肩を揺すぶられる感触に紅輝は目を覚ました。瞼を開けば真っ先に、見慣れない椅子の背もたれが目に入ってきて、一瞬今いる場所が分からなくなる。が、聞こえてきたエンジン音と、微かに漂うオイルの臭いとに触発され、記憶が蘇る。
紅輝は臨海学校へ行くための大型の
そこまで記憶が繋がった紅輝は、寝起きのために緩慢な動作で姿勢を正し、目元をこすりながら肩を揺すった人物へ視線を向ける。
通路側に座っているシャルロットが、うれしそうに顔をほころばせた。
「あ、起きられました? そろそろ着くそうですよ、紅輝さん」
シャルロットが指で指し示す方を見れば、フロントガラス越しに、鱗のように銀光を反射させて輝く海面が見えてきた。不思議なことに、燦めく水面を目にしたら、車内に漣の音や潮の香りが満ちてきた気がする。
「ああ、そうみたいだな。悪いな、起こさせて」
「気にしないでください。好きでやっていることですから」
――好きで、か。そんなものではなかろうに。
浮かび上がってきた苦笑を、勝手に育った仮面が自然と覆い隠す。
その間にもシャルロットから粘ついた熱を孕む視線が送られる。それを窓を見ることでやり過ごす。
「海、ねぇ。何十年ぶりさね」
呟きは誰にも聞き咎められず、走行音にかき消えた。
紅輝は再びやってきた気持ち悪さに辟易しながら、海を眺める。海は何も変わらずそこにあるようで、全く同じ顔を見せてはくれない。それが羨ましくて、羨望を送ってしまうことを、自覚する。
ため息一つ。それで気持ちを切り替える。
そうしてバスは目的地へ到着した。
バスから降りた後、生徒たちは教師の案内でまずは旅館へ向かった。冷房の利いた車内から炎天下の車外に出た生徒たちは、暑さからか気怠そうにしている。
「では、これにて解散とする。IS学園の生徒であるということを忘れず、あまり羽目を外しすぎないように」
そんな暑さに加え、地面からの放射熱もある旅館前での点呼は地獄だったらしく、多くの生徒が我先にと冷房の利いているであろう旅館へ駆け込んだ。その後は部屋に荷物を置いた者から自由時間となっているのも理由だろうが。
サバンナの動物の群れの大移動のように、多くの生徒たちがいなくなった後、紅輝はようやく動き出した。走っていった生徒たちと比べ、二回りは小さい荷物を担ぎ。
そこで一夏に声をかけられた。
「あの、紅輝さん。今気づいたんですけど、俺たちの部屋がしおりに書かれていないんですが……」
一夏はうっすらと汗をかきながら、青いショルダーバッグを肩に担ぎ、困った顔で頬を掻いている。そして開いたしおりの部屋割りのページを紅輝に見せてくる。
のんきに「どこなんでしょうね」と呟いている一夏に、紅輝はある部屋を指で示した。その部屋は、他の生徒の部屋と少し距離が離れている。
「え? ここって……」
「そうだ。教員室だ」
そもそもしおりに書いてなかった時点で質問をしなかったのかと訊ねれば、まさか部屋割りが記述されていないとは思わなかったと答えられ、紅輝は額に指を当てた。
「まあ、いい。いろいろ面倒な理由で、俺たちは先生、というよりお前の姉さんの部屋で寝泊まりすることになったそうだ。安心しろ。俺は風呂場でも、それこそラウンジででも眠っているサ。お前さんは姉弟で旅行を楽しんだと思えばいい」
「いや、そういうわけには……」
ぶつくさ呟いている一夏だが、その口調は普段より幾分か弱い。
おおかた、潔癖な部分のある姉だからそういう心配はないが、それでも家族でもない男と一つ屋根の下一緒に寝るというのは、さすがに受け入れがたく、だけれども追い出すというのもどうかと悩んでいるのだろう。
とはいえ、そんな事情は紅輝の知ったことではない。それこそ先程伝えたとおり、他の場所で眠ればいいのだ。そして何より、さしもの紅輝も、真夏の陽光を浴び続ける趣味はない。なので、困っている一夏をおいて、さっさと旅館へ足を向ける。
「あっ、待ってくださいよ、俺もいきますから」
女将に案内されたのは、旅館の奥まった部屋だ。和風の部屋で、い草の香りが微かに漂っている。部屋の隅に荷物を置く。
「皆も待っているでしょうし、着替えましょうか」
「……ああ、そうだな」
ブレザーとシャツを脱ぎ捨てる。汗でシャツが貼り付いて気持ち悪かったので、脱ぎ捨てたときは一息ついた心地だった。そんな折り、紅輝の耳が後ろから喉を鳴らす音を聞き取った。
「一夏? 腹でも減っているのか? いや、喉が渇いているのか。そこいらにお茶と茶菓子の一つでもあるだろう。一息ついておけ」
「え、、そ、そうですね。ちょっと喉が渇いているし、小腹が空いているかなぁ。でも夕食が楽しみなんで、茶菓子は我慢します」
「そうか。なら遊びつくしてもっと腹を空かした方がいい。若いうちは食えるだけ食っとけ」
喋りながらも紅いサーフパンツに、真っ白なジャケットを羽織り、着替えをおえた。
「じゃあ、先に行っているぞ」
一声かけて、紅輝は海へ向かった。後ろで一夏が、髪をかきむしっていたが、その理由は分からなかった。
紅輝が向かったのは、他の生徒たちがいる砂浜ではなかった。そこから少し離れた場所にある岩場だ。
あたりに人気はなく、波の音だけが周期的にとよむ。その音に耳を傾けながら、張り出した岩場に座り、海へ足を浸す。細波が足をぶらぶらとひっぱたりおしたりして遊んでいる。それに合わせて、白く泡立った波しぶきが、岩を濡らす。
そっと岩の表面をなでる。ざらざらして、穴ぼこだらけだ。幾度も押し寄せてくる波に削れられたそれは、朽ち果てる一歩手前といったところ。あとどれだけの年月かもすれば、きっと跡形もなく消えてなくなる。
――自然すらも変わっていく。
悠久の時の前には、全てが無力。どれほど強固なものだろうと、雄大なものだろうと、変わることから免れない。巌もいつかは風化する。だというのに、この柔な身体は変わらない。変われない。
転がっていた石ころを引っ掴む。手の中で弄び、海へ放り投げた。ボチャンと水が小さくはぜた。
投げた石がまた地上に出る頃には、何かが変わるのだろうか。
自問自答は答えが出ず。全くの無駄な時間に苦笑がこぼれる。
「まあ、いいさ。時間だけは腐るほどある。無限にな」
海面に映る、ぼやく紅輝の紅い瞳は、どこか暗く澱んでいた。
「それはどうでしょう。同じように見える時間。ですが、それは同じように見えるだけ。楽しい一時と辛い一時では全く別に感じられるもの。ならば、無限にある同じような時間でも、過ごし方によって全く別物になるでしょう。だとしたら、やはり時間というものは、その一瞬一瞬が特別なのでなくて?」
「誰だ」
紅輝の背中から紅い炎が広がる。それは広がっていき、翼の形状をとった。翼が広がるにつれ、紅輝の瞳が変わる。厭世的な雰囲気が混じっていたそれは、徐々に好戦的な荒々しい気配へと変化していく。
振り返った紅輝は、その手に炎を纏い、臨戦態勢をとる。
あたりへ目をやる。誰もいない。視覚だけではなく、聴覚、触覚、嗅覚までもを駆使して、声の主をさぐる。
「そこだ」
僅かな違和感。風がある空間を避けている。その感覚に従い、紅輝は纏った炎を投じる。防風林へと突き進んでいた炎は、とつぜん空中に表れた穴に吸い込まれ消えた。
その穴は、ジッパーのように広がっている。穴の中は紫色に波打ち、眼球がこちらを興味深そうに覗いている。紅輝が分かるのは、それが誰かによって生み出された、特殊な空間であるということだけ。
「あらあら、乱暴なこと」
「不審者には十分な対応だろう?」
その穴から這い出てきたのは、絶世の美少女と呼ぶに相応しい少女だった。
しかしその気配は大凡人には思えない。隠していても隠しきれないほどのおどろおどろしい気配。それを内包している存在は、紅輝が知る限り、たった一つだ。
「妖怪が何の用だ」
妖怪。人の心が生み出した恐怖の具現。かつては至る所に存在した、忘れられた存在。紅輝にとっても久しく、そして身近な存在。
だが、その妖怪がなぜここにいるのか。妖怪はもう殆どいないというのに。紅輝には分からない。
しかし一つ言えるのは、紅輝の前に出たということは、彼に何らかの目的があるということ。
「お話がありまして。ですが、どうやら時間がないようです。此度はここでお開きとしましょう」
炎が再び空をはしる。しかし先程と同じように、空中に出現した穴へと飲まれる。
「それではまた。蓬莱の
妖怪は服の裾をつまみ、優雅に一礼し、穴の中に消えていった。
舌打ちを一つ。そして炎を消し、紅輝は虚空を睨む。すでに穴は存在しない。
睨み続ける最中、背後から人の気配が近づいてくるのを感じ取った。振り返れば、一夏たちがこちらに駆け寄ってきている。紅輝に気がついたらしく、手を振っている。ため息を吐き、紅輝はそちらへ歩いて行った。
自由時間が終了し、幾ばく。すでに夕飯の時間だ。
IS学園の生徒たちは食堂に並んでいる。生徒たちの目前に配膳されたお膳には、海の幸をふんだんに使った食事が盛り付けられている。
「舟に盛り付けたお刺身?」
生徒の中には海外からやって来た者たちがいる。そういった生徒は、刺身は知っていても舟盛りとなると、さすがに知らないのか、興味津々にしている。ラウラに至っては、箸で舟をつついている。
まるで子供のようだ。とはいえ、その体格・容姿からか、何ら違和感がないが。
「ラウラ、はしたないぞ」
「む、そうなのか?」
一夏に注意され、ラウラが箸でつっつくのをやめる。しかしやはり舟が気になるのか、「これは貰えるのか」と一夏に訊ねている。
聞かれた一夏が首を振るそのとなりで、セシリアが恐る恐る刺身を口に運ぶ。
「うう、生魚を食べるのは、どうにも慣れませんわ。ヴィネガーで和えたのならまだしも……」
「あー、確かに。締めた方が外国人には食べやすいかもな」
和気藹々と食事が進められる。誰もが食事に舌鼓を打つ中、シャルロットはとある物体を前に困惑していた。それは舟盛りの隅にある、緑色の粉末を山にしたものだ。一見すると抹茶のように見える。しかしシャルロットの知っている乏しい和食の知識でも、魚に抹茶をそえるのは異常だと言うことくらい分かる。一夏に訊ねようにも、一夏はラウラやセシリアの相手で手一杯だ。話しかけるのは躊躇われる。
「それはわさびだ。刺身に少量載せて食す」
横から教えてくれたのは、紅輝だ。先程まで我関せずとばかりにもくもくと食事を進めていたのだが。
教えられたとおりに、刺身にわさびを少量載せてみる。口に含めば、鼻がつんとする。ホースラディッシュに似ているが、それよりも強烈な刺激だ。その刺激が収まると、刺身の香りが溢れ出す。人の味覚は不思議なもので、香りが分かると味が深まる。白身の淡泊ながらも力強い味、マグロの濃厚な味、それらが下で躍る。
ついついシャルロットの箸が速くなる。
「それにしても、紅輝さん」
それまで和食になれていない面々の世話を見ていた一夏だが、ある程度のレクチャーを終えたのか、余裕ができたようだ。刺身をつまみながら、紅輝の方を見てなにやら首を振っている。
「食べ方凄い綺麗ですね」
シャルロットが見れば、紅輝の食べ方はどこか気品が満ちている。セシリアが食事している時のような雰囲気だ。一夏の指摘に、近くにいた生徒たちの視線が紅輝の食べる姿に集中する。周りの視線に気がついたのか、紅輝はぼそりと呟いた。
「昔取った杵柄だ」
それ以降何も語らなかった。
しかし、その昔に浸っている顔は、どこか幸せそうで……。