物心ついた頃から、それは私の視界にいた。
妖怪、幽霊、それと良く分からない生物らしきものまで。挙げればキリがないのだが、一般人からすれば絶対に見えないであろうそれらの存在。それが見える私という人間は、確かに異物であったかもしれない。
だから、そんな私が両親に気味悪がられるのも必然。世間体から捨てられることなく、学校などに通わせてもらっていたことはせめてもの情けなのだろうか。そんな学校ですら私の居場所など存在しなかった。
幼少期から見えていた異形の存在。それが私には恐ろしかったのだ。
その恐れを隠すことが、幼い私には出来なかった。
だから周囲には気味の悪い子と見なされ、虐めなんてものも日常茶飯事。
私が生きていた日常に、私という存在を容認してくれる場所なんて一つもない。全てが私を恐れ、淘汰すべき対象であるかのように猛威を振るう。逃げたくても逃げられない檻の中。私の日常はさながら牢獄のようであった。
何も言わず無言無表情。誰の神経も逆なでしないようにすれば、降りかかる火の粉は極力減らせる。それが数年生きた末に身に着けた生きていくための術。
そんな中で、心の奥底では小さく――だが確かに祈っていた。
誰か、この牢獄から私を助けてくれ。
もう嫌だ。こんな地獄はたくさんだ。私はもう、痛いのも怖いのも御免だと、心の底で血を吐きながら叫んでいた。
しゃがみ込み、前など見えず停まったままの私に、差し伸べられた手があったのなら。それを迷わず掴んでいただろう。例えそれが、どのような存在の手であっても。
例えそれが、私が恐れる妖の類であっても。
私の祈りは聞き届けられることになる。
幻想の世界への誘いとして、誰よりも親愛するあの人から。
齢にして十歳。
◇ ◇ ◇ ◇
その日は、朝から雪が降っていた。
いくら冬とはいえ、東北以外でこれほど雪が降るのは珍しい。どこぞで雪女でも出たのだろうかと思案しながら、首に巻いたマフラーを口を隠すように押し上げる。
商店街を探るように視線を彷徨わせれば、数体の異形の姿が見られた。見たことがあるような者や、初めて目にする者。ただ視界に映る範囲で害になりそうな存在はいないので、私も別段驚くことはない。
今では、自分に害をなす存在を見定められるようになっていた。そういう存在は、独特の雰囲気を纏っているからすぐ分かる。だからヒスキーになることもないし、周りから避けられるということもない。でも、一つ欲を言うのなら……
「もっと早くに気付いてたら、こんなことにはなってないのにな」
所詮は無い物ねだりである。いや、この場合は有るものが邪魔なのか。
クリスマスカラーに統一された店の数々を流し見しながら、小さく呟く。世で言うクリスマスイブの当日を迎えた商店街はやはり活気があった。通り過ぎる人々も、どこか興奮しているようにも見える。その姿が、まるで別の世界の出来事のように映ってしまう。
「――早く買って帰ろう」
それを直視することに耐えられず、急ぎ足で目的地へと向かう。
今回頼まれたのは御使い。クリスマスケーキを買ってこいと母から頼まれたのだ。それを断るという選択肢などあるはずもなく、私に許されたのは頷くことだけだった。
そうして選んだ買い物先が、誰も私を知らないであろう商店街。一つ町を跨いだここならば、私が変人であると知っている人間もいない。近所では買い物すら満足に出来ない有様なのだから、遠出はやむを得ない選択だった。
「すいません。チョコのホール一つください」
目を付けたのは、ケーキの箱を並べているワゴン。この寒さの中、後ろに見える店から出てまで商売とは恐れ入る。だがケーキ屋にとってこの時期は仕入れ時なのだろう。私の言葉を聞いた店員さんの表情が華やいだ。
「ありがとうございます! 二千五百円になります!!」
母から渡された紙幣と硬貨を渡す。金額は丁度なので、受け取るべきおつりもない。
これでお使いは終了。後は帰るだけなのだが、
「……」
先ほどから、誰かに見られているような気がする。
後ろの路地裏を見ても、あるのは小さな黒い塊が此方へ向ける眼差しのみ。あれは取るに足らない埃のような異形だ。そんな視線を気にするような私でもない。
長年の経験から、その眼差しの主がもっと大きな存在であると察している。だが姿が見えないとなれば、考えられることは一つ。
恐らく、隠れているのだろう。
知性を持つ異形。さらに力のある異形だ。
そんな存在を相手にした経験なんて数える程しか記憶にない。そしてその全てで、私は死にそうな目にあっている。だから、ここで選択すべき行動はただ逃げること。
だが、ケーキを受け取り、静かにその場を後にしようとした一瞬。
路地裏の奥に、金色に輝く瞳が見えた。
それは今まで見た異形のどれよりも、強く美しい輝き。
逃げることすら忘れて、私はその瞳に吸い寄せられるように路地裏へと歩を向けていた。
◇ ◇ ◇ ◇
まるで魅了の術にでも掛かってしまったかのように無心で歩き続け、気付けば町を一望できる灯台の下へと来ていた。
何時の間に時間が経っていたのか。太陽は橙色に染まり、今にも夜の世界が訪れるであろう時間帯。視界に映る景色には、夕方と夜の境界線が色鮮やかに引かれていた。
――いらっしゃい、
空から声が降ってくる。色々な響きを宿した音色は、雪と一緒に私の耳へとやって来る。
聞きなれない言葉に疑問を抱くも、私の関心はその声の主へと向けられていた。だから、誰もいないであろう宙へと声をかける。
「……貴女は、誰?」
宙に線が引かれる。
それは此方と彼方の境界。それがいま、彼女の力によって開かれる。
あれを表現する適切な言葉は、おそらくスキマ。
中に渦巻く力の奔流は、今まで肌で感じてきたどれよりも暴力的で荒々しい。そんなスキマから降りてきたのは、一人の女性だった。
「こんにちは、逢坂朱音さん」
これから日も沈むというのに日傘をさす彼女。輝く金糸の束を靡かせて、彼女は美しく微笑んだ。
だけど、私には分かる。常軌を逸した状況を作り出した彼女は、人の形をした別の何かだ。決して私と同じ存在ではなく、今まで見てきた異形と同種の存在。加えて、そのどれよりも大きな力を持っている。
「初めまして、でいいのかしらね。八雲紫よ。以後お見知りおきを」
微笑み小さく会釈する彼女。
なぜ自分の名前を知っているのか、
強大な力を持っているであろうその異形。それが知性を持っていると知って、ある欲望が沸き上がったのだ。
ほぼ無意識に、私はその願いを口にしていた。
「貴女は私を助けてくれますか?」
それは、今までずっと願っていた祈り。
どうかこの絶望から、私を救ってほしい。方法なんて問わないし、もしあれなら殺してくれたって構わない。それが痛みを伴わないものであるのなら、私はどのような刃であっても受け入れると。
そんな私の言葉に、彼女は僅かばかり表情を歪める。
「……早々にどうしたのかしら」
何と口にすれば良いのか分からない。
どのように表現すれば正解なのか思考しながら、ゆっくりと口を開いた。
「貴方なら、痛みを感じることなく私を殺せるんじゃないですか」
考えた結果、出た言葉はそんなものだった。
今まで何度も自殺しようとしてきた。だがいくら死にたいと望んでいても、痛みが伴えば考えなんて簡単に変わってしまう。屋上からの飛び降り自殺のようなベタなものや、刃物で喉を切り裂くといった簡単なものまで。色々と実行に移そうとするものの、それによって生まれるであろう痛みに尻込みしてしまうのだ。
死など怖くない。怖いのは痛み。それさえなければ、喜んでこの命を散らせて見せよう。
そんな私の言葉を聞き、女性は小さく呟く。
「まさか、ここまで壊れていたとわね」
普通の人間なら、死んだ後の未知に怯えるものだ。あるのかも分からない天国や地獄を思い浮かべ、その先まで行けば輪廻転生の事まで。その深い思考の末に抱くのは、底知れぬ不安と恐怖。それは人間として抱くべき、当然の感情だ。それを失くした私を壊れたと表現することは、とても的を得ていた。
歪めていた表情を正して、女性はただ残酷に言葉を発する。
「残念だけど、私では痛みもなく殺すことはできないわ。出来るけど、それは出来ないの。ごめんなさい」
返って来た答えは、望み通りのものではない。
矛盾するその返事を深く考えることも出来ず、私の脳内を占めるのは彼女の否定の言葉。ただ否定されたと、それだけが脳内に木霊する。
嘘だ。貴女ほどの存在でも出来ないのか。なら、私はどうしたらこの地獄から解放されるというのだ。一生、私はこのままだというのか。
縋りつくように、彼女に触れようとする。
か細く震える私の両腕を、彼女のしなやかな手が優しく受け止めた。日傘が音を立てて地面へと落ちる。
「私は、私はぁ……」
「大丈夫よ。殺すことは出来なくても、救うことなら出来るから」
そう言って、八雲と名乗った彼女は片手を離し一つ振った。
再び開くスキマから、吹き荒れる暴力が顔を叩く。それを見て、思うことなど一つだけ。彼女の言った救うとは、どういう意味なのか。
そんな私の疑問に答えるように、女性は私の顔を覗き込むように口を開く。
「ここを通れば楽園があるわ。貴女のような存在を受け入れてくれる、私の世界。殺すことは出来なくても、救うことなら出来る。それはそういう意味」
つまり、ここを通ればこの地獄から抜け出すことが出来るのか。
ここじゃない所ならば、私は人間らしく生きることが出来るというのか。
「――興味ないかしら?」
暴風のような圧力の向こう。そこに、小さな箱庭を幻視した。それはまるで暖かく、何物をも包み込むかのような安心感。知らず、そこへと手を伸ばす。
それは何と魅力的なことだろう。手放した人としての暮らしを取り戻せるのなら、私にとって確かにそこは楽園だった。
「――視えたのね。流石だわ。そして、それは肯定という意味で取ってもいいのかしら?」
気付けば、私の顔は彼女の両手で固定され、金の瞳が此方を見据えていた。まるで逃さないと言っているかのように、その瞳は力強く輝いている。
「私は……」
今に未練など欠片もない。こんな地獄に留まるくらいなら、死んだ方がマシだ。
だから、彼女の言葉に迷う必要などない。疑う必要もない。すべきなのは、この首を縦に振ることだけだ。
「――」
自分の意志で、私は頷いた。
「決まりね」
次の瞬間、視界が掻き消える。彼女の言葉がトリガーとなったのか、世界が暗転した。
体が全て残さずスキマの中へと入りこむ。体を打つ圧力が、まるで私を歓迎するかのように止んだ。
光のない黒の中、それでも輝く金の髪を靡かせ、彼女はただこう言った。
「ようこそ幻想郷へ。私の愛しい娘、紫苑。私たちは、貴女という存在を心から歓迎するわ」
終わりの見えない暗闇の中、見えた一条の光。それはスキマの終わりを意味し、同時に楽園への入り口を意味している。
あそこにたどり着けば、私は救われるのだろうか。そんな思いを抱きながら、迫る光に目を細める。そして、私は幻想の世界へと招かれたのだった。