紫苑が八雲家へとやって来てはや一か月。それだけの期間があれば、その暮らしに多少なりとも慣れることができるだろう。
それは紫苑だって変わりなく、未だ心に抱えているシコリはあっても、表面上は八雲家の一員として暮らすことが出来るようになっていた。
その証拠に、現在の八雲家の台所事情は彼女が握っている。
今も台所で昼食の準備をしているのは彼女だ。可愛らしいエプロン(紫からもらった)を身に纏い、手慣れた様子で手早く準備を進めている。その姿は紛うことなき主婦のそれであった。
「うん、こんなものかな」
魚の焼き加減を確認して、器へと魚を移動させる。
八雲家では木炭の処理を、水を汲んでおいたバケツで済ませていた。それに倣うように金網を外し、トングで木炭を水の中へと着けていく。水が蒸発する音が耳を打った。
今日の献立は焼き鮭と味噌汁、それと白米だ。
前の暮らしと比べれば質素なものだが、それがここでの当り前である。なぜこれだけ質素なのか、その理由は分からない。ここが何処かも分からない以上、考えられる理由としては田舎だからということくらい。それも母である紫に聞けば良いのだが、紫苑はその話題を振ることを躊躇っていた。
「あら、紫苑じゃない。おはよう」
急に掛けられた声に驚き、小さく飛び上がる。
見れば、台所の出入り口に紫が立っていた。すでに時刻は昼近いのだが、その目は眠たげで、きっといま起きたところなのだろう。そんな彼女を見て、思い出されたのはここに来てから間もない頃の記憶。あれは紫が朝早くから起きていたという珍しい事象だったが、ここに藍がいたのなら、懐かしい二日目の朝と同じような構図になる。
「おはようございます、紫さん。いま起きたんですか?」
「ええ。良い匂いがしたから覗きに来たのよ。それにしても……」
台所を見回すように、彼女は頭を動かした。だがここにいるのが紫苑一人だということを確認し、僅かに眉根を寄せる。
「藍はどうしたの? あの子、紫苑に家事を放り投げてサボってるんじゃないでしょうね」
紫の口から零れた言葉に、紫苑は慌てたように首を振る。
このままでは藍があらぬ誤解を受けてしまう。今も他の家事をしているであろう彼女のためにも、弁明しておかなければならなかった。
「藍なら庭で洗濯物を干してます! 決して、サボってるとかそんなことは!」
「えっ、そうなの? ならまあ別に……」
哀れ八雲藍。
主人から完全な信頼を得るには至っていないようだ。もっとも、それは紫苑が一人で家事をしている場面を目撃して、普段以上に頭に血が上った結果。普段の紫なら、その事実にもすぐに思い至っていただろう。つまり何が言いたいのかというと、彼女には少し親ばかの気があった。
「……藍、ごめんね」
ここにいない、家事の師である彼女に小さく謝罪する。
少しでも彼女の負担を減らそうと申し出た家事の分担が、ここに来て彼女の不信に繋がるとは思ってもいなかった。ただ弁明はしておいたので、それで許して欲しい。
返事の代わりに、外から狐の鼻をかむ音が聞こえたような気がした。
「それで、今日の献立は何かしら?」
「焼き鮭と味噌汁、それと白ご飯です」
台の上に置かれた三人分の鮭。味噌汁は現在も火に炙られて、食欲そそられる匂いを湯気と共に立ち上らせていた。それを嗅ぎ、紫は微笑む。
「紫苑は料理が上手だものね。楽しみにしているわ」
「ありがとうございます。もうすぐ出来るんで、居間で待っててもらえますか?」
「あら、食器を運ぶくらいなら手伝うわよ」
ありがたい申し出だったが、紫に手伝わせるという選択肢は存在しない。前までは流されるように手伝ってもらっていたりしたが、現在の台所を握っているのは紫苑だ。だからやんわりと断ることだって出来る。
「いえ、私が持って行きますんで。大丈夫です」
「そう? じゃあ先に行ってるわね」
それだけ言い残し、紫は台所を後にする。それを見送り、溜息を一つ。
これははたして、正しい選択だったのだろうか。好意で言ってもらったのに、断るということは失礼に当たるのではないか。だが、あそこで手伝ってもらうという選択肢は、何度も言うが存在しない。あの地獄を生きてきた紫苑にとって、それを選択することなど出来るはずもないのだ。
「私って、ほんと可愛げが無い……」
最近はずっとこれの繰り返し。
彼女たちの親切を断って、そのたびに自己嫌悪して。馬鹿みたいだと、紫苑は自分をあざ笑う。
だが、彼女はそれを変えられない。そんな生き方しかできない。なぜなら彼女は、今までそのようにして生きてきたのだから。それを今さら変えることなど出来ないのだ。
「……はやく持って行こう」
そんな雑念を振り払うように、紫苑は残っている作業を片付けにかかった。
◇ ◇ ◇ ◇
食器を洗い終えた紫苑は、自室の前の縁側に腰を下ろしていた。
藍との家事を巡る壮絶な争いの末、彼女の従者としての尊厳を守るべく、家事を分担するというところでお互いに妥協しあった。というわけで、現在紫苑は手持無沙汰。今頃は藍が、反対側の庭の手入れに精を出していることだろう。手伝いに行きたいが、それをすると怒られるので自粛することにする。
「……はぁ」
吐き出す息は重い。
紫苑の頭上には、彼女の心と違い晴れ渡った青空が広がっている。冬本番であるにも関わらず、黒い和服一枚で過ごすことができる今日は珍しい日だった。だから日光浴でもと思ったのだが、効果があるようには思えない。気分転換になると思ったが、どうやら当てが外れたようだ。
足を延ばし、ぶらぶらと遊ばせる。照る陽光が、紫苑の乱雑に伸ばされた紫がかった黒髪を明るく照らしていた。
「暇だなぁ」
暇を持て余すなんて経験、前の生活からすれば考えられない事だ。
常に家事やその他の雑務をしていたし、それによって気持ちが紛れていたこともある。いわば生きるための行動、というよりも何かしら働いていないと落ち着かないのだ。だから手持無沙汰という現在の状況では、紫苑は落ち着かず足をバタつかせてしまう。
「別に、やりたいことなんてないし」
趣味というものを持ち合わせているほど、人間らしい生活を送ってはいなかった。あえて言うなら、家事が趣味のようなものだ。それを取られた今、紫苑は完全に手詰まりの状況だった。
これだけ暇だと、色々と考え込んでしまう。
元の暮らしのこととか、これからのこと。自分が何をすべきなのかと考えるも、浮かぶものは何もない。それらは大よそ良くないと分類できる思考で、それしか浮かばない自分が嫌になる。
寝る前とこの時間帯は、毎日のようにこんなことを考えていた。
「……踏み込むなんて、ありえない」
紫苑にとって、それは絶対だった。満足に他者と関わったことのない紫苑に、他人の心に踏み込むなんて芸当が出来るわけがない。そもそもどこまで踏み込んで良いのかという線引きだって分からないのだ。間違えて踏み込み過ぎれば嫌われてしまう。だから躊躇う。
そんな彼女の姿は悲哀に満ちていた。
齢十の少女が背負うにはあまりにも重たいその責め苦。それはさながら鎖のようで、それこそがんじがらめという表現が適切であった。
この家に来ても、彼女はまだ苦しむ。そんな彼女を助けてあげたいと思う者の存在に、まだ彼女自身は気づいていなかった。
そんな少女にかけられる、優しげな声。
「紫苑、こんな所にいたの」
「……紫さん」
ようやく見つけたと、紫は笑みを浮かべる。
そのまま近づいてきて、彼女は紫苑の隣へと腰を下ろした。今の独り言が聞こえていたのではないかと訝しむ紫苑だが、紫はそのようなことは匂わせていない。そのことにほんの少し安堵する。
そんな紫苑の様子に、紫は内心で溜息を吐いた。
「暇そうね」
「ええ、まあ。藍に家事を取られちゃいましたし」
紫苑が少し膨れてみせれば、紫は彼女のわき腹を軽く撫でてやる。そうすれば、その不機嫌そうな表情が歪んだ。
「な、何するんですか急に!? 止めてください、くすぐったいッ!!」
「女の子がそんな顔をするものじゃないわよ。可愛い顔が台無しだわ。ほら、もっと笑った笑った」
「いやッ、もっ本当に止めてッ」
紫がしているのは、俗に言うくすぐりというやつだ。紫苑のわき腹を的確な強さで刺激する手つきは、少しばかりエロかった。ただその効果は覿面で、紫苑は必死に笑いをこらえながら、その手から逃れようと身をよじる。
逃がすまいと追撃する紫と、涙を浮かべながら逃げる紫苑。弱い者いじめに見えなくもない光景だった。
そんな小さな攻防が繰り広げられること二分ほど。それは始まった時と同じく唐突に終わりを迎えた。
「はっ、はっ、はっ……死ぬかと思った」
「人間、そう簡単に死にはしないわよ」
そうして、二人は静かに空を仰ぐ。
「ねえ紫苑。私に聞きたいことってない?」
「……いえ、別に」
紫苑の返答は、実に短いものだった。
そう、とだけ呟き、紫もそれ以上言葉を発することはない。
「あの、紫さん」
「なにかしら」
お互いの顔を見ることなく交わされる会話。だが、紫苑はその続きを僅かばかり溜め、やがて何でもないと首を振るう。
「いえ、やっぱりいいです」
紫もそれに踏み込むことなく、まだ無言の空間が出来上がる。
親子となって一か月。母と娘というには少し距離のある二人。これくらいの距離が、一か月における限界だろうか。だが、間違いなく最初の頃と比べれば、その距離は縮んでいた。
「……紫さん」
口から零れる声は、小さくか細い。
それでも、これだけは伝えておかなければと紫苑は口を開く。
「私を連れて来てくれて、ありがとうございました」
あの地獄から助け出してくれた。それは間違いなく紫苑にとっては救いだったし、紫に感謝だってしている。今も迷ったり悩んだりしているが、ここに来たことを後悔はしていない。そのことだけでも、紫に伝えたかった。
言葉足らずながらも、紫は紫苑の意図を察した。
「……ええ」
優しく、その紫がかった長い黒髪を撫でてやる。触れた瞬間に強張ったことは分かったが、それでも止めない。梳くように動かせば、僅かながらも強張りが解けたような気がした。
幻想郷のとある昼下がり。
この日、少しながらも親子の距離が縮まった。後にまた、大きく近づく二人の距離だが、今はまだほんの少し。本当の意味で親子となる日へ、また一歩近づいたのだ。