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ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月八日
クズ共を殺してから、およそ三時間が経過した。あの田舎道はかなり距離があり、人が住む市街に到着するまで大分掛かってしまったのは計算外だった。
俺は今、人目に付きにくい物陰でこの日記を綴っている。ここにくる道中でも多くの人間に奇異の目で見られていたのが主な理由だ。こんな視線など歯牙にもかけないが、生憎ヴィジランテとして街を駆けていた頃とは訳が違う。
見知らぬ土地、見知らぬ人々。今の俺は街路に捨てられた赤子と同じだ。この街……いや、そもそもこの世界については全くの無知。今は何よりも情報がいる。
だが、分かっていることが一つ。この世界の技術レベルは中世並に低い。自動車もなければ空飛ぶ飛行船もない。やはり、辺境の国へ飛ばされたとは行かないらしい。つくづく己の境遇を呪いたくなる。
しかし不思議なものだ。見たことも聞いたこともない土地だというのに、俺は言語を理解し、意思の疎通も出来る。クズ共を相手取った時も自然にそれを行えたのが何よりの証拠、この日記の日付も捨てられた新聞から知り得ている。
俺はヴェイトのような天才ではない。全く知り得ない言語を理解し、そして難なく話せるのは異常としか表しようがない。だが、話せるのならそれに越したことはないのも確かだ。どんな場所であろうとも一定の意思疎通がなければなるまい。
とにかくまずは情報を集めることが先決だ。幸い、アテはある。早速取り掛かるとしよう。
俺に立ち止まる暇などない。ニューヨークのように、この世界にも裁くべき悪は大勢いる。罪なき者に仇なすクズを野放しにはしておけない。
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「…………HURM」
なんという静けさだろうか。暗い路地の影から街の様子を見ていたロールシャッハは訝しげに唸る。
帝都───千年を迎えたこの国の中心。人口は押して知るべし、本来ならば人で溢れ返っている筈のこの街だが、その実目の前の広場を行き交う人々は驚く程少なかった。
人は歩く際おのずと前を向くものだ。しかし前を見て歩く人はごく僅か、市民の殆どは皆俯いている。まるで明日に希望など存在しないかのように………。
ニューヨークの雑多の中で生きてきたロールシャッハにとって、この光景には少なからず驚愕を覚えた。
(………………)
トレンチコートをなびかせ、暗く狭い路地をロールシャッハは行く。今自分がすべきことはこの国、この世界についての知識を得ること。絶望に暮れる市民を観察したところで何も始まらないのは分かりきっていた。
「......これは」
歩き続ける彼の目に手配書のようなものが飛び込んでくる。そこには膨大な額の懸賞金が掛けられている手配犯が複数見受けられた。長い黒髪の少女、ガタイの良い青年、眼帯を着けた女。そのどれもがとある組織に属している。
"ナイトレイド"───帝都の街を脅かす殺し屋集団。手配書にはそんな風な文句が綴られている。そういえば新聞にも彼らの記事が書かれていたような気がした。静まり返った闇夜に紛れ、軍の幹部や貴族逹を夜な夜な葬っている、と。軍はこの殺し屋集団の征伐に躍起になっているのだろうか? 尤も、帝国の思惑などロールシャッハには全く興味の範疇にも入らなかった。
(ナイトレイド......か)
しかし、この殺し屋逹は頭の片隅に入れておかなければなるまい。今後活動していく上で彼らと対峙する可能性も十分考えられるからだ。両者の立ち位置は極めて近しく、なおかつ向こうは集団。単独で動き回るロールシャッハにとっては障害になるかも知れない。
この連中がまともなヴィジランテであればいいが。善と悪は紙一重、その境界に立つロールシャッハはそれをよく理解していた。正義を行っているつもりが、気付けばそれが悪しき行いになることもある。下らないジョークで人々を死に追いやったあの男のように。
オジマンディアスの行いは結果として人類を救った。訪れようとしていた核戦争を防ぎ、世界の英雄となった。それは客観的に見れば善なる行為だったのだろう。
ふざけるな。
あんなことが善なる行いだと、断固として認めるものか。罪なき人々の上に積み上げられた仮初めの平和など絶対に認めない。そんなものはクソ喰らえだ。
このナイトレイドもそうだとするならば......己が正義の為に民を犠牲にするというのなら、ロールシャッハはその矛先を向けるだろう。混ざることのないこのマスクの白と黒のような、確固たる意思をもって。
「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
「……!」
ナイトレイドについてしばらく思案していると、ふいに女性の叫び声が響いてきた。そう遠くはないが、かなり切羽詰まっているのだろう、その叫びは収まる気配を見せない。同時に聞こえるのは野太く低い男の声。どうやら複数いるらしく、下卑た笑い声が飛び込んでくる。
(ビンゴ)
そしてこれこそが、ロールシャッハの狙いでもあった。
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最悪だ。エアは己の不遇さを嘆いた。
帝都に来たばかりの彼女は右も左も分からないようないわばお上り。一緒に村から来た仲間ともはぐれ、今となってはまるで迷路のような狭い路地に迷い込んでしまっていた。天気は清々しい程の快晴だというのに路地は薄暗く、今にも何か出てきそうな雰囲気が漂っている。
「ううう……ルナちゃん……ファルちゃん……二人ともどこ行っちゃったの……?」
ただでさえ気弱なエア。こんな場所に一人でいると心細いにも程がある。もしかすると変な輩にばったり出会ったりするんじゃないだろうか……そんな怖い想像までしてしまう。
そしてそれは、見事に的中してしまうのだった。
「あれれ~? お嬢ちゃん、こんなところで何してるのかなぁ?」
「えっ?」
突然後ろから声を掛けられ、おそるおそる振り向くと………そこには見上げる程に大きい男がなめ回すような視線でエアを見下ろしていた。男の後ろには仲間であろう男が二人。彼らも同じく、いやらしい視線をエアに向けている。
「お嬢ちゃ~ん、こぉ~んな人目に着かないとこで一人だなんて、勇気あるねぇ」
「ほんとほんと。襲ってくださいって言ってるようなもんさ」
「ひっ……」
戦慄───生まれて初めて味わうような恐怖がエアの身体を駆け巡る。もしかしなくともこの男逹は自分を慰め者にしようとしているのだろうか? 嫌だ。せっかく新天地へ来たばかりだと言うのにこんな目に会うなんて。
逃げなければ。今すぐに。だが恐怖で腰が抜けてしまい、立とうにも足が動いてくれない。何とか力を入れてみても言うことを聞いてくれない。そうこうしているうちに、男逹はエアに近づいてくる。
「へへへ……いいカラダしてんじゃねぇか。楽しめそうだぜ」
「い……いや……」
「抵抗したって無駄だぜ。観念しなァお嬢ちゃん」
「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
気付けばエアは叫んでいた。それが無意味だと分かっていても、男逹がそれで諦めてくれないと知っていても、叫ばずにはいられなかった。
男逹の魔の手が伸びる。下卑た笑みを張り付けた男の一人がエアの肢体に触れようとした、その時───
「おい、クソ野郎」
「あぁ!? ンだとてめ───」
ゴキリ。
鈍い音が響く。まるで首の骨が折れるような、そんな音。そしてそれは正しく、その通りであった。三人のうち一番後ろにいた男の首はあらぬ方向へと向けられており、その両目が光を灯すことは二度となかった。
「な、なんだテメェ!! いつからそこに!?」
「クソッ! 殺れぇ!!」
突如としてエアの前に現れた謎の男。薄汚れたトレンチコートを纏い、くたびれた中折れ帽を被った男は、襲い掛かる男逹を前にしても全く身じろぎもしない。このままではやられてしまうのでは───しかしそんなエアの不安はまるで杞憂であった。
一瞬。あまりにも一瞬だった。ナイフを携え、勢い良く突っ込んできた一人の胸を、謎の男はいとも容易く砕いた。深々と突き刺さったその拳は心臓を完全に潰し、周囲を鮮血で染め上げる。
「ひぃぃぃぃぃ!!? な、何者なんだテメェってぎゃああああ!!?」
「小指を折らせてもらった。もう一本折られたくなければ質問に答えろ」
「はぁ!? どういうこと───ぎぃぃぃぃ!!?」
「質問に答えろと言っている。……次は中指だ」
つい先程まで少女の叫びが響いていた路地に痛みに絶叫する男の叫びが木霊する。自身よりも一回り大きい男を謎の男は簡単に押さえ込み、枝を折るかのようにその指をへし折っている。もがき苦しみ、それでも必死に拘束から抜け出そうとするも、その度に男の指はボキリと音を立て折れていく。痛みに堪えかねた男が口を開くのに時間は掛からなかった。
「わ、わわわ分かった!! 答える!! 答えるから!! 質問ってなんなんだよ!!?」
「全てだ。この国の実情を全て話してもらう」
「じ、実情だぁ!?んなもん俺が知るか!!」
「知っているとも」
ボキリ。中指が真っ二つに折れた。
「お前はどうしようもないクズだ。だがそんな奴程、街の内面はよく知っている。さぁ存分に口を動かすがいい。人差し指を折られたくなかったらな」
「ひ、ひぃぃぃ…………」
容赦のない殺意が男を襲う。その行為の一つ一つに一切の慈悲などは存在しない。冷酷に、そして冷徹に。途方もない痛みと恐怖で悪漢を追い詰める。その様はまるで悪魔だ。
いや───それはきっと、正しくはないのだろう。
エアの目に映る彼は───ロールシャッハは、紛れもない"人間"だった。
「ハァ、ハァ、ハァ。な、なぁ。俺の知ってることは全部話したんだ。も、もうこんなマネはしない。誓って本当だ!だから頼む。見逃してくれ!」
「…………」
男は自身が知っている情報全てを洗いざらいロールシャッハに明かした。政府の腐敗、その手足たる軍、悪辣な貴族、腐敗の根源たるオネスト大臣、そしてナイトレイド。どれもが表面的なものでしかなかったが、これだけ知れれば一先ずは充分といえるだろう。
情けない声を上げ、みっともなく命乞いをする男。右の指を折られながらも地面に這いつくばり、慈悲を乞う。
哀れな男だ。慈悲を願うのならば聖人君子にでもすればいいものを。今目の前に立っている男は、そんなものとは全く真逆の存在だというのに。
「HURM.お前は大きな勘違いをしている」
「へ、へぇっ?」
「言った筈だ。お前はどうしようもないクズだと。そんなクズに次があるとでも?笑わせるな」
「まっ、待ってく───」
一閃。
目にも止まらぬ速さで振り下ろされた剛腕が男の頭を砕く。生々しい音と暖かい血液がそこらに飛び散り、真っ赤な模様を付けていった。
そして奇妙なことに、エアはその血塗られた模様が綺麗に見えた。それはまるで、きれいなちょうちょのようで───。
「おい」
「ひっ!?」
しかし突然ロールシャッハに声を掛けられたことでエアは一気に現実へと引き戻される。見上げればそこには血で拳を濡らす彼の姿が。その様相は先の男達よりも余程恐ろしい。
だがその声色は、どことなく優しさを帯びていた。
「お前も聞いただろう。この国の姿を」
「えっ…………あ、は、はい。まぁ」
「この国は腐り切っている……お前のような子供が居ていい場所ではない。今すぐ故郷へ帰るんだな」
「で、でも……」
「よく聞け」
ロールシャッハの語気が強まる。若干の怒りを孕んだその声はエアを怯えさせるには充分過ぎた。
それでも構わず、ロールシャッハは続ける。
「こいつらや俺のような連中とは対極の位置にお前はいる。ここに居てはお前もやがて深淵へと呑まれてしまうだろう。そうなってしまう前に、ここを立ち去れ。こんな場所よりかは田舎の方が遥かにマシだ」
「……分かり……ました」
「ならいい。……この道を真っ直ぐに行け。すぐ人通りの多い表に出る」
そう言ってロールシャッハは道を示すが、完全に納得はしていないのだろう。エアの返答はあまり釈然としない。それでも何とか飲み込んでくれたようだ。
彼にとって子供は未来を担う大切な存在。この世を生きるべき光ある存在だ。その光を闇で覆ってしまえば、文字通り世界は破滅するだろう。そんなことは断じてさせない。させてなるものか。帝都を出ろと言うのも彼女の身を案じてのことだ。
ロールシャッハは踵を返す。情報は手に入れた。それでもまだまだ心許ない。帝都のことも、ナイトレイドのことも、まだ断片的にしか知り得ていない。やはりゴロツキ程度の知識ではたかが知れていたが、次の目的は決まった。
「あ、あの!」
背後から届くエアの声がロールシャッハの足を止める。
「え、えと、その……な、名前を教えて頂けませんか!?」
「その必要はない」
「ど……どうしてですか?」
「もう二度と会うことはないからだ」
最後まで振り向きもしないまま、ロールシャッハはその場を去る。
ただ一人残されたエアは、その姿が見えなくなるまで彼の背を見つめていた。
ちなみにこの世界線の三人娘は生きております。