綺麗とも汚いとも言えない空の下。
都会とも田舎とも言えない夜の街。
高いとも低いとも言えない何処かのビルの屋上で。
「ほたるちゃん。 」
私を呼ぶ彼女の姿は、天使のように美しかった。
「……一日だけ。」
足元に散らばったガラクタをぼんやりと眺めながら、私は言葉を紡ぐ。
首吊りは縄が切れた。
刃物は一瞬で錆びついた。
水はどこからか漏れ出した。
火は風が消していった。
「待ってみたんです。私。」
でも、あなたは来てくれた。
「でも、やっぱり駄目でした。
幸せになんてなれませんでした。
誰かを幸せになんて、できませんでした。」
だから。やっぱり私は不幸で。
やっぱりあなたは、幸福だ。
「だから。あの日の続きをしましょう。」
私が幸せになれる方法。
皆を幸せにできる方法。
もう謝らなくていい方法。
あの日辿り着いた結論を。
「……ほたるちゃん。」
私の足元を見て、彼女は再び私の名を呟く。
私がここで何をしていたかを察したのだろう。
いつも笑みを絶やさず浮かべていたはずのその顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
「……ごめんなさい。」
あなたは優しいから。
こんな私を助けようとしてくれたくらい、優しいから。
私は心からの、最期の謝罪を口にする。
きっとこれは、あなたが望む私ではないから。
あんなにも力になってくれたのに、こんなものを見せてしまうから。
でも。
どうか、どうか許してください。
あなたにそんな顔をさせてしまうのは。
あなたを不幸にしてしまうのは。
あなたが幸せにできない人間は。
これで、最後だから。
私が死ねないのは、私が不幸だから。
しかし、今なら。
一時的にでも私の不幸を抑え込み、こうして私を見つけてくれた。
そんな幸福が目の前に居る、今なら。
私は、死ぬことができるはず。
ガラクタの中から、まだ使っていない包丁を手に取る。
くるりと逆手に持ち替え、右手を添えて。
しっかりとお腹に照準を合わせる。
茄子さんの方を、ちらりと見る。
大丈夫。まだ遠い。
彼女が私に辿り着く前に、私は私を刺し殺す。
両腕を目一杯伸ばし、すぐさま引き戻す。
身体がくの字に曲がる。
刃の先端が服に触れる。
同時に、チクリとした感触。
後は、このまま異物を埋め込んでいくだけ。
ちょっと苦しいだろうけど、でも、それだけだ。
それには終わりが確かにある。
なら、過ぎるのを待つだけ。
ほんの少しの抵抗を残して、布に亀裂が生じる。
私の表皮に金属が突き刺さる。
それは勢いを緩めず、もっと奥深くまで──
──からん、からん。
「…………え、」
何が起こったか、すぐには分からなかった。
お腹にあるのは、握り込まれた私の手の感触。
両手にあるのは、私の互いの手の感触。
音のした方に顔を向けると、数瞬前までしっかりと握っていたはずの包丁が力無く横たわっていた。
弾かれた。
どうして。
茄子さんが居る今、私の不幸は起こらないはず。
それとも、それでも、駄目だった?
彼女の幸福ですら抑えきれないほど、私は不幸になってしまった?
「……本気、なんですね。」
目の前の異常現象に少しも驚かず、彼女が声を震わせる。
泣き出しそうな顔のまま、それでも涙は堪え続けて。
「ほんとの、ほんとに、あなたは。」
その表情を見て。
ああ。やっぱり、あなたは優しくて。
私の不幸なんて及ばないくらい幸福で。
この不可解な現象も、彼女が起こしたものだということが、はっきりと伝わって。
「死んじゃうつもり、なんですね。」
だからこそ、私は、死ぬべきだ。
「…………はい。」
彼女ならば、たくさんの人を幸せにできる。
たくさんの人を、笑顔にできる。
私が足を引っ張らなければ。
私さえ、居なければ。
そして、彼女は私を、幸せにはできないから。
不幸は幸福にはなれないから。
私は彼女を、不幸にしてしまうから。
私はみんなを、不幸にしてしまうから。
だから。
私さえ居なくなれば、全てが丸く収まるのだから。
どうする。
彼女が側に居れば、私の不幸は発生しない。
しかし、彼女は私が死ぬことを許さない。
彼女の近くでなければ私は死ねず、彼女の近くでは私は死ねない。
つまり、私が死ぬには、彼女が私を諦める以外に方法が無い。
「だって、そうじゃないですか。」
説得する?
私が引き起こした数々の不幸を間近で見て。
それでも私を諦めようとしない、彼女を?
「私が居ればみんな不幸になります。
あなたが居ても、不幸になります。
なら、こうすれば、みんな幸せになるでしょう?」
……無理だ。
正論をぶつけて折れる相手なら、もうとっくに折れている。
なら、どうすればいい。
理屈で駄目なら、何を使えばいい。
「……どうして、邪魔をするんですか?」
感情だ。
彼女が私を助けようとする感情を、無くせばいい。
助ける気が失せるほどに、嫌われればいい。
飽きるほど繰り返した演技のレッスンを思い出す。
不機嫌な表情と声を作り上げる。
自分でも驚くくらい、冷たい色の音が出た。
「……ごめんなさい。」
彼女は目を伏せ、謝罪を口にする。
謝るのは私の方だ。
でも、これで、
「……でも。それでも。」
しかし。彼女が続けた言葉は、私の予想とは真逆のもので。
再び見開かれ、こちらを真っ直ぐに見つめる両の目には。
……そんな。それならもう、手の打ちようがない。
「嫌われようと。疎まれようと。あなたにどう思われようと。
何度失敗しようと。例え不幸になってでも。」
彼女は。
一度明らかに失敗したことも。
私がそれを望んでいないことも。
それが合理的からかけ離れていることも。
それに失敗したらどうなるかということも。
それら全てを受け入れて。背負い込んで。
それでも。
「生きていてほしいから。」
それでも。
「……本気、ですか?」
心からの驚愕が口から漏れ出す。
しかし、彼女の目に、否応にも確信を持たされる。
彼女は、本気だ。
どうにか心変わりさせようとする気すら、失せるほどに。
「……皆を、幸せにできること。
きっと、他にもあると思うんです。」
それは、あの日と同じ言葉。
最期にしようとして、もう一度だけ頑張ると決めた、あの日の言葉。
「……それは、何度も試しました。
試して試して、でも、駄目だったんですよ?」
でも、駄目だったじゃないか。
あれだけ恵まれた環境で。
これ以上は無いと思わせてくれたあの日々で。
「もう一日だけ、待ってはくれませんか?」
それでも届かなかったじゃないか。
私が幸せにはなれないということは、実証されたじゃないか。
「これで最後です。もう一回は、これで最後。」
彼女が何をしようとしているのかは分からない。
でも、そんな悠長なことをしている場合じゃないんだ。
彼女が諦めるまでそれに付き合うなんてやってられないんだ。
「……そう、ですか。」
私は人を傷付けた。
彼女が居たのに、傷付けた。
今はまた収まっているけれど、いつそれが逆転するか分からない。
一刻も早く死ななきゃいけないのに。
「やっぱり、私を不幸にするんですね。」
考えろ。
どうすればいい。
どうすれば、彼女に握られた私の生殺与奪を手に入れられる。
「あなたも、私を不幸にするんですね。」
考えろ。
何があろうと手放さないと決めた彼女が、しかし手放さざるを得ない状況を。
「じゃあ、しょうがないですよね。」
考えろ。
彼女の望みは何だ。
「あなたが私を殺してくれないのなら。
幸せにしてくれないのなら。」
彼女が最も為すべきと考えるものは、何だ。
「私があなたを殺します。」