永遠の煩悩者   作:煩悩のふむふむ

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第二十六話 日常編その5 一歩づつ前に

 何のへんてつも無い小さな原っぱ。

 そこに数名の少女と、一匹の白い獣の姿があった。

 

「伏せ! 回れ! お手! 跳ね!」

 

 レッドスピリットの少女、『理念』のオルファリルが矢継ぎ早に指示を出す。

 すると、ハクゥテと名づけられたエヒグゥ(一角ウサギ)が指示通り素早く動く。

 

「えへへ! いい子いい子!!」

 

 擦り寄ってきたハクゥテを優しく撫でるオルファ。ハクゥテも目を細めて気持ちよさそうに愛撫を受ける。そして、何かを催促するように鼻をオルファに擦り付けた。

 オルファも心得たもので、すぐにハクゥテが何を求めているか察した。胸元からラナハナ(にんじん)の欠片を取り出してハクゥテの口元まで持っていく。ハクゥテは目を光らせてラナハナにかぶり付いた。

 

「うんうん、たくさん食べてね」

 

 一心不乱になってラナハナを食べるハクゥテの姿を、オルファは幸せそうに眺める。なんとも優しげなひと時であった。

 

「むうー」

「ぅ~」

「はう~」

「……」

 

 それを見つめる八つの目。

 ネリー、シアー、ヘリオン、ニムントールら年少チームである。

 オルファは彼女達の視線を存分に意識しながら、ハクゥテを愛撫していた。

 

「ふっかふかーで、やわらかー」

 

 オルファはハクゥテを抱きしめながら歌を歌う。

 ハクゥテのふさふさの白い毛。小さい体。小さい角。つぶらな瞳。ピクピク動く長い耳。

 そのいずれもがネリー達の心をがしっと掴んで離さない。

 

「へっへ~ン、一体どうしたのー」

 

 ニヤニヤと意地の悪い笑みをネリー達に向けるオルファ。

 明らかな挑発だった。玩具を自慢する子供そのもの。

 ネリーはせめてもの抵抗として「別に」とぶっきらぼうに言うしかない。

 オルファはさらにニヤニヤする。

 

「ふ~ん、そっかそっか。羨ましいんでしょ!」

 

「別に羨ましくなんてないよ!」

 

 顔を赤くして否定したネリ―だったが、それが強がりである事は誰の目にも明らかだった。

 そんな彼女らの様子に、オルファは何か思いついたように怪しげな笑みを浮かべた。

 

「あげよっか」

 

「えっ……う、嘘つかないで!」

 

「嘘じゃないよ。ほら」

 

 オルファは満面の笑みを浮かべて手に持ったハクゥテをネリーに突きだした。

 悪戯を警戒して、ネリーは手を出そうとはしなかったが、ハクゥテのキラキラな瞳に見つめられてとうとう堕ちた。

 おずおずと手を伸ばすネリー。しかし、ネリーの手がハクゥテを捉える事はなかった。

 

「はい! あーげた!!」

 

 オルファは満面の笑みで、ハクゥテを頭上に上げた。

 ネリーは少しきょとんとして、次に騙されたと気付いて握りこぶしを作る。

 

「うきー! 馬鹿にしてーー!!」

 

 期待をお約束で裏切られ、顔を赤くしたネリーが両手を振り上げながらオルファに突っ込んでいく。

 そうなる事を予測していたオルファは、さっとハクゥテを抱きしめると、「ひっかかった! ひかっかったー!」と笑いながら逃げ出した。

 その様子を呆れたように眺めるシアー達だったが、やはり羨ましさと嫉妬を感じている事は否定できなかった。

 

 この何処にでもある一幕が、今回のお話の始まり。

 

 永遠の煩悩者 日常編その5

 

 一歩づつ前に

 

「そういうわけで! これ以上オルファに大きい顔をさせちゃだめ!!」

 

「だめ~」

 

 びしりと、ネリーが大きい声で宣言した。横ではシアーがエコーをかけている。

 

「はい! 私もモフモフがしたいです!!」

 

 ネリーの発言に呼応するように、ヘリオンもツインテールを上下させながら強く言った。

 目は炎のように燃えている。やる気は十分らしい。ただ、口からは「モフモフ! モフモフ!」と言いながら手を奇妙に開けたり閉めたりしているところが気持ち悪い。

 

「何でニムまで……はあっ」

 

 やる気の三人とは対照的に、ニムントールは冷めた表情でテンションも低い。なし崩しに付き合っているように見えないわけでもないが、一応は興味があるらしい。何だかんだ言っても、ネリー達と遊ぶのはやぶさかではないのだろう。

 

 彼女らは現在、深い森の中にいる。手には虫取り網を持って、首からは木で出来た虫かごをぶら下げていた。神剣さえ無ければ、虫取りに向かう子供そのまんまの姿だ。

 虫かごは横島とシアーの手製のもの。これら道具のおかげでテンションは最高潮まで高まっている。

 

『女体じゃなく虫を追いかけるなんて、あのころの俺は若かったな~』

 などとぼやきつつ、虫かごを作る横島を子供たちは、特にシアーはニコニコと見つめていた。

 

 目的はオルファが羨むような可愛い動物をゲットすること。

 だったら虫かごは必要ないのでは、などという突っ込みを入れるのは野暮というものだ。

 横島が作ってくれたものを粗雑に扱うという選択肢は、彼女らには無いのだから。

 

 目標の動物は、実は無い。

 とりあえず森にいけば何か居るだろう、というおおざっぱな考えだけで動いていた。

 森で色々な騒ぎはあったが、何があったのかは割愛する。

 結果だけを言えば、彼女らは特大の獲物を見つけることに成功したのだった。

 

 その日の夜。

 第二詰め所のリビングでは夕食準備が進められていた。

 緑と黒を基調としたメイド服に身を包んだハリオンとニムントールが、ほかほかと湯気が立つスープを並べていく。

 どうしてグリーンスピリットにだけメイド服が支給されるのか分からないが、似合っているのは間違いないので誰も文句は言わない。

 ただ、エスペリアのメイド服とは違いエーテルで出来ているわけではないので、戦闘だけは出来ないが。

 スプーンとフォークと箸が置かれる。箸は横島専用だ。

 基本的に食事はスプーンとフォークだが、漆のようなものが塗られた箸での食事も上流階級では行われる時もあった。

 

「それでは……いただきます」

 

「いただきます!」

 

 いつものようにガヤガヤと賑やかな食事、とはならなかった。

 一番元気な子供たちが、何故かしずしずとスープを口に運んでいたからだ。

 

「あらあら~あんまり食べていませんねえ~どうしたんですか~」

 

 いつも豪快に食べるはずの子供達が、静かにゆっくりと口にご飯を運んでいる様子にハリオンが首を捻る。

 特に子供たちが嫌いな食材を使っているわけでは無いので、体の具合でも悪いのかとセリアは心配した。

 

「お腹の調子でも悪いの?」

 

「ううん! 別に調子が悪いわけじゃ……あっ! うん、やっぱりお腹痛いよ!!」

 

 ネリーが答えるが、やはりどうも普通の様子では無い。

 ほんの一口二口だけスープを飲んで、そこでスプーンを置いてしまう。

 

「ええと……今は食欲が無いから、後で自分の部屋で食べるね!」

 

「シアーも」

 

 食器を持つとそそくさと食卓から離れようとする青の姉妹。

 恐ろしく挙動不審である。こういう場合にいち早く動くのが、第二詰め所のまとめ役であるセリアだった。

 

「貴方たち……何を隠しているのかしら」

 

「ギク!! ベツニナンデモナイヨ」

 

 言葉は片言、汗はダラダラ、顔色は真っ青。これで何も隠していないと思うほうがどうかしている。

 セリアは二人の様子を見て、すぐに状況を察した。

 

「大方、オルファのエヒグゥに対抗心でも出して、野良エヒグゥでも拾ってきて隠しているのね」

 

「違うよ!」

「よ~!」

「そうです! エヒグゥじゃありません!!」

「……馬鹿」

 

 あっさりと自爆する子供たち。というかヘリオン。

 はあっ、とセリアは溜息をして、現在の状況を完全に把握した。

 

「……つまり、エヒグゥじゃない動物を拾ってきて、それを部屋に隠していて、ご飯を持っていこうとしたわけね」

 

「はぅ! 正解ですぅ」

 

 完全に答えを言い当てる。

 ネリー達は絶望を覚えてがっくりと膝をつくが、

 

「まったくもう、私は別に飼っちゃだめなんて一言も言っていないでしょう」

 

 その言葉に子供達は目を光らせた。一番反対するのがセリアだと思っていたのに、まさかそのセリアが一番に賛成してくれるとは。

 驚いたのは子供達だけではなく、ヒミカ達も驚いたように目を大きく見開いてセリアを見つめていた。

 

「ちゃんと世話するなら許すわよ。ただ、私達が遠出して世話できなくなった時の事は考えておきなさい。それが出来ないようなら、森に返してあげなさい」

 

 ネリー達が歓声を上げた。

 セリアのお墨付きがもらえるとは想像もしていなかったにちがいない。

 ただ、ニムだけは不安げな表情をしていた。

 

「それで、ネリー達は何を取ってきたのですか。見てみたいです」

 

 ナナルゥが顔色も声色も変えず、しかし興味津々に言った。

 

「うん、ちょっと待っててね! とっても可愛いんだよ!!」

 

 子供達がどたどたと二階に駆け上がっていく。

 そんな子供たちをやれやれと見つめていたセリアだったが、どういうわけか残った全員に見つめられていると分かって、不思議そうに首を傾げた。

 

「どうしたのよ」

「セリアって本当にお母さんね」

「なによそれ」

「書物に、母の愛は山より高くバルガ・ロアー(地獄)よりも深いと記述がありましたが、それに通ずる所があります」

「そこまでのものじゃあ……」

「私はお姉さんですけど~セリアさんはお母さんです~」

「そう言われると、妙に年を食った感じがして嫌なんだけど」

「母……とくれば新妻! いや、ここは若き未亡人でいこう。毎夜毎夜体が疼く! その疼きは、俺が止める!!」

「貴方は口を開かないで」

「ニムのお姉ちゃんは私だけです!」

「いやそれは……うん、そうだろうけど」

 

 流石に子供たちには負けるが、それでも賑やかな会話が成される。

 少しして、ネリーは白いシーツが掛った籠を手に持ってやってきた。中々大きい籠で、意外と大きい動物なのかとセリアは思う。

 

「おぎゃあーーー!!!」

 

 籠の中の動物の赤ちゃんが、そんな泣き声をあげた。

 おぎゃあ。そんな泣き声をあげる動物なんて居たかしら。

 セリアは内心の不安を打ち消すように首を傾げる。何人かは顔を引きつらせていた。

 

「あらあら~まるで人間の赤ちゃんみたいな泣き声ですね~」

 

 ハリオンが空気を読まずにのん気に言う。

 

 ――――いやまさか。そんな事あるはずが。

 

 大人達の緊張を知りもせず、シアーが白いシーツをめくり上げる。

 そして見えたのは、橙色の大きな頭に、小さな体。小さい手に小さい足。

 それは紛れも無く、

 

「人間の赤ん坊じゃないの~~!!」

 

 赤ん坊に負けないぐらいのセリアの悲鳴が、第二詰所全体に響いた。

 

 正座。

 フローリングでの正座は、正直かなり苦しい。

 横島から伝わった正座や土下座はハイぺリアの謝り方ということで、実は少しずつこの世界に広がっていたりする。正座は別に謝る作法ではないが、こちらの世界ではどうしたことか謝る方法や折檻で使われるようになっているらしい。主に横島の功績だろう。

 重苦しい雰囲気の部屋の中で、ネリー達は正座をしていた。ファーレーンはニムの正座を見てハラハラしている。

 騒ぎの渦中にある赤ちゃんは泣き疲れたか、ハリオンの胸の中でおねむとなっていた。

 

「ふぅ~」

 

 額に手をやりつつ、セリアは重苦しい溜息をつく。子供達は溜息のたびにビクビクしていた。

 大人の溜息というものは、子供を不安と恐怖に陥れる最たるものの一つである。

 叱責を恐れて子供達は首をカメのように引っ込めていたが、ネリーだけはセリアと戦おうと顔を上げている。

 

「私が何を言いたいか、分かっているわよね」

 

「分からないもん。ネリー達は拾っただけだから」

 

 捨て子を拾っただけ。

 ネリーはそう主張する。

 思慮が足りない台詞に、セリアの怒りが一気に膨れ上がった。

 

「スピリットが人間の赤ん坊を育てられるわけ無いでしょう!!」

 

「育てられるよ! 一生懸命大きくするんだから!! ご飯だってちゃんとあげるし」

 

「それ以前の問題なのが分からないの! スピリットが、人間を、育てる……不幸になるわ! 私たちも……なによりもその赤ん坊が! リュート様の事を忘れたの!?」

 

 あの年頃の少年が、奴隷と蔑まれていたスピリットという女の子達の味方と宣言したのだ。

 周りからは心の無い言葉をどれほど叩きつけられたか、想像に難しくない。今現在は家族とも最悪の関係らしい。

 それでも、まだリュートは良い。自分自身で茨の道を選択したのだから。

 だが、この赤ん坊は違かった。

 

「この子はね、スピリットに育てられたって経歴が刻まれるの! そうしたらこの子の一生はどうなるの!? それだけじゃない、スピリットが人間を隠し育てているなんて知れたら、私達の首が飛ぶわ!! そもそも育てる事なんてできるの!? 常識で考えなさい!!」

 

 セリアは容赦無く現実を述べる。

 厳しい口調だったが、言わなければいけないことなので誰も口を挟まない。

 

「じゃあ、セリアさんはこのまま赤ちゃんを放っておいて良いって言うんですか!?」

 

 俯いていたヘリオンが顔を上げて言った。彼女の目には、珍しく怒りがある。

 

「赤ちゃんはずっとずっと泣いていたんです! こんなに小さい体で、歩くことすら出来ないのに置き去りにされたんですよ! 放っておけるわけないじゃないですか!」

 

「私が言いたいのはそういう事じゃないのよ! まずそもそもの話として――――」

 

 パンパン。

 

 いきなり柏手の音が響いて、全員が言葉を止めて音の方に目を向けた。

 拍手を打ったのは横島だ。激しい言い争いに腰が引けていたが、セリアと子供達に向ける眼差しは優しげだった。

 

「あ~~今日はもう遅い。今からこの子の親を探すにしても、城に届けるにしても、ちょっと無理がある」

 

 日も落ち、外も冷え始め、赤ん坊を連れて城まで向かうのは危険が大きい。

 少なくとも、今日一日は詰め所内で世話をするほうがいいだろう。それには特に反対意見は出なかった。

 黙り込むネリーに、横島は腰を落として視線を合わせる。

 

「あ~~……ネリー、やっぱりここで赤ちゃんを育てるのは無理だと思うぞ。それに、親が本当に赤ちゃんを捨てたのかも分からないしな」

 

 横島が優しく言うと、ネリーはしばらく俯いて黙っていたが、悔しそうにしながらも、やがて小さく頷いた。

 第二詰め所で赤ちゃんを育てるなど不可能だと、本当は分かっていたのだ。

 それでも、わんわんと泣き続ける赤ん坊を前にして、なんとかしたかった。抱き上げて、あやして、ようやく笑みを浮かべてくれると、もう放したくなくなった。

 本当に赤ん坊の事を考えるなら、すぐに人間に預けなきゃいけないのは知っていたのにだ。

 自分がワガママだったのだと、ネリーは落ち込んで俯いてしまう。そんなネリーの頭に、ぽんと暖かいものが触れた。

 

「それにしてもよく見つけた! 赤ちゃんの命を助けたんだ、偉かったぞ!!」

 

 横島は笑顔で褒めながら、ネリー達の頭を拳でぐりぐりする。

 セリア達は、はっとして顔を見合わせた。

 もし、子供達が赤ちゃんを発見できなければ、この子は間違いなく死んでいただろう。

 育てるかどうかはともかく、子供達は赤ちゃんの命を救ったのだ。それは確かな事実。

 子供チームの代表として、涙も見せず気丈にセリアと戦っていたネリーはそこで限界だった。

 

「あぅウウ! ヨゴジマザマァァ~!!」

 

「おいこら! 鼻水つけんな!」

 

 横島の腹の辺りに涙と鼻水で濡れた顔を押し付けるネリー。

 苦い表情になる横島だったがさせるに任せて、余った両手でねぎらう様にシアーとヘリオンとニムの肩をトントンと叩く。シアーは嬉しそうに、ヘリオンは幸せそうに顔を緩める。

 二ムだけはぶっちょう面で嫌そうにしたが、横島の手を払おうとはせずにされるがままになっていた。

 今回だけは特別だからね!

 そんな心の声が聞こえてきそうだ。

 

 さらに横島はセリアに向き直ると頭を下げた。

 

「悪かった。本当なら俺が言わなくちゃいけないことだったよな」

 

「謝る必要などありません。貴方にそんなリーダーシップは期待していませんから」

 

 冷たく言い放つセリア。

 ぐっと言葉に詰まる横島だが、ハリオンはニコニコと笑う。

 

「ナナルゥさん~今のは『私が厳しいお母さん役をやるから、ヨコシマ様は優しいお父さん役をやってくださいね~』って意味なんですよ」

 

「なるほど、勉強になります」

 

「そんなわけないでしょ! うあ、ヨコシマ様も何を興奮してるんですか!?」

 

「セリアがいじられ役になってくれると本当に楽ね」

 

 かなり本気で言うヒミカであった。

 

「とにかくだ、今日だけは俺達でしっかりと赤ちゃんを世話するぞ!」

「おおー!」

 

 何とか話も纏まって場か収まったとたん、

 

「ふぎゃあ! ふぎゃあ!!」

 

 今度は赤ん坊がけたたましく泣きだした。

 ハリオンの胸の中、何が気に食わないのかわんわんと泣きだす。腕の中で泣き続ける赤ん坊に、ハリオンはめずらしくおろおろした。

 

「わ、わ、泣きだしちゃいました~こういう場合、どうしたら良いんですか~!?」

「どうしたらって言われても……お腹がすいているからミルクが飲みたいとか?」

「おっぱいなんて出ませんよ~」

「この時期ならもう離乳が済ませているのではないでしょうか」

「じゃあ何を食べさせたらいいの!?」

「パンとか焼き菓子はとかは」

「殆ど歯が無いのに出来るわけないでしょ!」

「でも、街にいる歯の無い犬は骨を噛み砕いてましたよ」

「犬は犬! 赤ちゃんは赤ちゃんでしょう!!」

 

 赤子の鳴き声に合わせてセリア達が一斉に動き出すが、どうにも慌ててて頼りない。全員が始めての赤ん坊に軽いパニックなっている。

 何をどうしたらいいのか分からず、とにかく響く泣き声に、自分たちが悪いことをしてしまったのか不安になっているようだった。

 

「慌てなくていいぞ。赤ん坊なんて泣くのが仕事みたいもんだしな……ご飯は離乳食……果実でも摩り下ろしてあげるといいな。ヘリオン頼む」

 

「りょ、了解です!」

 

 その中で横島だけはのんびりしたままだった。

 ひのめの世話を何度か見ていたこともあり、赤ん坊が泣く程度で慌てたりはしない。

 慣れているし、なんと言っても都市が壊滅することも無いのは非常に助かった。

 果実と聞いてすぐさまネネの実をすり潰して与えることにする。

 

「ふぇ~ん! ダメです、食べてくれません! お願いだから食べてください~!」

 

 ヘリオンが涙目でスプーンを近づけるが首を振って寄せ付けない。

 ついには「ぶー!」と思い切り息を吹きかけて飛ばしてしまう。

 うろたえるスピリット達だが、横島は相変わらずのんびりとした様子で赤ちゃんを抱きかかえる。

 

「どうしても食べないなら無理しなくていいぞ。まだまだ理由はあるかもしれん。例えば……やっぱりな」

 

 オムツというほど上等ではないが、赤ちゃんのお尻を覆っている布地をずらして見てみると、そこはグチョグチョに汚れていた。

 布地が粗く厚かったから気付けなかったらしい。

 

「こっちが本命だな。オムツはないだろうし……なあセリア、使い捨てても良い布地ってあったか?」

「はい、すぐに持ってきます!」

「オムツがあればいいんだけどな……よし変えてやるから暴れるな」

 

 ただの布地を渡されて、苦労しながらも横島は赤ちゃんのお尻を拭いて整えてやる。

 ちなみに、赤ちゃんは男の子だった。

 

「よし、これでお前もすっきりしただろ!」

 

「あー!」

 

 高い高いをしてやると、大泣きから一転して笑顔になる。

 

 ――――――か、可愛い!!

 

 スピリット達の目じりがトロトロに下がる。

 まん丸のおめめをキラキラと輝かせて、ちっちゃい手足をパタパタと動かす赤ん坊の可愛さに理由などなかった。

 触ってみたい。抱っこしたい。だけどあんなに小さくて柔らかいのを抱きしめたら壊れそうで怖い。

 そんなスピリット達の心の動きを、横島は感じ取って小さく笑った。

 

「いつまでも俺が抱いてると疲れんな、抱っこの仕方教えるから誰か」

 

 はい!!

 

 話し終える前に一斉に返事と共に手が上がる。

 想像以上の勢いに横島は押されながらも、とりあえず抱っこのやり方を皆に教える。

 じゃんけんに勝ったヒミカが一番手となって抱っこした。想像してたよりも重くて、命の重さにヒミカは感動する。

 大人達が次々と赤ちゃんを抱っこする中で、子供達は『どうだ! 可愛いだろ!!』と自分の事のように得意顔していた。

 

「ヨコシマ様! 見てください、ほら、手のひらで指を一本だけ掴んでくるんですよ! これはもう……反則です!」

 

「こら~それは食べ物じゃないですよ~。も~何でもかんでも口に入れようとするんですね~」

 

「移動しようとしています。これがハイハイと呼ばれるものですね……頑張ってほしいです」

 

 赤ちゃんの行動一つ一つにスピリット達は大わらわだ。

 横島はその光景を楽しそうに、そして疑問があったら、そのつど正解を導き出す。

 セリア達はそんな横島に感心した。

 

「ヨコシマ様は赤ちゃんの世話が出来るんですね」

 

「以前の仕事場で大変な赤ちゃんの面倒も何度か見てたからなー」

 

 実際は大変なんてレベルでは無かった。

 首都崩壊もありえる程だから、赤ちゃんの扱いも必死になって覚える必要があった。

 

「首はすわっているみたいだし、ハイハイもできるか……生後八ヶ月……こっちの暦で一年は経過してるのかな。寝返りもうつぶせも問題無しだな。これから注意することは、とりあえず冷やさないようにする事。お尻はかぶれないように布地は強く巻かないようにしたほうがいいかな。それと口に物を入れることが多いから、手の届く範囲に物を置かないこと。食事は数回に分けて根気強く……あとは」

 

 横島はてきぱきと指示をしていると、熱のこもった視線を周囲から感じた。

 周囲を見ると、尊敬の目でスピリット達は横島を見つめていた。

 一体何事かと横島は首をひねる。

 

「あ、その……頼りになると思いまして」

 

 珍しくセリアが横島を賞賛する。

 

「はい~とってもカッコイイですよ~」

 

 ハリオンもニコニコしながら横島を称える。他の皆もつぶさに横島を褒めた。

 何気にここまで賞賛されることはない横島は、恥ずかしさで小さく頭を掻いた。

 だが心の中ではニヤリと邪な笑いを浮かべる。このまま赤ちゃんをダシにしてチヤホヤされるのも悪くない。

 上手くやれば擬似父母プレイも可能で、モテモテになれそうだと画策する。

 

「じゃあ次は赤ちゃんが喜ぶ遊びを教えるぞ。まずは高い高いだ!」

 

「すごいすごい! 本当に笑ってる! ヨコシマ様、他には何か無いんですか!?」

 

「良し、次はいないいないばあだ!」

 

 尊敬と好意を集め続ける横島。

 このまま横島の考えどおりモテモテに――――――いける訳が無い!!

 この男が何のオチもつけずに平穏無事にいくなど、神は許さないし誰も許さない。

 

「あら、これは?」

 

 赤ちゃんが入っていた籠の中から、ファーレーンが一枚の羊皮紙があるのを見つけ出す。

 そこに書かれている文字をファーレーンは何気なく読み上げた。

 

「タダオ君へ。

 約束どおり、この子をそちらで預かってください。めどが付いたら、こちらから連絡します……って、え?」

 

 ビシ!!

 

 空気が、まるでひび割れたような音を立てた。

 絶対零度の視線が視線が視線が横島に刺さる。横島はもう、南極にでもいるかのように顔を青くしていた。

 裁判の執行者として、セリアが一歩前に出る。

 

「名指しされていますけど、どういう事ですか、これは。それに君付けですか」

 

「は……ははは、さあどういう事っすかね。ボクワカンナイ」

 

「ふ~ん、そう。ネリー」

 

「は、はい!」

 

「籠はどこで拾ったの?」

 

「はい! 第二詰め所玄関であります!!」

 

 どうやら被告に弁護士はついていないようである。いたとしても、弁護のしようがない。

 もうこの時点で明らかだ。

 つまりこの赤子は捨て子などではなく、横島に送られたものなのである。

 それが意味するものは果たして何であろう。しかも呼び方が君付けである。

 

 それが指し示す意味に重々しい空気が辺りに満ちるが、『そんなの関係ねえ』とばかりにナナルゥが空気を読まずに、

 

「ヨコシマ様、懐妊は計画的に行わないと悲劇につながります。愛憎系の小説では、子供がキーポイントでトラブルが発生しやすい統計が出ているので、これからは注意しましょう」

 

 何だか得意げに胸を張りながら、爆弾を投下した。

 しばし、沈黙。

 そして、爆発。

 

「ヨコシマ様の子供だー!!」

「子供だ~!!」

「子供なんですか~!?」

 

「違うわー! エニの時と同じ流れじゃねえか! 大体、俺はまだどうて……どう……どどど童貞ちゃうわー!!」

「ヨコシマ様なら、それでもヨコシマ様ならきっと童貞でも種付けする霊力を持っていても可笑しくない!!」

「そんな霊力いらんわー!!」

「しかし、ヨコシマ様の世界には処女受胎の実例があると……」

「それがなんじゃあ!? 何が悲しくて童貞で子持ちにならなあかんのや~! せめて一発やらせんかワレーー!!

「ふぎゃあふぎゃあああ!!」

「ああ! また赤ちゃんが泣きだしちゃいましたー!」

「ヨコシマ様ー!! 貴方という人はーー!!」

「俺か! 俺が悪いんかーー!?」

 

 こうして、赤ちゃん騒動は纏まるどころか、さらなる混乱を巻き起こすのだった。

 

 次の日。

 横島は朝早くから城へと向かっていた。正確には、冷たい視線に晒されて向かわされた。

 この赤ちゃんをどうするかの善後策を聞きに言ったのだ。

 一体どういうやり取りがあって横島の元に赤ちゃんが来たのか、送られた当人も分からないが、流石に第二詰め所で赤ちゃんを育てることにはならないだろう。今日中にはお別れだ。

 

 それは子供達にも分かって、名残を惜しむようにネリー達は、いや第二詰め所のスピリット全員が赤ちゃんに掛りきりだ。

 赤ちゃんが見せるふとした仕草に、全員がメロメロとなっている。子供たちは言うに及ばず、ハリオンやファーレーンも満面の笑みで、セリアやヒミカは弛む表情を必死に引き締めいている。ナナルゥは笑顔ではなかったが、真剣な目つきで赤ちゃんを観察していた。

 後数時間でお別れだから、全力で赤ちゃんを甘やかして笑顔を見ようと頑張っている。遊び食べをしてテーブルを汚す姿すら愛おしかった。

 しばらくして横島が帰ってきた。どこか渋い表情をしている。

 

「現在、戸籍調査や聞き込みを行っており、一週間ほどで親を探し出せるとの見込みだから、それまでの間は第二詰め所で面倒見る様にってお達しだ」

 

「……本当ですか? いえ、本気ですか?」

 

「ああ、本当で本気だ。人手が足りないんだとさ。ちゃんと、辞令を受け取ってきたぞ」

 

 わぁーー!!

 子供達が飛び上がって歓声をあげる。

 だが、大人達は表情を曇らせたままだ。

 

「……どういう事ですか? 戸籍調査は結構ですが、それ以前の問題として第二詰め所で子供を預かる理由になっていません。ここは託児所ではないのですよ」

 

 セリアの言い分は尤もだった。

 人間が遊びに来るぐらいは許容範囲だろうが、いくらなんでも赤ちゃんを預かるのは無茶苦茶だ。

 俺にも分からない、と横島はぶっちょう顔で言って横を向く。何かを隠しているのは誰にでも分かった。

 城で何かを知ったか、あるいは思い出したかしたのだろう。そして、理由は分からないが真実を口にしてはいけない事になったのだ。

 セリアは不満げに唇を尖らせる。

 

「……つまり、子供はちゃんと父親の元で育てろ、という事ですか」

 

「だから違うっての! そんなに俺が信用ならんか~!!」

 

「いいえ、信用してます。この人ならやりかねないという意味で」

 

「そんなん信用じゃないぞ!?」

 

 大仰な身振り手振りを交えながら横島は強く否定した。

 別にはセリア達も横島が父親であると思っているわけではない。また、適当な女に手を出したとも思ってはいない。

 多少恥ずかしくはあるのだが、横島が自分達に対して親愛と愛欲を向けてくれていると分かっている。それに意外と性的に一線を守っているのも知っている。最低限ではあるが常識や道義も、これはこれで持っている。

 間男になって子供を預けられたというのも考え辛い。

 だからこそ分からない。一体、どういう経緯でこの赤ちゃんは横島に預けられて、その理由をどうして横島が隠すのだろう。

 

「ヨコシマ様、本当にあの赤ちゃんの身元は分からないんですか」

 

 猜疑に満ちたセリアの瞳が横島に向けられる。

 この決定はいくらなんでも可笑しい。どうして戦闘部隊である第二詰め所のスピリット達で赤子を育てなければならないのか。人手が足りないなどという、世迷言を信じる奴がどれだけいるのだろう。精々、子供達が信じる程度だ。

 セリアの視線を真っ向から浴びて、横島は怯えたように後ずさりしたが、

 

「……この子は、しばらく第二詰め所で預かる」

 

 質問には答えずに、それだけをしっかりと宣言した。語気は弱弱しいが、そこには断固とした意思があった。

 基本的に弱腰の横島が、しつこく追求されてもこうまで頑固に主張するのだ。何か隠された事実があるのだろう。

 たとえば、この赤ちゃんは貴族の私生児が何かで、相続絡みで命を狙われたから安全の為に第二詰め所に置かれたとか。それなら情報を秘すのも分かる。

 だが、例えそうでも多少の事情はしゃべる筈だ。どうしてここまで黙秘するのか。

 

(何か負い目があるってことかしら。ヨコシマ様だけでなく……私達も?)

 

 ひょっとしたら、この赤子は先のスピリットの争いで親をなくしたのかもしれない。

 それも、最悪の場合は第二詰め所のスピリットの誰かが間接的にこの赤ちゃんの親をあやめてしまった可能性もある。

 横島は罪滅ぼしの為に赤ちゃんを預かることにしたのか。何にしてもこれはセリアの推論に過ぎないが。

 

「私たちは育児などしたことがない素人です。それに常に第二詰め所にいるわけでありません。まさか哨戒任務や訓練所にまで赤ちゃんを連れて行くなんて考えてませんよね?」

 

「その辺は考えてあるぞ。仕事については第三詰所にもある程度やってもらう事で、常に第二詰め所の人員を数名は赤ちゃんに当てる。育児に関してはプロフェッショナルを呼んであるから、一緒にやって覚えてもらう。もうそろそろ来るはずだ」

 

 相変わらず段取りは完璧だった。

 有能といえば有能だが、自らトラブルを起こして解決するのだから褒めようという気には一欠けらもならない。

 それにいくらなんでも、この短時間で完璧すぎる。家事の専門家を第二詰め所に送るなど、いくら横島でもたった数時間で手配できるわけがない。やはり何かあるのだろう。

 次にファーレーンが手を上げて横島に質問する。

 

「プロフェッショナルを呼んであるという事は、人がここに来るんですか?」

 

「ああ、赤ちゃんの扱いも家事も出来る人を呼んである。数日程度だけど皆も色々と勉強してくれな」

 

 ファーレーンの目に僅かな怯えが入った。

 外で仕事としてなら人間相手でも平気だが、日常の象徴である第二詰め所に見知らぬ人間が入り込むのは嫌なのだろう。

 それにファーレーンは心に弱い所がある。それが仮面を被る理由にも繋がっている。

 他に嫌がっているのはファーレーンの妹分であるニムントールだ。彼女も自分の領域に異物が入り込むのを好まない。

 それ以外のスピリット達は緊張がありつつも、少しずつ変わっていく日常に何かしらの期待があるようだ。

 

 少しして、赤ちゃんの世話役が来た。

 メイド服に身を包んだ、小さい老婆だ。

 シアーとほぼ同じぐらいの背丈だが、腰は曲げずにきちんと背筋を伸ばしている。

 短めの髪を頭の天辺あたりで団子のように纏めていた。

 切れ目でツリ目。さらに眼光は鋭く、相当怖そうに見えた。シアーやニムントールは思わず一歩下がってしまう。

 

「今日から皆様に赤ちゃんに関する知識一般を教えるノーラと言います。どうぞよろしくお願いします」

 

 口調は丁寧だが、僅かに威圧を感じる芯の通った声に、スピリット達の背筋がピンと伸びる。

 

「はっ! ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」

 

 まず率先してセリアが代表のような形で前に出た。横島はこういった所がセリアの凄い所だと感じる。

 この老婆が果たしてスピリットに危害を与える存在ではないか見極めるため、そして危険な人物なら、その害を自分が引っかぶって他の皆を守るため、一番に率先して動く。

 ヒミカも同じように動くが、彼女は上下関係を重んじ人間に楯突くという事ができないので、やや反抗的なセリアの方がこの役目に合っているといえた。

 

「よし、それじゃあ今日の赤ちゃんの世話と勉強はセリアとネリーに頼む。ノーラさんに従ってくれ。

 ヒミカは俺と来てくれ。悠人とルルーと一緒に打ち合わせすっから。ファーレーンは第三詰所の哨戒を指導してくれ。

 後は訓練所に行って既定の訓練だ」

 

 横島が指示して、皆が一斉に動き出す。

 こうして一週間の育児体験が始まった。

 

 ちなみに、赤ちゃんを利用してスピリットの仲を深めようと考えた横島の企みは、

 

「ハリオンさん! これから町にお菓子でも食いに行かないか!」

 

「ごめんなさい~今日はこれから赤ちゃんを背負うおんぶ紐を作るから駄目なんです~」

 

「……ナナルゥさん! 町の広場で演奏会をやるみたいだから、俺と一緒に聴きにいかないか!?」

 

「それは命令でしょうか? これからノーラ様に子守唄を教えてもらうのですが」

 

「…………おいネリー! 暇だったらなんかして遊ばないか?」

 

「あーごめんなさいヨコシマ様。これから赤ちゃんと一緒にお昼寝するから」

 

「………………こ、こんの! 毛も生えていない分際で俺の第二詰所を奪いやがってーー!!」

 

「馬鹿な事を言っている暇があったら、すぐに赤ちゃん用のイスでも作ってください!」

 

 と、母が夫よりも子を重視する古来からの法則によって、あえなく失敗に終わった。

 

 次に育児と家事を教えに来たノーラだが、彼女はスピリット達から嫌われてはいなかった。しかし人気はなかった。

 彼女の指導は罵倒もなく制裁はない。しかし厳しく容赦がなかった。間違えたら出来るまでやらせる。無駄口も泣き言も許さない。ただ手を動かせと言ってくる。

 上手くできても当然と言った顔で、褒めることもしなかった。

 

 取っ付き辛い頑固婆さん。

 それが第一印象で、それは当たっていた。

 スピリットのみならず、人間相手にもノーラは容赦なく指導することで知られた鬼メイドだったのだ。

 

 その中でセリアは特に厳しい指導を受けていた。ちょっとしたミスも許さず、他のスピリットなら成功と言われるほどの仕事しても、セリアに関しては妥協を許さないのだ。

 そして、セリア自身も妥協しなかった。家事から育児全般の知識を、時間の許す限りノーラに付いて師事を受け続ける。

 どうしてここまで熱心なのか、ノーラ自身も不思議に思うほどだ。

 

「ふっふっふ。俺には分かってるぞ! 俺の為に花嫁修業してくれてるんだな! 横島感激ーーーー!!!!」

 

「ノーラ様、騒がしい男を黙らす手段を教えてもらえませんか」

 

「ふむ、では毒草を使用した秘伝の不能薬を教えよう」

 

「いやじゃ~! ノーラさんも、それはずっと秘伝にしておくべきでしょー!!」

 

 ノーラに深く刻まれたしわくちゃが、懐かしむような笑みに変わる。

 偏屈なノーラも、横島がいる時だけは微妙に表情が出ているようだった。

 

 数日が過ぎる。 

 

 居間では赤ちゃんと他のスピリット達がキャッキャッと楽しく騒いでいるのに、セリアとノーラだけが部屋で裁縫のやっていた。

 スピリット用の証書では、基本的に生活費必需品しか買えない。また、この世界では基本的に作れるものは自分で作るのが基本だった。

 赤ちゃん用の靴下をせっせとセリアは作り、ノーラに出来栄えを見てもらう。

 

「ダメだね。やり直し。材料無駄にしてるんだ。しっかり糧になさい」

 

 出来具合を見て、ノーラは一切の手心を加えず冷たく言い切る。

 

「はい」

 

 セリアもそれだけ言って、また作業を始める。

 

「うむ、よし」

 

 今度の出来栄えは満足するもので、ただそれだけを言った。

 

「指導ありがとうございます」

 

 セリアはお礼を言う。

 それだけで会話が止まり、しばしの沈黙が満ちる。

 和気あいあいとお喋りしたりはしない。事務的で淡々とした会話が二人のやり取りだった。

 

「……私はこういうやり方なのさ」

 

 ノーラはぽつりと言った。珍しい無駄口だ。

 そこには厳しい指導に対しての後ろめたさがある。

 悪い指導をしているとは思わないから、謝ろうとは思わない。自分はこう教えてもらったし、それが正しかったと信じている。

 だが別な言葉で言い換えると、どうしたら優しく楽しく指導できるか分からないとも言えた。

 

「いえ、非常に熱心な指導を授けてもらって感謝の言葉もありません」

 

 セリアはまっすぐに言い切る。

 それは皮肉ではなく本心だった。

 最低限の必須教育だけ受けて放置で育てられたセリアにとって、時間を割いてまでしてくれる熱意のある指導は厳しくも幸せだった。

 その言葉にノーラの目じりが下がった。彼女は給仕のまとめ役として張り切っていたが、厳しい指導とやや偏屈な所からか周りから陰口を良く叩かれていたのだ。

 仕事もできないくせに口だけは一丁前と、ノーラは陰口をたたく連中を見下したが、それでも寂しさは感じていた。

 そこに真面目で熱心なスピリットが表れて指導に感謝をしてくれる。どこか救われるような気持になっていた。

 そしてノーラは理解した。どうしてセリアに対して特に厳しくするのか。それはセリアの真面目と不器用さが、どこか自分に重なるからだ。

 

「セリア、この調子で仕事を覚えておくれ。そうしたら駄目な奴らに『あんたらはスピリットよりも家事ができないんだねえ』って言ってやれるよ。私も若いころはあんたみたいに年長者に感謝したものだけど、今の若い者はねえ」

 

 年寄りの伝家の宝刀『俺の若い頃は』の発動だ。ノーラはセリアに親しみを感じたらしい。心に堪った淀みを、愚痴として吐き出し始める。

 その切れ味の前にセリアは撤退することも立ち向かうこともできず、ただ曖昧な笑顔を作りながら相槌を打つという苦行を強いられることとなった。

 何はともあれ仲は良くなって、今後困ったときにノーラは生活の知恵袋として、また年長者として頼りになる人となる。

 

 それから数日が経過した。

 

 その日、セリアは一人で第二詰所の番をしながらのんびりと赤ちゃんの世話をしていた。

 いや、のんびりと言うのは語弊があるだろう。それは戦いだった。

 本来なら数人がかりで赤ちゃんの世話を見るのだが、手違いでセリア一人で見ることになったのだ。

 

 家事をしながら赤ちゃんの世話をする。言葉にするのは簡単だ。だが、それがどれほど大変かは経験しなければ分からないだろう。

 幸いにもおんぶ紐のおかげで両手は空いているから、後ろでおぶったまま行動は出来る。

 しかし赤ちゃんはセリアのポニーテールをいたく気に入ったようで、とにかく引っ張りまくった。

 グキ、ゴキ、グキ、ゴギィ!

 セリアの首と赤ちゃんのわんぱくとの決戦は続き、セリアは何度もコキャッとなった。

 

 首の痛みをこらえつつ、ようやく食事の下準備も終わり赤ちゃんだけに集中できると思ったら、気づけばスヤスヤと眠っていた。

 先ほどまで暴れに暴れて泣いていたのに、ほんの数分で電池が切れたようにこたっと寝付く赤ちゃん。

 セリアは神秘を前にしたようにほうっと息を吐いて、抱っこしたまま深く椅子に腰かける。

 

「どうしてこんなにほっぺが柔らかいのかしら」

 

 ぷにぷにと頬をつつくと、すべすべで柔らかく、それでいて張りがある。

 男の肌とも、女の肌とも違う、赤ちゃんの肌。天使が存在するのなら、きっとこういう肌をしているのだろう。

 

「貴方はヨコシマ様みたいになっちゃだめでちゅよ~」

 

 自分で言った赤ちゃん言葉が凄く恥ずかしい。でも、この寝顔を見ていると、どうしてもほんわかしてしまうのだ。

 散々苦労したのに、この寝顔を見るだけで満足してしまうのだから、何だか割に合わないようで悔しかった。

 

「えいえい」

 

 ぷにぷにとほっぺたをつっつく。

 夢でも見ているのか、赤ちゃんが小さく笑った。たまらなく可愛い。

 

「えいえーい」

 

 ぷにぷにぷにぷに。

 優しく突いていたが、流石に突っつきすぎたのか赤ちゃんが目覚めそうな気配がして、慌ててセリアは赤ちゃんを抱きかかえるとゆらゆらとゆする。

 そうすると、またゆっくり眠りの気配に入っていってセリアは胸をなでおろした。

 

「ごめんね、起こしかけちゃって」

 

「随分と一生懸命なんだな」

 

「初めての事です。必死にもなります。それに、頑張った甲斐は十分ありました」

 

 この寝顔の為なら、それこそ何だって出来る。

 そう思わせてしまうものを赤ちゃんは持っているのだ。

 

「そうかもな」

 

 悠人は笑いながら、ここ一年で十回は皮の剥けた指先で赤ちゃんのほっぺたをつっつく。

 未だに豆を破り続ける未熟な悠人の指で、あの柔らかいほっぺが傷つかないか、セリアは少し心配になった。

 せっかく寝かしつけたのにまた起きないかも不安になったが、セリア自身も先ほどぷにぷにしたし、また赤ちゃんの肌を自慢したいので悠人を止められない。

 

「本当に可愛いな」

 

「はい。人間にどう思われても気にしない……そう気を張っていますが、この子に嫌われたら……きっと辛いです」

 

「これだけ愛情を込めているんだ。嫌うなんて事はあるはずないさ」

 

 そうであってほしい。セリアは心の底からそう願って、次の瞬間にはっとした。

 いつのまにか悠人がいる。

 別に悠人がここにいるのはいい。重要なのは、『いつ』からここにのだろう。

 

「ゆ、ユート様? い、いつから、ここに?」

 

 その質問に、悠人はすこしバツが悪そうに答える。

 

「『ヨコシマ様みたいになっちゃだめでちゅよ~』から……ごめん。どうも声が掛けづらくて」

 

 最悪だ。まさか一番見られたくない所を見られてしまうとは。

 一体自分は先ほどまで何をして、何を言っていた?

 『えいえーい』なんて可愛い声で言ってたような気がする。さらには赤ちゃん言葉を使っていた。

 恥ずかしさのあまり、セリアの頬がリンゴのようになった。

 

「忘れて……忘れてください。あんな似合ってない言葉遣いなんて」

 

「いや、そんな事無いぞ。随分と似合ってた……母親みたいな」

 

「そんな事言われても……ああもう!」

 

 どうして皆そう言うのだろうか。母親なんて経験したことがない。

 ただ、自分が欲しかった愛情やその他諸々を、少しでもこの子に注ぎたい。ただそれだけの事なのだ。

 

「将来は保母さんなんて似合うかもな」

 

 悠人が特に含みも持たずにさらりと言った。純粋に似合うと思っているのだろう。

 だが、セリアはそんな悠人の言葉に険悪感を持った。

 ありえない未来を聞かされて、心が氷のように冷えていく。

 

「スピリットが保母なんてありえないわ」

 

「でも、今ちゃんとあやしてるだろ。戦争が終わったら可能じゃないか?」

 

「これは例外です。本来ならありえません。こんなことになったのは、またヨコシマ様がバカなことをしでかしたからでしょう」

 

「横島なら毎回バカなことをやるから、案外またやることになるかもしれないぞ」

 

 冗談のように悠人が言った。

 セリアも笑い返そうとしたが、それがまるで冗談になっていないことに気づいてしまう。

 

「ユート様、冗談になっていません」

「いや、すまん」

 

 悠人は素直に謝罪した。

 そんな風に謝罪されると、本当になる気がするじゃないですか!

 思わずそんな文句を言いそうになったが、何とか言葉を飲み込む。これ以上、何かを言うのは本当に危険と頭が警告を発していた。

 

「まあ、ともかくだ。常識なんて変わるって事を言いたかったんだ。人もスピリットもきっと変わっていく……いや、もう変わり始めているな。戦闘奴隷なんて立場は無くなると思うぞ。

 例えばアセリアなんて絵画や彫刻なんてかなりのレベルだから、芸術家になれるかもしれないな。それに料理も家事もどんどん出来る様になっているから、良い母親になれるかもしれないぞ」

 

 ――――あのアセリアが良い母親になる?

 

 スピリットが母親になるというのも狂気であるが、まさかあのアセリアが言われるとは。

 

 馬鹿なことを、と否定するのは簡単だが、男性である悠人が良い母親になるといったのだ。男の立場から見て、アセリアは魅力的に見えるのだろうか。

 セリアは答えず沈黙した。肯定も否定もしたくなかった。

 その光景が見たいような、見たくないような。変わっていくことの興味と恐怖が同時に襲い掛かってくる。

 

「どうしたセリア?」

 

 黙りこんだセリアにどうかしたのかと悠人が聞いて、セリアは我に返る。

 どこか間の抜けた顔の悠人に少し腹が立って悪戯をすることにした。

 

「いえ、何でもありません。それにしてもユート様、良い母親になれるというのは、もしかしてアセリアを伴侶として迎えたいということですか?」

 

「え!? いやそこまで言っているわけじゃなくてな!」

 

「へえ、随分とアセリアを買っているようでけど。確かに随分と料理ができるようになったらしいですが、もしや貴方が花嫁修業でもさせているとか?」

 

「う、あ……そういうことじゃ無くて……そうだ! 俺は横島に用があったんだ。じゃあな、セリア」

 

 顔を赤くして逃げるように去っていく悠人に、セリアは声を殺して笑った。

 どうやら恋愛に関して奥手で苦手な様子だから、当分はアセリアと何かしらの発展はないだろう。

 しかしそれにしてもあのアセリアが、男性に良い母親になれると言われるなんて――――

 

 私には関係ない。私の手は血で汚れている。私の手は神剣を握るためにある。

 安易な希望を持って後々苦しまないために、セリアは自身に言い聞かせて心を冷やす。

 そこに、一人の老女が近づいてきた。

 

「あ、ノーラ様」

 

「ふむ、赤ちゃんは寝ているようですね……セリア。今日はテーブルマナーを教えましょう。家事はもとより、礼節を身に着けることは将来間違いなく役に立つでしょうから。そして貴女が身に着けたことを、他のスピリットに伝えていきなさい」

 

「了解しました。よろしくお願いします」

 

 心の中でどれだけ理由をつけながら未来を否定をしていても、セリアは黙々と人間社会に出る為の技能を身につけようと行動していた。

 

 それから数日が立った。

 今日が赤ちゃんを預かる期限の一週間目、最終日だ。

 誰もが不安と期待を隠せなかった。 

 一体この赤ちゃんはどうなるのか。どのような人が面倒を見るのだろう。しっかりと世話をしてくれるのか。

 ひょっとしたらこのまま第二詰所で暮らせないか。

 

 そんな期待は、あっさり砕けた。

 第二詰所の玄関に設置された呼び鈴がなった。扉を開けると、そこには一人の女性の姿があった。

 年齢は二十歳程度で横島より少し上ぐらいだろう。パッチリした目と短髪で若々しく元気な印象を受けるが、よくよく見ると肌や髪の艶がなく、手も荒れている。

 この女性が出す雰囲気は、苦労知らずには出せない円熟味があった。

 勝気な少女が母となり苦労を重ねて色々とまろくなった。そんな印象を受ける。そしてそれは当たっていた。

 

「こんにちわ。タダオ君」

 

「お久しぶりっす!」

 

「今日は飛び掛かってこないのね」

 

「いつも飛び掛かってるわけじゃないっすよ!」

 

「どうだか」

 

 女性はさばさばした様子で横島に軽口を叩き、横島は苦笑いを浮かべながらも楽しそうに対応した。

 居間に女性を通すと、赤ちゃんを抱いたネリーに目をやって手を伸ばそうとしたが、今はそうすべきじゃないと手を引っ込めてセリア達に向き合う。

 それを見た横島は、まず女性の紹介をスピリット達に始めた。

 

「この人が赤ちゃんの母親のルイーズさんだ」

 

「ルイーズと言います。このたびは色々とお世話になりました」

 

 ルイーズはぺこりと頭を下げた。スピリット達も頭を下げる。

 聞きたいことは沢山あった。とにかく事の経緯を教えてもらわねばならない。

 

「ヨコシマ様、この方とそして一体何があったのか……説明をしてくれますね」

 

「あら、タダオ君。説明してないの?」

 

「まあ、変な同情とか先入観で世話してほしくなかったんで」

 

「単純に馬鹿な出会いを話したくなかっただけじゃない?」

 

 ジトーと横島を睨むルイーズ。横島は「なはは」とごまかすように笑みを浮かべる。

 ルイーズは「まったく!」と呆れたように言ってから、事の経緯を話し始めた。

 

「そうですね……事の始まりはイ―スペリアがサルドバルトに仕掛けた戦争です。

 私達はイースペリアに住んでいたんですが……数か月前のあの爆発で良人も家も仕事も失ってしまったのです。私とこの子はたまたま離れていて無事でした」

 

 以前のセリアの予想は確信を付いていた。

 この子の親はラキオスによって殺されたのだ。世間一般ではイースペリアの裏切り、そして自爆という形になっている。

 

 だが真実は。

 

 裏切りについては王の欲望と、横島にしか知らされていないがソーマという男が調教したスピリットが原因だ。

 そしてマナ消失爆発については、横島達がエーテル変換施設を暴走させたのが真相だった。

 イースペリアはラキオスの被害者でしかない。

 

 勿論、この事は緘口令がしかれてスピリット達は何も口に出来ず謝る事すらできない。

 真実は闇に消え、悪いのは全てイースペリアだというのが歴史となった。そうしなければ、ラキオスが滅びてしまう。

 

「イースペリアでは生活できないので、遠縁を頼ってラキオスに来て生活を始めたんですけど、この間の襲撃でその方も亡くなってしまいました。完全に天涯孤独なってしまって」

 

 ラキオスの戦いに巻き込まれて一文無しになり、しかも親類知人が全滅してしまったのだ。

 予想以上の悲惨さに全員の表情が沈痛な面持ちとなる。

 

「国からの支援は受けられないのですか?」

 

「……私はイースペリアからの難民でしたから」

 

 イースペリアは龍の魂同盟の裏切り者。

 その国民である以上、風当たりはどうしても大きかった。

 職に就くのは難しく、心の無い言葉をぶつけられたのも一度や二度ではない。

 

 レスティーナもイースペリア国民を厚遇することは立場上不可能だった。

 可能な限り偏見や差別をなくそうとしていたが、いくら法を整えようと、理屈を唱えようと、人の心から恨みを消すには幾ばくかの時間は必要だ。

 この母子にとって、その幾ばくかの時間が命取りとなってしまうのだった。

 

「なぜアズマリア女王は裏切りなど……」

 

 疑問と、それ以上に恨み辛みが込められた呟きだった。

 

 ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 

 セリア達は心の中で謝る。

 彼女らは何も知らされずにいたから野望の手足に過ぎなかった。

 それでも渦中の当事者である以上、何の罪もないと胸を張れるものはいない。

 だから心中で謝る。今の彼女達にはそれしか出来なかった。

 

 ――――頼むから疑問に思わんでくれ。

 

 横島だけは必死にそう思った。

 万が一、ラキオスが怪しいなどと思い真実に近づいて、そう吹聴でもされたら、女王レスティーナは鬼となってルイーズをどこともない暗黒に消さざるを得なくなる。

 イ―スペリアの人々にどれだけ無念の思いがあろうと、レスティーナ自身と彼らの安全のためにも真実を明らかにするわけにはいかないのだ。

 

「あの人には申し訳ないけれど、もう実入りが良い仕事でもするしかないのかなって、公園で泣い……落ち込んでる時にタダオ君に会ったんです」

 

「そうなんすよ! とても困ってるみたいなんで、そこで俺が話を聞いてやって助けてやらなければと!」

 

「さすがヨコシマ様ですね。優しくて行動力があります!」

 

 ファーレーンが興奮したように横島を称賛する。

 すると、ルイーズはにっこりと笑った。

 

「『そこの巨乳で美人なおねーさーん! ちょっとお茶でも飲みませんかーってこぶつきかーい!! 期待させおって~いくら俺でも人妻は無理だぞくそ~!』だっけ。

 はあ~崖っぷちに居る人間に、よくもまあ好き放題言ってくれたわねー!」

 

「いや~言わんといてくれー! というか巨乳は言ってなかったような……ひぃ、なんでもないっす!!」

 

 母親は怒ったように目を吊り上げながら、しかし楽しそうに横島の行動を言葉に出して彼を弄る。セリア達はただ頭を抱えた。

 最悪だ。最悪というしかない。絶望の最中に母子に対して、あまりに無遠慮で配慮を欠いた行動だった。子供達すらも軽蔑したような目を横島に送る。

 それでもファーレーンとヘリオンだけは、きっと慰めるためにわざと道化を演じたのだ、と信じていたが。

 

「子持ちをナンパするなんて……それに何て無思慮な……本当に、本当に私達のヨコシマが迷惑を掛けてすいません!」

 

 身内の恥に、ヒミカが何度も頭を下げる。他のスピリット達も頭を下げた。

 頭を下げて謝るスピリット達に、ルイーズは幾度か頷いて見せた。

 

「そう、本当に最悪。人が苦しんでいる時にあんな能天気で馬鹿そうな顔で笑いかけてきて……しかもボコボコにしたらすごい情けない顔で謝って……かと思ったら傷が治ってて……思い出すと何だか可笑しくて笑いそうになるほどよ。

 だけど、まあ昔の血が蘇ったのか、久しぶりに怒って殴って蹴って、タダオ君とは関係ない事まで怒りを爆発させて最高のストレス解消になりましたから」

 

 その時を思い出したのか、ルイーズは肩を怒らせて拳を振り回す。

 もう勘弁してくれ、と横島は泣きべそだ。それを見てルイーズは犬歯を光らせて笑う。

 怒りと親しみを混ぜ合わせたような感情が目に宿っていて、それでスピリット達は察した。

 あくまで結果論であって、出会いは到底褒められないが、何はともあれ横島はルイーズを元気にしたのだ。

 

「それで、慰謝料として就職の口利きを頼んだんです。誰かに何かを頼むって好きじゃないけど、この人からなら容赦無く絞りつくしてやろうって」

 

「うう、どうしていつもこんな女傑ばかり……まあいいけど。それで就職の口利きをやっておいたんだ。それと、いつでも赤ちゃんの世話を受けるって約束したわけだ」

 

 ――――その約束を完全に忘れてたくせに。

 

 スピリット達の呆れの視線が横島に突き刺さる。

 これにはヘリオンとファーレーンも参加した。

 

「ただ紹介してもらった就職先が首都から少し離れた郊外にあって、身軽に動く為に少しこの子が邪魔だったんです。面接だけで採用は決まっていたわけでもないので……それに」

 

 そこから先は言葉にしなかったが、実はもしこれで職が決まらなかったら、このまま赤ちゃんは横島達に預けるつもりだった。

 金もないし頼れる友人もいない。割のいい仕事はいつ病気になるか暴力を振るわれるかも分からない。

 自分が倒れたら、もう赤ちゃんも死ぬしかない。だからもしも就職が決まらなかったら、一旦横島に赤ちゃんを預けて余裕が出来たら引き取りに来ようと計画した。

 横島なら優しいし、これで立場もあるから赤ちゃんの命だけは助かるとも考えがあった。それは杞憂に終わったが。

 

「しかしよく、このヨコシマ様に預けようと思いましたね」

 

「ちょっと違いますね。正確には、タダオ君と皆さんにです。

 タダオ君から皆さんの事を聞いて、町でスピリットに関する話を聞いて、それで預けても大丈夫と判断したんですよ。いくら彼が信頼できても、それだけで預けられるわけありませんもの」

 

 ルイーズは好意的な視線をスピリット達に向ける。軽蔑や侮蔑はあっても、信頼と好意という滅多にされない視線に、セリア達はむず痒い思いをして視線を逸らした。

 先ほどからルイーズは、自己紹介したわけでもないのにセリアやヒミカの名をしっかりと呼んでいる。

 十分に第二詰所という存在を下調べして、絶対に信頼できると判断してから赤ちゃんを預けたのだ。

 

「よし、それじゃあ赤ちゃんを返さないとな。ネリー、渡してやれ」

 

 赤ちゃんを抱っこしていたのはネリーだった。

 しかし、ネリーは赤ちゃんを離そうとはしなかった。

 いやいやと首を横に振って、ひしとして赤ちゃんを抱きしめ続ける。

 だが、そこで赤ちゃんが暴れはじめた。

 

「あーあー!」

 

「うう、何で暴れるの。ほら、いないいないばー! 高い高いー!」

 

 ネリーは必死にあやしながら抱っこしたが、赤ちゃんは激しく暴れながら母に手を伸ばし続ける。

 今までは母親がいないからネリー達に抱かれていたのだ。本来の絶対的なぬくもりがすぐそこにあるのなら、薄情な言い方になってしまうが、赤子にとってネリーは必要なくなってしまったのだ。

 

「おい、ネリー。何やってんだ、さっさと赤ちゃんを渡せって」

「……ヨコシマ様~もう少しだけ待っていてください~お母さんもお願いします~」

 

 ハリオンが真剣に言うと、横島は黙り込むんで見守ることにした。

 暴れる赤ちゃんを必死にあやすネリー。ルイーズも何も言わずにはじっとネリーを見つめ続けた。

 

「うっ……くう……はい」

 

 とうとう泣き続ける赤ちゃんが可哀想になって、ネリーはぬくもりを渡した。途端に赤ちゃんが泣き止む。

 我が子を抱っこする母親を見て、そこにいる誰もがほうっと息を吐いた。

 あるべき姿がそこにある。どこにでもある当たり前で、自然の光景。だがこの光景こそ、何より尊いものであると誰もが理解できた。

 悔しさからか俯くネリーに、ルイーズは優しく微笑みかけた。

 

「ネリーちゃん。この子を守ってくれてありがとう」

 

 優しく礼を言われたネリーは、怒った様に目を吊り上げて猛然と顔を上げた。

 

「そんなの当たり前でしょ! こんない小さくて可愛いんだよ! 守るに決まってるよ!!」

 

「こ、こら! 何を興奮してるの! 申し訳ありません、無礼な言葉遣いでこんな事を」

 

 そんなネリーの姿にルイーズは微笑む。

 本当に赤ちゃんを愛してくれていたのだと分かって嬉しかった。

 たとえ天涯孤独になってしまったとして、また新たな絆を結ぶことはできる。

 

「皆さんに出会えてよかった。色々と大変だけど、私とこの子はまだマシなほうです。

 私はこれから声を大きくして周りに言います。スピリットは戦闘奴隷なんかじゃないと。私たちと同じ、誰かを愛して愛される事ができる、尊敬すべき友になれると」

 

 強く言うルイーズに、セリア達は泣きそうになった。

 自分たちの意思と考えを尊重してくれる友が生まれてくれたのだ。

 それだけで十分だと、スピリット達は思った。

 

「ダメです。それを言ってはダメなんです」

 

「どうして? 私と友達になるのは嫌?」

 

「とんでもありません。非常に嬉しくて……もう泣きたいくらいです。

 ですが、スピリットと友達というのは良くありません。貴女の手には、小さな命があります。もしも次の職場を追われたら、この子はどうなりますか?」

 

 ヒミカは、この世界の常識を語る。

 スピリットとは世界で最も嫌われた存在だ。首都ラキオスでは随分とその評価は覆されてきたが、それでも郊外ではまだスピリット汚らしいとされている。

 レスティーナや横島の影響が少ないほど、スピリットへの風当たりは強い。

 母親の表情が曇った。スピリットと友達になりたいのは確かだが、自分だけでなく生活と子供が絡んでくると、おいそれと頷くことはできない。

 

「公言しなければ良いのでは。表向きはスピリットを批判して、内心は私たちを友と見てくれる。私は、それで十分……嬉しいです」

 

 珍しくナナルゥが語る。

 他のスピリットもその言葉に頷いたが、

 

「私が嫌です。どうして友達を批判しなければいけないの!」

 

 ルイーズが難色を示した。

 元々が勝気で言いたいことをはっきり言う性質だから、陰口を嫌う性質なのだ。

 

「気にしないで言いたいことを言えばいいさ。私が今度の職場での長で、私も同じ気持ちだからね。あんたは私が守ってやるよ」

 

 沈黙を保っていたノーラが声をかけた。

 横島を除く皆が驚いようにノーラを見た。

 

「ふん、陰口を叩いてくるような連中何て気にしてもしょうがないさ。それに、別段スピリットと友になっても法律で罰せられることは無い。言いたいことは言ってやりな!」

 

 皺くちゃの顔に不敵が宿る。ルイーズも同じように笑った。

 慌てたのはセリア達の方だ。

 

「ノ、ノーラ様! それでは貴女が!」

 

「ふん、言いたい奴らには言わせておけばいいのさ。それに」

 

 ノーラは言葉を切って、横島を見つめる。

 

「ヨコシマさん、スピリットの評価がどうなるか、貴方の手腕も問われてくるでしょう。貴方がラキオスに良き結果を出せば、私もルイーズも胸を張ることができます」

 

「ああ、任せてくれ! 世界の一つや二つ変えて見せるさ……そうして」

 

「そうして?」

 

「最高の女(スピリット)を何人も侍らしながら街を歩いて、周囲の男どもに見せびらかしてやるんじゃあ~うははは!」

 

「何て情けない理由で」

 

「馬鹿」

 

 世界を変えると格好良い事を言いつつも、その本心は俗物でエロな横島にスピリット達は軽蔑の目を向けるが、しかし安心もしていた。

 この煩悩男が高潔で高尚な想いでスピリットをどうにかしようと考えていたのならば、嬉しい以上に寂しいとも感じただろう。

 スピリット達がため息や笑いで横島を見守る中、ノーラとルイーズは懐かしいものを見るような目で横島を見つめ、次にスピリットを見た。

 

 ――――さっさと抱かれないと後悔するかもしれないのに。

 

 意地を張って得られなかったノーラや、唐突に夫を失ったルイーズとしては、現状に満足しきっている第二詰所をもどかしく感じた。

 だが、それをとやかく言うと、また変な意地を張ることがあると当人が身をもって理解しているので、何も言うことができない。

 青く未熟な若人達に、ノーラとルイーズは視線を交わして肩をすくめあった。

 

「まあ、なるようになるさね。それじゃあルイーズと言ったね。仕事場に案内するよ。色々と叩き込んでやるからね」

 

「はい、よろしくお願いします。それじゃあ、私達はいきます。

 ネリーちゃん、それに他の皆さん。ついでにタダオ君も、いつでもこの子に会いに来て。この子もきっと歓迎するわ」

 

「あ……うん! 遊びに行くね! 絶対ぜったぁ~い行くからね!!」

 

 去っていく母子に手を振り続けるスピリット達。

 

 母と子の二人。

 本当ならば、あの二人の傍らにはもう一人いるはずなのだ。

 母子を守る男性の姿が横に居るはず。だが、そこは空白で埋められてしまった。

 

「ニム達がもっと頑張っていたら、こんな事にならなかったのかな」

 

 悔しそうに言う二ムントールの言葉に皆が視線を落とした。

 出来ることと出来ないことがある。負う責任と負わなくとも良い責任がある。これはスピリット達の責任ではないだろう。

 それを理解していても、あの母子の姿を見て、今後の苦労を思うと考えざるを得なかった。

 

「俺らがやれるのは、これからあの二人が安心して暮らせるように国を守る事だな。敵が神剣使いなら、守れるのは俺たちだけなんだから」

 

 珍しく凛々しい表情で横島が言って、スピリット達も神妙に頷いた。

 とまあ、良い感じで話が終わりそうな気配であったが、どうしてもオチついてしまうのが横島が存在する場合の特色と言うもので。

 

「ヨコシマ様! ネリー、欲しいものがあるんだけど」

 

「……物凄く嫌な予感がするけど言ってよし!」

 

「ネリーね、赤ちゃんが欲しい!」

 

「やっぱりかー!!」

 

 正しくお約束だった。大人たちは顔を見合わせる。

 まだ子供と言っても、人間なら子供も作れる年齢に達しているし、ここ最近はシアー以外の胸も膨らみ始めている。

 戦争のせいで早々に教育を打ち切られたネリー達にとって、これからの教育は大切だ。特にこれからは人間の男児と遊ぶことも考えると、性を勉強しないと大変なことになる可能性がある。

 かと言って、気軽に教えるのは難しい。

 

「あ、ああそうだな。実は、結婚して仲良くなると出来るんだ」

 

「嘘! そんなんで騙されるほど、ネリーは子供じゃないんだから!!」

 

 以前なら騙されてくれたのに。

 横島は困ったものだと途方に暮れた。

 子供だましに引っかかるほど子供ではなく、かといって全部知っているほど大人でもない。

 難しい年頃に際しかかってきたのだと実感する。元から十八歳以上だけど。

 

「ネリー、良く聞いて。スピリットには子供は産めないの」

 

 セリアが静かに現実を言った。

 子供を作る行為は出来ても、子供は授かれない。

 それはスピリットの歴史の中で確定された事実だ。

 

 家庭を持つことも、命を残すことも出来ない。

 ただただ神剣を振るって同族を殺すだけの人生。それが奴隷戦闘種族スピリットの定め……だった。

 ここ最近は少しずつ変化してきている。剣を振ることだけでない未来があるかもしれない。人と愛し合う未来もあるかもしれない。

 しかし、それでも種族的な特性から逃げられない。それがスピリットという存在の定め――――――

 

「でも~ヨコシマ様が相手なら産めそうな気もしますねえ~」

 

 スピリット達の暗い雰囲気をものともせずに、ハリオンが相変わらずのんびりと言った。

 

「何言ってるの。いくらヨコシマ様でも……ヨコシマ様なら……」

 

 ヒミカが馬鹿らしいと言おうとして、途中で言葉を詰まらせる。

 何とも微妙な沈黙が流れた

 スピリットに子供は産めない。

 それは道理だ。だが、この男相手に道理云々を言うのは間違いだ。

 何が起こっても不思議ではない。いや、むしろ起こすだろう。

 

「いやまあ、俺は何が何でも子供作るけど」

 

 平然と、当たり前の様に横島は答えた。子供を作ることは横島からすれば当然だ。

 女として愛した人を、今度は子供として愛する。そして幸せにする。

 これは決定事項であり、何が何でも果たさなければいけない使命である。

 

 横島の事情を知らぬスピリット達に、この言葉は強力すぎた。

 何が何でも子供を作る。

 横島がそう言ったのなら、スピリット相手だろうと理屈抜きで子供を作るだろう。幾人のスピリットの目がキラリと光った。

 子供が欲しい。

 ここ数日、赤ちゃんの世話を始めて、そう思わなかったスピリットは皆無だった。

 ナナルゥやニムですら、無邪気な笑みを浮かべる赤子に心動かずに入られなかったのだ。

 

「きっと子供の秘密はネリー達にない股の棒と玉にあるんでしょ!」

 

「朝におおきくなるのも関係あるのかな~」

 

「う~ん、マリオン様は教えてくれたんですけど、たぶん冗談なんですよね。入るわけないですし」

 

「ヨコシマはあんまりいらないけど、子供だけは欲しい」

 

「誰かー助けてくれー!」

 

 子供達からの無垢アタックに横島は悲鳴を上げる。

 

「助けてと言われましても。そこは『うっしっしっし! 俺が実戦で教えてやるぜ!!』とやったらどうでしょう」

 

「俺はロリコンじゃないっすよ!!」

 

「そうですよナナルゥさん~ヨコシマ様は『うっしっしっし!』なんて鳴かないですよ~」

 

「否定してほしいのはそこじゃねえよ!!」

 

 いつも以上に騒がしい第二詰め所の騒動。

 その中でセリアは一人窓際に立って、ここではないどこかを見ていた。

 振り向けば後ろ髪をグイグイと引っ張る赤ちゃんが背中に張り付いている気がする。

 

 ――――この子はまだ幸せな方です。

 

 ルイーズの言った言葉が蘇る。

 父も母もいない子供が今のラキオスには大勢いるのだろう。孤児院とてどれほどあるのか分かったものではない。彼らは教育も愛情も受け取れず育っていくのだろうか。そもそも生きていけるのか。

 もしも――――もしもであるが、保母になるのならポニーテイルを切ったほうが良いのかもしれない。

 

「そんな未来なんて」

 

 スピリットにはあり得ない未来。

 だが、今この目の前にある光景は、この幸せは、本来ならあり得ないもの。

 

「期待……しちゃおうかな。その時には手伝って……ね」

 

 子供達にまとわりつかれる横島を見ながら、セリアは恥ずかしそうに呟いた。

 

 


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