障子の隙間から差し込む日の光が瞼を焼いた。朝の訪れを察し、開いた視界に映るのは見慣れぬ天井。だけど以前とは異なり、それは既に知っている天井だった。
「……今、何時?」
時計を探して動く頭につられ、紫がかった黒髪が揺れる。
部屋の端に掛けられた、古ぼけた時計。それが指し示す時刻は午前六時。別にこれだけ早く起きる必要はないのだが、目が覚めてしまったのだから仕方がない。日頃から早起きをしていると勝手に体は起きるもので、前の生活の名残だ。
だからその名残から、紫苑は自然と起き上がり動き出していた。
「……やっぱり慣れない」
鏡に映るのは、黒い和服を身に纏った自分の姿。紫がかった黒髪へと手を伸ばせば、鏡の自分も同じように腕を動かす。その一つの動作をするだけで感じる、小さな違和感。
そもそも、現代人にとって和服を着る機会はとても少ない。日本人といえば和服だろうと外国人からは認識されているようだが、そんなことはない。実際に着る機会なんて稀だし、それこそ何かの行事ごとくらいでしか着ないものだ。
さらに言えば、紫苑本人は着物はもちろん和服だって着たことがない。着付けだって一苦労だし、着心地だってあまり良いものではない。だがそれしかないのなら、選択肢など無いも同然だった。
「文句も言えないし、我慢するしかないよね」
もらいものにケチをつけるわけにもいかず、慣れぬ感触に顔を歪めながら縁側へと出る。
冬ということで外気は冷たく、吹く風も同様だ。これが暖かい秋ならば、この庭の素晴らしさに感服していただろう。しかしこの刺すような寒さでは、体を冷風から守ることが先決だ。
逃げるように縁側を伝って、昨日に教えられた台所へと足を運ぶ。まだ家の構造は把握していないので直通とまではいかないが、それでも何とか台所の前へとたどり着くことが出来た。そうして中に入ってみれば、目に入るのは九つの尾。どうやら先客がいたようだ。
「あ、紫苑様。おはようございます」
「おはよう、藍」
そこにいたのは八雲藍。紫苑の母となった八雲紫の式神である彼女なのだが、その実年齢は紫苑の何十倍と積み重ねている女性だ。そんな彼女にため口というのは躊躇われた紫苑であったが、人は慣れる生き物である。今ではご覧の通りだ。
「あの、出来れば様付けは……。私、そこまで出来た人間じゃないし」
だが、やはりまだ紫苑様という呼び方は慣れない。呼ばれるたびに背筋が痒くなる。そんな紫苑の訴えも、藍に届くことは無いようで。
「いえ、そうもいきません。正式に紫様と親子の縁を持ったのなら、貴女は私が礼儀を尽くすべき人だ。こればかりは紫苑様のお願いであっても聞けません」
どれだけお願いしても、藍は首を縦に振らない。なので紫苑は、自身が我慢すれば済む話だと納得するほかなかった。これ以上は何も言うまい。
「それはそうと、紫苑様は何故このような所へおいでになったのですか?」
「あ、そうだった。朝食の準備を手伝おうと思って。何か手伝えることってあったりする?」
見たところ、これから作り始めるといった様子。まだまだ出来ることもあるだろうと口にしたのだが、それを聞いた藍とんでもないと首を横に振る。
「ダメですダメ! 私一人で大丈夫ですから、紫苑様は二度寝でも――」
「あら、いいじゃない。紫苑がやりたいと言っているんだし」
すぐ後ろから聞こえてきた突然の声。紫苑と藍の視線が、第三者へと向けられる。
「あ、紫様。おはようございます。お早いですね」
「本当よ。朝から煩くて目が覚めちゃったわ」
壁にもたれ掛かるように背を預け、大きな欠伸を漏らす紫。その表情はまだ少し惚けていて、今起きたところなのだろう。
紫苑としてはそこまで大きな声を出していたつもりはないのだが、そう言われると申し訳なくなってくる。
「えっと、すいません紫さん。朝から騒がしくして……」
「ああ、別にいいのよ。子供は元気な方が親としても安心なの。気にしない気にしない」
そういうものなのか。
実の両親なら、暴力の一つでも飛んでくるだろう状況だ。世間一般的な親というのは温厚なのだなと、紫苑は少しおかしい所に感心した。
「あ、それよりも紫様! さっきの発言はどういうことですか! 紫苑様にそのような雑務など!」
「ああ、それね。別に大したことじゃないわよ。ただ、本人がやりたいと言ってるならやらせてやるのもいいんじゃない? それに、家事が出来て困ることもないしね」
だからと言葉を区切り、紫の視線が紫苑へと向けられる。
任せろと語るその顔から感じる安心感は幻なのだろうか。これから紡がれるであろう言葉を予期して、紫苑は内心で母へと感謝の言葉を送る。
「やらせてやりなさい。可愛い子には旅をさせよってね」
「はあ、全くこの人は……」
すごく呆れた表情を浮かべる藍に、今更ながら謝罪の念が積もる。これはきっと我儘の部類に入るのだろう。環境が変わったからと、少し調子に乗ってしまったのかもしれない。
「あの、ごめんね藍。無理なら諦めるし、迷惑かけちゃったなら……」
「ほーらー、藍―」
「え、ちょっ……紫苑様に落ち込まれると、私の立場が……」
申し訳なさから紫苑は俯いてしまう。ただそれでも、藍が何やらブツブツと呟いているのは耳に入り、何やら葛藤しているようだった。
だがそれも数秒のこと。急に肩を掴まれる感触に驚いて顔を上げれば、何やら決意を固めたらしい藍の顔がそこにあった。
「どうせやるのなら、何処に出しても恥ずかしくない――立派な花嫁にしてみせます」
凛々しい表情で、そんなことを宣言した。
「それはちょっと早いかしらねー。母親としても、二日やそこいらで娘を嫁に出すわけにはいかないわよ」
「目指すならそのレベルを、という話です。私だってまだ嫁に出したくはありません。というより、一生出したくありません」
「あら、気が合うわね。流石は私の式だわ」
何やら良い表情でサムズアップを交わす二人。会話の内容が内容なので、言葉も出ない。
だがどうやら、紫苑のお願いに肯定的な感じで話が纏まったようだ。それは素直に嬉しいので、二人に何か言うのは止めておく。それと、普通に声をかけることが躊躇われるくらいには、今の二人は怖かった。
「さあ、そうと決まれば徹底的にいきますよ。生半可な覚悟では、この花嫁修業を乗り越えることはできません。覚悟を決めてくださいね」
「……うん。むしろ望むところだよ。家事は私の仕事だったし、完璧に覚えてみせる」
「ええ、その意気です」
盛り上がる己の娘と式神を眺めながら、紫は微笑みながらこう言った。
「まあ頑張りなさいな。藍は厳しいから」
それだけ言って、台所から紫は背を向けた。
二度寝にでも行ったのだろうというのが藍の予想だ。あの様子ならあながち間違いでもないだろう。
主が消えたのを見届け、藍は口を開いた。
「さて、朝食の準備を始めましょうか。その他の家事も教えるつもりですので、しっかりついてきてくださいね」
そうして、藍による花嫁育成計画が始まった。
紫苑にとって家事とは生きるためにするべき行動の一つ。
家事のみならず大半の雑務は、全て家族から押し付けられてきた。だからそれなりに自信があったのだが、ここでの生活は少しばかり勝手が違ったようだ。
「えっ、マッチで?」
「はい。これで火を起こしてください」
そう言って手渡されたのは一本のマッチ。目の前には飯釜と呼ばれる釜が鎮座していた。
たしかマッチで着火、さらに蒸すお米といえば明治時代のものであるはずだ。些か現代離れした状況に驚いた様子の紫苑を見て、藍はそういえばと口を開く。
「紫苑様には説明がまだでしたね。ここ幻想郷は外の世界と比べると文化レベルが低下しています。ですので電気器具の類はありませんし、着火方法や調理方法もそれと同じです」
「えっ、電気器具ないの?」
「ご覧の通り、冷蔵庫が無いでしょう? つまりはそういうことです」
確かに言われてみれば、家庭に一台はあるはずの冷蔵庫が見当たらない。それに電子レンジはもちろん、コンロの類も存在しない。あるものといえば、眼前にある飯釜や茶釜、あとは流し台くらいだろうか。
「というわけなので、家事を覚えるとなれば苦労するでしょう。まずは見本として私がやりますので、紫苑様は見ていてください」
懐からマッチの束を取り出す藍。
マッチ自体に火を灯す方法は変わらないようだが、そこからの工程が紫苑の知らない領域だった。
まず、新聞紙を取り出す。表紙に『ブンブン。新聞』と書かれているそれにマッチの火を移し、それを木切れの底へと優しく差し入れてやる。そこで取り出したのは火吹竹。新聞紙の火が消えないような絶妙な力で風を送り、木切れへと火を移す。
それから息を吹きかけること十分ほど。ついに丸太へと移った火を見て、藍は起き上がって額の汗を拭った。
「とまあこんな感じで、丸太にまで火が移ればもう大丈夫です」
「何ていうか……すごいね」
「これが此方での常識なんですがね。外出身の紫苑様からすれば、そう映るのは仕方ありませんか」
本来なら、火を起こす前に米をといでおく作業があるのだが、それは藍が事前に終わらせていたらしい。次に紫苑がする時は米をとぐことも忘れないようにと、くぎを刺すように彼女は言った。
「あとは魚ですかね。これなら紫苑様も今から出来ると思いますよ」
藍が視線を向けているのは小さな七輪だった。
ここで再びマッチを使うようで、火の灯ったそれを金網を外した上から木炭の中へと入れる。今度はそれほど時間を要することはなく、少し息を吹きかけただけで火が起こる。
「あとはこの上に魚を置いて焼くだけです。飯釜も七輪も、使用後には火の処理をする必要がありますが、それはまた後程。今回は鮎を焼きましょうか」
網の上に置かれた魚は、紫苑も調理したことのある鮎。見慣れた魚であるはずなのだが、この状況ではまた違った物に見えた。ただ変わらないことも一つ存在するようで、火の番だけはしっかりしないといけない。
「どうですか紫苑様。こちらでの家事は」
「大変そうだね。私の知っているのと勝手が全然違う」
「最初は苦労するでしょうが、慣れると楽に感じますよ。他にも家事はありますが、紫苑様ならすぐに覚えることも出来るでしょう」
火を眺めながら口を開いた藍。その言葉は自信ありげであり、いったいその自信はどこから来るのか疑問に思う。残念ながら紫苑と言う少女はそこまで覚えが良くない。しかし、そんな事を言われたら嫌が応というやつだ。
「うん。すぐに藍の家事を全部私が引き受けられるようになるね」
「えっ、それは困ります。本当に私の立つ瀬がなくなる……」
「冗談」
「……質の悪い冗談を。そういうところは、少し紫様に似ていますね」
そうか、自分とあの人は似ているのか。紫とは血のつながりのない紫苑だが、そう言われると少し嬉しかった。
ほかにも色々と教わった。
例えば洗濯だとか、掃除だとか、庭の手入れだったり。それらは知っている単語であり、経験したことのある家事なのだが、実際に教わるとやはりその仕方というものは全く異なっていた。その一つ一つに新鮮さを覚え、暮らす場所の違いというものを実感する。何より電気器具のない家事がこれほど大変なのかと、戦々恐々したのだ。
そうして気付けば、外は紅く色づいていた。慣れないことをすると時間は早く過ぎるものであり、今回もその例に漏れない。
紫苑の両腕には、乾いた洗濯物の重みが圧し掛かっている。両手が塞がった状態のまま見上げた空は、赤く何処までも広がっていた。
「紫苑様、どうなされました?」
「あ、今行く!」
呼ばれ、名残惜しく感じながらも視線を空から外す。
見れば縁側では既に、藍が取り込んだ洗濯物を畳んでいるのが目に入った。手伝うために、急いで縁側へと向かう。
「やはり紫苑様は手際が良いですね」
縁側へと腰を下ろし洗濯物を畳み始めた紫苑の手元を見て、藍はそう言った。
「そうかな。実感ないけど」
「いえ、実際大したものですよ。外でしていたという家事の経験が活きているんだと思います。この分だと、私が教えるべきことも少なそうですね」
それはつまり、免許皆伝ということか。
家事の師匠である彼女の言葉に、まだまだだと紫苑は首を横に振る。
「色々と覚えることが多くて、まだ全然追いついてないよ」
何せ、環境が一変したのだ。順応するにはそれなりの時間がかかる。
それは何も家事だけでなく、新しくできた関係にしたってそうだ。眼前の女性や、新しく母となった人との距離感だって、紫苑は未だに図りかねている。
「時間が経てば、自然と慣れるように当り前のことになっていきます。焦る必要はありません」
「……そうかな」
「そうです」
既に洗濯物を畳み終えたのだろう。紫苑の分へと手を伸ばす藍は、柔和な笑みを浮かべていた。その笑顔を見ると、言い知れぬ感情が沸き上がってくる。
だが同時に、その優しさの裏に何かあるのではないかと勘ぐってしまう自分がいる。外で悪意に苛まれてきた結果だ。その事実が溜まらなく不快で仕方がない。
そんな紫苑に、藍は優し気な笑みを浮かべながら、励ますようにこう言った。
「躓いたのなら、私たちが助けます。だから安心してください」
この生活に慣れたその時、自分は彼女たちの暖かさを素直に受け取ることができるのだろうか。その日を思い浮かべ、紫苑はただ静かに頷いた。
こうして、また幻想郷での一日が終了する。
紫苑は未だに、生への渇望を抱けずにいた。