四
始まりの回想を終え、メドリは腕に抱えたハープを再び見つめる。ずっと見ているとラルトの奏でる音色が聞こえてきて、頭にあの唄をラルトと合わせたときの記憶が蘇ってくるのだ。
それと同時に、言い渡された成すべきことも思い描かれる。
――祈りを捧げ続けること。
彼女と交わした約束を反芻すると、使命感が胸の奥底から沸いてきて、頑張ろうと思えるのだ。
しかし、それとは別に、もう一つの思いが彼女の中には燻っていた。
「コモリ様……」
大地の神殿に一人残ることになっても、彼女はまだあの笑顔を忘れられずにいる。それを思い出す度に目の前が霞み、心の奥がずきずきと痛むのだ。
ラルトの奏でたハープの音色と、ありありと思い浮かぶコモリの笑顔。その二つが彼女の心を引き裂いている。
コモリに会いたい。会いたくない。ここにいたい。いたくない。
それを選べる自由はもうないのだと気づくと、メドリの口からため息が漏れた。
――ワタシは何をやっているのでしょう。
瞳に映る楽器は、何もできない彼女を責め立てるような黄金色をしている。
「あれ、風……?」
吹くはずのない風を感じてメドリは扉の方を見る。 誰かが来てくれたのかもしれない、と期待した彼女であったが、そこに広がるのは暗がりと閉じられた大きな扉だけ。
――リンクさんは今も頑張っているのに。
風から連想されて、それを操る勇者のことが頭に浮かぶ。そして、メドリはこれまでに見てきた彼の勇姿を頭に描いた。迫り来る悪意に剣を振るい、知恵を絞って仕掛けを解き、それでも彼女のことを大切に扱ってくれた彼の姿を。
年も近いはずなのに彼はあんなに頑張っている。それに対して、ここまで来てうじうじしている自分はどれだけ未熟なのだろう。彼女はそう思わずにいられなかった。
「なら、ワタシだって」
思い描いた彼の姿に励まされて、彼女は恐る恐るといった様子でハープを構える。奏でるのは『地神の唄』だ。リンクに指揮してもらい、ラルトと合わせ、そしてこの運命の始まりとなった唄。意を決し、彼女はハープの弦に指を置いた。小さく深呼吸してからその指を動かし始める。
一つ。二つ。そして三つ。記憶の中にある音を順番になぞっていく。
現れた音たちは、壁に跳ね返り反響しメドリを包み込む。そして遠い昔の記憶を彼女の眼前に映し出していった。
――メドリ見てよ! 僕もヴァルー様から羽がもらえたんだ!
四つ目、五つ目。彼女の瞳に映るそれは、今の彼女が渇望している世界そのもので。
――わあ、すごい! よくお似合いですよ、コモリ様!
ついに、六つ目の音が響くことはなかった。代わりに現れるのは水滴の零れる音のみ。
瞳から溢れる涙は灯火に照らされ輝き、そして地に落ちて彩りを失う。ハープに導かれるありし日の出来事も、楽器の音色が欠落したことで灰色の記憶へと姿を変えた。
鮮明に蘇った思い出は、彼女を昔の世界へと連れ出し、そうして前に進むことを妨げる。リンクがいなくなってからというもの、この広間に唄が鳴り響くことはなかった。
「どうして、でしょう」
涙の筋を拭うこともせずに、メドリはただそう漏らすことしかできない。
ハープを弾くと決まって彼女は過去を思い出してしまう。そのせいで『地神の唄』はおろか、普通の曲すらも弾けない有り様だった。
いつまでも賢者になりきれないことで増していく重圧と、いつまで続くか分からないこの環境下で大きくなる思慕。どちらも大事で捨てられない彼女は、その二つに押しつぶされる寸前であった。
――いっそのこと、ほんの少しだけコモリ様のことを忘れられたら。
そう願ってしまう。心の迷いを消してしまえたら、きっと賢者をこなせると思っているから。
しかしそれを聞いて現れるのは、彼女を乗っ取ろうとしている闇だけだった。
目の前の何もなかったところに闇の幻影が映る。ぼやぼやとしたそれはうねり、姿形を変え、彼女そっくりの容貌へと変化した。
「ワタシに任せれば楽になれますよ」
今のメドリには浮かべられないくらい眩しい笑顔をたたえながら、それは彼女に降参を促す。
「この使命はワタシがやるって決めたんです」
対するメドリの表情は強張っていた。まるで、
そんな甘言に抗い続けているからこそ、彼女は今もメドリのままでここに立っているのだ。
使命も気持ちも全部を預けてしまえたらどれだけ楽になるのかも、彼女は知っていた。
けれども、メドリはそれを拒む。
「これは、こんなワタシにしかできないことですから」
真面目であるがゆえに、彼女は役目を放り投げることはできなかった。どんなに苦しくても自分自身の手で賢者の役目を果たすと決めていたのだ。その意志が揺らぐことは、ない。
少しだけ時間を置いて、彼女はまたハープを構え直す。
「メドリ」
弦を弾く瞬間、目の前にラルトの魂が浮かび上がる。その声色には明らかに彼女のことを不安がる気持ちが溢れていた。
ラルトの意思はここに強く残っているらしく、この神殿の中でメドリはラルトと会話をすることができる。なのでメドリがラルトの出現に驚くことはなかった。リンクが出て行ってから対面するのは初めてであったが。
「賢者サマ……」
驚きはしないものの、メドリの表情は冴えない。賢者の役目を果たせていないことが気がかりなのだろう。
ラルトはなるべく彼女を怖がらせないように、一つ一つ言葉を選ぶ。
「大丈夫です。私は、例えアナタが歩みを止めても責めません。それよりも少しだけ安心しました」
「安心……ですか?」
予想外の言葉を投げかけられて、メドリは瞳を丸くする。
ラルトは一つ頷いてみせて、更に続けた。
「私は勇者と祈りの唄を奏でるアナタを見て、少しびっくりしていましたから。もっと取り乱すのではと思っていたのです」
メドリも、それは自分でも不思議に思っていた。リンクと共にいたときだけはハープの音に吸い込まれることはなかったのだ。闇それ自体は彼と共にいたときから心に住み着いていたはずなのに。
ラルトの言葉には、だから答えられなかった。黙りこくることで、分からないことを表明する。
代わりに、メドリの中で大きな気がかりになっていたことを尋ねてみる。
「あの、賢者サマ。今は祈りを捧げていないのですが、よろしいのでしょうか」
「マスターソードに直接力を込めたので、今は少し休んでいても問題ないでしょう。自分の内面とゆっくり向き合ってください」
ラルトは再びどこかへと消え去ってしまった。
自分のせいでリンクが苦労していないことを知り、ほんの少しだけ安堵するメドリ。しかしそれはつかの間で、再び立ち込めるのは未だに引く気配のない闇の漆黒。
この闇を彼女が明確に意識したのは、リンクと共に竜の島を出てからしばらくした頃だった。
五
漆黒を切り裂きながら船は進む。北より流れる潮風は彼女の長髪を包み、ここが海の上であることを実感させていた。
全てを置き去りにし、全てを拾いに行く。そんな使命に向かっているのだという事実が彼女の体に重くのしかかる。
――メドリ。
悲しそうな少年の声を幻聴して、メドリは思わず後ろを振り返った。
そこにあるのはかろうじて見える、彼女の故郷だけ。だんだんと小さくなるその島は、まるでメドリの自信と呼応しているようだった。
ラルトと言葉を交わした後、彼女の中でコモリやみんなを助けるという決意が渦巻いていたのは確かである。
しかしそれは、コモリの姿を見たときに大きく乱れた。ここを出て行きたくないという激情によって、彼女の決意は崩されかけているのだ。
その思いはまるで波のよう。高くなり低くなるように迫ってきて、どこまでも続くように断ち切ることはできない。
「メドリ、大丈夫?」
リンクが心配そうに声をかける。彼女の顔は暗闇の中でも分かるくらいに思いつめているので、無理もない話だった。
「……ワタシなら平気ですよ」
元気も覇気も、あのときにリンクが感じた底なしの勇気もない一言であった。
メドリ自身も自分の口から出た情けない声色に困惑を隠せない様子だ。もちろん、コモリに会いたいと願う気持ちを無視しているからではない。その気持ちを認めた上で大地の賢者になれると彼女は思っていたから驚いているのである。
何せ、この使命を果たすのはコモリを守るためでもあるのだ。それに納得して彼女は大海原へと出発したはずなのである。
だが、真実は彼女の淡い期待よりも非情で。
「もう少し行ったところに、僕が譲り受けた別荘があるんだ。そこで休んでいこう」
そして何より、彼がメドリの心の迷いを許すはずがなかった。
「はい。リンクさん」
――きっとコモリ様を見たばかりだから。
そんな気の迷いが生じたのだろう。メドリはそう検討をつけた。言い換えれば、時が経てば必ず賢者として頑張れるはずだと考えたのである。
今の彼女にとって必要なもの。それはコモリの姿を一時的に忘れるための時間だ。だから彼女はリンクの提案を無碍にすることなく承諾した。先ほどまでのメドリであったら、恐らく寄り道せずに大地の神殿に向かおうとしたであろう。大地の賢者としてならばそうすることが最善の道なのだから。
でも、彼女は残されたコモリの気持ちを推し量ろうとしてしまう。だからそれは選べない。本当に、無意識のうちに彼のことを考え始めてしまうのだ。それは幼い頃から彼とずっと一緒だったゆえに自然なことで、メドリが意識してもやめられないこと。
こうしている間にも、彼はメドリを探して飛び回っているのかもしれない。
大地の神殿にいる間に、彼はメドリがこの島のどこにもいないことを悟ってしまうのかもしれない。
もし戻れなければ、彼はメドリのことを忘れてしまうかもしれない。
そんな妄想が溢れては流れ出す。その度に彼女の心はきつく締め付けられ、恋しくなって視線を後ろへ向けるのだ。しかし。
竜の島は、もう見えない。
それを知った途端、言い様のない衝撃が彼女の体を貫いた。メドリはここに来て初めて、竜の島との繋がりが絶たれたことを理解したのである。それと同時に迫ってくるのはやはり愛執の心であった。
――コモリ様と一緒にいたい。
本心からの願望と。
「メドリ、本当に大丈夫?」
――けれど、そうしてしまえばリンクさんが。
目の前にいる勇者の命。
メドリはその二つを天秤にかけねばならない状況に置かれていた。すぐには両立できない二つの想い。彼女は今どちらかを選ばなくてはいけないのだ。つい数時間前まで普通の少女であったはずのメドリにとって、それはとても難しいこと。
「すいません。いつもなら寝ている時間だから、少し眠くなっちゃいました」
心にも思っていないことを吐きながら、彼女は大きく欠伸をする仕草をリンクに見せた。目に浮かんでいた涙を隠すために。
「……そっか。じゃあ目を瞑ってていいよ」
眠れないと思うけど、と彼は付け足した。
「ありがとうございます」
だが、それはメドリにとってはどうでも良い。今はただ、一人になれる時間が必要だった。
潮の香りがメドリの鼻を撫でて抜けていく。目を瞑ると、そこには海よりも黒い世界が広がっていた。
だんだんとその暗闇に彼の姿が浮かび上がる。その体はどうしてか小さく見えるようで。
――メドリ。
コモリの声が響く。その声色は少しだけ震えていた。メドリの心臓がきゅっと締め付けられる。
――イヤだ。行かないで。
彼がこちらに手を差し伸べてくる。その顔には最近見せてくれる笑顔はなくて、彼女が昔から目にしていた、少しだけ弱気だった頃のコモリのそれが浮かんでいた。
ダメです。と言わなくちゃいけない。彼女もそれは知っている。けれども知っているからといって、そう安々と口にできるような言葉ではないこともまた、彼女は知っていた。だから、彼女は曖昧な微笑を浮かべるだけしかできない。
行かないでと繰り返すコモリの声は、まるで幼い子供のようだ。それが彼女の記憶に眠る彼の姿と重なる。
刹那、メドリは脳裏に写ったこの少年を放っておいてはいけないと思った。彼はきっと彼女が作り出した妄想だけれど、それでも無視したら絶対に後悔すると、メドリは強く思ったのだ。
だから。
彼女は彼の手を掴む。そして駆け出す。黒い世界を振り切るようにして。どこまでも、どこまでも前に足を踏み出していく。
途中でふと、背中の重圧が消えるのを感じた。何かから解放されたような感覚。それが体中を駆け巡る。
延々と続く闇の道を進んでいく途中、彼女の右手から突如彼の感触が絶えた。びっくりした彼女が腕があるはずの方を見ても、そこには黒が広がるだけ。左を見ても右を見ても、黒。他には何もない。
後ろには。
――きゃっ!!
後ろには、闇があった。黒とは明らかに異質であるそれは、彼女を怖気づかせるには十分な威圧感を放っている。そして今にもメドリを取り込もうとしていて、メドリの全てを支配しようとしていて。
畏怖の感情に埋もれる意識の中、彼女はコモリと前に進んだ意味を考えていた。
意識が呑まれる、その瞬間まで。
六
次にメドリの意識が蘇ったのは、ふかふかとしたものの中だった。それがベッドであると分かった辺りで彼女はリンクの別荘にいることに気がつく。気を失う前に彼が言っていた場所だろう。
灯りは消えていない。辺りを見渡すために体を起こしてみると、こじんまりとした空間が広がっていた。メドリはもう少し大きな部屋を想像していたので少しだけびっくりする。
「あ、メドリ!」
少し離れたところに佇んでいたリンクが飛ぶようにメドリの方へ向かっていく。緑の帽子がせわしなく揺れていて、彼の動揺を顔以上に表現していた。
「リンクさん、ワタシ……」
彼女は、意識が途絶えるその瞬間をしっかりと覚えていた。今まで感じたことのなかった恐怖の中で闇に呑まれたのだ。そんなことは初めてだった。
次の言葉が出てこないメドリに対して、先に口を開いたのはリンクだ。
「そんなに頑張らなくたっていいんだよ」
彼の瞳には、メドリが竜の島で目撃した、あの悲壮が浮かんでいた。きっと船の上で倒れたことで彼に心配をかけてしまったのだろうと彼女は思う。だが、だからといってそれが大地の神殿に行かなくてもいい理由にはならない。例えまだ心が固まっていなくても大地の島に向かうべきなのだとメドリは考えていた。
「ワタシは大丈夫です。リンクさんを、信じてます」
リンクはそれを聞くと、あのときとは違って顔を伏せた。何かを言いたげな様子である。
しばらく沈黙した後、次に言葉を発したのもリンクだった。
「なんで、メドリはそんなに頑張っていられるの?」
「こんなワタシが役に立てることなんてあまりないですから……」
リンクの言に対しても、彼女はまだ自分の気持ちを曲げない。
メドリがコモリに会いたいという気持ちに嘘をついてまでここにいる理由は、彼のことを救いたいからだ。それに虚実は混じっていない。ただ、コモリのことがすごく気にかかっているだけで。
しばしの沈黙が二人の間に横たわる。
「少しだけ聞いててもらっていいかな」
先に口を開いたのはまたしてもリンクの方だった。
「僕は、竜の島でメドリに信じてるって言ってもらえたから、大地の島に向かう覚悟ができたんだ」
ありがとうと、それに続けて彼は小さく呟く。
風は吹いていないのに彼の帽子が少しだけ動く。顔をメドリの方からずらしたのだ。
「けど、海の上から様子が変だよ。強がってるみたい」
それは彼女自身が一番感じていることであった。言い返すこともできず、強く口を結ぶことくらいしかできない。
「だからこそ、無理してるなら言って欲しいんだ。そんなメドリを連れて行くなんて、いやだから」
でも、彼の結論はおかしい。彼女がこの使命を放り出してしまって一番困るのは彼なのだ。なのに、彼は、無理強いをしない。
その優しさが、メドリを責め立てている。
「ワタシは……」
一緒に行くと言っても、彼は絶対に引かないだろう。今のメドリに迷いが生じているのは事実であったし、そんな彼女を彼が好んで連れて行くはずがないのもまた事実。
なんて言えば良いのかわからない彼女は、ただ自分の本心を口にすることしかできなかった。
「ワタシは、コモリ様と一緒にいたいです」
もしくは、もう考えることすら止めたくなったのかもしれない。
それを聞いても、リンクは微動だにしなかった。まるで、彼女のその言葉を待ち構えていたかのように。
「それでも、竜の島に戻ろうとは思いません」
驚いた様子でリンクはこっちの方を見た。
「どうして? 巻き込んだのが悪いんだから、帰ってもいいんだよ?」
「だって、リンクさんの役に立ちたいというのもワタシの本当の気持ちなんです」
瞳を大きく見開いた。
「ヴァルー様が大暴れなされたときも、リンクさんがいなければワタシはどうなっていたか分かりません……」
「そのお返しに、リンクさんの手助けをしたいんです」
ダメですか……? と瞳で問いかけていた。
そこまで言われたら、さすがのリンクでも引き下がらなければいけない。
「嫌になったら、いつ言ってくれても構わないから」
渋々といった様子ではあったが、リンクはメドリの動向を許可してくれた。
だが、メドリの顔は晴れない。心に抱えた闇が肥大化していくのを、ひしひしと感じていたからである。
瞬間、目の前が暗くなった。リンクがデグの葉を使って器用にたいまつを消したのである。
「それじゃあ、明日に備えて寝よう。メドリは、起きたばっかりだけど、横になってる方がいいと思うから」
「分かりました。リンクさん、お休みなさい」
「うん、お休み」
彼のベッドはメドリのそれから少し離れたところにある。もぞもぞとそこに入る音が聞こえた。
暗闇。沈黙。そんなことをきっかけにして海の上での出来事を思い出してしまう。目を瞑ってみたところでその景色は変わらず、むしろ孤独さを助長させるだけの結果に終わった。
――とにかく、今はリンクさんのお役に立ちたい。
闇が迫り来るような気がする前に眠ってしまおう。そう思った彼女は、ゆっくりと眠りに落ちていくのであった。
七
ハープとタクトが、仄暗い洞窟の中で向かい合っていた。
奏でられるのは『地神の唄』である。メドリがここにいる全てのきっかけになったと言っても過言ではない唄だ。
――上手く、弾けるかな?
竜の島で同じ言葉を発したときとは状況がほとんど違っていた。懐かしさに溺れずに使命を全うできるかどうか分からない。思い出がふと脳裏を掠めるかもしれない。
技術ではなく、そういう心の心配をしていた。
リンクが一つ息を吸ったのを合図に、タクトが振り下ろされた。
流れ始める『地神の唄』。奏でているのはもちろんメドリだけであるが、その音色は竜の島で聞いたときよりも洗練されている。
彼女の心配とは裏腹に、明らかに上手い演奏であった。
最後の音を奏で終えると、目の前にあった大きな石碑が音を立てて崩れ落ちる。白煙が上がり彼女の視界を覆うと、きゃっという小さな悲鳴を漏らした。
再び鮮明になった視界の先には、石碑の奥にあったと考えられる奥への道が出現していた。
――この先に。
大地の神殿があるのだ。自然と顔が強張る。体が震える。肌がちりちりとむず痒く感じる。だが、足の動きだけは体のそれに反して前に進んでいた。
リンクの別荘を出てからメドリは自分の本心について悩み続けていたが、未だ答えは出ていない。闇の正体だって掴めないままだ。
けれども、彼女はあることにだけは確信を得ていた。
それは、リンクを助けたいという気持ちも、コモリと一緒に居たいという気持ちも、どちらも比べられないくらいに大切な想いであるということだ。
「リンクさん」
細い道を進んだ先に、大地の神殿の入り口だと思われる穴があった。そこの前で一度立ち止まり、隣を歩いていたリンクに対して向き直る。瞳に浮かんでいたのは、悲壮とも決意とも違う何かだ。
「いえ、やっぱりなんでもないです」
口をつきかけた言葉をもう一度呑み込んだ。これを言うのは、まだ少し早い気がしたのだ。
緊張した雰囲気が幾分か和らぐ。意図したわけではなかったが、少しだけ震えが収まった。
「メドリ」
さあ、大地の神殿へ、というところでリンクが待ったをかけた。奇しくも先ほどとは立場が逆転した形だ。
「嫌になったら、絶対に我慢しないでね」
「はい」
メドリは初めて嘘をついた。
リンクにもしものことがあれば彼女はここから出ることも叶わない。誰にも会えない孤独の中で一人老いていくことしかできないのだ。嫌にならない理由がなかった。
けれど、大切な想いの元、彼女は逃げないでここにいる。
「それじゃ、行こう」
大きく頷いた。
目の前の穴に足を踏み入れる。当たり前の浮遊感が二人を包み、その暗闇へと姿を消した。
しばらくして大地の神殿へとたどり着く。闇が漂うその遺跡の光源は薄汚れた灯火のみで、まるで夜のような雰囲気を醸し出していた。鼻につく異臭とじめじめとした暑さが彼女の顔をゆがませる。
今は昼であるから、終始この雰囲気のままなのだろう。
隣にいるのは緑の衣に身を包んだ勇者だ。さっきまでは同じくらいだった背の丈が、どうしてかメドリには小さくなっているように見えた。
――怖いのはワタシだけじゃない。
コモリのこと、竜の島のこと、リンクのこと。せめぎ合っていた気持ちがある方向に傾くのをメドリは感じていた。
扉を、開く。
大地の神殿の内部は複雑に入り組んでいた。メドリとリンクが力を合わせなければ突破できないような仕掛けもたくさんあり、深部への道中は甘くないことをそれが彼女らに身をもって教えていたのだ。
例えば、中で控えていた敵。糊状の敵のうち、黒いものは光を当てなければ攻撃が通らない。時折壁が崩れ外の光が覗いているところもいくつかあったので突破できたようなものだ。
また地面から黒い手だけが出ている敵も恐ろしかった。飛んでいるメドリの足を掴み、そのまま地中へと引きずり込んでどこか遠いところへと連れ去ってしまう。
突如体を掴まれる嫌悪感。いくらもがいても決して緩むことのない拘束。リンクと引き離されるという恐怖。すべてが終わった後に訪れる、独りぼっちの時間。彼女を蝕んでいたのはその時間だった。
リンクが傍にいないと、どうしてもコモリのことが頭を過るのだ。今は思い出してはいけないと自分に言い聞かせても、その幻影の姿が消えることはない。緑の勇者が恐怖に耐えながら隣にいてくれるからこそ、彼女は賢者として振る舞うことができるのだ。
一人になれば最後、残るのはお付きのメドリとしての彼女だけだった。
――こんなワタシが、本当に賢者になれるのでしょうか。
そんな言葉が彼女の頭を覆い尽くしていく。リンクが助けに来てくれるまでの間、メドリはこの時間に耐えねばならない。それが一番大変で、自分の決意の浅さに不甲斐なさを覚える瞬間で。
「リンクさん! ワタシはここです!」
緑色が遠くに見えると、反射的に声が出る。一刻でも早く彼の傍に戻りたいのだ。賢者としてのメドリになるために。
揺れる心情は、しかし彼の前にいると自然と落ち着く。彼もとてつもない使命とそれでも前に進まねばならない重圧を抱えているわけだから、きっと共感を覚えているのだろう。
ただそれだけが今のメドリにとっての救いだった。
道中、何回かリンクと『地神の唄』を奏でた。なるべくコモリのことを考えないようにしながら、一生懸命にハープを奏でる。振動が壁や床で跳ね返ることで、いつもに増してくぐもった調べがあたりに響いた。
感情の決壊は、彼女の予想に反して神殿の最奥に着いても起こることはなかった。リンクといればコモリのことも制御が効かないほどの愛執を感じることはない。
――もう、ワタシはワタシでなくなっちゃったのでしょうか。
不安に思う反面、賢者としての使命を果たせることにちょっぴりと嬉しさを感じていた。あのとき――航海のとき――に首をもたげた闇とも遭遇していない。
「リンクさん!」
「……コモリ様のこと、よろしくお願いします」
笑顔は、どうしても浮かばなかった。
八
「こんなワタシなんて……」
ここに至るまでの回想は、彼女に終わりと無力感を告げるのみであった。今のメドリを悩ましている闇のことも何も分かっていない。それどころか、昔の自分に出来たことが出来なくなっていることを思い出しただけだ。やるせなさは募るばかりで、一向に晴れる様子は見せなかった。
――でも、頑張らないと。
ここから逃げ出したところで、道中で出会ったような敵に倒されてしまう。もし仮に脱出できたとしても、こんな孤島からどうやって竜の島を目指せばいいのだろう。こんなに長い距離を飛ぶなんて、コモリにはできたとしても、メドリには無理なことで。
そう。退路はすでに断たれた後だったのだ。
ハープに手をかける。優しく撫でると子守唄のような響きが辺りを包みこんだ。
――メドリ、どうしたの?
刹那、眼前に広がる光景に彼女は息を呑む。こちらに向けて手を伸ばすコモリと、今では全てが懐かしい竜の島の情景。ハープを奏でるはずの右手はいつの間にか前につきだされていた。しかしコモリの体はメドリが触れると瞬く間に消えてしまい、薄暗い虚空だけがただそこに残る。
当たり前のように幻影に手を伸ばしてしまう自分を情けなく思った。
それと同時に出現するのは漆黒だ。自我を乗っ取るような感覚と共に、彼女の心を支配しようとするのだ。
ハープを床に置き、彼女はその場に蹲る。目を瞑り耳を塞ぎ息を止め、外部からの刺激を全部遮断した。ただ内面に映る闇だけを見据える。
元来メドリの中にはいなかったはずのそれは、今では彼女の半分近くを蝕む程度に肥大化していた。使命の遂行を横取りし、そのまま彼女の体を乗っ取るのだろう。そんな予感がメドリの中にはあった。
もちろん、精神がそのまま移り変わるわけではない。少しずつ賢者として役に立てるように心を入れ替えられていくのだ。コモリのことや竜の島のこと、ヴァルーのことや師匠のことを忘れさせて、賢者の役目に集中させるために。
もし負けてしまえば、彼女を支える大事な思い出が消えてしまう。
メドリが闇に負けられない理由はそこにあった。
しかし、闇の勢いは留まるところを知らず、依然として彼女を呑み込もうとしていた。以前の攻勢よりもずっと激しく彼女の心をゆさぶってくる。
「あのときの賢者サマとの約束を思い出してください。アナタのやるべきことは、ここでハープを奏で続けることです。」
心の奥底にまで届く耽溺の響きを紡ぐ。それを口にしていたのはメドリではなくて。
「ワタシならできます。演奏は、ちょっぴり下手かもしれませんが」
闇はだんだんと形状を変え、メドリそっくりの姿へと変身した。その瞳には迷いがなくて、ただ使命だけを注視しているようだ。
対して、メドリの瞳は揺れていた。過去と未来、感情と使命、コモリとリンク。いろいろなものが浮かんでは消えていく。どちらも同じくらいに大切だから、彼女は一歩も動けないでいるのだ。
「いつまでも中途半端だったら、アナタは後悔します。早く決めておけば良かったって」
闇が一つの言葉を吐く度に、彼女の心はまた一つ傷ついていく。
そして今の言葉が、決定打となった。メドリが今まで考えていたことが全て瓦解していく。
そう。賢者になる覚悟も、使命を放り投げる覚悟も、彼女にはなかったのだ。自分の気持ちで選んだはずの決断は、自分を守るための逃げだったのだ。
「だから、ワタシに任せてください」
もう一人のメドリは、最後に真綿で首を絞めるかのような調子で小さく囁いた。
なら、と彼女は思う。
――ワタシが彼女を頼れば、コモリ様もリンクさんも助けられる。
そういうことに他ならない。この自分を放棄して、思い出の欠けた自分になれば、みんなを救えるのだ。
絶対に頼るまいと思っていた心が傾いていく。今まで周りに流され、楽な方楽な方へ進んできたから、今度は何かを犠牲にしなきゃいけない。
心に浮かぶのはそんな考えばかりで、メドリ自身を鼓舞するような言葉は一つも出てこない。
それは、彼女の心が陥落寸前だという決定的な証拠であり、そして全てを諦めるということ。
メドリは丸めていた体を垂直に伸ばし、瞼を持ち上げてもなお存在する闇と向き合った。瞳に浮かぶのは悲しき決意の色で、それを見た闇は口元を軽く綻ばせる。
口を開こうとメドリが息を吸った刹那、彼女の体内に潮の香りが流れ込んだ。
ずっとこの辺りに漂っているはずの匂いだった。けれども、今のメドリにはそれがとてつもなく愛おしく感じる。
なぜかは、メドリにもすぐに分かった。
瞳から青が消える。
「ワタシには、やっぱり、出来ません」
だって、楽しい記憶や素敵な出来事、幸せな日々と嬉しかった瞬間は、全部全部あの島にあるのだ。それを忘れてしまったら、もう、それはメドリではなく別の何者かになってしまう。
潮の香りをもう一度吸い込む。自分の気持ちがはっきりするのを感じた。
――もう一度、あの島で。
お付きとして、コモリの友として、普通のリト族として暮らしたい。
メドリの願いは、心の奥底から本当に願っていたことは、ただそれだけだった。
「でも、そんな自分勝手が許されるわけ……」
予想に反した言葉をぶつけられ、その笑顔を固めたままその場に立ち尽くしていた闇であったが、ここまでたじろぐ姿を見るのは初めてだ。その輪郭はぼやけ、メドリの形を保てなくなりつつある。
「ワタシは、ワタシのまま賢者にならなくちゃだめなんです」
悩んだ。考えた。その結果、彼女は茨の道を歩むことに決めたのだ。コモリたちを守り、リンクを助け、そして自分の願いを叶えられるのはこの道以外にないから。
強く、どこまでも孤高な決断を彼女は成したのだ。
それを心に決めた瞬間、闇の輪郭が一層ぼやける。メドリと認識出来ないほどに崩れたそれは、霧状に蒸散して、言葉を残すことなく消えた。
あれだけ恐怖をまき散らしていた存在が、いとも容易くいなくなった。思えば、あれは彼女自身だったのかも知れない。コモリのことを忘れてしまいたいと願った自分が生み出した幻影。だからきっと、彼女は消えたのではなく自分の中へ還ってきたのだ。そうメドリは思った。
「上手く、弾けるかな」
この言葉を言うのも三度目になる。だが、今回は上手くいくような気がしていた。
床に置いたハープを手に持ち、震えを抑えながらそれを構える。
潮の香りを大きく吸い込み、気持ちを落ち着けてから弦に触れると、柔らかな音色が神殿に響き渡った。
――メドリ、どこかに行っちゃうの?
闇の気配はなくなった。しかし、未だにコモリの幻影はその瞳に残り続ける。彼の姿を見ていると胸が締め付けられるのも前と同じであった。
――少しだけ、お出かけしてきます。
けれども、彼女は演奏を止めない。竜の島から見える景色が薄闇を彩っても、コモリがどれだけ彼女に話しかけても、竜の島の香りを錯覚しても、その腕は動き続ける。
やっと気がつけたのだ。コモリの姿を脳裏に映し出しているのも自分自身だということに。この前までずっと当たり前だった情景を渇望していることに。
お付きのメドリは、あそこにいなきゃいけないのだ。
しかし。
賢者のメドリは、ここで祈りを捧げなきゃいけないのだ。
その相反する二つの気持ちが、闇とコモリの影を心に映し出して、一つしかないメドリの心を引き裂いていた。そのことに、彼女はやっと気がつけたのだ。
『地神の唄』を奏でる音符たちに憂いが消える。
――笑って。
幻影のコモリが最後に残した言葉はそれだった。闇と同じように、彼の姿も蒸散して跡形もなく消えていく。
温かい気持ちが胸に宿るのを、メドリは確かに感じ取った。
「そう、ですね」
言われて初めて、彼女はほとんど笑みを浮かべていないことに気が付いた。
ハープの奏でる『地神の唄』に耳を傾けながら、彼女は思う。
――ワタシはただのメドリだから。
ずっと笑っていよう。再びみんなに会えるその日まで。