ピピピピピ、携帯電話のアラームが鳴り響く。跳ね起きたみほは布団を畳み、慌てた様子でパジャマの上着を脱ぎ始める。そこで目の前の鏡に映る部屋が見慣れぬものであることに気づき、ほぅ、と息を吐く。
「そっか、もううちじゃないんだ」
みほは異国情緒溢れるアンツィオの町並みを爽快な気持ちで歩いていた。黒森峰もここと同じ欧風建築だったが、ドイツとイタリアでは趣もだいぶ違う。そこかしこにカフェやお菓子屋など飲食店が多く並んでいる。今着ているアンツィオ高校の制服も、清潔感のあるスタイリッシュなデザインで、黒を基調としてきっちりとした印象の黒森峰女学園のものとは対照的だ。
開店準備を行っているパン屋のガラスに映った自分の制服姿を見つめながら、みほは楽しそうに笑った。
引っ越してから今日までの間は各種手続きや部屋の整理で忙しく、町の散策が出来ず残念に思っていたが、今こうして実際にお洒落な街中を歩いているとより期待が膨らんでいく。
放課後、友達と一緒にカフェでお喋りしたり、ジェラートを食べながらウィンドウショッピングをしたり。夢のように楽しい想像が浮かんでいく。
学校に向かうみほの足取りは、今までになく軽いものだった。
転校初日、みほは自分が在籍することになる教室で窮地に陥っていた。
「ねぇねぇ、どっから来たの?」
「く、黒森峰女学園です」
「へー! 黒森峰って、どこだっけ」
「熊本です」
「熊本! 九州じゃん、遠くから来たんだねー。ラーメンが美味しいんだっけ」
「あ、あとモツ鍋!」
「それは福岡、かな」
「好きな食べ物は?」
「マカロンです」
「わー! 私も好き!」
「私はマルゲリータだなぁ」
「私はラザニア!」
転校生ということで物珍しく見られることは予想していたものの、こうも激しい質問攻めにあうとは思っていなかった。
「まぁ待てよお前ら、転校生がビビってんぜ?」
みほを囲む人垣を割って現れたのは、もみ上げを三つ編みにしたボーイッシュな少女だった。彼女が一言諌めると、みほを囲んでいたクラスメートたちははっと我に返ったようだった。そうして口々に、いきなりごめんね、と謝ってくるからみほは恐縮してしまう。
「悪いね、こいつらも困らせるつもりはないんだよ。ただ新しい仲間が増えたんではしゃいじまってんのさ」
「いえ、そんな。皆さん話しかけてくれて嬉しかったです」
それは社交辞令でなくみほの本心だ。確かに大勢に押しかけられて困惑したものの、腫れ物を扱うようにされるよりよっぽど良い。
照れ臭そうに言うそんなみほの言葉に、クラスメートたちは可愛い! と口を揃えた。みほは顔を赤くして身を縮こませた。
「いいやつだなぁ、うん! 私はペパロニってんだ、よろしく!」
「あ、西住みほです。こちらこそよろしくお願いします」
そういえばこうして対面で自己紹介をするのは初めてだなぁ、とみほが思っていると、ペパロニは手近な机から椅子を引っ張ってくると、みほの隣に腰を落とした。
「ところでさ、気になったんだけど、何でこんな時期に転校して来たんだ?」
「え……」
「えー、それいきなり聞いちゃうー?」
「さっすがペパロニ! 私たちに出来ないことを平然とやってのける!」
「いや、さすがに踏み込みすぎだってペパロニ」
クラスメートを諌めた立場から一転、周囲から非難され困惑するペパロニ。そんな周りの様子も顔を伏せてしまったみほには見えない。
ペパロニの質問はみほにとって答えたくない問いだった。だがみほは思う、せっかく話しかけてくれたのにそれを無視してしまっていいものかと。
みほは黒森峰にいたころ、友達と呼べる人はいなかった。みほのアンツィオでの目標の一つは友達を作ること。そのためなら心の傷をさらけ出すことも覚悟した。
「その、私の家は西住流っていう戦車道の流派の家元で、それで私も黒森峰で戦車道をやってて。でも、去年の全国大会、私のせいでチームが、負けちゃって。お母さんからも西住流に相応しくないって言われて。それで、私、……」
たどたどしく、自身の事情を告白するみほ。語るうちに最初の覚悟は崩れ、声は振るえ、顔からは血の気が引いていく。予想だにしない転校生の重い事情を知ってペパロニは目を見開き、予想通り重い理由を聞いた他のクラスメートたちはそれを引き出させたペパロニに白い目を向ける。
みほが声を詰まらせたとき、スピーカーからチャイムが鳴り始め、みほを囲んでいたクラスメートはさっと自分の席に着き始める。アンツィオ生は暗い話が苦手なのだ。その後クラスに入室した教師は、授業開始前に全員着席しているという異例の事態に驚きを隠せない様子だった。
机の上に開いた、何も書かれていないノートに視線を落とすみほの心境は、今朝とは違い沈鬱なものだった。最初は簡単に、親と喧嘩して家を出てきた、といった感じで軽く話すつもりだった。だが一度口に出し始めると抑えることが出来なかった。
引かれちゃった、よね……。
初手から躓いてしまった学園生活、一度落ち込んだ心はどこまでも沈み、もう私には友達なんて出来ないんじゃないかとまで考えてしまう。授業内容など耳に入らず、頭の中のみほが誰にも看取られぬまま安アパートの一室で孤独死を迎えようとするころ、午前中の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
歓声を上げながら食堂に駆けて行くクラスメートの姿をみほはぼおっと見つめていた。ハッと我に返り、筆記用具を片付けようとするも、手が滑ってペンが転がり落ちてしまう。慌ててそれを拾おうと机の下に潜り込んだものの、机に頭をぶつけてしまう。その衝撃で残りの筆記具が頭上から筆箱ごと落ちてきて、みほははぁっとため息をついた。
私ってほんとドジだなぁ。
床を見つめたまま落ち込むみほの視界に、さっと影が映った。何事かと顔を上げたみほの目の前には先ほど彼女のタブーに触れたペパロニが、落ちた筆記具を収めた筆箱を差し出していた。
恥ずかしさから小声で礼を言い、慌てて受け取るみほだったが、ペパロニは筆箱を差し出した手を戻そうとしなかった。
「ほら」
「え?」
「飯、食いに行こうぜ?」
友達が出来ないと落ち込んでいたところに急に声をかけられてあたふたするみほの手を引き、ペパロニは食堂に走る。何とか転ばないように、みほは足を動かすだけで精一杯だった。
ようやく足が止まったのは食堂に到着してからだった。ペパロニはみほの手を離すと一目散に混雑するカウンターに駆け込んで行った。
みほは混乱する頭で人込みに溢れる食堂を見渡す。今まで味わったことのないような凄まじい熱気だ、ただのランチタイムのはずなのに。みほはアンツィオの食への熱意に圧倒されてしまっていた。
みほがきょろきょろと周囲を見渡していると、二つのトレーを危なげなく運ぶペパロニが駆け寄ってくる。
「何とか間に合ったー、ここのランチ売り切れ早ぇんだよ。お、あっち空いてんじゃん。ほらほら」
「あ、はい」
両手が塞がった状態で器用に催促するペパロニに押されて、彼女が顎で示すスペースに歩を進めるみほ。促されるまま座席につくと、隣に腰を下ろしたペパロニが、二つのトレーを自分とみほの前に置いた。
香ばしいぺペロンチーノと優しい香りの湯気立つミネストローネ、赤と緑の鮮やかなカプレーゼ。見た目も香りも食欲をそそるイタリア料理だった。
「えっと、あの、これ」
「ん? あぁ、そこのバスケットだろ? 中のパーネは自由に食っていいんだぜ、毎日窯で焼いてるからうめーんだ」
みほが目の前のランチに視線を落としながらたどたどしく問いかけると、ペパロニはフォークを手に持ったままテーブルの中央を指して答えた。そこにはバスケットいっぱいに入ったパンがあった。生徒たちは次々にそれを手に取って、ランチのスープに浸したり具材を挟んだり、食後の口直しにと楽しんでいた。
みほは目の前のランチに再び目を向けその量を確認し、まだ食べるんだ、とパンを頬張るアンツィオ生たちに驚嘆の念を向けた。
「って、そうじゃなくて。お昼の代金、私払ってません」
「あー、そっちか。いいのいいの、私の奢りさ。さっき不躾な質問したお詫びと、今日出会った記念だ」
真剣な表情をしたみほの言葉を、ペパロニはからからと笑い飛ばす。
「そんな、悪いですよ」
「いいからいいから。こう見えて結構儲けてんだよ、私。鉄板ナポリタンの屋台出しててさ、売り上げがいい日はこっそり昼飯代に回してんだ。あ、アンチョビ姉さんには内緒だぜ?」
いいから食べなって、と言いながら自分のフォークを口に運ぶペパロニ。その様子を見たみほは、これ以上遠慮するのも失礼かな、と思い、いただきます、と言って頭を下げた。
立派な景観の食堂だが、それでもここは学生用だ。目の前のランチも、カウンターに立てかけられている看板に書かれたメニューを見るに良心的な価格である。しかし日本の熊本に生まれドイツ風の黒森峰で生活していたみほにとっては、とても高級なイタリア料理に見えてしまう。
みほはきょどきょどしていた目をキッと引き締め、パスタにフォークを持つ手を伸ばした。
「!?」
フォークに絡めたパスタを口に入れた瞬間、みほは驚きに目を見開いた。決してしつこくないニンニクの豊かな香ばしさ、和えられたアスパラの甘みとパンチェッタの豊潤な味わいに微かな酸味、ピリッと後を引く唐辛子の辛味。それらが見事に調和して口の中に広がっていく。高級そうな見た目だとみほは漠然と思っていたが、実際の味はそれ以上の価値を持っていた。
「うちの飯はうめーだろ?」
「はい! とっても美味しいです」
「ははは、その顔見れば聞かなくてもわかるよ。いやー、みほは面白ぇーな! あっはっは」
「うぅ……」
美味しそうに黙々と料理を口に運ぶ姿を、ペパロニは愉快そうに眺めていた。そのことに声をかけられて初めて気がつくほどみほは目の前の料理に集中してしまっていた。
そんな様子を可笑しそうに笑うペパロニに、みほは恥ずかしさから顔を赤らめる。と、みほはふとペパロニが自分の名を呼び捨てにしていることに気づく。
「あの、今私のこと、みほって」
「あれ、呼び捨てにしちゃまずかった?」
「そんなことないですっ」
「良かったー、またやっちまったかと思ったよ。姉さんにもよく叱られるんだ、ノリが良すぎて配慮が足りない! ってさぁ」
頭をかくペパロニを見つめるみほの顔は赤いままだ。それは恥ずかしさのせいではなく、喜びに興奮しているからだった。
家族以外から呼び捨てにされるなんて、高校生になってから初めての経験だ。戦車道に携わる者に西住流の名を知らない者はまずいない。そして分別を弁え始めた少女たちは、皆一様に西住の姓を関するみほと遠巻きに関わるのみだった。それは妬みだったり畏怖だったり憧憬だったり、含まれる感情は様々だが、みほを孤独に追いやったことに変わりはない。
そんな友情に飢えていたみほにとって、親密な友人同士が呼び交わす呼び捨てやあだ名に、過剰なほど憧れを持っていたのだった。
「嬉しい、呼び捨てなんて。まるで友達みたい!」
そんな内心の喜びが思わず口に出てしまう。にやけたまま目を閉じ、ペパロニが呼んだ『みほ』という名をかみ締めるみほ。すると突然ペパロニが笑い出し、みほはハッと自分の口を手で塞いだ。
「ははは、あははははは! なんだそりゃ、友達みたいって。くく、はははは!」
「ご、ごめんなさい! その」
腹を抱えて笑うペパロニ、その目じりには薄く涙さえ浮かんでいる。みほは頭から血の気が引いていく音を聞いた気がした。
一度お話しただけなのに友達みたいだなんて、私はなんて厚かましいんだろうか。せっかくお昼に誘ってくれたのに、また失敗してしまった。
みほは咄嗟に頭を下げ、私なんかと友達なんて迷惑ですよね、と言葉にしようとした。だがその言葉はペパロニの人差し指に唇を塞がれたことで、口から出ることはなかった。
「一緒に飯食ってんだ、じゃあ私たちはとっくにダチに決まってるだろ?」
「ペパロニさん……」
「だよなぁお前らー?」
「え?」
「「「おー!」」」
「えぇ!?」
ペパロニの問いかけに、みほたちの周囲から轟くように賛同の声が上がった。気がつくと、みほたちの周りをクラスメートたちが囲んでいる。
呆然として周りを見渡すみほ。そんな彼女と同じテーブルに、クラスメートたちは持ち寄ったデザートを手に次々に座っていく。
「やっぱり西住さんって可愛いよねー」
「うんうん、なんか小動物って感じ」
「てかペパロニさ、お詫びの奢りでぺペロンチーノってみみっちくない?」
「そーだそーだ!」
「うっ、だって他のランチは売り切れてたんだよ」
クラスメートたちは姦しく騒ぎながら、いつの間にか空になっているパンの入っていたバスケットを引き寄せ、その中にそれぞれ色取り取りのマカロンを入れていく。
全員が自分の持ってきたマカロンを入れ終わると、クラスメートの一人が山盛りになったバスケットをみほの元に押しやった。
「どうぞ」
「あ、はい」
彼女たちの勢いに呑まれたみほは、差し出されるままにマカロンの一つを口に運ぶ。みほの知るマカロンとは違うカリッとした食感の後、アーモンドの香りが鼻に抜けていく。ほろ苦くも優しい甘さが口の中に広がっていく。
「美味しい」
ポツリとこぼれたみほの感想に、彼女をジッと見つめていたクラスメートたちは満足げに頷く。そして彼女たちもみほと同じようにバスケットに手を伸ばしマカロンを頬張っていく。
「やー良かった良かった。他所でマカロンって言ったらパリ風じゃん? 今食べたのってアマレッティだもん」
「イタリア風、っていうかそれマカロンじゃないしねぇ」
「みほ、こっちがイタリアンメレンゲのマカロンだよ。あ、私たちもみほのこと、みほって呼んでもいいよね?」
餌付けされる動物のように差し出されたお菓子を頬張るみほ。さっき自分のことを西住さん、と呼んだクラスメートの言葉がマカロンの甘みと一緒に染み込んでいく。
一緒に食事を取ったら友達、それがアンツィオ高校だ。自分と同じバスケットからお菓子を取って楽しむクラスメートたちを見つめるみほは、瞳が潤むのを堪えられなかった。
もちろんです、とすぐに返事をしようとしたが、うまく声を出せそうにない。みほは何度も頷くことで答え、そんな様子を新しい友人たちは微笑ましげに眺めている。
「むぐっ?」
みほの口に、横合いからマカロンがねじ込まれた。反射的に咀嚼し飲み込んだとき、ねじ込んだ手を引きながらペパロニがニッと笑った。
「アンツィオの飯はうめーだろ、みほ?」
「うん!」
久しぶりに、みほは心の底からの笑顔を浮かべることができた。
またいつか続きます