冷たい風を切り裂くように、不可視の斬撃が飛ぶ。
それは幾多の軌跡として飛翔し、眼前に用意したデコイを細切れにしてしまった。パラパラと崩れ落ちるその様を見届け、札を構えた状態から脱力する紫苑。
娘の力を目の当たりにし、紫は満足そうに頷いた。
「すごいじゃない紫苑。二日でここまで呪術を使えるようになるなんて。威力も申し分ないみたいだし、これは藍が入れ込むのも分かる気がするわ」
藍に初めて教授を受けた日から二日。前日にも藍による講座は開かれており、札の扱いにおいてはある程度形になってきていた。ただ問題があるとすれば一つ。
紫は新しいデコイをスキマから取り出して、紫苑へと視線を向ける。
「もう一度、やってみましょうか」
「はい」
そう言って紫苑が懐から取り出したのは、表面に「斬」と書かれた札。藍が作成したこの札は、表に書かれた事象を霊力を込めることによって再現するといったものだ。霊力を込めるだけでいいというわけではなく、その霊力を込めるという作業が困難を極めるこの方法。それを二日で完全に物にしている紫苑は、紛れもない天才であった。
「――」
札を正面に掲げる紫苑。両眼を閉じ、意識を集中させる。そうすれば聞こえる彼らの声。それは囁くように、紫苑へと天啓を与えてくれる。あとはその声が示す通り、無意識に体を動かしてやればいい。
集中する娘を見る紫は、確かに空気中の霊力が彼女へ集まるのを感じた。
「……っ」
無言で力み、放たれるのは不可視の斬撃。その数、実に二十。
狙い違わず全てがデコイへと叩き込まれ、再現される現象は先とまったく同じ。音を立てて崩れ落ちるそれをスキマで回収し、紫は口を開いた。
「そうねぇ……確かに素晴らしいけれど、欲を言えば強すぎるわね。このデコイを斬るだけなら、今の半分くらいの霊力と威力で事足りるはずよ」
何も二十に及ぶ斬撃は必要ない。
紫苑は自分の力をまだ完全には制御できていないようで、一撃一撃がオーバーキル気味なのだ。確かにこれなら、並の下級妖怪程度なら一撃で沈められるだろう。もしかすると、中級妖怪までも一撃で仕留めてしまうかもしれない。凄い威力であるのだが、それは同時に使用する霊力も跳ね上がることを意味していた。
紫の言葉に、紫苑はゆっくりと疲労した体を向ける。
「一撃で戦いが終わるのなら、それでも構わないわ。でももし外したら、今の無防備で疲労した姿を相手に晒すことになる。いくら霊力が無尽蔵とはいっても、それは“使える分が”というだけのこと。貴女自身の体が蓄えられる量には限界があるわ」
異形に愛されし人の子。空気中の霊力すら扱ってみせるその存在は、確かに恵まれたものだ。だが所詮は脆い人の体。霊力を急に使い過ぎれば疲労するし、その間に攻撃を食らえば一撃で落ちるのは紫苑である。だからこそ、もっと紫苑は力の調整を覚える必要があった。
もっとも、二日でこれだけ出来れば十分。それを完璧に出来るようになれば、呪術の扱いという点においては完成に近い。
「だから後は要練習ね。数をこなして体で覚えるしかないでしょう。斬撃だけじゃなくて、他にも色々と札には種類があるんだし、そのうちに私や藍と組手なんてのも面白いかもしれないわね」
それを聞き、紫苑は表情をゆがませる。
「勘弁してくださいよ。お母さんと組手なんて、すぐに負けちゃう」
「年長者として母として、娘に負けるわけにはいかないもの。まだまだ現役なのよ、私」
大妖怪との組手を人間が行うという行為自体が既におかしい。ただそれだけ紫苑には才があるということであり、彼女はすでに十分な力を有していた。問題があるとすれば、まだ実践を経験していないということだろうか。実践を積み、体術までも身に付ければ、本格的に人外の仲間入りだ。
もっとも本人にその自覚はないのだが。
「さてと、今日のところはこの辺で終わりにしましょうか」
「もうですか? まだ夕方にもなってませんよ」
「今日は他に教えておかないといけないことがあるのよ。それが先決」
別に、呪術の扱いに関しては急ぐ必要はない。先述の通り、紫苑は既にある程度形になっている。だから後はゆっくりと、本人のペースで修練に励んでもらえれば問題はない。
だがこちらはまた別だ。呪術を覚えたら教えようと思っていた、ある札の存在。紫苑のために命を懸け、仕えてくれる存在が必要だった。
懐から一枚の札を取り出して、紫は一言。
「貴女の式神を探しましょう」
それは、近いうちに起こる小さな厄災の始まりだった。
◇ ◇ ◇ ◇
そもそも式神と呼ばれる存在をどのようにして生み出しているのか。その説明から始める必要があるだろう。
まず式神と呼ばれる存在の定義としては、主と何らかの契約を交わし仕える獣や妖精の類。契約を交わす過程において、主の力の一部を分け与えられる。その力を持って、主を守護するのが式神だ。つまり、式神の力は主の力に依存する。その身近な例が、八雲藍である。
「あの子は元々が九尾の妖狐。力に関しては絶大なものを持っていたわ。そこに私の力が合わさって、今のあの子はさらに上の強さを身に着けている」
縁側へと移動した紫苑と紫。空は青く澄み渡り、太陽は冬の中で唯一の癒しと化していた。頭上で囀る小鳥を見やりながら、紫は式神についての説明を続ける。
「式神を手に入れるには、そのための生きた動物が必要なの。彼らと契約することによって、式神は生まれる」
それは藍しかり、未だに紫苑は会っていないが、マヨイガにいる藍の式しかり。生きていれば特に縛りはないが、重要なのは媒体となる体と命が必要だということ。だから紫苑が式神を手に入れるには、まず式神にする動物を見つけることが最初の工程だった。
「別にその辺りを飛んでいる鴉とかでも出来るけど、そうすれば力は格段に落ちるわ。そもそも霊力や妖力を持っていない動物と契約しても、貴女の力にはならないでしょうね」
そこで重要になってくるのは、元の個体としての強さ。
望みうる限りで最高なのは、霊力や妖力といった力を有していて、さらには知性も持っている。それに戦闘技術を己の中で完成させている個体であるならば、尚好。
「つまり、知性を持っている妖怪を式神にすること。それ以外だと使い物にはならないわ」
「妖怪って、藍みたいなですか?」
「ええ。まあ藍レベルの妖怪を式神にできる機会なんて滅多にないのだけどね。私もあれは幸運な部類だったし」
何せ、藍は元の個体ですでに大妖怪レベル。知性はもちろん、呪術の扱いにおいても長けていた。それを式神にすれば、どれほどの戦力となるのか。考えるまでもないだろう。
「まあ八雲の式神となるのだから、それ相応の力は欲しいわね。貴女を守ってもらう意味も含めてだけど、最低限上級妖怪レベルの力は欲しいわ」
「でもそれって、相手の同意とかが必要なんじゃ……」
「いえ、式神契約は一方的なものでも構わないわ。契約だけならこの札一枚と、貴女の血と相手の血があれば問題無いもの」
そもそも正式な式神契約とは札を用いない。相手に自分の血を飲ますことで、その同意を得るのだ。この場合は確かに相手の同意も必要だろう。だが紫が取らせようとしている方法は、少し異なる。
「まず、この札に相手の血を数滴つける。そうして自分の血を上から付けて、後は口上を述べるだけ。そうすればこれが鎖の役目を果たして、相手の同意なしで契約を結ぶことができるわ。死んでいなければどんな傷でも治癒するよう術を掛けてるから、多少はやり過ぎても大丈夫よ」
さらりと飛び出す恐ろしい発言。
紫は簡単に言っているが、つまりは実力行使ということだ。相手を叩きのめして血を奪い、それを使って強引に契約を結ぶ。
「それには力が必要になってくるし、重要なのは契約を交わした後だけど。まあ契約するだけなら簡単に出来るし、その後は私たちで何とかするわ」
「でもそれは相手に申し訳ないっていうか……」
無理やり自分に縛り付けることを、紫苑は好ましく思えない。元々は心優しい少女だ。血を吐かせ、それでなお縛るという行為を良しとはしないだろう。それに、大前提として上級妖怪を倒せる力が必要となってくる。今の紫苑に、そこまでの実力はない。
「今はまだいいわ。まだ実力も伴っていないし、中級妖怪で妥協するわけにもいかないもの。ただ、私も最近は忙しいから。手の空いてる内に、式神の話はしておかないといけなかったの。藍には頼めないしね」
「式神本人ですもんね」
そう言われ、紫苑は安堵する。
ただ、紫は口にしなかったが、紫苑以外の誰かが倒した血では、式神契約はなされない。紫苑自身が倒し、得た血においてのみ、彼女の式神を生み出すことができるのだ。そこは過程を重視する傾向にある呪術の基礎。だから紫苑は自力で打倒する必要があった。
ただ、まだ先のことだ。
「今はゆっくりと、自分の力を磨きなさい。それまでにもしかしたら、何か出会いがあるかもしれないものね。貴女を守ってくれるナイトだもの、じっくり悩みなさい」
何時その時が来てもいいようにと、紫から「契約」と書かれた札を受け取る。ただこれを使うようなことはないだろうと、紫苑はそれを他の札とは違う場所に仕舞っておいた。
だが紫苑はまだ気づいていない。この札を使う日は、そう遠くないのだということを。その日は、すぐそこまで迫っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
深い深い山の中。
頭上には月が輝き、仄かな光が月明りとして木々を照らしていた。そんな山に立ち込める、濃厚な獣の雰囲気。その雰囲気は、人間にとって害でしかない。幻想郷の夜とはそういうものだ。
そんな中、
――バサッ
枝が撓る音を立てながら、木々の一つが大きく倒れた。それに伴って、先ほどとは比べ物にならない大音量が夜の山に響き渡る。
そうして浮かび上がるシルエット。月光によって美しく輝く蒼い髪の持ち主は、驚くべき速度で木々から木々へと飛び移る。人間にしか見えないその女性は妖怪だ。そもそもこのような時刻に、人間が山へ足を踏み入れることはありえない。夜は妖怪の支配する世界。ならばその世界を駆ける彼女も、また妖怪ということだ。
「――ッ」
そんな彼女を暴風が襲う。
全方位から女性を襲うそれを、彼女は間一髪のタイミングで全て躱してみせる。中には回避不可能と思わしき不意打ち気味の一撃もあった。驚くべき反射神経と反応速度だ。狙いを失った風が、無秩序に山を穿つ。また何本もの木々が倒れた。
女性は駆けながらも頭上を見る。そこには、月を背負うように飛翔する妖怪の姿があった。
黒い翼を持つ彼らは、幻想郷において強い力を誇示する種族。速度において絶対の自信を持つ彼らに追われ、女性はただ短く舌打ちして見せた。
「チッ、しつこい」
今まで数時間と追われ続けてきた女性の体は血だらけだった。身に纏う青い衣服はヨレヨレで、どれだけの間彼女が逃げ続けてきたかを雄弁に物語っている。
そうして再び、女性を襲う暴風。今度は全て躱すことは出来ず、数発被弾してしまう。それによって生じる痛みに顔をゆがませながら、それでもなお走りは止めない。止めたが最後、待っているのは無慈悲な死という現実だけだ。
幸いなことに、追っ手は知能を持つ妖怪。さらには臆病と来た。集団で追い回していながら、ここまで直接的な接触はない。全てが遠距離からの攻撃に限定されている。彼らの習性と考え方を良く知っているからこそ別段驚きはしないが、相も変らぬその在り方に嫌気が差す。
ただそれのおかげで未だに生きているのも事実。もし彼らが本気で殺しに来ていれば、今頃女性は息をしていないだろう。いくら女性が力を持つ妖怪でも、これだけの数を相手にすれば勝機はない。そんな女性に出来ることは、ただ逃げ回ることだけだった。
「……あと、もう少し」
山から出てしまえばどうとでもなる。
ここは言ってしまえば彼らの庭だ。地形を余すことなく熟知している彼らは、女性が山から逃げようとしていることをすでに理解しているだろう。それを全力で阻止しに来ている。
それはつまり、山から出てしまえば女性にも勝機はあるということ。
今まで隠れて暮らしてきた女性に、どこまで行けば山から出られるかは分からない。確かなのは、彼女に取れる選択肢がそれしかないということだ。下っているということだけは分かる。あとは、どこまで女性が彼らの攻撃に耐えることができるかということ。
「――まだ、死ねない」
抱く思いはそれだけだ。それだけを頼りに、女性は痛みを堪えてただ走る。
深い夜の中、蒼い髪を靡かせて。水虎の妖怪は、ただ生きるために山を駆け抜けた。