複雑な紋様が刻み込まれた青の立方体。赤の立方体。緑の立方体。黒の立方体。白の立方体。
それらが幾重にも積み重なり、その遺跡は存在している。
立方体がぼんやりと輝く幻想の光景は、ロマンチストが見れば感動するだろうし、その完全な立方体を学者が見れば驚嘆して、聖職者が見れば祈りを捧げずにはいられない。神秘の塊で作られた聖域。
一体誰が、どうして、どのように作ったのか。
分かるのは、この荘厳な遺跡は未知なる技術で構築されたということ。
その一角に、ちょこんと幼女とコタツが存在していた。
無論、なんの可笑しさも無い。高度な技術と幻想が存在するのならば、人類英知の結晶であるコタツと、世界の宝である幼女があっても不思議ではないだろう。
一体電源はどこから持ってきているのか、などという疑問は無粋極まりなく、テレビと蜜柑まで完備されているとくれば、これはもう「粋だねえ」とでも言うのが正しい。
テレビに映し出されているのは、赤いバンダナを巻いた一人の青年。
幼女はコタツに入りながら足をパタパタさせて、うっとりと夢見るような表情で男に見入っていた。
「失礼します。時間をよろしいでしょうか」
心安らぐ光景に押し入る野太い声。幼女の隣に、忽然とその男は現れた。
猛々しい顔に黒の意匠と筋肉のコラボレーション。先日、横島を苦しめた筋肉男のタキオスだ。存在するだけで辺りが血生臭くなりそうな戦士である。まだあどけなく、白い意匠の纏った幼女とは面白いぐらいに正反対だ。
「どうしました? 定時報告にしては少々早いようですが」
幼女はコタツからもぞもぞしながら外に出て、ふわんと宙に浮いた。少しコタツが名残惜しそうだ。
タキオスは恭しく一礼して、上から見下ろすのを恐れるように幼女に頭を垂れて膝を折る。それでも、大男のタキオスでは幼女の身長を下回ることが出来ず、上からの目線になってしまっていたが。
「いえ、今日は少しばかり諫言を、と」
「まあ」
幼女は少し驚いたようだったが、面白がるような表情に変化する。
「ふふ、構いませんわ。なんなりと言ってください。どこか私に失態がありましたか?」
「はっ、今までは当初のシナリオ通りに事を運べました。異世界の訪問者が来る前に計画した通りの状態に。しかし、これ以上は計画通りにいきそうにありません。ラキオスはともかく、サーギオスとイレギュラーとなった者らを意のままに動かすのは困難です。特に、サーギオスに関してはどう動くか判断が出来ません」
幼女は特に否定せず、こくりと頷いた。そんな事、百も承知しているという表情だ。
「もはや当初のシナリオは完全に破綻していると見ていいでしょう。ここまで歪んでしまった状況で、予定していたシナリオを望むのは不可能といえます。『天秤』の計画はまた別な案を練り、時期を見たほうが良いと提案します」
「そうかもしれませんわね……ふわっ」
暇そうに幼女はあくびを一つした。話に興味を失ったらしく返事が投げやりだ。テレビとコタツを名残惜しそうにチラチラ見つめる。
タキオスはここで言葉を止めて、僅かに逡巡してから、次の言葉を吐き出した。
「それにしても『天秤』の主は大したものです。我らの妨害をあそこまで撥ね退けるとは。私達4人は屈すると予想していたのですが物の見事に外されました。かなりの力と歪みを持っていたのだと感心し、それを見抜いたテムオリン様の目利きは大したものだと皆が褒めております」
「そうでしょうそうでしょう! あの危機的状況で女色にふけり、笑いと冷静さを失わず、目的を実行する。
格好良さ! 実力! 歪み! 本当に退屈しませんわ! もう彼以外に私のパートナーありえません!!
実は今度から花嫁修業でも始めようかと思っているのです。得意料理は肉じゃがですわ」
横島の話になると、幼女は急に生き生きとして喋りだす。
予定通り、とタキオスは鋼鉄で出来ているような頬を少し緩めた。
「きっと良き夫婦となれるでしょう」
タキオスの言葉に、幼女は「いやですわ」と恥ずかしそうに首を横に振る。
想像以上の乙女ぶりにタキオスは少し呆れたような顔で幼女を見つめたが、直に顔を引き締めた。
「ただ、いくつかの問題も生じてきます。我らは当初の予定よりこの世界に干渉しすぎています。本来、この世界は餅を突いてこねる為の装置であり、最後に餅を食べるために我らが赴く、という流れだったはず。このままではこの間の狂言が真になり、あの混沌の戦巫女がやってくるでしょう。現時点で動かれてしまっては、計画の全ては水泡に帰すかもしれません」
「フフ、なるほど、それが言いたいことですか」
ニコニコと笑いながら頷く幼女。恋する乙女は、いつのまにか策士に変わっているようだった。
どうやら自分の想い人を褒めさせるように、話の流れを誘導していたらしい。
まったく性質の悪い人だ。
タキオスは自分が手のひらで踊らされているのを感じた。戦いで相手の心理を読むのは不得意ではないが、命のやり取りが絡まない読みあいは、どうも並み以下に落ちると彼は自覚している。
「その点に関しては特に気にする必要ありませんわ。いえ、むしろ来てほしいくらいです。そろそろ黒幕の実力を見てみたいですから」
幼女は笑った。まるで子供が新しい玩具で早く遊びたいと思わせるような、無邪気な笑みだ。
「まさか、巫女にアレをぶつけるつもりですか。最悪、世界が吹き飛ぶ恐れが……」
「あ~それは流石に困りますわ。ならばあの猫かぶり巫女には平安京エイリアンの術で嫌がらせでもしましょう。もちろん、落とし穴の底には犬の糞付きですわ」
キラキラと眼を輝かせて悪戯を提案する幼女。
タキオスは眼と閉じて、無言で佇んだ。真面目に話を聞かない上司への彼なりの抗議だろう。
無言の抗議に、はあっと幼女は面白くなさそうに溜息をつく。
流石にこれ以上、ふざける訳にはいかないようだ。
「まあ、恐らく来ないでしょう。カオスも混乱しているでしょうから。ユウトという坊やにご執心だったのが幸いでしたわ」
「しかし、既に状況が」
「そう心配しなくても大丈夫ですわ。計画は無理やりにでも続行です。彼と『天秤』なら、どんな困難でも乗り切れますわ。そもそも、私はそれが見たいのです。逃げ道を封じ、徹底的に追い詰めて、彼とこの世界が戦う所が」
「しかし、このままではわれ等が敷いた道を外れるやも」
「それはありえませんわ。彼らは有限を求めて闘うしか道がありません。まあ、自殺願望者なら運命から抜け出せるでしょうが……」
幼女は絶対の自信に満ちた笑みを浮かべた。
運命から逃げるために破滅を選ぶ者が、生きるために業を重ねて足掻いている者に敵うわけがない。結局、何がどうなろうと我ら『ロウ・エターナル』に屈する運命なのだと。
「いえ……ロウではなく、この私に……」
「テムオリン様」
幼女の名を、タキオスは語気を強めて呼んだ。僅かに畏怖の感情が込められていた。
テムオリンと呼ばれた白い幼女は、その様相を般若に変えて、しかし次の瞬間には神に仕える神官のごとき厳粛な表情に変わった。
「ええ、分かっています。私はロウ・エターナルの一角。偉大なる眠り姫の忠実な僕。異心などあろうはずがありません」
幼女はそう丁寧に言うと、何も無い虚空に向かって礼をする。幼女の顔には、確かな恐怖があった。
「さて、話を戻しましょう。結論から言えば、その事に関してはそれほど気に病むことはありません。それよりも結晶の集まり具合はどうなのですか」
「……はっ。難航しています。高重力、プラズマ、強酸、厳しい環境ではあの人形が正常に動作しないようで、その都度改造させている現状ですので。そうでなくても、世界の法則によっては動かなくなります。また、胃界の聖母がいくつかの塊を食したらしく、吐き出せようと目下難航中です。駄々をこねているのでしばらく時間が掛かるかと」
「吸収はされていないのですね」
「はい、やはり異世界の力と神剣の力は水と油です。混ぜるにはやはり『天秤』の時のように……あるいはアレではないと」
「分かりましたわ。引き続き、よろしくお願いします。体には気を付けてくださいね」
激励と労いの言葉をかける幼女。タキオスは特に感動した様子も無く、ただ頭を下げて、その場からふっと煙のようにに消えた。
幼女はテレビに視線を戻す。バンダナの青年が、瞳に輝きの無い美女集団の周りを盛りのついたサルのようにチョコチョコと動き回り、次に怒ったような子供達に追い掛け回されていた。くすりと幼女は楽しげに笑う。
「ふふ、そろそろですわね。下品な言い方をすれば、夜のオカズが増えるわけになりますわ。期待してますわよ。『天秤』、エニ、そして忠夫さん」
忠夫さんの部分は語尾を上げて。はにかみながらの笑顔は、まるで初々しい無垢な花嫁のようで。このあどけない笑顔の裏に、一体どれほどの邪悪が込められているか。それは彼女を深く知るものしか分からないだろう。
そんな己の上司の姿に、消えたはずのタキオスは物陰で溜息をついていた。
邪悪で歪みきっているとはいえ、愛は愛だ。従者として、この愛を実らせなければいけない。
「アブノーマルでやりたいと言われたら、男一人と女一人、触手も混ぜて3Pだな……男用の良い具合の触手も開発しておかなければ……メダリオの奴にでも協力してもらうか」
黙々と献身的に尽くすその姿は、奔放なお姫様に振り回される執事そのものであった。
永遠の煩悩者 第十八話
軋む歯車
元ダーツィ大公国首都、キロノキロ。
ラキオスがダーツィを征服して一週間が経っていた。
征服されたダーツィは特に混乱することなく、むしろどこか高揚しているようだった。元々、ダーツィは国としての活気を失っていた。今回の戦争を景気に活気付こうしているほどで、大きな店など『ラキオス様、ダーツィ征服キャンペーン』と銘打ちセールを実行している。ダーツィは別に悪政を施していたわけではないのにだ。
これが本当に敗戦国なのかと、横島も悠人も驚くしかない。
戦争に敗れた国の末路は悲惨なものだ。敗者は、人も、物も、プライドすら奪われる。しかし、この世界の敗戦は何と平和なことだろう。奪われるとしても、マナとお偉い方達の領地が取り上げられる程度。責任を取るのはトップだけという、ある意味クリーンで健全だ。
この平和な征服は賞賛すべきだろう。勿論、影でスピリットが傷つき、倒れてはいるのだから、血が流れていないわけでは無いのだが。
それでも、決して悪いことでは無い。しかし、悠人と横島の二人は揃って不快そうに眉を顰めていた。
不快の原因は、自分達が傷つく当事者である、というのもあるだろう。
異世界と自分達の世界の価値観の差、というのもある。しかし、それ以上に何かが訴えるのだ。
この世界は酷く薄気味悪い、と。
さて、今回の立役者である悠人達は、未だ元ダーツィ首都であるキロノキロに滞在していた。
何故ラキオスに戻らないのか、どういう理由で滞在しているのか、悠人達にも知らされてはいない。特に何をするわけでもないのに、ずっと待機命令が下されている。偉い人が何を考えているのか不明だが、命令が来たのならその通りにするのが軍人だ。
まあもっとも、その方が横島たちには都合が良かったとも言える。行方不明のエニを捜すのにちょうどいいからだ。エニが居なくなってもう二週間近く。未だにその足取りは掴めていない。ダーツィに捕まってもいなかった。
既に死亡しているのではないか。何人かはそれも考えた、死体が残らない以上、死んでもその証拠は出てこない。
だが、横島はそれはありえないと確信していた。エニは生きている。証拠は無いが間違いない。それは楽観論でも、ただの妄想でも無い。生きているのだと、どうしようもなく分かったのだ。霊感だろうと、横島は考えていた。
とはいえ手がかりがあるわけでもなく、仕方が無く人海戦術で捜索しようと人間達にも協力してもらっているが、どうにも真剣に探してもらっているとは思えなかった。誰もが、あからさまに嫌々探しているのが分かった。当然だ。どうして人間が行方不明のスピリットを探さねばならないというのか。
結局、幾人のスピリットをキロノキロに残して、他はエニの探索をするというのがここ一週間ばかりの行動である。
「そんなわけで、今日は私たちレッドスピリットが居残り組です」
「ナナルゥ、お願いだからいきなり喋りださないで」
「あはは、でもなんだかナナルゥお姉ちゃんとても楽しそうだね」
ヒミカ、ナナルゥ、オルファのレッドスピリットの面々がスピリット訓練所で談笑する。
今日エニの探索に出ないスピリットはこの三人だ。
居残り組みは新しく仲間になったスピリットの、それもまだ幼い子供スピリットに神剣魔法の基礎を伝授するということになっていた。
「楽しそう……ですか? それがどのような感情か良く分かりませんが、少し考える事があって」
ナナルゥが小さく首を傾げる。
「へえ、どんなことかしら。困った事があったら何でも相談してちょうだい」
ヒミカは興味深そうに、だが真剣に言った。
仲間を案ずるのは当然の事であるし、あのナナルゥが何を考え込んでいるのか興味もあったのだ。
ナナルゥは何も言わず、ただ黙って鼻の頭をかく。
「どうしたの、鼻に何か違和感でもあるの」
しきりに指で鼻をなぞるナナルゥに、ヒミカは首を傾げて質問する。
ナナルゥは珍しく戸惑ったように何か思案して、言葉を探しているようだった。
「いえ、鼻には別に違和感は無いのですが……ヨコシマ様が……」
「またあの人が何か!?」
ヒミカはうんざりしたような顔をして、しかし声と目には妙な熱っぽさを持ってナナルゥに再度問いかける。横島関連の問題は自分が解決しなければ、という使命感が彼女にはある。奔放な上司をサポートする生真面目な部下、と言うよりは漫才のボケに対応する突っ込みと言った方が分かりやすいかもしれない。
「はい。『俺の唇はナナルゥの鼻に捧げたんだー!!』と叫ばれて……」
「へ?」
オルファが何だか分からないといった呆けた声を出す。
ヒミカは少し考えて、横島の息子消失事件の際の事だと気付いた。
「キスは親愛の情を示すと言われています。それで……」
やはり歯切れが悪いナナルゥ。
見たことの無いナナルゥの反応に、ヒミカもオルファも興味が隠せない。
「へぇ~それで鼻に手が伸びるわけね」
ヒミカはニヤニヤした。これこそ自分が求めていた展開だとほくそ笑む。
スピリットとエトランジェ(横島)が懇意になることを、ヒミカは別に否定しない。むしろ歓迎していた。
初めは人間とスピリットが、さらに隊長と隊員という上下関係があるというのに、そういった関係になるのは色々な意味で好ましく無いと考えていた。
だが、横島の人間性を知るにつれて難しく考えることが馬鹿らしく思えてきたのだ。
確かに誰かと恋仲にでもなったら、きっとくだらないトラブルが続出するだろうが、別に今でもそれは変わらない。
それにヨコシマ様なら恋人を大事にしないわけが無い。相手は幸せにはなるだろう。幸せと共に、どれだけの苦労を背負い込むのかは知らないが。
ヒミカは、十分に横島を理解していた。
「少し……困っています」
キタキタキター!!
ナナルゥの乙女チックな反応に、ヒミカの期待が高まる。
しかし、続く言葉はヒミカの期待を一刀両断するものであった。
「私にはセリアがいるのですが」
ガクッとヒミカは肩を落として頭を抱えた。
持ち上げて落とす。しっかりヨコシマ様の影響を受けているのだ、と理解してしまう。
もうさっさと会話を切り上げたほうが良いのではないか。
そんな予感をひしひしと感じていたヒミカだったが、私がしっかりナナルゥを矯正しよう、と持ち前の騎士道精神っぽいなにかを発動させて気持ちを盛り上げる。
「セリアもいいけど、もっとヨコシマ様を意識して上げた方が良いと思うんだけど」
「どうしてそんなにもヨコシマ様を押すのですか?」
「ど、どうしてって言われても……」
健全な男女交際をしてほしい。それだけが願いなのだ。でもヨコシマ様が相手じゃ無理かもしれない。
憂鬱そうなヒミカの表情に、ナナルゥはピンと来た。ある恋愛小説にこれと似たような場面を思い出したのだ。
「ヒミカもセリアが好きなのですか」
「どーしてそーなるの!?」
「はい。私とヨコシマ様を恋人にして、その間にヒミカはセリアを狙っているのかと思いました」
筋は確かに通っているようだが、しかし根本的に間違っているので答えには絶対にたどり着かない。
「そうじゃなくて、私は貴女の事を気にして!」
「私を……ですか」
いつも通りの抑揚の無い声。しかし、ナナルゥの瞳はどこか熱を持っている。
「ちょ、ちょっと待って! ち、違うの。勘違いしないで! 別に私は貴女の事を気にしてるわけじゃなくて……気にしてるんだけど気にしてないの!!」
「……そうですか」
やはり抑揚の無い声。しかし、目はがっかりしたように生気が抜けているようにヒミカには見えた。
気に掛けられていないと知って気落ちしたようだ。
(どーすればいいのよ~~!!)
色々と間違った方向に進もうとしているナナルゥ。
自分はそれを矯正して、健全な方向に進ませたいだけなのだ。
(でも、ナナルゥってやっぱり色っぽいわね。スタイルも良いし……はっ!? 私は一体何を考えているのよ~!?」
何故か心臓が早鐘のように強く打つ。
ナナルゥは大切な仲間。神剣魔法を多用しすぎて心を飲まれる寸前にまでなってしまって、なんとか心を取り戻そうとしていただけ。
そう自分に言い聞かせていると、ナナルゥはヒミカに向き直って真剣な顔つきになっていた。
「ヒミカは、私の事をどう思っていますか?」
「ど、どうって言われても……」
全身が火照っているのを感じながら、ヒミカはゼイッと荒く息を吐きながら応える。
「私は……ヒミカにとても感謝しています」
「ど、どうしてよ」
「少し考えると、ヒミカは私の事を良く見てくれて、支えてくれていたように思えます」
それは確かに事実だ。
ヒミカはナナルゥの事を良く気にかけていて、影からそっとナナルゥをサポートしてきた。
ナナルゥはそれに気付いたのだ。
「ありがとうございます、ヒミカ。貴女がいてくれて私は……そう、私はきっと嬉しい。嬉しいのだと思います」
小さく、本当に僅かであるが、ナナルゥは微笑む。
至近距離でその笑みの直撃を受けたヒミカは、思わず生唾を飲み込んだ。
(落ち着いて、落ち着くのよヒミカ! このまま百合ルートに入ったら、正統派ヒロインは夢のまた夢よ!)
既に正統派から外れている事に、彼女は気づいていなかった。
「ラブラブだー! チューするのかな?」
「しちゃうよ! きっと!!」
「ひゅーひゅー! 熱いねお二人さん~!」
「炎の妖精、オルファリルが『理念』に命じる! もっと熱くなれよ~! ひ~とふろあー!!」
「二人はお母さんとお母さんになるんだ!」
「結婚式には呼んでねー!」
「子供はどこから生まれてーどこにいくのー?」
いつのまにか現れたスピリットの子供たちが二人を冷やかす。
オルファなどは場の赤マナを増大させる神剣魔法を放って、マナ的な意味で場を熱くさせていた。
子供らはまだ人間に調整を受けていないので、自我がしっかりしているようだ。
「ありがとうございます。みなさん、私は幸せになります」
真顔で子供たちに手を振るナナルゥ。恋愛小説のヒロイン気分なのだろう。
セリアの事はどうしたのか、という突っ込みが出てきそうだが、恋愛小説の主人公というのは得てして恋多き若人なのであまり気にしないで欲しい。
ヒミカは展開に付いていけずに、胸を押さえてうずくまってしまった。
「う~胃が痛いよー。胸が苦しいよー」
「分かりました! 今すぐ胸をモミモミするんで元気になってくださーい!!」
「いきなり湧かないでください! 変態隊長なんだから、本当にもう!」
「命令確認しました。ヒミカの胸をモミモミします」
「何を言ってるのよ! あっこら、やめ……んっ」
「小さいと感じやすいって本当なんだー」
「気持ちようさそうだね。よーし、今度オルファもパパにモミモミしてもらおう!」
「無印版が基準なのに、胸だけコンシュマー基準なんてかわいそー」
「今言った奴、ちょっと表でろ」
なんだかんだと楽しく日常を謳歌するスピリット達であった。
ダーツィから南西の地はマロリガン共和国が治める地であり、その間にはダスカトロン大砂漠と呼ばれる巨大な砂漠が広がっている。マナが希薄な土地はどういったわけか荒れていき、最後には砂漠と化してしまう。
ダスカトロン砂漠は草一本、水の一滴、虫一匹の存在すら怪しい死の大地となってしまっていた。そしてダスカトロン砂漠は年々北上して、ダーツィの地を削っている。
そのせいで、キロノキロの周辺も少しずつ土が弱って木が細くなり、生き物の影が消え、荒涼となりつつある。
そんな荒涼とした大地に一人の男が立っていた。白い陣羽織にツンツン頭。高嶺悠人である。
彼は神剣の力を引き出してエニの探索していたはずなのだが、どうもその様子は普通じゃない。顔色は真っ青で、きつく歯を食いしばり、脂汗は滝のようにながれていて、喉からは低いうなり声が洩れている。そして、彼の腰にある永遠神剣『求め』は鈍く光を放ち続けていた。
今正に、永遠神剣『求め』の干渉が悠人の身に襲いかかっているのである。
『求め』が求めているものはマナの充足だ。マナを得るのに効率的なのは、スピリットからマナを奪う事。それは、神剣としての根源的な本能であり、悠人との立場としては、その欲は破壊欲にも似た性欲に変換される。
「くそ……馬鹿剣め!!」
一体どれだけ頭の中でアセリア達を犯したか、もう数える気にもならない。ここ最近の日常生活では、無邪気にスキンシップを試みてくるオルファや、裸で平然と風呂に乱入してくるアセリアにはなるべく触れないよう見ないようしているのが現状だ。
「お……あうう、おお、グゥゥゥ!!」
声にならない苦痛に苛まれて、遂に彼は倒れこむ。
負けて、たまる……か。
口でそう言おうとしたが、舌が動かずただ頭で反芻するのが精一杯という有様だった。
分不相応の力を得た代償。ダーツィとの戦いの際に、スピリットを殺さずに戦いを終えようと、自分たちの意思と意地を無理やり押し通す為に得た力の代償。こうなる事は分かっていた。ただ自分が苦しいのを我慢すればそれで済むのだと、どんな苦しみでも耐えてみせると、そう覚悟はしていた。
しかし、苦しかった。痛かった。想像絶する痛みに、悠人はここ数日ろくに寝ていない。気を緩めて寝たら、次に気がついた時にはアセリア達の心身を陵辱し尽しているのではないか、という恐れがあったからだ。気力体力共に限界に達しようとしていた。もしエスペリアが毎日のように奉仕してくれていなければ、とうの昔に狂っていただろう。だが、それも限界に近づいている。
奉仕といっても、最後の一線は越えないようにしていたのだが、昨晩は限界ぎりぎりであった。気づけば半裸のエスペリアを押し倒していたのだ。
エスペリアは恐怖からか震えていたが、抵抗は一切しなかったようで体を弛緩させて、その身に代えても悠人を守ろうと決意の籠った目をしていた。
悠人は正気に戻った一瞬で柱に頭を叩きつけて、なんとかその場を乗り越える事ができたのだ。
エスペリア達に酷い事などできない。だから、我慢。
でも、痛い、我慢、痛い、我慢、いたい、がまん、いたい、いたい。
たった一つ。こう思えば楽になれる。
耐え切れないと。それだけでこの地獄から解放される。それは圧倒的な誘惑だった。
その誘惑を肯定するかのように、心のどこからか「俺はやるだけやった」とか「大勢助けたのだから、一人ぐらい……」などの優しい悪魔の囁きが聞こえてくるのだ。
我慢。ガマン。がまん。我マン。ガマん。我慢がまんがまんあんあがまなあまがんがまああああ!!
あと少し我慢すれば。それが悠人の支えだった。
経験上、今が一番苦しい時のはずだった。ここさえ乗り切れば後は大丈夫のはず。まだしばらくは強い干渉があるだろうが、それは乗り越えられる。
しかし、その最後の最後で体と心が限界に達しようとしていた。
悠人は確かに人並み外れた精神力の持ち主であったが、それでも人の精神には限界がある。悠人は、自身の肉体が人と呼ばれる種から外れたため、その理を忘れてしまったのかもしれない。ぶっちゃけ調子に乗っていたのだ。
――――もう、無理だ。
ついに眼を開けていられなくなって、意識が朦朧となりはじめる。
体の感覚が消えて、視界が黒く染まって、心は黒く塗りつぶされていく。
全てが黒く塗りつぶされた時、自分は消える。
全て、闇に、溶ける。
その時だった。黒く塗りつぶされた世界に、光る球体が舞い降りてきて、太陽の如き眩さを発した。
光は闇を薙ぎ払い、圧し、潰して、点のようにしてしまった。
光は強く圧倒的だった。なのに、どこか蛍のような儚さも秘めているように見えた。
「おーい。大丈夫か。『かゆ……うま……』とか言い出さないよな?」
夢から覚めるように、はっと目を見開くと、そこにはやれやれと見下ろす横島の顔があった。手には丸い珠が光っていて、役目を終えたようで消えてなくなる。
一体自分の身に何が起こったのか、悠人は察した。
(文珠を使ってくれたのか。あれはかなりの貴重品で、滅多な事では使用しないはず。それを……)
悠人はよろよろと起き上がり、驚いた眼で横島を見つめた。
「勘違いすんなよ! ここでお前を助けとかないと、俺達に迷惑が掛かるから文珠を使ったんだからな! 感謝してるとか、苦しそうで見てられないとか、全然そんなんじゃないんだからな!!」
悠人の視線を感じた横島は、顔を赤くして、ぷいっとそっぽを向いて、そんなツンデレな台詞を吐き出した。
そんな横島に、悠人はイイ笑顔を向けて、
「横島」
「なんだ」
「気持ち悪いから、マジで止めろ」
「正直すまんかった」
悠人相手に素直に頭を下げる横島。非常に珍しい光景ではあるが、本当に悪い事をした自覚がある時は存外素直なようだ。やれやれと首を横に振って眉を顰める悠人であったが、口元には純粋な笑みが浮かんでいた。どうやらノリで怒っただけらしい。
彼は羽目を外して暴走するタイプではないのだが、それだけ横島相手に打ち解けてきて、助けてもらったのが嬉しかったという事だろう。横島も口には出さないが、悠人にはそれなりに感謝しているようだった。
「でもまあ、サンキュな。実は本気でやばかった」
「もしハリオンさん達に手を出そうとしたら、足の一本や息子の二本はぶった切るからな」
それが脅しではないことが悠人には分かった。そこに何の躊躇も感じなかったから。それを薄情とは感じない。それぐらいの気概がなければこの世界でスピリットを守ることはできない。もしも逆の立場だったら、悠人は横島を躊躇しつつも殺すだろう。殺したら、『佳織の為だから』というお約束の言葉を言って。涙の一つぐらいは流すだろうか。
二人の間に少し寒々とした空気が流れたが、横島はそんな事は別に気にしないようで、
「しかし、リアルで『……くそ!……また暴れだしやがった……が……あ……離れろ……死にたくなかったら早く俺から離れろ!!』を見ることが出来るとは思わなかったな。その神剣は永遠神剣第四位『邪気剣』にでもした方がいいんじゃないか」
とても楽しそうに笑う。悠人の苦しみを明らかに楽しんでいるようだ。
別に同情して欲しいわけでもないし、暗くなる必要も無い。しかし、楽しまれると流石にむっとなる。
「ったく! 人事だと思って好き放題言ってくれるな」
「人事だからな」
「……お前って奴は」
がっくりと悠人は肩を落とす。何だかげんなりした様子だった。
これでも悠人はかなり感動していたのだ。男同士で熱く抱擁交わす、などという暑苦しさはごめんだが、もう少し違う会話があっても良いのではないだろうか。
まあ、横島だからな。
結局、その答えが一番落ち着くのだと悠人も理解していた。
『気楽なものだな』
今まで散々苦しめてきた『求め』の声が悠人の頭に響く。その声はどこか苦渋の色があった。
悠人はにやりと笑みを浮かべて、この神剣の負け惜しみを聞くことにした。
『契約者よ、これで終わった訳では無いぞ。貴様が何を求めているのか分からない限り、何度でもチャンスはあるのだからな』
この神剣が何を言わんとしているのか、悠人はすぐに理解した。
他の何よりも、義妹を、佳織を優先しろと言っているのだ。
先の戦いの時に力を貸してくれて、つい先ほどまで地獄の苦しみを送り込んできて、今更そう警告してくる『求め』に、悠人は初めてこの神剣の性格に触れたような気がした。
(俺は自分が何を求めているか、しっかり理解しているし、考えてもいるさ)
『ほう。どう考えている、言ってみろ』
隣の男の性格を悠人は一歩下がって分析した。
横島の女好きは半端ではない。異常だ。だから、例えばだが、この国が業火に焼かれて滅びるような事があり、佳織とスピリットと多くの民が死地に追いやられたとする。
過去の約束通り、スピリットは何があっても俺が守る。残る佳織と民衆だ。
多くの無辜の民よりも、正義や大義よりも、一人の女を選ぶ。
横島はそういう男だ。そして横島は紛れもなく最強であり、最高の異能を持っている。そんな男に佳織を守ってもらう。
(どうだ。文句でもあるか)
悠人はこの考えに疑問を持っていない。絶対と言ってよいほどの自信と信頼ががあった。
それだけの信頼を持たれるだけの行動を横島は選択して、実績を残しているのである。
悠人としては、本当なら自分で佳織を守りたいのだが、しかし自分の力量を弁えているからの選択だ。
『選択の重みを知らず、分不相応の荷を背負った事が無いから言えることだな』
(なに?)
悠人の考えを聞いた『求め』がそう返す。
いつものように威圧的でも、また皮肉のようでも無い。静かな、諭すような声だった。
『あの男は、汝に憎悪を抱いても不思議はないという事だ。俺が無理だったのに、どうしてお前だけ……とな』
(言ってる意味が分からないな。大体、お前に横島の何が分かるんだよ)
不機嫌そうに悠人が言うと、『求め』はどこか小馬鹿にしたように鼻を鳴らして沈黙した。
失望に近い感情を悠人は『求め』から感じた。
鼻なんて無いくせに。
悠人は思わず舌打ちをする。
「そんじゃあな。男と二人きりなんてありえん。それと、文珠を使うのはこれが最後だからな」
舌打ちの音が聞こえたのかは分からないが、用件は済んだと横島はあっさり踵を返した。煩悩者にとって男同士で友情を深めるなど、一利も無ければ一害も無い。つまり、どうでもいいのだ。
なんとも分かりやすい横島の態度に、悠人はいっそ清々しさすら感じた。
「まあ、俺も別にお前と話したいとは思わんが……あっ、ちょっと待て。なんでも、今日戦力の補充としてファーレーンとその妹がこっちに来るらしいぞ。まず俺たちに挨拶したいって話だ……っておい!! 何処に行く!?」
最後まで話を聞かず、横島は飛び上がって走り出した。待ち合わせ場所も聞かずどうするつもりだと、悠人は慌てて追いかけたが、『姉妹丼GETだぜ!!』な勢いで走る横島に追いつけるはずもなく、あっさりと見失う。
いくら町を探しても見つからず、仕方なく待ち合わせであるスピリットの宿舎に行くと、横島が先に到着していた。
48の煩悩技の一つ『フラグ場所発見』を使ったらしい。無駄なスペックに溜息を付く悠人。そして、ファーレーン達が到着するのはまだ1時間も後だと説明すると、早く言えと逆上した横島は悠人を一撃して、横島は悲しみの涙を、悠人は痛みと理不尽に涙を流すのだった。
どうせ後一時間でファーレーンたちが来るということで、横島達はそのまま部屋で待機していた。
横島は落ち着かない様子でそわそわと、悠人は口元に手をやって何かを考え込んでいる。
「なあ横島、なんでこんな時に、こんな所で戦力の補充するんだろうな。戦いはもう終わっただろ。それに、どうしてラキオスに戻らない。もうここに居る意味なんてないと思うんだけど……まさかエニの探索の為ってわけじゃないだろうしな」
悠人の疑問は当然と言える。
戦いは終わった。北方五国と呼ばれていた国のうち、ラキオスに敵対していた二国は滅びた。残っているのは、同盟国のイースペリアとサルドバルトのみ。南西の方にはマロリガン共和国という国があるが、そことは別に友好関係があるわけではないが不仲というわけでもなく、サーギオス帝国という共通の脅威が存在している以上、まさか敵対する事はないだろう。
サーギオス帝国に関しては確かに攻めてくる可能性はある。それなら、すぐに対応できるように国境沿いにスピリット隊を配属させなければいけない。どうしてこの地に戦力を集中させるのか。どういう思惑が働いているのか分からず、悠人は思案に暮れていた。
「ぐふーぐふふー……遂にファーレーンさんが俺の元に。しかも美人の妹まで。姉妹丼がタマランデスタイ!!」
横島は口元を歪めてニヤニヤと笑うだけであり、悠人の質問をまるで聞いていない。無視するなと、横島の頭を小突こうとして拳を振り下ろした悠人だったが、その拳は空しく空を切る。横島は悠人を見もせずに、その拳を気持ち悪いほど華麗に避けた。
悠人は驚愕する。視認もせず、ただニタラニタラと笑っている気持ち悪い変態に拳が届かない。
確かに恐るべき反射速度を持っているのは知っているが、いくら何でも納得できん、と悠人は横島に殴りかかる。
避ける。避ける。避ける。
ぐねぐねと奇怪な軟体動物を思わせる動きで掠らせもしない。
悠人は額に血管を浮かび上がらせ、結構本気で拳を振った。
そして、ついに捉えた。壁を。
うめき声と壁が砕ける音が部屋に響く。
妄想時の横島の回避能力は、実は通常のそれを遥かに超えていることに、悠人は気づいていなかった。
(きょ、今日の所はこれぐらいにしといてやる……)
心の中で三流の悪役の台詞を吐いた悠人は、悔しさと恥ずかしさでいっぱいだった。先の戦いで活躍したせいか、自分も少しは強くなったのだ、と多少の自信を持っていたのだが、相も変わらず横島相手には手も足も出ない。訓練なら他の誰よりもやっていると自他とも認めるところだが、体力以外に横島との差が埋まってきているとはまるで感じられなかった。
(秘密特訓の時間をもう少し増やすか? いや、誰かに手伝ってもらうか。横島に詳しい第二詰め所のスピリットに頼み込んで……)
いつか絶対に横島に勝つ。
それが、悠人の目標となっていた。
妹を助けるため。それが悠人が最初に永遠神剣『求め』を持った理由だ。それにいつしか、仲間を守るためという理由が加わる。そして今度は横島に勝ちたいという目的も加わった。
悠人の求めは着実に広がりを見せている。それが吉と出るか凶と出るかはまだ分からない。
悠人がそんな決心をしていると、横島が突然「あっ」と声を出した。そしてそのまま黙り込んでしまう。その顔は真剣そのもので、何か大変な事に気づいてしまったかのように見えた。
どうした、と悠人は横島に近づいて、鈍い音と空気が吐き出される音が部屋に響いた。
「がっ……は。ぐぅ、よこし、まぁ!」
横島の拳が悠人の腹に食い込んでいた。かなり強く殴ったようで、拳は腹にめり込んで隠れるほどだ。崩れ落ちる悠人。
思い切り腹を殴られて声が出せない為、悠人を鬼の形相で横島を睨んだ。
いきなり何しやがる!
そう目で訴える。
「簡単な事だよ、ワトソン君。君が隣にいるとね、邪魔なんですよ。フラグ的な意味で」
スピリットハーレム計画。横島がこの世界で最も優先している計画。その計画において、ファーレーンの存在は無くてはならないものであった。その計画の最大の障害が悠人だ。横島はそれを確信している。なんとかして悠人の評価を下げる必要があった。
人づきあいにおいて第一印象というものは極めて重要だ。最初の悪印象を拭い去るのは中々に難しい。
だから「悠人はスピリットに挨拶するような奴じゃないですよ」とでも吹き込んでおけば、ファーレーンからの評価は著しく下がる事になるだろう。
邪、ここに極まれり。
「く、そぉ。こんな……変態……に」
悔しそうに顔を歪ませながら床に這いずる悠人を、
「うりゃ!!」
「かはっ、ぁ…ぁぐ……っ!俺はまだ死ぬわけにはいかないのに…佳織……かお…り……」
笑顔で踏み潰した。さらにぐりぐりと踏みつける。しょせん、お前は引き立て役なのだよ、とでも言うように。
「気絶した敵兵はロッカーに放り込むのはスパイの基本だよな」
『主はいつスパイになったのだ。それに敵兵?』
タンスに悠人を放り込む。
(ルシオラよ、この恋人の行動に、何か思う所はあるか?)
(勝つために手段を選ばず……震えるぞハート!! 燃え尽きるほどヒート!! って感じかしらね)
(……そうか)
(まあ、横島の夜の営みだって毎日見てるわけだし。そんなお前にレインボー!! ってなものよ)
(…………さよか)
色々と『天秤』は突っ込みたかったが、自分の精神衛生上よろしくないのは間違いないのでスルーした。横島と一緒にいて、それで常識人でいたいのならスルー技能は必須である。ルシオラはスルーできなくて染まってしまったのだろう。
(そんなことより、私は貴方がご機嫌な理由の方を知りたいわ)
『天秤』は少し沈黙してから、言葉を返した。
(どういう意味だ。どうして私の機嫌が良いと思う?)
(だって、ダーツィの戦いの後、拗ねてちっとも話そうとしなかったのに、急に生き生きしてるんだから)
『天秤』は忌々しそうに舌打ちをした。
そんなに態度に出ているとは、まるで子供のようでは無いか。
不機嫌そうに黙りこむ『天秤』。そういう所が子供らしいとは、流石にルシオラは言わなかった。
しかし『天秤』はすぐに気を取り直したようで、ふふんと得意げに鼻を鳴らした。
(ふ……いずれ分かる……いずれな。くっくっくっ)
(今教えて)
(いずれ分かると言ってるではないか!)
(ケチね)
(そういう問題では無い!!)
そんな風にルシオラは『天秤』で楽しく遊んでいると、控えめなノックの音が響き渡る。
そして、控えめだが凛と響く声で「失礼します」とドアの向こうから聞こえてきて、扉が開いた。
「ファーレーン・ブラックスピリット、ニムントール・グリーンスピリット、参りました。そしてル――キャ!?」
「よく来てくれました、ファーレーンさん!!」
扉が開き、ファーレーンの仮面が見えた瞬間に、矢のように飛んでいき彼女を抱きしめる。
正にセクハラ以外の何物でもないが、幸い横島に好印象を抱いている彼女は熱烈な歓迎を受けているだけだと判断した。この辺りは横島が言ったとおり第一印象のおかげだろう。それでもやはり恥ずかしいらしい。彼女は小さく身じろぎをする。
「お、お久しぶりです、ヨコシマ様。あの、恥ずかしいので……」
「何言ってるんです! 俺とファーレーンさんの仲じゃないですか!! ファーレーンさんに抱きしめられた事は忘れてないっすよ!!」
「そんな……その……あううぅ」
相変わらず仮面をしていて、やはり表情は読めないが恥ずかしがっているのは間違いない。そして、本気で嫌がっているわけでは無いと横島は感じた。横島は心の奥底では優しくて臆病であるから、相手が本気で嫌がっていたらセクハラはできない。それが拳を振り上げられない優しい人種なら特にである。ファーレーンからは好感を持たれていると、横島は実感していた。
それにしても妹はどこにいるのか。横島はファーレーンを抱きしめたままキョロキョロと辺りを見回したが、それらしい姿は何処にも見当たらない。
そこで、横島は気づいた。確かにファーレーンに抱きついているが、それは上半身だけであって、下半身は密着していない事に。何かが、横島とファーレーンの間にあった。
一体何が抱擁の邪魔しているのかと、少々残念に思いながらもファーレーンから離れ、視線を下に向ける。
そこには、横島とファーレーンにサンドイッチにされて一体何事だと目を丸くしてこちらを見る、緑髪のセミロングを二つに纏めているちんまいスピリットがいた。
何となく、本当に何となく横島は目の前のスピリットの頭を撫でる。
目の前のちんまいスピリットの顔が真っ赤になり、何かを言いながら横島の手を払いのけようとしたが、既に横島の手は移動していた。
ちんまいスピリットのほっぺたをつまむ。そしてぐにぐにと動かした。ムニムニとした感触に、まるで大福のようだ、と横島はぼんやり思った。
ちんまいスピリットは驚いてなすがままにされていたが、はっとして怒りに満ちた目を向けながら手を払おうとする。だが、またしても横島の手は既に移動していた。横島の両手は、スピリットの胸と背中に添えられていた。そして、下に手を下ろしていく。
胸、お腹、お尻、フトモモ。手は滑るように落ちていく。特筆すべき点は、凹凸がまるで無いところか。ちんまいスピリットはもはや声一つ上げられないようで、ただ口をパクパクしていた。怒りと恥辱で何もいえないようだ。
そこでようやく横島の触診が終わる。そして、ポリポリと頬を掻きながら戸惑いの表情で言った。
「えーと……何?」
「……そ、それは、こっちの台詞! この変態!」
「こら! だめでしょニム。そんな言葉遣いしたら」
「だってお姉ちゃん……」
乱暴な言葉遣いをファーレーンに窘められ、ニムと呼ばれた少女は不満そうに頬を膨らませる。
「ファ、ファーレーンさん、世界一可愛い妹って……」
自分の想像が外れる事を祈りながら、横島は縋るような気持ちでファーレーンに聞く。
それが無駄な努力であると、どこかで分かってはいたが。
「はい、ニムントール・グリーンスピリット。私の妹のニムは、世界で一番可愛いスピリットです」
優しい目でニムントールを見つめながら、ファーレーンはしっかりそう言い切った。冗談でもからかっているわけではなく、心底そう思っているようで、愛おしそうにニムントールの頭を撫でるその姿は幸せそうで非常に満足げだ。間違いなく姉馬鹿だろう。
改めて横島はニムントールを見つめる。
確かに可愛い。文句無く可愛い。グリーンスピリットらしく緑色の髪を短く二つに纏め、少しつりあがった目元、ちっちゃな丸顔に、弾力がありそうなほっぺた。動物に例えると猫に近い。雰囲気的にも。
少し生意気そうに見えるが、間違いなく美少女だ。それは横島も認める。世間一般も認めることだろう。
しかし、
「ガキじゃねえかーー!! アホー!!」
騙された。裏切られた。期待していた分、横島の落胆は大きい。夢にまで見た姉妹丼が、音を立てて崩れ去った。
ニムとしても、横島の印象は正に最悪の一言に尽きた。姉にとても素敵な人だと紹介されて、別にどうでもいいとは考えていたが多少の期待をニムは横島に持っていた。だが、会っていきなり体中を蹂躙され、あげく逆切れされるという始末。
ニムでなくても、これで険悪以外の感情を持てという方が不可能だ。
「お姉ちゃん! こいつはダメ! 変態!!」
「黙れちみっ子! そのなりで姉妹丼の中に入ろうなどとふてえ野郎だ! 身の程をわきまえるがいい!! やはりここは姉丼しかあるまい。さあ、ファーレーンさんは仮面を取って素顔で俺と一緒にぐお!」
「お姉ちゃんに触るな、バンダナ男!」
「べ、弁慶の泣き所を!! 許せん! そんなガキ、修正してやるー!」
「こっち来るなー! 変態バンダナーー!」
お尻ペンペンしてやる、と横島がニムに飛び掛る。ニムは己の小さい体を利用して、スライディングの要領で下から回避した。離れてバカバカと連呼するニム。大人気もなく横島は怒り、デコピンを食らわせてやると腕をまくってニムに突撃した。
どったんばったんと狭い部屋の中で追いかけっこが始まる。
「ええと……喧嘩ですか? どうして……止めないと。ああ、でも元気に走り回ってるニムの姿なんて珍しいし」
ファーレーンが知るニムントールの姿は、冷静というよりも、やや捻くれていて冷めた性格だった。もっと簡単に言えば、「怠惰」の一言が相応しい。口癖が「めんどくさい」という時点でそれが知れよう。
めんどくさがり屋で、マイペースなニムントールが声を荒げて元気に走り回っている姿は珍しく、希少価値が高い。妹思いの姉として、この姿を目に焼き付けなくては姉の沽券にかかわる。
ファーレーンは非常に常識人なのだが、ニムントールの事となると思考がずれていた。戦闘中ならともかく、日常においてはニムを中心に生活が回っているのである。
それでも、隊長に向かっての暴言など許されるはずもないのだが、人見知りが激しいニムがここまで感情をあらわにして、また、横島とニムがドタバタする光景がなんとも自然に見えたのだ。事実、この光景が日常になっていくわけだが。
「う~どうしましょう。いくらなんでも、挨拶をこれで終わりにするわけには……ん?」
困っていたファーレーンだが、ふと人の気配を感じた。もしや敵か。謎の暗殺者でも潜んでいるのか。
気配を探る。どうやら謎の気配は、この部屋のタンスから出ているようだった。ファーレーンは警戒しながら、そっとタンスを開けてみる。
「きゃっ!?」
気絶している悠人が転がり込んでくる。
殺気も神剣反応もなかったのでファーレーンは完全に意表を突かれた。転がってきた悠人に押し倒されてしまう。
悠人は焦点の合わない目でファーレーンを至近距離からじっと見つめた。
意識は戻ったものの、未だに覚醒はしていないようだ。
「……ファーレーン・ブラックスピリットか? 俺は悠人、ユートだ。これからよろしく……」
「え……あ、はい。よろしく」
押し倒したままで挨拶する。ファーレーンも、隊長がタンスの中から転げ落ちてきて押し倒して挨拶するという、一年に一回程度の体験に眼を丸くして、茫然としていた。
まだ覚醒しない悠人は、手に力を入れて起き上がろうとするが、手に掴んだ感触は非常に柔らかい。
「ひゃ……」
小さく声がもれる。
悠人はまだ覚醒していないようで、うまく握ることができない何かを掴もうと躍起になった。
「や、あ、うぁ、あぅ」
握ろうとしても巧みに姿を変えて握らせてくれない。
イライラしながらも、悠人は少しずつ頭が眠りから覚めてくる。
そして、
『まさか自分から押し倒すとは思いもよらなかったぞ、契約者』
『求め』の驚嘆した──芝居がかった声が脳内に響く。
そこでようやく悠人の頭が覚醒した。
一体自分が何をしているのか、ここでようやく気付く。
初めてあった部下を押し倒し、その手は豊満な胸を鷲掴みしている。
「うわっ!?」
混乱したせいか、更に強く胸を揉みあげてしまう。
「つっ! い、痛いです」
「ご、ごめん! 優しくするから」
俺って奴は何て無遠慮なんだ!
悠人は自分で自分を罵倒する。
女性に対してセクハラするなど、絶対にあってはならないこと。これでは隣にいる男と同類だ。
急いで胸から手を退ける。
ここで重要だったのは、悠人はファーレーンを押し倒している、という事だった。
支えが無くなって、悠人の体重はよりファーレーンに伝わる。さらに、手を使わずに足だけで起き上がろうとした為、腰に力が入りファーレーンの腰辺りと強く密着した。
「ひっ!」
股間を強く押し付けられて、本気で怯えたような声がファーレーンの口から洩れる。
悠人は大慌てで早く離れければと立ち上がろうとしたが、色々とあったせいか立ちくらみを起こしてしまった。
ふらりとファーレーンに倒れこみ、彼女を思い切り押し倒す。
「いやあああ!!」
遂にファーレーンは絶叫した。ただでさえ赤面症で恥ずかしがり屋の彼女が男にのしかかられたのだ。これは仕方ないだろう。
「ファーレーンさんに何やってんだ!!」
「お姉ちゃんに何するの!!」
騒ぎに気付いた横島とニムが鬼のような形相で悠人を睨む。悠人の顔から血の気が引いた。
「い、いやちょっと待て! これは何かの手違いで……そもそも横島が俺をぶん殴ってタンスに押し込めたから」
「問答!」
「無用!」
横島がサイキック猫だましを放ち、眩い閃光が辺りを満たす。悠人の視界が元に戻った時には、既に横島が目の前にいて、飛び膝蹴りを仕掛けてきていた。
それは駄目だろう!
思わず悠人は叫びそうになった。
血の制裁に対してではない。こんなところで乱闘になれば、押し倒しているファーレーンにまで被害が及びかねないからだ。
だが、そんな事を考えない横島でもニムントールでもなかった。
閃光にまぎれて背後に忍び寄っていたニムントールが思い切り悠人の尻を蹴り上げた。
「オォウ!」
とても痛そうな声を上げて飛び上がる悠人。そこを横島の飛び膝蹴りが炸裂した。部屋の端まで吹き飛ぶ悠人。地面に倒れる暇も無く、横島とニムントールの連撃が始まる。
拳と蹴りの嵐の為、地面につく事すら出来ない、互いのフォローも行う恐ろしいまでの連携だった。ファーレーンを思う愛の力が、二人に最高の連携を授けたのだろう。
5HIT!6HIT!7HIT!8HIT!9HIT!10HIT!!
激流に身を任せるように横島とニムの連撃の中、彼は思う。
なんで俺殴られてんの?
確かにファーレーンを押し倒して胸を触ってしまった。それは悪いことだから、ちゃんと謝らなくてはいけない。
だがそれは不可抗力であるし、その不可抗力の原因は横島だ。
その横島は怒り狂って俺を殴りつけてる……と。
「なんだそれはー! 全部横島が悪いんだろうが!」
「ギャグ切れするじゃねえー!」
「それを言うなら逆切れだろう!」
「よくも、お姉ちゃんに変なことを!」
「そうだ! よくも俺のファーレーンさんにエッチなことを!!」
「おまえも敵!」
「ぐわ! 裏切ったな偽妹!!」
「偽じゃない!!」
「おい! 俺を無視すんな!!」
どったんばったん。ぎゃーぎゃーぴーぴー。ぎゅおーんぎゅおおーん。
ファーレーンは呆然と騒ぎを見つめるだけだった。
一体これは何なのか。
隊長達に挨拶に来た。ただそれだけだった。なのに、どうしてこんな騒ぎが起こってしまったのだろうか。
終わりの見えない乱痴気騒ぎに呆然としているファーレーンの肩を誰かが叩いた。ビクッとしながら振り返った先にいたのはヒミカだった。
「ようこそ、第二詰め所スピリット隊へ! 歓迎するわ! 本当に……ね。ふふ、うふふふ! おほほほほ!!」
そう言って高笑いを上げるヒミカの姿は、生贄が増えた事を喜ぶ悪魔のように見えた。
あの真面目で面倒見の良かったヒミカに、一体に何が起こったのか。ようやくファーレーンは自分がとんでもないところに来てしまったのだと理解した。
これから自分はどうなってしまうのか、果たして今の自分を保つことができるのだろうか。
不安を持つファーレーンだったが、
でもまあ、ニムが楽しそうならそれでいいか。
そんな結論で落ち着いてしまうファーレーンは、やはり姉馬鹿であった。
そして、セクハラ仲間が増え、これで自分に降りかかるセクハラは減るだろうと喜ぶヒミカだったのだが、それが甘い見通しだったと気づくのはしばらく先の話であった。
「誤報ではないのですか?」
ラキオス王座の間にレスティーナの声が響いた。その声は普段の超然とした響きは無く、瞳は不安そうに揺れていた。
揺れる瞳の見つめる先には、若い男が膝を折っていて、目を血走らせていた。
「いえ、間違いありません。イースペリアがサルドバルトへ侵攻。宣戦布告も無く、完全な奇襲です!」
王の姿が無い王座の間がどよめいた。龍の魂同盟の内の一国。イースペリアが前触れもなく唐突に裏切った。
重臣達は皆信じられないようで、その報告を持ち帰った間者に間違いないのかと確認したが、答えは変わらない。間違いなく、イースペリアから出てきたスピリットがサルドバルト国境沿いを守っていたスピリットを襲撃、撃破して、そのまま首都に向かっているらしい。
(信じられない……アズマリアが!?)
レスティーナは未だに信じることが出来なかった。
イースペリアの女王、アズマリアとは個人的にも繋がりがあり、その人となりも知っている。
平和と平穏を愛する人物で、スピリットにも理解がある強い人だった。間違っても同盟を破り奇襲など仕掛ける人物では無い。
一応、思い当たる節が無いわけでもなかった。
『龍の魂同盟』の象徴である『サードガラハム』を討伐したことだ。
これには内心穏やかなるものがあっただろう。
しかし、まさかそれが原因で同盟を破るとは思えない。そもそも、それならラキオスに攻めてくるはずだ。サルドバルトがイースペリアに何かをしたのだろうか。
(落ち着かなければ!)
そうは思うのだが、思っただけで落ち着けるはずも無く、己の感情をコントロールするのは若いレスティーナにはまだ不可能だった。思わず、この報告を持ち帰った諜報部員を睨んでしまう。
どうしてこんな大事を人払いもせずに叫んだのか。
本来なら、まず人払いをして重臣腹心の一部にだけ事実を伝え、善後策を考えてから皆に伝えるのが本来の手法のはずだ。
まさか謁見の場に入るなり、思い切り大事をぶちまけるとは。
興奮していたとはいえ、最悪の仕事である。この有様ではここに来る前に誰かにうっかり漏らした可能性もあった。
情報のコントロールはもう無理だろう。
重臣達が混乱した顔つきでこちらを見てくる。ここで取り乱した所を見せるわけにはいかない。
王が姿を見せなくなり、レスティーナが政務を取り仕切るようになって、もはや王は必要無く、王位は遠からずレスティーナに移るだろうと噂されている。ここで断固とした態度と、理路整然とした対策を言わなければ失望されることだろう。
重臣達を見回して、震える声を抑えながら努めて落ち着いた様子でレスティーナは言った。
「まずはイースペリアに詰問の使者を。一体いかなる理由で同盟を破ったかを問いただすのです」
「それはお待ちを。今は我らが一番にやらねばならなければいけないことは、首都ラキオスの防衛ではないでしょうか」
「……まさかイースペリアが攻めてくると?」
「その可能性は十分あるでしょう。今現在、ここラキオスには主だったスピリットはいません。ラキオスとイースペリアを繋ぐ道は整備されており、七日……いえ、一週間もあれば機動力のあるイースペリアのスピリットはラキオスを攻めることができるはずです」
ありえません!
思わずそう叫びそうなったが、なんとか抑えた。その叫びは自分の心情以外の何物でもなかったからだ。
確かにその通りだ。レスティーナはこの重臣の意見が正しいことを認めていた。同時に、自分がまだアズマリアにまだ期待していることを気づく。
何かの間違いではないだろうか。間違いであってほしい。
自身の感情論に基づいた、希望的で愚かな楽観論が頭から離れない。
思わずコメカミを押さえて考え込んでしまうレスティーナ。
その姿を見て、不安そうに黙りこむ臣達。
不安と閉塞感に満ちた静寂が場を包んだ、その時だ。
「一体何をやっておる!!」
重低音の響く声が木霊した。
レスティーナも含む全員が背筋をビクリと伸ばし、声がした方向を見つめる。そこにはラキオス王がこの場に居る全員を見下すように悠然と立っていた。ずんぐりむっくりな体を揺らして、頭には白の布地に金の刺繍が施されたベレー帽のようなものを被っている。
「詰問の使者? 防備を固める? 愚か者め。戦機を読めんのか」
ラキオス王の鋭い目が重臣ら向けられる。誰もが青い顔をした。王を蔑ろにしたと恐れているのだ。レスティーナだけは僅かに目を見開いて驚くだけだった。
王はそんなレスティーナに目を止めて、ふふんと得意そうに笑みを浮かべる。
「わしの読みが正しければ、そろそろサルドバルトから救援の要請が来るはずじゃが……」
その声をほぼ同時に、文官が一人急いだように玉座の間に入ってきた。
「報告いたします。サルドバルトより使者が参っています。至急、お目通りしたいと!」
まるで図ったようなタイミングだ。
レスティーナも周りの大臣らも、驚きのあまり声が出ない。
そんな中、王だけが満足そうに頷いていた。
「用件は分かっている。しばらく待たせておけ」
王はそう文官に言った後、得意げな顔になって周りを見回す。
「ふむ、わしの言った通りの展開になったな。では、ラキオスはどう動くべきと考える?」
王は髭を弄りながら、周りを悠然と見回し言った。
レスティーナは小さく唇を噛んだ。完全に話の主導権を奪われてしまった。
「まずキロノキロに駐留しているスピリット達をラキオスに引き揚げ、それをサルドバルドに救援を送りましょう」
レスティーナの意見は至極まっとうなものだった。
というよりも、それ以外の選択肢が無い。救援を送らないという選択肢はありえないし、救援を送るための道筋はそれ以外に無いからだ。
だが、王はレスティーナの答えを鼻で笑った。
「馬鹿者。それでは間に合わないだろう」
現在、悠人達がいるのはキロノキロだ。キロノキロからサルドバルトに向かうには、元バーンライト領土を経由して、ラキオスに戻り、それからサルドバルトに向かうしかない。キロノキロからラキオスに戻るのだって一週間以上かかる。サルドバルトに向かうなら、どう急いでも二週間以上掛かる。これではいくらサルドバルトが防戦に徹しようともその間に落とされるだろう。
とうにも上手くいかないな、とレスティーナは内心苛立った。
せめて悠人達をキロノキロから引き揚げていればこんな事にはならなかったのに。
失踪したエニ・グリーンスピリットを探したいので、キロノキロ周辺にしばらく滞在させてほしい。
そう悠人と横島から送られてきた嘆願書に了承したのは間違いだったかもしれない。
どうも判断が裏目に裏目に出ている。
「しかし、それ以外に方法がありません」
「もう一つの道があるであろう」
ラキオス王はレスティーナを小馬鹿にしたように薄く笑った。
もう一つの道に気づいたレスティーナが顔色を変える。
その道を通る事が何を意味するか、父親の狙いがどこに存在するか、分かってしまった。
「まさか。イースペリア経由でサルドバルトに……」
「その通りだ」
「イースペリアを滅ぼすつもりですか!? 一体何が原因で同盟を破ったのかも分からないのですよ」
「何を馬鹿なことを。イースペリアを経由してサルドバルトに向かうのが最短ルートであろう。それにエトランジェ共をイースペリアに向かわせれば奴らも踵を返すかもしれん。また、エトランジェにはイースペリアのエーテル施設を封鎖してもらうことにする。決して滅ぼすわけでは無い。人間の部隊は使わんから、占拠は無理だろう」
「しかし、お父様! イースペリアがどれほどの戦力を有しているかも分かりません。帝国やマロリガンと繋がった可能性もあるのです。さらにイースペリアが裏切ったとなれば、サルドバルトだけではなくラキオスにもスピリットを送り込んでくるでしょう。いち早く、ユート達をラキオスに引き戻す事を優先にしなければ! とにかく情報を、もう少しでも情報を集めてから行動しなければ取り返しのつかない事になるのでは!?」
「案ずるな。ちょうど我が信用に足る秘密諜報部から連絡が入っておる。イースペリアは主だったスピリットは全てサルドバルドに向かわせているらしい。首都の防衛に残っているスピリットはごく僅かだそうだ。当然、ラキオスに向かってくるスピリットなどいない」
淀みなく答えるラキオス王。
父の言っている事の方が正しい。
それは分かっていたが、それでもレスティーナは反対した。
途方もない不安と不吉が去来する。確証は無いが、破滅に突き進んでいるような気がしていた。
重臣一同が歓声を上げた。レスティーナの意見に賛同するものはいなかったのだ。
先手先手を読み、事前に次の一手を打つ王の知略に、臣達は誰もが熱に浮かされたようになる。王に畏敬の目を向けていないのは、実の娘であるレスティーナだけ。それを王も分かっているようだったが、それを不快に思っていないようで暗い笑み浮かべるだけだった。
そして王は一歩前に進み出でて、両手を大きく広げ、まるで劇の主役であるかのように高らかに宣言する。
「我らが信頼を裏切ったイースペリアに鉄槌を加え、親愛なるサルドバルドに救いの手を差し伸べる。これが北方五国で唯一、正統なる血の後継者であるラキオスが果たす使命である!!」
拍手と歓声が玉座を包んだ。
王は髭を弄りながら満足そうに賞賛を浴びる。
名誉欲と支配欲が満たされるのを感じて、王は全身を震わせていた。
熱気と狂乱が渦巻く王座の間。しかしレスティーナだけが冷め切った瞳で騒ぐ重臣達を見ていた。
可笑しい。変だ。無理がある。どうして、それが誰にも分からないの?
サルドバルドがイースペリアに侵攻するのならまだ分かる。彼の国は貧しく、海産と鉱物の輸出で何とか保っているような国だ。豊かさを求めて帝国と繋がり、同盟を破ってくることは十分ありうるだろう。
だが、イースペリアが戦う理由は何だ?
彼の国は非常に裕福でマナも多く、わざわざ侵略戦争など仕掛ける必要などない。
大体、どうしてこのタイミングなのだ。どうしてラキオスを攻めない。何の利がある。
戦略も戦術も、その意図がまるで掴めない。
父も、イースペリアの女王は腰抜けで愚鈍であると常日頃から罵って見下していた。そんな国相手に、聞いたことも見たことも無い秘密諜報部なる輩に監視させていたと。これもまた可笑しい。そもそも、父にこれほどの手を事前に込められるほどの才覚があったとは思えない。ただでさえ、近頃は世情から疎くなっていたというのに。
なにより可笑しいのは、その可笑しさを誰も理解しない事だ。これだけ不信な点があるというのに考えてもいない。
優秀な家臣達の頭の中身が、まるでピエロに変えられてしまったようだった。
これではまるで出来の悪い演劇、それも急遽台本を書き直したかのような気さえする。今回の事件には、どこかしらにほつれが感じられた
何故? 何故? 何故?
レスティーナの頭の中でいくつもの推測が浮かんでは消える。しかし、いくら考えても今は意味が無い事など、彼女は気づいた。菫色の瞳で己の父親を見つめた後、玉座に視線を移す。
専制国家において、王の発言は絶対だ。そしていざ断が下されれば、あっという間に事が進んでいく。臣は一致団結して、手となり足となり速やかに実行される。王女レスティーナがどう足掻こうと流れは止められない。王女では駄目なのだ。
レスティーナの胸の内に黒い光が灯った。ぎらりと王に投げ込まれた眼光は、父を見るそれではなかった。
キロノキロにいる悠人達にイースペリア侵攻が伝えられたのは、ラキオスに報告は来た次の日だった。
距離と日数を考えればありえない事であったが、それについて疑問に思うものは、やはりいなかった。
「まったく! 信じられないよ。人を呼びつけておいて、その事を忘れるなんて! まる一日放置ってなにさ!!」
「いや、しょうがないだろ。なんつっても美人の姉ちゃんとボク娘じゃあ比較にならん」
「最悪だ! 全然悪いと思ってない!!」
キロノキロ宿舎の一室で、短髪で青い髪のスピリットとバンダナを巻いた青年が何やら口論していた。
ルルーと横島だ。
実はルルーは、ファーレーンとニムントールに同行していたのだ。
今更であるが、どうしてファーレーンとニムントール、そしてルルーが横島達と合流したか説明しよう。
元々、横島はファーレーンとニムントールを早くから第二詰め所の一員にするよう、強くレスティーナに訴えていた。
ただファーレーンは剣の腕もさることながら、密偵としても一流であったため、純粋な戦闘要員だけに固定するというのが出来なかったのだ。また、ファーレーンはニムントールと離れることを嫌ったため、ニムントールだけ一足早く合流することが出来なかった。
それが、ダーツィ大公国を併合すると、いきなり王命という形でファーレーンとニムントール、さらにルルーも横島達に合流させた。
その意図が分からず悠人は首を傾げていたのだが、今は納得していた。
つまり、ラキオスはイースペリアの同盟破棄を読んでいて、しかもラキオスに攻めてくることが無いと確信していた。そしてイースペリアに向かわせる為にキロノキロに滞在させていたのだ。
そう考えるのが自然だろう。
「うー!!」
唸り続けるルルーに、これでは流石に話にならんと横島も反省して、悪かった、と素直に頭を下げる。
すると、ルルーは小さく息を吐いて横島をまっすぐ見つめた。
「まったく。それで、ボクに何の用があって呼んだの?」
怒っていたかと思えば、もうケロリとしていた。さっぱりとした気性は横島には好ましく見えた。
「どうしても協力して欲しいことがあってな。それは……」
「ちょっと待って! ボクはまだ、ラキオスに入るって言ってない。約束はどうなったの!」
ルー達に感情が戻ったらラキオス軍に入る。これは譲れぬ一線だった。
横島はそうだったなと頷いて、指をパチンと鳴らす。すると、扉が開いて一人のスピリットが姿を現した。
大和撫子のような美しい黒髪は腰まで伸びていて、きめ細かい肌は雪のように白い。ルー・ブラックスピリットだ。
二人の目が合った。そして、
「ルルー……久しぶり……ニャン」
挨拶をしてくれた。その目にはうっすらとだが感情があった。
姉達の感情を取り戻すと横島はルルーに約束したが、彼はそれを守ったのだ。
「う……ん。うんうん! ルーお姉ちゃん! 久しぶり……にゃん?」
泣きそうになるほど感動と横島への感謝の気持ちで一杯だったルルーだったが、いきなり意味不明な語尾が入り、目をパチクリさせる。頭のほうに目を向けると、動物の耳のような妙なアクセサリーが着いていた。
今まで見たことが無い不可思議な物体に、ルルーは眼を丸くする。
横島は回れ右をした。
「それじゃあ、俺はこれで。ゆっくり姉妹の団欒を楽しんでくれ」
「ちょっと待てーい!!」
すたすたと去ろうとした横島を、ルルーが裾をもって留めた。
「こらー! きみは一体お姉ちゃんに何をしたー!!」
「な、何のことだ! 俺は何も知らん!」
「嘘だ! 目が泳いでるぞ!」
逃げようとする横島の頭を両手でぐいっと引き寄せ、鼻と鼻がくっつくほど至近距離で横島を睨むルルー。
近距離のにらめっこに、横島は色々とうろたえながらも力の限り叫んだ。
「しょ、しょうがねーだろ! 俺だってまさかここまで嵌るとは思わなかったんだー!!」
それは横島の偽りない本音だった。確かに初めは横島が無理やり着けたものだったが、今のルーは積極的に猫耳を着けていた。どうしてこうなったか。それには勿論理由がある。
「ねえ、この妙なアクセサリー、随分良い毛を使ってるみたいだけど。それに何か書いてあったよ」
頭に付いている猫耳と呼ばれるアクセサリーは素人目から見ても良く出来ていた。
毛並みは良く艶もあり、香料でも使っているのか良い香りがする。ヘアバンドの部分も良く作りこまれていた。
奇抜なデザインではあるが、原価だけを考えてもそれなりに値は張る代物だ。加工の費用も安くないだろう。
「ああ、これはルーさんの為に作った世界で一つだけの猫耳さ! 子供っぽいけど名前入りだ」
「へ? ええ! 嘘……ラキオスってスピリットのオシャレの為にここまでしてくれるの!?」
「いや、これは俺のポケットマネーで知り合いの職人に依頼して作ったもんだ。奮発したんだぞ」
ハイペリアの文化に興味があるおやっさんがいてなー、と横島は何でもないように呟く。
ルルーは驚きのあまり言葉もない。
「あっ、それとアクセサリーや語尾は、別に遊びでやったわけじゃなくて、まあ心を取り戻すきっかけになればいいなあと……決してエロスな意味があったわけじゃなくてな……いやまあ無いわけじゃ無かったがそれは恥辱プレイであっても露出は避けたいという男心があったのは言うまでも無く」
あたふたと横島が早口で良く分からない言い訳を並べるが、ルルーはもうそれどころじゃなかった。
自分専用に作られたオーダーメイドのアクセサリー。反則だと、ルルーは思った。
手放せるわけないじゃないか!!
スピリットは戦闘奴隷だ。当然、化粧やおめかしなどできるはずもなく、画一的なエーテル戦闘服が支給されるだけで、専用で何かを与えられることなど無い。
スピリットは『物』で、戦闘機械でしかなく、そもそも女として見る事が禁忌なのだ
未だごちゃごちゃと喋りつづける横島に、そっと寄り添って首を預けるルー。そして、小さく「にゃあ」と鳴く。
まるで子が親に甘えるような仕草のようにルルーには見えた。
横島は鼻の下を伸ばしながら、ルーを褒め称える。
「美人で可愛いとか最高じゃあ~!!」
そんな、恥ずかしい台詞を臆面もなく堂々と言い切った。
ルーはほんの少し顔を赤らめるとまた「にゃあ」と小さく鳴いた。
そうすると横島はまたしても歓喜の声を上げて涙を流す。すると、やはりルーは嬉しそうににゃんにゃん言うのだ。
そんな二人を見て、ルルーは過去を思い出す。
それはまだスピリットと人間がどういう関係か明確に理解していない頃の幼児時代。
言葉や礼法を教えてくれる世話役の人間がいた。いつも教えるだけ教えて、時間がくれば帰っていく。
無駄な話なんてしたことが無いし、質問は許可されていない。知識を埋め込まれるだけの時間。
ルルーはもっと話したかった。笑いたかった。怒ってほしかった。
だから、手作りの料理を持っていったり、とっておきの笑い話を喋ったり、さらに勉強中に寝たふりをするなど、色々なコミュニケーションを試みた。
結果は、無反応。
まるで自分がいないかのように扱われて、ルルーは泣いた。
これは別に珍しい事じゃない。むしろ、スピリットなら誰しも一度は経験したこと。
『行動』に対して『反応』が返ってくる。
これがどれだけ嬉しいか、ルルーは知っていた。
良かったね、お姉ちゃん。
姉の様子を微笑ましく見ていたルルーだったが、ある事に気づいてはっとした。
「まさか、他のお姉ちゃんたちも、にゃ~んな格好させてたりしないよね!!」
そんな風に怒る。
本心は、ひょっとしたらルーお姉ちゃんを特別扱いして、他の姉たちをないがしろにしているのではという恐れがあった。もしそうだとしたら、他の姉達が哀れすぎる。
ルルーの問いに、横島は曖昧な笑顔を浮かべた。
「……安心しろ。にゃ~んな恰好は、させてないぞ。それじゃあ俺はこれで」
「だったら何で逃げようとするんだ~!」
にゃ~んな格好はさせていない。
まさか、他の姉は放置されているのか?
そんな不安を抱いたルルーだったが、結論から言えば不安は杞憂だった。杞憂すぎた。杞憂だった方が幸せだった。
ドアが開く。そして、何人ものスピリットが部屋に入ってくる。
第三詰め所の、バーンライト所属だったスピリット達だった。
「……わん」
「がおがお」
「元気そうで何より……だっちゃ」
「心配してたナリか?」
「ひさしぶり……でゲソ」
現れた姉達は、皆一様に不思議な言葉を語尾につけていた。
そして、頭に付いている謎のオプション。
ポニーテールがヤシのように伸びていたり、お団子頭になっているのはまだいい。
しかし、先ほどの猫耳に似たアクセサリーや、動物の角や、10もの数で髪が結われていたりと奇天烈な状態の姉達が複数いた。
――――――え、なにこれ? こわい。
頭痛のあまり眩暈を起こし、くらくらしているルルーの前に、がっちりしている体格のスピリットがやってきた。
彼女はルルーに剣術や体術などを教え込んだスピリットで、剛毅というか豪快な気持ちの良い性格の姉だった。
美人ではあるが、可愛いとか可憐等の言葉には無縁なガッツなアネサンだ。
もしこの姉が「にゃ~ん」なんて言ったらどうしよう。
ルルーはそこはかとなく失礼な心配をしながら、姉の言葉を待った。
「会いたかった……タイ!」
アネサンの手には、金属で出来たダンベルが握り締められていた。
ルルーはにっこりと横島に笑いかける。横島も笑って、ゆっくりと後ずさりする。
遂に横島は壁際まで追いつめられた。
「何か言い残す事は?」
「ついカッとなってやった、今は反省している」
「それで済むと思うなぁぁーー!!」
ルルーは目に色々な意味で溢れた涙を湛えながら、感情の赴くまま拳を振るったのだった。
日本の国民的菓子パンのヒーロー並みに膨れ上がった顔の横島は、とりあえず今日は顔合わせだけ、という事でルルーの姉達を下がらせた。部屋にはパンパンに膨れ上がった横島と、ルルーだけが残る。
再起不可能とレッテルを貼られそうなぐらいに横島の顔はヤバイ状態であったが、どうせ直に治ってしまうので同情を引くことは無い。
ルルーは目を閉じて、何かを言いたそうに口をもごもごさせていたが、意を決したように横島に近づいて向き直る。
「ねえ……」
「なんじゃい! もう十分殴られたぞ!?」
いくらギャグキャラといっても、流石にこれ以上やられては堪らぬと、油断無く身構える。いくた数コマ後にはどんな傷を負っても治っているギャグキャラと言っても、痛いものは痛いのだ。
だが、ルルーの顔にはもう怒りの色を見られなかった。
涙の後もくっきり残っているが、これ以上流れる様子は見られない。
ただ恥ずかしそうに顔を赤くして、腕をもじもじさせていた。
「ありがとう。本当にありがとうございます。お姉ちゃんを助けてくれて」
深々と頭を下げて丁寧なお礼を言う。くしゃくしゃになった顔が笑顔になる。
間違いなく美少女の笑みに横島は少しビクリと体を震わせたが、すぐに怪訝な顔つきへと変わった。
膨れ上がった顔は、既に元に戻っていた。
「なんだ、やけに素直だな。気持ち悪いぞ」
「気持ち悪いは余計! お礼ぐらい素直に受け取ってよ」
「だったらこんなにボコボコにしないで、最初っからそうすればいいだろうがー!」
「それをできないようにしているのは、何処の誰か分かってる?」
ルルーは心の底から横島に感謝していた。もう、家族の笑顔が戻ることは無いのかも知れない。なんとか心を取り戻そうとはしていたがどうにもならなかった。
だからもし、横島が家族の心を取り戻してくれたら何でもしてあげよう。それだけの決心をしていた――――――が!
まさか語尾に「にゃあ」だの「ワン」だの、果ては「タイ」とまで付けて帰ってくるとは予想だにしていなかった。
もう喜べばいいのか、怒ればいいのか、泣けばいいのか、笑えばいいのか。どうしたらいいのか分からなくなったルルーは、仕方なくその全てを選んだのである。
良くも悪くも感情を引き出す。ハリオンがそう横島を評価した事があったが、正にその通りなのだ。
たくさん泣いて、笑って、怒って。
今までスピリットが封じ込められてきたことを、彼は解放しているのかもしれない。好意的な見方ではあるだろうが。
「それで、頼みたいことって? 何でも良いよ。何だってしてあげるから」
きっぱりと言い放つルルーに、横島は少し不機嫌そうに眉をひそめた。
「あまり何でもとか言わない方が良いと思うぞ。どんな変なこと要求されるか分かったもんじゃないだろ」
「いや、だからどんな要求でもいいんだよ。お姉ちゃんの心を取り戻してくれたんだ……まあ、ちょっと変になってる気もするけど、笑ってくれてるんだから大丈夫。何でも言って。ボクは絶対に逆らわないよ」
きっぱりと言い切るルルー。
裸で町内一周しろ、とでもふざけて言ってやろうか。
意地の悪い思い付きをする横島だったが、ルルーの目を見て一気に冷めた。
やると言ったらやる。そんな、強く純粋すぎる青の双眸が煌いていた。
――――――まったく、この程度で。
横島はやれやれとかぶりを振る。
スピリットは自分の身を軽々しく粗雑に扱いすぎている。ヒミカのときも思ったが、ちょっとした感謝だけですぐに身を差し出すぐらいの事をしてしまう。嬉しいと言えば嬉しいのだが、自己犠牲の精神が明白でこっちが引いてしまうほどだ。
スピリットの解放とハーレムが横島の目的なのだ。
こんな状況でスピリットが解放されたら、悪い人間にコロリと騙されかねない。ハーレムにしても愛ではなく恩義で加わってきそうだ。そこのところが、横島にはなにより重要だ。この状態ではラブラブハーレムなんて作れない。
不遇の扱いを受け続けてきたスピリットは、少しの優しさだけで満足してしまう。
無論、個人差はあるのだろうが、全体的な印象としてスピリットは純粋過ぎて、接していてこっちが辛くなる時がある。
以前、サンタに『何でもゆーこときくハダカのねーちゃんがほしい』と願った事があったが、いざそれに近い存在を得てみると扱いが非常に難しい。しかも、相手は不幸の道をこれでもかと味わってきた者たちだ。そんな彼女らを好き放題するほど、横島は外道にはなりきれなかった。
難しい問題だ。このままでは、スピリットはたちの悪い詐欺に騙されること間違い無しである。どうにかしないと。
横島は横島なりに、真剣にスピリットの将来を考えているのだった。
「本当にいいのか? 正直、まだまだだと思うし……気づいてるとは思うけど何人かはまださっぱりだ」
日々の訓練や、町での活動、副隊長の仕事、セリアたちとのコミュニケーション。それらを除いた時間を第三詰め所の交流に当てているのだが、横島はまだスピリットの感情を取り戻しているとは思っていない。
確かにルーを初めとする何人かのスピリットは心を取り戻し始めている。ハイロゥの色も黒から白に変わり始めているのもその証拠だ。
だが、ハイロゥの色が真っ黒のスピリットだけはまったく変化が無い。何を言ってもやっても、暖簾に腕押し。
横島のやり方は、僅かに残った心を刺激して、少しずつ心を甦らせる方法だ。だから、心の一片すらも神剣に奪われたスピリットには効果が無かったのだ。
神剣に飲まれてハイロゥが完全に黒く染まったスピリットを元に戻す資料を集めてくれるよう、レスティーナにお願いしてあるのだが、そんな資料も欠片も出てこない。そんな事を研究する学者はいないのだと言う。
白を黒に染めるのは簡単だが、黒から白に戻すのは難しいという事だろう。
「ううん。ヨコシマ……様は一生懸命やってくれるのが分かった……いえ、分かりましたから」
ラキオスに入ると決まったので、ルルーは言葉遣いを改めようとした。
「あ~別に言いづらいなら様付けしなくてもいいぞ。敬語も別にいい」
あっけからんと横島が言った。
どういう意図がある?
色々な理由を考えて、ルルーは恐怖するような期待するような目で横島を見つめる。
「ボクっ子に敬語は似合わんしな」
「そんな理由か~!」
まったくとルルーは頬を膨らませる。
深読みした自分が馬鹿みたいじゃないか。
でも、心は弾んでいた。
ただ部下と上司の関係じゃない。そう暗に言われたのが分かったからだ。
この人と気軽に話し合える関係になる。それが、とても嬉しい。
さて、それじゃあどう呼ぼうか。
年上を呼び捨ては抵抗がある。でも、様付けは嫌だ。無難に考えれば隊長と呼ぶのがベストだろう。
だがルルーには一つだけ、呼んでみたい言葉があった。
それはスピリットでは決して得られないもの。
「に……ん」
「うんことかはかんべんな」
感動が、一気に吹き飛ぶ。
「んなっ!? 誰が言うかー!」
顔を真っ赤にして怒るルルーと、はっはっはっと愉快そうに笑う横島。
出会いこそは最悪だったが、二人の相性は悪くなさそうだった。
「とりあえず、呼び名はまた後で考えてくれや。そんじゃ、俺の頼みを聞いてもらうぞ。あまり余裕も無くてな」
言葉は軽い調子で、しかし顔つきは真剣なものとなる。ルルーも神妙に頷く。
そして横島は自分たちの現状を説明した。
イースペリアがサルドバルドに侵攻した為、自分たちはイースペリアに向かうことを。
「それでどうするの。ボクも一緒に行けってこと?」
「……エニが居なくなってな」
絶句するルルー。エニの寂しそうな笑みが脳裏に蘇える。不安で心臓が強く脈打った。
「どうして居なくなったのか、どこに行ったのか、皆目見当がつかん。そこでだ、お前にはエニを探索してほしい」
「そんなの当然だよ! それじゃあ言ってぐっるっ!?」
鉄砲玉のように飛び出そうとしたルルーを、横島は襟元を押さえて制した。
げほげほせき込みながら、ルルーは横島を睨む。
横島は微笑した。この生きの良さは彼の弟子に通ずるものがあったからだ。
「まったく、神剣も持たずにどうするつもりだっつーの。ほれ」
横島が大きな紙包みを差し出す。開いて現れたものに、ルルーはあっと驚いた。
青白く輝く大剣。永遠神剣第七位『反抗』がそこにあった。
久しぶりに自身の永遠神剣『反抗』を手にしたルルーは、愛おしそうに刀身を指でなぞる。
後でしっかり手入れしてあげるからね。
彼女は優しくそう言って神剣を背中に担いだ。『反抗』はただ静かに光を放つ。そこには愛情と信頼が確かに存在していた。
神剣使いは自我が弱まると自身の神剣に心を飲まれ失う。そうでなくとも、力を使いすぎれば心に限界が来て神剣に飲み込まれる。
殆どの者は心を失うのを非常に恐れるが、不思議と神剣を嫌う者も恐れる者もいなかった。
神剣とその担い手には、確かな繋がりがあるのである。
その一連のやり取りを見て、嗚呼、と『天秤』は無意識に羨ましそうな溜息をついた。
横島はその声に気づかない。
「探し方は任せっからな。無理せんで気を付けて行って来い」
飛び出すルルーの背にありきたりな声をかける。
出て行くものにはいってらっしゃい。帰ってきたらお帰りなさい。
久しぶりに掛けられた言葉に、ルルーの目尻はまた熱くなった。
「うん……行って来ます!!」
ただそれだけで感動して飛び出していくルルーに、横島は悪い奴に騙されないかと少し不安な気持ちで送り出す。
まるで無鉄砲な妹を送り出す兄のようであった。
そうしてラキオス軍、第一詰め所と第二詰め所、それに第三詰め所の一部のスピリット達は進撃を開始した。
同盟を裏切った卑劣なイースペリアに天誅を下して、サルドバルトを助ける。
そんな大義名分が存在していたが皆の士気は盛り上がらなかった。
どうせ戦うのはスピリットで、傷つくのもスピリットだ。そう考える悠人の悲観主義がスピリットに伝わったのかもしれない。何とかスピリットと戦わず、自分も戦場に出ずに戦いを終わらせたい。そう考える横島の戦意の低さがスピリット達に伝わったのかもしれない。また、エニが見つからないのが不安なのかもしれない。
とにかく、皆の空気はどこか弛緩していた。
行軍はスムーズなものだった。イースペリアまでの街道も整備されていたのもそうだが、今回は目的が都の占拠ではなくエーテル施設を封鎖するだけなので、人間部隊が居ないのが大きな理由だった。足並みを揃える必要が無いため、時速数百キロを軽く出せるスピリット達はものすごい速さでイースペリアの奥までたどり着くことが可能だった。
敵の待ち伏せも無く、僅か二日でイースペリア首都目前までたどり着くことに成功した。
明日には首都に侵入して作戦が決行されるだろう。
その夜。
パチリ。
数秒前までイビキをかいて寝ていた横島の目が前触れもなく開く。
寝ぼけ眼では無くて、しっかりとその目は開かれていたが、どこか霧がかかっているような感じだった。
そのまま横島はムクリと起き上がると、野営のテントから外に出る。
「あれ、どうしたんですか、ヨコシマ様」
火の番をしていたヘリオンが起きて来た横島に声を掛けた。
ブラックスピリットは月の妖精とも言われ、夜の加護を得ている。具体的には夜目が利いて場のマナ効果を受けやすくなる。
夜の警戒には打って付けなのだ。
「ん? あ~ちょっとな……あれ、ヒミカは?」
いくら夜の加護を受けていると言っても、まさかヘリオン一人に警戒と火の番を任せるという事は無い。
ヒミカも一緒に辺りを警戒しているはずだった。
「え!? え~と、その、あの、その、おトイレです!!」
「んな力一杯力説せんでも……」
「あう、すいません」
「別に怒ったわけじゃあないんだけど」
クルクルと表情を変えるヘリオン。仕草も子犬を連想させる。
相変わらず面白くて、可愛い娘だな。
横島は邪念も持たずに、素直にそう思った。
「俺は散歩に行ってくるよ」
「散歩ですか? あ、あああの! 私もお供してよろしいでしょうか!!」
ヘリオンは顔を真っ赤にしてどもりながら提案する。
想い人と月夜の下で散歩する。
乙女からすれば、これ以上ないロマンチックなシチュエーションだ。
「あー悪い。一人で散歩するわ」
「くすん。分かりました……出番少ないなあ、私」
「なあに、鈴女よりはマシだから安心しろって!」
「ひ~ん! 誰だが分からないですけど、比較しちゃいけない妖精と比較されているような気がします~!!」
ヘリオンの切ない悲鳴を背にして、横島は含み笑いをしながら歩き出す。
野営地を抜け出して、あてもなく夜の森を一人で歩く。
虫の声と風で木々が触れ合って起こる小波のような音。頬を撫でる風が気持ちいい。
星と月の光を浴びながら、彼は思う。
「なんで俺は一人で散歩してんだYO!?」
夜の森でラップ調で独り言を叫ぶ姿は中々に変態チックである。事実、彼は変態である。
「はあ……何やってんだ俺」
横島は今の自分の姿を理解して、急速に頭が冷えた。
これがダークな雰囲気を持つ美形なら様にもなろうが、ギャグ畑の関西系青年が気取って夜の森をさすらうなど、黒歴史の一ページになること間違いなしだ。
はて、と頭を捻る。男一人で夜に散歩する趣味など無い。
どうして、散歩などしたのだろう。どうして、さっきのヘリオンの頼みを断ったのだろう。
夢遊病という事はない。自分が起きていると分かるし、一応、どうして散歩したくなったのかは説明できる
夜に何故か目が覚めて、なんとなく一人で散歩したくなった。
今までの自分の行動を言葉で言えば、そんな一行で済む。
だが、その『なんとなく』がどういう理由で生まれたのかが分からない。
なんとなく、とは無意識と言ってもいい。無意識は意識の外と言って良い。
つまり、自分の意識の外に存在するものが、自分の肉体を操っているとも言える。
――――――馬鹿らしい。さっさと帰って大宇宙とおっぱいの神秘について考えた方がずっと建設的だ。
どこか引っかかるものを感じながら、あっさりと思考を放棄して陣地に戻ろうとした横島だったが、いきなり目を大きく見開いて夜の森の一点を見つめた。
神剣反応!
たった一つだが、ものすごい勢いでこちらに向かってきている。
仲間の内の誰かかと思ったが、どうもそうではないらしい。
悠人と自分を除く誰よりも反応が大きいし、殺気や敵意等の不吉な物を感じる。
敵の、恐らくイースペリアの奇襲だろう。早く陣地に戻って迎撃準備をしなければ。
走り出そうとした横島だが、その足が突然止まった。近づいてくる反応にどこか懐かしい物を感じたのだ。
この神剣反応は確かにどこかで感じたことがある。だが、覚えはない。
知っているものが変わってしまった。それがしっくりと来た。
「……マナを」
そんな呟きと共に、彼女は姿を現した。
小さな四肢。それに不釣り合いな大きさの槍。
豪奢な金髪が月の光を反射してキラリと輝く。頭上には黒いハイロウゥが輪の形を作っている。
「……エニ?」