永遠の煩悩者   作:煩悩のふむふむ

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第十四話 日常編その3 ボーイミーツガール

 早朝とすら言えぬほど、その日はまだ朝早かった。太陽は地平線から頭を出すか出さない程度。陽光とすら言えない微かな光が、ようやく周りの闇を和らげ始めている。スピリット達の朝は早いが、それでもまだまだ起きる時間帯ではない。そんな時間に一つの物体が空を悠々と漂っていた。

 タコである。もちろん、海の中にいる蛸ではない。正月などに空を飛ぶ方の凧。日本の遊具。凧は地上から数十メートル高さまで舞い上がり、ゆらゆらと気持ちよさそうに揺れている。その下には凧を操る美しい青い髪のおかっぱ頭の少女がいた。少女の名はシアー・ブルースピリット。二つ名は、『孤独』のシアーという。その顔はニコニコと、柔らかい笑みを浮かべている。指には上空で舞う凧と繋がっている細い糸が巻きつけられていた。

 

 おもちゃの作り方を沢山教えて欲しい。シアーはそう横島に願い、沢山のおもちゃの作り方を教えてもらった。作って欲しいではなく、作り方を教えてほしい。それが彼女の姉との違いであろう。そして作ったのがこの凧だ。材料関係は横島やネリー達に協力してもらったが、作る工程はすべてシアーが行い、途中上手く作れず失敗した凧もあったが、ついに完成し処女航海を行っている。

 この凧を作るための苦労は彼女の手にある傷がそれを証明していた。手先は器用ではなく、物を作る事に不慣れであるため、特に難しい技術を使用しているわけでもないのに指先を刃物で切ったりしている。それだけに、シアーはこの凧が非常に愛おしく、また自分がただの兵器ではないことを証明する証として大切なものだった。また、剣を握る以外の事も出来ると語った横島と悠人の想いに応えているのだという誇りもあった。

 

 シアーは時間も忘れて凧の操作に夢中になっていたが、その時、一際強い風が巻き起こった。糸から伝わってきていた凧の重さが消える。

 

「あっ」

 

 あまり頑丈な糸ではなかったのか、糸はプチンと切れてしまった。

 地上への強制力である糸をなくした凧は、ふらふらと空を渡っていく。

 

「まっ、まって~~」

 

 せっかくがんばって作ったのに、一時間も遊ばずに消えられてはたまったものではない。それに、この凧は自分の姉やヘリオン達に見せると約束してあるのだ。

 神剣を携帯していなかったのは痛かった。神剣さえあれば空中に飛び上がってすぐに取りにいけたのに。

 神剣を持っていないので、流石に新幹線並みのスピードは出せないが、それでもスピリットの健脚で凧を追いかける。

 

 凧は上空の複雑で強い風により右にいったり左にいったり。シアーもそれに合わせて右に行ったり左に行ったり。上ばかり見ているので何度も転んで体をあちらこちらにぶつけて全身に痣を作る。

 ようやく高度を下げ始めたと思ったら、既に森を抜けて、町の中に落ちていった。

 

「ど、どうしよう……」

 

 町の中に入った凧を見て、シアーは困ったように呟いた。

 シアーにとって、町は恐怖そのもの。

 自分達が決して逆らえない人間が沢山いる場所。

 以前、町に行ったことはあるが、侮蔑と険悪の目に晒されて、行きたくない場所となっている。ネリーは明るくへこたれない性格だから特に問題無く歩けるが、自分には……

 

 行きたくない。怖い。恐ろしい。でも――――

 

 作ろうとすれば同じのがまた作れる。恐い思いをしてまで町に行かなくてもいいような気がする。だが、シアーは決断した。

 たとえ同じ物が作れたとしても、それはあの名前を付けた凧ではない。自分の手で作った物をそう易々と諦めてたまるものか。あれは、自分の子供同然なのだ。お腹は痛めていないが手は痛めた。そのうち母乳だって出して見せる。

 そう決心したシアーは、こそこそしながら町に入っていった。

 

 小さく丸くなりながら、物陰から物陰へと移動する。小動物を思わせる仕草だ。

 幸い朝早いせいか、人影はない。

 シアーは急いで凧を探す。人が出てきたらもう探すどころではなくなってしまう。

 右を見て、左を見て、目と足を使い必死に探し続ける。十分ほど探しただろうか。

 

「あったの。良かっ……あ!?」

 

 数百メートル先の街道で地面に落ちていた凧を見つけたシアーだったが、その顔は絶望に染まった。

 凧の隣に人間の少年がいたからだ。隣には白いルガテ(犬)が落ちつかないように少年の周りをぐるぐるしている。

 少年は不思議そうに凧を見つめていたが、何か気に入ったのか凧を抱えてどこかに歩き出す。

 

「待って!」

 

 シアーは少年の前に躍り出た。いきなり現われた少女に、少年は目を丸くして驚く。シアーも反射的に取ってしまった自分の行動に驚き、目の前にいる人間の少年に萎縮してしまった。

 人間と話す。それも、自分から。そんな事出来るはずも無かった。

 

「お前誰だよ……って、人に名前を尋ねるときにはまず自分からだよな。俺の名前はリュートって言うんだ。よろしくな!

 こいつはハトゥだ。ハトゥ(白)だからハトゥ。単純だろ! 野良だけど利口なんだぜ」

 

 いきなりの自己紹介にシアーは面食らう。

 人間に挨拶されたのなんて初めてだった。それもこれほど好意的に。犬はワンと吠えて、じっとシアーを見つめていた。

 

「あ……あの、え~と……シアーなの」

 

「シアーって言うのか。こんな朝早くに出歩いているなんて変わった奴だな。まあ俺もなんだけど」

 

 そう言って少年は屈託無く笑う。

 リュートと名乗った少年は、歳は12,3ぐらいで、シアーと同い年程度。顔立ちは綺麗で、髪は柔らかなブラウン色。声も変声期前なので、女装したらさぞ可愛くなりそうである。放っている空気はわんぱく少年といった感じだが、礼儀はしっかりしているようで言葉使いは結構丁寧。半ズボンに輝くひざと、一部のお姉さん方にはさぞ堪らないだろう。つまり、後のイケメンである。

 挨拶をしてもらった事により、シアーの緊張が少し解ける。

 

「あ、あのね……その」

 

「そうだ! シアーはこれ何か知ってるか? 空から降ってきたんだけど」

 

 リュートが差し出したのは、シアーが作り、探そうとしていたタコだった。

 

「え、え~と、それはタコって言って、糸を使って空で泳がせて遊ぶの。シアーががんばって作って……」

 

「空を飛ぶ!? しかもシアーが作ったのか!? すげーじゃん!!」

 

「え……でも、その……あのあの! 教えてもらって作ったものだから……」

 

「それでもすげーって!」

 

 悪意どころか物凄く好意的な目で、さらには尊敬の目でリュートはシアーを見つめた。

 ここまで純粋に賞賛された事など無い。それも、初めてあった人間の男の子に。困惑もあったし、疑念もあったが、それを遥かに超える喜びでシアーの胸は満ち満ちていた。我が子を褒められて、嬉しくない親はいない。

 ちなみに、ハトゥは凧やシアーの周りでしきりに鼻をひくつかせていた。何故か目が潤んでいるようだ。

 

「なあ、飛ばして見せてくれよ。頼む!」

 

 ニッと笑いながら、だが真剣な雰囲気で頭を下げるリュート。のんびり者のシアーでも人間がスピリットに頭を下げる事がどれほど異端なのか分からないわけではない。嬉しさと混乱がシアーの心の中を埋め尽くす。驚きの連続に返答は出来なかった。

 しかし、シアーの手は戸惑いつつも切れた糸をつなぎ合わせ、風に合わせて凧を空中へと舞わせた。

 空に浮かぶ凧を見て、リュートは歓声を上げる。

 

「すげー!! なあなあ、これ大きいの作ったら、人も飛べるんじゃないか!?」

 

「う、うん、そうかも……でも、シアーは凧がどこまで上にいくのかも気になるの」

 

「そうだよなあ! もしかしたら星や月まで届くかもしれないぞ!!」

 

 希望と熱意を持った目で、リュートは凧をじっと眺める。そしてなんだかそわそわと落ち着かない様子で、シアーと凧を何度も見返す。リュートが何を求めているのか、シアーは直ぐに察しがついた。

 

「……飛ばしてみる?」

 

「いいのか!?」

 

「う、うん」

 

「あり……サンキュ!!」

 

 リュートは強くシアーの手を握ってお礼を言った。いきなり手を握られたシアーは小さく悲鳴を上げて顔を赤くする。リュートは悪いと、顔を僅かに赤らめて謝った。初々しい少年少女の一幕。リュートは改めて凧を受け取ると、それを空に舞わせる。

 

「おお! 飛んでる飛んでる!!」

 

 凧を飛ばして、楽しそうに駆け回るリュート。その姿を見て、シアーは泣きそうになった。

 嬉しい。そんな言葉で表すことなんてできない。

 自分の手で作り出したものが、誰かを喜ばす事ができる。

 心が震えた。

 

 数分ほどリュートは凧を飛ばしていたが、段々と風は減っていき、ゆっくりと凧が地面に降りてきた。

 大切そうに凧を手に持って抱えるリュートを見て、シアーは満ち足りた表情になる。改めて悠人と横島、それにリュートと凧の材料と、失敗作のシアー一号と二号と、自分にお礼を言った。何もかもに感謝したい、そんな気持ちだったのだ。

 ハトゥが胸を反らしながら、オーンと遠吠えをした。シアーとリュートと凧を見比べながら、何かを誇っているようであった。

 

「ああ楽しかった!! 本当にサンキューな!!」

 

「うん。シアーもありがとなの」

 

「何でシアーが礼を言うんだよ」

 

「えへへ」

 

「ははっ!」

 

 二人は優しく笑いあう。それは何処にでもありそうな、しかしこの世界では決してありえない光景。

 それは正に魔法と言っていいぐらいの奇跡だった。幾千のスピリットが望んだ御伽噺。

 だが、御伽噺の魔法は必ず切れる。それも、幸せからどん底へと突き落とすタイミングで。

 

「でも、シアーって何処に住んでんだ。学校でも見たことないけど」

 

「え、えっとそれは……」

 

「それに青い髪って珍しいな……青い髪……青い?」

 

 人間にはありえないような美しい青い髪。

 リュートの頭の中で、何かが思い浮かび、そして固まる。

 こんな青い髪を持つ種族は唯一つ。

 

「奴隷戦闘種族……スピリット」

 

 変わっていく。

 少年の強く澄んだ目が、まるで腫れ物を見るかのような目に。

 何のことはない。リュートはスピリットを差別しない人間ではなく、ただシアーをスピリットと認識していなかっただけだった。

 まるで当然の事のようにリュートの足が一歩、シアーから離れる。顔には嫌悪感が滲み出ていた。

 

「ふん、お前スピリットだったのかよ」

 

 ――――どうしてだろう。さっきまで名前で呼んでくれたのに。

 

「じゃあ、あのおもちゃを作ったのも嘘だろ」

 

 ――――どうしてそう言うことを言うのだろう。さっきまで信じててくれたのに。

 

「スピリットがおもちゃなんて作れるわけないもんな」

 

 以前に同じ事を言った覚えがシアーにはあった。スピリットだからおもちゃなんて作れないと。

 だがそれは間違いだった。だって、作れたのだから。

 

 スピリットも人間も変わりないと悠人は言った。

 自分の手は、神剣を握る以外のことも出来ると横島は教えた。

 その言葉通り、シアーは剣を振る以外の事もできた。それだけは否定させない。

 だって、出来たのだから。この凧はその証明だ。だが、いくら言っても信じてくれそうに無い。

 

 悪い事をしたのなら謝ろう。

 しかし、『スピリットだから』、そんな理由で嫌われるのではどうしたらいいのか―――――どうしようもない。だって、シアー・ブルースピリットはスピリットなのだから。それは議論の余地もないほど単純で、残酷な事実。

 先ほどまで遊び、楽しく笑いかけてくれていた―――――友達だと言ってくれた人間が、今はスピリットという理由で汚らしいものを見るように見られる。その事実に、シアーは絶望して涙腺を決壊させた。

 

「なんで、優しくしたの?」

 

 悲しみと、僅かばかりの恨みを込めたシアーの声が、風に乗ってリュートの耳に届く。

 しかし、その恨みはリュートに向けられたものでは無く、自分がスピリットである事への恨み。スピリットでなければ、こんな目には合わなかったのにという想いで、シアーの胸はいっぱいだった。涙が頬をつたい、顎にまで来てぽたりぽたりと落ちていく。この場にいられなくなったシアーはリュートに背を向けて走り出す。その背をリュートはただ見送るしかなかった。

 

「ワンワン!! ウ~!!」

 

 ハトゥが毛を逆立てて、リュートに抗議するように吠えたてる。

 たまらなく耳障りな吠え声。拳を振り上げて「うるさい!」と怒鳴ると、ハトゥはそのままどこかに行ってしまった。

 まるで、失望したと言わんばかりの態度である。

 

「くそ、何だよ」

 

 何故か胸が痛くなって、地面に目を落とす。すると、地面に光り輝くものが目に入った。

 

「……スピリットって、泣くのか。そう言えば、生まれて初めてスピリットと話したんだよな。つーか、この凧はどうすれば……」

 

 残された凧に、涙で濡れた石畳。

 シアーの笑った顔、泣いた顔。

 人間とスピリット。

 ハトゥの吠え声。

 色々なものが頭の中で渦を巻いて、彼はしばらく呆然と立ち尽くした。

 

 

 

 永遠の煩悩者 

 

 第14話 日常編その3 ボーイミーツガール

 

 

 

 全身に妙な虚脱感が纏わりついているのを実感しながら、リュートは自宅に帰った。その手に凧を抱えながら。

 

「……ただいま」

 

「お帰りなさい、もうすぐ御飯よ。えーと……サンバも良いけど、あまり遅くならないでね」

 

「サンポだよ」

 

 香ばしく食欲を誘う匂いと、優しそうな女性の声がリュートを出迎えた。機嫌良さそうに鼻歌をしながらフライパンを引っくり返しているのは、目もとの小皺が気になり始める30代前半の女性。リュートの母だ。白いエプロンが似合う清楚で清潔な感じがして、中々の美人だ。いや、美人というより可愛いと評した方がいいだろう。丸顔で、垂れ下がった目元は年齢以上に彼女を幼く見せていた。それでもお肌の年齢は隠せないが。

 次にリュートは木製の椅子に腰かけている父親にただいまと挨拶する。父は息子の挨拶に小さく、重低音の声でお帰りと返した。そんな父を前にリュートは少し緊張しながら話を切り出す。まるで犯罪を犯した子供のように。

 

「父さん。女の子を泣かしちゃったんだけど」

 

「……男は女を守らなくちゃいかん。しっかりと謝ってから話し合え」

 

 父親の空気を震わせる野太い声に、リュートは特に怒られたわけでもないのに体を竦ませる。

 少年の父親は、全身筋肉で出来ているのではないかと筋骨隆々とした大男だった。顔の作りもしっかりと骨太で、眉も太くきりっとしている。だが、粗暴な感じはまったくしない。目には深い知性の光が見られる。

 恐くて、でも優しく尊敬できる父。これがリュートにとっての父親だった。ある程度の年齢になればこういう父親は鬱陶しくなるものだが、まだリュートは反抗期手前のようだ。ちなみに仕事はその風貌から想像できる兵士や剣士などではなく、服のデザインから、スピリットが着るエーテル製の丈夫な服のマナの加工から作成、さらには新しい生地を見つける為の情報収集など、非凡かつ多才である。その道では有名で、ピンクのレースの付いたフリフリのドレスを真剣な顔で作っているときは、その異様さに誰も近づけない。メイド服には妙な愛情を持っているようだ。また、これまでに無い服を作る事に情熱を注いでいる。

 

「ちゃんと謝るのよ」

 

 話を聞いていた母親がたしなめるようにリュートに言った。とりあえず喧嘩したら男性が折れて謝る。親達の答えは同じものだった。泣かせた理由も聞いていないのに。父と母。どちらが優位に立っているのか、これだけでも想像がついたりする。二人の答えはリュートにも理解できた。しかし、その相手がスピリットだったら、答えは果たして変わるのだろうか?

 リュートはどうするかしばらく迷ったが、このままでは埒が明かないと親たちに質問する。

 

「父さん、スピリットって何が悪いんだ?」

 

 スピリットは良くないもの。悪いもの。触れてはいけないもの。ずっとそう教えられてきた。それに疑問を持った事も無かった。しかし、何で悪いのかというのは教えられた事がない。シアーというスピリットと話したことで、その部分をリュートは考えることになった。

 唐突なリュートの質問に父親と母親は顔を見合わせる。12歳といえば多感な時期。わんぱくで真面目でしっかりとした文武両道の自慢の息子が、スピリットなんかに興味を示したのが不安だった。

 

「リュート……スピリットというのは……」

 

 父親は説明しようとした。何故スピリットが差別の対象になる理由を。

 しかし、途中で言葉を詰まらせる。

 分からないのだ。どう答えたらいいのか。

 そもそも、スピリットが何故蔑まれるのかなど、考えた者はいない。

 それはスピリット達も同様で、何故自分達が人間に反抗できないのか、何故蔑まれるのか、自身のことであるにも関わらず考えない。

 

 スピリットだから。

 

 これこそが理由であり、それ以外にありえない。

 だが、息子はこの答えを良しとしないだろう。

 息子が聞きたいのは、スピリットだから差別される理由なのだから。

 

「スピリットは、死と不吉の象徴だと言われているからだ」

 

 どこかで聞いた覚えがある言葉を、父親は思い出して言うが……

 

「何で?」

 

 そう返してきたリュートに、父親はこのときばかりは息子の聡明さを恨んだ。

 他者の言葉を簡単に鵜呑みにしない。

 何故そうなのか。どうしてそのような結論に至ったか。しっかり筋道を立てて考える。

 こんな風にリュートを育てたのは他ならぬこの父親なのだが、それが裏目に出ていた。

 

「リュー! いい加減になさい!! 悪いものは悪いのです!!」

 

 答えられない苛立ちから、母親はヒステリック気味にリュートをしかりつけた。

 自分の息子を思っての行動だった。

 もし、万が一にも、妖精趣味なんかになってしまえば、人生は暗く重いものなってしまう。例え冗談でも、スピリットに肯定的な言動などしてはならなかった。人という生き物は負の噂ほど好み、それを拭い去るのは難しいのだから。

 

「……ごめんなさい」

 

 リュートはぺこりと頭を下げて謝罪した。

 自分の質問が大好きな父と母を苦しめていると気づいたからだ。

 父親も母親も謝ったリュートを見て心を落ち着ける。

 

「良い子ね。ご飯できるから席について待ってなさい」

 

 穏やかな食事が始まる。

 少しトラブルはあったものの、いつも通りの何気ない朝の一コマ。

 だが、リュートは心の内側で答えられなかった父親と母親に少しだけ失望し、それ以上にスピリットと呼ばれる存在に興味を示していたのである。

 

「ずる休みしちゃったな、さてこれからどうやって手がかりを探すか」

 

 太陽が真上にあることを確認して、凧を手に持ったリュートは憂鬱そうに、しかしどこか興奮の色を帯びた声で呟いた。この世界にも学校はある。大抵の子供は最低でも10代中頃までは学校に通っていた。リュートも、その一人だ。

 スピリットとは何なのか、いまだに分からない。

 教室にあった本を何冊見ても、なぜかスピリットが差別されている理由は書かれていなかった。

 誰に聞いても分からない。文字を教えてくれた先生も歴史に詳しい先生も、知っている人はいない。

 問い詰めると、強い口調でそんな事を考えるんじゃない、と怒られてしまった。

 

 この人達は自分も理解していないことを教えているのか。

 

 それが分かったとき、リュートは初めて大人という生き物を見下した。

 スピリットと人間の関係という題材は、思春期特有の自分と他者の違いを明らかにしたいという欲求と、当たり前とされているのに反発したいという欲求の原動力になっているようだ。

 先生とケンカして居づらくなったリュートは体調が良くないと言って学校を早びきすることにした。その本心はスピリットの謎を探っていこうという気持ちからだ。

 さて、スピリットが何故虐げられているのか、その謎を探っていこうと、特に当ても無いのに町中をはりきって歩いていたリュートだったが、そうして曲がり角に差し掛かったところで、柔らかい何かが思いっきり顔に直撃した。ぶつかったのはまるで捏ね始めたパン生地のように柔らかく良い匂いのするものであったが、結構な勢いでぶつかったようで思わず尻餅をついてしまう。

 

「いたた……すいませ……ん!?」

 

 ぶつかった相手に謝るリュートだったが、その相手の姿を見て言葉を失う。

 まず目に付いたのは、日の光を浴びて炎のように煌めく赤い髪。腰まで届いているストレートの艶のある赤髪は、別に確かめたわけでもないのに枝毛など無いことを確信させるほど美しかった。目も鼻も耳も肌も、欠点を見出すことなど出来ようもないほど整っている。

 美人だ。ありきたりな形容詞など必要ないほど綺麗な女性―――――そんなことどうでも良い。

 このような赤い髪の持ち主は、人間にはいない。また、腰にある双剣は城の兵士が使う鉄の武具とは比べ物にならないほどの輝きを放っている。

 このことから分かる事は、彼女はスピリットなのだ―――――そんなこともどうでも良い。

 リュートはこの美人の口元に目を奪われた。いや、奪わされた。

 その美人はとても大きなフランスパンを咥えていたのだ。

 目も覚めるような美人が、大きなフランスパンを咥えて、じっとこちらを見ている。

 美人フランスパンに動く様子は無く、こちらが何らかのアクションを取らなければいけないような気がするが、はたしてどう行動すればいいのか分からない。

 様子を見ること10秒。ようやく、フランスパン系美女は喋ってくれた。

 

「はひゃにゃが、わひゃひほあひでひゅか?」

 

 何を言っているか分からない。

 本来なら笑えるような場面だが、ギャグをやっている方があまりに真剣な顔をしていて、さらには美人だからシュールという言葉が良く似合った。

 

 ―――――今日の晩御飯なんだろう? 

 

 現実から逃げるように思考を此方へと飛ばす。

 遠い目をしたリュートに、フランスパン入り美女(卑猥ではない)はパンを離した。

 

 ああ、これで言葉が通じ――――

 

「貴方が、私の愛ですか?」

 

 通じない! 理解不能!!

 

「……変です。愛が始まりません」

 

 変なのはお前の方だろ!! 愛って何だよ!? 愛って!?

 

「そうでした。見せなければいけなかったです」

 

 リュートの心の突っ込みを無視して、美女は一人で納得したような顔になり、ズボンに手をかける。そして、そのまま手を下に動かした。

 

「うわあ! 何をやっているんですか~!」

 

 リュートは咄嗟に美女の手を掴んで止める。

 

「はい、貴方にパンツを見せようと思いまして」

 

「何故に!?」

 

「愛ゆえに」

 

 言葉は通じない。いや、通じてはいるのだが、意味が分からない。

 このままでは目の前に美女のパンツが現れてしまう。リュートは優しく良識ある少年だった。こんなところで女性がパンツ丸出しになれば、明日からこのスピリットは町を歩けなくなる。ちらほらと周囲に人影はあるのだから。

 しかし、そんなリュートの思いとは裏腹にゆっくりとズボンは下がっていく。

 リュートが顔を青ざめる。その時だ、

 

「本当に何やってるの!!」

 

 そんな声が聞こえたかと思うと、ガツンという鈍い音が聞こえた。

 フランスパン系の美女は頭を押さえて痛そうにしている。その後ろには拳を振り上げている赤髪ショートカットの美女がいた。

 助かったとほっと息をついたリュートだったが、すぐに表情を強張らせる。

 

 今のこの現状を他者にはどう見えるか。

 美女のズボンを脱がそうとする変態少年。実際は逆なのだが、普通そう考える事はできないだろう。

 

「ち、違う!! これは……だから!」

 

「分かっています。本当にウチのナナルゥが迷惑を掛けて……申し訳ありません」

 

 赤いショートカットの美女がすまなさそうな顔で頭を下げる。そして、ナナルゥの方に振り向いて、キッと鋭い目を向けた。ナナルゥもほんの僅かに恨めしそうな目で赤いショートカットの美女、ヒミカを見据えた。

 

「ヒミカ、いきなり何をするのですか」

「それはこっちの台詞よ! 一体何をしようとしていたの!!」

「ですから、ズボンを脱ごうとしていたのですが」

「どうしてよ!? ヨコシマ様菌にやられちゃったの!? それが愛なの!?」

「しかしこの本では、女性がパンを咥えたまま対象に体当たりをして動きを封じ、さらに下着を見せ付ける事によって愛が始まったと記してありますが……」

「一体何処から突っ込めばいいのよ!!」

「突っ込む? 突っ込むのは1ページ後の、ベッドシーンからなのでまだ早いと思いますが」

「たった1ページでどうやってそこまで進んだの!?」

「それは拉致監禁――――」

「もういい! 何も聞きたくない!」

「最近夫の帰りが遅い。ざわめく心。疼く体。目の前に現れた幼さを残した少年に爆発する欲望。そして拉致監禁」

「って! 女性の方が拉致したの!? しかも既婚!! なんてアブノーマルな!!」

「女性の持て余していた情欲とテクニックの前に、純朴な少年はすっかり骨抜きにされ、二人は共に暮らすことを決意します。しかし、その為には夫が邪魔。二人は協力して夫を殺害しますが、そこにばっちゃんの名をかけて、という名探偵が現れて」

「色々まてい! とりあえず、貴女に夫はいないでしょうが!!」

「ならヨコシマ様で」

「それじゃあ彼が死んじゃうでしょう!!」

「ああいえばこういう」

「誰のせいよ~!!」

 

 そんな会話を、リュートは離れてこっそりと観察していた。

 

(あれがスピリットなのか)

 

 イメージが音を立てて崩れていく。

 別にこれがスピリットだ、という確たるイメージは持っていなかったが、とにかく色々と違うとだけは思った。なんかもうスピリットなんてどうでもいいじゃん、となんだか投げやりな気持ちになるリュートだったが、ぶるぶると頭を振った。

 

(きっと、あの二人はスピリットの中でも凄い変わり者なんだ!)

 

 リュートの頭の中で、ナナルゥとヒミカの二人は例外と位置付けた。

 もしヒミカがこの事を聞いたら、きっと『どうして私が』と涙するだろう。

 

「うん。見なかった事にしよう」

 

 自己防衛本能がしっかりと内臓されている少年は、正しい選択肢を選べたようだ。ナナルゥ達からこっそりと離れた。

 とりあえず、今さっきのは無かった事として再度スピリットとは何なのか、探求の旅に出ようと歩を進める。リュートは何だか楽しかった。禁忌とされているスピリットに近づくことが。定められた規約に反発する火遊びに似た快感。少年の足は独りでに歩き出しそうなほどウキウキしていた。

 しばらく歩くと、また一人のスピリット見つける事ができた。

 

「すいませ~ん! お財布落としましたよー!」

 

「おお! どうも済まないねえ!」

 

 黒髪でツインテールの少女が、落とした財布を拾って持ち主に届ける。落とし主の壮年の男は人好きそうな笑顔を浮かべて財布を受け取るが、少女の腰にある刀に気づき、スピリットだと分かると途端にしぶい顔になった。

 

「抜き取ってないだろうな」

 

「そ、そそそそんな事しないですよ~!」

 

 男がスピリットの少女に詰め寄る。黒髪のスピリットは可哀そうなほど顔を青くしながら、ぶるぶると首を横に振った。

 こういうことがあると、話には聞いていた。スピリット相手に商品を売らなかったり、間接的な嫌がらせをすることはよくあることだと。まあ、良くあると言ってもスピリットと人間がコミュニケーションを取る事など滅多になく、商人や兵士が必要最小限に付き合うだけらしいのだが。

 

「そのスピリットは、ただ貴方の財布を拾っただけですよ。僕が見てました」

 

 リュートはそっけなく言った。

 別にスピリットに優しくしようなどと考えたわけではなかった。ただ、正義を為そうと思っただけのこと。そう自分に言い聞かせる。

 男はばつの悪そうな顔をして、すまないと『リュート』に頭を下げてその場から足早に去って行った。

 実際に疑ったスピリットに謝らない男を、リュートはどこか滑稽に感じて口元を歪め、しかし、もし自分が同じ立場だったら頭を下げることができただろうか、と考えると少し恥ずかしくなった。

 

「あ、ありがとうございますぅ! 助かりました!!」

 

 黒のツインテールをふりふりと揺らし、花のような笑みでブラックスピリットの少女、ヘリオンがこれでもかと頭を下げる。

 おどおどしているが賑やかそうな子だ。それがリュートの第一印象だった。

 

「こんなに親切にしていただいたのは初めてです!」

 

 本当に感激しているようで目がキラキラと輝いている。リュートは気恥ずかしさと、居たたまれなさを感じた。

 悪いのは人間の方なのに、こんなにも感謝されるのは変だと思ったのだ。

 

「違う! 俺はただ、正しい方が謝っているのが可笑しいと思っただけだ!!」

「ひゃ、ひゃい! すいません!!」

 

 リュートの照れ混じりの大声に、ヘリオンはまた涙目で謝る。別に怖がらせたいわけじゃないのにと、唇をへの形にした。

 

「まったく……お前みたいな怖がりが、本当に戦ってるのか? 」

 

 スピリットとは戦闘奴隷。職業は戦士だ。本当にこんなおどおどした女の子が剣を振って敵と戦っているのか。どうにも納得がいかなかった。

 

「戦いは怖いですよぉ! とっても! でも、私はスピリットだから」

 

 まただ、とリュートは思った。

 スピリットだから。

 まるで呪文のように何度も何度も繰り返しに出てくるその言葉。

 人間どころかスピリットすら同じ事を言う。まるで呪文だ。

 どこか得体の知れない薄気味悪さを感じて、背筋が寒くなった。

 

「私は、今日の事を絶対忘れません! ありがとうございました!!」

 

 何度も何度も頭を下げ、彼女は去った。リュートは思わず手を振りそうになって、慌てて自戒した。

 

「手前からも礼を」

 

「うひぃ!」

 

 いきなり後ろから声を掛けられて、思わず変な声を出すリュート。後ろに振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。銀色のツンツン頭で褐色の肌。まるでパーティードレスのようなピンクのワンピースに、何故かその上に鉄の肩当てや胸当てをするというファンキーな、もしくはクレイジーとも言えるファッションである。

 しかも良く見ると、ワンピースの下には黒のレオタードのような物を着ているではないか。

 親の仕事柄、多種多様な服や鎧を見てきた。だが、これは正に何が何だか分からない。一体何の目的があるのだろうか。

 

 リュートは自分が、どこか緊張していると理解した。思わず伸ばしてしまった背筋と、揃えてしまった足がその証拠だ。格好は変だが、目の前の女性が纏っている空気がどうにも尋常では無い。迂闊に手を出せば切られそうな、そんな空気を纏っている。

 女性はじっとリュートを見つめる。女性の方も、どこか緊張しているようにも見えた。

 

「今日は良い天気です」

 

 かけられた言葉は、平凡すぎるほど平凡だった。リュートの緊張が僅かに解けて、そうですね、と返事をしようと思って空を見上げたが、そこで言葉が詰まる。

 朝こそ晴れていたが、今はどんよりと曇っていた。

 それに気がついた女性は少し困った顔になる。

 

「このぱた~んは想定していませんでした……どうしたらよいでしょう」

 

「どうしたらって言われても」

 

 そもそもどうしたいんだよ!

 

 緊張が解けるどころか、脱力してしまった。

 不思議な格好良さがある女性だと思ったが、どこか間抜けに見えてしまう。

 

「では、井戸は近くにありませんか?」

 

「なんで井戸なんか」

 

「はい。井戸端会議なるものをしたいと思いまして」

 

「……あの、井戸端会議って別に井戸のそばでやるってわけじゃあ」

 

「なんと! そうだったのですか……困りました」

 

 女性は首をひねる。普通に困っているようで、う~んと唸っていた。どこか幼く見えて、リュートは込み上げてくる笑いをかみ殺すのに必死だった。

 

「すみませぬが、話のねたがなくなったようです。手前はこれで失礼させていただきます」

 

 女性は軽く会釈すると、無駄のない動作で人ごみの中に入っていく。容姿と服装からかなり目立ちそうなものだが、どういうわけか風景のように溶け込んで目立たない。そうして女性は消えていった。

 一体何だったのか。よく分からないけど、ただの一般人ではない。

 謎の女性、現る。秘密や陰謀の匂いに、少年の空想は羽ばたいた。

 なんだか今日は面白いことばかり起こる、と心が弾む。

 

 さあ、まだまだスピリット探求の旅に出発だ!

 

 意気揚々と足を前に出し、転んだ。手に持っていた凧を庇って、思い切り地面に体をぶつける。

 

 頭の中を洪水が流れた。風が吹いた。地が揺れた。人智を超える天変地異が吹き荒れた、

 抱いた疑問や疑念。そう言ったものが洗い流されていく。先ほどあったスピリット達の顔も、今はぼんやりとしていてよく思い出せない。

 あれ。どうして思い出せないのだろう。そんなに強く頭を打ってしまったのか。

 そんな疑問も生まれたが、次の瞬間にはそれも消えた。

 そして、スピリットに対しての答えが生まれる。

 なんで俺がこんなにも考えなくちゃいけないんだ。相手はしょせんスピリットだ。スピリットだから、どうせ嘘だ。そうに決まっている。

 そんな結論を出すと、急にリュートの頭はすっきりした。何故かは分からない。

 ただ、不思議と気分が良くなった。まるで、それが当然であるかのように。一体先ほどまでの思考と苦悩は何だったのかと、嘲笑うかのような感覚だった。誰に、どうして嘲笑われるのかは定かでは無いが……

 手に持っている凧と呼ばれた道具に力を込める。

 

 汚れたスピリットが持っていたものだ。こんなものを持っていたら、こちらまで汚れてしまう。しかも、自分で作ったなんて嘘を付いたスピリットだ。こんなもの壊さなければいけない。

 

 凧に力を込める。ミシミシと凧が鈍い音を立てる。もう少しで壊れる、そこまできてリュートは凧に文字が彫られている事に気づく。

 そこには小さく、こう記されていた。

 ウルトラシアー第三号と。

 

「あいつが……これを作ったんだ」

 

 嘘なんかじゃなかった。

 確かにこれはスピリットであるシアーが作ったのだ。

 ネーミングセンス悪くないか、などとも思ったが、それは口に出さない。

 

「どうすれば……」

 

 またしてもリュートは頭を抱えた。

 向こうに非があると思ったのに、非があったのはこちらだった。誰が何と言おうと、自分が悪い。

 例え親が、先生が、神であっても、誰がなんと言おうと俺が悪かった。そう強く思う。頭がまたずきずきと痛んだが、胸の内はすっきりしていた。

 

「謝らなきゃ……」

 

 こちらが間違っていた。だから謝らなきゃいけない。

 純粋で、少年らしい正義感を持っているリュートは素直にそう思った。

 だが、その思いはすぐに価値観の壁にぶち当たる。

 

 人間である自分が、スピリット相手に謝る?

 ありえない。下等な奴隷相手に頭を下げるなど。

 

 尊敬する親からも、教師からもスピリットに謝るなど教わっていない。そもそも常識として、奴隷に頭を下げるなんてありえなかった。だが、両親からは悪い事をしたら謝りなさいという教えを受けている。女の子には優しくと言われている。リュート自身もシアーに謝りたいと思っていた。しかし、相手は奴隷戦闘種族スピリット。

 一体どうしたらいいのか。

 生まれてきて12年。素直に正しいと思う事を実践してきたリュートにとって、何が正しいのかが分からないという事態は始めてと言えた。どちらかが正しいとしたら、どちらかが正しくないという事になってしまう。

 う~ん、と腕を組んで考え込むリュートだったが、

 

「美人の姉ちゃん~~!!」

 

「いい加減にしろ~~!!」

 

「んぎゃあーー!!」

 

 突然響く叫び声に現実へと引き戻される。

 一体今の悲鳴はなんなのかと、声のした方を見てみる。すると、一人の男が女性にちょっかいをかけて、殴り飛ばされていた。地面に沈む男を見て、女性はふんと鼻を鳴らし去っていく。

 ただのナンパかと、興味を失いかけたリュートだったが、よくよく見るとそれはただのナンパではなかった。

 ナンパ男は、馬鹿にされても、殴られても、無視されても、めげずに女性に声をかけ続けている。それは踏みつけられても踏みつけられても、挫けず伸びようとする雑草に似た輝きを持っていた。もしくは変態だった。

 

「つーか……またあの人は」

 

 リュートの顔が険悪に歪む。すたすたと大股でナンパ男の前まで進み、グッと胸を大きく張って目の前の男に声をかけた。

 

「何やってんですか、ヨコシマさん」

 

「くっそ~! 今日は調子が悪いな……なに、いつものことだと! いつもは100人に一人は話ぐらい……別に哀れじゃないわい!!」

 

「聞いてください!」

 

 大声に、ようやく青年―――横島は気づいたようで、じっとリュートを見つめて、

 

「なんだ、どこかで会ったか坊主」

 

 こ、この人は!!

 

「リュートです! 家には何度も来てるじゃないですか!!」

 

「ああ、そうだった。ところで、おやっさんの調子はどうだ。スク水の作成は!」

 

「似たような繊維か無いってぼやいてました。エーテル加工の布なら近い物が作れるって言ってたけど……」

 

「じゃあ、いいだろ」

 

「何言ってんですか。エーテル製の服は鉄製の鎧よりも頑丈なんですよ。どれだけ希少価値が……大体、原材料がマナである以上、とても高価。さらに設計図があるわけでも無いし、個人で作るには無理があります」

 

「う~ん……じゃあ古着の集まり具合はどうだ。女性用のアクセサリーとか小物とか」

 

「いくら家にそういう方向の人脈があるって言っても、何十着もの古着なんてそうそう集まる物じゃありませんよ。着れなくなっても、雑巾にだってできるし、焚き火の原料にだってできるんですから。アクセサリーだって貴金属の類は磨けばまた輝くし、大切な思い出の籠ったものを早々手放す訳ありません。

 そんな事も分からないんですか」

 

 リュートの言葉にはいちいち棘は混じっていた。表情も少年らしい燦燦とした清潔さが抜けて、しかめっ面になっている。

 基本的にリュートという少年は真面目で礼儀正しい。そして心が広く、好奇心が強いため何事にも寛容な少年だったから、何かを極端に嫌うということは少なかった。だが、エトランジェ・ヨコシマだけは別。なにせ初めてリュートの家を訪ねたとき、いきなり母親に飛びついて口説いたのだ。そして父親に殴られて、涙目でごめんなさいと地に頭をこすり付けた。

 軟弱でにへらにへらと笑い、女好きで恥知らずな言動。誇りも羞恥心も全くない。

 こんな男がいるのかと、リュートは軽いショックすら受けたのだ。

 それから少し話したが、とにかく生理的に受け付けず、リュートは横島の事が嫌いだった。

 リュートの容赦のない口撃は続く。

 

「『変態』のヨコシマ」

 

 ぼそりと、リュートは軽蔑の声で言った。小さい声だったが、ギリギリで聞こえる程度には大きかった。

 

「そうです! 私が『変態』のヨコシマ……変態ってなんじゃあーー!!」

 

 いきなり変態呼ばわりに変態……もとい、横島が絶叫する。

 

「街での噂です」

 

 二人いるエトランジェの内、一人は変態らしい。

 女を見ればいきなり飛びついてくる奴だ。

 赤いバンダナをしている。

 奇声を上げる。

 女風呂を覗く。

 顔がやらしい。

 空から降ってくる。

 視線で女を妊娠させる。

 エトセトラエトセトラ……

 悠人と違い、普通に街に出て住人たちとコミュニケーションをとっている横島にはそんな噂が流れていた。

 大体合っているというのも何だか凄い。

 

「な、なんつー二つ名だ……ちょっと若いリピドーが押さえられないだけだってのに!」

 

 がっくりと肩を落とす横島の姿に、『天秤』は呆れた声を出した。

 

『やれやれ、『変態』のヨコシマ……とはな、余りにも似合いすぎて……いや、待てよ』

 

 『天秤』はその二つ名が示す意味を考えた。

 スピリットやエトランジェの二つ名は大抵、神剣の名前で決まる。

 悠人なら『求め』という神剣を使うので、『求め』の悠人

 アセリアなら『存在』という神剣を使うので、『存在』のアセリア。

 例外として、ラキオスの青い牙や漆黒の翼のような二つ名もあるが、基本的には神剣の名が基準となる。

 横島の場合には、『天秤』の横島。そう呼ばれるはずなのだ。

 しかし、実際は『変態』の横島と言われてしまっている。

 つまり、その理屈で行くと……

 

「そうだ、一回でいいので、貴方の神剣見せてくれませんか。『変態』ってどんな剣なんです」

 

 そういうことになるのだ。

 『天秤』の名前は、町の中では『変態』と噂されていたのだ。

 その事実に、『天秤』はガガーンと衝撃を受ける。

 

『へ、変態? 私の銘が変態!?』

 

「いやあ~ぴったりだな~」

 

『何がだ! 名誉毀損で訴えるぞ!!』

 

「なに言っているんだよ。ロリでペドで触手なお前にはピッタリだと思うぞ」

 

『だから! それは勘違いだと何度言ったら――――』

 

 『天秤』の声は横島とエニ以外に聞こえない。

 リュートには横島が一人で喋っているようにしか聞こえないのだ。

 本当に変態だと、リュートは辟易した。

 

「はっきり言って、それだけで済んでるってほうが不思議です。もう少しヨコシマンを見習ったらどうですか」

 

 ヨコシマンとは、一ヶ月ほど前に流行り始めた紙芝居に出てくるヒーローの事だ。

 ヨコシマンとパートナーのミカ・レイ、それに助手のおキーヌの三人で繰り広げられる痛快活劇。お共に白いイヌと金色のキツネなる動物を従えて怪物相手に立ち回り、強気を助け悪を挫く。笑いあり涙ありの物語で、子供は勿論、大人も楽しめる。物珍しさも手伝って話題性はかなりものだ。さらに、見ている子供達にはお菓子が配られるなど、その人気は確実に広がっている。

 リュートもヨコシマンは好きだが、それ以上に好きなのは配られるお菓子だった。その中でも大人気なのは、出所不明の極少数のお菓子。そのお菓子はどの店にも売られておらず、誰かが個人的に作っているのだろうが、やはりそれも謎に包まれている。

 そもそも、その紙芝居の店自身に謎が多い。

 何処からともなく現れて、物語を語って、何処かに去っていく。目的は不明だ。

 周囲に人が集まるため、商店街では『店の隣にこないかな~』なんて思われている。

 ヨコシマンの物語にも鉄の車や動く絵など、聞いたことも考えたこともないビックリドッキリメカが現れるなど、斬新な発想が随所に盛り込まれていて不思議なリアリティがある。

 ヨコシマンにはモデルとなった人物がいると噂があるが、それが誰なのかは一切の謎に包まれている。

 つまり、殆どが謎なのだ。

 

 まあ、それはさておき。

 

 容赦の無いリュートの蔑みオンパレードに、横島は流石に腹が立ったようで、威嚇するようにギロリと睨み、大人の威厳を見せようと胸を張り凄んだ。実に大人気なかった。

 

「もう少し目上の者を敬えんのか!」

「子供でも敬う相手は選びたいですから」

「かっ~~! なんつー憎たらしいガキじゃ!!」

 

 顔を赤くして激昂する横島。それを呆れた目で眺めるリュート。その様子を通りすがりの通行人は、「また馬鹿やってるよ。あのエトランジェ」という顔で見つめていた。それは嘲笑というよりも、失笑や苦笑の類である。

 横島は完全に町中に溶け込んでいた。ある意味、ラキオス城下の風物詩といっても過言ではないだろう。当然だが、良い意味ではない。

 やれやれと呆れていたリュートだったが、ここであることに気づいた。この男ほど、スピリットに近づいている人はいない。

 ある意味、一番スピリットに近い人物だ。

 スピリットを調べるなら、この男に聞くのが手っ取り早いのではないかと。

 

「ヨコシマさんはシア……じゃなくて、スピリットと一緒に暮らしているんですよね?」

 

「……そうだけど、なんだよ?」

 

「スピリットって……その……どういう感じですか」

 

「美人で可愛い!」

 

 この男の脳みそにはそれしか詰まっていないのだろうか?

 リュートの呆れは頂点まで達したが、納得はできた。

 あのシアーというスピリットは、今まで見てきた同年代の女の子達の中で一番可愛いだろう。

 正に人間離れした美しさと言える。思わず見とれてしまうほどだ。

 シアーの事を思い出したリュートの胸は、ドキンと強く脈打った。

 

「それだけじゃないぞ! スタイルだって良いし、料理に洗濯と家事全般が基本オールオッケー!! 嫁に来い来いスピリット!! その中でも一番はハリオンで、反則的な胸を―――」

 

 横島の独白は続いている。

 道の往来でスピリットは可愛いだの、スリーサイズだの、大声で撒き散らす。

 こんなことをやっているから、『変態』のヨコシマなんて二つ名が広まるのだろう。

 付き合っていられないと、リュートはそそくさと離れた。これが同じ男なのだと思うと、こちらの方が恥ずかしくなってくる。

 こんな男と話していても得るものはない。

 横島をその場を後にして歩きだすリュート。

 

「つまりだな俺が言いたいことは、スピリットだろうが、人間だろうが、可愛い女の子は最高だと――――」

 

 スピリットだろうが人間だろうが。何故かその言葉が、リュートの耳にこびり付くように残った。

 

(シアーに会いたいな)

 

 シアーの顔を、声を、手のぬくもりを、見たく聞きたく触りたくなった。

 歩く速度が上がり、手は拳を作り、胸は熱くなる。何かが芽生える。

 それが何なのか、リュートはおぼろげに理解して、いてもたってもいられず走りだした。

 

 

 

 その頃、シアーは一人で町をさまよっていた。ビクビクと震えながら、まるで人ごみの中に投げ出された小動物のように。

 

「へっへー! シアー、タコってどんなの! 早く遊ぼうよ!!」

 

 凧と、そしてできるはずだった友達を無くして帰ったシアーを出迎えたのは、姉のそんな一言だった。

 姉にはいつも助けて貰ってばかりだった。

 だから、姉に喜んで貰いたかった。なにより、見たかった。自分の手で作ったものが、大切な人を喜ばして笑顔にするところを。

 一から作り直す事はできただろう。しかし、それには時間がかかる。

 その一心で恐怖を打ち払い、凧を取り戻しに町までやってきた。あの凧を返してもらおうと。

 しかし、そこはやはり悪意の巣窟であった。

 大通りで人が沢山歩いているというのに、シアーの周辺だけがぽっかりと空いている。

そして、あちらこちらから、シアーの心を傷つける嘲笑と侮蔑の声が、ひそひそと聞こえてくるのだ。

 無数の悪意がシアーの全身に襲い掛かる。

 見えない刃物で全身を切り刻まれているような感覚に、シアーは全身を震え上がらせた。

 

(恐い……恐いの!)

 

 こうなることをシアーは知っていた。それでも小さな勇気を奮いあがらせて町までやってきた。

 しかし、そんな小さな勇気が多くの悪意の前に押しつぶされかけている。

 

(ネリー……ヨコシマ様……ユート様……誰か助けて!!)

 

 心の中で助けを求めるがそれに応えられるものはいない。

 ついに限界が訪れる。

 シアーは目を閉じ、耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んでしまった。

 

 この場から消えてしまいたい。

 

 スピリットであり、何より心優しいシアーは周りの人間たちが消えてくれなどと思うことが出来ない。草食動物の子供が肉食動物の群れに紛れ込んだように、シアーは泣いて、鳴き続けた。助けて、助けてと。

 

 この人間たちは何をやっているんだろう。

 

 その場面を見て、リュートはただそう思った。特に何かしたわけではない一人の少女を大の大人たちが囲み、ひそひそと陰口を叩き合っている。無論、スピリットは国の所有物であるから、直接何かをするわけではない。だが、そうした直接的な暴力がないからこそ、見えない悪意が多く渦巻いていた。それは醜悪で、腐臭を放つ汚物のようで、その全てが泣いている一人の少女に送り込まれている。

 

 醜かった。リュート自身が持っている正義感と親から教え込まれた倫理観がむくむくと大きくなる。

 助けなければ。

 そう考えて足を進めようとしたが、数歩だけ歩いて足が止まった。

 リュートは聡明だった。

 もし、この場でシアーに近づき助け出したりしたら、どのような目で見られるのかを理解していた。スピリットと仲良くなんかなれば、どれほど白い目で見られるのか想像に難くない。親、友達、同級生、その全てに絶交される可能性すらある。

 

(そうだ。後から慰めてやればいいんだ)

 

 それは一つの妥協。己の名誉と正義、それにシアーを守るという二つの目的を達する上で必要なこと。

 この時、リュートの脳裏に二人の男がよぎった。父と横島だ。

 あの変態男なら、きっと己の名誉など気にせずにシアーを助けに向かうだろう。父も、男なら女を守ると言って、愚直に進むであろう。まったく性格は違うが、やることは同じだ。

 父に近づきたい。そして、あの変態に負けたくない。

 少年は一歩を踏み出す。

 

 ――――――俺は、男だ!!

 

 キッと眉を吊り上げ、頬を引き締め、唇を硬く結ぶ。自分が信じる、強き男の顔を作る。

 人だかりの間を強引に進む。進めないときは、プライドを捨てて股座の間を潜り抜けた。遂に泣いているシアーの前に立ったとき、周りから痛いほどの視線が送り込まれてくる。何人かは早く引き返せと言っている。親切心からだろう。しかし、そんな言葉でこの少年の心を動かすことなど出来るはずもない。

 俺はお前らとは違うんだと、自信と確信に満ちた表情だった。

 

「おい、シアー。大丈夫か!」

 

「ふぇ……」

 

 濡れた青い宝石のような瞳で、シアーはリュートを見上げた。見た目の愛くるしさも相当なものなのに、涙目の上目遣いという反則コンボまでそこに加わる。

 

(やっ、やっぱり可愛い~~!!)

 

 心の中で絶叫する。こんな場面で不謹慎とは思ったが、可愛いものは可愛かった。気恥ずかしさからそんな言葉はもちろん出さない。しかし、顔は赤くなり珍妙に歪む。本人は真面目で格好良い表情を作ろうしているのだが、どうにもにやけてしまっているからだ。

 

「リュート君!!」

 

 すがれる存在を見つけたシアーの行動は、とても単純だった。

 全ての力を使って全力で抱きつく。

 体の割には育っている胸を存分に押し付けた。

 12歳。

 男の子が、男に目覚め始める微妙な時期。

 

「シアー! 落ち着いくああ柔らかくて良い匂いで~~!!」

 

 女の子特有の匂いと、膨らみ始めた果実を押し当てられ、リュートは情けないほど混乱した。

 格好良く、頼れる男のイメージを作ろうとしたリュート少年の目論見は脆くも崩れ去った。

 情けないと心の中で歯噛みする。

 しかし、シアーにとってはその方が好感を持てた。赤く不恰好に緩んだ、お世辞にもハンサムといえない崩れた顔は、シアーがだれより信頼している隊長にそっくりだったからだ。

 

 周りからの声が大きくなる。

 スピリットが人間に抱きつく。強引にでも引き離したほうがいいのでは?

 ざわざわと騒がしくなるが、その声はぴたりと止まり、人波がさっと割れる。そして、一人の女性が悠然と現れた。

 セリアだ。鋭い目でシアーとリュートを見つめている。

 

 ――――厳しそうだけど、優しそうな人だ。とっても綺麗だし。

 

 そんな感想を持ったリュート少年は、自分が恥ずかしくなった。

 リュートは少年らしい少年で、女性を見て綺麗とか美しいとかを思うことを背徳的であると信じていた。今日はもう何回、女性相手にだらしない顔をしてしまったか。悔しくて情けなかった。

 

「こんにちは。リュート・タナーです」

 

 そんな心中をしっかり隠し、大きめの声でしっかりと挨拶をする。

 挨拶されたセリアは目を見開いて驚いた。カミソリのような鋭い目や口元は柔らかくなり、瞳は揺れる。どうにも困惑しているようだ。

 

「リュート君は、シアーを守ってくれたの」

 

 その言葉にセリアは目を見開く。

 

「何故ですか? リュート様、あなたは人なのに」

 

 その問いに対するリュートの答えは決まっていた。

 

「正しいと思う事をしただけです」

 

 毅然と言う。それは確かに事実だった。真実とも言えないのだが。

 セリアは一瞬、体を震わせて嬉しそうな、しかし泣きそうな顔に変化したが、すぐに無表情に戻る。

 

「ありがとうございます。しかし――――」

 

 その時だった。

 

「は、早い! なんだこいつは!?」

「きゃー! スカートが一瞬で捲られて!?」

「奴だ! 奴が来たぞー!」

 

 人間たちを吹き飛ばし、土煙を巻き上げながら現れたのは、

 

「ぬおおお! セリアー!」

 

 顔をまっ赤にして、頭から湯気をたてた横島だった。セリアの名を叫びながら、目からは涙をだばだばと流している。セリアは、正直引いた。

 

「え、え~~と……ヨ、ヨコシマ様、一体どうしたんで―――」

 

「ショタか!? ショタなのか!? 止めろ、セリア! こんな子供がセリアを満足させられるわけが無い。セリアを満足させられるのはこの俺しかぶべら!!」

 

「ああ、まったく! 道の往来でトチ狂わないでください! この変態隊長!!」

 

 いつものようにセリアが横島を殴り飛ばす。だが、セリアは殴り飛ばした後、顔を青くした。人間達が周りにいるのを忘れていたのだ。

 スピリットが人間を殴った。それを人間に見られた。

 人間と言っても横島はエトランジェであるが、それでもスピリットが人間に近い存在に害したのである。

 

(処刑される!?)

 

 最悪の結末がセリアの脳内に流れる。

 全身から血の気が引き始めたセリアの耳に、周りの人間たちのひそひそ話が聞こえてきた。

 

「おい! あのスピリット、エトランジェを殴ったぞ」

「確かにな……でも」

「まあ、ヨコシマさんだからねえ」

「変態だし」

「もっとやっちまえ!」

 

 周りの人間たちから流れてきた言葉は、横島だったら殴られても良いという、とんでもない評価だった。

 

「ヨコシマ様……貴方は普段、どのような行為を街でしているのですか?」

 

 スピリットに殴られても横島だからで済まされるという、余りにも凄すぎる評価に、セリアはほとほとあきれ果てた。『変態』のエトランジェは町では人気が高いと聞いていたのだが、この様子を見るととてもそうは見えない。

 あくまで横島が一方的に女の子達にモーションを掛けて、その影響で間違った噂が流れたのだろう。実際には嫌われているのだ。

 そう、セリアは思った。

 実際、横島は嫌われてはいる。道行く女全てに声を掛けてナンパ、さらに奇声を上げる男が好かれるわけが無い。

 しかし、嫌われてはいるのだが、それだけではないプラスアルファがある。セリアはそれに気づけなかった。自分がそのプラスアルファを最も感じているのに。

 

 何はともあれ、セリアは横島の変態部分に命を救われた結果となった。

 何だかな~と、頭を抱えるセリアだが、すぐに気持ちを切り替える。目の前にいる少年とシアーに。

 

「リュート様……でよろしいですね? シアーの件は本当にありがとうございました。ですが、これ以上関わらないで欲しいのです」

 

「えっ? どうして……」

 

「理由など言わなくても分かるでしょう。今なら、まだ間に合います。私とシアーを罵って、急いでここから退散してください」

 

 そう言われて、リュートは己に向けられる視線が厳しくなっていることに気づいた。

 先ほどまで怪訝と気遣いの視線であったが、今は戸惑いと侮蔑、理解できないものを見る恐れの視線へと変わっている。

 

 ―――そんなもの! だからどうした!!

 

「僕なら大丈夫です。それにシアーは……」

 

 途中で言葉を切って、赤い顔でシアーを眺める。

 突然見つめられたシアーは、キョトンとした顔でリュートを見返す。

 すると、リュートはさらに顔を赤くしてそっぽを向いた。

 その一連の動作を見て、セリアはすぐ答えに到達する。

 

「一時の気の迷いでしたらおやめください。シアーも迷惑ですので」

 

 冷たく、冷めた声でセリアはリュートの想いを否定した。

 

「気の迷いなんかじゃ!」

 

「そうですか……では貴方は言えますか?

 『自分はシアー・ブルースピリットの友達だ』

 そのように言えますか? この人間たちの前で」

 

 人、人、人、人、人。

 周囲は人の山で囲まれていた。今まで見たこと無いほどの黒山の人だかり。

 

 言ってやるさ!

 

 自分は正義と誇りを持っているのだ。こんな、訳も分からずスピリットを虐げている連中よりも、自分はずっと上等な人間なのだから。

 リュートの、その思いに嘘偽りはなかった。

 大きく息を吸い込んで、胸に力を入れて、そこで動きが止まった。

 

 足は震え、喉は詰まり、意識がぼんやりする。

 一言も、発することができなかった。

 

 ―――――なんでだよ!! どうして、声が出せない!?

 

 リュートは心で叫ぶ。

 大勢の人の前で直に主張するという事が、一体どれほどの胆力を必要とするのか、ある程度の年月を生きたものなら分かるだろう。しかも、それが異端とされていることなら、不可能と言ってもいい。

 

 リュートは、子供にしては人並み以上に胆力を持っていたが、並み以上程度では無理なのだ。

 凍りついたリュートの姿に、セリアはほっと息を吐いた。

 

「貴方の感情うんぬんの問題ではありません。町の人間はこう思うでしょう。

 『リュートはスピリットを性欲の対象に見る変態だ』と」

 

 そのセリアの言葉に、リュートは顔を真っ青にした。支払う代償がどういうものか、その輪郭がはっきりして恐怖がさらに膨れる。シアーのほうが何だかよくわかっていないようだが、自分と仲良くすると大変な事になることぐらいは理解できた。

 

「人間がスピリットと付き合うという事は、周りから見ればそのように捉えられてしまうのです。今、こうやって話しているだけでも下衆な勘ぐりはあるでしょう。貴方自身の名誉が傷つけられます」

 

 セリアはこのリュートという少年が、そのような事を考えているとは思っていない。少し話しただけだが、純粋な心を持つ優しい少年だとすぐに分かった。この少年がこのままでは一生を台無しにするかもしれない。セリアは人間嫌いだが、だからと言って自分達の為に前途ある少年の未来を奪う気にはなれない。セリアは本当に優しいからだ。実はちょこっと下心もあるのだが、そこまでは分からなかった。

 

「貴方の為です……本当にありがとうございました」

 

 それだけ言うと、セリアはシアーの手を引っ張って無理やりリュートから引き離す。

 シアーは抵抗したが「リュート様の為を思うなら我慢して」と言われて、悲しそうに首を縦に振ってとぼとぼと歩き出した。

 その後ろ姿を、リュートは茫然と見送る。

 目的は達しただろう。勇気を持ってシアーを救い、自身の正義も守れた。なら、ここまでいいのだろうか。

 どこか引っかかりを覚えて、悶々とする少年の前に、横島が現れる。

 彼は明るく、しかし軽薄な響きを持つ声でこう言った。

 

「情けねーな。男なら、惚れた女ぐらい守って見せろ」

 

 カッとリュートの目が見開いた。

 

「あんた何かに言われなくても分かってる!!」

 

 吠えるように叫ぶ。横島に敵意のこもった視線を送って、しかし、本人も気づいていないだろうが、彼はほんの少し横島に頭をさげた。

 そして、すぐに去ろうとしているシアーを呼びとめる。

 

「シアー!!」

 

 思い切り叫ぶ。

 セリアに手を握られながら、シアーは不安そうに、だが期待籠った目をリュートに向けた。

 

「シアーは……シアーは!」

 

 大きく息をすって、

 

「シアーは、俺の友達だ!!」

 

 その声の大きいこと大きいこと。

 鳥も、人も、町も、風さえ動くことを止めた。さらに何処かで反響したようで、山彦となって響いていく。

 友達だ、友達だ、友達だ───

 響く自分の声が、リュートは少し恥ずかしかったが、それ以上に誇らしかった。

 

「リュート君!!」 

 

 シアーは呆然としているセリアの手を払って、思い切りリュートに飛びついた。笑顔も笑顔。この世全ての歓びを現したかのような笑い顔だった。

 

「お、おい! そんなにくっつくな……うああ、や、柔らかい~!」

「えへへ」

 

 少年少女の抱擁。

 その姿を、横島は眩しそうに、そして何処か――――本気で忌々しそうに見つめていた。

 

(格好良い!! 格好良すぎるわ、ヨコシマ!! 大人の男って感じよ)

 

 ルシオラがそんな横島の姿に拍手喝采だ。それが恋人の欲目かどうかは、各人で印象が異なると思われる。少なくとも、一人の女性は好意など持ちようがなかった。

 セリアである。

 この時、彼女は本気で横島を軽蔑し、憎んだ。

 

 ふざけるな! 貴方は、一人の人間の人生を破滅させたことを理解しているのか!

 

 これから先、あのリュートという少年は恐ろしいほど苦労するだろう。

 妖精趣味はこの世界で最も嫌われる禁忌。最悪の性癖。

 だから、妖精趣味の男たちは秘密裏にスピリットを捕らえ、慰み者にしていると言う話すら聞いたことがある。スピリットが国家の財産という事もあるが、妖精趣味であることがばれたら、それは社会的に終わることを意味する。だから秘密裏なのだ。

 もはや、リュート少年の事は隠しようも、誤魔化しようも無い。

 

「貴方は自分勝手なだけです。あの少年の輝く未来を奪った事を、何とも思っていない!」

 

 確かにこの男はスピリットに優しいのだろう。そういう世界からやってきたのだから。しかし、その為に他を犠牲にすることを厭わない。スピリットはどれだけ人間に虐げられようが、別に復讐など望んでいるわけではないのだ。

 

「惚れた女一人守れない男に、輝く未来なんてあるかよ」

 

 鬼すらも射殺すようなセリアの視線を受け止めて、横島は至極当然のように言った。気負いも意地も無い、平坦な声で。セリアは少し勘違いをしている。横島はしっかりとリュートの事も考えていた。少し違った方向で。

 彼はスピリットと人間の世間体などという問題ではなく、男と女の問題として捉えていたのだ。好きな女を守れなかった時の苦しみを、嫌というほど横島は知っている。あの苦しみをリュートには味あわせたくなかった。しかしそんな考えなどセリアには分からない。異世界、異種族、価値観の壁はやはり大きいのか。

 睨みを解かないセリアに、横島は困ったような顔をして、ぽつりと呟いた。

 

「……まあ、あれだ。必要な犠牲ってやつだ」

 

 セリアの背筋に嫌なものが流れた。怒りや軽蔑ではない。

 何か、純粋な狂気が目の前にある。常識を語るような横島の台詞に、気持ちが悪くなった。

 まるで、犠牲がなければ何も成せないようではないか。

 

(私の意図していた方向とは少し違うが、干渉の影響は出ているようだな)

 

 そんな横島の様子を、一本と一人はのんびりと観察していた。

 

(う~ん、これは……)

 

(ふっ、どうした。恋人が変わっていく姿が恐ろしいか)

 

 口元に手をやって、なにやら真剣に考え始めたルシオラに、『天秤』は得意そうに声を掛ける。ルシオラが苦悩して苦しむ姿を見たいのだ。達成感が胸を満たしていく。

 だが、『天秤』の思惑とは裏腹に、ルシオラは別な事に気を取られていた。

 

(ミスリード……そうだとしたら、あのロリ婆さんは本当にヨコシマを愛して、信じているということ?)

 

 信じられない、いや、信じたくない。ルシオラは頭を振って自分の推測を否定した。

 

(何を言っている!? 私を無視するな。横島の事が心配ではないのか?)

(ヨコシマは心配いらないわ。だって元々、男の人には厳しい人だから。それよりも……)

(何故、私を見る?)

(……貴方は気づいてないの? これだけ不思議な点が沢山あるのに。貴方は頭が良いのだから、少し考えればすぐに分かるはずよ。合理合理言っておいて、これだけ不合理……いえ、これが目的だとすれば……そういう風に出来ている? それとも後から調整可能ってこと?)

 

 ルシオラだけは、どこか別の、何かを見ているようだった。

 

「これは何の騒ぎだよ。シアーは見つかったのか?」

 

 白い羽織に針金頭。訓練で筋肉が盛り上がり、少しがたいが良くなった悠人がここで姿を現す。

 周りが急に静かになった。

 高嶺悠人は町に顔を出さないので、畏怖や恐れ等の、分からないものに対する恐怖と興味の対象にされていた。

 でも、そんなものこの男には関係ない。

 

「ドロップ、キィィッックゥゥ!!」

「ぐは! いきなり何をする、横島!!」

「うるさい。なんかお前が、バスト78センチ、ウエスト56センチ、ヒップ72センチぐらいの褐色肌の美人と歩いてたって感じがするんだよ!!」

「なっ!? ちょっと待て、お前はその美人が俺と歩いてたのを見たのか!?」

「霊能なめんな! 見なくとも分かるわ!」

「どれだけすごいんだよ霊能!? 大体、おまえなんかシアー探すのサボって、ナンパばっかりしてたんだろう!!」

「……そんなことないぞ?」

「バレバレだ!」

 

 二人のエトランジェは何だか馬鹿をやっていた。いや、馬鹿をやっているのは横島だけなのだが、それに付き合うほうも馬鹿になるのだ。

 伝説の勇者がエロエトランジェに主導権を奪われている姿に、人間たちはどこか期待を裏切られたような気がしたが、あの変態が相手ではしょうがないとも思っていた。

 

「よ、ようやく見つかった……」

「ヒミカ、何故そんなにも疲れているのですか?」

「誰の所為よ!!」

 

 今度はくたびれた様子のヒミカと、いつも通りのナナルゥが姿を現す。

 

「うう~、私って絡まれやすいのかなあ。最初にシアーを見つけて、なでなでしてもらう計画が~」

 

 ヘリオンも独り言をいいながら現れる。

 どうやら、彼女らもシアーを見つけようと城下をうろついていたらしい。

 

 続々とスピリットが集まり、さらにエトランジェがやってきて、人間たちの視線がリュートから横島たちに移っていく。

 横島は相変わらず煩悩に満ちた男で、集まった人間たちに良い女性を見つけたらすぐにナンパを始める。

 人間の女性は迷惑そうにしていて、ヒミカは言い寄る横島を必死に止めていた。

 

「やめてくださいヨコシマ様! うう、本当に、本当に申し訳ありません。ウチのヨコシマ様がご迷惑をかけて!」

「……そうね、迷惑だったわ。でも、貴女達よりはましみたいだけどね」

「え?」

「私の父はお薬売っているんだけども、胃薬を買う赤髪短髪のスピリットがいるって言ってたから。貴女のことでしょ」

「なんてこと……まさか私の胃の具合が知られているなんて」

「大丈夫だ! 俺の48の煩悩技、ゴッドハンドマッサージ(おっぱいもみもみ)で、極楽にイカセてやるぜ」

「うう、殴っちゃだめ! 叩いちゃだめ! お願いします! ユート様、助けてください」

「……分かった。どこまでできるか分からないけど、俺が横島を止める。来い! 横島!」

「分かった。サイキックソーサー!!」

「かはっ、ぁ…ぁぐ……っ!俺はまだ死ぬわけにはいかないのに…佳織……かお…り……」

「ああ! ユート様がやられちゃいました!!」

「さあ、これで邪魔者は倒しました! さあヒミカ二人で一緒にふたりエッチになろう!!」

「くう。右手が、私の右手がヨコシマ様を殴れと光って轟いちゃう!」

「性交するときは呼んでください。愛観察したいので」

「ああ、ナナルゥ。貴女は……もうだめなの?」

「あはは……これはしばらく胃薬作るように父に言っとかないと」

 

 いつのまにやら、人がスピリットに送る視線は柔らかくなっていた。というか、同情的に変わった。

 彼のギャグキャラとしての、その底抜けの陽性さが、空気を和らげる。

 これは横島の最大の魅力かもしれない。陰を陽に、闇を光に。シリアスからギャグに。

 無論、全ての人間たちがそうなったわけではなく、スピリットを極度に毛嫌いしている人間たちはその場から離れただけではあるが。

 

 賑やかになっていくその様子をリュートはぶすっとしながら眺めていた。

 面白くない。つい先ほどまで周り中の視線を集めていたのは自分のはずなのだ。だというのに、あの変態エトランジェが現れたら、みんなそっちに目を向けてしまう。

 

 だが、たった一人だけ、横島や悠人の騒ぎではなくリュートを見続けている少女がいた。シアーだ。

 

「あの……リュート君、お願いがあるの……」

 

「ん、なんだ。俺に出来ることなら何でも言ってくれ」

 

「う、うん。あのね……その」

 

 顔を赤くして、もじもじと手を合わせるシアー。

 男女のそれに免疫がなく、二次成長に入り、いささか有頂天になりやすい少年が、ちょっとした勘違いをした事を誰が笑えよう。

 

「あのね、その……ずっとお友達でいてほしいの」

「お、俺も! ……へ?」

 

 勘違いフライング。

 このフライングは永遠と彼の脳髄にまで残り、思い出すたびに柱に頭を打ちつけたくなる事は間違いない。

 恥ずかしさで震えるリュートの肩を、いつのまにやら隣に来た横島が乱暴に叩いた。

 

「いやあ~良かったなあ! 『ずっと』『友達』でいてくれよ!!」

 

 ニタリニタリと笑いながら、背筋が寒くなる撫で声でリュートに笑みを向けた。

 憎しみで人が殺せたら!!

 純な少年が初めてマジな殺意を抱いた瞬間である。

 

 そんな男たちのやり取りをシアーは不思議そうに眺めて、

 

「友達……ダメ?」

 

(これは反則だろ!!)

 

 それは正に絶対可憐乙女兵器。抗えない、というよりも、抗っちゃいけないと思わせる武器。

 少年は悲しき男の性に屈した。情けないと己をなじりながらも、どこか幸せそうなのは、それが世界の真実だからなのかもしれない。

 厚い雲も流されて晴れ渡り、夕焼けで赤く染まった町の中、少年と少女が手を握り合う影が生まれる。握る掌は小さかったが、それはきっともっともっと大きくなって、数を増していく事だろう。

 

 それから数日後。

 朝早くに二つの凧が飛んでいた。

 隣り合って飛ぶ凧の姿は微笑ましく、輝きと希望に満ち溢れている。

 今はまだ、たった二つ。

 しかし、その姿は未来と言う言葉を彷彿させた。

 

 


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