とあるイラストから着想を得た鹿島さんのお話です。

※Pixivとのマルチ投稿です。初回投稿日:2016/02/23

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いまもその片隅で

 爽やかな空色のストライプの走るユニフォームは、鹿島のもうひとつの艤装である。最初は物珍しく映ったものだが、いまではすっかり堂に入ったものだ。

「いらっしゃいませー……あ、提督さん♪」

 彼女は秘書艦として私を補佐する傍ら、ここの店長として売り場を切り盛りしている。彼女はようやく彼女のあるべき戦場を見つけたようだ。活き活きと輝く笑顔を見ていると、私まで誇らしい気持ちになってくる。

 しかし……あの頃を思い出すと、つい寂しくもなってしまう。何故このような形になってしまったのか……と、これまでのことを思い返してみるも、結局のところ、全ては私の監督不行き届きによるものなのだろう。ただ、その発端となったのは、あの報告書だったのかもしれない。あのとき、印を捺す前にきちんと確認しておけば――それだけが、いまも小さな棘となって心の隅に引っかかっている。

 

       ***

 

 深海棲艦から国を護っているとはいえ、それを日々の生活で実感している民はそれほど多くない。全てを未然に防いでいるのだから当然であり、むしろ理想的ともいえる。とはいえ、諦めて何もしなければ、人々からは理解も信任も得られないだろう。それを打開するために行われるのが、広報活動である。

 大手コンビニエンスチェーンとのコラボレーション企画――ここで好印象を広めることができれば、鎮守府に対する国民からの風当たりも幾分か和らいでくれることだろう。

 ゆえに、我々はこれに対して全面的に協力することにした。比叡や阿賀野四姉妹はともかく、連装砲の写真など撮ってどうするつもりなのだろう……? よく解らないところもあるが、キャンペーンは着々と進んでいった。

 そして極めつけは、我が第一艦隊旗艦にして秘書艦たる鹿島による一日店長である。彼女は青い縦縞の制服を羽織って全国各地の実店舗を巡り、さり気なく鎮守府の働きをアピールしてきてくれた。

 この活動による戦果は上々で、艦娘たちの関連商品も次々と完売していったと聞く。これで我が艦隊の世間体も盤石なものとなったに違いない。

 その風評と引き換えにもたらされたのが、滞った月締め処理である。私も私なりに孤軍奮闘してみたものの……秘書艦の偉大さを思い知らされただけだった。

 鹿島は練習巡洋艦である。艦娘たちの成長を絶えず見守っている彼女は、数字にはすこぶる強い。所属艦のあらゆる測定値を頭に叩き込んでおり、速やかに最適な演習を弾き出す。そんな彼女にとって月々の決済処理など取るに足りないものなのだろう。実際、彼女は次々と暗算だけであらゆる収支を導き出してゆく。それはもう、圧倒的な速さと正確さで。

 キャンペーンを終えて鎮守府に戻ってきてくれた鹿島には、本来ゆっくりと休んでもらうべきなのだろう。しかし、今日は月末である。明日の朝までに今月分の報告書を本国へと提出しなくてはならない。帰還早々申し訳ないとは思いながらも……鹿島には朝まで付き合ってもらうことにした。

「お気になさらないでください。これが、秘書艦たる鹿島の本来の任務なのですから」

 彼女の笑顔から疲れは感じられない。むしろ、こちらまで元気になってくるようだ。そんな秘書艦の前で弱音は吐けない。

「とにかく、今夜中に必要なものから着手してくれ。終わったらすぐに承認するから」

「はい、よろしくお願いしますね」

 彼女からの心強い返事は、何よりの励ましになる。何としても間に合わせるつもりで、私たちは各々の業務に着手することとなった。

 

 鹿島の辣腕たる所以は、その事務処理能力だけではない。

「提督さん、珈琲はいかがですか?」

 彼女はこちらの様子を伺って、適宜声を掛けてくれる。いまも、ちょうど疲れから集中力が欠けてきたところだった。

「ありがとう、いただくよ」

 それに、その珈琲とて出来合いの既成品ではない。私の好みや調子に合わせていつも調合を変えてくれている。今日の一杯は……少し濃い目だ。眠気覚ましも兼ねてくれているのだろう。本当に気の利く、優秀な秘書艦だ。

 彼女に支えられて、書類は少しずつ消化されていく。だが、疲労の蓄積は避けられない。夜明けも押し迫り、うつらうつらしてきたところで……パチパチと聞き慣れない音が私の耳を突き刺した。それで、私は意識が飛びかけていたことを自覚する。いかんいかん、と顔を上げて……私の眠気は一気に吹き飛んだ。この、何か乾いたものがぶつかり合う音の正体は、鹿島だった。鹿島が、ソロバンを弾いていたのである。

 これまで、彼女がこと計算において道具に頼っていたところなど見たことがない。全て頭の中で完璧に算出していた。その鹿島が、処理しきれなくなっている。それに引き換え、自分自身の何たる情けないことか。こんなことでは、部下に対して示しが付かない。

 珠と珠がぶつかり合い、夜の司令室に軽快な音を響かせてゆく。これが鳴り止まぬ限り、私の脳裏に再び睡魔が降りてくることはないだろう。

 

 朝陽もすっかり昇りきり、翌朝の始業の時間に差し掛かろうとしている。が、何とか喫緊の書類だけは揃えることができた。あとはこれを確認した上で、本国へと送り出すだけである。

「本当に助かったよ。ありがとう」

 と、礼を述べるも、彼女の仕事はまだ終わっていない。

「いえ、あの、提督さん……今月の損益計算書なのですが……」

 そうだった。彼女の作業は私の承認を得て始めて完了となる。すぐに目を通しておくべきだろう。

 さっと見たところで……彼女が少しそわついている理由が解った。

 雑支出の値が、先月までと比べて一桁多い。この項は、いわゆる小さな支出の積み重ねである。彼女が鎮守府に在席していれば取りこぼしも少なかったのだろう。だが、今月の後半はずっと留守にしてしまっていた。ゆえに、これは彼女のミスではない。私の丼勘定が招いた結果である。

「問題ないさ。やはり鹿島がいないとダメだな」

 秘書艦を労いながら、私は責任者の欄に捺印した。

「はい、あの……すいません」

 これについて、彼女に責はない。そんなところで恐縮されても、こちらが困ってしまう。徹夜の疲れから気も弱っているのかもしれない。早めに休ませておくべきだろう。

「今日の午前中の執務は休みとしよう。来客も午後だしな。時間は短いが、少しでも疲れを取ってくれ」

「はい……その……お疲れ様でした」

 一礼すると、頼りない足取りで鹿島は退室していく。私も早々に寝室に戻っておこう。起きたら、栄養剤を飲んでおいた方が良いかもしれない。そういえば、キャンペーン中のコンビニで買っておけば、彼女のタペストリーがもらえるんだったか。当鎮守府にそのような店舗がないのが残念だ。

 

 海は穏やかなときもあれば、荒れ狂う日もある。今朝の大洋は平和そのもので、私は警報に起こされることもなかった。時刻は予定通りの一二〇〇。これから身支度を整えて、堂々の午後出勤である。

 鍵を回して司令室に入ろうとするも、逆に施錠されてしまった。どうやら中では先客がすでに仕事を始めているらしい。

 改めて戸を開くと、

「いらっしゃいませ――」

 そう言って、鹿島は慌てて両手で口を覆う。彼女はもう、蒼の制服は着ていない。だが、どうやら半月間の習慣が抜けていなかったようだ。

「……お早うございます、提督さん」

 照れ笑いを浮かべて言い直す彼女をこれ以上からかうものでもないだろう。

「ああ、おはよう」

 口には出さず、笑顔で応えて私は自分の席に着く。月次処理は乗り切ったとはいえ、やるべきことはまだまだ多い。

 私が座すのと入れ替わるように、鹿島がすっと立ち上がった。きっと、珈琲を淹れてくれるのだろう。

「提督さん、ご昼食はお召し上がりになられましたか?」

「ああ、いや……」

 恥ずかしい話だが、ぎりぎりまで寝ていたため、そのような時間は取れなかった。

「それでは珈琲と、何か摘めるものをお持ちしますね」

「助かるよ。ありがとう、鹿島」

 やはり、腹が減っては仕事の効率も落ちてしまう。とはいえ、彼女が戻ってくるのをのんびりと待っているわけにもいかない。寸暇を惜しんで残務に着手したところだったが、すぐにコンコンと戸が敲かれる。

「鹿島です。ただいま戻りました」

「ああ、ご苦労様」

 カチャリと開けた鹿島の左手に乗せられたお盆には一杯の珈琲と、クリームパン。昼食代わりとしてはとても助かる品選びだ。

「お代わりもありますから、遠慮無くお申し付けくださいね」

 自分の席へと戻っていく鹿島の後ろ姿を眺めながら、彼女が出してくれたパンを一口かじる。ふむ、寝起きの頭に糖分が染み渡っていくようだ。それに、珈琲についても相変わらずの絶品である。今回はいつもより少し苦味が強い。これは、クリームパンに合わせての気遣いだろう。一つひとつが本当に嬉しい。

 彼女の差し入れのお陰で頭も冴えたし目も冴えた。これで、一五〇〇からの会議まで、集中して業務に励むことができるだろう。

 

 予定時刻より少し早く、来客を告げるベルが鳴る。

「あら、到着されたようですね」

 ぱっと腰を上げた彼女に私も続いた。資料は既に彼女にまとめてもらっている。速やかに玄関に向かうと、南西海域の提督がご自身の秘書艦を連れて待たれていた。

 軽く挨拶を交わして応接室まで通したところで、鹿島は静かに身を引いてゆく。お茶の用意をするためだ。その間テーブルを囲んで軽く雑談などに興じていると、鹿島が普段使いのトレイに人数分のカップとお茶菓子を持ってきてくれた。

 陶磁器に乗せられた半円状の甘味は、饅頭にしては少し大きい。とはいえ、どら焼きでもないようだ。真ん中から綺麗に切られ、その断面から覗くのは粒餡ではなく白いクリームである。

 つい気になってしまい、卓に置かれた傍から口をつけてしまった。そして確信する。やはり……これは私が先刻出してもらったクリームパンと同じものだ。このような場にはやや重い気もするが……それでも、深煎りの珈琲との相性は抜群である。先方も気に入ってくれたようだし、これはこれで良しとしよう。

 

 打ち合わせもつつがなく終わり、外来の客人を送り出した後の予定は特に入れていない。月跨ぎで昨夜のような状況になることは先週の時点で既に分かりきっていたことだ。なので、今日の残り時間は体力の続く限り書類と格闘し続けるために空けてある。

 とはいえ、このような強行スケジュールに秘書艦を巻き込むわけにもいかない。今夜こそは定時で上がってもらい、きちんと 艦体(からだ)を休ませるべきだろう。そもそも、艦娘の本来の役割は戦闘である。事務に追われて、いざ外敵来襲時に調子を崩していては本末転倒だ。

 明日までに間に合わせなくてはならない事務手続きも特にない。しかし、それでも彼女は自ら業務時間外まで付き合ってくれると申し出てくれた。

「これからお夕飯にしようと思うのですが……ここのお台所をお借りしても宜しいですか?」

 その上、多くできてしまったら、食べるのを手伝って下さいね、と付け加えて。

「せめて、栄養のあるものを食べないとダメですよ」

 自分の夕飯のついで、という体裁を取られてはこちらとしても断りづらい。とはいえ、彼女には本当にそろそろ休んで欲しいという思いもある。

「そこまで気を使わせてしまうとは……そんなに私は頼りないだろうか」

 彼女の身を案じてみるものの、逆に、彼女によって我が身を案じられてしまった。

「ふふっ、提督さんって仕事以外のところはちょっと抜けたところがありますから……。女房役として当然のフォローですよ♪」

「女房……」

 その言葉に、ついドキリと胸を弾ませてしまう。もし妻を娶るのなら、彼女のような女性がいいだろうな、と常々考えていたから。

 意図せず零してしまった一言に、鹿島の頬もみるみる紅潮していく。

「やっ、やだ……私ったら、まだ熟練度も九割に満たないのに……!」

 彼女は自分の未熟さに恥じらっているが、そんなのは些末事だ。

「それでも、私は他の艦を秘書艦に迎えるつもりはないぞ」

 どんなに戦闘力に優れた艦が他にいたとしても……私を支えてくれるのは、やはり鹿島でなくてはならないのだから。

「で、でしたら……」

 俯き加減に顔を伏せて、指を捏ね繰り回していたが、ついっと横目で私の方を窺う。

「少し時間は掛かるかもしれませんが……鹿島のこと、待っていて下さいますか?」

 彼女は練習巡洋艦として艦娘たちの指導に当たっているが、自分自身についてもよく判っているのだろう。限界を超えるほどの力を引き出す領域には、まだまだ及ばないことを。

 しかし、いつかは辿り着くはずだ。

「ああ、いつまでも待っているさ」

 艦隊戦は不得手とはいえ、実戦を積み重ねていればいつかはその日はやって来る。それまで……いや、それからも、私の傍にいて欲しい。

「あ、ありがとうございます……」

 その呟きは少しずつ小さくなってゆき、最後にはかすれて消えてしまった。私からも、声をかけづらい。目も合わせられず静かなときが過ぎてゆく。が、鹿島が思い出したようにパンっと柏手を鳴らした。

「あっ、私っ、お夕飯の支度してきますねっ!」

 ととと、っと鹿島は逃げるように退室していく。が、外から扉を閉めようとしたところで、ひょいとこちらを覗き込んできた。

「他の()に浮気とかしちゃ嫌ですよ♪」

 片目を閉じて可愛らしく釘を刺したところで、今度こそ厨房に向かっていったようだ。彼女の姿が見えなくなったところで、私もようやく息をつく。胸がざわざわと落ち着かないが、不思議とやる気は満ちてきた。彼女が戻ってきたとき、男らしい姿で迎えてみたいから。

「よし……やろう」

 声に出して、自分を鼓舞する。私が抱えた手続きの一つひとつが勝利に繋がり、それが、私と彼女の未来を作っていくのだと信じて。

 

 鹿島が食事の準備を続けている間、私はコツコツと課せされた書類に目を通していく。あれからどのくらいの時間が経っただろうか。どうも、今夜の夕食は随分手が込んでいるらしい。とはいえ、こちらも徹底的に執務に当たる覚悟である。多少食事が遅れたところで大した問題ではない。

 とはいえ、彼女が部屋を出てから一時間が経っている。さすがにそろそろ空腹感が気になり始めてきた頃……ようやく鹿島は戻ってきてくれた。

「お待たせしてしまいましたね。煮込むのに時間が掛かってしまって……」

 彼女のお盆のふたつの平皿から湯気が立ち上っている。ここからその中身は見えないが、漂ってくる香りで献立は判った。

「ほぅ、クリームシチューか」

 シチューの他には、野菜サラダとパンが一つ。ふたり分を私の机に乗せたまま自分の分を持っていく様子もないので、彼女もここで食べるつもりらしい。

「こちらでご一緒して宜しいでしょうか?」

 一言断った上で、彼女は自分の席に椅子を取りに行く。その間、私はメインディッシュであるシチューよりも、パンの方が気になっていた。このメニューならば白米よりもパンの方が合うのは頷ける。だが……この独特の形には見覚えがあるような……というか、クリームパンだ。割ってみないと断定はできないが、十中八九今日二度に亘って食べてきたクリームパンに間違いないだろう。

 鹿島は大きな提督用の机の反対側に椅子を起き、向かい合う形で私の正面に座った。

「それでは、いただきましょう」

「あ、ああ……」

 私は疑惑の正体を明らかにすべく、早速パンを一切れ千切ってみた。すると、中から溢れ出すのは黄色がかったクリーム。三度目ともなると、口に入れずともあの甘味が蘇ってくる。

「クリームパンか……」

 愚痴にも似た感想を零すも、鹿島はいつもどおりにふわりとした微笑みを返してくれた。

「はい、クリームシチューなので合うかと思いまして」

 合うにしても、さすがに三度目というのはどうしたものだろう? とはいえ、苦言を呈すほどでもないか……と迷っていたが、話題はシチューの方に持っていかれてしまった。

「まだ一食分は残っておりますので、朝方に火を入れ直して下さいね」

「あ、うむ……む」

 そこからは仕事の話やら艦娘たちの噂話やら、他愛もないやりとりが続いてゆく。しかし、私の頭からは続けざまに差し出されてきたクリームパンの数々の件が頭から離れなかった。

 

 艦娘とはいえ、女性には違いないのだからあまり遅くまで引き止めるものではない。名残惜しくも、私は鹿島を送り出すことにした。

「提督さんさえ許可していただければ、鹿島、今夜もご一緒いたしますのに……」

 正面玄関を出たところで、彼女は寂しそうにぽつりと呟く。私に彼女の力は必要だ。しかし、それは今夜だけに限らない。明日も、その先も、私は彼女を必要とするだろう。だから、いまは休むべきときなのである。

 改めて退勤を促すと、鹿島はぷくりと頬を膨らませた。

「仕事が滞れば泊めていただけるのでしたら、私、わざと遅らせちゃいますよ?」

「そ、それは……」

 赤くなるやら青くなるやら、様々な感情が駆け巡る。困りきってしまったところで鹿島は堪えきれずに吹き出した。

「もぅっ、冗談ですよ! それでは本日もお疲れ様でした」

 ペコリと頭を下げると、二本のサイドテールがふわりとなびく。少し歩いては時折こちらを向いて手を振る彼女の姿見えなくなったところで、私も部屋へと戻ってきた。

 直ちに残務に着手しなくてはならないところだが……何だか、部屋の中がガランとしてしまった気がする。それに心なしか頭も重い。おそらく、食後に来る眠気もあるのだろう。私は一先ずシャワーを浴びて、気分を切り替えることにした。

 綺麗さっぱり汗を流せば目も覚める……と思っていたが、今度の疲労はそう軽いものでもないらしい。そういえば、徹夜明けの今日だった。あまり続け様に無理をするものでもないだろう。

 ならば、今夜のところはここで切り上げ、明日の朝、早めに起床すればいい。私はそのまま自室へと戻り、布団の中へと潜り込んだ。すると、一気に溜め込んできた疲労感が吹き出し、私はすぐさま深い眠りへと落ちていく――

 が、無意識下でも仕事のことを考えていたのだろう。明け方まで熟睡することは叶わず、私は深夜に目を覚ましてしまった。このまま横になっていれば、再び眠ることはできたかもしれない。が、私は今更ながらやり残していたことを思い出した。

「あの机は……マズイな」

 そういえば、気分転換のつもりで部屋を出てきたので、卓上の書類がそのままである。然程重要なものはないとはいえ、軍の情報はどれも部外秘だ。部屋の鍵だけは掛けてきたが、無防備であることは否めない。

 すぐに、執務室に戻っておこう。そして、そのまま起きていられるようなら変な時間ではあるが作業を再開すればいい。

 寝間着にガウンだけ羽織って、私は無人の官邸の廊下に出る。絨毯敷きの廊下は私の足音を立てることはない。が、そんな中で――パタン――と戸棚が閉じられるような音が聞こえてきた……気がする……?

 気配を殺して足を忍ばせ、慎重に階段を下りてみると……その先からうっすらと光が漏れているのが見えた。これが司令室や資料室なら緊急事態だが、あそこは……給湯室だろう。

 そもそも、この建物の鍵は私と秘書艦しか持っていないのだ。その上で、こんな時間に邸内に私以外の者がいるのなら、彼女である可能性が最も高い。しかも、彼女がよく利用するあの一角ともなれば……間違いないだろう。

 何故こんな深夜に忍びこむような真似をしたのかは解らない。が、大事に至ることはなさそうだ。安心しきっていた私に対して、彼女の方はこちらの接近に全く気づいていなかったらしい。

「鹿し――」

「ひゃぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 彼女は暗い部屋に小さな照明を持ち込み、手探りで作業をしていたようだ。両手を上げたまま勢いよく振り向くと、ボロボロゴトゴトと何かがこぼれ落ちてゆく。どうやら物を上の棚に仕舞おうとしていたところを邪魔してしまったようだ。

「驚かせてすまなかった。すぐに拾い集めよう」

 地に着いたときの様子から、壊れたり割れたりした雰囲気はない。状況を確認するために電気を付けてみると――

「あ、あのっ、これ……その……」

 床一面に散らばっているのはビニール袋に梱包されたパン、パン……丸い、パン……。貼られたラベルにはどれも同じ商品名が表示されている。悉く、同じ。

「私……ごめんなさい……私……!」

 パンの床にしゃがみ込んだ鹿島は、それ以上言葉を繋げることができない。いまの私にできることは……彼女の涙が枯れるまで、この胸を貸すことだけか。部屋中を埋め尽くしているパンたちには、もう少しだけ待っていて欲しい。

 

 夜の鎮守府はすっかり寝静まっている。今頃当直が、退屈そうに夜が明けるのを待っていることだろう。月明かりもなく、街灯だけが照らす冷たいアスファルトの上を二組の足音がコツコツと通りすぎてゆく。

「その、知らないうちにゼロが増えていたことには気がついたんです」

 それは、彼女が一日店長として国内の支店を巡り歩いて一週間ほど経った頃だった。鹿島は本来の店長から発注処理を頼まれたらしい。といっても、ただ送信ボタンを押すだけの簡単な操作のはずだった。それが……彼女曰く『直前で突然数値が増えた』とのこと。おそらく、どこかそれ以外のボタンに触れてしまったのだろう。具体的には『00』あたりに。

「慌ててパソコンを消したんですけど……間に合わなかったみたいで……」

 何となく察するに、切ったのはパソコンではなく、モニタだけだったのではなかろうか。もしデータ送信中にマシンの方を落としてしまったのならもっと大きな騒ぎになっていただろうし。

 こうして、為す術もないまま、千二百個のクリームパンが発注されてしまった。勿論、そんな非常識な手続きには本部から店舗側に問い合わせが来る。が、自責の念に駆られた鹿島は、それを鎮守府で買い取ることにしてしまったようだ。店長も、艦隊運用に必要ならば、と深く首を突っ込むことなく納得してくれたらしい。こうして、百倍のクリームパンはその店の売上に大きく貢献することとなった。

 その一方で……不自然に大きな雑支出として、今月の報告書に現れたのである。

 帳簿上は損失計上できたとはいえ、食べ物を粗末にするものではない。かといって、大々的に配り歩いてはこの不祥事が露見してしまう。それで彼女は密かに冷蔵庫の方に移して徐々に食していこうとしていたようだ。

「事あるごとに皆様にもお出ししたのですが、いかんせん……」

 これは……もはやタワーである。冷凍庫の奥に築き上げられた大黒柱と見紛うばかりのダンボール箱。その中には、ギッシリとクリームパンが詰め込まれているのだろう。自然に消化するには無理がある。

 鹿島の創意工夫により、様々なシチュエーションでパンは提供されてきた。同じクリームパンでも、珈琲の風味を変えたり、夕飯の一品とすれば気分を変えて楽しめる。とはいえ、数が数だ。皆にバレないよう一つひとつ削っていっては底が見えない。

「ぅっ……わた……私が……っ!」

 そびえ立つ過ちを改めて前にして、鹿島は悔恨を抑えきれなくなってしまったようだ。思えば、彼女がこのような失態を犯したのは始めてのことである。できることなら、穏便に事を処理したい。

 しずしずと冷たい涙を溢れさせる彼女の肩を抱き、私は途方に暮れてしまう。だが、いまの自分に言えるのはこんなことくらいのものか。

「ともあれ、今日は遅い。続きは明日にしよう」

「……はい」

 彼女が冷凍庫から出しておいた分のパンは、明日の朝には給湯室で自然解凍されていることだろう。それを食べながら、一緒に考えるしかない。その一口が、小さな一歩として繋がってゆくのだから。

 

 翌朝、彼女は珈琲ではなく紅茶を淹れてくれた。

「うん、紅茶ともなかなか合うじゃないか」

「あ……ありがとうございます……」

 精一杯励ましてみるも、彼女の表情は優れない。誤発注の品が届いてからというものの、毎日同じものを食べ続けているのだろう。

 時刻は〇八三〇。あと半時間もすれば第二艦隊の面々との打ち合わせが入っている。

「午後には第四艦隊の方々も来られますので、合わせて――」

 会議のたびにクリームパンを振る舞うつもりのようだが、それはマズイ。

「待て、あまりに不自然すぎる」

 先日は来客を除けば私が一身に受け止めていたからともかく、多数の身内に同じものを配り続けては怪しまれてしまう。

「ふ……ふぇ……では、解凍したパンは……」

 再冷凍は良くないか。

「わ、私が食べるから心配するな」

 幾つかは鹿島にも手伝ってもらうことになるだろうけれど。

「ですが……この先お茶請けとしてお出しできないとなると……」

 項垂れている鹿島を見ていると、こちらの気持ちも沈んでしまう。何とかして、前途ある道筋だけでも立てたいところだが……

「……もしかすると、発想が逆なのかもしれない」

「逆……ですか……?」

 こちらから食べさせようとすると、どうしてもぎこちなくなってしまう。ならば、皆の方からこぞって食べたくなるように仕向けてはどうだろうか。

「最近、非番の(もの)の起床が乱れている。それを是正するという名目で、朝食を用意してみるのはどうだろうか」

「しかし、それでは……」

 毎朝クリームパンばかりを食べに来る艦娘もなかなかいない。

「ゆえに、その他のパンも仕入れなくてはならないが……発注の方を頼めるだろうか?」

「でも……私……」

 彼女は大量誤発注をしでかしたばかりの身である。とはいえ、それは単なる手違いによるものだ。彼女の本意ではない。だからこそ、彼女に任せたいのである。発注の汚名は、発注によって洗い流すのが一番なのだから。

「大丈夫だ。私は鹿島を信じているよ」

 彼女は迷いを湛えて瞳を伏せている。そのまま少し考え……ちらりと顔を上げた。が、ふたりの視線が交わると、恥ずかしそうに再び床へと落としてしまう。が、その表情からは内なる決意が見え隠れしているようだ。

 そして、彼女ははっきりと口にする。

「……はい、鹿島で宜しければ……!」

 肩は小さく縮こまっているが、声色は力強い。もう気後れすることはないだろう。

「梱包は剥いて、温め直せば遜色なく食べられることだろう。あとは、紅茶や珈琲と共に並べれば、簡易な軽食堂の出来上がりだ」

 軽食堂と聞いて、鹿島の顔色が明らかに変わった。

「あっ、それでしたら小さな()たちに合わせてミルクもお出しした方がいいかもしれませんね!」

 猛烈に瞳を輝かせている。とはいえ、これは在庫を減らしていくための一時の策だ。あまりのめり込んでもらうわけにもいかない。

「ま、まぁ……実務に支障を来さない程度でな」

「はい。財務上の心配もご無用ですよ、提督さん♪」

 すっかり元気になってくれたようで、この場は良かったということにしよう。あとは、クリームパンの人気次第、といったところか。

 

 もしかすると、先月出してしまった損失を何とかして埋め合わせたいという思いもあったのかもしれない。どうやら、彼女の中では最初から有料化も視野に入っていたようだ。この鎮守府の台所事情は彼女が握っている。その彼女が財務上も心配無用だと言っていたのだから、そういうことなのだろう。

 早速製パン工場との契約を取り付けた鹿島は、官邸の第二ロビーを使って朝食コーナーを開始した。解凍したクリームパンの隣にはあんパンやカレーパンが同様に積まれている。これなら違和感なく在庫を提供することができそうだ。

 これに、鹿島特製の紅茶や珈琲、それにオレンジジュースなどが用意されているのだから申し分ない。これまで惰眠を貪っていた連中も、タダ飯目当てに集まってくるようになっていた。

 しかし、彼女のサービス精神はこれだけに留まらない。

「どうやら、珈琲の好みが合わない方もおられるようで……」

 そんな艦娘たちからの我儘に応じるため、ロビーに持ち込まれたのがこのミルである。 一隻(ひとり)ひとりの味覚に合わせて豆を調合し、一杯一杯丁寧に抽出していった。あとから聞いた話だと、この時点で既に別料金を徴収していたらしい。これにより朝の第二ロビーから学食のような騒がしさは鳴りを潜め、落ち着いた喫茶店へと様変わりしていた。

 これが好評を博したのが、余程嬉しかったのだろう。ついには朝だけでなく昼食まで展開させるようになっていった。しかし、ここまで食事の提供に時間を取られては、本来の秘書艦業務も覚束なくなってしまう。

「ご、ごめんなさいっ。あと半刻もあれば上がりますから……!」

 とは言うが、既に終業時刻から一時間が過ぎている。それでも半日を執務外に費やしていたことを考慮すれば、驚異的な手際の良さではあるのだが。

 しかし、このような日々が続けば、いずれ彼女は倒れてしまうだろう。そろそろ潮時ではなかろうか。

「鹿島、もう貴艦 一隻(ひとり)で手に負えるものでもないだろう」

 今回の件は一先ず終了とし、また別の手立てを考えた方が良い。そう思っていただけに、彼女からの提案には唖然とさせられた。

「はい、それで……お店の方はバイトさんに任せようと思っているんですけれど……」

 

 お店……に……バイト……だと……!?

 

 慌てて第二ロビーへと駆けつけてみると……そこはもう、私の知るミーティングスペースではなくなっていた。窓際にはイートインコーナー。レジの奥にはステンレスの棚が鎮座し、茶葉やらコーヒー豆やらがギッシリと並べられている。そして、フロア中央には二列の陳列棚が陣取っており、そこには日用雑貨から書籍まで、食事とも軍務とも関係のない商品が取り揃えられていた。

 そして、極めつけは――

 

『営業時間:〇九〇〇~一三〇〇』

 

「営業時間って何だ、営業って!」

「ひゃっ!?」

 小さく怯える声に振り向くと、鹿島がビクリと肩を震わせている。私の後を追って付いてきていたようだ。脅かしてしまって申し訳ない。大きく深呼吸して気持ちを落ち着かせた私の前に、彼女はおずおずとカードの束を差し出した。

「実は、お昼に閉まってしまうのは不便、との声が多数ありまして……」

 これは……『ご意見カード』……? そこには、アレが欲しい、コレを置いてくれ、そして――せめて夕方までは開けてくれないか、という艦娘たちからの要望が多数寄せられていた。

 しかし、ちょっと待って欲しい。ここは司令官邸であり、鹿島は秘書艦である。その彼女に閉店時間だの何だのと――!

「……皆さん、鎮守府内にコンビニがなくて不便していたようでして。なので、少しでもみんなのお役に立ちたいな、と……」

 忘れかけていたが……そういえば、彼女は練習巡洋艦だった。その視線は外敵の排除よりも、むしろ身内への労りに対して向いている。それがエスカレートして、いつの間にかこうなってしまったのだろう。

 だが、彼女は艦娘であり、秘書艦なのである。彼女の助けがなければ、この鎮守府は回らない。

 ゆえに……これが我々にとっての最善の妥協案なのだろう。

「解った。バイトは雇っていいから……秘書艦業務に帰ってきてくれ……」

 

       ***

 

 今日も、秘書机に彼女の姿はない。余裕のあるときはできる限り店にいておきたいようだ。勿論、来客や会議の際には戻ってきてくれる。が、その他の事務処理は店のバックヤードで進めているようだ。もう私から求めない限り、鹿島の珈琲を味わうことはできない。レジカウンターの向こう側の彼女に頼まない限り。

 そこに、ジリリと彼女の卓が鳴り始めた。最近は、私自ら電話の応対をしている。それでも、回線を自分の机に繋げる気にはなれない。彼女は今でも、この鎮守府の秘書艦なのだから。

 相手を待たせぬよう急いで部屋の反対側まで赴き、黒い受話器を手に取った。

「はい、こちら司令官執務室――」

 電話先の慌ただしい様子に、私の気も引き締まる。これは、物寂しさに耽っている場合でもなさそうだ。直ちに鹿島を呼び戻そう。

 どうやら、中部海域の敵艦隊が不審な動きを見せているらしい。その対策について話し合うため、緊急会議が明日開かれる。今日の夕方にはこちらを出立する必要があるだろう。のんびりと珈琲を淹れている場合ではない。

 私はすぐさま部屋を出る。そして向かう先は裏口脇の第二ロビー。そこは、いつの間にか青い電飾看板まで掲げられ、ショーウィンドウによって仕切られている。司令官邸の一画は、誰に見せても恥ずかしくない立派なコンビニと化していた。

 店の入口のガラス戸には『押して下さい』と書かれたボタンが据え付けられている。まさかこんなものまで導入していたとは……と驚きながら触れてみると、ピンポンピンポンと軽快なサウンドを鳴らしながら左右に開いて私を迎え入れてくれた。

「いらっしゃいませー……あ、提督さん、何か急用が入りました?」

 店長が率先してレジに入るとは、何とも仕事熱心なことである。秘書艦としての仕事ではないのだが。

「うむ、詳しくは部屋で話すが、明日の会議のために今日の夕方には出る必要がある」

「まぁっ、それは大変!」

 すぐに店のユニフォームを脱いで対応してくれるのかと思えば……おもむろに後ろの電話の受話器を取っている。

「あ、もしもし……香取姉? 実は急用で……明日……いえ、秘書艦の方で……」

 シフトの……調整か……。いや、それも重要な仕事だろう。何しろ、ここはコンビニエンスストアだ。常時開店させて、いつでも鎮守府の面々の生活を支えるのがその役目である。だが……しかし……ここを始めた理由は一体何だったのか……!

「提督さん、お待たせしました。香取姉が急遽出てくれるって……どうしました? 提督さん」

 私は彼女から目を逸らし、店内奥側の窓から外の様子を仰ぎ見る。そこに建ち並ぶ倉庫群のうちの幾つかは冷凍機能を有したものだ。

 彼女はすっかり忘れているし、それが明るみに出ることはないだろう。それでもきっと、千を超えるクリームパンたちは、いまもその片隅で食卓に並ぶ日を待っているに違いない。

 


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