零
「あの闇に呑まれたら、ワタシはワタシじゃなくなる」
消え入りそうな彼女の声に答える者はいない。それは彼女も理解しているが、そう呟かずにはいられないのだ。
暗闇の中一人で佇む彼女は、太ももにまで届く茶色の長髪を頭の後ろで束ね、黒を基調とした丈の長い装束に身を包んでいる。顔には黄色い嘴のようなものと引き締まった口があり、その細い腕にはハープが抱えられていた。
「ワタシじゃなきゃいけないのに」
彼女は不甲斐なさを嘆くような声色でそう言いながら、自身の持っている楽器に視線を下ろした。瞳に宿るのは悲しみと、ほんのちょっぴりの後悔。
彼女に課された使命は、ここでハープを奏で続けることだ。勇者が巨悪を討伐するそのときまで。
しかし、そう分かっていても、彼女の腕は微動だにしない。彼女の体は恐怖と使命感に揺れ動いている。
躊躇いの原因は、ハープの音色が“闇”を導くと知っているからだ。
それは突如として彼女の心に現れた恐ろしい魔物であった。楽器の音色と弱った心に惹かれてやってくるそいつは、彼女に計り知れないほどの恐怖を与え、体の支配権を乗っ取ろうとする。
彼女は思う。
きっとこの闇に体を譲り渡してしまえば、大地の賢者としての役目をこなせるだろう。しかし、その闇に包まれた自分は、果たして自分なのだろうか。全てが終わった後、そこにいる自分は昔のように笑えるのだろうか。
瞳に浮かぶ迷いの色は増すばかりだ。
――きっかけは、あのときの。
彼女の脳裏に二つの記憶が蘇る。
それは、ある少年の笑顔と、優しさに満ちたハープの音色であった。
一
メドリにとっての始まりは、竜の島での出来事にまで遡る。それはヴァルーの怒りを鎮めた勇者が再びこの島を訪れたときだった。
漆黒に染められた海が月と星々の柔らかな光によってのみ照らされる中、彼女はハープを奏でていた。そこは竜の島の中でもかなり見晴らしの良い場所で、メドリにとってお気に入りのところでもある。尤も、夜闇に包まれた今ではその展望は全く望めないが。
海に、空に、そして島に響く透き通った振動。それらが波長を揃えながら、美しい旋律を紡ぎ出していく。
その音を生み出しているハープはメドリの宝物だ。良い音色がするからというのも理由の一つではあるが、何より親から受け継いだものであるということが、彼女の中でこの楽器を唯一無二のものにしていた。
自身が弾く軽やかな音色を、彼女は身を預け、落ち着いた気持ちで聞いていた。この調べは、父や母が歌う子守唄に匹敵するような心地よさがあるのだ。それに包まれることで疲れを癒やしているのである。
最後の音を慣れた手つきで弾く。それをきっかけに優しげな音色はだんだんと小さくなり、波に呑まれて消えてしまった。
演奏後の余韻に浸っていると、後方から不意に足音が鳴り響くのを彼女は感じた。だんだんとメドリの方に近づいて来るので、気になって後ろを向いてみると。
「久しぶり」
そこには、あのときの勇者がいた。
「あっ、リンクさん! ご無事だったんですね!」
彼に会うのはヴァルーの一件以来である。お付きの勉強が忙しくて機会がなかったのだ。前々からもう一度会いたいと思っていたこともあり、メドリはすっかり嬉しくなってしまった。
「リンクさんのご活躍は、コモリ様からよくうかがっておりました」
ずいぶんと色々なことをコモリから聞いていたメドリであったが、自分の目で見るまではやはり安心しきれなかったようだ。心底ほっとしたような笑顔を浮かべている。
リンクの顔とは対照的に。
「コモリ様、すっかり、立派になられたでしょ?」
メドリの言にリンクは力弱く頷く。しかし、メドリはそんなリンクの状態には気づけずにいた。
「一人前になっていくコモリ様を見ているとうれしいような……だけど、ちょっぴり、さびしいような……」
「子供の成長を見守る母親ってこんな感じなのでしょうか……」
しゃべっている内容の恥ずかしさからか、矢継ぎ早に声が紡がれる。だが、ある程度の気持ちを一気に吐露したので、次に発する言葉を見失ったようだ。メドリは顔色を紅潮させ、少しだけ気まずそうにリンクの方へと視線を投げかける。
そして、そこで初めて彼の表情に気がついた。まるで世界の終わりでも見たかのように、リンクの顔がひきつっているのだ。
「あっ、ワタシって、変ですよね」
それを見て、メドリは嫌な気分にさせたかもしれないと感じて、自分の行いに枯れた笑みを零した。
――こんなワタシじゃ、師匠のようになんて……。
頭に一瞬よぎった悪夢を振り払うために、彼の顔を明るくするために、彼女は多少声を強める。
「さあ、ワタシも早くみんなのお役に立てるよう、練習しなくては! こうやって演奏するのも、お付きの大事な仕事の一つなんですよ」
そう言い張ると、ハープの弦を一つ弾いてみせた。その心地の良い音色を聞いていると、自然と勇気が湧いてくるのを感じる。
だが、その行いすらも、彼の顔を変えさせるには至らなかった。むしろハープの音を聞いたことでより悪くなったようにも見える。メドリが心配そうな表現を浮かべると、リンクは上辺だけの笑みを浮かべた。
その顔は両極端の感情が入り交じっていて、不安定で。
「……大丈夫ですか、リンクさん」
そんな彼の様子を不安に思って、いてもたってもいられなくなり、メドリはその言葉を発した。彼女の目の前にいる彼は無理やり笑みを作っているのだ。少なくとも、彼女の知るリンクはそんなことをしなかった。
メドリの問いかけに、しかし彼は答えない。何かを躊躇しているのか、苦虫をかみつぶしたような表情でただ固まっていた。
重い、重い沈黙。
高波がその身を島に寄せる。崖にぶつかり、大きめな破裂音が辺りに響いた。満月が二人をぼんやりと照らす。邪魔をする者は他に一つもなかった。
まだ、彼は口を開かない。それどころか、彼女に二の句を継がせないような雰囲気を醸し出し、その静けさを守り続けている。
周囲の緊張が最高潮に達したそのとき、彼はついに言葉を紡ぎ出した。
「僕のタクトに合わせて、ハープを奏でて欲しいんだ」
続けてタクトを取り出す。その精巧な作りのタクトに、メドリは思わず息を呑んだ。
「リンクさん指揮してくださるんですか? ワタシ、うまくできるかな?」
「うん。二曲、やって欲しい」
メドリは頼み事の内容とその声色の不和に少し疑問を感じたが、すぐに了承した。彼の雰囲気を元に戻せるかもしれないと考えたからだ。
取り出したタクトを胸の前で構えると、一呼吸おいた後で彼はそれを振り始めた。
メドリにとっては初めて見るタクトの動き。だけれどもなぜだか上手くできる気がして、メドリは彼の刻む調子に合わせて一心不乱にハープを鳴らし続ける。何度も合わせたかのように、二人の息はぴったりだった。
端から見れば数秒の演奏でも、二人にとってのそれは永遠にも続くかのような時間。
しかし、時の流れは平等で、彼のタクトは止まる。今まで感じたことのなかった高揚感が、メドリを包んでいた。
演奏を終えてリンクがタクトを下ろすと、メドリは感動のあまりに、「すごい、リンクさん」と言葉を漏らした。
「ワタシの演奏はどうでしたか? 意外とやるでしょ!」
更に続けてそう言って、しゃんと胸を張ってみせる。
「うん。想像していたよりも、ずっと上手だったよ」
歳相応の言葉遣いとその態度に、リンクの顔がまた曇る。その気持ちを推し量ることは、今のメドリにはとても難しいことであった。
「あ、リンクさん! 次の曲もやりましょうよ!」
彼の表情がタクトを振っているときだけ和らいでいたのを、メドリは見逃さなかった。だからこそ、あまり間を開けずに次の曲へ移ろうと提案する。もちろん、二人で合わせるのが楽しかったという理由もあったが。
「……」
リンクはすぐにそれに答えることはできなかった。
どうしてなのか。それも今のメドリには分からない。分からないが、彼がとてつもなく重いものを背負っていることだけは感じ取れた。
「リンクさん?」
「……うん。やろうか」
しばらくして意を決したのか、彼は最終的に肯定の返事を絞り出した。瞳から迷いの色が消えたようだ。
そうして、再びタクトが掲げられ、ハープが構えられる。
彼のタクトが振り下ろされた瞬間、波音が消えた。辺りを支配するのは二つの楽器だけで、それ以外の雑音はその場に踏み込むことすらもできない。
月明かりの下で奏者の手によって操られるハープとタクトは、まさに生き物のようであった。タクトが先導して旋律を生み出し、ハープが聴くものを魅了する調べでそれを追いかける。もし音を見ることができるのならば、目の前に広がるのは想像を絶した絶景なのだろう。それほどまでに、彼女らの演奏は洗練されていた。まるで何度も何度も合わせたかのように。
そしてついに、そのときは訪れた。
リンクの頭上までタクトが持ち上げられ、止まる。それに呼応したハープは発声を止め、その身を震わせて余韻を形作っていた。演奏が終わったのである。
「でも、不思議な曲ですね。なんというか、なつかしいような……」
その曲――『地神の唄』と呼ばれるもの――がきっかけとなったのは間違いない。メドリの中に不可解な記憶が溢れてきたのだ。それがだんだんと頭と心に流れていく。
「忘れかけた何かを思い……だす……」
彼女は続きを声に出そうとしていたのかもしれない。だが、彼女の声帯が震えることはなく。
「――メドリっ!」
代わりに響いたのは、彼女の小さな呻き声と、リンクの元へと倒れこむ衝撃音だけであった。
二
「アナタの名前を教えてください」
見知らぬ場所で目を覚ましたメドリの前に現れたのは、どこかで見たことがあるような人であった。淡い青色の肌に鱗のような模様を浮かべ、頭には高貴に見える冠を被っている。群青色の瞳にはハープを持ったメドリの姿だけが映しだされている。会ったことこそはないが、なぜだかメドリは親近感を覚えた。
「メドリ、です」
「良い名ですね」
もう一度その人を見る。
そこでメドリは初めて、彼女が自分の持っているものと瓜二つのハープを持っていることに気がついた。
「あの! それは……」
「私の名前はラルト。メドリ、私はあなたの祖先です」
ラルトと名乗ったその人の答えはメドリの求めたものではなかったが、彼女を動揺させるのには十分な意味が込められていた。色も特徴も、何もかも違う彼女がメドリの祖先だというのだ。
にわかには信じがたいことであるが、ラルトの持っているハープを見るに、きっと嘘はついていないのだろうと彼女は思った。このハープは先祖代々受け継がれてきたものだからだ。
――でも、どうしてご先祖様がワタシのところに?
メドリの瞳が疑問の色に染まる。何か手がかりを得ようとして辺りを見渡すものの、周囲はどこまでも暗闇で、ラルトと自分以外には何もないように感じた。
「アナタには、本当ならばたくさんのことをお話しなくてはいけません。しかし、今は時間がない」
ラルトは手に持ったハープを構え、音を奏で始める。
「その唄は……」
聞き覚えのある旋律で、彼女の記憶が鮮明になっていく。先ほどリンクと合わせたものの続きらしかった。
「そうです。これは『地神の唄』といって、あの勇者と奏した曲。そして、アナタを賢者として目覚めさせるためのモノでもあるのです」
ラルトの描く旋律は心を揺さぶられるような響きだった。優しく、しかし悲しげな調べだけが暗闇に反響する。
その音を黙って聞いていると、メドリは後頭部に違和を感じた。もちろん物理的な意味ではない。メドリの頭の中によく分からない記憶が流れ込んでくるのだ。
いや、それは正しくない。今まさに行われているのは、彼女の中に眠っていた記憶を掘り起こし、それが導く未来を頭の中に描き出す行為。
――アナタに託されたものと、アナタが辿る世界の全てを。
ラルトの声に導かれるように、彼女の中が音で満たされていく。
血脈より受け継がれた賢者としての役目、メドリが今何を成すべきなのか、そしてその使命を終えた彼女が辿り得る未来。それらが一挙に彼女の中へ責め上がってくるのだ。
例えば、役割を終えた後、すぐに全てが終わる未来。そこには竜の島に吹く風、潮の香り、コモリの温もりがあった。
例えば、最期の最期まで賢者として生きねばならない未来。二度と帰れない故郷に思いを馳せながら生を終える末路を見た。
例えば、魔物に襲われ命が掻き消える未来。満身創痍の体になっても決して消えることのないハープの音色を聞いた。
例えば。例えば。
――見たくない! 聞きたくない!
悲鳴を上げたくなる情景が、どれだけ拒んでも脳裏に焼き付き、確かな記憶として蓄積されていく。ラルトの旋律は耳を塞いだって彼女の中へとやってくる。逃げ道はもうなかった。
最後の音が暗闇に響く。もたらされた莫大な情報は、まるで初めからそこにいたかのように彼女の中で居座っていた。
ラルトは楽器を下ろして、再びメドリの方へと向き合う。
「私は、使命の遂行をお願いしに来ました」
透き通る彼女の声。それがメドリにはハープの音色のように聞こえてしまって、少しだけ身構えた。
「いやで、す……」
ラルトの思いに対し、メドリの口から溢れるのは切実な心の叫び。
「賢者には、なりたくないです!」
その使命の大切さを知っても、彼女は首を縦に振れなかった。今の生活を全て棒に振って、その上で孤独で危険な立場に身を落とす決断。それを下すのは、メドリにとってとても難しいことであった。
「……無理もないことでしょう。突然、こんなことを言われたら」
しかしラルトは、それに対して怒りを見せたりしない。むしろ当然だと考えているように、メドリには思えた。
「それじゃあ」
――今、賢者サマがワタシに流し込まれた記憶を忘れさせてください。
そう言おうとしたが、彼女の口は動かない。部屋に流れる空気がその言葉の発現を留まらせているのだ。
ラルトは眼光を強め、彼女をその鋭さで貫く。全てを見透かされている感覚が彼女の全身を支配した。
「ですが、それを許すことはできません。なぜならまだ話は終わっていないからです。すべてを話し終えたとき、私はアナタに決断を迫るでしょう」
しばらくの静寂が過ぎ去った後、彼女が口にした言葉はメドリが言いたかったことに対する答えだ。ラルトは本当に彼女の心を見透かしていたのだ。
また、その言葉にメドリは安堵を覚えた。
無理強いされることがないのなら、きっとその使命を拒めるはずで、何を言われてもメドリは今までの生活を選べるはずで。
そう思うからこそ、口元に笑みが浮かぶ。心の隅に浮かんだ最悪の想像をかき消すように。
ラルトが再び口を開く。
「アナタが賢者にならなくても、あの勇者はきっとガノンドロフに立ち向かうでしょう。無謀だと分かっていても、です」
――そうして、負けるのでしょう。
口外にそう言っているようにメドリは感じた。メドリの中に流れ込んできた記憶によれば、ガノンドロフを倒すのに必要な力は賢者の祈りによって保たれている。それなしでそれを封印することは、できない。
つまり、ラルトはメドリにその覚悟があるかと尋ねているのだ。
リンクを見殺しにする、という非情な選択をなせるかどうかを。
「また、ガノンドロフの力は強大です。もし彼を野放しにしておけば、アナタは賢者の末裔だからという理由だけで殺される可能性が高いのです」
「そんな……!」
考えすぎだとメドリは思ったが、ラルトは実際に彼の手によって命を奪われている。それは彼女が賢者であったからにほかならず、だとしたらメドリがそうならないという理由はどこにもない。
自分の足が震え始めたのがメドリにも分かった。
「それに、アナタだけではありません、アナタの大切な友達、お世話になったヒトたち、そのすべてがいなくなるでしょう」
脅すでもなく、怖がらせるでもなく、ラルトは可能性を次々と列挙していく。その無機質さが、彼女の語る未来の確実性を強調していた。メドリがもっとも望まない結末を。
「私の話はおしまいです。さあ、選んでください。アナタに託された使命を遂行するかどうかを」
その問いによって、メドリは最悪の想像が現実になったことを知った。
彼女の提示した未来の中に、メドリが賢者の役目を放り投げる未来は存在しなかった。それが意味するところのものを、彼女はようやく理解したのだ。
「でも、そんなの、ずるいです……」
昨日まで彼女はただのメドリであった。明日も明後日もそうであるはずだった。それが突然取り上げられたのだ。
潮の香り。コモリの笑顔。繰り返す穏やかな毎日。彼女を形作るもの全てが、彼女を置いてどこかへ行ってしまう。
描いていた未来を奪った運命に対し、メドリが抱くのは悔しさとやるせなさ。
それでも、メドリは前を向くことしかできない。そうしなければ彼女の大切なヒトはいなくなってしまうのだ。だから。
「こんなワタシでも、できるのですか」
メドリは、答える代わりに一つ問いかける。
「アナタだからこそ、できることです」
ラルトは、彼女の言葉を言い換えてそう答えた。
――ワタシにしかできないこと。
ラルトの言葉を反芻する。それがつまりどういう意味なのかを考えたとき、メドリの中で一つの結論が導かれた。
「コモリ様を救うのも、リンクさんを助けるのも、ワタシにしかできない役目……」
彼女の言にラルトは大きく頷く。
そう。彼女がやらなければ、彼らの命は波打ち際にある砂の城のように、消えてなくなってしまうのだ。
でも、彼女が使命を受け入れれば、リンクに全ての運命を託すことができる。彼ならきっと打ち勝ってくれるとメドリは思っているから、それは即ち彼らの命を救うことにつながるのだ。
自分の気持ちが大きく傾くのをメドリは感じた。
「一つだけ、聞きたいことがあります」
「なんでしょう」
メドリの声色は芯が通っていて、暗闇にしっかりと響いた。
「賢者サマは、どうして未来を教えてくださったのですか?」
賢者として目覚めさせたいのなら、これからの未来なんて知らないほうがいいとメドリは思う。その方がラルトにとっても、メドリにとっても都合がいいはずだからだ。
「私はアナタに嘘をつきたくなかったのです。アナタが辿る可能性のある未来を、一つでも隠したら卑怯ですから」
ラルトはそう即答して微笑みかける。一瞬、その速さに驚いたメドリであったが、すぐにそれに応えるように笑ってみせた。
胸の内に浮かんでいた最後の疑問が最良の形で氷解し、メドリは真の意味で覚悟を決める。
「賢者サマ。『地神の唄』をお教え下さい。リンクさんやコモリ様を救うための唄を、ワタシに」
大地の賢者になることを、選んだ。
「アナタの勇気に感謝します」
ラルトが腕に抱えていた楽器を構える
「もう一度私のハープを聞いてください」
彼女の右手が弦を弾く。最初の音が鳴り響いたとき、メドリの肩が少しだけ上下に揺れた。しばらくして、もう恐ろしい記憶が飛んでこないと分かると、メドリは初めて彼女の旋律を聴くことができた。
格調高く、優美で、聴くもの全てを魅了するようなその調べは、メドリの心をつかんで離さない。この音色によって恐ろしい記憶を植え付けられたことも忘れ、彼女はただ純粋にラルトの演奏に聞き惚れていた。
「アナタの記憶を信じて。さあ、合わせましょう」
ラルトは休む間もなく、再び『地神の唄』を弾き始める。メドリも慌ててハープに手を添えて、彼女の演奏に合わせて自らの指を動かした。
リンクと合わせたときの感覚と、ラルトから与えられた記憶と、そして今聴いたラルトの旋律。それらを頑張って思い出し、結び付けながら、メドリは『地神の唄』を自分のものにしていく。
一つずつ音の出し方を学んで、一つずつラルトの音色に近づけていくのだ。
幾度となく繰り返される『地神の唄』と、回を追うごとに優雅になっていくメドリの調べ。
彼女の音色がラルトのものにだいぶ近づいたところで、ラルトは『地神の唄』を奏でるのをやめた。
「そのくらい滑らかに弾ければ、きっと苦労はしないはずです」
この唄は神への祈りを捧げるために作られたもの。大地の神殿の奥地にたどり着いたら、彼女は延々とこれを奏で続ける運命にあるのだ。だから、彼女はこの唄を自然に弾けるように練習したのである。
メドリはハープの弦から右手を離すと、再びラルトの方へと顔を向けた。
「あの勇者とともに大地の神殿へと向かいなさい。そこで彼と共に深奥を目指すのです」
「分かりました。賢者サマ」
「どうか、御武運を」
メドリの意識は、刹那この空間から引きはがされた。
三
メドリの意識が竜の島に戻ってきたのは、リンクと『地神の唄』を奏でてからしばらくした後だった。
「メドリっ!」
後悔と不安の色に塗れた、とても“らしくない”勇者が彼女の瞳に映る。
次第に意識が明瞭になってきた。それにつれて体の感覚も帰ってくる。そうしてやっと、彼女は自分が倒れたことと、リンクが自分を介抱してくれていたことに気がついた。
何度か瞬きをすると、それに呼応してリンクの表情が柔らかくなっていく。彼の瞳から完全に不安の色が消えた訳ではないが。
「大丈夫……?」
リンクの声は小さく震えていた。
今のメドリになら、彼がこんな声を発する理由も分かる。
――リンクさんは、きっとワタシのことを思って。
目的の達成にはメドリの協力が必須だと知っていながら、それでも彼はその決断を躊躇ったのだ。その事実が、独りぼっちになった彼女の心を優しく温めていた。
彼の心遣いに報いるためにも、メドリは果たさねばならない。ラルトと交わした約束を。
「今、ワタシの中に、賢者サマが優しく語りかけてきました……」
リンクの顔が強張る。当たって欲しくなかった予感が、ついに現実になったことを悟ったのだろう。
「ワタシが、これから何をしなくてはならないかをお教えくださったのです」
彼女だって、決意を固めたと言っても、やはり行きたくないという気持ちをかき消すことはできない。
だが、彼女は同時に使命感のようなものも感じていたのだ。ラルトにもらった勇気がそうさせていたのかもしれない。
だから、まだ気持ちが固まらなくても、彼女は賢者として言葉を紡ぐ。自らを鼓舞するように。
「……ごめん」
彼女の決意に満ちた表情を見たリンクは、そう口にすることしかできなかった。顔は沈むばかりで、手を伸ばせば届く距離にいる彼女の瞳と視線を合わせようとすらしない。
メドリは、しかしそんなリンクに対しても気丈な態度を崩さなかった。
「謝らないでください。アナタのおかげで大地の神殿の賢者として目覚めることができたんですから」
アナタのおかげ、という言葉にリンクは鋭く反応を示す。きっと、彼は自分がいいことをしたなんて微塵も感じていないのだろう。そんなことが彼の表情から読み取れた。
「そんなの、ずるいよ……」
奇しくも、彼が発したのは彼女が心の中で強く思った言葉と同じであった。言葉の末端が震え、夜の闇に溶けてしまいそうなその声は、竜の島に静寂を生み出す。
「メドリは、もしかしたら、もう二度とここに戻って来られないのかもしれないんだよ?」
彼が負けたときのことを言っているのだろう。メドリもそれだけは嫌であったし、その気持ちが彼女の心の中に揺らぎを生み出している。しかし。
「大丈夫です」
メドリは、彼の瞳を見て。
「ワタシは、リンクさんが必ず勝つと信じてますから」
そう言い、微笑んでみせた。
彼の手の震えをメドリは全身で感じた。しばらく彼は悩むように黙りこくっていたが、ついには何も言わずに頷く。
それが、彼にできる最上級の返事であった。
南より流れる風がメドリの髪を撫でる。そのときに彼女が感じた液体は、きっと風に乗って海から飛ばされてきたものだろう。決して、彼の涙なんかではない。
抱えたままだったハープの弦に指が触れた。振動は風の音に共鳴し、ハープは美しい音色をどこまでも遠くに飛ばしていく。しばらくの間、二人はその光景を見守っていた。
「こんなワタシでもお役に立てることがあっただなんて……」
ハープをきっかけに、ラルトとの合奏をふと思い出す。やっとみんなの役に立てるのだと思うと彼女の胸はほんのりと熱を帯びた。
メドリは空を飛ぶのが苦手であった。仕分けが苦手だった。何をしても、他のヒトより上手くできるなんてことはなかった。ヴァルーの言葉を翻訳するのだって師匠の足元にも及ばないのだと、メドリは常々そう考えてきたのだ。
だから、ラルトに聞いた彼女にしかできないという言葉が何より嬉しかった。
「きっと、師匠はこのことを知っていたんですね」
彼女をお付きに任命したのは、今は亡きコモリの祖母、メドリが師匠と呼び親しんでいるヒトだ。メドリはその師匠と、孫であるコモリとに囲まれて過ごしてきた。
今の呟きがきっかけとなり、師匠との記憶が色鮮やかに蘇る。
一緒にヴァルーのお世話をしたこと。ハープの奏で方を教えてもらったこと。コモリと一緒に遊んだこと。
いろんなことが彼女の脳裏を駆け抜けていく。その思い出の最後に写ったのは自分の羽を手に入れて喜ぶコモリの笑顔であった。
彼女の頬に、涙が零れる。
――コモリ様とずっと一緒にいられたら。
そう願わずにはいられない。
「リンクさん。ワタシを大地の神殿に連れて行ってください」
しかし、彼女はこうも思う。
自分はコモリに会ってはいけないのだ。そうしたら最後、たまらなく愛おしくなって、きっと前までのお付きのメドリに戻ってしまうから。だから、そうなる前にこの島を去らなくてはいけない。大地の賢者として。
「……分かった」
そう言うリンクの表情はどこか複雑だ。コモリのことを気にかけているのだろう。
刹那、二人の体に影が覆い被さる。揃って上を見ると、満月の辺りをリト族が羽ばたいていた。その姿は月の光に照らされ、一回りも二回りも大きくなったように見える。
コモリだった。
「でも、コモリに会わなくていいの……?」
「はい。このまま、そっと抜け出しましょう」
その言葉を言い切るのに、メドリがどれだけの覚悟を要したか。リンクには想像もつかないだろう。それほどまでの重い決意がそれには込められていた。
「ワタシは、カレの中では単なるお付きのメドリのままでいたいから……」
彼女は最後の言の葉を、リンクではなく風に向けて放つ。
その瞳を、悲しみと決意とに揺らしながら。