一章にあたる『来訪郷』は、今回で終了です。
それに伴い、連日投稿も本日で一旦終了。二章が出来上がり次第、また連日投稿させていただきます。
前書きで失礼いたしました。
それは何時の記憶だったろうか。
まだ幻想郷に来る前、たしか幼稚園に上がりたての頃。
既に異形の存在を認知できるようになっていた紫苑は、まだ彼らの本性を知らずにいた。
『ねえ、あなた名前なんていうの?』
家の近くにある路地裏。ゴミなどが投げ捨てられたその一角にいたのは、一人の少女だった。幼き日の紫苑である。
そんな紫苑の問いに返ってくるのは、言葉にならない鳴き声だ。その声の主は、路地裏の奥に身を潜めるように縮こまっていた。野球ボールほどの大きさの、黒い目のついた球体。毛を生やしたソレは、妖の類だった。
人間が理解できる言葉を発する妖怪は稀である。それを知るのはもう少し後のことなのだが、この頃の紫苑はそれも知らずに問いかけた。
周りから見ればおかしな子供だっただろう。
何もいない空間に、一人話しかけている頭の可笑しい子。周囲の認識は概ねそのような感じだった。この頃には、親から暴力は無いながらも冷遇され始めている。だから話し相手を探すように、この頃の紫苑は異形へと話しかけていた。
『一緒にあそぼう』
言葉など通じないのに、それでも呼びかけるその姿は滑稽であった。今の紫苑本人が見ても、それは間抜け以外の何物でもない。異形に話しかけるなど愚の骨頂、距離を置き関わらないように生きる。それが正しい選択だ。
そうして二日後。
『ねえ、一緒にあそぼう』
懲りることなく、紫苑はその日も同じ異形へと声をかける。
ソレはそこから動くことがないので、そこに行けば必ず会うことが出来た。今にして思えば、何かを待っていたのかもしれない。それでも変わらずそこにいてくれるその存在に、紫苑は毎日会いに来ていた。
『ほら、鬼ごっこしよう』
そうして、遊ぼうと右手で触れた。
毛玉のようなその異形。触れることくらいならば問題ないはずのソレは、意味も分からないことに紫苑の右手を貫いていた。
『……えっ?』
突然のことに、頭が働かない。
紫苑の視界に映る自分の手が紅い。穴が開いている。
紅が垂れる。
紅が零れる。
紅が止まらない――イタイ、イタイイタイ。
呆然とソレを見れば、毛玉はその毛を重ね合わせ、棘の形状へと変化させていた。先端に光る紅い液体が、犯人が誰であるかを物語っている。
『……あ、あぁ』
友人だと思っていた。誰も相手にしてくれない自分でも、彼らなら受け入れてくれると思っていた。
『痛い……ねえ痛いよ。なんでこんなことするの?』
再び棘が突き刺さる。空いている方の手、二の腕、わき腹を掠めるように。その度に血が出たし、その度に声を上げた。そしてその度に、少女の中で何かが壊れていく。
『友達でしょ? 私たち、友達だよね?』
友達なら、なぜ痛い。なぜ自分は血を流している。
何でアレは、私を殺そうとしてくるのか。
そこまで考えて、行きついたのは一つの結論。
――逢坂朱音に、味方なんていなかった。
『あはははは、そっか、そうだったんだ』
このとき、少女は決定的に壊れてしまった。
この世界に自分の居場所など存在しない。誰もが自分を嫌い、蔑み、淘汰しようとする。死ぬべき存在、望まれぬ存在。なら、この生に意味などあるのだろうか。
気付けば全身穴だらけ。幸い致命傷は無いが、痛みで満足に立つことも出来ない。壁にもたれこむように背を預け、視線をソレへと向ける。
『……じゃあね』
その言葉は誰に向けたものだったのか。少なくとも、少女の目にもうソレは映っていなかった。そうして少女の瞳から色が消え、その場へと倒れこむ。
気が付けば、病院にいた。怪我の原因は不明、その事実が家族はもちろん、病院側にも言い知れぬ不信感をもたらす。そして何より、それ以降少女の瞳から光が消えた。
生きていることは耐えられない。こんな地獄はもう嫌だ。
痛みを感じることなく死ねるなら、どうぞ頼むから殺してくれ。
こうして、少女は生きることへの渇望を失った。
そしてそれ以降、何時もの場所からあの異形の姿を見なくなる。ただ少女には、そんなことどうでもよかった。
◇ ◇ ◇ ◇
放り出されるように、紫苑の体は地面へと打ち付けられた。思わずうめき声をあげるが、蹲ることなくすぐさま起き上がる。
あの場所からどれだけ離れたのだろう。まあ林の中であることは間違いないが、元来た方角は分からない。何よりランプを落としたことによって、視界が酷く制限されていた。
手探りで近くの木を掴みながら起き上がり、紫苑は言葉を漏らす。
「早く、あの人の所に帰らないと……」
それでも帰らなければならない。八雲紫苑が帰るべき場所はあの人の所だ。
だから痛む体に鞭をうち、強引に体を起こす。重たい一歩を踏み出した時、後ろからソレは聞こえてきた。
「……どこに行くつもりだ? おれはお前を帰すつもりはない」
振り向けば、そこにいたのは異形だった。
恐らくは妖怪の類だろう。犬とも熊とも判別がつかないその巨躯に、大きな顎。その赤い瞳が紫苑へと向けられている。
その視線に一瞬怯むも、負けじと紫苑は口を開いた。
「私は帰る。帰らないといけないの」
紫苑の言葉を聞き、嘲るように異形は笑った。
「なぜ帰る、
「私の記憶を……」
思い出される過去の記憶。赤坂朱音という存在が死んだ日の出来事。
恐らくは見られたのか。そしてそれが紫苑の傷だと知って、異形は言葉を発している。あの異形は高度な知性を有しているのだろう。外では満足に見られなかった、知性を持つ異形。それが今、紫苑の記憶に無断で踏み込んでいた。
「また、暴力を受けるかもしれない。蔑まれるかもしれない。それでもお前は帰るというのか。あの妖怪の元へ」
そのことを、不安に思っていた時期もあった。この恵まれた環境が、元の地獄と同様に変化する可能性に怯えていた。
それでも、紫苑の返答は変わらない。
「帰るよ。何を言われようと、私は帰る」
彼女が必要としてくれるのなら、自分を娘と呼んでくれるのなら。例え愛されていなくてもあそこに帰る。
それが紫苑の思い。必要とされるだけで、自分は生きる資格を与えられる。だから帰るのだと、異形の言葉を否定する。
それでも異形は、紫苑へと言葉を投げかける。
「おれがお前を食ってやれば、もう苦しむこともない。痛みを感じることなく、殺してやれる」
それは何と甘美な響きだろう。正しくそれは、初めに紫苑が八雲紫に乞うたことと同じものだった。
「あの人に出会う前にそれを聞いていれば、もしかしたら殺されてたかもしれない」
八雲紫と出会う前、外の世界で眼前の異形と出会っていたのなら、その言葉の真偽を確かめることなく命を捧げていただろう。だが、すでに遅い。
「私はあの人の、八雲紫の娘だ。私が帰るべき場所は、何時だってあの人の所で、決してお前なんかの所じゃない」
もう少女は、逢坂朱音ではない。紫苑は母と慕う妖怪から大事な名前を受け取った。だから眼前の異形の誘いに応じるわけにはいかない。何より紫苑はまだ、
「私はまだ、死ねない」
少女はこの世界に来て、ようやく生への渇望を取り戻したのだ。
そんな紫苑の言葉を聞き、異形はくつくつと笑い出す。
もう何を言っても、この存在は戻ると言って聞かぬだろう。それだけ強く、あの賢者に調教されてしまっている。我らが愛する人の子を、あのような腑抜けに渡してたまるか。
「そうか、残念だ。残念だよ
異形の雰囲気が変わる。先ほどと同じだ、空間が震える。
逃げれば殺される。速度では完全に紫苑が劣っているし、力など以ての外だ。逃げることも、倒すことも出来ない。
紫苑に出来ることと言えば、気を強く持ち屈しない事だけ。眼前の存在の気分一つで、紫苑の命は散るだろう。
「それでも、まだ死にたくない」
こうして得た生への執着。死にたくないのだと、少女は必死に抗う。
少女は初めて得たソレの命じるまま、夜空へ向けて声を上げた。
自分が一番信頼する、今一番会いたい存在の名前を、紫苑はここで口にする。
「――お母さんッ!!」
同時、異形が弾けるように躍り出た。
大きな顎が少女を飲み込もうとした瞬間、耳元で聞こえたのはあの人の声。
「紫苑」
それと同時に、異形が吹き飛ぶ。
目と鼻の先にあった口は遥か彼方。木を十数本巻き込みながら、その巨体が宙を舞う。
「紫苑、だいじょう――」
紫苑の隣に舞い降りた女性。その声を聴いた瞬間、紫苑は彼女の胸の中へと飛び込んでいた。
「お母さん」
八雲紫は、危機一髪間に合ったことに安堵する。
腕に抱く娘に怪我は見受けられず、その事実にまた安堵。その存在を確かめるように、強く抱きしめ返した。
「ごめんなさい、遅くなったわ」
その言葉に答えるように、紫苑は腕の中で小さく頷いた。
そうして脇に開くスキマを閉じ、名残惜しいながらも紫苑を自分の後ろへと避難させる。
見れば、眼前から凄まじい速度で先ほどの異形が突っ込んできていた。
「少し待っていなさい、すぐ終わらせるから」
「――ァァァァアアッ!」
「煩いわよ」
短く呟き、眼前に迫った異形の首根っこをひっ捕まえる。
あれだけの速度で迫る物体の一部を的確に掴み取るなど、常人の業ではない。だが紫は大妖怪、これくらいのこと出来て当り前だった。
「ググゥッ……」
喉を掴まれ、異形はくぐもったように声を発した。
そんな異形に氷のような視線を向け、八雲紫はその存在を見下ろす。その目は、まるで道端の石ころを見ているかのように感情を映してはいない。
聞いた者の心を恐怖で染め上げる声音で、紫は言葉を紡いだ。
「さしずめ、ここの主と言ったところかしら。知能もあるようだし、それなりに年は経ているようね」
腕の中で暴れる存在を、ただ腕の力だけで黙らせる。
力技と言えばそれまでだが、その腕力は驚愕に値するものだ。何せ、大の大人を超えるほどの重量を片手で持ち上げているのだから。
大人しくなった異形へ、紫は続けて言葉を投げる。
「本来なら、力を持ち知能を有する妖怪を殺すようなことはしたくない。幻想郷のためにもね。でも、貴方は別よ。仕方ないわよね、何せ貴方は私の大切なものに手を出したのだから」
だから、殺されても文句はないだろう。
そう言って、紫は握る手に力を籠める。異形の首から不快な音が漏れた。
その姿に、紫苑は在りし日の毛玉の姿を幻視する。気付けば、紫苑は紫の腕へとしがみついていた。
「――何のつもり?」
その声は低く冷たい。今まで聞いたことのない母の声に、紫苑は僅かに怯む。それでも負けることなく、紫苑は母の顔を見つめ返した。
「お願いです、殺さないであげてください」
その言葉に、紫は瞳を細める。
「正気なの紫苑。コイツは貴女を殺そうとしたのよ。私の娘を殺そうとしたコイツを、私は許すわけにはいかないわ」
「――それでも!」
なぜ止めたのか、それは紫苑自身も理解できていない。ただ、気が付けば体が勝手に動いていたのだ。それでも、止めたいと思った。口から出る言葉も、半ば無意識のものだ。
「それでも私は、お母さんが人を――妖怪を殺す姿は見たくありません」
「……」
紫は紫苑を、そして異形へと視線を向けて、やがて大きく息を吐いた。
彼女が纏っていた妖怪としての威圧感が掻き消える。そうして、紫は腕に持つ異形をその場へと叩き付けた。
「……分かったわ。貴女がそこまで言うのなら、見逃してあげる」
「ガハッゴホッ……八雲、お前はいったい何を」
「貴女も私と同じく、この子に魅入ってしまったということでしょう。それも、殺したくなるほど強烈に」
そう言って、紫は紫苑を懐へと招き入れる。
「でもね、今回限りよ。次はないわ。今度、私の大事な娘に手を出せば、命はないと思いなさい」
その言葉には、有無を言わせぬ強制力があった。
だが異形は、そんな彼女の言葉を聞いて笑みを浮かべる。
「お前も人の親というわけか、八雲」
「余計なお世話よ、下級妖怪。それ以上喋るなら、その口を縫い合わせるわ」
もうここには用はないと、紫は紫苑を促すようにスキマを開く。
その中へ入る直前、チラリと異形を振り返れば、ソレは面白そうに笑っていた。
「お前、八雲に愛されてるようだな。もう二度と、戻るんじゃないぞ」
その言葉に、紫苑は小さく頷いた。
だが一つ訂正すべきことがある。首を摩っているその異形へ、紫苑は短く言葉を返した。
「お前じゃない。八雲紫苑、それが私の名前」
そうして、完全にスキマの中へと姿を消す親子。
それを見届け、林の主はただ小さく笑った。
「紫苑、良い名前だ」
願わくば、我らが愛する人の子が、二度と死を望むことがないように。
火照った体を冷ますように、、冷たい風が吹き抜けた。
◇ ◇ ◇ ◇
スキマから出れば、そこは見知らぬ平原だった。何にも遮られることのなく夜風が吹き抜ける。見上げればそこには、雲に遮られることなく輝く月の姿があった。
てっきり家の前に出るだろうと考えていた紫苑は、どうしたのかと視線を脇に立つ紫へと向ける。そんな紫は、娘の視線を受け止めながら口を開いた。
「ねえ紫苑。私はね、この世界が大好きなの」
月を見上げ、それすら愛おしいというように。
先ほどの話の続きを、紫はいまこの場で口にしようとしていた。
「だから私はこの世界を作り出したし、今も変わらず管理し続けている。そんな私の娘になるということはね、紫苑」
その続きを言ってしまえば、隠していることは本当に亡くなってしまう。全て打ち明けると決めたのだ。それに、先ほどの件で確信した。
「
紫苑自身、身を持って体験した死の危険。あの時に紫が間に合わなければ、紫苑は今もこの場にいない。
異形に愛されし人の子は、そこに存在するだけで異形を呼び寄せてしまう。それは命の危険を呼び寄せているのと同意だ。さらに紫の娘となれば、その危険性は跳ね上がってしまう。
今回は間に合った。だが次は分からない。
「でもね、私はそれでも貴女が私を選んでくてることを望んでいるの。さっき、貴女があの妖怪と話しているのを見て、貴女が管理する幻想郷を見てみたくなった。きっと、今に負けないくらい素晴らしい世界になるわ」
紫は確信しているから、その言葉に含むことなんて何もない。
命を狙ってきた存在を許し、それでいて和解してみせる。そんな芸当を見せられ、紫は未来を幻視してしまったのだ。娘が望むこの世界の在り方を、紫は見たくなった。
そして、最後に口にするのは母としての言葉。
「あと一つ訂正。信じてもらえるかは分からないけど、これだけは言っておかないといけないわ。私は貴女を、娘として愛している。それに気づいたのも、つい最近だけどね」
それこそ、ここ一週間くらいで自覚した感情だ。
先ほどの会話で、紫苑は愛されていないと口にした。それは間違いも良い所だ。紫も藍も、紫苑のことは娘・家族の違いはあっても愛している。それだけは、紫苑に知っていてもらいたかった。そして出来る事なら、これからはもっと分かりやすい形で、愛を知らないであろう少女へと与えてやりたい。母として、愛してやりたいと思っている。
紫は全てを語り終えた。あとは、紫苑の判断次第。
「そのうえで、もう一度問うわ。逢坂朱音、貴女は何を望むの?」
それは、紫苑にとって懐かしい名前だ。旧名に未練なんてないが、それで懐かしい昔のことを思い出した。
『ごめんなさい、朱音』
記憶の奥底から引っ張りだされたのは、そんな言葉。
呆然とした表情を浮かべながら、涙ながらに紫苑に呼びかける毛玉の姿。そんな毛玉に、紫苑は命を救われたのだ。意識を失った彼女を自宅まで運んだのは、他ならぬ毛玉である。もっとも紫苑は、そこまで覚えていない。ただ、毛玉の言葉を思い出しただけに過ぎなかった。
だが、今の少女は赤坂朱音ではない。
「私は八雲紫苑です。貴女が私を捨てるまで、私が帰るべき場所は貴女の所です」
それが紫苑の答えだった。
命の危険があろうが関係ない。そこに貴女がいるのならと、紫苑は紫の顔を見て言い切った。
そんな娘に、紫は頬を涙で濡らす。
「そう……そうなのね。貴女は私を選んでくれるのね」
紫苑は紫を選んでくれた。ならば母として、紫も答えよう。
今までは自覚がなくて満足に親らしいことが出来なかったが、これからは違う。母親として、娘を望む未来へと導いてやろう。
「――貴女が好きよ、紫苑」
「はい、私もです」
こうして、歪な親子はようやく本当の親子となった。
娘も母も目指す場所は変わらず同じ。月の下、二人が思い描くのは来るべき未来の構図。
八雲紫苑が歩む幻想郷での物語。東方紫苑禄、これより開幕である。
「紫苑様!? どうなされたのですかそのお姿は!」
「いや、えっと……転んじゃって」
「紫様、貴女も貴女です! いったい何をなさっていたのですか! 母親ならばしっかり見ておかないと!」
「いや、えっと……妖怪に襲われちゃって」
「何やってたんですか貴女たちはぁ!!」
「「すいません……」」