あの年もこんな暑い夏だった。
二〇一五年八月。
横須賀港に面したヴェルニー公園は蝉時雨に包まれていた。
雲一つない空からは射殺すような鋭い太陽の光が地上に降り注ぎ、公園は散歩に興じる人影すらない。時折人の姿があるとすれば、太陽を避けるように木々や建物の作った陰に隠れている。
そんな中にただひとり、長い黒髪を腰まで垂らした長身の女性が公園の片隅に設けられた石碑の前に直立不動で立ち尽くしていた。白いTシャツとデニムのズボンに身を包んだその女性は、額に玉のような汗を浮かべたまま囚われたかのように石碑へと目を向けていた。
『軍艦長門碑』
昭和の終盤に建立された戦艦長門の記念碑だ。
碑には長門の艦影がブロンズの半立体で組み込まれ、往時の威容を偲ばせていた。
女性はしばらく碑を眺め続けたのちに、眉に皺をよせるようにしながら両目を伏せ、吐き出すようにつぶやく。
「私にはもったいないほどだな」
彼女は戦艦長門の艦娘だった。
かつて実艦であった時と同様に横須賀を母港として、深海棲艦との戦いの日々に身を置いている彼女は、自分の記念碑が建立されていることは聞き及んでいたが、これまではあえて碑の前に立つことを避けていた。
「長門さん」
ふと、背後から声がかかった。振り返ると中学生くらいの年齢のワンピース姿の少女が伏し目がちにこちらを伺っていた。
長門は彼女が綾波型駆逐艦潮の艦娘だと知っている。
「潮か」
「あの、提督が…お昼の黙とうに合わせて鎮守府に戻って欲しいって…」
おどおどとした口調で話す潮に長門は笑みを返す。凛とした雰囲気を漂わせる彼女の笑みは優しげだった。潮も少し胸をなで下ろしたように表情が柔らかくなる。
「よくここが分かったな。他の駆逐艦も私を探しているのか?」
「いえ、提督がたぶんここだろうからって私に…」
「……なるほど」
ここに潮を寄越した提督の考えを長門は理解した。
「ありがとう。でも、私はここで正午を迎えたいのだ。海を、あの時と同じように海を眺めながら…な」
長門の言葉に潮は少し躊躇いをみせたが、顔を上げて長門を見据えた。
「あの…私もご一緒してもいいでしょうか?」
「ああ。もちろんだ」
長門が潮に手を差し出すと、潮がおずおずとその手を取った。長門は潮の手を引きながら海際のウッドデッキへと進む。
ウッドデッキからは湾を挟んで在日米海軍の艦船と海上自衛隊の潜水艦が停泊しているが見えた。ドックに入渠している艦艇もある。深海棲艦との戦いでは自衛隊も米海軍も傷つきながら戦っている。
それは時を経てあのころとだいぶ変わってはいるものの、軍港としての意思を今に受け継いできた風景だった。
「鎮守府に着任している艦娘で、あのとき横須賀の海を見ていたのは私とお前だけなのだな」
長門と潮は横須賀港にて係留状態であの戦いの終わりを迎えている。
「そうですね…私はあのとき、悲しいような、悔しいような、安心したような…そんな気持ちがぐるぐるしてました」
「私も同じようなものだったな…だが私はあの時、海軍の栄光を背負っていたつもりだったからな。その海軍が国民を守ることが出来なかったことが何よりも悔しかった」
己を顕彰した石碑があることを知りつつ、碑の前に立つことに躊躇していたのもそんな思いからだった。
「……戦艦も大変なんですね」
「ああ、でも駆逐艦だって楽ではないだろ? お互い様さ」
長門と潮は顔を見合わせて笑いあう。
「だから今度は、今度こそは守り抜きたい。守らねばならないんだ」
「私も、戦うのは得意じゃないですけど。艦娘ですから…頑張りたいです」
「ああ。共に行こう」
その言葉が終わると同時に、周囲にサイレンの音が響き渡る。
長門と潮は目を伏せると海に向かって頭を垂れる。
静寂の中、蝉時雨がふたりの艦娘を包み込んだ。
あの年もこんな暑い夏だった。
70年の時を経て、かつての艦艇の魂を受け継いだ少女たちは、静かな海を取り戻すために戦っている。