永遠の煩悩者   作:煩悩のふむふむ

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第十五話 筋肉来たりて

『リクディウス山脈にて、マナ結晶の存在が確認された。スピリット隊はマナ結晶の探索に向かうべし』

 

 そのような命令書が第二詰め所の方に届いたのは早朝の事だ。届けられたといっても、いつの間にかテーブルに置いてあっただけ、というふざけたものであったが。

 その場には、朝食を作るために朝早くに起きてきたハリオンと手伝いのエニがいて、じっとその命令書を眺め続けていた。

 

「ねえ、マナ結晶って?」

 

 小首を傾けながら、なんとも愛らしくエニがハリオンに質問する。

 

「そうですね~簡単に言うと、マナが結晶化したものですね~」

 

 そのまんまだ。何の説明にもなっていない説明だったが、それだけでエニは分かったらしい。「なるほど~」と頷いていた。同じグリーンスピリット同士、何か通ずるところがあるのかもしれない。

 

「それで、マナ結晶ってな~に~」

 

 訂正。分かってなかったらしい。

 

「分かりやすく言うと~マナが結晶化したものですね~」

 

「なるほど~」

 

 このまま同じやり取りの無限回廊に落ちていくのか。

 そう思われたが、空気を察したエニが質問を切り替える。

 

「マナ結晶って、何に使うの?」

 

「砕いて、エーテルに変換するのが一般的です~。でも、砕かなければマインド値がアップですよ~」

 

「メタな話は危険だよ~」

 

「お姉さんですから~」

 

「なるほど~」

 

 何がなるほどなのか。メタ話は良いのか。

 横島がいればさぞ突っ込みを入れてくれただろうが、おっとりお姉さんと無垢な少女には突っ込みは無理だった。横島やヒミカ、『天秤』と言った存在がいてこそ彼女らボケ組は輝く事が出来るのだろう。

 

「う~ん……つまり神剣のご飯かな?」

 

「そうですね~そんな感じだと思います~」

 

 神剣のご飯、という答えに、エニはその思考を昨日に飛ばした。

 

 暗く、仄暗い牢獄。そこに、その陰湿な背景に似合わない豪奢な金髪があった。エニ・グリーンスピリットだ。窓もなく、松明の乏しい光以外に光源が無い牢獄は下手なお化け屋敷などよりもずっとおどろおどろしいが、エニはまったく物怖じした様子はない。慣れた足つきで歩を進め、一つの牢獄前で止まると、その牢獄の主に親しげに手を振った。

 牢獄の主――――ルルー・ブルースピリットは複雑な表情でエニを迎える。

 

「また来たんだ。あんまり牢屋なんかに来ない方がいいよ」

 

「うん! 今日は相談したい事があるんだよ!」

 

「いや、話を聞こうよ。まったく……でも、ありがとね!」

 

 牢屋にいる自分に、さも当たり前のように話しかけてくる少女、エニの姿に、ルルーは呆れとそれ以上に喜びを表した笑顔で応対した。

 最低でも二日に一回は来てくれるエニの存在は、ルルーにとって非常に救いだった。

 一人でいると、寂しくて、悲しくて、泣きたくなる。ボクは一人では生きられない人種なのだと、嫌になるぐらい理解してしまった。

 エニとの会話内容は様々だ。

 その日の食事や夢。日々の訓練内容やハイペリア(日本)の遊びなど、その内容は多種多様で纏まりは無い。中には軍事機密に関わるような部分もあり、ルルーはそういう事は話しちゃだめだと口をすっぱくして注意するなどもしていた。それはまるで妹を叱る姉のようにも見えた。

 

 しかし、エニはどうして来てくれるのか。

 一度、どうしてやってくるのかと聞いた事があったが、その答えが

「テン君に近いから」

 などという訳の分からないものだった。詳しく聞くと、自分はテン君なる男の子と似ているらしい。

 

 そんなにボクが男の子に見えるのか!?

 

 そんな風に怒鳴りつけたくもなったが、もしそう言って無邪気に頷かれたりでもされたら、その時は心に深い傷を負う事になるので結局何も言えなかったりする。

 

「ねえねえ! 男の子を喜ばせる方法って、何かないかな?」

 

「だから、どうして、それを、ボクに、聞くのかな」

 

「えっ? だってそれは中に」

 

「ああ分かった。何も言わないで! 言わないでったら!!」

 

 耳を塞いでイヤイヤと頭を振るルルーの姿を、キョトンとした顔で見つめるエニ。これを狙ってやっているのだとしたら、正に天性の女優だろう。

 ややあって、ルルーはようやく気を落ち着かせた。エニと会話するとどうにもペースが乱される。時々、この幼い少女が自分よりも遥かに年上のような、そんな錯覚さえ起こることがある。そんな事はあり得ないと分かっているのだが、どこか遠くを見ているような目をすることがエニにはあり、漠然とした不安を感じていた。

 

「そうだね、色仕掛けとかは……無理か。エニは小さいもんね」

 

 可愛いのは認めるが、色気は皆無だ。子供が大人の真似をしようとしても、それは滑稽なだけであり、優しい笑いを振りまくだけとなる。それはそれで周囲にとっては良いのかもしれないが、エニ自身にとっては不本意だろう。

 

「大丈夫だよ。エニの好きな人、テン君は小さい方が好きだから」

 

「そう……なんだ」

 

 ルルーとしては複雑な心境だった。エニが好きなテン君という男の子がいて、その男の子は小さな女の子が好きらしい。自分と似ている、という事は5歳ぐらい年が離れている事になる。

 5歳という年齢差は、10代の若者からすればかなりのものだ。場合によっては小学生と高校生ぐらいの違いは出るのだから。

 何か変な人じゃないだろうか。ルルーは不安になった。それとなく、テン君なる男がどういう人物なのか聞いてみる。 

 

「テン君? ええとね、エニよりも年下で、優しくて、純粋で、ギュッと抱きしめると真っ赤になって慌ててくれる可愛い子だよ」

 

 その答えに、ルルーは自分の想像が恥ずかしくなった。

 恐らく7、8歳ぐらいだろうテン君という少年と自分がどんな風に似ているかは知らないが、きっとママゴトのようなお付き合いなのだ。

 初々しくていいなあ、とちょっとだけ羨ましくなった。恋なんて感情、普通のスピリットは体験できない。ラキオスのスピリットは恵まれている。素直にそう感じた。

 なんとかしてこの小さい恋を成就させなければ!

 

「そうだなあ、手料理なんてどうかな?  独身男性は手料理に弱いって聞くよ」

 

「無理だよ。口が無いから、ご飯は食べられないって言ってたもん」

 

「ええ!! 食べられないの!? じゃあ、耳掃除とか……」

 

「耳がないから無理だよ」

 

 口が無くて耳が無い。食事も必要ない。どんな生物なのか。いや、それはもはや生物と言えるのか。

 なによりショックなのは、そんな生物が自分に似ている所だ。

 

「ボクに似てる……口が無くて耳も無いのに……ボクに似てる」

 

 一体エニの想い人はどんな化け物なのか。そして、自分はエニにどんなスピリットだと思われているのか。

 しくしくしく、とルルーは膝を抱えて自分の世界に入り込んでいった。

 

「う~ん……あんまり使えないな~」

 

 エニは目の前でブツブツと何かを言い続けるルルーの姿に、心底残念そうな声で残酷とも言える台詞を吐き出した。彼女の頭の中にあるのは、如何にして『天秤』との仲を深めるか、その一点だけである。それに『使える』と思ったのがこのルルーというスピリットなのだが、どうにも『使えない』のだ。

 もうここに来る必要は無いかもしれない。

 エニはポケーとした表情で、酷く冷徹な事を考えられる少女だった。それが出来るのは、彼女自身に悪気が無いからであろう。悪気が無いから、良心の呵責なども起こらない。

 結局、エニとルルーの話はそこで終了となった。ルルーが我に返ったとき、既にエニはその場にはいなかったから。

 

 これが前日にあったことだ。

 神剣でも食べられるものはある。その事実はエニの胸を弾ませた。自分たちだけ美味しいものを食べて、『天秤』は食べられない。その事実にエニはやり場のない悲しさを感じていた。その『天秤』が食べられるものがある。二人で一緒に食事することができたら、何て素晴らしい事だろう。

 

「よ~し、善は急げだよ!」

 

 チーズ、燻製肉、水。そういったものを集めて、なめし皮の袋につめる。

 

「それじゃあ、がんばって行ってくるよ!」

 

「は~い。がんばって行ってらっしゃ~い」

 ハリオンの声援を背に受けながら、エニは意気揚々と旅立った。

 突っ込みの不在が、やはり痛かった。

 

 

「エニがいなくなった!?」

 

「はい~」

 

 第二詰所の居間に横島の驚愕の声が響き渡る。周りには顔を険しくした年長組と、寝惚け眼の年少組がいた。その中でも目立つのは、顔に紅葉マークを貼り付けた横島と、服装が乱れて疲れきった表情のヒミカだ。詳しくは語らないが、ヒミカはさっき寝ている横島を起こしに行ったのだ。それだけで説明が事足りるのが横島の凄さだろう。

 テーブルには、焼きたての黒パンとクーヨネルキの乳に、サラダと果実、そして少量のクッキー。朝の爽やかな空気とパンの香ばしい匂いが交じり合って、今日一日を生きる活力を与えてくれる場が整っていた。しかし、それを享受できるのはまだ先になりそうだ。

 

「いなくなったって、一体何時から?」

 

「え~と~二人でご飯を作ったんですけど、行ってきま~すって言って行っちゃって、私は行ってらっしゃ~いって言って~」

 

「つまり、一時間も前に出て行ったってわけね。それを貴方は黙って見送ったと」

 

「違います~ちゃんと行ってらっしゃ~いって見送りました~」

 

 セリアの質問に、ハリオンは頬を膨らませて反論した。答えになっていないようで、やっぱり答えになっていない。

 

 なんだそりゃ、と皆呆れたが、ハリオンだから仕方がないか、なんて思ってもしまっていた。基本的にボケボケのお姉さんなのだ。横島としては胸が大きいから許すしかない。じゃあ、もしヒミカだったら許さなかったのか、と考えると、それもまた違う。ヒミカの場合なら、感度が良いから許すしかない、に変わる。

 結局、美人ならなんだって良いのかもしれない。

 

「リクディウス山脈に、マナ結晶を取りに行ったんだと思いますよ~。多分、『天秤』さんの為じゃないかと~」

 

 テーブルの上にある命令書を見て、横島は納得した。

 エニはここ最近、何かに急かされるように行動している。その行動の殆どが、『天秤』のためである事も横島は知っていた。

 一体何故マナ結晶を取りに行ったのか、考えるまでもない。恋する乙女の行動力は無敵に素敵に大胆なのだ。

 

「『天秤』、お前は幸せ者だよな」

 

『何の話だ。私とエニとマナ結晶がどう繋がる?』

 

 素でそう返してくる『天秤』に横島は苦笑する。もしも、エニが大人のお姉さんなら嫉妬魔神が誕生しただろうが、微笑ましい子供カップル相手に嫉妬する事はあんまり無い。とりあえず、目の前で腐ったラブコメをされなければ問題なしである。

 

(エニも大変ね。貴方みたいに鈍感な剣を好きになっちゃうなんて)

 

 ルシオラの方も、『天秤』の朴念仁ぶりには呆れていた。

 ボンクラな男をリードするお姉さん。それがエニだった。ハイぺリア風に言うならば、エニは肉食動物で、『天秤』は草食動物なのだろう。『天秤』は正に狩られる側だ。それも、狙われていることに気付いてすらいない無知で無垢な獲物。

 

「リクディウス山脈ですか……人の足で、五日もあればたどり着くぐらいの距離ですね」

 

「スピリットが全力で動けば半日も掛からないな……後で動けなくなるだろうけど」

 

 軽くランニングするだけで、車並みのスピードが出せてしまうのだ。もし普通に走れば新幹線ぐらいのスピードは出せるだろう。ただ、スピリットの身体能力は確かに高いのだが、持久力についてはそれほどでもなかったりする。速さに優れたスピリットなら音速状態での戦闘も可能だが、あくまでも瞬間的に出せるだけ程度でしかない。他にも、傷の治りは早い割には、体力の回復は遅かったりする。基本的にマナで構成された肉体は強いのだが長期戦に向かないのだ。

 そういう事情もあり、長期の移動で沢山の物資を持ち歩くときは、エクゥという馬に似た生き物で運ぶことが一般的だ。

 

「それではヨコシマ様、エニの事を迎えに行ってください」

 

 当然と言った口調で、セリアは横島に向ってそんなことを言う。何で俺が、と不満そうな顔をする横島だったが、今度は横からヒミカが口出ししてきた。

 

「勝手に一人で行動するなど、第二詰め所の隊員にあるまじき行為です。厳重に注意しなければいけないでしょう……当然、隊長が!」

 

 上の立場の者が下の立場の者に注意するのは当然だ。スピリットに階級は無い。古参であるヒミカやハリオンと、一番新参であるエニの立場は、まったく同じであったりする。この場合、厳密に上下関係を考えると、横島以外に適任はいない。

 

「いや、これから訓練もあるし、あの山はラキオス領内だろ。別に危険はないんだから、ここで取ってくるのを待ってた方が……」

 

「貴方が訓練しても無駄でしょう。ここに来たときから殆ど成長していないようですし。それに、絶対に危険がないとは言いきれません」

 

 セリアの断固とした言葉に、横島は完全に威圧されてしまった。

 不満点は大いにあったが、美人の女性に強気な姿勢でこられると、どうにも逆らえない。丁稚根性が魂レベルで刷り込まれているのだ。しかも、それはそれで満更でもないというのだから救えない。

 

「わ、わかった。飯を食べたらすぐに迎えに行く」

 

「なんてことを言うのですか!」

 

「ひぃ! どうしたのでござりましょうか、ヒミカ様!!」

 

「誰がヒミカ様ですか! エニは今たった一人で見知らぬ土地にいるのですよ。まだ生まれて数ヶ月、こんなに心細い事はないはずです。今頃寂しくて泣いてるかもしれません。早くヨコシマ様が行ってあげないと、大変な事になるかもしれません……いえ、なっちゃいますよ!?」

 

 あれ? ヒミカって、こんなに愉快なスピリットだったっけ?

 勢い込んで迫ってくるヒミカに、横島はそんな感想を持った。

 ヒミカがこうなってしまった一番の理由が自分にあるとは露とも考えていないようだ。

 

「え~いやだよ~ヨコシマ様と一緒にご飯食べたい!」

「食べたい~」

「わ、私も……一緒に食べたいです!」

 

 ネリー、シアー、ヘリオンが小さな体を揺らし、一緒にご飯を食べようと主張する。優しさ、慈悲、好意。そんな温かいものが横島に降りかかる。その小さな体を思い切り抱きしめたくなる衝動に襲われる横島だったが、ここでハリオンがニッコリと笑った。

 

「ヨコシマ様がいないなら~その分のご飯とお菓子を、ネリーさん達にあげますよ~」

「ヨコシマ様行ってらっしゃーい!」

「らっしゃ~い!」

 

 あっさりとネリ―とシアーが裏切る。色気よりも食い気という事か。あまりの変わり身の早さに、流石の横島も泣きそうだった。

 

「私はご飯よりもヨコシマ様の方が……いや、私も一緒に付いていけばフラグが立つかも……でもお腹が空いてて、二人きりだから『ヘリオン! 君が食べたい!』なんて言われちゃったり……きゃあー! 初めてを野外でですかー!? そんなの無理です~!」

 

 妄想を飛ばして、一人であっちの世界に言ってしまったヘリオンは全員華麗にスルー。剣の腕と比例するように妄想力を伸ばしているようだ。そんなヘリオンに、どこか親近感を覚える横島だったが、だからと言ってそれが好意に繋がるわけではない。人の妄想見て、我が妄想治せ。そういう諺もどこかの世界にはあるかもしれない可能性はなきにしもあらず。

 誰か他に俺の味方をしてくれるスピリットはいないのかと辺りを見回し、ある意味もっとも純粋なスピリットを見つけた。

 

「ナナルゥ! これまで得た愛の成果を、ここで見せてくれ!!」

 

「了解しました。ヨコシマ様。必要なものを持ってくるので、しばらくお持ちください」

 

 頼もしく返事をするナナルゥに、横島は期待に満ちた視線を注いだ。

 ナナルゥなら、ナナルゥならきっとなんとかしてくれる!

 熱い希望を持っていた横島だが、その希望はあるものを持って現れたナナルゥの姿に打ち砕かれた。

 

「あの……ナナルゥさん。それはなんでございましょ」

「愛の鞭です。これで男性を打つと、非常に良い声を鳴くそうです」

 

 至極当然のように語るナナルゥ。何時も通り淡々と、しかしどこか満足そうに見えた。

 

「ちょっと! そんなものどこから仕入れてきたのよ!!」

「はい、ハリオンが持ってきてくれました」

「ハリオン! 一体どこから仕入れてきたの!?」

「お姉さんですから~」

「何でもかんでもそれで通すんじゃなーい!」

 

 ヒミカとハリオンが口論を始める。ハリオンに勝てるはずもないのだが。

 

「では、ヨコシマ様。ぶったたいてもよろしいでしょうか?」

 

 いつも通りの無表情で、しかしどこか高揚したように、ナナルゥは言った。

 横島の目から、透明な雫がぶわっと溢れた。

 

「…………うあぁ~~ん!! 愛のバッキャロ~!!」

 

「あっ」

 

 うわ~んと泣きながら走り去っていく横島の背を見て、誰かが、あるいは数人が寂しそうな声をだした。小さく擦れた声で、誰が言ったか分からない。ヘリオンを除く全員が顔を見合わせる。一体誰がその声を出したのか、周囲の顔色を窺う。それはエレベーターの中でオナラをした感覚と微妙に似ていた。結局、誰がその声を出したかは分からなかった。

 

「さて、今日は久しぶりに落ち着いた朝食が取れそうね! 今のうちに胃を治さないと!」

 

 空気を変えるように、満面の笑みで言い切ったヒミカは、実にイイ笑顔で胃をさすっている。真面目なヒミカの気苦労は多く、しかも横島だけならいざ知らず、他のスピリットも変になっていくから彼女の胃は悲鳴を上げていた。

 せめて朝食だけは穏やかに食べたい。そんなささやかな彼女の望みが、兵士としての従順さを失わせたのだろう。とはいえ、彼女の真面目さは筋金入りなので、ご飯を食べて気が落ちついたら、上司にとんでもない無礼を働いた事を悔いて、横島に頭を下げに行くのは間違いない。そして、やっぱりその場でセクハラされて横島をぶん殴り胃痛と自己険悪に浸るのだ。

 

「少し、距離を開けたいときもあるしね」

 

 興奮した様子のヒミカとは違い、セリアは非常に落ち着いた声で呟く。

 毎日毎日ヨコシマ様ヨコシマ様ヨコシマ様。良くも悪くも、彼の事で頭が一杯なのだ。この数ヶ月で、10年分の喜怒哀楽を体験したような気さえする。少し、心中を整理したいという思いがセリアにはあった。

 

 ネリー達は横島が座る席だった所を見て、少し寂しそうな表情になったが、芳しい香りと自らのお腹の音ですぐに寂しさを忘れて手を洗いに行った。

 ハリオンは何を思ったか外で焚き火をしていた。モクモクと空へ昇っていく妙な色の付いた煙。それを見ながらハリオンは笑う。その笑みはいつにも増して優しそうで、しかし何かを企んでいるようにも見えた。ヘリオンはまだニヤニヤしていた。

 こうして第二詰め所のスピリット達は、横島のいない朝食を取り一日を過ごす事となった。

 この場でその一日がどういうものであったかを簡単に述べるとすれば、それは気苦労も少なく、とても穏やかなものであり、退屈なものであったようだ。

 

 

 永遠の煩悩者

 

 第一五話 筋肉来たりて

 

 

 緩やかな斜面の森の中を、エニは重い足取りで上っていた。リクディウス山脈に入り、まだ二合目程度だが、その顔には疲労の色が濃く出てる。汗も相当かいたようで、戦闘服は汗を吸い、疲労も相まってかなり重く感じられた。

 

「喉が渇いたよう……」

 

 空のなめし皮の袋を覗き込みながら、力無く肩を落とす。そして、目の前に広がる緑成す巨大な山の姿を確認すると、さらにがっくり肩を落とした。

 楽観的で、物事を深く考えないエニではあるが、今は少し後悔していた。これはどうにも無理がある。

 リクディウス山脈にあると言っても、探す場所はかなり広い。一人で探すとなったら、どれほど時間が掛かることになるやら。さらに食料や水も既に無い。どこかで休息できるような拠点だって無いし、地図も無いから道も分からない。

 なにより、一番の問題は―――

 

「マナ結晶ってどんな形してるのかなあ」

 

 間違いなく致命的だった。大きさも形状も分からず、どうやって探せというのか。一度町に戻ったほうがいいと、エニの冷静な頭が囁く。見つけるのは不可能だと理解していた。だが、このまま帰ったら皆に迷惑を掛けただけになる。もし、『天秤』に呆れられ、嫌われでもしたら。そう考えるだけで、エニの体はぶるぶると震えた。やはりまだ戻るわけにはいかないと、エニはさらに歩を進める。

 

「こっち、こっち、こっち、こっち」

 

 突如、エニの耳に妙な声が聞こえてきた。

 それは、男の声に聞こえるが妙に甲高く、なんとも不思議な声だった。

 声はゆっくりとこちらに近づいてくる。

 

「こっち、こっち、こっち、こっち」

 

 声はさらに大きくなり、目の前の茂みがガサガサと動いた。エニは何か出てくると、身構える。そして、声の主と、それを手に乗せたものが現れた。

 男だ。大柄な男が手に妙な人形を乗せている。あの妙な声は、どうやら人形が出していたらしい。

 

「はっけん! はっけん!」

 

 人形はエニを指差して声を上げる。正確には、エニの足元に向かってだ。

 

「見つけたか。ご苦労だったな、エターナルケンキクンとやら」

 

 現れた男は人形に向かって礼を言って、人形を地面に置いて歩いてくる。

 エニはその場から飛びのき、距離を取って、永遠神剣『無垢』を構えた。

 その男は前のはだけた黒っぽいジャケットのような物を着ていて、正に戦士と呼ばれるに相応しい体格と雰囲気を纏っていた。

 歳は20代後半ぐらいので短髪、その眼光はギラギラと輝き猛獣を想像させる。一体どれほどの修羅場を潜れば、このような凶悪な顔つきになるというのか。

 エニは基本的に物怖じしないタイプだ。だが、この男は恐かった。何かが、決定的に違いすぎる。

 男もエニに気づいたようで、その鋭い目をエニに向ける。

 

「贄のスピリットか……真逆に見えて本質は似ているな。『無垢』とはよく言ったものだ」

 

 男のほうはエニを知っていたようで、特に興味はなさそうだった。そのままエニがいた辺りまで来ると、地面に目を落として何かを探し始める。そして、何やら小さなガラス片のようなものを拾い上げて、それを胸元に収めた。

 

 エニは関わらないほうがいいと判断して、そろそろと男から離れていく。その時、男は何かに気づいたように声を出した。

 

「どうやら『天秤』のエトランジェが近づいているようだな」

 

「えっ、テンくんが!」

 

 まだ見つかっていないのに。そう焦った声でエニはうろたえる。しかし、エニの声には嬉しさも含まれていた。愛しい人が近づいてきてくれる。それも、自分に向って。

 恋する少女はそれだけで胸を大きく高鳴らせる。顔を赤くして体をくねらせる仕草は、愛らしさと共に女の匂いもまき散らかす。そんなエニの姿を見て、男は何か思い立ったようだ。

 

「用件は済んだが……少しぐらい遊んでもよいか」

 

 男は漆黒の大剣を振りかざし、そしてエニはこの世界から消失した。

 

 

「やってらんねー」

 

 横島は険しい森の中を、うんざりした顔で走り続けていた。朝っぱらから走らされて気分爽快、などというキャラでは断じてないし、理由も理由だからモチベーションなど上がるわけがない。

 彼からすれば、これは恋人同士の問題であり非常に馬鹿らしいことである。本来ならば、邪魔をするか呪うかが正しい見守り方のはず。なんで俺が飯も食わずに朝から走り回らなけりゃいけないのか、と非常に怒っていた。馬鹿らしい。思わずそう口に出る。

 

『確かに、馬鹿らしいな。もう少し情報を集め、ある程度の人数を連れて行った方が効率がいいだろうに』

 

 『天秤』の偉ぶった声が聞こえてくる。一体お前は何を言っているのだと、怒り以上に呆れが先に来た。同時に、少しだけエニに同情した。こんな鈍い奴が相手じゃ、それは必死になるだろう。この神剣の朴念仁ぶりがすべての元凶なのだ。

 

「アホ。お前本当に何が問題か分かってんのか?」

 

『隊の一員が単独行動。自分が歯車の一つであることを理解していない事だろう』

 

 確かにその通りだ。間違ってはいない。間違ってはいないのだが、相も変わらず本質を見ていない。だが、それを言ってもこの神剣は理解できないのだろう。間違ってはいないのだから。そこが難しい所だ。鈍感な男がモテルってやっぱり可笑しいと、横島は結構切実に思った。

 さっさとエニを見つけて、軽く叱って帰ろう。そう考えながら神剣の気配を探りながら辺りを見回る。そうしたところ、霊感に何か引っかかる部分があった。不思議と気になる方向へと足を進める。そして現れたものに、横島は目を丸くした。

 

「これって……」 

 

 地面に無造作に置かれた人形。その人形は、元の世界で随分とお世話になった商売道具。悪霊や妖怪を見つけるのに使用する見鬼君と呼ばれる探知機だった。それも、良く分からないものがごちゃごちゃと付けられていて、相当なカスタマイズが施されていると分かる。

 一体どうしてこんなものがここにあるのか。ひょっとしたら、自分以外にもこの世界に来ているのではないか。色々な思考がごっちゃになりながらも、ふらふらと見鬼君に近づこうとして、

 

「ふむ、やはりこれを感じ取れるのか? これは元々お前の世界の技術であるしな」

 

 野太い男の声が後ろから掛けられる。その声は、死神の鎌を首筋に当てられた方がまだマシ、と呼べるぐらいに生命の危機を感じさせた。

 瞬間的にその場から飛びのき、声を掛けられたほうに『天秤』を構える。刹那の反応であったが、その刹那の時間すら遅く感じた。その刹那の間に声の主は自分を殺すことができると、本能的に理解できた。霊感以上に、神剣使いとしての本能がそう訴えたのだ。

 

「中々良い反応だ。俺の名はタキオス……自己紹介など意味がなかったな。どうせ忘れる事だ」

 

 十メートル程度離れた所に、タキオスと名乗った男がいた。筋骨隆々とした男で全体を黒い意匠で統一している。

 男は手に黒の大剣を持っていた。形状は刃渡りだけで二メートルはあろうかという、装飾もない無骨なクレイモア。どこぞのベルセルクが持っていそうな感じだ。

 大剣からあふれ出る黒いオーラフォトン。間違いなく永遠神剣だ。それも、かなり上位の神剣。

 

「エニは俺が預かっている。返して欲しければ俺と戦え」

 

「はあっ!?」

 

「行くぞ。テムオリン様が貴様に何を求めているのか、試させてもらう」

 

 タキオスと名乗った男はせっかちなのか、もしくは横島の意思などどうでもいいのか、返答を待たず戦闘態勢を取った。言葉による意思の疎通は望んでいないらしい。拳で語り合おう、という人種か。知り合いにそういった悪友が一人いたが、それ以上に危険に見えた。

 タキオスの構えには一分の隙すら無く、剣士であるならば感嘆の念を禁じえないだろう。重心を何処に置くとか、体の正中線がずれていないとか、そういう事は横島には良く分からない。ただ分かったのは、相手が圧倒的高みにいる事だけだ。達人を踏み越えた者。どれだけの犠牲を払ってここまできたのだろう。さらに恐ろしいのは黒い永遠神剣からあふれ出るオーラフォトンの量である。刀身から凄まじい量の黒いオーラフォトンが立ち上る。その量は横島と悠人が出せるオーラとは比べ物にならないほど多い。桁が違う。圧倒的すぎる。

 

(逃げるしかない!!)

 

 頭が、肉体が、魂が、横島を構成する全てが判断した。あれには勝てない。絶対に勝てない。

 神、悪魔、龍、そんなものではない。異端、異常、異物……そのどれでもあり、どれでもない。

 強いて言うなら『外側』。ありとあらゆる存在の外にある存在。化け物なんて言葉は生ぬるすぎる。

 勝つ方法は皆無。戦えば死ぬだけだ。馬鹿馬鹿しいほどの力の差が存在する。逃げる以外に選択肢はない。一瞬、この男に囚われているらしいエニの顔が頭をよぎる。このまま逃げていいのか迷う。だが、横島は判断した。今は逃げるしかないと。

 

「ゴキブリのように逃げる~~!!」

 

 霊力もマナも全てを逃げる力に変えて、横島はその場から逃げ出す。そのスピードは正に疾風。

 

「逃げたか……聞いていた通りの男だな」

 

 やや失望を感じさせる声でタキオスが呟く。

 だが、この判断は正しいとは分かっていた。

 相手の力を見抜く洞察力と、強きものからすぐに逃げ出す臆病さ。

 長生きできるだろうとタキオスは思った。

 しかし、それだけではないはずだ。

 あの男が何を持っているのか、確かめなければいけない。

 タキオスは緩慢ともいえる動作で横島が逃げた方向に足を向け―――その場から消えた。

 

 

 息をするのも忘れたように、横島は山を下っていた。

 舗装も何もされていない山道のため、走ればそれだけで足を挫きかけて、木の枝が体を突き刺す。

 だが、永遠神剣『天秤』を右手に握り、ほぼ限界までその力を引き出して守護を受けている横島はそんなことは気にせずに走り続ける。横島の通った後はまるでダンプカーでも通ったかのように荒れていた。戦車が戦闘機のスピードで森を駆ければこうなるのかもしれない。

 

『主よ、何故戦わない』

 

 咎めるような『天秤』の口調に、横島は苦しく、非常に申し訳ない気持ちになった。戦ってエニを取り戻せと、責められていると感じたからだ。

 

「すまん。だけど、なんだか知らんがエニは大丈夫だと思うぞ」

 

 理由は分からないが、エニが傷つけられる事はないと、何故か確信していた。それは、『天秤』の深層心理を読み取っていたかもしれない。

 

『エニの事などどうでも良い。私は闘えと言っているのだ』

 

「何言ってやがる!! エニがどうなってもいいのか……ああ! そりゃ逃げてる俺が言うことじゃねえけど。それに、あんなの倒せるわけないだろーが。一体なんなんだ、あの筋肉男は! 目つきが悪いにもほどあるだろ!!」

 

 横島はタキオスとの力の差を嫌というほど理解していた。

 あんなのを相手にするくらいならば、国を一夜で滅ぼせる龍を数匹倒したほうが遥かにましだ。あれは魔神や猿神ぐらいのランクにいる変態だ。最悪の場合、それすらも凌いでいる。

 実際の所、タキオスと名乗ったムキムキ男と、ムキムキアシュタロスのどちらが強いのか、正直分からない。ただ一つ言えるのは、どちらにしても、どうしようもない存在というだけだ。

 今の自分はルシオラクラスを倒せるぐらいの力しかない。神話級の化け物の前では、糞同然の存在でしかないのだ。

 

『主よ、決してそんな事はないぞ。この世界に存在するという事は、この世界に存在して良いということだ。つまり、この世界に存在できる程度の存在になっているということ。で、あるならば、この世界に存在する力で倒す事は理論上不可能ではない。この世界のマナはさして多くないから、力の大部分は出せないはずだ。世界に存在する以上、彼等は必ず最強になり、決して無敵にはなれないのだからな』

 

「日本語か聖ヨト語で話せ」

 

 意味不明な説明を頭の中で行われ、酷い頭痛を感じる。この『天秤』という神剣は相手に分からせる努力をまったくしない。ただ難しく格好良い言葉を抜き出して喋って、こちらを煙に巻こうとしているのではないかとすら思った。そうしてこちらが分らなければ、こちらの理解力の方を責めるのだ。教師としての適正はゼロだろう。

 

「とにかくあれだ。あいつはきっと俺をこの世界に送り込んだ黒幕……いや、黒幕の四天王筆頭だ! この世界でスピリットが迫害されるのも、俺が色々と酷い目に合うのも、何もかもそいつらの策略なんだ!!」

 

 そうにちがいないと、うんうん頷く横島に、『天秤』は言葉もなかった。血もないのに、血の気が引くのを『天秤』は確かに感じた。

 

(流石はヨコシマね! あっさりと世界の秘密を発見して見破っちゃったわ。そんな貴方にスーパールシオラちゃん人形を進呈しちゃう!)

 

(恐ろしい勘だな。忘れる……いや、無かった事になるから良かったが)

 

 動物的直感で真実にあっさりと近づいた横島。この男はあまり難しい事を考えず、欲望の赴くまま行動した方が正しい解を見つけ出せるのだろう。理屈や理論で考えることが正しいと思っている『天秤』にとって、どうにも納得いくものではなかったが。

 

(でも、確かに簡単に分かりすぎね。さて、どういう事かしら?)

 

 ルシオラだけは、やはり別の何かを見ているようだった。

 

 それから少し走り続け、横島は恐る恐る後ろを振り返る。あのタキオスという男の姿は無い。

 逃げ切った。荒く息をしながら、そう確信した瞬間だった。

 足が動かない。一体何が起こったのかと、手で足を触ろうとすると、今度は手が動かない、と思ったら、全身が動かなかった。

 

「なんじゃこりゃあーー!!」

 

『空間を操作されているな』

 

 緊急事態だというのに何の危機感も感じていない『天秤』の声が癇に障る。

 体そのものが動かない金縛りとは違う。何かに体を押さえつけられているような感じだった。まるで、目の前にある空気、いや、空間そのものが硬直してしまったかのように。

 首も動かないので眼球だけをぎょろぎょろと動かし、手足に何か巻きついていないかを確かめる。何も付いてはいない。走っている格好そのままに動きが止まっている。

 

「何がどうなって……」

 

『だから、空間を固定されているのだ。文珠一つでは解除できそうも無いし、力ずくで脱出は不可能だな』

 

「だから! 何でそんなに落ち着いて……っ!!」

 

 何故かまったく慌てた様子が無い『天秤』に、横島は顔を赤くして激昂したが、突然、真っ青になる。

 いつの間に現れたのやら、横島の目の前にはタキオスと名乗った男は、息一つ切らした様子も無く目の前に立っていて、黒い神剣を横島の方に向けていた。神剣が纏っているオーラの量は桁が違いすぎて、何もしなくても周囲の空間を捻じ曲げている。

 絶対の死を約束する筋肉質の男の姿がそこにあった。

 

「うぎゃああ!! 頼む! 見逃してくれ~~。俺には家に可愛い女房が四人と、腹を空かしたガキが四人と、十九人の愛人が俺の帰りを待っているんじゃ~~!!!」

 

 必死の命乞いが始まる。目から涙を滝のように流し、鼻からは鼻水をジェット噴射の勢いで発射して、耳からは耳汁を放出する。逃げる事もそうだが、命乞いも横島の十八番の一つだ。その情けない姿は、見る者の同情と軽蔑を誘い、相手を油断させるのだ。

 だが、タキオスは眉一つ動かさなかった。

 

「もう一度言おう。俺と戦え。死にたく無ければな」

 

「あああ!! こんな事なら夜這いしてでもやっときゃよかったーー!! すまん息子よ~~」

 

 そこでようやくタキオスは表情を動かした。と言っても、迷惑そうに眉を僅かにひそめただけだが。

 

「分かった、よく聞け。お前は俺に最大の一撃を放てばいい。そうすれば手は出さん」

 

 会話が成り立たない為か、いささか辟易した様子であったが、タキオスはただ横島との戦いを望んだ。そんなタキオスの様子に、横島も幾分落ち着いたようだ。

 

「本当か? 手を出さないとか言って足出してくるのは禁止だぞ! 嘘付いたらお前のかーちゃんでーべそって言いふらすぞ!」

 

「御託はいい……来い!」

 

 横島の戯言に付き合うつもりはないのか、タキオスは表情を殆ど変えない。そしてようやく体が自由に動くようになる。

 嫌な奴。横島はこの男との相性が最悪であると確信した。単純なバトルジャンキー筋肉馬鹿ではない。まったく面倒で、けしからん筋肉だ。筋肉ならおとなしく「筋肉いえぃいえーい」とでも言っていればいいのに。

 

 主導権が取れずイライラしながらも、横島は思考する。

 とにかく、全力で攻撃して来い、などと言う変態ムキムキマッチョなどに構うなど、時間の無駄どころか、人生の無駄である。さっさと言う通りにして逃げよう。

 『天秤』に霊力を通す。さらに限界まで深く『天秤』と繋がり、力を引き出して、マナをオーラに変えて流し込む。二つの力を注ぎ込まれた『天秤』が強く輝く。この状態の『天秤』は単純に文珠を二つ連結させるよりも高い威力を持っている。

 今の『天秤』には、アシュタロスに少しはダメージを与えた、あの強文珠に匹敵、もしくはそれ以上の威力はあるだろう。それでも筋肉男に効果はなさそうだが、とにかく今は言うとおりに行動しなければならない。

 

「おい、魔法は使っていいのか?」

 

「構わん。やれる事は全てやってみろ」

 

「そんじゃあ……脆弱のオーラよ。奴の筋肉を贅肉に! 美女にモテナイ、貧弱なボウヤに変えろ! ウィークネス!!」

 

『主よ、その詠唱……何とかならんのか』

 

 直径2メートル程度の幾何学的な魔法陣が空中に浮かび、中心から今にも消えそうな弱々しい群青色のオーラが溢れ出す。オーラはタキオスに纏わりつき、その力を減少させる。横島の神剣魔法の特徴として、相手の力を封じたり弱めたりする物が多い。この辺りは悠人と対照的だ。他には女性限定の回復魔法と、純粋にオーラを固めて発射するぐらいだ。

 

 焼け石に水。そんな諺が頭をよぎる。力を減退させたとはいえ、絶望的な力の差はそのままだ。だが別にそれで構わない。別にダメージを与えることが目的ではないのだ。

 次にやる事は……

 

「アイテムなんぞ使ってんじゃねえ!! ……なんて言わないよな?」

 

「言っただろう。使えるものなら何でも使うがいい。万能に近い異世界の力は、俺も興味があるからな」

 

 いかにも大物だと見せ付けるような余裕ぶりで、タキオスが言う。

 厭味なほどの無敵筋肉オーラを全身に浴びて、横島は辟易しながらも、あることに気づいた。

 

「あんたは文珠の事を知ってんだな。そんで、この世界の住人らしく霊力を感知することはできないと」

 

 何か含みを持たせた横島の言葉に、少しだけタキオスが顔を顰める。

 だが、すぐに表情を戻した。何を気付こうがどうせ忘れる事なのだと、タキオスは心の中で呟く。

 

 文珠に文字を入れる。

 使う数は今あるすべてである二個。入れる文字は『強』『化』

 正直、惜しい。こんな所で文珠を使うことになって、しかも、この筋肉相手では『強』『化』の文珠は殆ど意味がないのだから。

 何か他に手があるのではないか?

 そう横島は考えた。文珠は使い方によってありとあらゆる存在を倒すことができると、良いおっぱいの戦友が言っていた。

 GSとしての力。美神ファミリーの一員としての知恵。横島としてのギャグ。

 いくつものパーツが組み合わさり、頭が回転を始め――――

 

『主よ、妙な事を考えるな。下手な策など見破られて不興を買うだけだ。機嫌を損ねればその瞬間に終わりだぞ」

 

 ―――ようとしていたのに、水が掛けられる。浮かび上がりそうだったアイディアは、その輪郭を形成する間も無く四散した。

 横島にも『天秤』の言うことは分かるのだが、どうにもこの神剣とはそりが、というよりノリが合わない。力を与えてくれて、自分の短所を補ってくれているのは分かるのだが、代わりに何かが潰されているような気がしていた。

 

(心眼だったらな~)

 

 どうしても思い出してしまう。こうやって会話しながら戦闘方法を模索するのは同じだ。どちらが武器として優れているか、と考えればやはり『天秤』なのだろうが、どちらが自分に合っているか、と考えればそれはやはり心眼だろう。

 もし、この場に心眼がいてくれたら。そう、ぼんやりと思ったその時、

 

「っがあああ!!」

 

 脳みそに針を打ち込まれたかのような激痛が走る。横島の口から野獣の如き唸り声が洩れた。

 

『二度と、私を布切れと比べるなと、そう言わなかったか!!』

 

 耳を押さえたくなる程の怒声が頭に流れる。

 そこには圧倒的な嫉妬が含まれていた。

 

(男の嫉妬を見苦しいわよ)

 

(黙れ! 私が嫉妬などという意味不明の感情に囚われるわけがないだろう!!)

 

「ぐうぅ! このロリ剣め……ん? 一体お前は誰と話してんだ?」

 

『何でもない! とにかくだ! お前の浅はかな考えでこの難局を乗り切ることなどできん。それだけの力量差があるのだ!!」

 

「分かってる! 第二位並みの力がある『無我』が相手じゃ、どうしようもねえよ!! アホ、バカ、お前のかーちゃん、ロリ婆!!」

 

『いい加減自分の立場を弁えろ! この低俗、俗物!!』

 

「……早く準備をして欲しいのだがな」

 

「はい! 少々お持ちください!!」

 

『卑屈な奴め』

 

(なんだかんだで、貴方達って仲良く見えるわね)

 

(そんなわけあるか!)

 

 結構な危機に見舞われているはずなのだが、どうしても緊張感に欠けていた。まあ、横島らしいと言えばそこまでだが。

 多少は思案したものの、やはり今は言われたとおりにするしかない。逆らえば、瞬きをする間すらなく首と胴がお別れになってしまう。このバトルジャンキーが嘘をつかない人間だと信じるしかない。経験上、横島はこう言ったタイプの男は嘘をつかないと知っていたから、たぶん大丈夫だと考えていた。

 

 『強』『化』の文珠を『天秤』に叩き込む。

 オーラフォトンと霊力は、単純なプラスではないようだ。多少の相乗効果も相まって、『天秤』はかなりのパワーを持つに至る。

 強烈な光を放ち続ける『天秤』を見て、横島は自分が人間ではなくなっている事に改めて認識した。慢心でも何でもなく、それは確かな事実。この『天秤』の一振りは上級魔族すらも一撃で滅する事が出来る。神話クラスの神魔でもなければ、今の横島を相手にする事はできないであろう。

 

(……まあ、こいつには効きそうにないけど)

 

 一体、この筋肉はなんなのだろうか。

 タキオスを見ていて、横島の中にある感情が広がっていく。

 

(この筋肉を殺せば……どれだけのマナが食えるんだろうな)

 

 食欲に近い感情が横島の中で膨らんでいく。その感情は意思と言うよりも本能に近かった。

 

 マナを喰らいたい。一つになりたい。そして原初の剣へ!

 

 強烈なまでのマナに対する欲求は、横島の意識を押しつぶし、飲み込み、同化していく。横島は生来、欲望の男だ。本能に忠実に生きる事を信条としている。神剣から送られてくる純粋すぎる欲求は、横島に酷く馴染みすぎていた。横島の自我が弱まり、瞳から光が失われていく。それに比例するように、オーラに返還されるマナは大きくなる。膨大なマナを保有しているタキオスを見てゴクリと喉を鳴らしたとき、横島は『天秤』に飲まれかけていることに気づいた。手の甲を抓って、頭を振り意識を覚醒させる。

 

(何が悲しゅうて、男見て喉を鳴らさなきゃあかんのや!?)

 

(くっ! こういう訳の分からん思考で、どうして私の干渉を跳ね除ける!? この男の精神の強さがまったく分からん!)

 

 こうなるから横島は『天秤』を使いたくないのだ。特に今は全力で『天秤』の力を引き出しているせいで、意識が時々途切れそうになる。いや、自我が消えるというより、塗り替えられていくと言った方が正しいか。痛みは無いが、その嫌悪感は半端ではない。

 

(おい『天秤』! どうせだったら力だけをよこせ!!)

 

『それはできんな。まあ、悠人のように地獄の激痛を味わうよりはましだろう。それに気づいているか? 主の意識が弱いほうが、威力のある一撃を繰り出す事ができるのだぞ』

 

 『天秤』はそう言い切る。横島は苦みきった顔で黙った。

 確かにそうだ。悠人の『求め』は度々マナを求めて干渉を繰り返している。稀に悠人が『求め』に干渉されているところを見るが、相変わらずその苦しみはかなりのものだ。

 それに比べれば随分とマシだろう。嘘は言っていない。それは分かる。だが納得できるかどうかは別問題だ。

 

『そういうわけで、今回は私に任せておけ。決して悪いようにはしない』

 

「だから、心の中に入ってくんなって言ってるだろ!」

 

(『天秤』、あの男も、ヨコシマの力が見たいみたいだから、今回は諦めなさい!)

 

『……ちぃ、良い所を見せたいのだが』

 

「何か言ったか?」

 

『なんでもない。精々あがけ!』

 

 不貞腐れて自棄になったような声が脳内に響き、そして沈黙する。本当に癇癪持ちの子供のようだ。

 初めのころよりも随分と人間味出てきたようだが、それが果たして良かった事なのかは判断が難しい。どうにも危なっかしい一面が見え隠れする。

 

「神剣との会話は終わったか。いつ打ち込んできてもよいぞ」

 

 タキオスが僅かに嬉しそうにしながら、横島に向かって手招きする。

 

(筋肉バトルジャンキーめ!!)

 

 何の前触れも無く降りかかった災難への怒りを叩きつけるかのように、タキオスに飛びかかり、『天秤』を思い切り振り下ろす。タキオスはそれに合わせて黒い神剣を前に出して『天秤』を受け止めた。

 爆弾が落ちたような轟音がその場で起こる。実際、爆弾が落ちてきたといっても疑うものはいないに違いない。限界まで強化された『天秤』と、相手の神剣のぶつかり合いは、正に爆発としか言いようが無かった。

 二人がぶつかった所を中心にして、周辺の大木は軒並み倒され、地面に生えていた草花は一瞬にして灰となった。衝撃波はまるで龍のキバのようになり、地面に荒々しくその爪あとを残す。

 二人の激突した場所は、まるで月面のクレーターも同然となり、周辺の大地を文字通り揺るがした。

 

 だが、周囲の景色とは対照的に肝心のタキオスはまったくの無傷であった。爆心地の中心で、タキオスは悠然と立っている。

 渾身の一撃を軽く防がれた横島は、後ろに跳んでタキオスの間合いから離れた。

 

「ちっ」

 

 タキオスが顔を歪めて舌打ちをする。

 それは今の一撃が強力だったからではない。

 

「おい! これで良いんだろ!! さっさとエニを返せ。俺も帰るからな」

 

 最大の一撃を当てたにも関わらず、小揺るぎもしなかったタキオスに、横島は溜息を吐いたぐらいで、特に驚きはしなかった。強いとか弱いとかじゃなくて、存在が違いすぎるのだ。蟻が像に噛み付いて効果が無いようなもの。正直、気にしてもしょうがない。

 エニを返してもらったら、一秒でも早くこの場から離れる。それだけが横島の頭を占めていた。

 

「本当にこれで全力なのか」

 

 一方、タキオスは肩を落とす。今の一撃で十分に理解した。

 この男には剣術の才能が無い。これから先、十年鍛錬を積んでも、百年、千年、一つの世界が終焉を迎えるまで鍛錬を積んだとしても、精々、千の世界で世界最高程度の使い手になるぐらいが限界だ。

 神剣魔法にしても、特に特別なものは感じない。特徴として相手の力を下げる事を得意としていると感じる程度。

 だが、タキオスが落胆した最大の理由は別のところにあった。

 足りないのだ。

 恐さが、凄みが、狂気が、意思が、渇望が。

 これでは、単純に威力が高いだけの一撃に過ぎない。

 

(悪くはないのだが)

 

 戦いのセンスが低いわけではない。いや、低いどころか恐ろしいまでのセンスを感じる。相手の虚を付き、敵の力を下げることは戦いにおいて重要だ。逃げる事に関しては、先の動きを見るだけで見事なものだと分かる。剣術や魔法などの戦闘能力は、この時点では低くはない。咄嗟の判断能力も中々のものだ。しかも、まだまだ若く、成長途中である事は明白である。天才と言って、差し支えはないだろう。

 しかし、足りない。戦士としての資質ではなく、神剣使いとしての資質が足りない。自分の分析に疑いを持たないタキオスは拍子抜けしたように肩を落としたが、顔は笑っていた。

 

(賭けは俺の勝ちだな。この男が勝ち上がるわけが無い)

 

 タキオスは仲間内での賭けの勝利を確信した。少なくとも、自分が見出した悪魔に勝てはしないと。

 

 この時点で、タキオスの興味は完全に横島から消えた。もはやタキオスがここに居る理由も無く、ただこの場でエニを返し、己の上司の下に戻るはずだった。

 しかし、ここでイレギュラーの存在が行動を起こす。

 

 タキオスの周囲に、ぽっかりと黒い穴が開く。その穴の中から、タキオスを串刺しせんと、無数の黒い針が飛び出した。突然の事に驚く横島だったが、当のタキオスは表情を変えず、目にも止まらない早さの斬撃で針ごと黒い穴を叩き潰す。

 一体何が起こっている分からず混乱した横島の前に、一つの影が舞い降りる。

 

「お逃げください! ヨコシマ様!!」

 

 横島の前方に躍り出たのはファーレン・ブラックスピリットだった。いつも通りフルフェイスの仮面を付けていて表情は読み取れないが、かなり慌てているようだ。

 何の前触れも無く表れたファーレーンに横島はまた驚いた。ここまで接近されて気付かないというのは、神剣を持つ限り本来あり得ない。可能な限り神剣反応を感知されないように力を抑えたのだろうが、やはりこのスピリットは並大抵の技量ではないようだ。

 

「この男は私が命を賭して食い止めます! ですから、ヨコシマ様は急いで逃げてください! 早く、逃げて!!」

 

 必死さが伝わってくる、悲鳴のような声だった。

 ファーレーンから見た立場だと、横島がタキオスと殺し合いをしているように見えたのだ。勝負を掛けた決死の一撃も効果が無く、後は殺されるのを待つばかり。

 一縷の望みを賭けた奇襲も難なく防がれてしまった。

 こうなれば命を賭して横島の盾になるしかない。

 そう決意してタキオスに立ちはだかったのだ。

 勘違いしていると、横島はファーレーンに言おうとしたが、それよりも先に動いたものがあった。

 

 カラン。地面に何かが落ちる。仮面だ。

 ファーレーンの顔を覆っていた仮面が真っ二つに割れて地面に落ちていた。タキオスは、いつのまにか大剣を振るった体勢になっていた。

 横島もファーレーンも、タキオスがいつのまに仮面を切ったのか、認識すら出来なかった。もうどれだけ実力差があるのか。二人は声を失うしかない。

 

「ふむ、中々美しいスピリットだな。実力も悪くない」

 

 値踏みされるような視線に、ファーレーンはすくみ上がった。痙攣を始めたかのように体が震える。

 修羅場を幾つも潜り抜けてきたファーレーンだったが、その全てを軽く越えるほど恐怖が全身を覆う。今までファーレーンが切り伏せてきたもの達を合わせても、このタキオスと言う男には届かない。ただ立っているだけで、研磨された空気が肌を突き刺すかのようだ。

 この時点でファーレーンは戦闘態勢を完全に解除した。例え体を張っても、何の意味もないからだ。

 

「貴方の目的は何ですか」

 

 それでも、ファーレーンの瞳から光がなくなる事はなかった。

 その動きの速さから逃げることは出来ないだろう。だが、話は通じる。なんとか交渉して、横島だけは逃がそうと考えた。

 

「目的は既に達成したが……ふむ、そうだな。ファーレーンと言ったな、貴様がほしい」

 

「一体どういう事ですか」

 

「強きものが弱きものを食うのは世の理だ。神剣使い同士、それも男と女だったら、やる事は一つしかあるまい」

 

 タキオスの視線がファーレーンの体に注がれる。

 食うという言葉の意味を、神剣使いである横島達は正確に把握した。

 ファーレーンの瞳が揺らいだ。死の恐怖と、女としての怯えが心に走る。

 だが、すぐにファーレーンは落ち着きを取り戻す。

 

「どうやら時間は稼げそうですね」

 

「ちょっと! ファーレーンさん!!」

 

「この方の機嫌を損ねてはいけません。ヨコシマ様も、それは分かっているはずです」

 

 横島を守る。それだけがファーレーンの頭を占めていた。

 それはそれほど難しくない。女としての体と、この身のマナが目的ならば、確実にある程度の時間は稼げるはず。それが一番いい。この相手に抵抗は無意味なのだから。

 悲壮な覚悟を決めるファーレーンだが、横島は安心させるような笑みを浮かべて、殊更明るい声を出した。

 

「大丈夫っす! あいつは俺を攻撃してきません」

 

「……え? そう……なんですか?」

 

 目を大きく見開いて、驚いたように訪ねてくるファーレーン。そのどこかとぼけた感じが横島には堪らなかった。

 

「そうなんですよ、ファーレーンさん! そうだよな。男の約束だ。まさか破るなんて男として、戦士としてあっちゃいけないことだよなあ!!」

 

 煽るように、プライドをくすぐる様に、タキオスに向かって言い放つ。

 戦いに身を置く者には一定のプライドや、またはポリシーを持つものが多い。そういった自尊心を刺激してやれば、自分はおろかファーレーンに襲い掛かる事はないだろうと考えた。

 タキオスはじっと横島の目を覗きこんだ。そして、ふっと笑うと、その姿は幻のように消える。

 横島は驚く――――間もなかった。腹に衝撃が走ったかと思うと、足は地を離れて、体が空中を投げ出される。

 そのまま大木に背中でぶつかり、横島は胃液を吐き出しながら、『飯を食わずに来て正解だった』と頭の片隅で思った

 

「がはっ……ぐっうう、てめえ、約束と違うだろうが! 俺が全力で攻撃したら、俺には手を出さないんだろう!!」

 

「力有るものと、力無きものの約束事に、意味が在ると思っているのか」

 

 悪びれる事もなく、タキオスは平然と言い放った。

 最悪だと、横島は心の中であらん限りの悪口雑言をタキオスに送る。

 脳みそが筋肉で出来たようなバトルジャンキーではない。筋肉どころか、鋼鉄で出来ている。

 強者にしか価値を見出せない最悪の男。情や倫理で動く事はないのだろう。

 強ければ正しく、弱ければ悪。素でそう考えている。

 

「安心しろ。貴様を殺しはしない。それは約束する。もとよりただの戯れだからな」

 

「一体、貴方は何を言って……」

 

「つまりだ、弱きものよ。お前が助けに入った所為でこの男はいたずらに傷つき、そしてお前は意味も無く犯され壊れる、という訳だ」

 

 無慈悲に、タキオスはファーレーンの心を抉る。

 ファーレーンは「そんな……」と絶望したように肩を落として、両膝をついた。

 タキオスは詰まらなそうに鼻を鳴らした。

 

「もう心が折れたか。やれ、少しは抵抗してもらうぞ」

 

 タキオスの前方に光輝く魔法陣が展開された。

 魔法陣からずるりと何かが這い出していくる。ヌメヌメとしたワーム。醜悪な怪物だ。

 ファーレーンは生理的な嫌悪感を感じて、思わず目を背けた。

 

「そう嫌うな。これがお前の相手なのだから」

 

「あ……いて?」

 

「そうだ。これが、これからお前を抱く者だ」

 

 ファーレーンはまだ事態が飲み込めないようで、ポカンとした。頭の中で言われたことを反芻して、ようやく理解に至った時、彼女はついに涙を流して頭を振った。

 

「いや、無理です! こんな……こんなの」

 

「安心しろ。これほど最高の絶頂を迎えるのに適した生物はいないのだぞ。それに、死ぬわけではない。心が壊れて、男を見ただけで腰を振るようになるがな」

 

 ピントが外れたタキオスの発言。

 この男は狂っているのだ。少なくとも、正常な視点から見れば。

 触手は「我が世の春が来たー!!」という勢いでうにゅうにゅとファーレーンに迫る。

 

「この小説は健全ですよー切り!!」

 

 横島が『天秤』を一閃して、覆いかぶさろうとしていた触手を切り捨てた。

 タキオスはつまらなそうに横島を見る。

 

「まだいたのか。もうお前に用は無いのだが」

 

「ふざけんな! ファーレーンさんは俺の大切な女だぞ! 手なんか出させるかい!!」

 

 横島が叫ぶ。霊能力者が見れば、彼を中心に霊気の奔流が流れていることに気づけるだろう。エロが霊力の源である彼にとって、少年誌世界よりも18禁な世界の方がパワーアップが見込めるのだ。

 

「ヨ、ヨコシマ様……駄目です。逃げて」

 

 本当は助けてと叫びたかった。

 快楽を軸として心が神剣に飲まれたスピリットの末路を、ファーレーンは知っている。神剣の意識と女の性欲だけが残されたスピリットは、ただ浅ましい欲求に従うだけ。その痴態を、密かな憧れを持っている横島に見せ付けでもしたら。考えるだけで気が狂いそうだ。

 だが、自分はスピリット。エトランジェとスピリットのどちらが重要なんて分かり切っている。

 

「ファーレーンさんを置いてけるわけないっすよ! 安心してください。俺がきっとファーレーンさんを守りますから!」

 

 横島はファーレーンに笑いかける。ファーレーンは泣きそうだった。セリア達が横島を守ると誓った理由が良くわかる。

 優しい笑いから、圧倒的な意志の強さを感じる。その意志の源は自分なのだ。虐げられてきたスピリット達が、彼を守ろうとするのは当然だ。こんな時であるが、ファーレーンはセリア達に嫉妬した。この人と毎日楽しく暮らせたら、どれほど素晴らしいかと。

 

(絶対に姉妹丼を食うんだ! 両側パフパフでフィーバーダンスを!!)

 

 意志の強さは源はこんなものなのだが。

 

「無駄な事はやめるのだな」

 

 詰まらなそうなタキオスの声が聞こえた。横島は決断は早かった。

 咄嗟にファーレーンを抱きしめる。彼女の匂いと、胸の柔らかさを存分に味わいつつ、こんな状況ですら煩悩をフル回転させて、横島は叫んだ。

 

「スゥゥーーパアァァァーー! サァァァイキックゥゥゥゥ! オォォーーラッッバリアーーー!!!!」

 

 スーパー系なノリで霊力とオーラを練りこんだ障壁を展開する。例えこの場に爆弾が落下してきてもびくともしない強靭なやつを。が、横島とファーレーンは宙に舞った。電車にでも轢かれたような圧倒的な衝撃が襲いかかって来たのだ。

 横島の腕に中にいるファーレーンは気絶したが、横島は必死に意識を繋ぎ止める。そして、ファーレーンを抱えて地面に着地して、彼女を地面に優しく置いて、『天秤』の力を引き出していく。

 

「意識があるか。心も折れていないようだな」

 

 ふらつきながらも、横島は右手に『天秤』を、左手に栄光の手を構える。状況は絶望など遥かに通り越した状況であったが、目はまだ輝きを失っていない。倒れているファーレーンを庇うようにタキオスの前に立ちふさがる。

 

「気概は認める。しかし、やめておけ。貴様では俺に傷一つどころか、一歩たりとも動かす事はできん」

 

「関係あるかーー!!ファーレーンさんは俺が狙ってんじゃあー!! それに、憧れの姉妹丼をぉぉぉぉー!!」

 

 左手の栄光の手を伸ばす。凄まじいスピードで迫る栄光の手だったが、タキオスの周囲には黒いオーラフォトンの壁が形成されて、軽々と受け止められてしまう。

 だが横島はそうなる事を完全に予想していた。止められた栄光の手を下に向けて曲げ、地面に突き刺す。そして、地面内部で栄光の手を爆発させた。

 タキオスの足元が吹き飛ぶ。動かす事などできないと言ったタキオスも、足場がなくなったのでは動かざるを得ない。タキオスは後ろに軽く跳んだ。

 

「簡単に一歩以上動いちまったな」

 

 ニヤリと横島は不敵に笑う。余裕たっぷりに口元を歪めて、犬歯が見えるような獰猛な笑みだ。

 

(た、頼むから怒らないでくれよ……バトルマニアならマニアっぽく……な!)

 

 顔とは裏腹に、心の中では情けの無い懇願をしていたりもするのだが、それを表に出さないのは一流の証だ。また、このような土壇場で栄光の手の扱いをレベルアップさせる所などが、訓練ではなく実践で成長するタイプだという事を示していた。

 ハッタリの重要性は雇用主と共に戦場を駆けてきたことでよく知っている。

 今やらなければいけない事は、ファーレーンに二度と注意が向かないよう、タキオスの興味を自分に向けることだ。横島は必死に逃げ出したい気持ちを抑えて不敵に振舞った。

 もっとも、タキオスにとって横島のハッタリなど気にすることではなかった。重要なのはただ一つ。今の一撃が感心を引く一撃だった事だけだ。

 

「貴様を強くするのは自己保身ではなく女か。女に対する強き想いが、貴様の根源であり、歪みの元となるか」

 

 今の一撃には意志があったのを、タキオスは感じていた。

 先ほどのように、追い詰められて苦し紛れの一撃では無い。

 柔軟性のある生きた攻撃。先ほどの防御も中々のものだった。

 消えたはずの興味が、また再燃してくる。

 

「面白い。機会を与えてやる。まずは回復してやろう」

 

 タキオスが黒い神剣を地面に突き刺す。辺りが黒い光で満たされる。すると、横島の体に力が戻ってきた。

 なんでもありなのかと、横島はひたすら筋肉に対する理不尽さに歯軋りする。

 

「次の一撃で俺を満足させてみろ。出来なければ、この女を犯し、壊す。お前の目の前でな」

 

 タキオスはそう静かに言って、腰を落として神剣を構える。

 これがラストチャンス。その事を横島は理解する。もしここで失敗すれば、ファーレーンは奪われる。間違いなく、最悪と呼べる形で。

 

 必死に考える。満足させる一撃とは何か。ただ強いだけの攻撃なら、先の一撃以上は不可能。

 それに強い攻撃を求められているわけでもない。満足できる一撃だ。横島はこの条件を、こう解釈した。

 想定外の一撃を欲していると。

 

 剣技では当然不可能。魔法もだめ。ならば霊力……これも厳しい。本命は文珠だが、敵が文珠を知っているなら、どのような事態が起こっても、文珠の効力だと納得されて終わりだろう。そもそも、文珠はもう無い。心理戦に持ち込むといっても、この男をギャグに引きずり込むのは至難の技だ。

 

(こいつはぜってえ見かけどおりの歳じゃねえ! おっさんがジジイだ!!)

 

 落ち着き払っているタキオスに、横島はそう決定付ける。

 冷静なバトルジャンキーが、これほど厄介なものだとは。

 一体どうすればいいのか。横島は死に物狂いで考えた。

 

 ――――自分を信じて。

 

 何時、何処で、どうして聞いたのかは分からない。

 だが、確かに何度も聞いたことがある声が響く。

 誇れるもの。信じられるもの。

 

(そんなの……一つしかねえじゃねえか!!)

 

 以前の横島なら、俺ほど信じられないものは無いと言っただろう。だが、今は違う。

 幾度も戦場を駆け抜けて、何度と無く死にかけて、それでも生きてきたのはこの力があったからだ。

 相手が神でも誇る事ができるものは、確かにあった。

 

「これが、俺の力だ!! 48の煩悩技……基本にして極意! 煩悩全開!!」

 

 横島の頭の中で、何人もの美女が現れては消えていく。まるアニメのオープニングのように。

 横島が誰にでも誇れるものといったら、これしかない。原初の欲望にして三大欲求の一つ。人の業。漢魂。

 すなわち、煩悩!!

 

「むぅおおお!!!」

 

 横島の魂は煩悩という最高の栄養を与えられてフル稼働を始める。

 凄まじい量の霊気が『天秤』に流れ込んでいく。

 流れ込んでくる霊力の多さに『天秤』は感嘆したが、次の瞬間に落胆することになる。

 確かに霊力は強くなったが、実際の威力は弱くなっている。理由は、横島が強い自我を持ったために『天秤』の支配が弱まったからだ。

 

(おろか者め。私がいなくては何もできない事を理解していない……未熟を知れ)

 

 ここでファーレーンが犯されて心が壊れたほうが良いかもしれない。『天秤』はそう考えた。目の前で絶望と無力感を味わえば、もう少し従順になるだろう。後に出る不具合の始末は、世界と自分ですればいい。

 

(さあ。それはどうかしらね?)

 

(なに?)

 

(女性のために戦うヨコシマは強いわ。誰よりも、何よりも、永遠よりも)

 

 自信、いや、確信を持って言い切ったルシオラに、『天秤』は僅かに不安に駆られる。まさか、万が一があるのではと。

 だが、即座にその考えを否定する。神剣の力を完全に引き出せていない状態の横島が、何かできるわけない。なんとかされてしまっては、自分が共にいる理由がないではないか。

 

「この一撃で、てめえは血を流す! これでもかってくらいにな!!」

 

「面白い。やってみろ」

 

 悠然と構えるタキオスに、横島は『天秤』を掲げながら突撃する。その動きは今までと別段変わり無い。タキオスは落胆しながら、その剣を悠々と受け止める―――――その瞬間だ!

 横島の顔面から赤い光線が発射される。効果音は、漫画に出てきそうな「ドピューン!」というものではなく、「ぶしゅうう!」と汚らしいものだ。鼻血だった。

 殺気も、命の危機も無い、ただの生理現象である鼻血にタキオスは虚を衝かれたようで、回避することはできずに全身が赤く染め上げられた。

 

「これが48の煩悩技……禁技、その1!! 鼻血大噴射!!」

 

 鼻血を出しすぎて貧血にでもなったのか、横島は青白い顔だったが、してやったりの顔で秘儀の口上を述べる。

 この技は煩悩全開をして霊力を上げてしまった事によって起こる、マイナスの副産物である。噴水のように湧き出る鼻血は、体力をごっそり奪い取ってしまう。だから、本来の使い方は、鼻血が出ないぎりぎりの所で煩悩全開をやめるのが正しい使い方だ。

 だが、横島はマイナスに属する鼻血をプラスに持ってきたのだ。発想の転換であり、ギャグキャラである横島としての力をフルに使った結果の技といえる。そして、横島の宣言通り、タキオスは確かに滴り落ちるほどの血を全身から流していた。横島のだが。

 

「まさか鼻血による一撃とは」

 

 普通なら鼻血を掛けられて満足する戦士などいないだろう。しかし、タキオスは違った。

 口の端を吊り上げ、ニヤリと笑みを浮かべる鼻血塗れのタキオスに、横島は色々な意味で一歩引く。

 普通は「そんなのありか!」と怒るか呆れるかのどちらかだろう。変わった性格の持ち主なら面白がるかもしれない。

 しかし、この男は違う。ただ、感心していた。

 

「これは大したことだぞ。俺は何億という猛者と戦い続けてきた。そのいずれもが、様々な戦術を駆使して俺に戦いを挑んできた。だが、性的興奮によって血圧を上昇させ、鼻血を噴出させてくる戦士は一人たりともいなかった」

 

 獰猛な笑みを浮かべるタキオスに、横島は一体この筋肉は何を言っているのだろうと、半ば現実逃避をしていた。

 鼻血を浴びせられた事などまるで問題にしていない。ただ、鼻血を戦術に組み込んだ事だけを評価している。真正だった。

 

「なるほど、こういったタイプだったか。候補者の中では最弱だが……中々楽しめそうだな」

 

 目の前には、鼻血を浴びながら満足そうに頷いている筋肉バトルジャンキー。

横島は嘆いた。どうしてこの世界にはこんな変態がいるのだと。真面目に生きている俺が、どうしてこんな目に合わなければいけないのだと。

 横島に変態と言われるようでは、このタキオスという男、おしまいである。

 

 なにはともあれ、これで満足してくれただろう。そう願ってタキオスを見ていた横島だが、ここであることに気づく。

 タキオスに掛かった鼻血がマナの霧に変化していく。だがそれはただのマナではない。多量の霊力を含んだ、本来なら絶対に存在しないマナである。

 

 横島は己の感が何かを囁くのを聞いた。ふと、意識を集中する。

 

 何の前触れも無く、タキオスは爆発した。爆煙が周囲を覆う。

 その爆発の規模はサイキックソーサーの比ではなく、文珠規模で、近くにいた横島を軽く吹き飛ばすほどだ。

 横島の顔が青ざめた。こんなことをするつもりはなかったのだ。ただ、なんとなく、こうなった。

 風が吹き、煙がはれる。

 

「この俺が……完全に虚を……」

 

 爆心の中心で、タキオスが呆然と立っていた。肌が僅かに変色している。確かに無敵ではないようだ。

 最善のタイミングに、最高のスピードで、最大のエネルギーを、急所に当てることが出来たなら倒すことは不可能ではないのかもしれない。

 タキオスはしばらく瞳を抜かれたようになっていたが、突然笑みを浮かべた。それは狂気の笑みだ。殺戮欲を形にしたような、純粋で、怒りも憎しみも無い透明な狂気。

 

「自身から離れたマナの遠隔操作……いや、霊力の操作か。更に言うのなら、霊力によるマナの操作だな。だから俺が感知できなかったか。しかも、この場でその術を編み出したようだな。天才というしかあるまい」

 

 タキオスの瞳が、子供が悪戯をするときのようにギラギラと輝いている。

 

 まずい!?

 

 横島はぞくっと怖気を感じて、理由は分からないが必死に体を捻った。

 

「がっ!」

 

 首筋に強烈な衝撃を感じて、思い切り地面に叩きつけられた。意識が朦朧として、視界がぼやける。

 

「意識があるか。数回打ち合わせただけで、もう俺の能力に対応し始める……大した勘と反射神経だな。くっ、もっと楽しみたいところだが……それは俺の役目ではないからな。貴様の戦いぶり、しかと見せてもらうぞ。それと、炊事洗濯技能は鍛えておけ。あの方はそういうのが得意ではないからな。それに貧乳には希少価値があることを忘れるな。受けも攻めも覚えておけ」

 

 だったら襲いかかってくんじゃねえ! つーか、何言ってんじゃこの筋肉は!! ロリコンだったのか!?

 

 文句を言おうと口を開こうとするが、首筋に再度の衝撃が来て、横島は完全に意識を失った。

 

 

『空間を越えて距離を零にしての一撃……流石ですタキオス様』

 

 気絶した横島を尻目に、『天秤』は恭しくタキオスに賞賛する。臣下の礼を感じさせるそれは、タキオスと『天秤』の関係を如実に表していた。

 タキオスはそんな賞賛をまるで聞かず、倒れた横島を興味深そうに眺めている。

 

『しかし、タキオス様、一体何ゆえにこの世界に』

 

「この世界に必要なものがあった。ゆえに取りにきた。それだけだ」

 

 そう言って、タキオスはふところから小さな光り輝く欠片を取りだした。本当に小さな硝子片にしか見えないそれは、この世界においてまぎれも無く異物だった。

 『天秤』は感じた。その異物からとてつもない力の奔流を。

 

『恐ろしいほどの力を感じますが』

 

「そうか……やはり俺には感じられん。なるほど、テムオリン様の言うとおり、正にこれは切り札になりうるか」

 

 なにやら納得したタキオスの様子に、『天秤』は不満だった。

 自分が知らないところで、何かが動いている。自分は完全に蚊帳の外のようだ。

 一体、『法皇』様は何をお考えになっているのか。信頼されていないのだろうか。

 そこまで考えて、『天秤』はこんな事を考えた自分を恥じた。

 知らされていないのは、それ相応の理由があるはずだ。駒に過ぎない自分が考える事ではない。

 

「しかし、この男にも困ったものです。最初はタキオス様からいかにして逃げるのか、合理的に判断していたと言うのに、ファーレーン・ブラックスピリットが現れ、命の危機になったら守るために戦おうとする……愚かしい事です」

 

 『天秤』は始め、横島の行動には満足していた。あの場から全力で逃げ出した事。それは紛れもなく正解であった。

 どう足掻いても埋められない戦力差、友好的ではない謎の存在、囚われた仲間。

 状況から考えれば、逃げる事以外に方法はなかった。無様だが、正しい判断だ。

 

 それから捕らえられ、逃げられなくなってからも、悪くなかった。

 命乞いをしながら、相手の性格を考えて、この状況を打開する方法を模索する。

 結局、相手の意にそう形でしか動かなかったが、それが一番の正解だろう。不用意な行動などしたら、一瞬で首と胴が切り離されるのだから。それに、役者としても横島とタキオスでは差が大きい。腹芸など意味も無いのだ。

 これらの行動は『天秤』を大いに満足させるものであった。

 しかし、ファーレーン・ブラックスピリットが現われてからの行動は最悪だった。情と欲に溺れ、理知的な行動をとれなくなってしまった。

 最良の選択はファーレーンを見捨てることだった。

 これに関しては、意見を述べる事もないほど当然の事だ。

 

「ふむ。『天秤』よ、貴様は主に完璧を求めているわけか」

 

『はい。より強く、高みを目指したいと考えています』

 

「一つ言っておこう。完璧と強さはイコールでは結べない。特に神剣使いにとってはな。弱さと強さがイコールで結ばれることもある」

 

 『天秤』にはタキオスが何を言っているのか分からなかった。

 

「もし、この男とお前が真にかみ合えば……面白そうだがな」

 

 結局、『天秤』にはタキオスの言っている事が何なのか、さっぱり分からなかった。

 

「では、贄のスピリットを返すぞ」

 

 タキオスは黒い巨大な神剣を空中に向かって振る。すると、空間に裂け目が生まれ、そこから気絶しているエニが落ちてきた。

 空間の裂け目は結構な高さにあって、エニは頭から落ちている。下手をすると首の骨を折るかもしれない。

 『天秤』は咄嗟にミニ触手を作り出し、それをエニの落下地点に飛ばした。

 ぐにょんと、触手をクッションにして、エニは無事、地面にその身を横たえる。

 

「大したものだ。オーラフォトン触手の構築速度、それに決断の早さはかなりのものだな」

 

 感心したようにタキオスが言う。

 触手。オーラフォトンで作られたそれは、女性を辱め、強制的にエクスタシーを迎えさせ、マナを奪うときに使う物だ。タキオスも触手を使えるが、それ以外に使う事は無い。だからこそ別目的に、しかも一瞬で作り出した『天秤』を賞賛した。

 もっとも『天秤』として咄嗟に動いたためであり、触手をそういう目的に使う事を考えもしなかったからなのだが。

 

「俺はこれで去る。戦巫女が睨んでいるようだからな」

 

 タキオスはゆっくりと背を向けて歩き出す。『天秤』はその背をじっと見ていた。あれが、いつか自分が到達する次元の存在なのだと感慨にふけりながら。

 

「ん……ううん」

 

 タキオスが視界から消えると、エニが身じろぎした。ごろごろと転がり、手足をばたばたさせる。相変わらず寝相がよろしくないようで、エニの事を心配して近づいてきたミニ触手を、彼女はガブリと噛み付いてしまう。もう、寝相がどうのという問題ではないのかもしれない。

 『天秤』が言葉を失っていると、ここでエニの目が開く。ふああぁぁ。ゆっくり起き上がり、大きなあくびを一つしてきょろきょろと辺りを見渡し、『天秤』の姿を認めるとぱあっと顔を輝かせた。

 

「おはようテン君!」

 

『……ああ、おはようだ』

 

「えへへ!」

 

 幸せそうに笑うエニ。

 『天秤』は何を言ったらいいのか分からなくなった。

 

(やれやれ、こちらの気も知らずに)

 

 胸の内でそう愚痴る。こちらの気とはどういう気だったのか。果たして『天秤』はどういう気になっていたのか、自分で説明することができたのだろうか。

 エニは『天秤』に会えたのが嬉しかったのかニコニコしていたが、周りの風景を見て、自分が何をしにここへ来たのか思い出した。すぐ傍で横島とファーレーンが倒れていたのだが、それはどうでもいいことだったので目に入らなかった。

 

「そうだ! 待っててテン君。すぐにマナ結晶見つけるから!」

 

 ばっと立ち上がるエニだったが、足元がふらついて倒れそうになる。

 この状況でまだマナ結晶を探そうとするエニに、『天秤』はイラッときた。

 

『無駄な事をするな。大体、エニはマナ結晶の形を知っているのか?』

 

「……知らないけど」

 

『それでどうやって見つけるつもりだったのだ? それに、どうして結晶を一人で取りに来た?』

 

「それは……だって」

 

『どれほどの迷惑を掛けたか分かっているのか。そして更に迷惑を掛ける気か』

 

「だって……だって!」

 

 エニの声が上ずる。目も赤くなって潤んでいた。

 『天秤』は何だか自分がエニを苛めているような気がして、とても悪いことをしているような気がしてきた。

 いや、自分が言っていることが正しいのだから、罪悪感を感じるなど可笑しいではないか。

 

(あ~あ、泣かせちゃった)

 

(泣かせてなどいない!)

 

 怒ったように叫ぶ『天秤』に、ルシオラは少し驚いたが、すぐにニヤニヤと笑い始める。

 その笑みをやめろと、怒鳴ろうと思ったが、何だか泥沼にはまっていきそうな気がしたので、肺も無いのに深呼吸して気を落ちつける。ここは冷静にエニに対処し、大人の威厳を見せつけてやろう。

 

『どうして、こんなに急に結晶を取りに来たのだ?』

 

 優しくエニに問いかける。

 エニはぶっちょう面のまま、口を少し尖らせて答えた。

 

「マナ結晶って、神剣が喜ぶものって聞いたから……」

 

『……なるほど、『無垢』に頼まれて取りにきたか。マナを求めるのは神剣の本能。これに逆らうのは世界の成り立ちを否定するような愚かなことだ。しかし、目先の欲に囚われるのも愚かとしか言いようがない。『無垢』にはその辺りを良く言い聞かせて、エニは自制という言葉を覚えておくのだな』

 

「ううん、『無垢』は関係ないよ。エニがテンくんにマナ結晶をプレゼントしようと思ってきたんだよ」

 

『なに?」

 

 『天秤』には、エニの言った事がまるで理解できなかった。無論、言った意味が分からないわけではない。何故そんなことをする必要があるのか分からないのだ。

 どうして自分は周りの言っている事がこうも理解できないのか。ここ最近、『天秤』はそんな事ばかり思っていたりもする。そんな時『天秤』は相手の思考がずれているのだと考え、賢者たる自分が相手に合わせなければと思っていた。何とも高慢で相手を見下しているのだが、相手を理解しようと必死になっているのだけは間違いない。

 

『私にか? なるほど、エニが強くなるよりも、私が強くなる方が、軍が強くなると考えたわけだな。それが正しいか正しくないかは置いておいて、それはエニが判断することではないぞ。脳には脳、手には手、足には足の役割がある。己の役割を認識し、分をわきまえた行動を考えるべきと思うが、どうだろうか?』

 

「テン君が何言ってるか分からないよ」

 

 ビシッと『天秤』は固まった。ルシオラはまだニヤニヤしていた。

 

「マナ結晶をテン君にプレゼントしたら……エニの事を好きになって……くれる、かなって」

 

 語尾が少しづつ小さくなっていく。

 期待と恐怖等、たくさんの色を持つエニの表情に、『天秤』は言葉にできない何かが込み上げてくるのを感じた。

 

『私が、エニのことを好きになるのが、エニの益になるのか?』

 

「うん。テン君がエニの事を好きになってくれたら……それは二番目に嬉しい事だよ」

 

 エニの告白に、『天秤』は困惑した。以前ならくだらないと、一言で切り捨てただろう。しかし、今の『天秤』は違う。

 横島達と暮らしてきて、感情に囚われるのは愚かなことであるが、しかしそれだけではないと、納得できるかどうかは別として、理解だけはしていた。

 

『私には……やはり解らぬ』

 

 考えた末、出た結論はやはりこれであった。

 エニに対して個人的好意を持ったとして、それがなんだと言うのだろうか。

 生殖行為などできないし、所帯を持って養うなどできるはずもない。やはり、何の意味もないではないか。

 

(貴方って、自分本位で色々考えるのに、自分の身になっては考えないわね)

 

 ルシオラの声が響く。また自分の態度を馬鹿にする言葉だが、何故かその響きは優しさに溢れていた。

 

(……私を馬鹿にするのか。ルシオラよ)

 

(違うわ。貴方の事がまた少し好きになったのよ)

 

 ルシオラは優しく笑う。また良く分からないものが『天秤』に湧き上がってくる。

 その湧き上がってくる正体不明なモノに栓をして塞ぐため、『天秤』は必死に声を重くして、拒絶するように言い放つ。

 

(私は、貴様が嫌いだ)

 

(そう……残念ね)

 

 嫌いと言われても、ルシオラは笑みを消さなかった。むしろ、笑みがより深くなったぐらいだ。

 まっすぐ見つめられて、『天秤』はどうしたら良いのかどきまぎして――――

 

「テン君……誰か他の女の子の事を考えてる」

 

 エニが乾いた声でぽつりと呟く。『天秤』とルシオラはぞくりとした。

 『天秤』はただ自分の考えていることが読まれたことによる恐れ。

 ルシオラは――――

 

(この子、怖いわ……)

 

 恐怖していた。本気の殺意をエニから感じたのだ。

 憎しみや怒りによって黒く染まった殺意ではない。真っ白で単純な殺意。

 端的に言えば「邪魔だから殺す」と言ったところか。

 単純明快。心の底から、悪。

 馬鹿らしい。ルシオラは即座に自身の考えを否定した。これはただ、子供特有の思慮無い精神から生まれたものだと。

 

『そんな事は無い。私はエニの事で一番悩んでいるのだからな』

 

 語気を強め、少し荒っぽくエニに向かって言い放つ。

 エニはしばらく疑わしそうな目で『天秤』を見つめたが、にへらと笑った。

 

『何が可笑しい』

 

「えへへ、エニは嬉しいんだよ」

 

 またもや意味が分からない。

 だから考える。今までの言動の中にエニを喜ばせる何かが含まれているのかを。

 しかし、どうしても分からない。喜ぶような事を言った覚えはない。

 

「だって、テンくんがエニの言った事で悩んでる……エニの言った事を考えてくれる。エニを見てくれているんだもん!!」

 

 そう言ってニッコリと笑うエニを見て、『天秤』は思わず視界を閉じた。エニの笑い顔を直視できなかったのだ。

 不思議な感覚と言えた。言葉で表すなら、熱いというのが一番近い。

 何故神剣である我が身が熱いという感覚を覚えているのか、『天秤』にはこれまた理解できない。ただ、不快ではない。どこか気持ち良く感じられる。だがここでも不可解な事があった。

 嫌ではないのに、心地良いのに、苦しい。何が苦しいのかと言われても、それが何なのか分からない。

 自分の内にあるにもかかわらず正体が不明な『それ』に、『天秤』は恐怖する。

 だが、その何かを消すための方法は、どういうわけだか『天秤』の知識内に存在した。

 

『ギップリャ!!』

 

 いきなり妙な叫びを上げた『天秤』に、エニは目をパチクリさせる。ルシオラは心の中で情けない男だと溜息をついた。正直に言って、『天秤』はへたれだった。いや、子供だった。

 

「ふえ? どうしたのテンくん」

 

『お前が臭すぎるのだ! 臭いときはギップリャと叫ぶのが礼儀らしい!!』

 

「ええ!? 酷いよテンくん……女の子に臭いだなんて……ぅぅ」

 

『ま、まて! 勘違いするな。別にお前の体が臭いのではなく、言葉が臭いというか……』

 

「うん、分かってるよ」

 

『っ!! き、貴様は!!』

 

「貴様じゃ無くて、エニだよ」

 

 悲しいぐらい『天秤』はエニに翻弄されていた。どちらが会話の主導権を握っているかなど、一目瞭然。二人の会話を聞いていたルシオラは、むず痒くてたまらなかった。私も横島ともっといちゃいちゃしたかったなあ、とほんの少しだけ嫉妬する。

 『天秤』はエニの能天気さにがっくりときていた。

 まったく子供だ。能天気で、煩くて、考えなしで、まったく……本当に――――

 

『しょうがない奴だ』

 

 その言葉は、本当に自然と出てきたものだった。特に何らかの意図があったわけではない。

 エニが笑って目の前にいて、そうしたらいつの間にか声が出ていた。その声に多くの温かみが含まれていただけの事。

 

「あっ、うっ」

 

 今まで主導権を握っていたエニが狼狽した。『天秤』自身も気づかぬ無意識の一撃が、エニの心を揺らす。

 エニは何も言わずに『天秤』を抱きしめる。いつもと違う雰囲気に、『天秤』はまたどきまぎして、ルシオラはワクワクしてその様子を見つめていた。

 その時、

 

「何をいちゃついてんだお前ら!!」

 

 ラブコメを破壊してくれる希望の星。エトランジェ・ヨコシマがようやく気がついてくれたようだ。ラブプラスに傾いていく空気が、彼を眠りから覚ましたのだろう。

 起きた横島に、エニは少しだけ残念そうにしたが、すぐに笑顔になった。

 

「お兄ちゃん邪魔すぎだよ」

 

「おい」

 

「もう少し寝てくれてれば良かったのに。それでお兄ちゃんは大丈夫?」

 

 あっけからんに言ってくるエニに、横島は完全に毒気を抜かれた。

 本来なら、軽く拳骨の一発や二発叩き込むところだが、どうにもそんな気が起きない。小悪魔。横島はエニの邪気の無い笑顔を見て、不思議とそう感じた。

 

「思っていてもそういう事は口に出すなって……とりあえず体は無事だ」

 

「うん。助けてくれてありがとう」

 

 しっかりと礼を言ってくれるのはいい事だが、やはり関心は『天秤』にあるようだ。

 お兄さんは悲しいぞ~と心の中でおどけて言う。命の危機から抜け出したことにより、妙なテンションになっているらしい。

 

「そ、そうだ! ファーレーンさん!? ファーレーンさんは!!」

 

 辺りを見回してファーレーンの姿を探す。ファーレーンはぐったりと倒れていたが、横島の声になんとか反応した。

 

「私はここです。体はなんとか大丈夫……です。起き上がれませんけど」

 

「駄目じゃないっすか! エニ、早く回復魔法だ]

 

「は~い」

 

 今迄ファーレーンを放置していたことの謝罪も何もなく、エニは笑いながら大地の祈りを捧げて、傷ついた体を癒す。ルシオラだけが不快気にエニを眺めていた。

 傷が癒えて、ファーレーンは立ち上がるとエニに礼を言って、そして横島の方を向いて頭を下げた。

 

「すいませんヨコシマ様。私のほうが足手まといになってしまって」

 

「気にすることないっすよ! 美人を助けるのは男として当然です!! それに俺の方だって助けられたんですから」

 

「本当にお優しいのですね。私はまだ、ヨコシマ様の直属の部下じゃないのに……」

 

「そんなじゃないっす! スピリットとか部下じゃなくて、ファーレーンさんが助けに来てくれたから嬉しくて、ファーレーンさんだから俺は頑張れたんですよ! 今度こそ俺が助ける番だって」

 

 少々臭い言い方だと横島も思ったが、それが事実だった。初めて会った時、バーンライトのスピリットに追われた時、そのどちらもファーレーンに庇われて、彼女を傷つけた。

 だから、という訳ではないが、よりファーレーンを守ると、横島は決心していたのだ。そこには煩悩と男の決意があった。

 

 まっすぐな横島の称賛に、本気で言ってくれているのだとファーレーンも気づく。今までも何度か容姿や性格を褒められたが、それは社交辞令のようなものだと思っていた。だから和やかに切り返しできたのだが、本気で言われて軽く受け流すことができるほど、ファーレーンは慣れていなかった。

 顔を赤くして俯き、小さく「ありがとうございます」と言うのが彼女の精いっぱいで、自分をここに導いてくれたハリオンにとても感謝した。

 そして、

 

「……早く、妹と一緒にヨコシマ様の部隊に入りたい」

 

 独り言のように、そう小さく漏らす。

 

(か、可愛いーー!! なんだこれ! 何だこれはーー!?)

 

 横島の脳内はファーレーン一色に染まった。もうこれはファーレーン祭りと言っても過言ではないだろう。

 

「あ……し、しかし驚きました! まさかダーツィのスピリットがこんなところにいるとは!」

 

 独り言を聞かれたと分かったファーレーンが、空気を変える為に話題を振る。真っ赤な顔で必死な姿に、横島はニヤニヤが止まらなかった。

 

「うん、お兄ちゃんが来なかったらエニ達死んじゃってたよ」

 

 マナ結晶を取りに来たエニ。それを迎えに来た横島。そこにダーツィのスピリットの集団がいたのだ。その場で戦闘になり、途中でファーレーンも参戦し、なんとか追い返した。

 そう、二人は語った。

 ファーレーン達の話から『天秤』は納得した。

 『世界』は、そういう設定にしたのかと。

 

『主も大変だったが、良くやったな』

 

「何言ってるんだよ? 俺らが会ったのは筋肉ムキムキ男だろ」

 

 横島の言葉に、『天秤』は言葉を失い、エニとファーレーンはきょとんとした。

 何を言っているのか分からない、そんな顔だ。

 

「お兄ちゃん……ボケたの?」

 

「はっ?」

 

「大丈夫! ちゃんと介護するから……ヘリオンお姉ちゃんが!」

 

「人任せは良くないぞって、俺はボケてない!」

 

「ボケた人は皆そう言うんだよ」

 

 何ら邪気の無い笑顔で言ってくるエニ。横島はイイ笑顔を作り、二つの拳をエニの頭に当てて、

 

「ぐりぐり攻撃~~!!」

 

「い~だ~い~! テンくんたすけて~!」

 

 助けて~と叫びながら『天秤』に向かって手を伸ばす。

 何となく『天秤』もエニに向かって腕を伸ばそうとしたが、彼には腕が無かった。

 その事実に『天秤』は悲鳴を上げて叫びたくなった。

 とてつもなく残酷な事実を、どうしようもない現実を突きつけられたような気がしていた。

 エニは、何故かそんな『天秤』を見て、とても楽しそうに笑った。

 

 エニをお仕置きした横島は、少し真面目な顔をしてファーレーンを見つめる。

 

「ファーレーンさん。俺らは、ダーツィのスピリットと戦ったんですね?」

 

「……あ、はい! ええと、恐らくは、です。ダーツィとの繋がりを示す部分はなかったですけど、現状を考えれば」

 

「ん、そうですか」

 

 横島は珍しく真面目な顔で何か考え込む。メタルスライムのように滅多に見られない表情だ。ファーレーンはそんな横島をじっと見つめた。その表情は少し赤い。ファーレーンは未だに横島の煩悩パワーを見ても触れてもいなかった。

 何だか、一種の詐欺にあっているようだ。

 

「まあ、いいか。知ろうとすると、頭痛やら吐き気やらで酷いし……その事はさておいて、何で顔を隠してたんですかファーレーンさん!? もったいない!」

 

 改めて横島はファーレーンを見つめた。

 髪はショートカットで、黒みがかった青色をしている。顔は丸顔で、目は少し垂れ目だ。

 優しいお姉さん風に見えるが、色気もあり可愛さもある。そして、ただ可愛いというだけではない。先の戦いの中での毅然とした態度、凛々しいたち振る舞いは、戦士というより騎士に近かった。

 

 戦っている時は格好良く、それ以外はおしとやかで可愛い、お姉さん風味。

 なにこれ、やばくね?

 トロンとした目で、横島はファーレーンを見つめた。

 

 一方、ファーレーンは熱っぽい目で見られ、軽く困惑していた。仮面にゴミでも付いているのかと思い、顔に手をやる。

 そして、気づく。今自分が、仮面をしていないことに。信じられないことに、ファーレーンは今の今まで仮面が外れていることを忘れていたのだ。本当に一瞬で顔が朱色に染まった。その顔をさらに見ようと、横島は顔をファーレーンに近づける。

 

「……きゃ、きゃああああ! 雲散霧消の太刀!!」

 

「うぎゃあああ!! 何故だ~~~!!」

 

「お兄ちゃんーー!!」

 

 お約束というか普段のバカが始まる。横島に顔を覗き込まれて、顔どころか全身を真っ赤にして混乱したファーレーンが永遠神剣『月光』を鞘から抜き放つ。鞘を利用して剣速を上げて、エーテル結合を分断させる音速の居合を横島に打ち込んだ。それを見てエニが悲鳴を上げるが、見てるだけ。しかも楽しそうに。

 完璧に見えたファーレーンだったが、たった一つ欠点があった。彼女は極度の赤面症で恥ずかしがり屋なのである。仮面無しでは人前に立てないのだ。これは対人関係において明らかな欠点だろうが、何故かチャームポイントに見えなくもない。美形はお得だ、という事はどこぞのバンパイアハーフで実証済みである。

 

 『天秤』はそんな馬鹿馬鹿しい乳繰り合いから思考をずらす。今さっきまで自分を締め付けるような思いも忘れることにした。

何故なら、世界設定を無視した事態が発生してしまったから。何故、どうしてと『天秤』は思考する。

 ただ一つ分かったことは、また頭痛の種が増えてしまった事。それだけであった。

 

 

「それで、マナ結晶の方はどうしたんですか」

 

「………………あっ」

 

 

 

「それで、上手くいったんだ」

 

「うん。エニとテンくんの仲はもう、東西南北中央不敗って感じだよ!!」

 

 牢獄の中でエニとルルーが談笑していた。エニはあの後叱られて、頭に大きなたんこぶを作っていたが、まったく気にせず笑っている。ルルーはそんなエニに呆れつつも穏やかに笑っていた。

 

 もうルルーに会いに行く必要はないかもしれない。エニはそう考えていたが、ちゃんとルルーの言った事が役に立って『天秤』と仲良くなれたので、もっと良い情報が聞き出せるかもしれないと期待したのだ。役に立つか立たないか、それがエニにとっての判断基準だった。

 

「ねえ! 他には他には!」

 

 目をキラキラと輝かせて、鉄格子の中に入ってきそうな勢いのエニに、ルルーは苦笑いを浮かべる。

 

「そんなに焦んなくても大丈夫だよ。まだまだ時間はたっぷりあるんだから」

 

 ルルーはそう言ったが、エニは不満そうに唇を尖らせた。

 

「……だって、エニはいつどうなるか分からないもん」

 

 戦う事を宿命とされているスピリット。殺し合いが日常である以上、いつ死んでもおかしくない。

 ルルーの中で、エニが自分を慕ってくれていた後輩スピリットと重なった。胸元にある人形を見ると、どうしても目頭が熱くなる。

 

「そんな事ないって! それとも何か気になることでもあるの?」

 

「うん。電波がね、『お兄ちゃんをツルペタ属性にできないなら、さっさと終わらせちゃいましょう!』って言ってるんだよ。自分勝手だよね」

 

「デ、デンパ?」

 

「うん。電波。とっても最悪で、性悪で、男の子に嫌われるタイプの――――」

 

 その先の言葉はルルーには良く聞き取れなかった。自嘲めいた表情で確かに何かを呟いたのだが。

 一体デンパとは何なのか。聞いたことのない単語にルルーは頭を捻る。一つ分かったのは、エニがそのデンパを非常に恐れて嫌ってるということ。

 

「大丈夫! 私が……ルルーお姉ちゃんがエニを守ってあげるから!!」

 

 今度こそ守ってみせる。そう決意する。姉は妹を守るものだ。青の瞳がキラキラと輝いた。

 エニは一瞬見惚れた。ルルーの顔は、勇敢な少年のように凛々しく、同時に純朴な少女のように温かい。

 心の中がギュッと熱くなり満たされる。それに呼応するかのように黒い欲求が鎌首をもたげた。

 

(あ~あ……どうしてなんだろう。どうしてエニは)

 

 エニは内心で愚痴る。

 どうして自分は『こう』なのか。どうして『そのように』生まれたのか。

 その疑問に答えてくれるものはいない。ただ分かっているのは、これは紛れもなく自分自身であり、虚構でも操られているわけではないという事。電波に操られているわけではなく、自分の意思だ。残念な事に。

 

「どうしたの。大丈夫!」

 

 様子が可笑しいエニを心配して、牢屋から身を乗り出さんばかりのルルーの姿を見て、ああなるほどと納得する。

 このスピリットは、『天秤』と自分の物語を彩るエッセンスなのだ。

 

「ううん。何でも無いよ。あり、がと」

 

 どこか歯切れが悪そうに、でも嬉しそうに、はにかみながらエニはお礼を言った。

 

「でも、牢屋の中じゃ無理だね、えへへ」

 

「ううっ」

 

 痛いところを突かれたと、ルルーは困ったような顔で鼻をかいた。その様子を見て、エニは悪戯っぽく笑う。

 

「早く出てきた方がいいよ! このままだと、ルルーお姉ちゃんのお姉ちゃん達が……」

 

「なに!? やっぱりあのエトランジェがお姉ちゃん達に何か変な事を!!」

 

「うん、このままじゃにゃ~んになっちゃうよ!」

 

「だから、にゃ~んって何なの!?」

 

 百面相の様に表情を変えるルルー。そんなルルーを見て笑うエニ。

 牢屋という、陰気で恨みと悔恨が渦巻く空間にエニの笑い声が響き渡る。屈託なく笑うエニだが、何か不自然とルルーは思った。

 僅かな光に照らされるエニの姿は、何故か儚く見えたのだ。

 どこか様子が変だと、ルルーは気づく。

 

「ねえ、何か悩みでもあるの? お姉ちゃんに何でも話していいんだよ」

 

「ないよ。エニは、テン君と仲良くなりたいだけだもん。エニには……私には……それだけ。テン君のためなら何だって出来るし、やって見せるんだから」

 

 そう言ってエニは透明な笑顔を浮かべる。それは余りに純粋すぎて、そこに不純物が混じることはない。

 彼女の前では全て、「テン君」と「それ以外」で別けられる。仲間も敵も、『天秤』では無い存在というだけ。

 

 ルルーの胸が締め付けられる。どうしてこんな笑顔ができるのか。

 一刻も早くエニと、そのテン君という少年をくっ付けなければ。そんな焦燥に駆られた。

 

「そうだ! じゃあ、こういうプレゼントはどうかな」

 

 ルルーの口から語られた案は、エニの興味を刺激し、すぐにその計画をされることとなる。

 それが、自分の生きた証になるだろうと、エニは確信していた。

 

 


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