幻想郷の四季、その移り変わりには目を見張るものがある。
春から夏へ、夏から秋へ、春夏秋冬で周るそのサイクル。古い日本の面影を現在に渡って保ち続けている楽園は、その在り方まで依存していた。
だからこそ季節の変わり目において、幻想郷は激しいまでに変化していく。昔の日本をなぞるように、景色だけでなく人の暮らしまで合わせるように大きく変わるのだ。なぜなら、そうしなければ生きていくことが出来ないのだから。
そんな季節の変わり目。冬の終わりを間近に控えた幻想郷には、急に暖かくなる日があった。そうしてたまたま暖かくなったその日、八雲紫は朝食の席で一言発する。
「散歩に出かけましょうか」
それは唐突な話だった。
共にちゃぶ台を囲んでいた紫苑と藍は、その言葉に顔を上げる。
「急にどうしたのですか紫様」
その問いは、紫苑が抱く疑問と同じ物。
そんな従者と娘の視線を受け止め、紫は答える。
「だってほら、今日って暖かいじゃない。冬も終わりが近いし、最後に葉がついていない木々を見に行くのも良いと思って」
「いや、まあ分かりますけど」
来年になればまた見られるだろうとは言わない。今年の冬は今しかないのだ。だからこそ主の言葉は理解できたのだが、藍は渋るように口を開く。
「ですが急に言われても、こちらにも準備というものがあります。具体的な案を出してもらえないことには頷けませんよ。ねえ、紫苑様」
「いや、私は大丈夫だけど……」
「ほら、紫苑様もこう言っています」
「そうね。大丈夫と言っていたわね」
準備とは主に家事だ。家の仕事を全くしない紫には分からないだろうが、紫苑が呪術の修練を始めたことにより、藍が負担する仕事の量は増えていた。紫苑が現在受け持っている家事といえば食事の準備だけ。それでも食事の準備をしてくれるだけありがたいのだが、それでも藍の一日は多忙なものとなっているのだ。だからこそ頷けない。
そんな藍の言葉に、紫は一つ頷いた。
「まあ確かに、一理あるわね」
「一理しかありません」
「とにかく! 詳しい段取りというか日程みたいなものを考えればいいわけね。ちょっと待っててちょうだい」
そう言って、紫はスキマから一枚の紙とペンを取り出した。流れるような筆遣いで書かれる文字を二人は横目で見る。どうやらそれは、本日の段取りのようだった。
そうして紙と睨めっこすること三分ほど。顔を上げた紫は、手に持つ紙を見えやすいように掲げてみせた。
「これでどうかしら」
そこに記されていたのは細かく記された本日の予定。
どうやら午後から出かけることを予定しているらしく、そこから夕方までのんびりと湖の周りを歩いて回ると書かれてあった。具体的な場所としては、妖怪の山近くの森の中。
「なるほど。確かに午後からなら時間は大丈夫ですね。しかし、妖怪の山ですか」
「……妖怪の山?」
「ああ、紫苑様はご存知ありませんでしたね。妖怪の山とは読んで字の通り、妖怪が数多く住む山です」
妖怪の山。
この幻想郷において一二を争う妖怪の生息地。妖怪の質も高く、何より厄介な種族があの山にはいた。それを思い、藍は表情を歪める。
「ですが紫様、あの辺りには鴉天狗がよく顔を出します。私たちだけならともかく、紫苑様もとなると危険ではないですか?」
鴉天狗とは、幻想郷において最強と呼び声高い種族の一つだ。鴉天狗という妖怪は個人で十分な戦闘力を有しており、さらに妖怪としては珍しく群れを成して暮らしている。ただでさえ強力な妖怪が群れとなって攻撃してくるのだから、その戦闘力は尋常なものではない。
だからこそ藍の疑問ももっともだと、紫は頷いてみせる。
「まあ確かにね。安全とは言い難いけど、でも私と藍がいれば何とかなるでしょう。それに最近は紫苑も自衛出来るようになってきたし、大丈夫じゃないかしら」
だから問題ないと紫は言う。
確かに今の紫苑なら、上級妖怪相手でも即座に殺されることはないだろう。その間に紫たちが助けに入れば問題ないというのが紫の考えだ。それに、そうやって怯えていれば何時まで経っても紫苑は成長することが出来ない。多少の困難は歓迎すべきなのだ。
主の考えを理解し、藍は両目を軽く瞑る。
「……分かりました。しかし紫苑様はどうお考えなのですか? 低いとはいえ、今回の外出は危険性を孕んでいますが」
「私は大丈夫だよ。心配してくれてありがとう、藍」
「いえ、当然のことです。まあ貴女が頷くのは分かっていましたが、もう少し躊躇ってくださっても良いものを」
迷いのない紫苑の返事に、藍は溜息を吐く。
この子が母である紫の提案に対して、首を横に振っている場面を想像できない。生い立ち上仕方がないのかもしれないが、ゆくゆくは紫に対しても自分の主張を持てるような大人になってほしいと思う。
ただまあ、現段階ではまだまだ子供。親の言うことを素直に聞いてくれることに越したことは無いのだ。
「だそうですよ、紫様」
藍としては他に言うことはない。こちらの意見も纏まったと、紫に視線を向ける。
そんな従者の視線を受け、紫は満足げに微笑んだ。
「よし、それじゃあ決まりね。午後からは湖に行くわよ」
こうして無事に、午後の予定が決まったのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
八雲家からスキマを潜り、二分ほど。
飛ぶことが出来ない紫苑に合わせて、このような移動方法が採用された。歩いて行こうなどとほざく紫を、藍が何とか納得させ、紫苑もだいぶと慣れたスキマを潜り抜ければ、そこにあったのは巨大な湖だった。
「広いですね……」
その広大さたるや、紫苑が思わず息を漏らすほど。その湖は、日本では滅多にお目にかかれない規模のものだ。琵琶湖ほどではないが、それでも直径百メートルはあろうかという巨大湖である。そんな湖を取り囲むかのように乱立する木々を見れば、ここが森の中なのだろうと容易に想像できた。
「幻想郷の中では大きな部類に入る湖よ。それにほら、あれを見てごらんなさい」
紫が指さす先にあったのは、ここよりも盛り上がった山の姿。それを見て、先ほどの会話を思い出す。
「あれが妖怪の山ですか?」
「そうよ。幻想郷随一を誇る魔境ね。まだ紫苑が踏み入るには時期尚早だけど、近いうちにあそこの妖怪たちにも認めさせないといけないわ。貴女が私の跡を継ぐということをね」
「認めさせる?」
その言葉に、紫苑は疑問符を浮かべる。そんな紫苑に、紫は曖昧に微笑んで見せた。
「まあまだ先の話よ。深く考える必要はないわ」
そう言ってはぐらかされてしまう。ただそれでも、母ならば必要な時に教えてくれるはず。そう思い、紫苑も深く聞きはしない。
「さて、紫苑もここまで雄大な自然を見るのは初めてでしょう? 好きなように過ごしていいから、遊んでいらっしゃい」
そう言われ、紫苑は少し返答に困る。
紫が期待しているのは、無邪気に湖へ突貫することなのではないかと思えてならない。だが残念ながら紫苑はそこまで精神年齢が幼くないし、午後の過ごし方ならすでに決めている。なので、懐に入れていた小さな本を取り出して見せた。
「それじゃあ、ちょっと遊んできますね」
そう言って、湖近くの木の下へと歩いていく紫苑を見送る紫。
「たまには、あの子が年相応にはしゃいでいる姿が見てみたいわねぇ」
その大人びた口調と雰囲気から忘れてしまいそうになるが、まだ紫苑は十歳。まだまだ両親に甘え、遊びたい盛りの年齢だ。一般的な子供なら、湖を見れば飛び込まずにはいられないだろう年齢である。だがそこで勉強を選ぶ彼女がいかに成熟した子供であるか。紫苑を見ていれば、それが良く分かる。良く分かるからこそ、たまにはそういう無邪気な姿を見たいと思うのだ。
「それでも、それが紫苑様なのです、紫様」
「分かってるわよ。少し欲をかいただけ。あの子らしさを否定するつもりはないわ」
そんな主の側に、音もなく近づいてくるのは藍であった。嗜めるような声音に、みなまで言うなとくぎを刺す。
極力、紫苑のやりたいように自由にさせてやる。それが紫の教育方針だ。甘やかしすぎだという意見には耳を傾けない。何せ今まで自分を押し殺してきた子だ。ここでくらい、伸び伸びとさせてやってもいいだろう。そこに、母親の在り方を知らない紫の不器用さが隠れていることは秘密だ。
「そこに命の危険が含まれないなら、ね」
だが、大前提としてそれがある。もう以前のようなことはごめんだ。
そんな紫の言葉を聞き、先ほどから行っていた行動の結果を報告しようと藍は口を開く。
「そこで紫様、辺りを見て回った結果、近隣で何やら争いが起こっている様子を確認しました。それも双方、かなり力を持った妖怪のようです」
「そう。何かあれば紫苑の安全を優先しなさい。常に気を緩めないようにね」
「心得ました」
藍には到着と同時に、辺りの様子を探らせに行っていた。この辺りは妖怪の山の麓だ。いつ何時、山から流れてきた妖怪と遭遇するかも分からない。用心しておくに越したことは無いのだ。以前の事もある。経験のためとはいえ、紫苑が取り返しのつかないことになってからでは遅いのだ。
「まあ何かあればすぐに気が付くでしょうし、とりあえずは私たちもゆっくりしましょうか。あの子に倣ってね」
見れば、紫苑は木陰に入り先ほどの本を食い入るように読んでいた。木漏れ日がその美しい紫がかった黒髪を淡く照らしている。我が娘ながら美人だと、少し誇らしげな感情を抱く紫。そんな主を見やり、従者はただ一言。
「……親馬鹿」
「うっさいわね」
◇ ◇ ◇ ◇
燦々と降り注ぐ日の光。まだ冬なので、それは別段眩しいと言えるほどではない。木陰に遮られ、かかるのは僅かばかりの日光だけだ。それでも陽気としてはかなり春らしくなり、何時もの黒い和服の上から羽織を一つ纏えば、それだけで十分なほどに暖かくなっていた。
視界の端で何やら言い合っている家族を見やり、小さく微笑む。
「……何やってるんだろう」
今がたまらなく楽しい。
母の跡を継ぐ。そのために力と知識を身に着ける。そのために毎日努力する。目標があるというのは、人生に生きがいと遣り甲斐をもたらしてくれるようだ。前までなら考えられない心境の変化である。
そして、そんな紫苑を変えてくれたのは他でもない。
「お母さんたちのおかげだよね」
彼女たちから与えられる愛情。今まで知らず、そして飢えていたその愛を貰い、紫苑はここまで持ち直すことができた。死ぬことを良しとしていた以前とは違い、今はそんなことを思わない。ここでの暮らしは、紫苑に生きることの喜びを教えてくれたのだ。
「ふぅ……」
先ほどまで読んでいた本を脇へと置く。
飛行や呪術の練習に加え、紫苑は勉学についても習い始めていた。母の跡を継ぐと決意してからまだ一か月。母の仕事は未だに良く分からないが、それでも知識は必要だと以前言われた。だからこそこうして、ゆっくりと教養を身に着けているというわけだ。ただまあ、そんなに急がないでいいと言われた。ゆっくり、やりたいことをしながらでいいと。
だから紫苑も、自分のペースで歩いて行こうと決めたのだ。今までとは違い、自分で決めて生きていくために。
「……」
目を閉じれば聞こえる小さな声。それに耳を澄ませる。
囁くような声だ。それは小さくだがはっきりと、紫苑に語り掛けてきていた。それは、こうした自然が豊かな場所でより確かに聞き取ることが出来る。今もほら、はっきりと。
「……泣いてる?」
異形に愛されし人の子は、意志を持たないはずの霊力にすら愛される。まるで感情を持っているかのように話しかけてくるそれを、紫苑は感じ取った。
それと同時に、紫苑はそれの接近を知覚する。
「――お母さん!」
叫ぶと同時、木々が吹き飛んだ。
場所は紫苑がもたれ掛かっている木からちょうど反対側。数十本の木々をなぎ倒しながら、それは宙へ踊る。
「あれは……」
空中に投げ出されるように身を晒すのは、水色の髪をした一人の女性。そんな彼女を追うように、猛烈な速度で飛翔する影があった。肉眼で視認するのがやっとのそれは、黒い翼を生やした一人の少女。
華奢な体に似合わぬ蹴りが空気を揺らし、次いで水色の女性を強打する。そして上がるのは、五メートルを超える水柱。その高さは、蹴りの威力を物語っていた。
「紫苑、大丈夫?」
「……お母さん」
気付けば、傍には紫と藍の姿があった。紫苑が怪我をしていないことを確認し、次いで紫は視線を宙に浮かぶ少女へと向ける。
底が下駄のように高い靴。頭にかぶるのは赤い山伏風の帽子。そして背に背負うのは、一メートルほどの黒い翼。それはどこか鴉のようにも見え、そしてそれは紛うことなき妖怪の姿。
「――鴉天狗」
隣で小さく呟く藍の声が耳に入る。
「あれが、鴉天狗」
幻想郷で最強と謳われる種族。あれが、その鴉天狗だというのか。
そんな存在が突然に現れたことで、僅かばかり身を竦ませる紫苑をわき目に、紫はただ無言で木陰から身を出す。そしてそのまま湖の前まで行くと、ゆっくりと浮上した。
「突然に無粋じゃないかしら、鴉天狗。家族の団欒を、何の許可があって邪魔したのか。その辺りをお聞かせ願えないかしらね」
鴉天狗を見下ろすほどに浮上し、威圧を込めた声音で紫は言葉を紡ぐ。それは命令に等しい絶対の力を秘めており、身に纏うそれは大妖怪のものだ。それを直に浴び、鴉天狗は一瞬だが体を固まらせる。
「……八雲紫、なぜ」
「疑問に疑問で返すのは感心しないわね。私は質問しているのよ。何の用があって、ここに姿を現した。早々に消え去るのなら深くは聞かない。それでもまだ暴れるというのなら、それ相応の対応をさせていただくわ」
気が立っているのよ、と笑顔と共に語る紫。その視線を、浮かぶ鴉天狗の後ろ――森の中へと向けながら言葉を続ける。
「そこに隠れている仲間も当然一緒。私の逆鱗に触れたくなければ、早々に立ち去りなさい。貴方たちのような逃げ腰の種族は、私と事を構えることを良しとしないはずよ」
少しばかりの迷いを見せ、視線を湖へと向ける。そして何やら溜息を吐き、鴉天狗は振り向きざま一言。
「みな、この場は引くぞ。撤退だ」
その一言で、紫は彼女が指揮官だったのだろうと辺りを付ける。その証拠に、彼女に従うように次々と鴉天狗たちが山の方へと飛び去って行った。他に気配がないことを確認し、纏っていた威圧感を霧散させる。
「あっさり引いたわね。つまり……」
先の鴉天狗の反応。あれは潔過ぎた。
それでも引いたのは、とどめを刺す必要がないということに他ならない。
「紫苑様、どこへッ!」
そこまで思考を巡らせていた紫の耳に入るのは、式の叫び。視線を向ければ、紫苑が湖へと駆けだしていく姿が見えた。向かう先は恐らく湖の中央。先ほど、水柱が上がった丁度その場所だ。娘の考えを理解し、紫はただ一言。
「藍!」
それだけで、藍は紫の意図をくみ取った。
紫苑の後を追うように浮かび上がり、加速する。無我夢中で水中を進む紫苑の姿を見て、紫は小さく呟いた。
「思ったより、早かったわね」
それが意味することは、紫にしか分からない。
それでも紫の言葉は絶対。彼女には、この後の展開が全て見えていた。
◇ ◇ ◇ ◇
いくらか水を飲んでしまった。それでも泳ぎを止めることはなく、紫苑は水の中を、その中央へと向けて泳ぎを続ける。
進むにつれて混じる紅い色。それが何を意味するのかなんて、考えるまでもなく理解している。遠目には見えなかったが、あの女性はそれだけの傷を負っているはずだ。水面に顔を出さないことからも、傷の深さが伺える。だからこそ急がなくてはいけない。それだけを思い、必死に体を動かしていた。
紫の威圧が止んだと同時、気付けば紫苑は駆けだしていた。自分でも良く分からない感情に支配されたまま、我武者羅に水の中を泳いでいたのだ。ただ一つ、確信めいた予感があった。
――このまま放っておけば、彼女はきっと死んでしまう。
それはダメだと思った。
良く知らない赤の他人だが、自分の見ている前で誰かが死ぬのは許容できなかった。それは確かな自覚の表れであり、紫苑が望む幻想郷の在り方を体現するための大切な感情。それに従い、紫苑は夢中で進み続ける。
幸いなことに、湖の底はその大きさに比例することなく、そこまで深くない。中央まで来た紫苑は、大きく息を吸い込み潜水を開始した。
そうして深さ五メートルほどのところに、その女性を発見する。紫苑の体よりも大きなその体。大人の男性に匹敵するほどの巨躯を抱え、紫苑はゆっくりと底を蹴った。本来ならば子供には困難なその作業を可能にしたのは、単に彼女が常人ではなかったから。
水面から顔を出した紫苑を迎えたのは、藍だった。
「紫苑様、早くその妖怪を此方へ!」
「……お願いッ」
息苦しさと重みの中、何とか藍へと両腕の女性を渡す。それを軽々と右腕で抱えてみせた藍は、次いで紫苑を優しく左手で抱える。
腕の中で荒い息を吐く紫苑を見つめ、藍は静かに口を開いた。
「紫苑様、なぜこのような……」
「なんか、放っておけなかったんだ。どうしてだろうね」
その問いに答えはない。ただ、藍は悟ったように微笑んだだけだった。
「紫苑、こっちに」
ゆっくりと地面に降り立った藍から、奪うように紫苑を抱きとめる紫。スキマからタオルを取り出し、優しくその顔を拭いていく。顔を拭き終わり、体へと移った時。紫苑は言葉を発した。
「お母さん、あの人は」
「……そうね、たぶん」
体を撫でていたタオルが動きを止める。地面に横たわる水色の女性。その全身はずぶ濡れで、酷く傷だらけだった。身に纏う衣服は破れて煤汚れ、見える肌は真っ赤に濡れている。それに何より、目を引いたのは胸元。
「心臓を潰されています。これでは助かりません」
胸部、ちょうど心臓があるだろうその位置には、大きな穴が開いていた。
妖怪というものは頑丈な存在で、腕が亡くなったり腹に穴が開いた程度で死にはしない。だが心臓が潰されるとその限りではなく、つまり女性は望みがなかった。
それを聞き、紫苑はゆっくりと紫の抱擁を説く。
「……紫苑様?」
疑問の声を上げる藍の横を通り過ぎ、女性の横にひざまずく。かなりの惨状だ。一般人なら吐き気を催すだろうその光景。だが紫苑は動じない。
上下する女性の胸元。だが、その息は浅く小刻みだ。これほどの傷を負っても、まだ彼女は生きている。それが妖怪という存在の強靭さ。それでも、もう長くはない。
だからこそ、紫苑は懐から二枚の札を取り出した。一枚は表面に「斬」と書かれた札。そしてもう一つは、
「紫苑様、それはッ!」
『契約』と書かれたその札を見て、藍は全てを悟る。止めようと動いた彼女を止めたのは、元よりこの結果を予測していた紫だった。その瞳はただ真っすぐに、紫苑へと向けられている。
「ありがとうございます、お母さん」
これから自分がすることを後押ししてくれる、母の行動。藍の気持ちも嬉しいが、今は一刻を争うのだ。現に今も、女性の息は止まりそうなほどか細いものになっている。もう猶予はない。
一枚目の札を左手に沿え、霊力を込める。そうして小さく呟かれた言霊は、確かな結果を持って示して見せた。
「――斬」
不可視の刃が弾ける。白く細い紫苑の左手を、容赦なく斬撃が切り裂いていく。
力加減など出来ない。だから結果として、紫苑の左手は切り傷だらけ。その傷も深く、傷口からは真っ赤な血があふれ出していた。痛々しい、惨状と表現してもいい状況。
それでも紫苑は、顔色一つ変えずに次の行動に出る。
「ちょっとごめんね」
使い終わった札と、契約用の札を持ち返る。女性の傷口に優しく当て、札が真っ赤に染まった。そのまま、その札を左手に押し当てる。これで準備は整った。
助からない存在を救う、この場において唯一の方法。そのための口上を歌い上げる。
「――汝の血を媒体に、我の血を楔とし」
それは聖歌。優しく紡がれるその言葉は、確かな力を持って現象を伴う。
「――その存在を此処に縛り付ける。忌むべき鎖と定義づけよう」
込められた霊力に反応する札。それに呼応するように、辺りに光が満ちる。
「――誓いと力を授け、その未来を繋ぎ止める。これは契約也」
死なせるわけにはいかない。何故なら彼女はきっと――
「――故に告げ、名を授けよう。琥珀、その命を賭して、我を助け給う」
自分と同じ、孤独に生き、愛に飢えた存在なのだから。
「――これを持って、契約を完了する」
光が収束する。それは優しい光。
女性の傷を癒し、寄り添うように。その在り方は紫苑のそれと似通って見えた。
傷が塞がったのを確認して、紫苑は重い息を吐く。
「……よかった」
救えたことを喜び、同時に紫苑の頬を涙が伝った。
まるで脳を埋め尽くさんとするその光景に、涙があふれてしまう。それは彼女が生きた軌跡、その人生。それがとても自分と酷似していて、紫苑は痛む左手を引きずりながら女性を抱きしめる。
「よろしく、琥珀」
彼女を自分の式とする。自分に縛り付ける結果になろうとも、もう一人になどしない。孤独はとても、辛いのだから。