冬も佳境。空を見れば、ぽつぽつと雪が降りだしていた。見事な庭園を真っ白に彩るであろうその光景を思い浮かべ、八雲紫苑は笑みを浮かべる。
幻想郷は自然豊かな土地だ。だからこそ、こうした天気一つで美しい景色を何度も見せてくれる。今だってまだ積もっていないながらも、縁側から見える庭園の姿は何時もと違って見えた。
「……きれい」
小さく呟いた声は、冬の風に攫われ掻き消える。それと同時に、紫苑は小さく身震いした。
「さむっ」
身に纏うのは、何時もの黒い和服。その上から同色の羽織を着ているだけだ。寒くて当然である。縁側は中と比べ、気温も格段に下がる。さらに風も吹くとなれば、紫苑にとっては長居できない場所であった。
その景色を名残惜しいと感じながらも、紫苑は場を後にする。それに、やらなければならないことだってあるのだ。
「……」
無言で、台所へと逃げ込む。中はまだ外と比べると暖かいが、それでも寒い。料理をするついでに、暖房の代わりにと火起こしの作業へと移行した。
「マッチマッチ……あった」
火の気のない、水場の近くに置かれているマッチを手に取る。新聞を残った片手で放り込み、続いて木材を投入。マッチに火をつけ、そのまま流れるように新聞紙へと着火させた。
「ふぅー、ふぅー……」
火吹竹で息を送り込むこと五分。火が丸太に移ったのを確認し、紫苑は立ち上がり大きく伸びをした。ここまでやれば、後は大丈夫だろう。少し暖かくなった台所で、次の作業はと頭を動かす。
「あ、お米」
いつも忘れてしまうその作業。今回もその例に漏れず、これでは藍に合わせる顔がない。だがまだ、ここからなら十分挽回が効く。急いで米を入れた釜に水を入れ、右手を突っ込んだ。
「――ッ」
悲鳴にならない声が漏れる。
真冬の水は冷たい。あまりの冷たさに凍えるのではないかと思ってしまうほどだ。表情を引きつらせながらも、紫苑はその右手を動かしていく。
それが終われば、蓋をして火にかけるだけ。最も大変であった作業も手慣れたものだ。ここまでで十五分ほどだろうか。紫苑も成長したものである。
だがこれで終わりではない。ここでの主食は魚だ。その魚なくして、ご飯を食べることなどできない。
台所の隅に置いてある火鉢を取り出して火をつける。あとは金網を敷いて、その上に新鮮な魚を三匹並べる。冷蔵庫が無いここでは、魚だって生物。いくら冬とはいっても、すぐに腐って悪くなってしまう。だから焼く前に匂いを嗅ぐのだが、今回のものは大丈夫そうだ。
「味噌汁、どうしようかな」
迷ったら作ってしまえ。
魚と米が完成するまでにはまだ時間がある。その時間があれば、味噌汁も出来上がるだろう。仕舞っていた鍋を取り出し、水を入れる。そこまでして、まだ火をつけていないことを思い出した。
「あっ、火!」
急いで、先ほどの作業を繰り返す。前よりもずっと早く、それこそ五分以内で。冬だというのに額から汗を流した結果、何とか火はすぐについてくれた。
その上に鍋をかけ、急いで食材を切っていく。ここでは肉が希少なので、主に野菜だけ。お湯が沸騰したことを確認して、切り終えた食材を投入していく。あとは火が通るのを待ち、味噌を入れるだけ。
「ふぁー……」
味噌をといでいる間、気の緩みからか欠伸が漏れた。現在時刻はまだ七時。だがその分、夜に眠る時刻が早いので、睡眠自体は足りている。それでも欠伸が漏れたのは、立ち上る湯気に充てられたからだろうか。この暖かさは、季節的に癖になってしまいそうだった。
そうしてのんびりと食事の準備をすることしばらく。
出来上がった米を見て、魚の焼き加減を確認、味噌汁も味見をして、紫苑は満足げに頷いた。
「よし、完成」
食器を取り出し、盛っていく。
献立が献立なので彩りを気にする必要はあまりない。すぐに盛り付けを終え、あとは居間へと持っていくだけだ。
そんなときである。台所に彼女が顔を出したのは。
「紫苑」
「あ、お母さん」
起きたばかりの様子でそこに立つ紫を見て、紫苑は花の咲いたような笑みを浮かべた。
「手伝おうかしら?」
その言葉は、以前から何度もかけられてきた言葉。そしてずっと遠慮してきた言葉だ。だが、紫苑は少し迷うような様子を見せた後、小さく頷いた。
「お願いします」
そんな娘の言葉に、紫はただ笑顔で両手を差し出したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇
食後の緑茶を口に含む。癖になる苦みが喉を通り抜け、続くように熱さが喉を焼いた。だが冬にはそれくらいがちょうどよく、紫苑はほっと息を吐く。
そんな紫苑の一連の動作を見届け、紫は口を開いた。
「ねえ、紫苑」
「なんですか?」
「私の跡を継ぐって言葉、本気?」
それは確認を込めた言葉だ。
夜の森で聞いた娘の決意。それが本気なのかと問いかける。
「――本気です」
冗談などではない。確固たる決意を持って、紫苑は答えを返す。
藍は、場の雰囲気を察して先ほどからじっと二人のやり取りを見ているだけ。これは母と娘の会話なのだから。
「この幻想郷を管理する。それには貴女の想像が及ばないほどの苦難が待っているわ。なぜならそれは、妖怪すら管理するということなのだから」
だから当然、命を懸けたやり取りだって必要になってくる。それには痛みや苦しみも伴うだろう。それでもやるのかと、紫は娘に問いかける。
「やりますよ。だってお母さんの娘なんだから」
それでも紫苑は躊躇わない。
そこに怯えや不安はないし、迷いなど以ての外。母が見ている景色を見てみたい。この楽園を、母が作った世界を余すことなく視界に収めたい。むしろ胸を支配するのは好奇心。だからこそ、紫苑は笑って見せる。
その笑みを見て、無駄な問いだったと紫も笑った。
「そうね、それじゃあ……藍」
「かしこまりました」
紫の言葉に一つ頷き、藍は立ち上がる。何をするのかと紫苑が見ている中、藍は居間を後にした。どういうことかと視線で紫に問えば、返ってくるのは曖昧な微笑み。
「もうちょっと待ってちょうだい」
藍が戻るまで待ってほしい。そう紫は言外に語る。
そうして待つこと五分。戻って来た藍の両腕には、大量の書物が抱えられていた。
「私の跡を継ぐのなら、二つのモノを身に着けてもらう必要があるわ」
紫は一つ、指を立てた。
「まず一つは知力。この世界の在り方を知り、そして自分が望む世界へ導くための知識を付ける」
それは農業の基礎であったり、心理学であったり。学問問わず、覚えるべきことは山の如く。不必要なものと必要なものを区別するためにも、知識は必要なのだ。
「だけどこれは、人間の寿命じゃあ限界があるわ。だから出来る範囲で構わない。何かあればフォローするし、幻想郷が壊れなければ問題ないの」
そしてもう一つ。
「二つ目は戦闘力。単純な力よ。相手を納得させるには、これが最も効率が良いの。幸い貴女は異形に愛されし人の子よ。鍛えれば良い線までなら持って行けるはず。これも要練習ね」
以上の二つが、管理者に求められる力だ。いずれも欠ければ、幻想郷の管理はおぼつかない。紫苑が紫の跡を継ぐというのなら、身に着ける必要がある重要なものだ。
人の身では到底習得しきれないだろうその二つを、紫苑ならば最低限までならば習得できる可能性があった。それが異形に愛されし人の子であり、それは才能と表現される。
だからこそ紫は当初、その才能に惹かれて紫苑を呼び寄せたのだから。
ただ、それでもと口を開く。
「もし他にやりたいことが出来たなら、遠慮なく言ってちょうだい。パティシエでも花屋さんでも、貴女が望むなら私は応援するし、全力で支援してあげるから」
紫苑が何時の日か、他に夢を見つけたのなら。母として、その道を応援しよう。少し寂しいが、それもまた紫苑の人生だ。
だけどやはり、本音を言えばただ一つ。
「貴女には、私の跡を継いでもらいたいわね」
無論、強制はしない。そう優しげに語る紫に、紫苑は笑顔を向けた。
次いで藍へと両手を広げてみせる。
「藍、それちょうだい」
「紫苑様……」
「なんだってやるよ。お母さんの跡を継げるなら、なんだって」
夢など一つしかないと、紫苑は断言する。
そもそも夢なんて、持てること自体が素晴らしいことなのだ。それを、夢すらなく絶望の中を生きてきた紫苑は良く知っている。だからこそ、今こうして夢を語ることが出来る紫苑は、本当に恵まれているのだ。
「絶対に、私はお母さんの跡を継ぐ。だから、もう少し待っていてください」
藍から持ち切れないほどの書物を受け取り、告げるのは宣誓の言葉。
母に自分が望む世界を見せるのだと、紫苑は意気込んで見せる。それは以前の紫苑からは想像すら出来ない姿で、紫は自然と涙ぐんでいた。
「……期待しているわ」
来るべき未来。それが実現すれば、きっと……
◇ ◇ ◇ ◇
「紫苑は何というか本当に、明るくなりましたね」
そう言う式の表情は、華やいでいた。
「そうね。あれ以来、ずいぶんと積極的になったし」
紫苑は今頃、渡した書物を私室で読み漁っていることだろう。外の世界で学校には通っていたようなので、ここの子供と比べれば読み書きは出来る方なのだ。渡したのは、紫苑が普通に読めるだろう書物を厳選させたので問題ない、はずである。
「少し、年相応になってくれたわね」
居間で向き合う主従が思い浮かべるのは、家族である一人の少女。
あの夜を経て、随分と紫苑は明るくなった。具体的に言うと、生きることを楽しむようになったのだ。長い事人間を見てきた紫たちには、それが良く分かった。
「ここまで長かったですねぇ……」
シミジミと語る藍に、適当に相槌を打つ。
期間にして二か月と少し。よくこれだけの短い時間で立ち直ってくれたものだ。それこそ、年単位で根気よくと考えていた紫である。十年に渡って染みついた逢坂朱音の闇を、紫苑はたった一夜で変えてみせたのだ。
「それもまた、才能なのかもね」
「才能ですか」
ただ、それでもまだ問題はたくさんある。紫苑が紫の跡を継ぐと言ってくれたのなら、色々とやるべきことは存在するのだ。
「とりあえずは、紫苑が自衛できるようになるのが先決かしらね」
「ですね。来るべき日のためにも、力は必要です」
何時までも、紫たちが側にいて守ってやることはできない。それに、紫苑はいずれその力を幻想郷中に示さなければならないのだ。その日はまだ先だとしても、最低限の力は必要だった。
「私は霊夢の修行を見ないといけないから、紫苑の方は貴女に任せるわ」
「出来れば私が代わりたいのですが、こればかりは仕方がありませんね」
思い浮かべるのは、今代の巫女である少女のこと。
「そうね、博麗の秘術は私しか教えることが出来ないし……」
もうすでに、秘術以外は全て習得してしまった才のある幼子。博麗大結界をあの年で維持できるその才は天賦のものだ。それこそ、歴代最高といっても過言ではないレベルである。
だが、完璧な人間など存在しない。それは、例の巫女も同じである。
「あの子が本気を出してくれれば、秘術だって一瞬でしょうに……」
吐くように零した愚痴。その言葉に嘘はなく、それだけその巫女には才能があった。それを補うようなあの性格は、天は二物を与えずを見事に再現しているのだろう。要らない仕事である。
紫を安心させるように、藍は口を開いた。
「紫苑様のことは、任せてください。私が責任を持ってご教授させていただきますので」
「ええ、お願いするわ。紫苑も、才能ならあるはずだから」
藍ならば、上手く紫苑に教えることが出来るはず。何せ、彼女は他に自分の式を持っているのだ。紫ほどではないが、他人に教えるということには慣れている。それに、異形に愛されし人の子ならば成長速度も速いだろう。
「まあ、なるようにしかならないのだけどね」
障子の外を覗けば、何時の間にか雪が降りだしていた。すでに地面は少し白く色づき始めており、これなら積もるかもしれない。冷え込んできたので障子を閉め、紫は小さく呟いた。
「春が恋しいわ」
あの日から、色々と変わったことがある。だが変わらないことだって確かにあった。それはもちろん、良いことや悪いことだって。それでも時間は過ぎていくし、それを止めることは紫や藍には出来ない。だからただ時間に流され、それを少しでも良くしようと最善を尽くすだけ。
人生は何時だって、変化の連続なのだから。