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ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月十三日
この日誌に触れるのが随分と久しく感じる。それ程までに昨日は長い一日だった。
結論から言うと、俺の要望は聞き入れてくれたようだ。ナイトレイド自体には大した問題もなく加入出来たと言える。あのアカメという少女には感謝しなければ。
ただやはり、淫売───もといレオーネには猛反対された。自身の手足を砕かれたのだから当然の反応だろうが、先に手を出してきたのはあの女だ。単に俺は対処したに過ぎない。自業自得の結果に一体何を喚いているのか。これだから女は嫌いだ。
しかしあの回復力には流石に度肝を抜かれた。何せ次に会った時には既に傷が癒えていたのだから。完治はしていなかったようだが、それでも七割近くまで治癒していた。あれも帝具の力というのなら、やはり強大な力に他ならない。
反対に淫売以外の面子には割りと好意的、とまでは行かないがあまり拒絶されることなく受け入れてくれた。理由は知らないが、それに越したことはない。…………奇抜な髪色のチビ娘───マインとか言うらしい。確かにあれは地雷のようで近寄りたくもない───はその限りではなかったが。淫売といい、女は度し難い生き物だ。
彼らのアジトはここから北におよそ十キロ程度の山中にある。目にした時は大層な建物だと思ったが、闇に生きる連中にしては些か目立ち過ぎる気がしてならない。こうも大っぴらにしていては見つかるのも時間の問題だろう。全くもって幸先が不安になる。
これから俺を含めた全メンバーの会合だ。この組織について俺はまだ何も知らない。実力はあるようだが、正義なき力は危険な爆弾と同義だ。彼らの信念はどこに向かっているのか。何を目指しているのか。それを見極める義務が、今の俺にはある。
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「───という具合だ。タツミ、そしてロールシャッハ。我々の仲間になる気はないか?」
会議室というには閑散とした、広く白い空間。七人ばかりで構成されたナイトレイドに対して余りある場所にロールシャッハは居た。石壁にもたれ、中央に集まる彼らとはやや離れた位置に立っている。会話はここからでも問題なく行える為、わざわざ群がる必要もないというのが主な理由だ。
マスクの奥から見詰める先には共にやって来た少年───タツミとここのボスである隻眼の女───ナジェンダが話し込んでいる光景が映る。無論、その会話はロールシャッハにも届いており、ナイトレイドがどのような組織なのかは大まかに把握していた。その上で彼女は双方に加入の意思を訪ねた。
「…………やるよ。国を変える為なら死んでいったサヨやイエヤスもそうしてる筈だ。覚悟は出来てる!」
「そうか。お前は?」
「無論だ。クズ共を殺すというのなら、その手助けをしよう。数は多いに越したことはない」
「決まりだな」
ここで正式に二人のナイトレイド加入が決まった訳だが、ロールシャッハはこれからの行動を思案していた。まずは実力を測る為にアマチュア程度の仕事をこなされるだろう。今更そんなことをやるつもりなど毛頭ないが、信頼を得る為にはやらねばなるまい。そうすることで連中の力量も分かってくるというもの。面倒だが、ここは耐え忍ぶ他にない。
「しっかしそんな大きなことをするとはなぁ…………しかもそれで市民が助かるんだろ? ってことは正義の殺し屋ってやつじゃねぇか! スゲェ!」
(…………HEH)
一切の恥じらいもなく、堂々と言い放つタツミ。罪なき者に仇なすクズを殺すという所業を正義とは言い難いだろうが、しかしロールシャッハはそうは思わない。どころか彼の言葉には賛同出来る部分すらある。世界そのものを蝕む悪しき害虫を駆除することは正義に他ならないのだ。
彼の青臭さは若かりし頃のコバックスを思い起こさせる。青く、思慮が浅く、まるで経験が足らなかった時代。己の力の無さを痛感させられた、決して忘れることの出来ない暗い記憶が僅かに頭を過ぎる。
真っ直ぐな瞳だ。タツミの目には曇りなど欠片も見当たらない。純真で、優しい心の持ち主だ。それでいて強い意志も備えている。その人間性から鑑みても彼はヒーローになるべき存在だろう。こんな人殺し集団の仲間になる必要などありはしないのに。
だが踏み入れてしまってはもう遅い。今彼は深淵に覗きこまれている。暗く、終わりのない闇に。それに呑み込まれた時、ロールシャッハは彼を殺さねばならない。願わくばそんなことはしたくないものだ。
タツミを見てどことなく懐かしさ覚えたロールシャッハだが、その感慨は耳に届いた笑い声に掻き消された。メンバーのことごとくが、面白おかしく笑っている。中心にいるタツミは困惑顔だ。無論、彼らが笑う理由はロールシャッハも分からない。
「な………何だよ。何がおかしいってんだよ」
「一ついっておくけど、タツミ。私らがやってんのは単なる人殺しなんだ」
「そこに正義なんてないですよ」
「俺達はいつ報いを受けたっておかしくはない。そんな世界に生きてんのさ。今のうちによく理解しとけ」
「そ、そうなのか…………」
口々に語られる信条。垣間見えた理念。それは自分達の行いが決して正義ではなく、むしろ悪。裁きを下している連中とさして変わらぬというもの。確かに、間違ってはいないのかも知れない。人を殺しているというのは紛れもない事実であり、否定などは出来ない。本来そこに正義があっていい訳がないのだ。
だからこそ。
「笑わせるな」
ロールシャッハは認めない。
「何だと?」
「お前達は自らの行いが正義ではないと言ったな」
「事実だろうが。正義なんてある筈がねぇだろ」
「だとしたら、お前達は三流以下のチンピラだ」
空気が凍る。笑い声を上げ、ある種和やかな雰囲気が一変した。皆表情を険しく歪め、殺意ではないにしろそれに近しい感情をロールシャッハに集中させていた。痛い程の威圧と視線が彼に降り掛かる。常人なら腰を抜かし、無様に恐れおののくに違いない。タツミでさえ、ガラリと変わった場の空気にあてられ青ざめている。
「ちょっとアンタ。もう一度言ってみなさいよ…………!」
込み上げる怒気を隠すことなく、マインは敵意を顕にする。いつの間に持っていたのか、身の丈以上の銃らしき武器に手を掛けていた。あれも帝具なのだろう、いつこちらに銃口を向けるのか分かったものではない。他のメンバーもまた、ロールシャッハの言葉次第では大人しくしている保証はなかった。
それでもロールシャッハは全く臆することなく言い放つ。
「聞こえなかったか? なら何度でも言ってやる。正義を否定する貴様らはただの低俗なチンピラだ、とな」
何の臆面もなく、いっそ清々しいまでの暴言。明らかにナイトレイドを見下し、卑下している言葉は彼らの怒りを呼び起こす。敵意だった冷たい視線が、次第にマグマのような煮え滾る殺意に変わってきていることをロールシャッハは感じた。そして呆れ返る。この程度の文言で怒りを覚えるとは、随分と沸点が低い。
しかし、そんなロールシャッハの心情など理解出来る筈もなく。
「ふざけんなよお前」
マインに負けず劣らず、大きな憤怒を孕んだ声色でレオーネは唸る。帝具は発動していないようだが、大した殺意だ。そこは腐っても殺し屋といったところだろう。今にも殴り掛らんような雰囲気を滲ませながら、彼女は口を開いた。
「言った筈だ。私達の家業は殺し屋、相手がどれだけの下衆だろうと人を殺すことに変わりはない。アンタは人殺しが正義だって抜かすのか?」
彼女の言葉はナイトレイドの総意でもあった。そもそも革命軍の一部隊である彼らはあくまで裏で暗躍する組織。明るみに出来ない仕事を一手に引き受け、陰ながらサポートする裏側の役目を担っている。それはコインに表裏があるように、なくてはならない存在だ。決して目立たず、しかし確実に任務を遂行することが鉄則。一度殺しを正義と見なしてしまえば、正義感に駆られ過剰に殺してしまう者が現れる。今のメンバーでそれはしないだろうが、綻びの可能性は捨て切れない。
これは戒めでもある。自分達の行いは高尚なものではなく、正反対の汚い所業なのだと。
だが、ロールシャッハは違う。
「まずその前提からして貴様らは間違っている」
「何?」
「俺達が殺すのは人間ではない。その皮を被ったケダモノだ。それを駆逐するのが正義でなくて一体何だと言うんだ?」
「んなっ…………」
絶句するレオーネ。彼女だけではない。この場にいる者全員がロールシャッハの言葉に息を呑む。
人の皮を被ったケダモノ? 確かに今まで殺してきた連中は誰もがまともとは言えないクズばかりだ。それは認めざるを得ない。だが例えそうだとしても、彼の倫理観はあまりにも破綻している。人を人と見なさず、家畜以下のケダモノと扱うとは。とてもではないが、まともな思考回路だとは思えなかった。無論自分達もまともとは言い難いにしろ、ロールシャッハの言い分は半ば暴論に近い。
「本気で言ってるのか、お前」
「当然だ」
「そりゃ極論過ぎだぜロールシャッハ。何度も言うようだが殺しは殺しなんだよ。アンタの自論に共感出来なくはないが、納得は出来ねぇな」
「納得してもらうつもりはない」
何という頑固さだろうか。協調性もへったくれもない。まぁ、ロールシャッハに協調する意思があったとしたらそれも驚きだが。
「分からんな。何故そこまでこだわる? 正義の味方とでも言いたいのか」
「味方ではない、正義を執行する者だ。貴様らもそうだと思っていたが………俺が馬鹿だった」
正義の味方。例えるならそれはコミックで活躍するヒーローのことだ。人々の希望となり、悪を挫く輝かしい存在。絶望の世界を照らす光。
それとは逆に、ロールシャッハは正義を執行する存在である。ただ粛々と、己の正義に基づき悪を裁く。そこに余計な感情が介入する余地はない。感じるとするならば、己の拳を濡らす生温い血の温度と骨肉を砕く鈍い感触。そして改めて認識する。やはりこの世に神などいない、と。
少しばかり期待していたのかも知れない。この世界にとっての正義たる彼らは何を持ってして正義たり得るのか、それを知りたかった。だが知り得た結果は真逆のもの。正義を否定し自らを単なる人殺しとするナイトレイドを見て、ロールシャッハは大いに失望していた。
「テメェいい加減に───!!」
「待てレオーネ」
「ボス……!! でもコイツ!!」
「お前が怒る理由はよく分かる。が、ここは落ち着け。今争ったところでどうにもならない」
「……チッ!」
最早我慢も限界なのか、帝具の能力で変異したレオーネは漲る殺意のままロールシャッハに飛び掛かろうとする。そこを寸手で制したのがナジェンダだ。この個性的な面子をまとめる長だけあって、冷静に状況を把握している。彼女の言葉通り、今ここで殺し合いを始めたところで無意味なことは一目瞭然であった。
彼女に諭され、渋々ながらも引き下がるレオーネ。依然として殺意は収まらず、肉体も元に戻ってはいない。次に侮蔑的な言葉が飛び出ればすぐさまその拳を振り降ろすつもりなのだろう。全くもって威勢だけは一流だ。思わず口を突いて出そうになったロールシャッハだが、流石に面倒なことになると思い呑み込んだ。
「ロールシャッハ、お前の言い分も最もだ。全部が全部とはいかんが、共感は出来る」
「なら何故、頑なに正義を拒む? 仮にも革命を志す連中だ、正義を掲げることに怖気づくタマでもあるまい」
「価値観の相違だよ、ロールシャッハ。お前は自身の行いを正義だとしている。それは絶対に譲れない信念なんだろう?」
「そうだ」
「それと同じだ。私達も自分達を正義だとは認められない。怖い怖くないの問題じゃあないんだ。殺しを正義と認めてしまえば、必ず歯止めが利かなくなる。私達は正義の味方でも執行者でもない、ただの暗殺者なんだ」
「………」
「私達の理念をお前が認める必要はない。だが理解はして欲しい。この先共に戦っていく上で、な」
マスクの奥で、ロールシャッハは隻眼の瞳を見据える。人は嘘を付く時、まず目に変化が現われる。露骨に目をそらしたり、忙しなく動いたりするなど反応は様々だ。しかしナジェンダの瞳は澄んでいる。一切の嘘偽りのない、本心からの言葉だったのだろう。彼女の真摯な目を見ればそれが分かる。
価値観の相違、か。確かに譲れない信念が双方にあるのなら、この先相容れることはない。彼女はそれをよく理解しているのだ。そしてその上で納得した。自分達ではロールシャッハに根付く想いを動かすことは敵わない、と。
なるほど、リーダーな筈だ。感情に突き動かされず、客観的に物事を見極める慧眼と気概を持っている。そこは素直に称賛すべきだろう。そして、彼女の言葉にも幾らかは納得せざるを得ない。
しばしの沈黙。張り詰めた空気が会議室を漂う。
「…………HUNH」
何か納得したような唸りを上げ、ロールシャッハは踵を返した。
「どこに行く気だ」
「外の空気を吸ってくる。…………侮辱するつもりはなかったが、気に障ったのなら謝罪しよう」
「…………けっ」
彼の意外な発言にナジェンダは目を見開く。まだほんの少ししか接していないが、先の発言からして協調する気など皆無だというのは分かっていた。ああも頑なだと絶対に謝ったりはしないと思っていたが、実際は違ったようだ。
釈然とはしないものの、一応の謝罪を聞き入れたレオーネは矛を収める。他のメンバーも張っていた敵意を潜め、やれやれと首を振っていた。
「待ってくれロールシャッハ」
「…………なんだ」
会議室を後にするロールシャッハをナジェンダは呼び止める。
「一つだけ聞かせて欲しい。お前は何故、この道を選んだ?」
彼女がどうしても知りたい疑問。それはロールシャッハという男がいかにしてこの修羅の道を歩もうと決意したのか、というもの。彼の揺るぎない精神は自分達のそれよりも遥かに固く、ある意味で高潔だ。普通なら絶対に辿り着けない精神の境地にいるロールシャッハのことをナジェンダは少しでも知りたかったのだ。
「…………」
脳裏を過ぎる記憶。ただのクライムファイターだったコバックスがロールシャッハへと至った始まりの事件。燃え盛る業火に包まれた廃墟が、少女だったものが、嫌という程に思い起こされる。
人という生き物に絶望し、残っていた希望の欠片が粉々に砕け散ったあの瞬間。立ち上る灰色の煙をただ見詰めながら、空っぽの心には果てなき憤怒と悪への憎悪だけが満ちていった。
何故彼が悪を裁く道に足を踏み入れたのか───今となってはそれも愚問だろう。だが、ロールシャッハは敢えて語った。
その凄まじき信念の根源を。
「…………人の心に潜む悪の可能性を知り、腐り切った世界のハラワタを見て…………それでも進み続けた。目を背けずに真っ直ぐ立ち向かった。そしてその果てに、俺の意思は否定された」
冷たい雪が吹き荒ぶ、世界の終わりと始まりが交錯した運命の地。地球で最も賢い男の選択は、世界を救う上では正しかった。だが、ロールシャッハはそれを認めることは出来ない。認めてしまえば、罪なき人々の無念を無下にすることになる。死んでいったその魂は救われない。
だからこそ、彼はマスクを脱いだ。その選択が許されざるものだとしても、正しいことだと分かっていたから。世界の破滅を避ける為にはそうするしかない、どれだけ巫山戯たジョークが多くの命を奪ったとしても、結果として人類の絶滅を回避出来ると。
そして彼は、地球でただ一人の超人に消し去られた。その意思は、正義は、世界に必要とされなかった。
「だが新たなインクは広がり始めた。俺はただすべきことをする。妥協するつもりはない」
しかし運命の悪戯か、ロールシャッハはチャンスを得た。黒く染まりきった混沌の世界に、新たな生を受けた。
生き返ったのには理由がある筈。それは間違いなく、この世界の悪を一片残らず葬ることだ。以前は叶わなかった願いを果たす為ならば、どんな手でも使う。彼の中に妥協という概念は微塵も存在しない。
人は時に、堂々と心を狂わせる。余りにも固い、ひたすらに頑強な強き意思を持つ者。ロールシャッハはその最たる例と言えるだろう。ある一面では狂人でありながら、またある一面では超人に。確固たるその信念は、彼を慈悲なき執行者へと昇華させたのだ。
あまねく全ての悪を憎み、裁く存在───それがロールシャッハだ。
「…………そうか」
その真意は、完全には分からない。彼の精神はおそらく理解の及ばない所にある。歴戦の将軍として数多の戦場を駆け抜けて来たナジェンダでさえ、その例外ではなかった。膨大な知識と経験を持ってしてもロールシャッハの信念は途方もなく巨大で、かつ自分達とは掛け離れているが為に、推し量れない。あれはまさに、"正義"が具現化した存在なのだろうと漠然ながら彼女は考える。
故に必要なのだろう。仄暗い闇が覆い尽くすこの世界において、ロールシャッハという男は。未だ正体は謎に包まれたままだが、内に潜む危険なまでの正義感はあるいは帝国へのカウンターに成り得る。単なる憶測に過ぎないが、計り知れぬ予感をナジェンダは感じたのだ。
「満足したか」
「ああ。……あー……最後にもう一ついいか?」
「なんだ」
「少し言いにくいんだが………その……」
「さっさと言え」
「………ずっと言おうと思ってたんだが、お前は少々臭う。今すぐとは言わんが、今日中に風呂は入れ。コートも洗濯しろ。いいな」
「…………HURM」
ナジェンダの苦言はかなり最もなものである。正義を為すのなら全てを投げうつロールシャッハだが、裏を返せば何においても無頓着ということであり、身なりもその一つ。着ている衣服も基本的に洗濯せず、風呂にも入らない。ニューヨークでは下水道にも躊躇わず踏み入れていた為、染み付いている体臭というのは文字通り鼻が捩れる程だ。こんな状態で共に戦えというのは…………若干厳しい。臭いが気になって仕方ないのだ。ロールシャッハ自身は何とも思わないが、ナイトレイドの面々は結構気になっていたりする。特に獣化で五感が強化されるレオーネなどはあからさまに嫌がっていた。
先のピリついた修羅場から一点、何とも間の抜けた微妙な空気が漂う。まぁ、変に気を張っているよりかはマシなのだが。
「……すまん」
「分かってるならいい。風呂は部屋を出て右に行けばある」
「HURM.了解した」
軽く謝罪を口にすると、ロールシャッハはさっさと部屋を出ていった。仮にもこれから共に戦う仲間に一瞥もせずに、だ。それがまた彼らの癪に障るのだが、そんな面々とは反対にナジェンダは神妙な表情をその凛とした顔に浮かべていた。
「ったく、何なんだよアイツ。訳分かんないことばっかり言ってさぁ。しかも臭うし」
「ハハハッ、全くだな。流石の俺でも仲良くなれる気がしねぇ」
「どう思います? ナジェンダさ……ん?」
皆口々に文句を言う中、考え込むナジェンダを不思議そうに覗き込むラバック。悩める姿もまた美しい、と相も変わらず通常運転だが、しかし彼女の様子がいつもとは違うことに違和感を感じた。これまでにも思案を巡らすことは多々あったが、ここまで深く考えているナジェンダを見るのは初めてだった。
「…………もしかすると奴は…………ロールシャッハは、"精神的超人"なのかも知れない」
「精神的……超人? 何ですかそれ」
聞いたこともないキーワードにナイトレイドの全員が疑問を浮かべた。超人、というのならまだ理解は出来る。あの怪力や身体能力は別の視点から見ればまさに超人的な力だ。しかし精神的超人という聞き慣れない言葉はいまいちピンと来ない。
確かに分からないのも無理はない。普段暗殺家業を営む中ではまず耳にしない言葉だ。相応の知識、それも哲学的な見聞がなければ想像も付かないだろう。首を傾げる皆にも分かるよう、ナジェンダはかいつまんで説明し始めた。
「古い哲学の概念のことだ。己の掲げた信念にひたすら殉じ、一切の妥協を許さない。そこに万物が介入する余地はなく、絶対に折れることのない強き意思を持つ…………私が昔見た文献にはそう記してあった」
「精神的超人、ねぇ。そう言われてもただの狂人にしか見えなかったわよ?」
「そこだ、マイン。精神的超人というのはある種人間を超越した存在だ。私達からすれば、あるいは狂人に見えるのだろう」
"ツァラトゥストラはかく語りき"
一八八五年、ドイツの哲学者フリードニヒ・ニーチェが提唱したある概念。
人間は道半ばの不完全な存在だが、それよりも上のより完成した形態がある。確立した意思を持つ人間は、全ての自分の決断を受け入れなければならないだけではなく、その結果も受け入れなければならない。しかし全ての決断を受け入れ、結果を受け入れ、全ては自分の意思であると言っただけでは完全とは言えない。それが何度繰り返されても同じ決断をし、全ての結果を受け入れるならば、全てが自分の意思であると言うことができる。
超人の確立された意思。完全な意思は、"全て"を自分の意思の結果であるとして受け入れるということなのだ。ナジェンダにとっては異世界の知識だとしても、同じような概念はここにも存在していたらしい。
精神的超人───ただの哲学的な概念だとばかり思っていたが、その認識は改めなければならない。今彼女が出会ったのは、まさにそれそのものなのだから。
(ロールシャッハ…………奴は一体…………)
彼は如何にして精神的超人に至ったのか。元々は同じ人間だった筈なのに、何が彼をそうさせたのか。普通のそれよりも───いや、それ以上の精神さえも凌駕する確固たる意思。寸分も揺るがぬその信念は一体何処から来ているのだろう。
ナジェンダは不思議な予感があった。どんな形にしろ、ロールシャッハがこの世界に与える影響は途轍もなく大きいものだと。
彼の行動如何によっては─────この世界の命運が決まってしまうのではないかという予感が、彼女の胸中に渦巻いていた。