような。
「落ち着いているようでしてー。
……あくまでー、先程までと比べれば、ですがー。」
私はプロデューサーに電話をして、芳乃ちゃんはナースコールを押した。
「芳乃ちゃんが飴の話をしたら、急に杏ちゃんの様子がおかしくなった」。
私が見たままを伝えると、彼は何か知っているようだった。
「飴が、無くなったのか」。
何故分かったのか、と聞くと、彼は彼女のことを少しだけ教えてくれた。
「あの飴は、彼女にとって、とても大事で特別なものだ」。
「詳しくは言えない。それは彼女の最も深い部分だ」。
「彼女はあの飴が無ければ何もできない。俺が言えるのはここまでだ」。
普段感情を見せようとしない彼は、絞り出すようにそう言った。
「……では、行ってきます。」
「どうにかできないのか」。
「私は何もしてやれないのか」。
看護師が飛んできて、続いて医者も病室になだれ込んできて。
錯乱している。ダメだ、鎮静剤を。抑えろ、早く。
ドラマの中でしか聞かないような単語が飛び交う中。
すがるようにそう問うと、長い沈黙の後、彼は答えた。
「飴は、作れるか?」。
「……よろしく、お願いしますー。」
芳乃ちゃんがお椀にした両手を差し出す。
その中にある、一つの飴玉を、そっと受け取る。
透き通る碧色。とても、彼女らしい色だ。
杏ちゃんはクスリによって、一晩眠り続けた。
その間、私と芳乃ちゃんは事務所に帰り。
ネットの情報を元に、飴を作っていた。
一番簡単な、べっ甲飴。
誰が買ったのだろう、戸棚の奥にあった着色料を加えて。
杏ちゃんが少しでも、元気になりますように、と。
そう、祈りながら。
「……はい。」
翌日。
病室に行くと、物音がするのを感じて、扉を開けたら。
既に目を覚ましていた杏ちゃんは、ひどく、よわっていて。
まだ、話ができるような状態じゃ、なくて。
彼女のもとに駆け寄りたくなるのをどうにか堪えながら。
彼女が落ち着くまで、待つことにした。
そして、今。
芳乃ちゃんが、杏ちゃんの気を読み取り、比較的落ち着いていることを確認した。
次は、私が頑張る番だ。
本当は、三人で話したかったけれど。
今回は、芳乃ちゃんは杏ちゃんの精神状態の確認に専念してもらうことになった。
「出来る限り少人数で」。
彼のアドバイスを守るために、私は一人で病室のドアをくぐった。
「……杏ちゃん。」
極力、優しい声色を出す。
それでも、彼女の肩はびくりと震えて。
恐る恐る、私の方を見た。
「……か、こ。」
彼女の目は、真っ赤に腫れていて。
頬には、まだ乾かない涙の後が残っていて。
それら全てが、痛々しくて。
私は必死で、笑顔を作り続けた。
「はい、ナスじゃなくてカコですよー……♪」
彼女を刺激しないように。
ゆっくりと、ゆっくりと近付く。
それでも、杏ちゃんは私に怯えていて。
部屋の端にあるベッドの、更に端へと身体を動かした。
「──や、だ。」
彼女の口から、弱々しい拒絶が漏れる。
そこで、私の足はぴたりと進むのを止めた。
今、近寄れるのは、ここまで。
ここから、伝えるしかない。
「……杏ちゃんをどうこうしようなんて、思っていませんよ。
ちょっと、仕事をお願いしに来たんです。」
プロデューサーから言われたように、言葉を紡ぐ。
自分は彼女に何をする気でもないということ。
ただ、仕事の依頼をしに来ただけだということ。
まずは、これを伝える。
「……しご、と?」
仕事、という単語に、彼女は明らかな反応を示した。
彼の言ったとおりだ。
「はい、お仕事です。ちょっとした報酬も、用意していますよ。」
穏やかな声を絶やさないように注意しながら、私はそう続ける。
言いながら、両手でお椀を作り、中にあるものを見せる。
碧色と、淡い赤色。二つの飴玉を。
「…………。」
杏ちゃんは何も言わず、ただ、私の手の中を見る。
何か、考えているのだろうか。
それとも、何も考えていないのだろうか。
彼女の表情は、それすら読み取ることを許してくれない。
「引き受けて、くれますか?」
聞きながら、半歩、前へ。
今度は、彼女が怖がらないのを確認して、更に数歩。
彼女の目の前まで、移動する。
杏ちゃんと同じ目線の高さになるように、私は膝をつく。
お椀にしたままの両手を差し出して、彼女が手に取れるようにする。
……彼女は、ゆっくりと、手を伸ばして。
二つの飴玉を、取った。
たどたどしい手付きで包装を剥がし、一つ、口に入れる。
そのまま目を閉じて、深呼吸。
再びゆっくりと目を開いた彼女は、少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。
「仕事、って、なに?」
発音も、今までよりはっきりとしている。
心の裏側で安堵の溜息を漏らしながら、私は答えた。
「私達の体質について、杏ちゃんが分かっていること。
……教えてくれませんか?」
杏ちゃんは恐らく、私やほたるちゃんの体質について、その多くを解明している。
彼女の言うとおりにして、芳乃ちゃんを助けることができたのがその証拠だ。
そして、ほたるちゃんを助けるためには、その情報は無くてはならない重要なもの。
それを聞き出すのが最善だ、と、私達は判断した。
「……分かった。」
杏ちゃんは頷いて、姿勢を正す。
よかった。
話して、くれるみたいだ。
これで、ほたるちゃんを助けるのが、ぐっと現実味を増す。
どうすればいいのかすら分からず、ただ走り回るしかなかった現状から、脱することができる。
「ああ、でも、ひとつだけ。」
私も話を聞く体勢を取ると、彼女は指を一本、ピッと立てて。
感情のこもらない、淡々とした声で、言った。
「ほたるを助けるのは、不可能だよ。」