永遠の煩悩者   作:煩悩のふむふむ

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第二十話 ジュブナイル

『―――――以上でエニ……いえ、贄の報告は終わりです』

 

「御苦労さまでした。これで計画の第二段階は終了したことになります。順調ですわ。これも全て貴方のお陰です」

 

「はっ」

 

 お約束の黒い空間で幼女は満足そうに『天秤』に笑みを向ける。それは労をねぎらう上司の笑みだった。

 いつもの『天秤』だったら、恐縮しながらも大いに喜ぶだろう。しかし、彼は暗い雰囲気のまま機械的に礼を言うだけだった。

 どこか刺々しい『天秤』の態度。

 

 例えで言うなら、無理やり宿題をやらせて、良く頑張ったわねと褒めてくる大人相手に納得できない子供、と言ったところか。

 幼女も『天秤』の態度が可笑しい事に気付く。

 

「どうしました『天秤』。なんか言いたい事でも?」

 

『……その、エニにも……何か一声はありませんか?』

 

 『天秤』の発言に、幼女はいぶかしむような表情になった。

 

「はて、一声とはなんでしょう。貴方も贄には随分と苦労したのでしょう。良く愚痴っていたではないですか。『纏わりつかれて迷惑だ』と」

 

 不思議そうな幼女の声に、『天秤』は自分が少し恥ずかしくなる。

 

 ――――――ああ、そう言われるに決まっているか。

 

 一体自分は何を言いたいのか。自嘲するように薄く笑い声が出そうになる。

 

「だからこそ、私は貴方を苦しめた贄に最高の恥辱と苦しみを与えて、心を消去したのです。もう一度、聞かせましょうか? 贄を……エニをどのように壊していったか」

 

 楽しそうに幼女が笑う。上品な笑みの中に、サディスティックの色が混ざっていた。

 『天秤』の胸に抱いていけない感情が灯りそうになって、慌てて彼はその想いを打ち消した。

 

『いえ、遠慮します。では、任務に戻ります』

 

 ぼそりとそう言って会話を断ち切り、『天秤』は闇の空間から消え去った。

 しばらくきょとんとしていた幼女だったが、唐突にその表情が計算しつくされた策士の顔に変わる。

 同時に闇の空間は消え去って、辺りは五色の遺跡に切り替わる。

 

「ふふふ、計画通り過ぎてつまりませんわね。間違いなく、『天秤』は暴走して彼を死地に追い込むでしょう。

 今度の命の危機はどう乗り越えてくれるのか、今から楽しみですわ」

 

 つまらないと言いつつも、幼女は満面の笑みだった。

 それもそのはず、今のところ一つを除いて計画の全てが完璧だったから。

 その一つというのも、計画の大きな流れには全く関係はしない。

 

「彼のグラマー好きは私自ら矯正すれば良いこと。貧乳と幼女が世の正義……いい時代になったものです」

 

 幼女はコンパクトな鏡を取り出すと、帽子の角度を修正して髪を整える。

 身だしなみに気を使う一人の女の子がそこにいた。

 

「『邪恋』もご苦労さまでした。貴方をコレクションして正解でしたわ」

 

 幼女が視線を頭上に向ける。

 視線の先には、西洋剣、槍、双剣、刀、エトセトラエトセトラ。多くの武具が宙を漂っていた。

 その全てが、横島や悠人の永遠神剣と同等かそれ以上の力を秘めている。

 その内の一本の、『邪恋』と呼ばれた槍型の永遠神剣が幼女の声に応えるように光を放った。その外見は、エニの持っていた『無垢』に酷く似ている。

 

「恋は戦い……ならば、私が負ける道理はありません。初恋は実らない、などというジンクスは粉々に打ち砕いてみせましょう」

 

 闇の中、幼い少女の甲高い笑い声が響き渡る。

 無邪気な、背筋が凍るほど愉快で楽しそうな笑いだった。

 

 永遠の煩悩者

 

 第二十話 ジュブナイル

 

 日が昇り始めた朝早く、荒れ果てた荒野に佇む一団があった。

 彼らは胸に手を当て目を瞑り、粛々とした空気が辺りに満ちている。

 

「暖かく、清らかな、母なる光。

 すべては再生の剣より生まれ、マナへと帰る。

 たとえどんなくらい道を歩むとしても、

 精霊光は必ず私たちの足元を照らしてくれる。

 清らかな水、暖かな大地、命の炎、闇夜を照らす月。

 すべては再生の剣より生まれ、マナへと帰る。

 どうか私たちを導きますよう。

 マナの光が私たちを導きますよう」

 

 大地に詩が響いた。

 それはスピリットの、スピリットによる、スピリットの為のレクイエム。

 いつ、だれが、どうして、この詩を作詞したのかは定かでは無いが、この詩はスピリットの詩だった。

 

「これだけで終わりか?」

 

 悠人の声に、エスペリアは「はい」とだけ答えた。

 

「葬式……とかは?」

 

 横島の声に、セリアは「ありません」とだけ答えた。

 あまりの淡白さに、二人の異邦人は怒りも寂しさも通り越した。

 

 亡くなったエニの為に何かしてやろう。

 横島と悠人の提案は、歌を一回歌って終わりという、なんともあっさりしたものだった。

 確かに墓を作ろうにも遺骨も衣服も残らないので、ただ墓標作る程度しか方法は無い。しかし、それにしても簡易すぎる葬儀だった。

 

「……詩を歌ってくれるのだって普通は無いんだよ」

 

 隣で瞳の輝きががっくりと減ったルルーがぽつりと呟いた。

 

 この世界の『当然』や『普通』に付き合ってられるか、と横島は聞かなかった振りをする。

 悠人も、厳しい顔で瞳を伏せる。

 

「なあ、このまま進軍していいのか。一度、町に戻って情報を集めるとか……」

 

 悠人の問いに、エスペリアは僅かに迷ったような顔をしたが、すぐに首を横に振った。

 

 本当は一度、町に戻りたかった。一体何が起こっているのか情報も集めなおしたいし、心のほうも疲弊している。

 しかし、裏切り者のスピリットを殺して疲れたなど、悠人も横島も言える立場ではない。

 イースペリアとの戦いは、これからが本番なのだから。そして、イースペリアの本隊がサルドバルトに進軍している今が好機なのだ。ここで機を逃せばより多くの命が犠牲になる。巧遅より拙速を重視するのが正しいのは横島も悠人も理解していた。

 どれだけ疲れていようと、前進以外の道などありはしないのだ。

 

 合流を果たしたルルーには、とりあえずラキオスに一度戻るように指示した。

 元々いるはずの無いスピリットであるし、この状態で戦力になるとは思えなかったからだ。

 ルルーはぼんやりと頷くと、とぼとぼとラキオスまで歩き出す。

 

「私たちも行きましょう」

 

 ルルーを見送りながらエスペリアが淡々と言って、皆歩き出す。

 

 行軍が始まる。今までと比べるとゆったりとした歩みだった。

 急げば今日の夕方にはイースペリア首都にたどり着けるが、横島も悠人達もそれに反対した。

 巧遅より拙速を重視するのは良いが、それにも限度がある。

 昨夜の傷は癒えたが、疲れはまだ残っている。戦える程度に疲労を回復させるため、のんびりした歩みとなった。

 

「なんなんだろうなあ」

 

 てくてくと歩きながら、横島はぼうとして呟く。

 どうにも現実感が沸かない。まるで夢の中にいるようだ。

 一緒に釜の飯を食ってた仲間が死んだというのに、何事も無かったかのように一日が始まっていた。

 周りにいる誰もがいつも通り振舞っている。エニが死んだのを伝えて、泣いた仲間は一人もいなかった。

 ショックは受けていたようだが、取り乱すものは誰もいない。仲間が死ぬのは初めての事ではないらしいが、エニと他のスピリットはこんな淡白な関係だったのだろうか。

 

「夢だったんじゃないか……そんな気がしてこないか『天秤』」

 

 腰に差した『天秤』からの返答は無い。

 馬鹿なことを言った、と横島も少し後悔した。

 夢の訳がない。それは『天秤』に括り付けられたボロボロの天秤人形が証明している。

 普段は横島の中に存在する『天秤』だったが、そうするとマナで出来ていない人形は『天秤』についていけないので、今は横島の腰に差している状態だった。

 

 『天秤』はエニとの一件以来、一言も喋らない。

 契約者である横島を除いて、唯一、『天秤』と喋れる存在だったエニ。

 それを失って、『天秤』がどれだけ苦しんでいるのか想像もつかない。

 

(俺がしっかりしなきゃな!)

 

 横島は気合を入れる。

 と、ふと横に気配を感じて振り向くと、黒いツンツン頭が隣を並走していた。

 悠人だ。横島と色違いの白い戦闘服は随分とくたびれていて、ウニのような髪の毛は何本がへし折られたように消失している。

 

「ぶはは! 何つーか、毛の無いウニだな」

 

「笑うな! 一歩間違えば首から上が無くなっていたんだぞ」

 

 悠人は憮然として怒る。だが『ウニ』を否定はしなかった。自分の髪型が酷いことを彼も自覚しているのだろう。

 こうなった原因は簡単だ。横島がエニと戦っていたとき、悠人達は龍と戦っていたからである。

 

 昨日の夜。

 龍は、悠人がとあるスピリットと秘密の鍛錬をしていたら何の前触れも無く飛来してきて、そのまま戦闘になった。

 襲ってきた龍は高い知性もなく、かと言って狂ってもいなかったらしい。しかし野生の獣ともまた違う。

 印象としては機械のようだった。普通の龍とは違う生物らしさを持っていなかった。しかし、やはり龍らしく戦闘能力は格別だった。

 山の様な巨体。風の様な速度。金剛石よりも硬い鱗。圧倒的なブレスの破壊力。

 一個の生物でありながら、人間社会を叩き潰せる力を持った戦術級種族。それが龍。

 

 とまあ、その力は知れ渡っているが、そもそも龍とは何なのか、はっきり分かっていない。人や世界を守護しているとか、神の使いとか、トカゲが進化したものだとか、多くの諸説があるが、それはただの伝説なだけである。

 確認されている個体は手のひらで数える程度で、それも人里から離れた洞窟で引きこもっているだけ。

 そんな龍が何故襲い掛かってきたのか。理由は分からない。とにかく、戦いが始まった。

 

 悠人も横島も以前に龍を倒した事はあったが、それは洞窟内でという制約があった。

 鳥や戦闘機には出来ない、それこそ物理法則を無視したような機動で空から圧倒的な威力のブレスを放つ龍。それは悪夢を形にしたようなものである。

 

 空というフィールドを活用する龍を相手に、悠人は徹底的に地形を利用した。

 森や地形の高低差を利用してブレスの射線を外し、神剣の反応を強めたり弱めたりすることで攻撃される対象をこちら側で操作し、決して無理に攻めようとしない。

 これは悠人とエスペリアが野外で龍と戦うために考えた戦法の一つだった。長期戦を狙ったものである。

 

 長期戦を選んだ理由は、ラキオス最強の戦士である横島を待つためだ。早く散歩から戻ってこいと願いながら、悠人らは戦っていたのだ。

 同じころ、横島も悠人達を待って戦っていたとは夢にも思わないだろう。結局、横島は現れなかったので皆で力を合わせ、なんとか龍を倒したときには疲れで立ち上がる事すらできなかった。

 その場では最善の行動に違いなかったが、結果だけを見れば、互いに救援を待っていて力を使い果たすという無様すぎる連携だったと言う以外に無い。

 

 ここで疑問が生まれる。エニと龍は連携しているとしか思えない動きだった。

 エニと龍が連携して動いていたなら、エニに指示を出し、そして龍を制御できる存在がいるはずだ。そんな事が果たして出来るのか。

 偶然で済ませるには不可解すぎる。しかし、狙ってやるなんて不可能だ。何故なら、これは横島が何となく散歩をしたから発生した事態だからである。

 また謎は増えた訳だ。

 

「なあ、横島」

 

「何だよ」

 

 悠人は言葉を選んでいるようで、少し考え込んでいるようだったが、

 

「悪かった、助けに行けなくて……その、エニの事は」

 

 口許を引き締めて、横島に頭を下げる。

 彼にも事情があったのだが、それでも謝らずにはいられなかった。

 仲間の一大事に駆けつける事が出来なかった。それが無念でならなかった。

 

 謝罪に対して横島は無言だった。

 口を開けば罵詈雑言が飛び出てしまうから――――ではない。そもそも、悠人相手に悪口を我慢する横島ではない。

 口を閉ざすのは、そもそも言う事がないからである。

 

 もし悠人達が援軍に来たとしてもどうしようもなかった。

 ただ、悲劇のヒーロー(天秤)と悲劇のヒロイン(エニ)の悲劇的シーンの周りをうろちょろするエキストラが増えるだけだろう。

 それを、エニは望まない。助けは来なくて良かった。

 

 そんな風に「気にするな」と悠人を擁護する事も出来たのだが、わざわざ男相手に気を使うのも面倒くさい。

 結果、横島は沈黙したのだ。

 

「あまり無理するなよ。俺は……『求め』が龍のマナを食ったからか調子が良い。次の戦いは俺に任せとけ」

 

 ドンと胸を叩いて悠人が力強い顔を作る。 

 演技には見えない。悠人の表情には活力があった。疲れはあるが意思に満ちている眼。

 横島はいぶかしむような表情をすると、悠人は苦笑いを浮かべながら離れていった。

 

「何か変なもんでも食ったのか、あいつ」

 

 横島が『天秤』に話しかける。やはり返事は来ない。

 それを特に気にせずに視線を前に戻すと、また横に気配を感じる。

 また悠人かと目だけを横に向けると、そこには何も無い。

 

「下~」

 

 間延びした声が聞こえる。

 視線を下げると、そこにはお菓子が大好きな女の子がいた。

 

「おっ、どうしたシアー」

 

「えへへ~」

 

 ニコニコしながらシアーは横島の手を握る。すると、さらにシアーはニコニコと笑みを深くする。

 シアーの手のひらは横島や悠人よりも硬く、戦士の手のひらであったが、温かく生気に満ちていた。

 

「ドーン!」

 

「のわ!」

 

 今度は後ろから衝撃が来た。

 誰かの体当たりだが、確認するまでもなく、こんな悪戯をするのは限られている。

 

「こぅら! 悪いネリーはいねがー!」

 

「いねぞー!」

 

「いるだろうがー!」

 

「ばれたか~!」

 

 分かりきった寸劇のようなやり取りを済ませると、ネリーもシアーと同じように笑いながら横島の手を取った。

 横島の両手は青の姉妹に占領される。

 

「う~ずるいですー!」

 

 いつの間にか近づいてきたヘリオンは、横島の両手を占領する青の姉妹に向かってジトッと未練じみた視線を送る。

 

「早いもの勝ちだもーん!」

 

「だも~ん!」

 

「しくしく。私はブラックスピリットでちっちゃいのに速さでも負けるなんて~」

 

「……はあ」

 

 近くで騒ぎを見守っていたニムはアホらしいと溜息をこぼす。

 何だかよく分からないうちに子供4人に囲まれて、和気藹々とお喋りが始まる。

 二ムを除く三人は横島の周りをうろちょろしながら楽しそうにして、ニムはちょっと離れた所からぐちぐちと文句を言いながらも適度に話の輪に加わってくる。

 

 しばらく楽しくお喋りをしていたが、ふいに話題が途切れて少し場がしんとなる。

 横島は意を決して、触れていなかった部分を切り出すことにした。

 

「なあ、エニの事なんだけど……」

 

 横島がそう切り出すと、四人ははっとした顔になって互いに目配せした。

 

「うんとね、ネリーは、あまりエニの事知らないんだ」

 

「へっ?」

 

「たくさん遊んだ事はあるけど、あんまり遊ばなかったから……あれ、言ってること可笑しいね?」

 

「そ……っか」

 

 なんとなくだが、横島にはネリーの言いたいことが分かった。

 エニは生まれてから死ぬまでのほんの数ヶ月だったが、その全ての時間を『天秤』の為に使っていたのだろう。

 本気は『天秤』だけで、ネリー達との付き合いは遊びだったのだ。

 

「ネリー達は大丈夫だから……元気だから。だからね、ヨコシマ様はあまり頑張らなくていいよ!」

 

 ネリーの双眸が強く輝やいて横島を見つめる。

 瞳の奥に強い意志が見えていた。先ほどの悠人の目に似ている。いや、それ以上の輝きだ。

 

「うん、シアー達に任せてほしいの」

 

「私は小さくて弱いですけど、でもがんばります……ほら、ニムも!」

 

 とんと背をヘリオンに背を押されて、ニムントールがおずおずと出て来た。

 

「……面倒だけど、ニムもがんばる。だから……」

 

 その先の言葉は出てこなかった。ニムントールはぷいっとそっぽを向く。

 『あまりむりするな』

 口は開かなかったが、言いたいことは十分に伝わってきた。

 

「よっしゃ! ネリー隊員と以下3名! 奮闘を期待する!!」

 

「おー!」

「うん!」

「はい!」

「……ん」

 

 子供たちは力強く返事をすると、頷き合いながら離れていった。

 

 太陽が真上に来た。

 食事の回数・時間は異世界でも変わりない。

 お楽しみなお昼の食事タイム。元の世界で、チョコをおかずにご飯を食べようとしていた横島からすれば、この世界の飯はどれもこれも極上のフルコースと言っても過言ではない。

 

 もっとも、行軍中でなければの話だが。

 

「……はあっ、今日もこれか」

 

 緑色のビスケットのような物を口に入れると、苦味と青臭さが舌いっぱいに広がって、横島は顔を顰める。

 強行軍で美食を求めるのは不可能というのは分かっているが、もう少しどうにか出来ない物なのか。

 

「ヨコシマ様」

 

 そんな風に思っていると、今度は後ろから呼びかけられて振り返る。

 そこにいたのは、いつも通り無表情のナナルゥだった。

 手には白濁色で満たされたマグカップを持っていて、湯気がもくもくと立ち上っている。

 

「どうぞ」

 

 マグカップを横島に差し出す。

 飲めと言われているのは分かるが、いきなりどうしたのだろう。

 ナナルゥの行動はいつも独特で唐突だ。本人的には理屈と規則性に乗っ取って行動しているようだが、肝心の理屈と規則性が他者には理解不能なので、予想というものが極めて難しい。

 

「ヒミカに作ってもらった乳とパンのスープです。

 温かいので、体温が上がります。栄養を摂取することで元気になります。美味しいです」

 

 疑問が顔に表れていたのだろう。ナナルゥはテキパキと説明した。

 

「ん? 乳とパンのスープって」

 

 あれ、と横島は頭を捻った。

 行軍の食事は基本的に腐りにくい乾燥物が中心だ。湯を使わなくても食える固形型で、味よりも栄養が第一である。

 当然、乳を出すクーヨネルキなど連れている訳も無く、腐りやすい乳を保存する方法も無い。

 ヒミカは一体どこから乳を持ってきたのだろう。

 ちょっと考えて、ピンと来た。

 

「ヒミカの乳?」

 

「乳です」

 

「おぱーい?」

 

「はい。乳房から搾り取った出来立てです」

 

「ゴチになります!!」

 

 カップに並々と注がれたヒミカのおっぱいを、横島が口に含む、 

 

「そんなわけないでしょーが!!」

 

 直前で顔を真っ赤にしたヒミカが怒鳴り込んできた。

 怒りと恥ずかしさからか、赤くなっているヒミカに、横島は自然とニヤニヤしてしまう。

 

「いや、そんなわけあるぞ! こんな所におっぱいがあるわけがない。ならば、どこから捻り出てきたか……これはもう、ヒミカしかいないだろ!」

 

「何で、どうして私になるんですか!?

 それと、恥ずかしいからおっ……、なんて連呼しないでください!

 これはクーヨネルキの乳の成分を抽出して粉末状にしたもので、保存性を高めたものです。試験的な物で、今回は一部を分けて貰ったのです。貴重な水を使ったんですから味わって飲んでください!

 大体、おっ、おっ……なんて出るわけがないでしょうがー!」

 

「へっ? 何が出るわけ無いって?」

 

「で、ですから……おっぱ……です!!」

 

「んん~聞こえんな~」

「ええ、聞こえません」

 

 横島はニヤニヤしながら、ナナルゥは平静に、ヒミカを追い詰める。

 

「ああもう、知りません!」

 

 肩を怒らせて、ヒミカが離れる。

 相変わらずヒミカは可愛かった。

 真面目でからかいやすいヒミカを相手にすると、横島もつい調子に乗ってしまう。

 セクハラの回数が一番多いのもヒミカであると考えると、横島が一番親しみを感じているのはヒミカなのかもしれない。

 ヒミカ本人は甚だ不本意であろうが。

 

 それにしても、ナナルゥも変わったもんだ、と横島は内心驚く。

 まさか自分と一緒にヒミカをからかうとは思ってても見なかった。

 

「残念です。後でおっぱいを飲ませて貰おうと思っていたのですが……」

 

「からかっていたんじゃなくて、本気だったんかい!」

 

 天然物のボケに横島は戦慄する。

 自分も暴走気味なボケはするが、自分のはエロが絡まなければ養殖物である。天然は破壊力が違う。

 ナナルゥの為にも突っ込みを練習しなければ、と漫才の相方のような思考をする横島。

 横島を手玉に取れるのはハリオンか、ナナルゥぐらいだろう。

 

「それはそうと、おっぱいが温かい間に飲んだほうが美味しいと考えます」

 

「そだな」

 

 促されて乳とパンのスープを口に運ぶ。

 

「うまい」

 

 さっと口から言葉が出る。

 味そのものは通常の乳よりも劣るだろう。しかし、暖かい。

 温かいではなく、暖かいのだ。固いパンも、汁を吸って美味しくなっている。

 

「やっぱり第二詰め所の隊長になって良かったなあ」

 

 しみじみと思う。きっと自分以上にスピリット達を満喫している隊長はいないだろうと、彼は本気で思った。

 頬を綻ばす横島を、ナナルゥはじっと見つめる。

 そして、何かを思い出したように手をポンと打った。

 

「ヨコシマ様、よろしければ、少し私にもスープを頂けませんか?」

 

「おっ、いいぞ。ふっふっふっ、間接キスだな」

 

 カップを渡しながら、そんな事を言う横島。

 ナナルゥもヒミカみたいにからかって可愛い顔を見てやる、と横島は邪笑する。

 

「……間接キス」

 

 横島に言われて、ナナルゥは目を少し丸くして手を止めた。

 

 これはからかい成功か!

 

 しかし、ナナルゥをからかうというのは、己の雇用主に赤い羽根募金をさせるより難しかった。

 

「では、始めます」

 

 ナナルゥはそう言ってカップを地面に置くと、自分の鼻と口を手で塞いだ。

 唖然とする横島。そのまま一分が経過したところで、ようやく横島が気を取り戻す。

 

「ちょっ、何で息を止めとるんじゃあー!!」

 

「あう」

 

 ナナルゥの脳天に横島のチョップが突き刺さる。

 少し不機嫌な感じで、ナナルゥは息止めを解除した。

 

「痛いです、どうしたのですか?」

 

「それはこっちの台詞だ! どうしてスープ飲むのに息を止める必要がある!?」

 

「書物には、女性が間接キスをする場合は大抵頬を紅潮させていました。しかし、私は自由に血流を増加する術を未だに体得していません。よって、私は息を止める事の苦しさで頬を赤くしようと思ったのですが」

 

 何がいけなかったのでしょう。

 ナナルゥは首を傾げる。横島はもうどこから間違っていると説明すればいいのか分からなかった。

 

「もう分かったから、とっととスープ飲まんかい!!」

 

「いえ、別に飲むためにスープが必要なわけではありません」

 

 は?

 じゃあ、いったい何のために。

 

 頭を捻る横島の前で、ナナルゥは驚くべき行動を取った。

 なんと、スープを顔と髪に垂らしたのである。

 燃えるような赤い髪が、白い肌が、白濁液に汚されていく。

 

「白濁ナナルゥです」

 

 スパーン!

 

 横島の手に輝くサイキックハリセンがナナルゥの頭を強く打った。音は凄いが、しかし痛くはないという本家そのものの出来である。

 この男、ナナルゥの為に新しい霊能技を編み出したらしい。

 

「痛く……はなかったです。いきなりどうしたのですか?」

 

「それはこっちの台詞じゃあ~! いきなりなにしてんねん!?」

 

「はい。ヨコシマ様を元気ビンビンにしようと。書物では白いドロドロの女性が大人気で」

 

「元気になるか~!? いや、確かに一部分はビンビンになるけどさ! つーか間接キスじゃないだろーが!!」

 

「では、関節頭でしょうか?」

 

「関節頭ってなんじゃい!? 何か頭が曲がりそうで怖いわぁー!」

 

「可笑しいです、笑顔になりません。ぶっかけ具合が足りませんでしたか?」

 

「ぶっかけ言うな! 頼むから外見がクールビューティーであることを自覚してくれ!!」

 

 燃えるような赤い髪に白濁液が垂らされるのは確かに興奮するのだが、エロス以上に天然ボケを多量に含んでいて思わずツッコミが先にきてしまう。

 横島の突っ込みを受け、ナナルゥは手を顎に当てて「ふむ」と何かを納得したような顔になる。

 

「なるほど、では外見が大人ではなく子供なら問題なし、というわけですね。分かりました」

 

「分かってねえ!」

 

「では早速」

 

「頼む! 話を聞いて!」

 

「レッド・スネーク……もとい、ブルースピリット、カモン……です」

 

「一文字しか共通点がねえ! ネタが古すぎる!」

 

 横島の声は、もはや突っ込みという悲鳴に近い。

 何だか面白そうだ、と騒ぎを聞きつけたネリー達がナナルゥの前に集まる。

 

「ドピュドピュ」

 

 ナナルゥは口でそんな妖しい擬音を唱えながら、ネリー達に白濁液をぶっ掛けた。

 

「美人がそんな言葉を口にしちゃいや~!!」

 

 遂に横島の目からは涙が零れ落ちる。

 物凄い美人の数々の奇行が横島の煩悩を縮こまらせていた。

 ナナルゥを恥ずかしがらせてからかう事が出来る日は来るのだろうか。

 

「白濁ネリーだよ!」

 

「白濁シアーなの……おいしいの」

 

「白濁へリオンです……どうしてこれで元気になるのかな?」

 

「白濁ニム……ううっ、ベトベトする」

 

 乳白色の液体がネリー達に降りかかった。

 顔に粘ついている白濁液を舐めて「ん、美味しい」と呟く子供たちは横島でもドキリと来るものがある、

 

 訳がない。

 

「突っ込みが、突っ込みが足りねえー! ヒミカー! 早く来てくれー!!」

 

 ボケ軍に圧倒されて、ツッコミ軍は壊滅寸前。

 横島は援軍を要請する。

 だが援軍も伏兵に襲われていた。

 

「ヒミカ~私もおっぱいが欲しいです~」

 

 たゆんたゆんとおっぱいを揺らしてくるハリオン。

 ヒミカも、色々と限界でした。

 

「私の方が欲しいわー!! アネたんなら私も結構おっぱいあるのに~!」

 

「ヒミカが~ヒミカがご乱心ですぅ~!」

 

 突っ込み役は大変だね、というお話。

 

 馬鹿騒ぎだった。

 いつも騒ぎを鎮めるセリアも、関わって弄られるのを恐れてか遠巻きに眺めているだけ。

 物見として周辺を警戒していたファーレーンが一番気疲れしないという現状がここにあった。

 しかし、スピリット達はふざけているとしか思えない姿にも関わらず、気を抜いている者はいない。全身に緊張感を纏わり付かせている。

 

 全員が横島をちらちらと見つめていた。

 彼女らの瞳は、誰もが等しく同じ輝きに満ちている。

 

 その輝きにどういう意味があるのか、何故誰も泣かないのか、横島は何となく気付いていた。

 

 その夜は小雨が降っていた。

 寝つきは良い横島だが、どうも今日は寝苦しく、テントで何度も寝返りを打つ。

 ラキオスの気候は常春で雨が冷たいと感じる事は無かったが、イースペリアは寒暖の差が激しいようで昼は暑く、夜は寒いようだ。

 

「駄目だ、眠れん」

 

 いつもなら息子と右手がランデブー&ハッスルすることによって適度な疲れを得ることが出来るのだが、流石にエニの事件があった昨日今日でそれをする気分にはならない。

 ちょっと外の空気でも吸おうかと、テントの幔幕を上げる。

 

「あっ」

 

「あっ」

 

 そこには、セリアの顔があった。

 髪がしっとりと濡れていて、ポニーテイルは力無く垂れ下がっている。

 どうやらしばらくテント前で気配を殺していたらしい。

 

「まさか、夜這い――――」

 

「貴方の見張りです。また、散歩と称して一人で出歩かれたらたまりませんから」

 

 横島の妄言を、冷たく、辛らつな声でセリアが潰す。

 その言葉に嘘は無さそうだった。だが、横島はそれだけではないと気付いていた。

 冷たい言葉の裏に潜む、気遣いと情。素直ではない優しさ。

 セリアは、不器用なのだ。

 

「まあ、こんな所で立ち話もなんだし、どうぞどうぞ」

 

 テント内においでおいで、と横島は手招きする。

 その表情は煩悩全開のエロい笑みで満ちていた。

 セリアは溜息を一つして、しかし躊躇せずにテントの中に入る。

 

「ぬおお~こんな狭いテントに女と二人きり……遂に伝家の宝刀をヌクときか!?」

 

 狭いテントに二人きり。あるのは、一つの毛布。

 いつ間違いが起きても可笑しくないシチュエーションに、横島の鼻息も荒い。

 女性なら身の危険を感じるだろうが、セリアは不思議そうに横島を見ていた。

 

「……どうして、貴方はいつも通りなの? 本当に無理していないの?」

 

「へっ? 何がっすか?」

 

「皆、不思議がっています。貴方の様子が、私たちの考えよりも……その」

 

「……元気そうか?」

 

 問われて、セリアは少し困った顔になったが、小さくうなずいた。

 仲間を、殺す。

 それがどれほどの苦悩だったのか、セリアには想像もつかないし、つきたくもない。

 戦士として命を奪う覚悟は持つべきだと思っているが、まさか仲間を殺して苦しむなと言えるわけがなく、辛かったでしょうね、などと慰める事もできなかった。

 心にダメージを負ったのは疑いようも無く、最悪な精神状態で神剣を振るわせる事などできはしない。

 今回の戦いは横島を抜きで行うこともセリア達は視野に入れていた。

 しかし、考えていたよりも横島が元気そうなのだ。

 

「貴方はそんなに強くないと思っていました」

 

 セリアは思い出す。

 以前、横島がスピリットを殺したときに大泣きした事を。

 敵を殺したときでさえ泣いたのだ。まさか仲間を殺して平気なわけが無い。

 

「ん~強い理由は、セリア達と同じ理由だな」

 

「えっ?」

 

「一番泣きたいやつが泣いてないからなあ……そいつのこと頼まれてるし」

 

 夜気に呑まれていくような小さな声で呟いて、苦笑めいたものを浮かべながら『天秤』を見つめる横島の姿に、そういう事だったのかとセリアは納得した。

 横島とセリア達は同じ思い、同じ考えでいたのだ。

 

 セリア達は横島がとても辛く悲しい思いをしているだろうから、自分達が支えねば、と悲しい気持ちを抑えて前を向いている。

 横島は『天秤』が一番寂しく辛い思いをしていて、エニのマナを無理やり食わせたという負い目もあるから、自分がしっかりしなければと考えている。

 悲しくないわけじゃない。ただ、自分よりも悲しい思いをしている人がいるから、強く心を持っていられた。災害で恐怖を感じても、身近にパニックを引き起こした者が出ると冷静になれるという感覚に似ている。

 

 そんな横島の思いを知って、沈黙を続けていた『天秤』は腹の中で吼えた。

 

 ――――ふざけるな! エニが何のために死んだのか、分かっているのか!?

 

 エニの生まれたわけ、死んだわけ。

 それは、横島の心の傷を広げるため。

 自分の無力を思い知らせて、神剣への依存度を高めるため。

 

 『天秤』は、そう上司に説明を受けた。

 それが横島を自分達の属する組織に引き入れる為の道しるべにとなるのだと。

 その為だけにエニは生まれたのだ。横島を苦しめる事がエニの存在理由であり、殺した理由。 

 

 横島がエニの死を嘆かず、絶望せず、より強く生きていこう決心させたのなら、エニは何のために死んだのか。

 エニの死は、命は、まったくの無駄だったというのか!!

 そして、気持ちを強く持っていられる理由が自分の為――――エニを見捨て、嵌めて、殺した『天秤』自身。

 

 エニの死は無為で無駄で無意味無価値で、ただの犬死。

 無駄になった理由は自分で『天秤』で神剣で、エニを殺したのは自分でエニの生すら意味を失くしたのはやはり自分で。

 

『アア嗚呼ァ亜阿アぁ阿アアア!!』

 

 『天秤』は咆哮した。

 『天秤』は絶叫した。

 『天秤』は―――――我を失った。

 

 『天秤』の怒りと悔しさと悲しみがごちゃ混ぜになり、無秩序な塊となって横島の心になだれ込む。

 咄嗟に心を守ろうとした横島だったが、『天秤』の力は圧倒的だった。それはさながら暴徒と化した大量の市民が群れを成して突撃するような、そういった怒涛の狂乱ぶりである。

 

「あっう……おあ―――――」

 

 あっさりと横島の心は飲まれる。何が何だか分からないまま、彼の意識は途絶えた。横島の肉体の支配権は『天秤』に移る。

 それは一瞬の事で、セリアは横島が消え去ったことに気づかない。

 

「エニは幸せだったと思います。私がエニなら、笑ってマナの霧に帰れたでしょう」

 

「黙れえええ!! スピリット如きが!!」

 

 横島の肉体を奪って、自由に動けるようになった『天秤』は吼え、駆け、セリアを押し倒す。

 咄嗟の事でセリアは反抗することすらできない。

 

「い、いきなり何を!!」

 

「黙れ! 喋るな!! 所詮スピリットなど、リュトリアムコピーのコピー! 粗悪な模造品! 大量生産の木偶!! ただの人形に過ぎない分際で……どうして!!」

 

 横島の口から吐き出された言葉の羅列は、セリアには意味不明であった。

 何を言っているのか、何が言いたいのか。

 どうして自分は押し倒されているのか、これからどうなるのか。

 『天秤』自身すら良く分からないのだから、事情を知らないセリアに分かるわけも無い。

 だが、

 

「何が、そんなに悲しいの?」

 

 横島(天秤)を見て、セリアは自然と口が動いてしまう。

 鬼のような形相の横島(天秤)だったが、セリアには泣いている子供に見えた。

 

 『耳が痛い』という格言がある。意味は、自覚している弱みを付かれる事だ。

 人を怒らせる行為とはいくらでもあるが、これはその中でも最たるものの一つ。

 『天秤』は絶句し、反論する事すらできず、心の傷に塩を塗りこまれる。

 

 口で負け、心が折れた。

 精神が敗北したものが行き着く先は多々あるが、『天秤』は非常に分かりやすい方向に向かうこととなる。

 つまり、

 

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れだまれだまれだまれだまれだまれだまれーー!!」

 

 かんしゃくと、

 

「その口を塞いでくれる!」

 

 暴力である。

 手に霊力を集中させて、ナイフのように小さい霊波刀を作る。

 それを、セリアの胸元に突きつけると、一気に下に振り下ろした。

 

 ビリビリビリ!

 鋼鉄の鎧よりも丈夫というだけあって、エーテル服は霊波刀に抵抗したが、それでも無残に引き裂かれた。

 下着も一緒に引き裂かれて、上半身があらわになる。

 

「いやあ!」

 

 曝け出された胸を隠そうとセリアは身じろぎするが、横島(天秤)に圧し掛かられて身動きが取れない。

 

「どいて……どいてって言ってるでしょ!」

 

 覆いかぶさっている横島を押しのけようとするセリアだが、純粋な力では横島に敵うわけも無い。

 その目には、怒りや恥ずかしさからか涙が浮かんでいる。

 暗い喜びが『天秤』に訪れた。薄汚れた行為をしているという認識が、彼に安楽のようなものをもたらす。

 

「ふん、想像通りの肌だな」

 

「な、何を!!」

 

「お前の事は何度となく頭の中で犯したからな(横島が)。辱めた回数は、第二詰め所の中では2番目だぞ」

 

 厚顔に、嫌らしく、横島(天秤)は言った。

 セリアはもう何も言わずに、目を逸らして辱めに耐えた。

 鼻を鳴らして、横島(天秤)はさらなる屈辱をセリアに与えんと、彼女の胸に無遠慮に手を伸ばして、二つの膨らみを握るように掴んだ。気が荒れているから、優しくしようなんて全く考えない。

 爪がセリアの胸に食い込む。堪らず、セリアは悲鳴を上げた。

 

「痛……痛い!」

 

「何? 痛い……痛いだと!? この程度のことでか!!」

 

 せりアの白磁のように白い胸には爪の痕がくっきりと残っていて、血も僅かに滲んでいる。

 事実、相当痛いだろう。しかし、『天秤』にはそれが嘘に思えた。甘えているとしか思えなかった。

 

 エニがどういう目に合わされたか。その一部を『天秤』は知っている。

 エニよりも何年も長く戦士として生きてきたセリアが、たったこれだけの傷で痛がることが酷く浅ましく見えた。

 ただこれだけの事で泣き叫ぶのなら、エニの苦しみはどれほどのものだったのか。

 

「ふざけおって……エニはもっと苦しかったのだぞ! どうしてエニが……エニばかり……くっ!」

 

 怒りと不満で胸が爆発しそうになる。

 感情が高まりすぎて、口からは泡を、目からは涙すら滲んできていた。

 

「貴方は……そう……そうなの」

 

 セリアは、哀れみの目で横島(天秤)を見た。

 

 組み伏せられ、暴虐を受けている弱者が強者である自分を哀れんでいる。

 それが分かった横島(天秤)は激昂して、遂に本気で拳を振るった。拳で容赦無く腹を殴り、顔を殴る。

 頭を強く殴られて、セリアは意識を失った。

 

「はあっ、はあっ……くそ、気を失ったか!」

 

 興ざめだ。

 ありとあらゆる屈辱を与えて苦しめてやろうと思っていたのに。

 この際、気を失っていても関係ないか。

 

 苦しめたい。貶めたい。

 スピリットに価値など存在しないと示したい。

 エニなんてただのマナの塊で過ぎないと証明したい。

 

 そうでなければ――――そうでなければ自分は。

 

 横島(天秤)の眼は、追い詰められた獣のように余裕が無かった。理由の分からない恐怖すらあった。

 それでも彼は今は捕食者の立場なのだ。手がセリアの裸身に伸びていって――――

 

「失礼します~」

 

 その時、後ろから間延びした声が聞こえた。

 

「二人とも~焼き菓子はいりませんか……あら~」

 

 テントに入ってきたのはハリオンだった。

 半裸のセリアに手を伸ばす横島(天秤)の姿を見て、目をぱちくりさせている。

 

「くっくっくっ、見てしまったか」

 

 横島(天秤)が妙に偉そうに言って邪笑を浮かべる。

 邪魔をされたが、これはこれで悪くない。

 この、いつも惚けたスピリットを苦しませてみたい。怒らせてみたい。憎ませてみたい。

 自分にも分からない不思議な感情が満ちてくる。

 

「今夜はお楽しみですか~」

 

 ガツン。

 想像外の反応に、横島(天秤)はテントを支える柱に頭をぶつけた。

 何故、そういう結論に至るのだろうか。

 やはり惚けたスピリットだ。

 

「くっくっくっ、そんな訳がないだろう。今から、このスピリットに乱暴するのだ」

 

「乱暴って……っ!」

 

 ハリオンの顔色が変わる。

 その顔が見たかった『天秤』は満足して――――

 

「濡らさないで、合体しちゃうんですか~! ダメです~とっても痛いって話ですよ~!!」

 

 ガツン。ガツン。

 

 柱に二度、頭をぶつける横島(天秤)。

 これはそういう問題なのだろうか。

 確かにそれはそれで問題なような気がするが、しかし何か問題点がずれているような気がする。

 

 混乱状態に陥る横島(天秤)だが、何とか精神を立て直す。

 

「そういう問題ではない。私はセリアの了解を得ずに性行為に及ぼうとしているのだ! これがどれだけ悪いことか、分からんか!!」

 

「そ、そんなぁ~」

 

 ようやくハリオンは理解したようだ。

 いつもの暢気な笑みが、寂しく苦しそうな泣き顔になる。

 だが、すぐにキッと目つきを鋭くしてハリオンは横島(天秤)を睨んだ。

 

 ああ、良かった。これで、自分を憎んでくれる。罵ってくれる。

 

 『天秤』はその事実に不思議な安堵を得たのだが――――――

 

「エッチな事をするなら、私にって言ったじゃないですか~!!」

 

 ガツン! ガツン! ガツン! ピシッ!!

 

 頭を三度打ち付け、柱にひびが入る。

 

 やはりハリオンは色々な意味で並のスピリットではないようだ。

 だが、このままズルズルとギャグ空間に流されてしまうほど、『天秤』の心の闇は浅くはなかった。

 咳払いを二度三度して、空気をシリアスに引き戻す。

 

「ふん、馬鹿なことを言う。それはこの事態に至らないようにするための行為だろう。性欲を解消すれば、神剣に取り込まれにくくなるからな。だが、飲み込まれてしまえば意味がないぞ。

 こうなった場合の対処方法を、貴様はレスティーナから聞いているはずだ。

 もし、横島が神剣に飲まれラキオスに害を与える存在となったら、貴様が後ろから横島を刺し殺す。そういう取り決めなのだろう。どうした、掛かってこないのか」

 

 ハリオンは息を呑んだ。

 それは、正に機密といって良いことだから。

 レスティーナは横島を信頼している。だが、『天秤』まで信頼しているわけではないし、余りにも強すぎる横島を無条件に野放しするのは立場上できなかった。

 家臣達への示しもある。誰かに、横島の生贄になってもらい、最悪の場合は殺害すら頼む。

 ハリオンは、生贄に選ばれたのだ。

 

 下向いて、肩を震わせるハリオン。

 スピリットは命令には逆らえない。

 

 『天秤』は本体である神剣自身を構えて、ハリオンの攻撃に備える。

 ハリオンは下を向いてぷるぷると震えていたが、遂に意を決したようでかっと目を大きく見開いて横島(天秤)に向き直り、

 

「ふええええ~ん! 出来るわけがないです~!!」

 

 さらに泣いた!

 

「おい! 嫌とはどういう意味だ!!」

 

「だってだって~『天秤』さんを殺しちゃうなんて嫌ですよ~!!」

 

「貴様はスピリットだろう。スピリットは命令に従う……ただの人ぎょ――――」

 

「嫌なものはいやですぅ~!!!!」

 

 ギャグキャラのように滝の涙を流しながら、ハリオンは横島(天秤)の胸に飛び込んで、また泣き始める。

 『天秤』は胸の中で泣くハリオンをどうしたらいいのか、途方に暮れてしまった。

 

 泣かしてしまった。

 泣かせるつもりは無かった。ただ、ただ自分の事を恐怖して憎んでくれれば良かったのに、どうして泣くのだ。あと鼻水をつけるな。

 

 ハリオンの温かさを胸に感じた『天秤』は、実はとても混乱していた。

 泣く子と地頭には勝てぬ、という格言の通り、どういう言葉を駆使してもハリオンは泣き止まないのだ。

 困り果てた『天秤』は、一つの行動に出た。それは、子供をあやす様によしよしと頭を撫でる事だ。

 ハリオンの頭を撫でる。すると、少しずつハリオンの泣き声は消えていった。

 

 私は何をやっているのだろう。

 一体、自分は何を求めているのだろう。

 

 泣いているハリオンを慰めながら、燃え盛っていた心が急速に冷えていくのを感じていた。

 自分の行動が、矛盾に満ちていると今更理解が始まる。

 

 どうして自分はセリアに乱暴をしようとしたか。

 それは、スピリットという存在を貶したかったからだ。

 じゃあ、どうしてスピリットを貶したかったか。

 それは、エニの価値を貶めたかったからだ。

 じゃあ、どうしてエニの価値を貶したかったか。

 それは――――――

 

「もうよい、私は眠る」

 

 考えを放棄する。浮かびそうになった答えは、認めてはいけないものだったから。

 

「ええ~もう行っちゃうんですか~。もう少しお喋りしましょうよ~。お菓子もありますよ~」

 

 まん丸の目からはまだ涙が流れていたが、それでも笑顔を作るハリオン。

 やはりよく分からない感情が胸の内に起こって、目を逸らしてしまう。

 

「断る。お前と話していると疲れるのだ」

 

「またまた~ヒミカみたいなこと言って~」

 

 ニコニコとハリオンは冗談だと思ってか笑う。どうやらすっかり落ち着いたらしい。

 流石に、もう何も答えなかった。

 

「……寝るぞ」

 

「ちょっと待ってください~最後に聞きたいことがあったんですけど~」

 

「……なんだ?」

 

「セリアさんが夜のお供第2位なら~第1位はだれなんでしょ~」

 

 ガクッと横島(天秤)が肩を落とした。

 ここで聞くべきことがそんなことなのか。

 というか、最初から聞いていたのか。

 

「後で横島自身に聞け!」

 

 やけくそ気味に『天秤』は吐き捨てる。

 能天気すぎるハリオンに怒りはあったが、しかしどす黒い怒りはどこかへ飛んでいってしまった。

 冷静になると、自分がやってしまった事の愚かさに頭なんて無いのに頭が痛くなる。これは、計画に支障をきたしかねない問題に発展する可能性がある。

 そして、心もまた痛くなった。

 横島(天秤)は半裸で倒れたままのセリアに目を向けると、

 

「……まなかった」

 

 蚊の鳴くような声で言って、彼は自分自身(天秤)を外の泥池の中に投げ出した。これも一つの自傷行為だろうか。

 『天秤』の支配から逃れた横島の肉体がその場で倒れこむ。

 ハリオンは横島よりもセリアよりも一番に泥まみれになった『天秤』を拾うと、タオルでごしごしと汚れを落とし始めた。

 

「本当に……どうしてこうなっちゃうんでしょう~」

 

 図らずもセリアを裏切ってしまった横島。

 泥まみれになって汚く薄汚れ、何が苦しいのか理解も出来ない幼き神剣『天秤』

 不器用な優しさを無残な形で破られ、あられもない姿で気絶したまま涙するセリア。

 

 世界が不条理に満ちている事ぐらい、のんびりのん気なハリオンだって知っている。だが、それでもあんまりだった。

 誰もが努力して良い方向に向かおうとしている。それなのに、悪いことが起きてしまう。もう少しぐらい報われてもいいはずだ。

 

「あんまり皆さんを苛めたら、お姉さんが怒りますからね~」

 

 月明かりさえ無い闇に向かって、相変わらず怒ってないような声で怒るハリオン。

 返事は、当然返ってこなかった。

 

 悲しい事。辛い事。

 ぞれに負けないように足掻く者達。

 それすら押しつぶそうとする悪意。

 

 そんな各人の思いなど関係無く世界は回る。朝日は昇る。

 

 横島にはちゃんと記憶が残っていた。

 自分が――――自分の体を乗っ取った『天秤』がセリアに何をしたのかを。

 優しさを最悪の形で裏切るという、許されざる行為。

 

 だが横島は『天秤』を罵る事も蔑む事もなく、またセリアに事情を説明しなかった。

 厳しい表情で何かを考え込み、ときおり溜息をつき、そして最後に呆れたように空を仰ぎ見る。

 彼の表情には怒りや悲しみなどはない。ただ困っているようだった。

 

 一番傷ついたであろうセリアも、表面上は何事も無かったように振舞っている。横島から受けた暴虐の事も誰にも言っていない。なるべく横島に会わないよう触れないようにするだけで、怒ったり悲しんだりする様子は見られなかった。

 横島と同じく、セリアも困った表情で溜息をつくだけだった。

 

 『天秤』も似たようなものだ。彼は何も言わなくなり、ただ無言となっている。

 

 ハリオンはいつも通りニコニコしていたが、どこかいつものニコニコとは違かった。

 そんな彼らの様子にネリー達はどこか違和感を感じていたが、とにかく頑張ろうとやる気だけは一杯だった。

 

 何だか微妙な雰囲気のまま、イースペリア攻略戦が始まろうとしていた。

 城塞都市であるイースペリアから少し離れた所で、最後の打ち合わせが始まる。

 

「再度、私たちの目的を確認します」

 

 エスペリアが作戦の説明を開始する。

 メイド兼参謀兼戦士という相変わらずの万能ぶりだ。

 

「私達の目的はエーテル変換施設の封鎖です。施設の破壊では無く、長時間使用不可にします。

 施設の場所は分かっているので、そこに向かうまでの妨害をどうするかが重要になります。

 地の利は敵にあります。今までイースペリアの妨害が無いのは、主力がサルドバルトに行っているだけでなく、自分たちに有利な懐で戦おうという考えに違いありません。

 決して油断しないよう」

 

 現代で言えば原子力発電所の様なもので、この世界の技術の、戦力の、あらゆる全ての根幹だ。

 マナをエーテルに変換できるからこそ、エーテル機器を動かすことが出来る。スピリットを強化することが出来る。

 ここさえ押さえることができれば、敵は戦力を強化することができず、勝負が決まると言ってよい。

 

「では、ユート様。号令を」

 

「ああ」

 

 隊長らしく、決めは悠人だ。

 

「みんな」

 

 一拍おいて、悠人は横島をちらと見たが、すぐに全員に向き直り、

 

「絶対……死ぬな!!」

 

「おお! 当然だ」

 

「お、おおー!」

 

 横島が一番に答えて、周りは少し遅れて追随する。

 イースペリア攻防戦が始まった、

 

 のだが。

 

「……どうにも様子が可笑しいな」

 

 城壁を飛び越えて、しばらく進んだところで悠人が呟く。

 予想と違い、迎撃がまったく来ない。無人の、道なき道を行く悠人達。

 サルドバルトに全てのスピリットを連れて行ったと考えれば理屈は通るが、それは理屈を通すための暴論だ。

 まさか全スピリットを持っていくわけが無い。予備兵力はあるに決まっているはず――――なのだが、やはりこない。

 

 可笑しさはそれだけではない。この国の気配自体が可笑しいのだ。

 

 悠人も戦いに身をおくようになって、殺気や闘気などの、女性方面を抜かしてだが空気を読む技術が発達してきている。人間達が直接殺しあうことは無くても、空気が高揚するぐらいにはなるものだ。

 イースペリア首都、町、国。それ自体がどうも甘ったるく、牧歌的な空気が国全体を包んでいた。

 これが本当に同盟を裏切ってサルドバルトに電撃戦を仕掛けた空気なのだろうか。

 

「ネリー! 空中に飛んで周囲の様子を見てくれ。レッドスピリットの狙撃には注意だぞ!」

 

「うん!」

 

 悠人の指示でネリーが飛び上がる。

 すると、すぐにネリーは血相を変えて悠人の所まで戻ってきた。

 

「人がいるの!」

 

「人間の兵士か? それとも人の避難がまだ済んでいないのか?」

 

「そうじゃなくて、町で普通に人間達が生活しているんだよ!」

 

「んなっ!?」

 

 アホな。思わず関西弁になってしまうほど横島は驚いた。悠人も絶句する。周りのスピリットも声を無くす。

 スピリットが人間に手出しできないとはいえ、戦いに巻き込まれる可能性は大いにある。

 バーンライトとの戦いに時には、街中で戦闘になり多くの建物が破壊されたが、事前に避難が完了していて人的被害は一切出なかった。

 

 まさか、自分達が来ているのに気づいていないのか。

 それはありえない。神剣反応がある限り、気づかないわけがないのだ。

 だとすると、他に考えられる事は――――――

 

「人間を盾にしてるのか?」

 

「そんな事はありえません!」

 

 悠人の呟きにエスペリアが強く否定した。

 人間の盾となり矛となり戦い続けるのがスピリット。エスペリアは特にそれを意識している。人が傷つき倒れるなどあり得ない。

 

 だが、この世界の人間では無い悠人と横島にとって、それは不思議ではないようなものだと思われた。

 スピリットは人間を殺せない。では、もし人間の軍団が国を攻めたらどうなるのだろう。

 スピリットが人間に手出しできないのなら、彼女達は手も足も出ない。戦力にはまったくならないのである。

 

 これは当然の疑問だった。

 しかし、その疑問を抱かないのがこの世界の人間とスピリットの常識だ。

 不思議な世界だった。

 

「とにかく、私達が考えることはエーテル変換装置を封鎖することです。それ以外は考える必要ありません。幸い、施設は機密保持の為に町から離れています。そこが戦場になろうとも、広域神剣魔法を使わない限り人に被害は及ばないでしょう。

 恐らく、イースペリアも町で戦闘するようには考えていないのです」

 

 エスペリアの声に、悠人と横島を除くスピリット達は頷いた。彼女達も優秀な『兵士』だった。正しく『末端』の役割を果たすべく、下手に考える頭を凍らせる事ができるのである。

 もし悠人や横島が制止しても、彼女らはエーテル変換施設を封鎖するだろう。

 あくまでも悠人と横島は現場指揮官で、細かい戦術を担当するだけに過ぎないのだから。

 

 その事実を突きつけられ、悠人と横島は揃って溜息をついた。

 強制的にレールの上を走らされている。

 これは、悠人、横島の両名がこの世界に降り立ってずっと感じている事だった。

 断崖絶壁の崖の上にボロボロのレールが敷き詰められていて、自分達は危険極まりない列車の中で神に祈る哀れな子羊。途中下車をすれば奈落に真っ逆さまであるし、いつレールが壊れるやもしれず、無事終点までついたとしてもそこは地獄でした、などと言う笑えぬジョークの可能性もある。

 

 横島の脳裏に傍若無人で神も悪魔も人間も、世界の全てを敵に回すことが出来る上司の姿が思い浮かぶ。

 もし、あの人がいたならば運命だろうが何だろうが笑って破壊するだろう。

 まだ自分はあの人には遠く及んでいないと、横島は感じていた。

 

 それから悠人達は町から遠く離れて、塀と柵を何度も越えて、変換装置のある巨大な円柱の塔にたどり着いた。

 そう、たどり着いてしまった。ただの一度も襲撃を受けずに。エーテル変換装置があるという国最大の重要施設にして、国の要に。厳重な警戒施設があるのに、人っ子一人いないという意味不明な状況。イースペリアのスピリットと兵士達はどこへ言ったのだろうか。

 もう違和感があるなどと言うレベルでは無い。銀行の金庫を開けっ放しにして、警備員も監視カメラも無いのと同じである。

 

「なあ、エスペリア。これは――――」

 

「相手の意図はつかめませんが好都合です。早く施設を封鎖しましょう。施設に入るのは第一詰め所のスピリットとヨコシマ様だけで、それ以外は周辺で警戒を……それでよろしいですね、ユート様、ヨコシマ様」

 

 疑問を挙げようとする悠人の言葉を潰すエスペリア。ただ与えられた命だけをこなそうとしている。頭が良いエスペリアは、悠人よりも現状に不審を抱いているはずなのに。

 

 第二詰め所と第三詰め所のスピリットは施設周辺を警戒するというのは、最大の機密であるエーテル変換機器を可能な限り衆目に晒したくない、という事だろう。

 不満そうなネリー達を宥めつつ、第一詰め所の面々と横島が建物内に入る。

 そこにあったものは。

 

「……これは」

 

 目の前の装置の姿に横島と悠人は度肝を抜かれた。

 最重要機密のエーテル変換装置とは、巨大なクリスタルに突き刺さった全長10メートルはある巨大な神剣だった。巨大な円柱型の建物にあるというのも頷ける。

 神剣にはごてごてとした機械が取り付けられ、建物自体と繋がっていた。この塔それ自体が巨大なコンピュータなのだろう。

 その様相は神秘的というよりも禍々しく、醜悪と言った方が似合っていた。

 

「ほーこれがエーテル変換装置か。なんつーか……ぶっちゃけありえないな」

 

「俺達の世界風に言えばオーパーツみたいな感じか。まあ、俺と横島の世界は名前が同じなだけで異世界らしいけど」

 

 この世界の文明レベル。それが一体どれほどのものなのか。ここに至って中世レベルでは断じて無いだろう。

 見た目はそうでも、中身は別物だ。そもそも現代人である悠人と横島が、今までの生活で特に不満を感じたことが無いのである。

 恐ろしく高度な文明と、低レベルな文明が入り混じっている。

 悠人が今まで見てきたファンタジー世界の映画や小説ではこういう場合の説明に、科学の代わりに魔法が発達したために現実では考えられない不釣合いな文明が生まれたのだ、みたいに書いてあった。

 この世界は限りなく中世ファンタジー見える、だが、何か可笑しい。神剣があって、妖精が存在していて、魔法があっても、違う。大体、神剣魔法なんて民の生活になんら影響を及ぼさない。

 

 回復魔法は人間に効果は無い。赤の魔法は威力がありすぎて生活の役には立たない。青の魔法は氷だけを生むなんて出来ないし、黒の魔法など戦闘以外に役に立つわけが無い。

 

 ファンタジーの世界なのに、精巧な機械がこの世界を支えている。歪な幻想世界。

 このエーテル変換装置がこの世界の要なら、この装置こそが歪みの中心のように悠人には思えた。

 

「それで、これからどうすんだ。どうやって封鎖する?」

 

「はい。適切な作業後にマナ吸引装置部分を破壊します。私に、その為の手順書も渡されています」

 

「分かった。エスペリア、頼む。アセリアはエスペリアのすぐ側で護衛を。俺らは周囲を警戒するから」

 

「ん、分かった」

 

「では、これよりエーテル変換装置の停止措置に入ります」

 

 エスペリアが巨大な神剣に向かい、機器の操作を始める。戦闘、家事、その他の知識とエスペリアの万能っぷりは半端ではない。

 手順書を見ながらの作業とはいえ、手際がとても良い。どうやらある程度の知識は元からあったようである。

 一体この知識はどこで身につけたのか。やはり他のスピリットとは毛色が違う。

 俺はエスペリアの事を全然知らないんだなあ、と悠人は少し寂しく思った。

 

「……ねえ、パパ。この神剣ってすっごく大きいねえ」

 

 オルファは巨大な神剣を前に目をキラキラと輝かせている。

 不審渦巻く中で、子供の純粋さは一服の清涼剤に近い。悠人も自然と顔がほころんだ。

 

「そうだな」

 

「こんなおっきな神剣があるんだから、きっと持ってた人は巨人さんだったんだね!」

 

「はは、そうかもな」

 

「オルファも大きくなるよ! 夢の中でオルファはとっても大きくてバインバインだか……」

 

 勢い良く喋っていたオルファの口が急に閉じる。

 首を捻って何だか落ち着かない様子だ。

 

「どうした、オルファ」

 

「うん……なんだろ。なにか来てる?」

 

 良く分からない、と首を捻るオルファ。

 オルファには妙な勘が働く時がある、とエスペリアから聞かされた事がある悠人は、咄嗟に『求め』からさらに力を引き出す。

 

 それが、悠人の命を救った。

 力を多く引き出した瞬間に、天井が大きな音を立てて崩れ去った。

 神剣の力は感じなかったので、恐らく爆薬の類が仕掛けられていたのだろう。

 天井の破片と共に、それに隠れるように青い影が飛び出してきた。

 ブルースピリットだ。

 

 ブルースピリットは黒の翼をはためかせながら、一直線に悠人を狙ってきた。

 奇襲であったが、悠人はすばやく近くにいたオルファを背にして、周囲に障壁を展開する。

 全身の体重を掛けたブルースピリットの一撃は凄まじいものであったが、パワーだけなら悠人を超える者はいない。

 あっさりとブルースピリットの一撃を耐え切ると、障壁を拡大させて吹き飛ばす。

 

「くっ、まだ来るか!?」

 

 穴の開いた天井を通って、また一人のスピリットが降ってきて、地面に着地した。

 今度のスピリットは黒のレオタードで全身を覆っていて、下半身部分は黒のスカートのような物を着ている。

 髪の色は茶色に見えたが、良く見ると根元の方は銀色である。どうやら染めているようだ。

 背中には黒のウイングハイロゥ。持っている神剣は日本刀型であるからブラックスピリットだろう。

 今まで見た事が無い不思議な格好。だが、そんな奇抜なファッションなど、すぐに意識から吹き飛んだ。

 

 やばい!

 

 ブラックスピリットを一目見て、悠人は戦慄する。

 これは、尋常ではない。マナの内包量なら自分や横島のほうが遥かに上だろう。しかし、纏っている空気が違う。

 紛れもない強者。何気ない動きの一つ一つが、まるで名の在る技のように洗練されている。

 

 これは、自分ではどうしようもない。エスペリアでも無理だろう。アセリアならあるいは対抗できるかもしれないが、だからこそエスペリアの護衛をしてもらわなければいけない。

 となれば。

 

「横島、たの……む?」

 

 目の前で予想していなかった光景が広がって、言葉を失う。

 なんと、ブルースピリットとブラックスピリットは、互いに向き合って剣を構えていた。

 

「敵じゃないのか?」

 

 悠人の呟きにブラックスピリットは何も答えず、夜叉のように険しい表情でブルースピリットと向き合う。

 

 果たして敵か味方か。

 判断が付かない悠人と横島は動くことが出来ない。

 その間に、ブルースピリットが動いた。

 

 ブルースピリットの背に展開している黒のウイングハイロゥが光を侵食するように輝くと、すさまじい勢いでブラックスピリットに飛翔する。

 空中で小刻みに動いてフェイント掛けつつ、それでいて一撃必殺をどこからでも狙えるように空中で体重移動を行うブルースピリット。アセリアとまではいかなくても、相当の実力者と分かった。

 素早いブルースピリットとは対照的に、ブラックスピリットの動きは酷く緩慢に、手を鞘に収めた神剣に向かわせる。

 

 二人が間合いが重なり、勝負は、一合も打ち合わず終わった。

 

 全身から血飛沫を噴出させて、ブルースピリットは床にしずむ。

 

「なっ!」

 

 悠人の目には、ブラックスピリットと相対したブルースピリットが一瞬で崩れ落ちたようにしか見えなかった。

 捉えられたのは、ブラックスピリットのゆったりとした動きだけ。緩急のつけかたが抜群なのだろう。

 しかし、それにしても。

 

「横島……見えたか?」

 

 神速の抜刀術。

 刀の軌跡どころか、いつ抜刀したのかすら分からなかった。気づくと、納刀されていた。それも、切った回数は三つ四つ所では無い。瞬き一回の間に、どれほど切りつけたのやら。

 いくらブラックスピリットが速さに優れているといっても、これは異常であった。

 速い、疾いすぎる。純粋な速さと、技術で培った疾さ。ラキオス最速のアセリアの剣戟すら、今の抜刀術の前にはウサギとカメの差がある

 遠めに見て軌跡すら追えないようでは、目の前で抜かれた日には切られたことにすら気付かず天国行きだ。

 

「ふっ、そりゃあ見ないわけないだろう。ばっちり見たぞ!」

 

 その神速の抜刀すら横島は見切ったという。

 改めて悠人は横島の異常なほどの動体視力に舌を、

 

「プルプルと揺れる乳と尻……バスト78、ウエスト56、ヒップ72……くぅー! レオタードっていいな!!」 

 

 舌を巻きまくった!!

 

「お前は馬鹿か!」

 

 もし、あのスピリットが敵なら、太刀筋を見ておくという事がどれだけ大切か考えるまでもない。

 悠人の考えは間違いなく正しいだろう。しかし、それは相手が普通だった場合だ。

 

「フッ! 甘いな、チチやシリを見ていたほうが俺は強いのさ!!」

 

「意味分からん……と言いたいけど、そうなんだろうなあ」

 

 納得したくないが、しかし納得せざるを得ない。

 悠人にとって超人横島は最強のイメージを持つ目標だ。

 しかし、目標であり乗り越えようとしている壁は、あまりに高く――――色々な意味で遠い。

 横島への高すぎる壁を感じるのは、相手の才能の高さや、自分が決して持てない力への畏怖もあるが、なにより凶悪なのが乗り越えようとする気概すら奪ってくることである。

 

「とにかく、敵じゃないみたいだな……今まで居なかった美人だぞ!」

 

「結論を出すな! それと、間違ってもルパンダイブなんてするなよ」

 

 横島は血の海に沈むブルースピリットから目を逸らしつつ、ブラックスピリットを凝視する。

 敵ではないようだが、それでも味方とは限らない。

 悠人は剣こそ相手に向けないものの、決して警戒を解かずに相手を見て、

 

「……あれ、何処かであったことあるか?」

 

 相手の顔を認識した悠人は、思わず口に出す。

 確かに、どこかで見た顔だった。

 凛々しく整った目鼻。褐色の肌。美しさまで感じるピンと立つ背筋。

 スピリットは誰もが美人だが、このスピリットは通常の美形とは一味違う。実用品でありながら芸術性も併せ持つ日本刀のような鋭く気高い美があった。確かに、横島の言うとおりラキオスには居ないタイプだろう。

 

「こんな時にナンパすんじゃねえ! そこは俺に任せんかい!!」

 

「違う! 真面目に言っているんだ」

 

 横島の戯言は放っておいて、悠人は記憶を漁る。ブラックスピリットの方も、悠人を見て少し瞳を大きくさせていた。

 その様子で悠人は確信する。間違いなく、このスピリットとは何処かであっている。

 戦場では無い。もし面と向かい合って剣を合わせるような事があったら、これだけの実力者を忘れるわけがない。

 一体どこで――――――

 

「危ない!」

 

 エスペリアの護衛に付いていたアセリアが警戒の声を上げて、悠人の思考は打ち切られる。

 見ると、ブルースピリットは起き上がってブラックスピリットの後ろから切りかかっていた。

 全身は血だらけで酷い傷に見えるが、しかし命を奪うような致命的な一撃は入っていなかったようだ。

 これだけ切り刻まれて、致命傷が一つも無い事に悠人は違和感を覚えたが、今はそれどころではない。

 不意を突かれて、ブラックスピリットは動けないようだ。

 

 ブルースピリットの神剣がブラックスピリットの背中に食い込む――――事はなかった。

 

「させっか!」

 

 ブルースピリットの刃が、ブラックスピリットの手前で弾かれる。

 精霊光とも呼ばれるオーラフォトンの障壁がブラックスピリットの眼前に発生して、神剣を軽々とはじき返したのだ。

 横島が、遠距離で障壁を作り上げたのだ。これも悠人には出来ない技量である。

 悠人は色々な意味で感嘆した。

 

 横島はスピリットを守ってくれる。敵かも知れないのに、その行動には迷いが無い。

 ならば、俺の役割は一つ。

 

「おおおおおお!!」

 

 『求め』を肩に担ぐようにして悠人がブルースピリットに突撃する。

 咄嗟に神剣で打ち合おうとするブルースピリットだったが、体勢を崩して受けきれるほど悠人の打ち込みは甘くは無い。

 『求め』の刃は神剣を砕き、そのまま肩に入り込み、胸の肋骨を砕きながら、骨盤を砕いて外に出る。即死だ。

 飛び散る血肉が赤から金へと姿を変えて、『求め』に吸い込まれていく。

 

『ふん、あまり上等なマナでは無いようだな』

 

 不満そうな『求め』の声が頭に響く。

 だまれ、と悠人は『求め』を叱責しながら脳天に突き抜けるような快楽に耐えた。 

 マナを得るのは神剣にとって快楽で、つまりスピリット殺しは快楽を伴う。これは干渉というわけではない。ただ、神剣の快楽が所有者にも伝わっているだけでどうしようもないことである。

 神剣なんて魔剣と同じだ、と悠人は心の中で毒づく。

 

「大丈夫か!」

 

 気持ちの良さに耐えて、ブラックスピリットに向き直る悠人。

 そして驚く。

 

「ああ……手前はどうして」

 

 ブラックスピリットは消えていくブルースピリットを見て、泣いていた。涙を流してはいないが、泣いているのが悠人には分かった。

 一個の生命の消滅を、ただひたすら悲しんでいる。

 たとえようも無い罪悪感が悠人の心に生まれた。少しずつ慣れてきていたが、尊い命を奪ってしまった、という実感が強く胸にめぐって来た。

 

「……ねえ、どうして泣いているの?」

 

 命を知らないオルファが、ブラックスピリットの目の前で問いかけて、言葉を失った。

 オルファは懐かしいものを見るような目でブラックスピリットを見つめる。

 ブラックスピリットも、オルファを不思議そうに見つめていた。

 ほんの数秒前まで殺し合いをしていたとは思えないほど、神秘的な空間が出来あがる。

 

 悠人も横島もアセリアも、二人のスピリットが見詰め合う姿から目が離せなかった。

 

(リュトリアムガーディアンか……)

 

 『天秤』だけが、その光景に納得していて、内心で呟いていた。

 

「……御免」

 

 硬直からいち早く動いたのはブラックスピリットだった。

 礼儀正しく頭を下げると、ウイングハイロゥを展開してさっと天井の穴から飛び去っていった。

 呪縛から解けた様に、悠人達も動き始める。

 

「オルファ、今のスピリットと知り合いなのか」

 

「ううん、違うけど……なんだろうね。えへへ」

 

 恥ずかしそうにオルファが答える。本人も今の間が何だったのか分からないようだが、ただ嬉しそうだった。

 今のスピリット達は何だったのか。結局、分からなかった。

 自分たちが事態の中心にいるはずなのに、真実から誰よりも遠くにいると感じる。

 不可解な戦いは、不可解のまま終わった。

 

「作業が終了しました。これでエーテルコンバーターは使用不可能になります」

 

 作業を終えたエスペリアと護衛のアセリアが合流する。

 

「なあ、アセリア。今のスピリット達に見覚えないか?」

 

「分からない」

 

「そうか」

 

「ただ、黒のスピリットは私よりも、強い」

 

 下手なプライドが無いアセリアは、素直に自分よりも強いと言った。

 アセリアがそう言うなら、それは真実なのだろう。

 

「アセリアにそこまで言わせるなんて……漆黒の翼かもしれません」

 

 エスペリアが溜息混じりで言う。

 漆黒の翼。

 サーギオス帝国、遊撃部隊の隊長。大陸最強と言われているスピリットだ。

 

「それじゃあ、帝国が俺たちを助けたのか? 確か敵対しているんだろ」

 

「分かりません」

 

 悠人の質問に、エスペリアは青い顔で顔を横に振る。

 

「ちょっと気になったんすけど、あのレオタードの……『漆黒の姉ちゃん』でしたっけ? ハイロゥが黒かったのにちゃんと意識があったみたいっす。どういう事すかね」

 

 スピリットの心を取り戻したい横島としては、その辺りが気になるようだ。

 エスペリアは、やはり分からないと首を横に振るだけだった。

 

「本当に分からない事だらけだな……ん? エスペリア、大丈夫か。顔色が……」

 

 エスペリアの顔色は亡霊のように青白い。

 装置を止めてから、ずっと青ざめたままだ。

 一体、どうしたのだろう。

 

「大丈夫です。急いでここから離れましょう。ここで戦闘は避けた方が良いでしょうし、それに……」

 

「それに?」

 

「……いえ、何でもありません。何でもない……はずなんです」

 

 エスぺリアは胸の前で両手を組み、祈るように目を閉じた。

 聖職者が祈りを捧げているように見えるが、罪人が罪を悔いているようにも見えた。

 

 全員で建物の外に出る。

 すると、外には臨戦態勢を崩さないヒミカ達がいた。

 

「無事ですか! ユート様、ヨコシマ様」

 

「ああ、そっちも何かあったか」

 

「はい、ユート様達が建物に入ると、周囲に神剣反応が発生しました」

 

「戦闘があったのか!?」

 

「いえ、ただ現れただけで戦いは仕掛けてきませんでした。こちらを監視していただけのようです」

 

「……本当に何を考えてるんだろな」

 

 考えても分からない、と悠人は思考を閉じる。

 

「とにかく、任務は終わった。後はラキオスに戻ろう」

 

 警戒を怠らずに、と付け加えるのも忘れない。

 

「……活躍したかったのに」

 

 ネリーは不満そうに文句を垂れる。不満と鬱屈が溢れたような顔をしていた。

 

「何言ってんじゃ! 戦わないに越したことは無いだろ」

 

 横島が『君は実に馬鹿だなあ』と某ロボット風に言うが、ネリーは不満そうな顔を崩さなかった。

 良く見ると、シアーもヘリオンもどこか鬱屈した顔をしている。

 横島は彼女らが殺し合いを望んでいたのかと考え、とても嫌そうな顔をした。

 

 黙々と来た道を戻る。

 

『あっ!』

 

 道も半ばを過ぎたころ、『天秤』が悲鳴にも似た声を上げた。

 

「おわ! なんだ、いきなり大声をだして」

 

 いきなり頭の中で『天秤』の大声が響いて、心臓が口から飛び出しそうになる。

 

『に、人形が……』

 

 震える『天秤』の声。

 見ると、エニの『天秤』人形が、『天秤』から無くなっていた。

 元々、ただの『天秤』にくくり付けられた天秤人形は細い糸で繋がっていただけだ。

 ソニックブームが出るような速度で移動する神剣持ちに、くっ付いていけるわけが無い。

 落とすのは必然だった。 

 落とした場所は、間違いなくエーテル変換施設の所だろう。

 

「まったく、もっと早く言えっての。さっさと取りに戻るぞ」

 

『馬鹿な! あんな綿と糸で出来た人形に価値など必要ない!』

 

「分かった。いらねーんだな。だったらそれまでだ」

 

 横島は踵を返す。

 あまりにあっさりした横島に、『天秤』が怒りの声を上げた。

 

『それでいいのか!? あの人形は、エニが命を掛けて持ってきたのだぞ!! それを……それを!!」

 

「おい、言ってることが可笑しいぞ。お前が必要ないっていったんだろーが」

 

『ぐっ……わ、私の意志なんてどうでも良いではないか!? それよりも主はどうなのだ」

 

「何で俺に振るんだよ。あの人形は、エニがお前の為に作ったもんだ。拾うも捨てるもお前次第だろ」

 

 冷たく、突き放すように言う横島に『天秤』は絶句する。

 横島が、ここまでエニに対して冷たい態度を取ること自体が信じがたい事であった。

 怒りと、悔しさと、なによりエニへの愛情が『天秤』の中に湧き上がってくる。また感情が爆発しそうだった。

 しかし、彼には責務があった。期待があった。それが、鎖のようになって彼の精神を雁字搦めに縛り続ける。

 

「お前が何を考えているか、何を背負ってんのか、俺には分からん。何となくは想像付くけど、こういうのは他人に決めてもらうもんじゃないしな。

 俺から言えるのは一つだ、拾うか、それとも拾わないのか……どっちだ」

 

 沈黙が降りる。

 いつのまにか、ネリー達の姿は傍から消えている。

 どうやら置いて行かれたらしい。どうするにしても、ここにいつまでも留まるわけにはいかなかった。

 

 『天秤』は必死に言おうとした。

 

 『拾わない』と。

 エニの残した人形なんて、必要無いと。

 しかし、どうしても言葉が出なかった。

 

『拾いに行きたい……拾いに行きたいが……しかし!!』

 

 『天秤』がついに言った。

 どうしてそこまで躊躇するのか横島には分からなかったが、拾いたいと言ったならやることは決まっている。

 

「それじゃ、行くぞ」

 

 来た道を引き返す。

 勝手に単独行動を取れば怒られるだろうが、どうせ大して時間もかからない。

 

『駄目だ! 待て! 行くな! 行けば……ぬぞ』

 

 どうしたわけか『天秤』が喚き始める。本当に訳が分からない。

 だが、横島は気付いていた。それが本心ではないと。

 何故なら、本当に行かせたくないなら干渉して頭痛でも引き起こせばいいのだ。

 『天秤』は最後まで喚いていたが、それだけだった。

 数分後、横島はエーテル変換装置の前にたどり着く。

 

「おっ、あったあった」

 

 やはりエーテル変換装置の前に人形は落ちていた。懐に人形をしまう。

 そこで、気付いた。

 

 巨大な神剣に周囲のマナが集まっていく。

 しかし、エーテルに変換しているようすは無い。ただただマナが集まってくるだけだ。破裂寸前の風船を横島は頭に思い描く。

 周りの機器は異常な駆動音を発している。どれほどの熱を持っているのか、湯気が辺りに立ち込め始めていた。

 素人目でも異常事態が起こっていると分かる。

 

「な、なんだ! なんつーか……すっげえヤバイ気配が」

 

 幾多の死線を乗り越えてきた勘が告げる。

 特大級の危険が迫っている。ふと、エスペリアの蒼白な顔色が思い出された。

 

『はっははははははははは!!』

 

「うおっ! 何いきなり笑ってるんじゃあー!」

 

『はは! すまないな。まさかこんな結末になるとは思いもしなくてな。

 はははははははははははははははは! ああ~すまない。本当に……悪かった』

 

 狂気が宿ったような笑いと、冷静な謝罪のギャップが不気味だった。

 自身の破滅を知ったものがこういう類の笑いをするというのを、横島は知っている。

 

「お、おぃ『天秤』。ちゃんと説明しろ!!」

 

『この場でマナ消失が起ころうとしているのだ』

 

「マナ消失ってなんじゃい!」

 

『簡単に言えば爆発だ。厳密には違うのだが、結果的にはそうなるだろうな。威力は……そうだな。第七位程度の神剣規模のマナ消失なら、主の世界で言えば……核程度だろう』

 

「ハングライダー……」

 

『それは「かっくう」だ」

 

「この印籠が目に入らぬか!」

 

『それは「角さん」だ』

 

「ひざ」

 

『かっくん……遊ぶな』

 

「海賊王に、俺はなる!!」

 

『それは……って、何の関係も無いではないか。せめてサ○デーネタを使ったほうがいいぞ』

 

「じゃ、じゃあ~」

 

 必死に目を逸らそうとする横島だったが、現実は残酷だった。

 

『万が一、マナ消失爆発を耐え切れたとしても、次に訪れるマナ嵐に巻き込まれて我らはマナの塵となるだろう。

 謝って済むことではないが……本当に悪かった。全て私の責任だ。私は駄目な神剣であった。

 共にマナの塵となり、この時間樹の肥やしとなって、いずれ訪れる原初に取り込まれるのを待とう』

 

 『天秤』は死の宣告を送る。完全に生きるのを諦めていた。

 流石の横島も核の直撃を受けて「あ~死ぬかと思った」で済ませられる自信は無い。

 しかも、それを乗り越えたとしても『マナ嵐』なるもので死ぬという。核爆発並みの衝撃より、そちらのほうが危険らしい。

 

「い、いやじゃあ~!! 死ぬのは嫌や~!」

 

 目からは涙を流し、鼻水を垂れ流し、耳からは耳汁を発射する。

 顔中を液体まみれにしながら逃げ出そうとする横島だったが、

 

『やめておけ。今更逃げ出した所で範囲外まで行けず、爆発に飲み込まれるだけだ。まだ、障壁で守りを固めたほうが生きる可能性はずっと高くなるだろう』

 

「そうゆーことは先に言えっつーーの!!」

 

 足を止めて強力な障壁を張ろうとする横島だが、

 

『それでも、マナ嵐に巻き込まれて死ぬだろうが』

 

「どうすりゃいいっちゅうんじゃあ~!!」

 

『だから言っているだろう。どうしようもない。無理なものは無理であると、主も知っているだろう』

 

 確かに知っている。出来ないものは出来ない。

 それに『天秤』は頭が良い。無駄な事はしない性質だ。本当にどうしようもないのだろう。

 せめて文珠があればまだ何とかなったかもしれないが、エニとの戦いで無理やり文珠を作成した影響で、まだまだ作れる気がしない。

 

「嫌じゃあ~! 童貞で死ぬのはイヤアァァーー!!」

 

『その台詞は死にそうになるたびに言ってるな』

 

 パニックな横島と自暴自棄な『天秤』のコンビ。

 命運尽きたか。

 そう思われたが、そこは強運の持ち主である横島だ。救いの女神が降臨する。

 

「これは何事ですか?」

 

 落ち着いた女の声が響いた。 

 ぼんやりと横島は声のした方を向くと、セリアがポニーテールを揺らして不審そうにこちらを見ていた。

 

「うあぁ~ん! セリア~! 一発やらしてくれぇ~!!」

 

 ぴょ~ん、と横島は唇を突き出しながらセリアに飛びつく。

 命の危機に、生存の本能が刺激されたらしい。いつも通りだが。

 

 セリアはこしをふかくおとし、まっすぐにあいてをついた。

 

「ごぶあ!!」

 

 セリアのせいけんづきを食らって、横島が吹き飛ぶ。

 

「いきなりなにするだー!!」

 

「いきなり飛びついてくる方が悪いと思います」

 

 まったく道理だった。

 

「勝手に一人で行動しないでください。それで、これは一体何事ですか。また、貴方が何かしたのですか」

 

 セリアが巨大な神剣、エーテルコンバーターを指差す。

 機械はプスプスと煙を出していて、水晶にはひびが入っており、駆動音はますます大きくなっている。

 破滅の時は刻一刻と迫っていた。

 

「……なんってこったい」

 

 目の前のセリアを見て、横島はパニックから絶望へと叩き落とされた。

 セリアを巻き込む形になってしまった。後悔が押し寄せる。

 昨日の事といい、どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 

「その……セリア。昨日のあれは、俺がやった事じゃないんだ。あれはこいつ(天秤)が俺の体を操ってやったことで……あっでも、こいつにはこいつの事情があったっていうか……」

 

 しどろもどろになりながら横島は必死に言葉を紡いだ。

 誰を責めるわけではなく、しかし自分の所為では無いと切に訴える。まるで心残りを少しでも減らそうとする、死刑執行前の囚人のようだ。

 

「ふっ」

 

 セリアは怒りと呆れを混ぜ合わせたような表情で横島を見た。そして、息を大きく吸うと、

 

「貴方は馬鹿ですか。いつも貴方がやっていることでしょう!

 風呂は覗こうとするわ、胸やお尻を触ろうとしてくるわ、いきなり抱きついて頬ずりしてくる人が今更何を言っているんです。自他共に認める変態で、煩悩魔人で、私がどれほど苦労してきたか分かっていますか。大体、『天秤』の所為にするなんて恥ずかしくないんですか。今更謝られたって許せるわけありません。

 許して欲しかったら……」

 

 ゴゴゴゴゴゴゴと凄まじい擬音を貼り付けたようなセリアの笑みに、横島は圧倒される。

 

「ゆ、許して欲しかったら?」

 

 ごくりと、唾を飲み込みながら恐る恐る横島がたずねる。

 

「私と一緒に、生き残りましょう」

 

 セリアは微笑んだ。

 

 母のように強く。

 姉のように優しく

 妹のように愛らしく。

 恋人のように――――ではなかったが。

 

 ドクン。

 

 心臓が強く脈打って、全身がかあっと熱くなった。

 

「こ、これはもう愛の告白としか!!」

 

「なます切りにされたいですか?」

 

 興奮する横島の首に神剣をひたと当てるセリア。

 しくしくと涙する横島。

 いつもの二人だった。しかし、二人にとってそれが幸せなのだった。

 

「それで、どうやったら生き残れると思います?」

 

「こいつ(天秤)が言うには、何でも障壁を張ったほうが生き残れる可能性が大きいらしいけど……」

 

「じゃあそれでいきましょう」

 

「ただ、マナ嵐が来てどうたらこうたらで駄目とか」 

 

「……そのマナ嵐とやらは来たときに考えましょう。今は、そのマナ消失爆発とやらをなんとかしないと」

 

 セリアはそう言うと、横島の背中に回りこんで彼に抱きついた。

 もっとも、抱きついたと言っても両手はセリアの永遠神剣『熱病』が握り締められているのだが。

 

「おおおっ! 背中におっぱいが……これは伝説の萌技『当ててのよ』!!」

 

「はいはい、落ち着いて。少しでも爆発の影響を抑えるためです。障壁も集中させなくてはいけませんから……やっ、ん! こ、こら! 背中を揺らさないで!!」

 

「これで48の煩悩技! 『当ててんのよ(ぷるんぷるん)』だ!!」

 

「ぷるぷるさせるな!!」

 

 こんな時なのに横島は変態だった。だからこそ、横島だった。

 横島がどのように反応するかセリアには分かっていたのだろう。セリアはとても落ち着いて、彼に反撃している。

 だが、横島には見えなかったがセリアの頬は『熱病』にかかったかのように真っ赤だったりしたのだが。

 

 おっぱい>>>死の恐怖。

 

 逃れられぬ死が眼前に迫っている。それでも、おっぱいは正義!

 圧倒的な暴力がこの身に刻まれる。やっぱり、おっぱいは正義!

 塵一つ残らずにこの肉体は果てる。とにかく、おっぱいは正義!

 

「ふぉぉぉぉぉ!!」

 

 背中に押し付けられた二つの膨らみが横島をどこまでも強くする。

 それに伴い、横島が作り上げるオーラと霊力を混合させた障壁は、強く、硬く、大きくなっていく。

 

「硬くするのはいいけど、大きくしないで! ぎりぎり入るぐらいにしないと」

 

「おお、任せとけ! 大きさだけが強さじゃないのは日本人の常識じゃあ! セリアも、もっと強くだきしめてくれ!! 生き残るためだからな!!」

 

「……まったくもう、本当にいやらしいんだから」

 

 呆れ3割、羞恥3割、怒り3割、愛情1割な笑みをセリアが浮かべる。

 それが横島には堪らない。馬鹿みたいな力が横島に宿り練り上げられていく。

 女性のために戦う横島は、ただ強い。ひたすら、強い。

 

 しかし、それでも。

 

『……主よ、何故無意味な事をするのだ』

 

 生き残れない。

 『天秤』は無常に判断していた。

 

 しかし、彼の聡明な頭脳は一つだけ助かる可能性が上がる方法を導き出していた。

 それは、障壁を広げずに一人分だけ展開すること。

 ここで横島の意識を乗っ取り、セリアに横島分の障壁のみを作るように指示すれば、あるいは千に一つは助かるかもしれない。

 マナ嵐は自分の能力を使えば生き残れるかもしれない。

 そこまで考えた『天秤』だったが、すぐにその考えを放棄した。理由は一つ。

 

 ――――面倒くさい。どうとでもなれ。

 

 エニが死んで全てが色あせたような気がした。

 無為無価値無意味。

 何もかも、どうでもいい。

 

(はあっ、貴方って本当にダメダメねえ)

 

 今まで事の推移を見守っていたルシオラが、呆れたように声を掛けてきた。

 

(そのような事、当に知っている)

 

 貶されたが、『天秤』は怒りもせずにあっさり認める。

 今までの『天秤』が思春期特有の全能感に溢れた少年だったら、今の『天秤』は自分の限界を悟って全てを投げ出した青少年と言った所か。

 極端から極端に走るのも、精神が未熟な少年の性である。

 本当に人間的な神剣だと、ルシオラはこんなときだと言うのに微笑ましくなった。

 

(方法が無いとか、疲れたとか、そういう問題じゃ無いのよ! 貴方はどうしたいの! 生きたいの、それとも死にたいの!?)

 

 ルシオラの激励にも似た問いかけだったが、『天秤』には何も答えが浮かんでこなかった。

 生きたいとか、死にたいとか、だからどうしたと鼻で笑ってやりたい。

 敬愛する上司の命令を聞けなかったのは悔しいし心苦しい。しかし、それだけだった。

 

(知らぬ)

 

 『天秤』は不貞腐れたように呟く。

 まるで拗ねた子供だ。

 中学生の教師をやっているような気分だと、ルシオラは思った。

 

(エニの最後の願い……なんだったのか知ってる?)

 

(……なんだ?)

 

(忘れないで……よ。エニは、自分の事を忘れてほしくなかった。勿論、横島じゃなくて貴方に忘れてほしくないのよ)

 

 実際は違う。エニの最後の願いは、そんな綺麗なものではなかった。

 『天秤』自身にではなく、横島に言った時点でそれが普通の物ではない事が知れよう。

 だが、嘘を言ったわけではない。エニの最後の願いは『私を忘れないで』と言った様なものなのだ。 

 

(貴方が死んでも、神剣世界の大義とやらは変わらないかもしれない。でも、貴方が死ねば、エニの一生は無駄だった)

 

(……別に私でなくともいいだろう。横島とてエニの事は忘れないはずだ)

 

(無理ね。ヨコシマはいずれエニの事を忘れるわ。他のスピリットもそう。貴方の上司もそう。死者は、いつか過去になる。それが正しいのよ)

 

(ふん、死人が語ることか)

 

(まったくね)

 

 苦笑するルシオラに、『天秤』は苛立つ。

 何を言われても、無性に腹が立つ。満たされない。

 

(まったく、仕方がないわね。貴方が何を求めているか、私が教えてあげるわ)

 

(なん……だと……!!)

 

 この渇きを、この飢えを、満たせるというのか。

 自分自身ですら、何に飢えているか分からぬというのに。

 

(ふふ……それじゃあ、いくわよ! すぅーーーーーーっ!

 貴方は本当に愚かで、馬鹿で、鈍感で、アホで堪え性がなくて、実はとってもむっつり助平で、デブチビトンマ!

 それでそれで、ええと……この早漏! ドジ間抜け! その上、のーたりんであんぽんたんですかんぴんでとんちんかんで……おたんこなす!!

 それで、それで、えーと、えーと……この無職どーてーにーと!!」

 

 罵倒、罵倒、罵倒の嵐。中には妙な言葉もあったが、全てがネガティブな意味を持つ言葉だった。

 誇り高い『天秤』は、その罵倒の言葉を――――静かに受け止めた。

 

 『天秤』自身も、どうして罵倒を甘んじて受けているのか理解できなかった。

 不思議に思っている『天秤』に、ルシオラは静かに話し始める。

 

(貴方は、叱ってほしかったのよ。エニが横島に好意を持ったと勘違いして、予定を早めてエニを殺すように仕組んだ。一般的に考えて、とても悪い事を貴方は成した。それなのに、貴方を叱る人は居ない。

 上司は褒めて、横島は同情して、セリアもハリオンも貴方を許した。真面目で、善良な貴方はそれが耐えられなかったのよ)

 

 ルシオラの言葉を、『天秤』は否定できなかった。

 罪には罰を。そういう精神が、『天秤』には根付いていたのだ。

 

 求めていた『罰』を受け入れて、『天秤』は自分の心が晴れていくのを感じた。それは、自分の心を見つめなおす作業に他ならない。

 そして、誰もが知っていた事を、ようやく自覚する時が来た。

 

 ――――嗚呼、そうだ。私はエニが好きだったのだ。

 

 自分はエニを愛していて、それを失った事が悲しいのだ。自分の勘違いで、エニの死期を早めた事を悔やんでいるのだ。

 一度、それを認めてしまうと後は楽だった。苦しく悲しい事は悲しいのだが、しかしその正体にやきもきする必要ないからだ。牧師に罪を打ち明けた罪人のように、『天秤』の気持ちは晴れ晴れした。

 

 そして、エニのためにも生きていこうと、『天秤』は決心する。

 恐らくは、上司に今回の失態を責められて自分は消滅するだろう。それでも、生きる為に行動する。それだけでない。何とかして、横島とセリアだけでも生き延びらせてやると、『天秤』は誓った。

 

『あるじ……いや、横島!! 生き残るぞ!!』

 

「当たり前じゃあ!! 生き残って、ハーレムを作るんじゃあ。勿論、セリアを入れて!!」

 

 生存への強力な欲求が伝わってくる。性欲も凄まじい。

 

「そうね。生き残ったら、まずヨコシマ様を亡き者としましょうか!」

 

 凄まじい笑いを浮かべて、セリアが言う。こちらも生きる意志が半端ではない。

 

 セリアの神剣『熱情』と『天秤』が重なる。

 六位以下の神剣には自我と呼ばれるものは少なく、ただ本能によって行動しているものが多い。

 『熱情』も明確な自我は無かったが、しかし。生きようとする純粋な本能は燃え盛っていた。

 それが、『天秤』には心地よい。心が、燃えるようだった。

 力が湧く。しかし、それでも足りない。ならば、

 

(ルシオラよ、汝をまた喰らうぞ……良いな?)

 

(食べて生きるのに、良いも悪いもないでしょ)

 

 一喝されて、『天秤』は笑う。

 その通りだ。食べて生きるのに理由など必要ない。

 生きたいから生きる。だから、食う。

 どれほどの罪があっても、それは変わらない。

 

 横島の、セリアの、『熱病』の、『天秤』の、意思が重なる。

 二人と男女と二本の神剣は共鳴して、力は、障壁は何倍にも強くなる。

 文珠の『同』『期』に近い現象だった。いや、そのものと言ってもいい。

 圧倒的な、世界を分かつほどの強力な壁が横島達を覆い隠す。

 

 その時が来る。

 それは、限界まで膨らませた風船が遂に弾けたように、とつぜん起こった。

 

 マナ消失。空間の消失。空間の爆発。

 それは、世界を滅ぼす一手にすら成りうる究極の破壊。

 

 風が叫び、大地が割れ、マナが泣いた。世界が震える。

 光と衝撃が広がり、ドームのようにイースペリアを覆っていく。人の営みを送っていた町は、ただただ破壊され蹂躙される。

 悲鳴も、涙も、そこにはない。苦痛も悲劇も、認識する時間を与えられなかったから。

 

 あっさりと、その国から命が消えた。

 

 

「い、いました~!! 生きてます! 二人とも!!」

 

「ヨコシマ様の状態が相当酷いわ。早く回復を!」

 

「了解です~。それにしても、セリアさんの方は……きっと手厚い看護が受けられそうですね~」

 

 イースペリア王国は崩壊した。

 その血統は絶え、国としての体を完全に失い、ファンタズマゴリアでは類を見ないほどのおびただしい犠牲者を出しながら。

 ラキオスはいち早くイースペリアに救援を送る。食糧、清潔な水、衣料品、医者、医薬品、土木作業員、石材木材等、大量の物資人材が災害から数日で運び込まれた。おかげで難民流民が出る事は少なく、さらに迅速な疎開の手配もなされ、治安もさほど悪化せずに済んだ。まるで準備でもしてあったかのようなラキオス王の迅速な手腕に、国内外から賛美が寄せられて、王は自尊心を大いに満足させた。

 

 ラキオスはこの大災害の原因をイースペリア自身の手による自爆だったと発表する。悠人の推察通り、民達はイースペリアが同盟を破った事など知らなかったようで、全ての怒りをイースペリア王家にぶつける事となった。もっとも、関係者は皆死んでしまっていたので、一体なぜ同盟を裏切ったのか、という理由は明らかになることはなかった。

 

 民を巻き込んで自爆による自決という手段など取るわけが無い、そう勘ぐる者もいた。しかし、表立って吹聴できる者は皆無であった。もしそれが事実であったのなら、犯人はほぼ確定してしまう。

 壊滅的なダメージを負ったイースペリアの人々は、ラキオスの救助が無ければ生きてはいけないほど追い詰められていた。血筋も絶えた無力なイースペリアに選択権など無く、ラキオスに併合されるのは自然の成り行きだったのだろう。

 

 真実を知っている悠人達は民衆の嘆きの声と自責から逃げるようにラキオスに戻った。当然であるが、自分達が原因でマナ消失が起きた事は言ってはいけないと通達があった。誰もが心に暗い影を落としていたが、特に知らなかったとはいえ引き金を引いたエスペリアの苦悩はどれほどのものか想像もつかない。

 

 エニの死。イースペリアの惨劇。横島の大怪我。

 肉体的、特に精神的に疲労が重なる悠人達だったが、未だ休息は許されない。

 国は滅んだというのに、未だサルドバルトに居座っているイースペリアのスピリット達を討伐せよと命令が下る。

 大地は、雲の如く荒々しく動き続けていた。


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