夕食を終えた八雲家には、少しばかり剣呑な雰囲気が立ち込めていた。
発生源は八雲藍。式神である彼女は、今日は少しばかりささくれ立っていた。触れば刺されてしまうと思ってしまうほどに、近寄りがたいオーラを放っていたのだ。
「……どうしたのかな、藍」
遠目でその様子を眺め、紫苑は皿洗いを再開する。
触らぬ神に祟りなしとはよく言うが、今の藍は阿修羅すら凌駕する存在に見えた。あまり一緒の空間に居たくないレベルだ。こんな藍は初めて見た。
「……紫様」
そんな彼女が、夕食後初めて口を開く。
もう一度覗き見れば、先ほどまで居間から姿を消していた紫の姿があった。理由は分からないが戻って来たのだろう。そんな紫は、式とは異なって全くの自然体であった。
「そう怒気をまき散らすものじゃないわよ。ほら、紫苑が怯えちゃってるじゃない」
「……」
「あら、怖い怖い」
紫に向けられる視線は、怒りを含んだものだった。
式神にあるまじき行為である。そもそも、八雲藍としてその行為自体があり得ない。主人を立てる彼女がここまで明確に紫を本気で威嚇しているのも珍しい。じゃれあいでなら良く目にするが、ここまでのモノは初めてだ。
「ねえ、紫苑。少し出かけましょうか」
そんな藍を無視して、紫は顔を隠していた紫苑へと声をかける。その声音は至って穏やかで、とても場の雰囲気に似合わないものだった。
元の家での暮らしから、こういった雰囲気の時には置物のように振る舞ってきた紫苑。今回だってそのつもりでいたのだが、突然の言葉に驚いて小さく飛び上がる。
「貴女を家の外に連れていくのは初めてだし、色々と話したいこともあるし」
丁度良い機会だと、紫は語る。
ここで断るという選択肢など持ち合わせていない紫苑は、ここで頷く以外の選択を取るわけがなかった。
「……分かりました。何処に行くんですか?」」
それを教えてもらったところで、家の近所の地理について知っていることは皆無。よってこれは無駄な質問である。だから返ってくる答えについてはそれほど気にしてはいなかった。
「ちょっと夜の散歩よ。親子の会話も兼ねてね」
その返答はいまいち要領を得ないが、別段それに思うことは無い。
だから特に返事を返すこともなく、紫苑は洗い終えた食器を立てかけてタオルで手を拭いた。
「少し肌寒いだろうから、何か羽織ってらっしゃい。私は先に外で待っているわ」
そう言って、紫は玄関の方へと姿を消した。すれ違いざまに藍に何か小言で告げるが、紫苑のところへは届かない音量である。
会話の内容も気にはなったが、紫を待たせるわけにはいかない。未だに余所余所しい雰囲気の藍の横を見ることなく駆け抜け、紫苑も自室の方へ津姿を消した。
そうして残されたのは藍一人。
主もその娘もいない今、その言葉が誰かに咎められることはない。
「紫様、貴女は馬鹿だ」
――ごめんなさいね。
通り過ぎざま、紫はそう言った。
なぜ謝る必要があるのか。悪いと思っているのなら、そんな選択をする意味などないだろう。
「貴女は、紫苑様が離れることを良しとするというのですか」
主の真意は今朝に聞き及んでいる。
今夜、紫は紫苑の今後を左右する問いを彼女に投げかけるだろう。その結果、紫苑がこの家に帰ってこない可能性だってあった。
藍はもちろん、紫だって紫苑に家族としての愛情を感じていたはずだ。短い期間だが、あの娘の人となりは好感が持てるものであり、何より愛らしかった。それが彼女の特殊な体質から来る感情かは分からない。それでも八雲紫苑は、すでに二人にとっては家族だった。
そんな彼女に、紫は全てを話し、決断させようとしている。もし、彼女が最悪の決断をしたら。それを聞く紫の内心を思い、式は静かに打ち震えた。
「それはあまりにも、悲しすぎる……」
願わくば、その選択が望みよいものでありますように。
こうして静かに賽は投げられた。
◇ ◇ ◇ ◇
草履を履いて外に出れば、冬の冷えた外気が肌を撫でる。
身に纏うのは黒の着物。紫苑にとって既に来慣れたそれは、彼女を象徴する物の一つとなっていた。
先日、紫に整えてもらった髪が月に映える。バッサリと切られたことによって露出した肩を、風が優しく撫でた。
「涼しい……」
「そうね。ちょうど良い温度だし、心地いいくらいかしら」
「あ、紫さん」
石畳の上に立つ紫。その装いは何時ものドレス姿であり、冬の寒さなどみじんも感じさせない。今日は日傘を置いてきているようで、その両手は自由となっていた。
出てきた紫苑を見て、彼女はその右手を縦に振る。
「さて、行きましょうか」
「はい」
以前も潜ったスキマ。前と比べれば、その穴は酷く穏やかで静かだった。
だから何の気構えもなく、促されるままに紫苑はそれを潜る。
「私の裾を掴んでなさい」
紫苑に寄り添うように、その隣に立つ紫。彼女は自らの裾を紫苑へ寄越す。空気抵抗を感じるスキマの中で逸れるのもマズイと思い、言われるままに無言で裾を右手で強く掴んだ。
そうして実に一分ほど。一歩も動くことなく、スキマの旅は終わりを告げた。
「はい、到着」
謎の浮遊感の直後、足が地を踏みしめる感覚。
顔を上げれば、そこには木々が高々とその身を夜風に揺らしていた。
「……森、ですか?」
「正確には林ね。そこまでの規模ではないけれど、まあ夜の森林浴も風情があっていいでしょう?」
この木々がどこまで広がっているのか知らないが、それにしたって大きな木だ。一本一本の長さが優に八メートルを超えている。その巨躯に魅入られるように、視界が固定されて離れない。
「紫苑、気を強く持ちなさい。夜の林は妖怪の住処。気を抜くと意識を持って行かれるわよ」
その言葉に、どこか夢現だった紫苑の意識が戻る。
見れば、その木には一つ目の小さな異形の姿があった。目が合った瞬間、林の奥へと溶けるように消えていく。
「さあ、行くわよ紫苑。肝試しの始まり始まりってね」
紫宛の背を強く叩き、紫は深い闇の中へと歩いて行った。置いて行かれないように、その後を小走りで追いかける。
そうして入った森の中は、やはりというか真っ暗だった。
「紫苑、視界は大丈夫?」
「えっと、何も見えません」
「やっぱり人間にこの暗さは無理か。ちょっと待って頂戴ね」
突如、視界に明りが灯る。
何時の間にか、紫の手にはランプが握られていた。
「はい、これ。落とさないようにね」
手渡されたランプは明るく輝き、林の中を照らし出す。
周囲一メートルまでなら視認できるようになり、そうすれば異形の存在も目に入る。
「うわ、いっぱい居ますね」
「外に比べれば、そりゃあ多いでしょうね」
視認できるだけでも実に十数体。これだけ狭い範囲で、これほどの数の異形の存在を見たのは初めてだ。値踏みするように距離を置きながら、その視線は紫苑へと向けられていた。
「さて、じゃあここに来た目的を果たしましょう」
「目的……ですか?」
「ええ、そう。目的」
それは散歩ではないのか。そういう意味を込めての質問だったのだが、どうやら違ったようだ。そして、その目的とやらも紫苑には皆目見当つかないわけで。
「幻想郷についての説明を始めましょうか」
幻想郷。聞き覚えの無い単語に、紫苑は首をかしげる。それは初めて聞く単語であり、今までないがしろにしてきた問題を彼女が打ち明けるのだと察した。
紫は近くにいた小さな妖怪をつまみ上げる。
「幻想郷っていうのは、こうした妖怪や神々といった存在が当たり前に暮らしている世界。人間も暮らしているけど、彼らも貴女と同じように異形の存在を見ることが出来るわ」
その手に持つ妖怪を此方へと弾いてくる。
受け止めてやれば、慌てたように身じろぎを一つ。視線で問えば頷いてもらえたので、優しく逃がしてやった。
「紫苑が元居た世界と幻想郷は結界で隔てられていて、容易に此方へとやって来ることはできない。その逆もまた然り」
だから紫苑みたいな例は珍しい。そう、紫は言った。
「貴女なら理解しているでしょうけど、妖怪や神は普通の人には見えない。忘れ去られ、消え去る彼らが流れつくのがここ、幻想郷。ここはね、異形の楽園なの」
外の世界で妖怪が見えるのは、紫苑のような一握りの人間だけ。そうして人々に認知されなくなれば、妖怪は生きていくことが出来ない。そうした存在を助けるための場所が幻想郷。
人と妖怪が共存する、紫が作り上げ管理してきた楽園の姿。
「私はね、紫苑。貴女という存在が興味深くて連れてきた。異形に愛されし人の子、そんな貴女が、この幻想郷に来れば私の楽園はどう変わるのか。ただそれだけを考えて連れてきたの」
言葉に謝罪の念が混じる。
紫苑を連れてきたことに深い意味など無い。ただの好奇心。娘にしたのだって理由は変わらない。愛情なんて無かったし、娘として認識なんてしていなかった。
それをまるで、罪を打ち明けるかのように紫は口にする。
「理由があるなんて言ったけど、それはこんなちっぽけなもの。本当のことを話せば、貴女は出て行ってしまうんじゃないかって思った。だから小さな嘘をついたの。それを貴女は信じてしまった」
徐々にだが懐いてくれた紫苑。周りから愛情を受けられなかった子供が、自分のことを慕って母だと言ってくれる。それに罪悪感を感じている自分がいた。
そうして気付けば、紫は紫苑に愛情を抱くようになっていたのだ。
「ごめんなさい、今まで隠していて」
これが、八雲紫が隠していた全て。紫苑が知りたいと思いながらも、踏み込むことを躊躇っていたことの真実。
それら全てを聞かされ、紫苑が浮かべたのは笑顔だった。
「いいですよ、別に」
その言葉に、紫は思わず目を見張る。
「私、外の世界で家族から暴行を受けていました。家族だけじゃない、周りの人間は全員敵だった。私に居場所なんてなかったんです。そんな私を、貴女は救ってくれた」
生きる希望も、未来への渇望も何もない少女。死すら望んでいた彼女を、紫は救い出してくれた。この世界へと連れて来てくれた。
それもまた、少女にとっては変えようのない事実なのだと、彼女は言う。
「仮初の娘でもいい、口先だけの家族でもいい。ただ二人が居るあの場所で暮らせるのなら、私はどんな扱いだってよかった」
「紫苑、貴女……」
それは健気なまでの信頼と忠誠。
地獄の中を生きてきた少女は、例えそれが仮初の救いであろうとも構わないと言う。
「そんな私に、貴女は全てを話してくれた。だから別に気にしません。例え愛されていなくても、私は二人と暮らせればそれで十分なんです」
愛を知らない少女はそう言い切る。
この少女はまだ全てを知らない。紫が紫苑に、母親としての情を向けていることも、紫の娘となることが、どれだけ困難な道に繋がるのかということも。
それでも彼女は笑って見せる。儚く今にも散ってしまいそうな笑みで、紫を見ていた。
「……紫苑」
だから、全てを話そうと思った。
ありのまま、飾ることも隠すこともなく。それでどのような選択をしても、紫は笑って彼女を見ることができるはずだから。
そんな時だ、森の空気が一変した。
神秘的だったものが、酷く刺すようなものへ。それはまるで狂気。木々が怯えるように震え、先ほどまで見えていた異形たちが散り散りに消えていく。
夜が変わる。
「――!? マズイ! 紫苑、こっちに!!」
紫の言葉をかき消すように、走る一つの大きな影。大きな顎を持つソレは、紫苑を咥えようと二人の眼前へと大きく踏み込む。
紫苑へと伸ばした手をあざ笑うかのように、影は紫苑と共に紫の懐から大きく飛びずさった。伸ばした手が空を切る。
そのまま影は、凄まじい速度でその場から逃げ出した。五秒と待たずに、影は林の奥へと姿を消す。
地面には、紫苑が手放したランプの残骸が転がっていた。
「……」
その場で、紫は掴めなかった手を見つめる。この手で掴んでいたはずの娘、ようやく自覚した大切な存在。それが、あと少しというところで手の中から零れ落ちてしまった。
そうして彼女は、生まれて初めてと言っても過言ではないほどの怒りを覚える。
「……殺す」
拳が砕けるほどに強く握りしめ、開くは彼女の能力であるスキマ。
その中は主の心に倣うように荒れ狂い、力の暴雨と化していた。そんな中へ、紫は躊躇うことなく身を投じる。
八雲紫が本気で怒りを露わにしたのは、はたして何時ぶりだろうか。その怒りは風のウネリとなって、周囲の木々を折るほどに強く揺らす。
天災と変わらぬその姿。スキマが閉じる瞬間に見えた彼女の体からは、抑えきれないほどの妖力と霊力があふれ出していた。
夜はまだ終わらない。
ここからが本領、妖怪の本分。事態は動き出したのか、それとも既に収束へと向かっているのか。幻想郷の未来に大きくかかわるこの事件は、いよいよ佳境へと移っていく。