「おもしろくねー」
横島は自室のベッドで天井に向かって文句を言い放った。見つめる天井には何も描かれていない。だが、横島には天井に一人の男が映し出されていた。
高嶺悠人。
ツンツン頭のイケメンで努力家。
実に気に入らない男だ。
横島も悠人が努力を積み重ねているのは知っている。
訓練外の時間でも、夜遅くにも、人知れず訓練を繰り返しているのだ。本人は秘密特訓と言っているらしいが、もはや誰もがその訓練を知っている。汗臭く走り回りながら、時には吐瀉物をまき散らかしていれば誰だって気づく。
横島としては秘密特訓(笑)とか何とか茶化して笑いたいところだが、実力を着け始めているのは間違いないので無下に笑うこともできず、下手に笑えばこちらに矛先が向くだろう。
横島も自分なりに努力はしているが、戦闘訓練に限れば悠人の半分もやっていない。
「何でもかんでも、俺と悠人を比較しやがって」
面白くない、と横島はまた言葉を重ねる。
悠人と模擬戦をすると、第二詰め所のスピリットは悠人を応援することが多い。特にここ最近は異常だ。悠人は努力をしているし、常に負けているから、応援したくなる気持ちもわからないではない。
だが、戦いのたびに「ユート様がんばれ~」と声援を送られている姿を見るとイライラする。
声援を送っている者には他意はないのだろうが、横島からすれば負けろと言われているようなものだ。穿ったものの見方だとは思うが、そんな風に思ってしまうのだからしょうがない。
スピリットの声援を一身に浴びる悠人に、横島はイライラを叩きつけるようにして戦っているのだが、戦いは以前のような簡単なものではなくなっている。訓練と実践を繰り返した事によって、悠人は単純に強くなっているのだ。それもまた腹立たしい。
もっとも、こうなった原因の一つは、横島の虚栄心とエロ心だったりする。
悠人を叩きのめして、良い所を見せて惚れさせる。それが目的だった。
しかし、それがいけなかった。ネガティブな横島の意思をスピリット達は敏感に感じ取り、弱く頑張っている悠人を応援する事が増えてしまった。
「ぐぅーあ! くそ! くそったれい!!」
ひとしきり怒鳴り散らして、何とか落ち着く。
悠人の事はもういい。いや、良くは無いのだが、ひとまず置いておく。
重要なのは、未だに第二詰め所のスピリット達と仲が修復できていないことだ。
色々と努力をしているのだが、全て空振り。
食事に誘っても全然乗ってこない。
スピリットを入れてくれる美味しい店なんてほとんどないから、あちらこちら駆けずり回って、粘り強く交渉して、ようやく入れる店を見つけたというのに。
確かに下心はあったが、セリアと美味しい料理を食べたい、仲良くなりたい、という意思だってちゃんとあったのだ。普段の行いが首を絞めているのをひしひしと感じる。おそらく、悠人が食事に誘えば簡単に付いて行くのではないか。
ファーレーンの素顔を見たいためにイヤリングを買ったり、ナナルゥの為に本を見つけ、ヒミカの為にドレスまで贈った。町でハイペリアの簡単な情報をばら撒いて稼いだ金や、諜報部から出ている給金を全て注ぎ込んだというのにだ。全て袖にされてしまった。
確かに、正直やりすぎたと思う。
触手を作り出し、粘着性のスライムを作り出し、欲望の赴くまま大暴れ。
本来の目的であるマロリガンのスピリット達に混乱と恐怖を与えて戦いを膠着状態にする、という目的は達した。
しかし、途中から気分が盛り上がってしまい、敵どころか味方にまで襲いかかるという始末。
もう少し自重するべきだったかもしれない。横島だって反省している。
しかしだ、もし自重していたらシロ達の気迫に飲まれて殺し合いになっていたのは間違いないと思う。
シロ達は本気で殺しに来ていた。だからこそ、彼女らの意思を砕くためにこちらも本気でエロに走ったのだ。まあ、どのような理由を付けても全力でセクハラを楽しんだのは事実だが。
だけど、いくらなんでもあんまりではないか?
ここまで冷たい扱いをされるほど悪いことをしたか?
三日前の夜、ハリオンを除く全員が悠人と密会していた時の事を思い出す。
全員で自分を倒すことを考えていた。
悠人は仲間だから剣を教えるのは裏切りでも何でもない。
それは理屈として分かるが、心情的に納得できるかどうかは別だった。
「そんなに俺が憎くて嫌いなのかよ」
消え入りそうな声だった。
馬鹿をやって、悪戯をして、怒られることは多々あった。
アホをやって怒られるのだから悪いのは自分であると彼自身も理解している。
だが、ここまで本気で謝って許してもらえないとは思っていなかった。
異邦人である横島にとって、セリア達は全てだった。嬉しさも、怒りも、悲しみも、楽しさも、全て彼女達が起点となって起こるもの。彼女らが居るから、横島はここに居る。
彼女らに拒絶されるという事はすなわち、この世界から否定されたも同然。
圧倒的な孤独感が胸を締め付けてくる。なんとか彼女達と仲を修復しなければいけないのだが、もうどうしたらいいのか分からない。人脈も金も底を尽きた。なにより、心が疲れた。何だか全て馬鹿らしくなってくる。どうして、こんなにも辛い目にあって頑張っているのだろう。
こんな事ではタマモを救出するなど出来そうもない。このままではタマモを殺してしまう。あるいはシロを殺すか。それとも、自分が死ぬか。
寝転がったまま、窓の外をぼんやりと眺めてみる。
草も木も、地球にあったものではない。虫も動物もそうだ。食事だってどれだけ味が似ていても厳密には違うものだ。空気も違う。排気ガスで汚れた空気が、今は無性に恋しかった。
何より、ここにはあの人が居ない。
「――りたいな」
無意識の呟きが洩れる。
そよ風にかき消されるほど小さなそれは、確かに横島の口から洩れたのだ。
脳裏にスタイル抜群なクソ女の姿がおぼろげに思い浮かんだが、
「い……ぎああああああああああ!」
目も眩むような痛みが脳味噌に送り込まれて、絶叫と共に女の姿が消えていく。
『天秤』の干渉による激痛が横島を襲っていた。
『天秤』はいくつもの干渉を横島に精神に施している。
悠人の持つ『求め』は魂を深奥まで沈めて肉体を奪い取ろうとしているが、『天秤』は違う。横島の意識を残したまま、計画の為に精神を密かに弄繰り回していた。
そのいくつかの干渉の中で最も重要度の高いものがある。
望郷の念を打ち消すことだ。
元の世界への帰還。文珠を持つ横島には、その可能性がどうしても生まれてしまう。それだけはなんとしても阻止しなければいけないからだ。
だから『天秤』は常に横島の精神を犯していたのだが、しかしこの干渉は実に楽だった。
セリア達をこのままにしてはおけないから、俺はこの世界から離れられない。
このような意識があったからである。
だけど、横島の第二詰め所に対する執着が弱まって、とうとう元の世界へ思いを馳せてしまった。故に、横島の意思は『天秤』の干渉に触れてしまい、破滅的な痛みをもたらす。
「おォォ! あうう! があああ!」
『くそ! 横島よ、頼むから思い出さないでくれ!』
脳味噌を直接こねくりまわされる激痛に、横島は獣の如き声をあげる。痛みを送っている『天秤』の声にも悲痛が混じっていた。
こんな事で横島の苦しめるのは彼も本意ではないのだ。
「ヨコシマ様!!」
扉が開く音が聞こえて、女の声が部屋に響く。
甘い砂糖の匂いと、背中に大きくてやわっこい塊を感じて、横島の精神はゆっくりと眠りに落ちていった。
そうして、横島は夢を見た。
夢では自分とハリオンが何かを会話している。
――――イオさんから――――という薬が―――――その場合は
――――だろう――――――協力して―――――なんとか―――
――――ありが―――――――――これは私達の罪―――――
一体何を話しているのか分からない。
ハリオンの表情には、今まで見たことが無いほどの悲しみが溢れていた。
とうとう涙まで溢れそうになって、横島はその涙を拭おうとしたが、体は意に反して動かない。
――――もっと二人で話し合うのだな――――
自分の口が発した、その言葉だけは、良く聞こえた――――
ふと、横島は目を覚ました。
いつの間にか寝ていたらしい。固いベッドの上で大きく伸びをする。
何だか記憶が混濁していたが、霧がかかったように思い出すことが出来ない。
そこで、枕元に赤い液体の入ったビンが置かれていることに気づく。
ラベルにはこう書いてある。
惚れ薬。
「ぐふ……ぐふぐふぐふ。手に入れたぞ……手に入れてしまったぞ!! 世界の至宝を、人類の宝を!!!」
笑いながら、横島はうっとりとした目で薬を見つめる。この世界の全てを手に入れた王のような充実感と満足感が全身に満ちていた。
『横島よ。聞きたいのだが、惚れ薬が何故、枕元に置かれていたのか、疑問に思わんのか?』
「良い子にしていた俺への、神様からのプレゼントさ!」
キランと歯を輝かせ、妙にさわやかな笑顔を作る。
『まったく、こうも馬鹿とは……色々と考えてた私が馬鹿みたいではないか』
『天秤』の声には呆れと苦笑が含まれていた、
この超絶に怪しい惚れ薬をどう使わせるか、『天秤』は悩んでいたのだ
根本的にお馬鹿な横島にあれこれ悩むのは、悩んだ方が馬鹿を見るのが大半である。
というか『命令』はダメで薬は良いのだろうか。
『天秤』は疑問に思ったが、どうせ男のロマンとでも返ってくるだけだろうから突っ込みは入れない。
横島は惚れ薬を片手に台所に移動する。
調理用のお酢にでも混入しようとしたが、そこで背後に気配を感じた。
「何をやっているのです、ヨコシマ様」
いつの間にやら、セリアが背後にいた。他のスピリット達も横島を見つめている。
何とか言い訳をと横島は考えたが、こっそりと後ろに回り込んだニムに薬を奪われてしまった。
「こらー! 俺の夢だぞ! 返しやがれ!!」
「ニム、何て書いてあるの」
「惚れ薬……って書いてある」
「どこからそんなものを……薬に頼るなんて、本当に最低な人ね」
セリアは冷たい視線と声で横島を糾弾する。
――――この人の事だ。また『うわ~ん』とでも泣きながら馬鹿な事をやるだろう。
セリアも、他のスピリットもそういう認識だった。
しかし予想に反して横島は泣きも叫びもしなかった。
ただ、ぼんやりとセリア達を見つめるだけ。
熱を失った瞳だ。
怒りや悲しみ等ではなくて、落胆するような色が多くにじみ出ている。
冷たい何かがセリア達の背に流れた。
何か、取り返しのつかない事が起きているような、そんな恐怖が心から湧き上がってくる。
だけど、自分が間違ったことを言っているわけが無いとセリアは胸を張った。
「はあ……そだな。俺が悪かった。その薬も、もういいわ。じゃあな」
横島は軽く言って、そのまま歩き出す。
今の横島に何と言っていいのか分からず、セリア達はそのまま見送ろうとしたが、そこでハリオンが動いた。
「ヨコシマ様~お口を開けてください~」
「ん?」
「それ~」
惚れ薬の瓶を横島の口に突っ込んだ。
いきなりの事に横島は目を白黒させながらも、ごくりと液体を飲みほす。
「それじゃあ、私を見て、神剣を重ねてくださいね~」
ハリオンは横島の首を動かして至近距離で見つめ合いをさせて、さらに己の神剣である『大樹』と『天秤』の刀身を重ねる。横島はハリオンに抵抗せず、そのままにさせた。
いきなりの行動に、しばしセリア達は唖然としたが、何かに気づいたように慌てて二人を引き離した。
「ちょっとハリオン! 何してんの!!」
「は、離れるのー!」
「効果があるのかなぁ~と気になったのでぇ~」
ヒミカが慌てて横島とハリオンを引き離す。ヒミカの必死な表情に、ハリオンは苦笑をこぼした。
薬を飲まされた横島は目の焦点が定まらずぼんやりとしている。ヒミカは怖くなって、思わず横島を抱きしめた。そこには確かな愛情が感じられる。
横島の顔がふにふにとした感触に支えられて、ようやく焦点が合い始めた。
「よ、ヨコシマ様……大丈夫ですか」
心配そうな赤の瞳を間近で見て、横島は覚醒する。
「うおお! ヒミカ! とうとう俺の愛を受け止めてくれる気になったんですねーー!」
「や、ちょっと。きゃあ! 頭を胸に押し付けるなーー!!」
煩悩男の本領発揮とばかりに、セクハラを仕掛けてきた横島をヒミカが殴り倒す。
普段どおりの横島の様子に、セリア達は安心したようにほっと息を吐いた。
ハリオンは、そんなセリア達の様子を何かを言いたげにしながらじっと見つめる。
「まったく、くだらない! もっと真面目にしてください!!」
いつものようにセリアが横島を怒って、騒ぎもおしまいと皆それぞれ散っていく。
彼女らの背を眺めながら、ハリオンは口許に今まで見たことが無い種類の笑みをたたえていた。
「効果が出るのは数時間後なんですよね……うふふ~皆さんが手放したものが何なのか、知ってもらいますからね~」
どこか寂しそうに、でも嬉しそうに。
ハリオンはただ微笑んでいた。
最初に横島の異変に気付いたのは子供達だった。
ネリー、シアー、ヘリオンの三人で町を練り歩いていると、
「な、何で!? どうして!!」
ありえない光景が眼前に広がり、ネリーが悲鳴を上げた。
その光景とは、湖がカチンコチンに凍り付いて、氷の広場になっている事だ。
その周囲にはいくつかの出店があり、まるでお祭りのようである。
垂れ幕にはこうあった。
リラックス祭りと。
ネリーはありえないと頭を振る。
この祭りは本来クール祭りで、ヨコシマ様がネリーを楽しませる為に開催してくれた祭りのはず。どうして自分の為のお祭りが開催されているのだろう。
だって、ネリーは呼ばれていないのだ。こんなのありえない。
不吉な予感がネリーの胸いっぱいに広がっていく。
胸が痛くなるほどの動悸の中で横島の姿を探して、スケートリンクで彼を見つけた。彼の隣にいる、最高のプロポーションを持つお姉さんと共に。
「ヨコシマ様~滑りますよ~~!」
「そりゃそうですよ! 滑りに来たんですから」
「ひゃう~~助けてください~~!」」
「よっしゃ! 俺に抱きついてください!!」
転びそうになったハリオンが横島にぎゅっと抱きつく。
プロポーション抜群のお姉さんに抱きつかれた横島は、もう至福の表情だ。
霊力が全身から溢れ、バチバチと周囲に圧力を振りまいている。
ネリーは二人のいちゃつきを唖然として眺めた。
シアーとヘリオンも言葉が出ない。
それからハリオンは何度か滑ろうとしたが、その度に転び続けて、とうとうスケートリンクから逃げ出してしまう。
何度もしりもちをつけば仕方が無いか。ハリオンのお尻は、きっとお猿のように真っ赤になっているだろう。
「む~転んでばかりで面白くないです~もう止めましょうよ~」
「そんじゃあ色々と出店があるから、そっちで買い食いっすね」
「はい~そうしましょう~」
二人がスケートリンクが出てくる。
そして、ネリー達と目が合った。横島はさして気にするほどもないと手を上げて挨拶するだけだったが、ハリオンはにんまりと笑う。
「ネリーさんも滑ってきたらどうですか~私はヨコシマ様とたっぷり遊んできたから、もういいですけどね~」
横島の腕を取りながら、ハリオンは得意満面の笑みでネリーに言った。
ネリーの頬が紅潮してポニーテールもブルブルと震える。泥棒と、心中で叫ぶ。
もはやネリーには、ハリオンが泥棒にしか見えなかった。自分の祭りを、自分のヨコシマ様を盗んだ泥棒だ。
そんなネリーの心中を察していながらも、ハリオンは笑みを崩さない。
さらにハリオンは次の標的であるシアーに攻勢を仕掛けた。
「あ、そうでした。ヨコシマ様~このプレゼント、ありがとうございます~」
言いながらハリオンは懐から木造のケースを取り出す。
ケースの中身を見て、シアーは目を剥いた。
精密な彫を可能にする彫刻刀。
握る所が小さくカラフルで可愛らしい。
数日前にシアーに送られた彫刻刀そのものだ。
「それ、シアーの……シアーのなの!!」
「何言ってんだよ。これは俺がハリオンさんにプレゼントしたんだぞ」
「そうですよ~これは私の物ですよ~」
当然のようにハリオンが言って、横島もうんうんと頷く。
シアーは目に涙を溜めて、嫌々と首を横に振る。
「シアーのなのに。ヨコシマ様が用意してくれたシアーの。シアーの……なのに」
ぶつぶつという口の中で繰り返すが、横島は気にも留めない。
さらにハリオンはこともなげに言った。
「でも~私はあんまり工作に興味ないから使わないかもしれないですよ~」
「そうっすか。でもまあ、しょうがないか」
「つ、使わないって!」
信じられない物を見るような目でシアーはハリオンを見つめた。
こんなに可愛くて素敵な道具を使わないというのが、シアーには信じられない。
だけど、シアーに文句を言う権利は無かった。彫刻刀はハリオンのものだからだ。
「つーか、今の俺はハリオンとのデート中なんだから邪魔すんなよ」
面倒くさそうに子供達に言って、ヘリオンも衝撃を受けた。
デート。自分がするはずだったデート。
大好きな人と二人きりで、甘い夢のひとときを織り成す魔法の時間。
夢にまで見た時間を、ハリオンに奪い取られてしまった。
ヘリオンは喉から湧きあがろうとするしゃくり声を必死に抑えて、横島を涙目で睨んだ。
「うう~ヨコシマ様は怒ってるんですか?」
横島に散々冷たくしてきたのだ。
怒って意趣返しをされているのだと、ヘリオンは判断したのだが、横島は不思議そうに首を傾げた。
「なんのこった?」
子供達だって横島と一年近く一緒に住んでいるのだ。
嘘をついているかどうか、大体分かる。だからこそ理解できた。
ヨコシマ様は嘘をついていない。プレゼントを受け取らなかったことを怒っているわけではない。これが平常なのだと。
祭りも彫刻刀もデートも、自分達ではなくハリオンの為に用意したものと切り替わってしまっている。その事を、覚えてすらいない。間違いなく何かの異変が起こってる。
子供達はハリオンを睨みつけたが、ハリオンはただ笑みを浮かべるだけ。
「とにかく、邪魔すんなよ。さあ、いきましょうハリオンさん!」
横島は子供達にはつっけんどんに、ハリオンには満面の笑みを浮かべた、二人は寄り添って歩き出す。
楽しく、優しく、温かい光景が目の前にあった。
子供達は思う。
本来なら、横島の隣にいたのは自分だったはずなのに。
「あ、あああ」
子供達の声にならない声が、喧騒の中に消えていった。
子供達の次に異変に気づいたのはヒミカだった。
それは、横島とヒミカが一緒に書類仕事をしていた時の事。
ヒミカは横島とイス一つ離れた席で、彼を見張りながら作業をしていた。
横島と一緒に作業をするというのは、心身共に大変な疲れを持つことになる。
別に横島が仕事をできないと言う事はない。むしろ、何でも器用にこなしてくれるので、労働力としては中々なものだ。それに、意外と目の届かない部分もしっかり見てくれたりもする。こういった部分は悠人よりもずっと優秀だ。
しかし、横島は横島なのだ。お互いに少し離れて仕事をしていたはずなのに、気づいたら隣にいて、体をベタベタ触ってくるなどのセクハラを仕掛けてきたり、一時も気が抜けない。
だが、ヒミカの心配をよそに横島は黙々と作業を続けた。哨戒や警備等のシフトを考えつつ、誰にどのような訓練をさせるか、またその際の教員を誰にするか。悠人が考えた戦術を実行するために、どの技術者をどの都市に派遣するか、等の草案を纏めていく。
一方、ヒミカの仕事のはかどり具合は余り良くない。向かいに座っている横島が気になっているからだ。無論、横島が気になるというのは好きとかそんな感情ではなく、体をベタベタ触ってこないかと言う心配である。
「ヒミカ、もっと集中しろ」
作業が遅いヒミカに、横島が注意する。
横島を警戒しているため、ヒミカの仕事は遅い。ヒミカが一枚仕上げる間に、横島は五枚は仕上げるほどだ。
ヒミカはむっとする。自分の仕事が遅い理由は、この変態隊長を警戒しているからだ。
「ヨコシマ様がいちいち私にちょっかいを出そうとするから遅くなっているんじゃないですか!」
「ちょっかいって……何で俺がヒミカにちょっかいを出さなくちゃいけないんだ?」
「何でって……」
不思議そうな声を出す横島に、ヒミカは怒りを覚えた。今まで散々あちらこちら触って来たくせに、突然「何で?」なんて言いはじめるのだ。胃薬までも使い始めたヒミカにとって、これほど腹が立つ事も無い。
「まあ、どうでもいいか。早く終わらせるぞ、無駄口叩くな」
言葉通り、本当にどうでもよさそうに横島は言った。声には何の感情も込められておらず、冷淡ですらあった。
あんまりな横島の態度にヒミカは憤慨したが、その時になって何かが変だと気づく。
(私にまったく興味を持ってない?)
ふと、気づく。
ここ最近、ヨコシマ様と話した事があっただろうか。
まったく無い気がする。視線すらあっていない。こちらを見てすらいないのだ。
あの絡みつくような欲望に満ちた視線と、どこか憎めない愛嬌のある顔が何だか懐かしくなった。
そういえば、あのプレゼントの話は何処にいってしまったのだろう。
いらない、と手ひどく振ってしまって、酷く落ち込んでいたのを覚えている。本当は凄く興味があった。早く着てみたいと、想像の中でポーズすら考えていたのだ。
ヒミカの心の中で、得体の知れない不安感が大きくなった。
「ちっ」
聞こえてきた舌打ちの音に、ヒミカははっとした。
気がつくと、またも手が止まっていたようだ。
「す、すいません」
ヒミカは謝罪の言葉を述べたが、横島は見向きもせずに手を動かし続ける。
悔恨と、僅かに恐怖を感じながらヒミカは作業を開始した。
三十分後、書類はようやく片付いた。結局、殆ど横島が仕上げたようなものだった。
ヒミカは悔しげに頭を下げる。
「役に立て無くて……すいません」
「調子が悪いときはちゃんと言え。ヒミカだって辛いだろうし、他が迷惑するんだからな」
厳しいが正しい答え。隊長らしいといえば隊長らしい。しかし、どこか義務的だ。
模範的な解答をそのまま抜き出したようで、横島の言葉では無いようだった。
ヒミカの不安がますます大きくなる。
何か取り返しがつかない事が起きているような。
そんな焦燥がヒミカの胸に立ち上った。
「あの、ヨコシマ様。時間があったら、ケーキを食べませんか?」
「何でだ?」
疑問の声を上げる横島に、ヒミカはギョッとした。
やはり変だ。女性が誘っているのだ。いつもならダボハゼのごとく飛びついて来るはずなのに。
「えっ、えーとですね……」
必死に理由を探す。仲直りしたいから、とは口が裂けても言えなかった。
これは、もう意地である。何の意味もない不毛な意地とヒミカも分かっているが、今まで感じたことのない感情にヒミカは翻弄され続けていた。
「試作のケーキなので色々な人に味を見てもらいたいのです。ハリオンは美味しいと言ってくれたのですが、やはりもっと沢山の人の意見を、と」
なんとか理由を作る。
ここで素直にヨコシマ様と一緒にお茶をして、有耶無耶っぽく仲を戻してしまおう。
幸い、セリア達はいないから変に茶化されることは無いはずだ。
ヒミカの提案に横島は少し難しい顔をして、しばし沈黙する。
まさか断られるのか、とヒミカは思わずつばを飲み込んだ。
「ハリオンが美味しいって言ったのか?」
「え? あっ……はい。甘くて美味しいと」
答えると、横島の顔が曇った。
ヒミカを見つめる目は、どこか敵意すら感じられる。だが、それは一瞬だった。
「ん、分かった。それじゃ、食べさせてもらうか」
「分かりました。早速持ってきますね」
厨房に置いてあったケーキを部屋に運んで、二つに切る。
流石にこれだけでは味気ないので、厨房でお茶を淹れて部屋に持っていった。
「結構甘めのケーキなので、少し苦めのお茶を……あれ?」
お茶を持っていくと、部屋に横島の姿は無かった。ヒミカの分のケーキだけ部屋に置き去りにされている。
横島は、自分の分のケーキだけを持って行ったのだ。
ヒミカは口をパクパクと開け閉めした後、奥歯を強く噛んだ。
確かに一緒に食べようとは誘わなかった。ケーキを薦めただけだから、一緒に食べる必要はない。だが、普通は一緒に食べると思うだろう。
「何よ……何だって言うの!」
怒りと僅かな悲しみに、ヒミカはケーキにフォークを乱暴に突き刺して一気に口の中に放り込んだ。
少しばかり味わって一気に飲み込む。せっかくの力作であったが、胸の内にある不快感で味なんて分からない。
その時だった。
居間の方から、「うまい!」という弾んだ横島の声が聞こえてきたのだ。
何だ、居間の方に移動していたんだ。
自身の早とちりに頬を赤らめて苦笑しつつ、笑顔の横島を想像して足取りも軽く居間に向かう。
そこで、ヒミカは立ち尽くした。
居間には、半分のケーキをさらに半分にして、一口サイズのケーキを美味しそうに食べる横島とハリオンがいた。二人とも笑顔で、時折、横島がハリオンにセクハラを仕掛けて抓られたりしている。
そして、ケーキの感想を聞いているようだ。感想を聞く横島の表情が、妙に真剣だ。
つい数日前まで、今ハリオンが座っているところにはヒミカがいた。完全に席を奪われた形となってしまった。
愕然としていたヒミカだったが、ふとハリオンと目が合った。ハリオンはいつもと少し違う笑顔でヒミカを見ると、
「ご馳走様です~」
幸せそうにそう言った。
それは勝ち名乗りの声。ヒミカには、確かにそう聞こえたのだった。
次に横島の異常に気づいたのはファーレーンだ。
ファーレーンは横島の様子に首を捻っていた。
ここ最近、謝ろうとしてこない。仮面を取って欲しいと言われなくなってきている。いや、それどころか話もしていない。近づいてすらこない。むしろ、避けられているような気がさえする。
――――確かにヨコシマ様はファーレーンさんの前で良い顔してましたけど、それだけファーレーンさんの事を大切に思っていたからですよ~
横島が仲直りに奮闘している頃、ハリオンも周りと横島との溝を埋めようとしていた。
その時にハリオンから言われていた言葉を思い出す。
確かに、白馬の王子様という横島に抱いていた偶像は砕け散った。しかし、横島と今まで過ごしてきた日々は消えたわけではない。
それに、ヨコシマ様がエロくてそれを隠していたと非難する資格は、ファーレーンにはなかった。
ファーレーンはファーレーンで、実際は中々――――なのである。互いに外面を良くしていた似た者同士なのだ。
それからファーレーンは横島の視界に入る程度の距離で、ちょろとちょろと動き回った。
横島が話しかけてくるのを待っているのだ。
弱気で受身。今まで散々、横島を近づけなかったのに、近づいて口説いてくれるという期待があった。
しかし、どれほど待とうと横島が話しかけてくる事は無く。寂しさの限界に達したファーレーンはとうとう行動に出る。
「そ、その、ヨコシマ様! 私の仮面のことなんですけれど……」
言いながらファーレーンは一歩、横島に近づくが。
「おい、それ以上近づくな。俺が殴られるだろうが!」
彼は両手を突き出して、ファーレーンの接近を拒絶した。
まさか拒絶されると思わなかったファーレーンは言葉を失う。
頭の中でグルグルと、どうして、何で、と疑問が飛び交った。
「だって、ずっと仮面を外してほしいってヨコシマ様が……プレゼントを渡したいって……」
「記憶に無いぞ」
横島はきっぱりと言い切った。ファーレーンは愕然としたが、一つ思い立つことがあった。
今まで逃げ続けたのを怒って、意地悪く言っているのではないか。
そう考えたのだが、横島の表情には困惑が広がっている。
混乱するファーレーン。そこで密かに様子をうかがっていたハリオンが動いた。
「あ~ファーレーンさん。どうも、あの惚れ薬って~記憶にいくつか飛ばしちゃうらしんですよ~」
「な! そんな危険な薬をヨコシマ様に飲ませたんですか!?」
いくら何でも聞き捨てならないとファーレーンは握りこぶしを作りながらハリオンに詰め寄る。だが、横島が二人の間に入り込んでハリオンを庇った。その目にはファーレーンに対する警戒がある。
今までずっと、優しく楽しい隊長だった横島から警戒の眼差しで見られて、ファーレーンは目に熱いものが込みあがってくるのを必死に抑えた。
「ハリオンさん……ファーレーンと何かあったのか」
「はい~ヨコシマ様が、ファーレーンさんの事でちょっと忘れたことがあるって話です~」
「へ~」
それで話が終わった。何を忘れたのか、等という問いは出てこない。
今の横島にとって、ファーレーンの事などどうでも良かったからだ。その声は無味乾燥としていた。耳はハリオンの声しか通さなかった。完全に無視されてファーレーンはもう涙ぐんでさえいる。
涙ぐむファーレーンを、横島は気づきさえしなかった。
「あ、そうだハリオンさん。美味い葡萄ジュースが手に入ったんで、一緒に飲みませんか!」
「いいですね~。じゃあ私もとっておきのお菓子を出しちゃいますよ~」
二人は寄り添って奥の部屋に消えていく。
ぎりっと歯を食いしばって二人を見送ったファーレーンだが、何を思ったかハリオンだけがそっと戻ってきた。
「ファーレーンさん~安心してください~」
「え?」
「もう、ヨコシマ様はファーレーンさんの笑顔を見たいからって仮面を外してほしい、なんて言いませんから~」
満面の笑みを浮かべて、ハリオンが残酷なまで清々しく言い切った。
怒りとも悲しみともつかぬ感情がファーレーンを包み込んだ。
「お~い。ハリオンさ~ん! どこ行ったんだー!」
「は~い。ヨコシマ様~今行きますよーー! それじゃあ、ヨコシマ様が呼んでますから~」
ハリオンは幸せそうに横島に向って走り出して、彼の胸に飛び込んだ。
横島はそれはもう幸せそうにハリオンと寄り添って歩き出す。
ファーレーンは声無き声を上げ、その場から遁走した。
次にナナルゥが異常に気づいた。
ナナルゥが自室で本を読んでいると、トントンとノックの音が響いた。
入室を許可すると、横島が部屋に入ってくる。
ナナルゥは身を固くした。部屋で男女が二人きり。それだけで読んで来た小説の情景がよぎって、怪しげな妄想を膨らませてしまう。
だけど、横島はそんなナナルゥを気にもしていないようで、本棚の物色を始める。
どうやら読みたい本が見つかったらしい。一冊の本を手に取ると、そのまま部屋から出て行こうとする。
ナナルゥはムッとした。ただ本を漁りに来ただけというのが、妙に胸をかき乱す。もっと何か話をしてくれても良いと思った。
「それはまだ読みかけです。持っていかないでください」
「固いこと言うなよ。こんだけあるんだから」
小説の数は20を超えているだろう。娯楽本はそれなりに高い買い物だ。
よくも集めたものだと、横島は関心した。
「しかし、何でこんな恋愛小説を集めてんだ」
横島の質問に、ナナルゥは何を言っているのだと不快感をあらわにする。
「ヨコシマ様が、私に愛を学べと命令したからです。お忘れですか」
二人が始めてあった日をナナルゥは思い出していた。
いきなりパンツ姿で突撃してきて、思い切り押し倒されて、何故か股間を叩いて気絶。
思い出すと、実にトンでもない出会いだったんだと思い知る。
だけど、決して不快ではなった。今なら分かる。横島がどれだけ自分を大事に思ってくれたか。
あの出会いを忘れる事は一生ないだろう。
その大切な思い出を
「んなこと言ったか?」
「…………え?」
横島は打ち砕いた。
「だって、ナナルゥが愛を知っても知らなくても俺には何の関係もないだろ。そんな命令出すとは思えないんだけど」
「…………そんな」
「とにかく、これは借りてくぞ」
返答を待たず、横島は本を持って部屋から出ていく。
ナナルゥは本棚の前で立ち尽くしていた。蔵書はすべて、愛に関するもの。
何のために愛の勉強をしていたか。誰の為に愛を知ろうとしていたのか。
――――俺には何の関係もない。
横島の無機質な声と無機質な表情が思い浮かぶ。
「関係ない……私が愛を学んでもヨコシマ様にはなにも関係な……い。か、かんけ……ない」
上手く呼吸が出来ない。何故か視界がにじむ。歯と歯がカチカチと音を立てる。
鉛のように体が重いのに、胸だけを残して体が伽藍堂のように何もなくなったように感じた。
「ハリオンさん! 持って来たっスよ」
「うふふ~ありがとうございます~もしも濡れ場があったら~私がその部分を朗読しますよ~」
「よっしゃあ! そんときは俺も手伝うっす! 二人の間で熱が篭る演技! いつしかそのまま実践に……くうぅ~これぞエロの王道だぜ!!」
一つ隣の部屋で行われていることが聞こえてきた。
今、横島とハリオンが肩を寄せ合いながら一つの本を読みあっているのだ。
想像するだけで全身が熱くなった。壁でも殴りたくなるような衝動に襲われる。
目を閉じ、耳を塞ぎ、ベッドに潜り込んでタオルを全身にかぶせた。
もう何も聞きたくない。何も考えたくない。
こんな辛いならば愛なんていらない。
ナナルゥの手が永遠神剣『消沈』に伸びる。
嫉妬の苦しみから逃れるため、神剣の干渉で心を失ってしまおうと考えたのだ。
手が神剣に触れて精神干渉が始まる。
マナを、マナを集めよ。
神剣の声が聞こえてきて、ナナルゥは愕然とした。
その声はあまりにも弱かった。以前、自分の心を半ば捕らえた神剣の干渉とは、これほど弱かったのか。
この程度の干渉なんて、この心に燃え盛る炎であっさりと焼き尽くしてしまう。
スピリットの心を示すハイロゥの色は、純白となって強く光を放ち続ける。
それだけ強力なエゴがナナルゥには生まれていた。
「辛いです。ヨコシマ様……ヨコシマ様……助けて」
ナナルゥは彼の名前を呼びながら、ただひたすら全てを燃やし尽くすような嫉妬の炎に耐え続けた。
最後に、セリアが異常を知る。
客引きの声。値切りの声。ほかほかのパンに舌鼓を打つ声。
熱気溢れる市場で、セリアは冷静に敵と味方――――値段と予算を見比べて戦力差を計算する。
限られた資金でやりくりしながら、どれだけの栄養価の高い食事を捻出するか。
主婦の戦いをセリアは人間相手に繰り広げる。
「あれも買ったし……これも買った。これで全部ね」
「ええ~これだけですか~もっと甘い物を買っていきましょうよ~!」
「ダメに決まってるでしょ! 砂糖なんて高いものを買うなら、もっと野菜を買わないと」
「うう~セリアさんは厳しいです~」
一緒に買い物に来たハリオンは、甘い物を買えずにしょんぼりとしている。
一通りの物を買い終わり、セリアとハリオンは帰路についた。
そこに、一人の男の声が近づいてくる。
「お~い!」
男のはしゃいだ様な声が後ろから響いた。
振り返ると、横島が満面の笑みを浮かべて大きく手を振りながらこちらに走ってくる。
セリアの両手には荷物が一杯で手を振り返す事なんてできないし、そもそも振り返す意思も無い。
本当に子供っぽいんだから、とセリアは呆れ気味に溜息をついた。
横島は手を振りながら走ってくる。ひょっとした抱き着いてくるかもしれない。
抱き着いて来たら蹴り飛ばしてやると、セリアは怒りと楽しみを合わせたような表情で、抱き着きを待ち受ける。
とうとう横島の手が伸びてきて、セリアは前蹴りを繰り出す。
スカッとセリアの足が空を蹴った。
どうして、と混乱するセリアだが、答えはすぐに見つかる。
横島は隣にいたハリオンに抱きついていたからだ。
カアッとセリアの頬が赤く染まる。
まるで手を振られたと思って手を振り返したら、実は隣の人物に挨拶をしていて怪訝な顔をされてしまったような、そんな恥ずかしさ。
恥をかかされたと顔を赤くして横島を睨みつけるが、続く横島の行動に怒りがさらに膨れ上がる。
「それじゃあ、ハリオンさんの荷物は俺が待ちますね!」
「わあ~ありがとうございます~ヨコシマ様~」
「はっはっはっ! 気にせんでください!!」
セリアは両手に荷物を持っているのに対し、ハリオンは片手だけだ。
にも関わらず、横島はハリオンの荷物だけを持った。セリアは完全に無視されている。
何で無視するの。
そう口走りそうになって、セリアは咄嗟に口を押さえた。
漏れ出した自分の声があまりにか細くて情けなかったからだ。
まるで親からはぐれた子供のような、女子らしい声にセリアは顔を真っ赤にする。
そんなセリアなど気にもせず横島とハリオンは会話を続けたが、ある二人の姿が目に入って横島が声を掛けた。
「お、ちっちゃ妹とルーちゃん! そっちも買い物か」
「別にちっちゃくないよ! このエロ兄!」
「はい、お買い物です」
ルルー・ブルースピリットとルー・ブラックスピリットの二人も買い物の帰りらしい。
第三詰め所の買い物は、主にルルーが店員と交渉して、それ以外が荷物持ちをしている。別にルルーは自分が荷物を持っても良いのだが、せめてこれぐらいはやらせて欲しいと他のスピリットは荷物持ちを申し出たのだ。
ルーは両手に荷物を抱えながら、目を輝かせて横島に近づいていく。
ハリオンが慌てたような顔をした。
「あ~ルーちゃん、ちょっと待ってください。今のヨコシマ様は~」
イオ特性の惚れ薬の効果と、『天秤』の干渉によって横島の精神は変化している。
この惚れ薬は、実は惚れ薬ではないのだ。正確に言えば、薬を飲んで最初に見た対象しか、目に入らなくしてしまう。別に惚れさせる薬ではない。
それ以外を無関心にしてしまう薬。
命名するのなら『無関心薬』とでも言おうか。
本来はそれほど強い効果はないのだが、薬に『天秤』が働きかけることによって、効果を増幅させている。
今の横島に近づいても、自分以外はなしのつぶてになってしまうと、ハリオンは慌てたのだ。
しかし、
「そんじゃ、ルーちゃんの荷物も俺が持つぞ。ふっふっふ、いいとこ見せてポイントアップじゃ」
横島はルーに優しく対応して見せた。
おかしいなとハリオンは目を丸くする。
「あれ~おかしいですね~薬と干渉で私以外には興味を持たないはずなんですけど~」
「あーその事なんだけど……ハリオンさん。ちょっとこっちに来て。あ、兄さんにルーお姉ちゃん……それとセリアさん。すぐに済むから、少し待っててね」
ルルーはハリオンと秘密のお喋りとばかりに物陰に隠れて、なにやらひそひそ話し始める。
残された三人だったが、ルーは積極的に横島に話しかけた。
「ヨコシマ様は、どんな料理がお好きですか」
そこから話は始まり、ルーは様々な事を横島に聞いた。
食事の好みから始まり、好きな色、好きな動物、お風呂は何度ぐらいが好きか、何時ごろ寝るか。
まるで、同棲する時ような会話だ。
セリアはその会話に入り込むことができず、ただイライラと足を踏み鳴らす。
少しして、ルルーとハリオンが女同士の秘密会話から戻ってくる。
ルルーはニコニコと笑っていた、ハリオンは困ったような表情をしている。
「それじゃ、兄さん。第三詰め所に帰ろうか」
「ああ、そうだな」
兄妹はさも自然に言って、歩き出す。
プチンと、セリアの中で何かが切れた。
「ああそう! 第三詰め所に帰るのね……ふん、さようなら!!」
怒りと不満を爆発させて、皮肉っぽく罵る。
あっと、横島が失敗でもしたかのように口元を歪ませる。
いい気味だとセリアは思った。
私を無視するからだ。嫌味を一つや二つほど言って困らせてやろう。
ニヤリと笑いながらセリアが口を開こうとしたが、
「すんません! ハリオンさん!! 俺が帰るのは第二詰め所だけです。なんと言ってもハリオンさんがいるんすから」
横島がハリオンの手を握りながら猛烈に謝る。
そこにはセリアのセの字もない。
無視も無視。眼中に無し。セリアのプライドは完全に粉砕された。
「ああ、そう! そんなにハリオンがいいの! だったら二人で好きにしてなさい!!」
両手に荷物を抱えて、のっしのっしと大通りを歩いていく。
そんなセリアを、ルルーは馬鹿にしたように笑って、ハリオンは困ったように苦笑した。
「何を怒ったんだろうな」
横島はきょとんとセリアを見つめて、そこで彼女への関心を切った。
「いやはや、面白い事になっていますねえ」
物腰の柔らかい男が割り込んでくる。一般人に見えるが、足運びが普通ではない。
ルーは警戒した様に横島の背中に隠れたが、男の顔は横島もハリオンもルルーも知っていた。
「よお、どうしたんだ。動物に怯える諜報部さん」
「いやいや怯えますよ。お陰で我らの会話の殆どが筆談とブロックサインにさせられたんですから。貴方の世界の霊力というのは反則過ぎます」
「神剣も大概だけどな。それで、なんのようだ。俺はお前らとは付き合いたくねーんだけど」
「ええ、今回は貴方は関係ありません。ハリオンさんに伝えなくてはいけない事情が合って、城まで来てほしいのですよ」
「あ~27番さん。ハリオンさんには事情は伝えたよ」
「そうですか。それは一つ手間が省けて結構ですが、もう一つ彼女に伝えることがあるので」
「おい! 俺のハリオンに間違っても手を出すなよ! もし手を出したら」
「はいはい、分かってますよ! 貴方を怒らせたらどうなるか、これでも見てきたんですから」
男の声は軽いが、声の芯には確かな恐れがあった。
そうして男はハリオンと共に城へと向う。
横島はルーとルルーという二つの花を両脇に添えて、楽しくお喋りしながら詰め所に戻った。
しばらくして、ハリオンは詰所に戻ってきた。
表情に、今までで見た事もないほどの懊悩を見え隠れさせながら。
どうして、こんなことに。
横島に無視されて嘆くセリア達と同じく、いや、それ以上に苦しそうなハリオンの声が第二詰め所で密かに響いた。
それから数日が経過した。
第二詰所内は世紀末もかくやというありさまだ。
横島の目は、声は、優しさは、いやらしさは、全てハリオンの物となった。
それ以外のスピリットはカスも同然。完全なる空気。
ハリオンを除くスピリット達のフラストレーションは極限まで溜まり、いつ爆発しても可笑しくない爆弾と化していた。
そして、その日が来た。
夕食時。
リビングに現れたハリオンの服装に全員が驚愕した。
ハリオンの服装が、いつもの戦闘服ではなく、かといってメイド服でもない、美しい黒を基調としたドレスだったのだ。しかも、イヤリングをつけ、靴もそれようにあしらえている。
「どうですか~似合ってますか~!」
ハリオンは目を丸くするセリア達に向かって、ふわふわとポーズを取って見せる。
しばらく声を失くしていたセリアだったが、ようやく意識を取り戻して、ハリオンを睨みつけた。
「そのドレスは一体何!? まさか、買ったの!? 隊のお金を使い込むなんて、そんな事が許されるとでも!」
「勘違いしないでくださいよ~この服は~ヨコシマ様個人のお金でリュートさんのパパに作ってもらったものなんですから~」
全員が絶句する。つまり、横島はハリオンにオーダーメイドのドレスを送った事になる。
子供たちは羨ましそうにドレスを見つめ、大人たちは驚いたようにドレスを見つめた。
シックでシンプルな黒のワンピース。よく出来ているといえるだろう。
ただ、ドレスは少し小さいようで、肩の付近の肉が食い込んでいる。
ヒミカはドレスが本来自分に送られるはずだったことに気づいて唇を噛んだ。
「もちろんこのイヤリングもですよ~月の石で出来ているって宝石と太陽の石で出来てるって宝石です~兄弟石っていって、二つでセットになってるんですよ~」
綺麗ですよね~と見せびらかしながら、ハリオンは『月光』のファーレーンと『曙光』のニムントールに殊更笑いかけた。
二人も、イヤリングは私達のものだったと分かって、自慢するハリオンを睨みつける。
「待ちなさい! 食事と言ってもスピリットが入れる店なんて無いわ。だから、食事に行くなんて無理だから……」
「そこら辺は大丈夫です~ヨコシマ様がスピリットでも大丈夫な店を探してくれましたから。もう予約も取ってくれているんですよ~」
再び絶句。
スピリットでも利用できる店。そんなものがあるというのか。しかも予約済み。
これはセリアが行くはずだった店だ。
「それでもやめたほうがいいわ! いくら店側が許可しても、普通の人間もいるのよ! 絶対にトラブルになるから!!」
「それも大丈夫です~ヨコシマ様が大枚叩いて貸切にしてくれましたから~」
三度絶句。もう言葉も無い。
何もかも奪い取っていくハリオンに、スピリット達は嫉妬と恨みを込めて睨みつける。
睨まれたハリオンは、笑みを浮かべながら首を傾げて見せた。
「もう~何を怒っているんですか~皆さんが望んだ状況だと思うんですけど~」
「わ、私達が望んだ状況? ふざけないで! いつ私達がこんな状況を――――」
「望みましたよ~もうヨコシマ様は皆さんに何もしません~
よかったじゃないですか。大嫌いなヨコシマ様に何にもされないんですから~
皆さんの分まで、ヨコシマ様の事は引き受けます~お姉さんがヨコシマ様を守るんです」
ハリオンは決然として言った。
そして何も言えずに立ち尽くすセリア達に踵を返して、横島が待つ玄関に向う。
二人は恋人のように手を握り合った。横島はでへへと締りの無い顔で笑って、ハリオンはのほほんとした笑みを浮かべて、二人は幸せそうにデートに繰り出す。
後に残るは、無残な敗残者達。
「ふ、ふえ~ん! なんで……どうしてーー!!」
その場で泣き崩れるヘリオン。
他のスピリット達も唇をかみしめて項垂れた。
だけど少しして、髪を逆立てながらナナルゥが前を向いた。
「惚れ薬……惚れ薬です」
端正で透明感ある表情は消え去り、炎のような憤怒に染まっている。
「薬で心を縛るなど、許されるとは思いません。ヨコシマ様もユート様も、心を大切にと言っていました。
また、強力な薬は肉体にどのような悪影響を与えるか分かりません。ある種の薬剤は強い依存性を持ち体に害を与えると聞いた事があります。
早急に、なんとかしないといけません」
ナナルゥの言葉は正論だった。
だが話の本題では無い。今回の騒動について、真の問題点は別のところにある。
本当の問題から第二詰め所は目をそらした。別な部分の正論に飛びついた。
それでも正論は正論だ。
理論武装を固めて、セリア達は失ったものを取り戻そうと動きだす。
「ただいまぁ~」
数時間後、二人は詰め所に帰宅した。
お泊りでなかったことに、そしてこの時間ならご休憩もないだろうと察した一部のスピリットはほっとしたが、戻ってきた二人の姿を確認して苦い顔をする。
二人は腕を組んでいた。
ハリオンの豊満な胸が横島の腕に当たっていて、横島は至福とでも言うように表情を蕩けさせている。その様子は恋人同士にしか見えない。
セリアは、そんな横島を意図的に見ないようにしてハリオンに鋭い視線を送る。
「あらあら~どうしたんですか~」
鋭い目つきでこちらを見つめているセリアとヒミカ。
ハリオンは妙に嬉しそうだ。
「ちょっと話があるの。付き合ってくれない?」
頼むように言ったが、セリアの目には拒否を許さないという強い意志が見え隠れしている。
「ハリオンに何のようだよ」
不穏な意思を感じ取った横島が、ずずいとハリオンを守るように立ちはだかる。ハリオンは嬉しそうに彼の背中に隠れた。
横島の目はぎらりと光って、二人を見据える。そこには温かさは無い。憎しみも無い。
あるのはハリオンを守ろうとする強い意志だけだった。第二詰め所全てに注がれていた意思は、いまやハリオンにしか向けられていない。
二人はもう横島を見たくなかった。どうして自分がヨコシマ様にこんな目で見られなければならないのだ、と憤慨して隠れたハリオンを睨む。
「ただちょっと話があるだけです! 貴方は関係ありません!」
「その話が隊の和を乱すことなら、俺は隊長として見過ごすことはできないぞ」
――――――貴方が気にしているのは隊じゃなくてハリオンでしょう!
セリアはそう叫びたい気持ちをぐっと堪える。
どうしてこうなってしまったのか。今まで上手くやってきたというのに!
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――――――――!!
「セリアさん~話があるなら、外でお話しませんか~」
いつもの笑みを崩さず、むしろ、いつも以上の笑みをハリオンはセリアに笑いかけた。
そんなに二人きりの食事が楽しかったのかと、セリアは歯を食いしばる。
絶対に、自分達のヨコシマ様を取り戻してやると心に決める。
「ええ、お願いするわ。外で話しましょう」
「ハリオンさん……大丈夫っすか」
横島が不安げにハリオンを見る。
ただならぬセリアの鬼気を感じて、本当に身の安全を案じているようだ。
「心配してくれてありがとうございます~でも大丈夫ですよ~さあ、女の子同士の会話に行きましょ~」
ハリオンはドレスから普段着に着替え終えると、セリアを伴って詰め所から出て行った。
セリアはハリオンを伴って、第二詰め所から少しはなれた森の広場へと連れ出した。
もう夜遅かったが、大きく月が出ていてマナ蛍も飛び交い、十分な明るさがある。
「来たわね」
広場には他のスピリットの姿もあった。
ネリー、シアー、ヒミカ、ナナルゥ、ニムントール、ヘリオン、ファーレーン。
第二詰め所のスピリットがそろい踏みだ。
代表者として、セリアが声を上げた。
「単刀直入に聞くわ。ハリオン、貴女は何を考えているの」
「何を……ですかぁ~? 」
ニコニコと笑いながらのんびりした声で答えられて、幾人かの眉間に皺が寄る。
「何で惚れ薬をヨコシマ様に飲ませたかって事よ! 彼の健康が心配じゃないの!?」
セリアの言葉にハリオンの表情が曇る。
まさか、そう来るとは思わなかったという顔だ。
「え、ええ~! 健康って……そういう質問しちゃうんですか。ヨコシマ様を独り占めしないでとかじゃなくて~」
――――ヨコシマ様を返して。
それはセリア達の心の声だった。
だけど、それを言える様なら、そもそもこんな騒動は起こりえなかった。
「違うわよ! 私が言いたいのはヨコシマ様の健康について。ひいては、ラキオスの為に言っているの」
ハリオンの表情が強張った。
もう涙すら浮かんでいる。
「皆さんが言いたい事はそうじゃないはずです。お願いですから、もっと素直になってください~このままじゃ……このままだとダメなんですよ~!
皆さんは女性として、ヨコシマ様の事が大好きなんでしょう!」
必死にハリオンが訴える。
だけど、セリア達の答えが変わる事はなかった。
「私達は別にヨコシマ様をどうとも思っていないわ!」
最後の最後まで、セリア達は嫉妬を認めようとはしなかった。
恥ずかしさに負けて、本音を口にすることが出来なかった。
ただ一言、好きな人を返して欲しいと言えばよかったのに。
「ここまでだね」
木の陰から少年のような快活な声が響く。
ふらりと姿を現したのはルルー・ブルースピリット。第三詰め所の、事実上のまとめ役とも言える少女だ。
ルルーは勝ち誇った顔でセリア達を見つめた。敵意と、それに勝る優越感が顔に張り付いている。
「ここまでですか~?」
「うん。監査役として判断するけど、もうこれまで。ハリオンさんはどう思う? もしこれ以上様子を見て欲しいって言ったら、さっきの発言を全部人間達に話すけど」
「……分かりました。私も限界と判断します~」
「よし。じゃあ監査役二人の意見を持って、任務は終了っと」
監査?
任務?
一体何が起こっているのか分からない。
だけど、もう取り返しが付かない決定的な何かが起こって、全てが終わってしまったような気がしていた。
「本当に皆さん馬鹿なんですから」
最後に脱力したようにハリオンは呟いて、胸元から封書を取り出す。
押されている花押は、ラキオスの象徴である龍。よほど重要なものだ。
ハリオンは封を切ると、中から出てきた一枚の紙をセリアに渡した。
そこに記されていた内容に、全員が驚き、息を呑んだ。
辞令。
エトランジェ・タダオ・ヨコシマ殿。
封が破られた現時点をもって、第二詰め所隊長から第三詰め所隊長へ異動を命ずる。
遅れてすいません。次回の更新日なんて予告しなければ良かった、
何とか嘘つきは免れたけど、誤字脱字が心配。文も雑そうなので後で修正すると思います。本当にごめんなさい。
ちなみに、本当は惚れ薬じゃなくて、病院にいるスピリット達が横島を求めることによって、事態を進展させる予定でした。横島は弱っているスピリットを放置できなくて、第二詰め所と距離を置いて、お互いにすれ違わせようかなと。
没にした理由は、単純に文字数が多くなるから。デリケートな部分に触れるから、どうしても丁寧に書く必要があって。
本ルートならともかく、IFで十万文字も書いてられなかったです。
でも、薬の所為で強引な展開になったのも反省。